武蔵国新座郡誌
提供:シラキのコホリ
- 現代語訳=シラキのコホリのツカサ
武蔵国新座郡誌
本郡は中古から新座(にいくら)を仮借して新倉あるいは新座とも書いた。最近は里俗に新座(にいざ)とのみ称している。しかし、今なお古称に従う。(『和名類聚抄』新座郡の註に「爾比久良」と見えるので「にひくら」と称するのは古い言い方である。そして、新座と称してきたけれども、その年暦がいまだ明らかになっていない。今、上保谷村戸長の保谷某が蔵する古文書を見ると、元禄七年申戌3月、その村の惣百姓から道中奉行に進達する手紙に「新倉郡」と書かれている。『新編武蔵風土記稿』の本郡の総説に、享保二年に郡名の呼び方を定められ、また享和三年にも郡村の唱えを穿鑿すべきであるという命があって、その疑わしいことを正されたため、今は「にいざ」と唱えることとなった、と載せてある)
また、元禄六年癸酉、わずかに西北の一隅を割いて入間郡に編入した。今の針ヶ谷がこれである。
疆域
東は豊島郡に隣接し、南・西の二面は豊島・多摩の二郡に挿入し、犬牙錯雑している。西北は入間郡と区切るのにおおむね柳瀬川をもってし、東北は荒川を隔てて足立郡が見えている。
幅員
東西2里13町20間、南北2里34町40間、面積四方里654
管轄沿革
- 足利氏執政の初め、足利基氏をもって鎌倉の管領とし、後、その執事である上杉氏が交互に管領となり、中頃、渋川義鏡の管するところとなった。
- 大永中、北条氏綱が渋川氏を滅ぼした。
- また、天文中、その子、氏康が扇谷上杉氏を滅ぼし、その地を併合して臣下に賜った。このときに、家人・大石某を本郡舘村の城に置き、近郊を鎮めさせた。
- 天正十八年庚寅、北条氏が滅亡し、徳川氏の所有に帰す。そして、川越城主・酒井河内守重忠(慶長年中、その弟、酒井備後守忠利に代わり、寛永の初め、忠利の子、忠勝に至って、弟、壱岐守忠重(すなわち忠利の三男)に与え、子孫世襲して旗下の士である)、板倉四郎右衛門勝重(右あるいは左に作る。後、伊賀守のときに京師町奉行であった。その玄孫、周防守重冬のときに至って、元禄十一年戊寅3月にこの地を治めて伊勢国の内に移す)、米津内蔵助などの提封および旗士の采地、伊賀組騎歩卒の給邑とし、残りはすべて代官の支配に属する(寛永の末、松平信綱が川越の城主となってから、本郡の内を賜り、正保より寛文の頃に至って今の野火止・内堀・北野・菅沢などの地を新たに開発して、その孫・信輝のとき、元禄七年甲戌に古河城に移ったときまでは領していたのであろう。しかし、今、その証拠となすべきものがないため、ここに註記して、本文には掲載しない)。
- 寛文三年癸卯2月、郡南直轄の地を小田原城主・稲葉美濃守正則に賜う(子・正往の代に至り、天和三年癸亥6月、封を移し、また直轄とする)
- 元禄七年甲戌正月、松平美濃守吉保(はじめ柳沢出羽守保明、後、甲斐守)、川越城を賜って郡西を領する。
- 宝永の初め、甲斐国府中城に移封して、高崎城主松平右京太夫輝貞が代わって世襲する。旗士の采邑もまた変遷あり。
- 維新の際、武蔵知県事に所属する(松平氏、米津氏の領地は故のとおり)
- 明治二年己巳正月、品川県の管轄となる。
- 明治二年6月、松平・米津の両氏が各封土を奉還して、高崎(松平氏の領地)龍ケ崎(米津氏の領地)の2藩となる。
- 明治四年辛未7月、両藩を県に改める。
- 明治四年11月、3県をともに廃して入間県の所管とする。
- 明治6年6月熊谷県の管理するところとなる。
里程
- 熊谷県庁より南少し東12里7町39間4尺(入間郡川越を経て中央膝折村に至る)。
- 四隣:豊島郡(東京日本橋)へ6里6町44間1尺。多摩郡(八王子)へ7里17町10間4尺。入間郡(川越)へ4里21町47間1尺。足立郡(浦和)へ3里22町47間2尺。
地勢
- 平夷・高燥で林・丘が多い。その区域は菱形をなして、四つの境に綱ラル。川越街道および旧奥州街道の両線が縦横にこれを貫く。東北の一隅はやや低下、諸川が注ぎ流れ、暴漲のおそれがある。このため、村民は往々にして土塁を築き、家屋をその上に建てる。こうして車馬・舟楫の便を得る。
気候
風俗
- 質朴。古いものが残り、よく作業を努める。また詞訟(訴訟)を好むような悪い風習は少なく、面して活発な侠気に乏しい。かつ、豪富があるわけではないが、赤貧の者も多くはない。
地味
- 耕田はおおむね中等にあり、東北隅の一部、荒川沿いのあたりは沙磧(砂の河原)であるため、桑樹あるいは紫竹に適し、その他陸田は質が下等であるが培養の努力を欠かさなければ菽(豆)・麦・甘藷・菜種・藍葉などの類は最もよろしい。
郷荘
和名類聚抄に載っている志木郷は、今の地がどれであるかわからない。昔は四郷あった。
- 片山郷は片山村を管する
- 館郷は志木宿(旧名・館村)を管する。
- 新倉郷は7村を管する(上下新倉、岡、田島、台、根岸、橋戸(『新編武蔵風土記稿』には上下保谷を入れ9村とする))
- 栗原郷は上下保谷の2村を管する(この両村は村吏の録申による)
その他は郷名を失する。
荘名はただ広沢があって、11村を管する(岡、田島、根岸、台、上新倉、白子、橋戸、小榑、上保谷、下保谷)
郡内すべて野方領に属する。 片山村のうち、黒目川に沿ったところを黒目里と呼び、また三芳野里というものは大和田町・志木宿あたりを称する。
町村数
- 町:1
- 宿:1
- 村:22
- 新田:1
- 総計:25
税地
- 田:489町5畝9歩
- 畑:4326町5畝16歩5厘
- 総計:4815町1反25歩5厘
貢租
- 地租:米965石7斗4升(この石代金1万2217円816銭3厘)、金4425円73銭3厘
- 賦金:金2146円35銭2厘5毛
- 総計:金1万8789円95銭8里5毛
戸数
- 本籍:3323戸(士族12戸、平民3311戸)
- 寄留:56戸
人口
- 本籍 男:9772口(士族23口、平民9749口)
- 女:9672口(士族26口、平民9649口)
- 総計:1万9444口(他、出寄留38人=男21人、女17人)
- 寄留男:91口
- 寄留女:77口
- 総計:167口
牛馬
- 牡牛:5頭
- 牡馬:316頭
- 総:321頭
舟車
- 荷車:110両
山川
- 荒川:里俗に外川ともいう。内に新河岸川があるためである。二等河に属する。堤防がある。舟・筏を通す。西北、入間郡との境界から来て、郡の東北辺を宇繞して、下内間木村と上新倉村の境界で新河岸川と合流し、東南に流れて豊島郡との境界に入る。
- 新河岸川:一名、内川という。外に荒川があるのに対して称している。三等河に属し、舟・楫を通す。入間郡との境から来て、志木宿の北を過ぎ、下内間木村に至り、田島・根岸両村の際から出てくる黒目川を受け、東流して荒川に注ぐ。
- 柳瀬川:舟・筏は通さない。入間郡との境から来て大半は本郡の西北の境辺を流れ、志木宿の北に至って新河岸川に合流する。
- 英橋:川越街道に属し、柳瀬川に架す。大和田町の中央から西の方にある。長さ20間、幅2間半、土造。
- 黒目川:源を多摩郡に発し、本郡に来て、中央を貫き、田島・根岸の辺で新河岸川に入る。上流は幅がわずかに2~3間であるが、末流は10間あまりとなる。かつ根岸の河岸場から下は特に広く、舟・筏を通すに至る。
- 小榑村の「井頭の池」から湧き出て郡の東南の辺りを流れ、耕田をうるおし、豊島郡の境界で荒川に注ぐ一本の河がある。わずかに数村にとどまるだけでなく、水源および橋戸の両村では小井戸川と称し、白子では大川、下新倉では野川と唱え、各村でその名を異にするため、省いて、ここに掲げず、それぞれの村の本文に詳しく書いた。[3]
- 玉川分水:玉川上水の分流であり、多摩郡砂川村から分かれ、2里あまりを経て本郡西南の境に入り、地元の民の飲料になったり耕田の用水となったりしながら蛇行屈曲して東北の辺境志木宿の端に至る。その間3里14町あまり。そこから100余間は巨大な筧を通じ、入間郡宗岡村の耕田をうるおして荒川に入る。言い伝えに、その昔、松平信綱が川越城の主であったとき、新座郡は武蔵野の中にあって土地が高燥、井水がはなはだ乏しく、地はおおむね不毛に属していることを憂い、玉川上水を引いて、野火止の野を開墾しようと欲し、その家士である安松金右衛門に謀った。金右衛門はもともと水理に明らかな者である。金右衛門が答えていうには、3000金を費やせば必ず成功するでありましょう、と。信綱はすなわちこの者にそのことを司らせ、承応元年をもってはじめて功を起こした。当時、多摩郡の新座郡に接する村民も、またその水利に頼って、開墾に従事することを請う。そこでその村民に役に従わせた。民衆はみなよろこんでこれに応じ、日ならずして完成したが、年を越しても水流が通じない。このため、物議が紛々である。信綱はその理由を金右衛門に問うた。金右衛門が答えていうには、「これは土地が鬆疎(スカスカ)で水気がまだあまねく浸潤していないからです。地に浸潤すれば水流は必ず通じるでしょう」と。このまま3年、信綱はしばしば問うたが、金右衛門はまったく意に介さなかった。ある日、大いに雨が降った。水流が滾々として水路がみな満ちたのは、金右衛門の言ったとおりであった。信綱はその功を賞して、禄225石を加えて賜ったという。信綱はそのとき伊豆守に任ぜられていたため、土地の人は今なお伊豆溝と称する。当時、新河岸川に流れ入っていたが、後、寛文二年に至り、徳川氏の士、岡部左兵衛忠直という者が入間郡宗岡村を治めたとき、その家人・白井武左衛門に命じて、巨大な筧(この筧を伊呂波樋と賞した。宗岡村誌に詳しく書いている)を新河岸川の上に架し、この流れを引いて耕田の用水とし、荒川に入らせた。分水の上流から荒川口に至るまで長さは6里11町あまりで、沿岸の地は田圃が日に開け、戸口は月ごとに加わり、今はその流れを井戸水に代え、考えに供するところ、多摩・新座・入間およそ20村あるため、その利も大きいというべきだろう。
森林
- 林:広沢林といい、民有に属する。郡の中央から少し東にあって、上下新倉・白子・橋戸・小榑・片山・膝折・溝沼・岡・台・根岸の11村にまたがる。東(下新倉村地内から)西(小榑村地内に至る)およそ30町。南(橋戸村地内から)北(片山・膝折の端に至る)およそ20町。反別およそ500町。楢、栗、痩松そのほかの雑樹が生えている。大木はない。昔は曠野であって、茅草のみが生えて、村民の秣場であったという。享保年中、筧播磨守が検地し、本郡のうち17村(今は堀之内、辻、下中沢、下片山、中沢、原ヶ谷戸の六か村は片山村の内に合併した。また上下白子も一村となったため、先ほどの11村となっている)へ割り付けたことは、その村民が蔵する古書に見える。その後、種樹を植え、白田を開いたこともある。ゆえに従来の官簿で畑地・秣場などの名義であった。維新の後、改組の際に至って林地の名を称することとなった。『新編武蔵風土記』に載っている広沢原新田というものは1里四方もあるはずだが、今、ここに掲げるのは林樾(林のかげ)に関するもののみを記した。
道路
- 川越街道:二等道路に属する。豊島郡との境から入間郡との境に達する。本郡にかかる里程は2里14町29間5尺。豊島郡下板橋(2里5町20間2尺)白子(郡境から2町26間1尺、膝折に至る1里1町41間4尺)膝折(32町50間)大和田(1里13町49間2尺。郡境まで13町27間)入間郡大井
- 旧奥州街道:三等道路に属する。多摩郡との境から入って菅沢・野火止・北野の3村を経て志木宿に達する。その間1里20町8間4尺。志木宿から足立郡与野町に至る。2里6町1間1尺。今、街道の名を唱えるのはここにとまる。
神社
- 社:127坐(村社31坐、平社96社)
仏寺
- 寺34宇(新義真言宗24宇、臨済宗3宇、日蓮宗3宇、天台宗1宇、曹洞宗2宇、浄土宗1宇)
- 堂25宇
- 庵1宇
学校
- 公立小学校:14か所(大和田、野火止、志木上、上内間木、浜崎、岡、上新倉、白子、橋戸、膝折、片山、上保谷、下保谷、小榑の諸町村に各1校ある)
郵便
- 郵便局:4か所(志木宿、大和田町、膝折、白子の両村にある。それぞれ当時取扱人の宅舎を仮用する)
製造場
- 鍼線製造場:膝折村に3か所、片山村に1か所、それぞれ百有余坪の工場を黒目川の辺・際に設置し、水車の力を借りて金・銀・銅・鉄・真鍮線のたぐいを製造している。もっとも常に製するのは銅および黄銅の2種にとどまる。そもそもこの仕事は天保の初め、荏原郡目黒村製線場を廃するにあたり、ここに移したものである。鍼糸の製造は関左(関東)でこの2村のみである。
物産
- 甘藷:921万7436斤。この価は3万9634円97銭5厘。
- 藍葉:79万206斤。この価は3万7139円68銭2厘。
- 紫竹:1485束。この価は594円。
- 鍼線:およそ60万斤
甘藷・紫竹・鍼線はおおむね東京辺に輸出し、藍葉は近傍に販売する。
民業
- 男:闔郡(郡全体)で農耕を専らにする。もっとも郡の南部、林丘に属するところは往々にして采薪・焼炭を兼ねる者がいるとはいえども、わずかに一家の生計を補うに足りるのみ。
- 女:農業に従事し、その中でも傍ら養蚕・紡績をなすものがいる。
注記
| 武蔵国新座郡誌 | |
|---|---|
| 武蔵国新座郡村誌 | |
| 大和田町 - 野火止村 - 菅沢村 - 西堀村 - 北野村 | 現新座市北部 |
| 志木宿 | 現志木市南部 |
| 上内間木村 - 下内間木村 - 宮戸村 - 田島村 - 浜崎村 - 溝沼村 - 岡村 - 根岸村・台村 | 現朝霞市の大半 |
| 上新倉村 - 下新倉村 - 白子村 | 現和光市 |
| 橋戸村 | 現練馬区大泉町付近 |
| 膝折村 | 現朝霞市膝折 |
| 片山村 | 現新座市南部 |
| 上保谷村 - 上保谷新田 - 下保谷村 | 現西東京市東部 |
| 小榑村 | 現練馬区大泉学園町・西大泉・南大泉付近 |
| 武蔵国入間郡村誌より | |
| 針ヶ谷村 - 水子村 | 現富士見市内 |
| 宗岡村 | 現志木市北部 |