武蔵国新座郡村誌/片山村
- 現代語訳=シラキのコホリのツカサ
片山村(かたやま)
本村はいにしえ片山郷野方領に属し、片山村と称したが、元禄のころには分けて10村(野寺、中沢、石神、十二天、原ヶ谷戸、栗原、下中沢、堀之内、辻、下)となり(正保改定の郡図では片山の一村であって、元禄の図には10村に分かれている)後、また十二村(下片山村・上片山村あるいは下中沢村ともいう(ともに羽田某の采地)・原ヶ谷戸村(桜井某の采地)辻村・堀之内村・石神村(以上代官の支配)栗原村・下栗原村あるいは十二天村という(ともに木村某の采地)野寺村(小野某の采地)中沢村・十二天村・栗原村(以上米津氏の堤封に係る))となった年暦は明らかではない。おそらく、当時の領主地主などの便宜により分称したものであろう。それでもなお、古名が残っていて、片山の二字を冠書して、片山石神村、片山堀之内村などという)。維新の後、明治八年(1875年)4月に至って合一して片山村の古称に戻った。
疆域
東南は本郡溝沼・岡・小榑と広沢原の深林を接し、正南は本郡上・下保谷の二村と林丘あるいは陸田のあぜで境界となり、西は多摩郡落合・神山および本郡野火止などの諸村と連なり、北は本郡膝折・野火止の二村との境界に川越街道と黒目川あるいは水陸田のあぜがある。
幅員
- 東(字野中の原から)西(字北原に至る)27町
- 南(字亦六から)北(字西の原に至る)1里13町
管轄沿革
- 天正十八年庚寅(1590年)徳川氏の所有となる。
- 正保(1644年~1648年)のころは村高1232石あって、その300石を代官の支配とし、余りは旗下の士に賜った。各100石を桜井庄之助・神谷与十郎、250石を田中市郎右衛門、各50石を荒井又六郎・小野久内、200石を木村伊右衛門、150石を柘植甚八郎らの采地とし、30石を米津内蔵助(のち出羽守)の領邑とした。後、神谷・田中・荒川・柘植らの収采のことは明らかではない。
- 寛文・延宝(1661年~1681年)から宝永・正徳(1704年~1716年)のころ、代官・領主らがそれぞれ検地して、ついに1473石5斗9升9合となる。このときには、577石3斗1升を代官支配し、99石5斗8升5合小野久内、159石7斗4合を桜井庄之助、200石を木村鎮太郎、305石を羽田槌太郎らの治めるところとし、141石を米津氏の堤封とし、それぞれ世襲した。
- 維新のはじめに至り、旗下の采地をことごとく治めて代官松村忠四郎の支配下に属し、武蔵知県事に属する。
- 明治二年己巳(1869年)2月、品川県の管轄となる。米津氏の領地は同じく6月、龍ケ崎藩となる。そして改めて県と称する。
- 明治四年辛未(1871年)11月、両県(品川・龍ケ崎)を廃して入間県の管轄となる。
- 明治六年(1873年)6月、熊谷県の所轄となる。
里程
- 熊谷県庁より南少し東13里。
- 四隣:本郡膝折村(元標)へ23町。小榑村(元標)へ27町。野火止村(中央)へ30町。多磨郡山村との境界へ23町。
地勢
- 林と丘が対峙して、西南から東北に連なり渡っている。その間はやや平衍。黒目川がこれを貫く。薪・炭に富むけれども、高低があって運輸の便を得ることが難しい。
地味
- 真土であってその質が悪く、また粘りが少し。乾魚・油かす・ぬか・灰などの培養がなければ成熟しがたい。陸田ときどきひでりに苦しむ。
税地
- 田:53町23歩
- 畑:400町7反22歩5厘
- 総計:453町7反1畝15歩5厘
飛地
- 本村の西の方、多磨郡神山村の内、畑(1町1反9畝13歩)
字地
- 栗原(くりはら):本村の西南の方にあって、黒目川の上流に沿う。東西6町、南北5町。
- 又六(またろく):本村の西南の方にある。東西7町、南北3町。
- 野寺(のでら):本村の南の方にある。東西7町、南北5町。
- 北の原(きたのはら):本村の西北の方にある。東西6町、南北5町。
- 堀の内(ほりのうち):本村の北の方にある。東西7町、南北4町。
- 辻(つじ):同上。東西6町、南北5町。
- 西の原(にしのはら):同上。東西3町、南北8町。
- 大下(おほしも):本村の東北の方にある。東西3町、南北4町。
- 馬場(ばんば):同上。東西3町、南北6町。
- 駒形(こまがた):同上。東西4町、南北5町。
- 野中の原(のなかのはら):本村の東の方にある。東西9町、南北6町。
- 池田(いけだ):本村の東南の方にある。東西10町、南北7町。
- 前原(まへはら):本村の南の方にある。東西6町、南北5町。
- 上中沢(かみなかさは):同上。東西5町、南北4町。
一両山(いちりゃうやま)、浅間(あさま)、坂上(さかうへ)、前通(まへとほり)、八石(はちこく)、貝沼(かひぬま)、根通(ねとほり)、殿山(とのやま)、上ノ原(うへのはら)、安才(あんざい)、道場(どうじゃう)、中通(なかとほり)、長町(ながちょう)、宮前(みやまへ)、原通(はらどうり)、宮坂(みやさか)、内畑(うちはたけ)、沢(さは)、下街道(しもかいどう)、芝山(しばやま)、畑中(はたけなか)、沼袋(ぬまふくろ)、天沼(あまぬま)、新塚(にひつか)などの名があって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。
貢租
- 地租:米246石3斗6升7合、金431円21銭7厘
- 賦金:金60円50銭
- 総計:米246石3斗5升7合、金496円65銭2厘[1]
戸数
- 本籍:371戸(平民)
- 寄留:3戸(平民)
- 社:14戸(村社5坐、平社9坐)
- 寺:4戸(浄土宗1宇、新義真言宗3宇)
- 堂:6戸
- 総計:398戸
人口
- 男:1045口(平民)
- 女:1021口(平民)
- 寄留:男6口、女8口
- 総計:2080口
牛馬
- 牡馬:15頭
舟車
- 荷車:155両(中車)
山川
- '黒目川:深いところ5~6尺、浅いところ2尺、幅3間。水は清い。本村の西南の方、多磨郡神山村から来て、迂曲して東北の方、膝折村に入る(支流があってともに水田に注ぐ)。その間1里24町50間。
- 大橋:所沢道に属する。村の東北の方、黒目川の下流に架す。長さ50間、幅7尺。木製。
- 樋の橋:村の西北の方、黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。
- 大橋:村の中央から少し東北の方、字辻にある。黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。
- 地蔵橋:村の中央、少し東北の方、字馬場にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅7尺。木製。
- 坂下橋:字馬場にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。
- 新家橋:村の東北の方、字駒形にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。
- 馬喰ヶ戸橋:村の中央から少し西南の方、字貝沼にある。黒目川の上流に架す。長さ4間、幅7尺。土造。
- 大橋:村の西南の方、栗原と前通の間、黒目川の上流に架す。長さ3間、幅7尺。木製。
- 小橋:字栗原にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅6尺。石造。
森林
- 野中林:あるいは広沢原ともいう。民有に属する。東西9町、南北6町あまり。反別69町6反あまり。村の東方にある。楢(なら)・椚(くぬぎ)の類が多い。
- 西の原林:民有に属する。東西3町・南北8町。反別40町3反あまり。村の北の方にある。樹種は上に同じ。
- 殿山林:民有に属する。東西4町・南北3町。反別13町8反あまり。村の西北にある。樹種は上に同じ。
- 一両山林:民有に属する。東西2町・南北3町。反別8町あまり。村の西北の方にある。樹種は上に同じ。
道路
- 川越街道:本村の北辺にあって、膝折村の境界から野火止村の境界に至る。長さわずか2町反あまり、幅4間。
- 所沢道:東京から入間郡所沢に達する道で、里俗に清戸道ともいう。東の方、小榑村との境界から西の方、野火止村との境界に至る。長さ23町あまりで、幅はおおむね3間。
- 掲示場:本村の中央、字長町にある。
神社
- 氷川社:村社。社地は東西14間・南北5間・面積630坪。村の北の方、字宮前にある。素戔嗚尊を祭る。祭日9月11日。松・杉などの老樹がある。
- 八幡社:村社。社地は東西31間・南北35間・面積1088坪。村の南の方、丘上にある。誉田別尊を祭る。祭日8月1日。
- 駒形社:村社。社地は東西16間・南北39間・面積622坪。村の東北の方、駒形にある。祭神未詳。また祭日も定まらず。
- 浅間社:村社。社地は東西22間・南北24間・面積536坪。村の西南の方にある。木花開耶姫命を祭る。祭日4月3日。承応二年癸巳3月4日、栗原義清という者が甲斐国八代郡にある浅間社をこの地に遷すという。また新編武蔵風土記稿に、地頭・木村氏が建立したと言い伝えるが、鎮座の年代は詳らかではない、とある。今、村吏の録申による。
- 氷川社:村社。社地は東西17間・南北35間・面積590坪。村の西の方、字前通にある。素戔嗚尊を祭る。祭日3月6日。
- 厳島社:平社。社地は東西8間・南北6間・面積51坪。村の西南の方、字栗原にある。祭神未詳。祭日未定。
- 第六天社:平社。社地は東西8間・南北9間・面積70坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。
- 稲荷社:平社。社地は東西6間・南北25間・面積158坪。村の北の方、字堀の内の丘の上にある。祭神未詳。祭日未定。
- 白山社:平社。社地は東西6間・南北11間・面積64坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。
- 八雲社:平社。社地は東西13間・南北17間・面積218坪。村の中央、字安才にある。祭神未詳。祭日未定。明治二年己巳、法台寺境内からこの地に遷座した。
- 稲荷社:平社。社地は東西15間・南北23間あまり・面積350坪。村の中央、字道場にある。祭神未詳。祭日未定。旧辻村にあった8坐を明治二年中にこの場所に合祀した。
- 稲荷社:平社。社地は東西15間・南北5間・面積69坪。村の東北の方、字駒形にある。祭神未詳。祭日未定。
- 稲荷社:平社。社地は東西8間・南北20間・面積240坪。村の南の方、字前原にある。祭神未詳。祭日未定。
仏寺
- 法台寺:東西40間・南北57間・面積2288坪。浄土宗 東京芝増上寺の末派である。村の中央、字道場にある。『新編武蔵風土記稿』に、「当寺は昔、時宗の道場であって、遊行二世他阿真教上人の開基であるという。創建の年代は詳らかではない。上人は遊行16年で元応元年(1319年)正月27日、相州当麻山無量光寺において83才で示寂された。中興開山は普光観智国師である。国師は天文十三年、当国多磨郡由木村で生まれた。俗姓は由木氏。平山武者所季重の子孫、由木左衛門尉利重の次男である。十歳のとき、当寺に入って、蓮阿上人の弟子となるころまでは遊行僧であったが、国師十八歳のとき、鎮西派に改め、増上寺十世感誉在貞和尚の弟子となった。後、増上寺十二世の住持にうつり、元和六年(1620年)11月2日、75歳で示寂された。当寺、北条家分国のときは寄付の寺領も多かったが、御入国のはじめに召し上げられた。慶長年中、国師が乞うたために13石5斗の御朱印を賜り、今に至って変わらず」と載せている。
- 満行寺:東西24間・南北30間・面積716坪。新義真言宗。本国豊島郡石神井村三宝院の末派である。村の南の方、字野寺の崖下にある。開基・創建は詳らかではない。維新の際までは八幡社の別当である。
- 東福寺:東西26間・南北30間・面積773坪。新義真言宗であり、本寺は上に同じ。村の方、字畑中にある。開基・創建とも未詳。
- 蓮光寺:東西28間・南北32間・面積861坪。新義真言宗。本寺は上に同じ。村の中央、辻にある。『新編武蔵風土記稿』に「開山法印重元、明徳三年の創建である。当寺は昔は村内氷川明神の別当であり、寺もその社地にあった。いつの頃にか今の地へ移り、別当職も原ヶ谷戸村円光院に譲ったという」と載っている。
- 観音堂:東西8間半・南北8間・面積68坪。村の西南の方、字栗原にある。
- 釈迦堂:東西9間あまり・南北9間・面積84坪。村の西の方、字根通にある。
- 地蔵堂:東西10間・南北21間・面積213坪。村の中央、字堀ノ内にある。
- 阿弥陀堂:東西7間・南北8間・面積52坪。村の中央、字内畑にある。
- 地蔵堂:東西5間・南北6間半あまり・面積33坪。村の中央、字辻にある。
- 釈迦堂:東西8間半・南北16間・面積136坪。村の中央、字辻にある。
学校
- 公立小学校:本村の中央にある。生徒 男68人、女29人。
村事務所
- 未だ設置せず。当時戸長の宅舎を仮用する。
古跡
- 新塚:高いこと1丈6~7尺で、周囲50間に余る。村の東野方、字新塚の原にある。由緒は詳らかではない。『新編武蔵風土記稿』に「村の老人の説だが「もと二位塚とかいた。これは官女二位のしるしの塚である」といって二条の后のことを付会したものは妄説であって受け入れがたいことである」とある。
- 円光院廃跡:村の東北の方、字駒形にある。もとは氷川社の別当で、本村東福寺の末派であったが、明治八年、これを廃した。
物産
- 米:462石
- 大麦:1750石
- 小麦:922石
- 大豆:479石
- 甘藷:37万8000斤
- 藍葉:800貫目
- 鍼線[2]:1万5000斤
穀物は大麦以外は余嬴があって、他所に販売し、甘藷は概ね東京に輸出する。
民業
- 農耕を専らとする(ときに男は木こり・薪・焼炭、女は養蚕・紡織をなすものがある)
注記
| 武蔵国新座郡誌 | |
|---|---|
| 武蔵国新座郡村誌 | |
| 大和田町 - 野火止村 - 菅沢村 - 西堀村 - 北野村 | 現新座市北部 |
| 志木宿 | 現志木市南部 |
| 上内間木村 - 下内間木村 - 宮戸村 - 田島村 - 浜崎村 - 溝沼村 - 岡村 - 根岸村・台村 | 現朝霞市の大半 |
| 上新倉村 - 下新倉村 - 白子村 | 現和光市 |
| 橋戸村 | 現練馬区大泉町付近 |
| 膝折村 | 現朝霞市膝折 |
| 片山村 | 現新座市南部 |
| 上保谷村 - 上保谷新田 - 下保谷村 | 現西東京市東部 |
| 小榑村 | 現練馬区大泉学園町・西大泉・南大泉付近 |
| 武蔵国入間郡村誌より | |
| 針ヶ谷村 - 水子村 | 現富士見市内 |
| 宗岡村 | 現志木市北部 |