无邪志国造

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『先代旧事本紀』国造本紀によれば、无邪志国造(むざしのくにのみやつこ)は、後の武蔵国の領域にいたと考えられる3国造の一つである。この国造名はムサシにつながるものと考えられるが、胸刺国造の別名なのか、それとも別の勢力であったかについては見解が分かれている。

史料

『先代旧事本紀』国造本紀

无邪志国造 志賀高穴穂(成務)朝の世、出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうがもろおしのかむさのみこと)の十世の孫・兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定められた。

『古事記』神代、天安河之宇気比段

天菩比命の子、建比良鳥命。これは出雲国造、无耶志国造……などの祖である。

『日本書紀』神代紀、宝鏡開始章第三ノ一書

天穂日命。これは出雲臣、武蔵国造、土師連などの遠祖である。  

『高橋氏文』

磐鹿六獦命(いわか むつかりのみこと)は例の2種の品(堅魚と白蛤)を大后に献上した。すると大后は褒め、喜んでこのようにおっしゃった。「これらは非常においしく、清らかに整えられている。ぜひ御膳(天皇の食事)として供えたい」と。そのとき、磐鹿六獦命はこう申し上げた。「六獦が料理をして、お供えしましょう」。そして無邪志国造の祖先である大多毛比(おおたもひ)や、知々夫国造の祖先である天上腹(あめのうわはら)・天下腹(あめのしたはら)らを呼び寄せた。彼らに、膾(なます)や煮物、焼き物など、さまざまな料理を作らせて盛り付けた。……

『日本書紀』安閑天皇元年間十二月是月条

武蔵国造笠原直使主。与同族小杵相争国造(使主。小杵。皆名也)。経年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就求援於上毛野君小熊。而謀殺使主。使主覚之走出。詣京言状。朝庭臨断。以使主為国造。而誅小杵。国造使主悚憙交懐。不能黙已。謹為三国家奉置横淳。橘花。多氷。倉樔。四処屯倉。  

武蔵国造である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)は、同族の小杵(おき)と国造の地位をめぐって争った。この争いは何年も続き、なかなか決着がつかなかった。小杵は性格がひねくれていて反抗心が強く、プライドばかり高くて従順ではなかった。そこで小杵は、密かに上毛野君小熊(かみつけぬのきみ おぐま)に助けを求め、使主を殺そうと計画した。使主はこれに気づいて逃げ出し、京へ参上して事の次第を訴え出た。朝廷がこの問題を裁定し、使主を正式に国造に任じ、小杵を処刑した。国造となった使主は、畏れ多さと喜びが入り混じり、声を挙げて喜んだ。そして、謹んで国家のために、横渟、橘花、多氷、倉樔の四か所に「屯倉(みやけ=朝廷の直轄地)」を献上した。

『続日本紀』神護景雲元年十二月甲申条

外従五位下の武蔵宿禰不破麻呂(むさしのすくね・ふわまろ)を武蔵国国造に任じた。  

『類聚国史』巻十九神祇十九国造 延暦十四年十二月戊寅条

武蔵国足立郡の大領(郡の長官)であり、外従五位下の位階を持つ武蔵宿禰弟総(むさしのすくね・おとふさ)を、武蔵国造に任じた。

国造・県主関係史料集 注

无邪志国造 新国造は足立郡大領とみえ、 同郡を本拠としていたと思われる。姓の武蔵宿爾は本姓丈部直。しかし最近新野直吉は、 諸本の緻密な考証の結果、武蔵国造の姓は丈 部直ではなく大部直(大伴直)とすべきことを論じている(「无邪志〈武蔵〉国造の氏姓–神 護景雲紀の不破麻呂に関わってー」『続日本紀研 究』二〇七)。だが安閑紀の笠原直が実在したとすれば、姓のごとく埼玉郡笠原郷を本拠としていたことなる。とすると、笠原直と丈部直(大部直)とはもともと同族であろうが、 同一氏の改姓とするより、前者から後者へ国造の交替があった可能性が示唆される。なお『聖徳太子伝暦』皇極天皇三年十一月条に 「舎人物部連兄麻呂。性有三道心。常以斎食。後為優婆塞。常侍左右。発已年賜武蔵国造。而退賜三小仁位」とみえるが、疑問。

磐鹿六獦命 孝元天皇皇子大昆古命の子で高橋氏(膳部氏)の祖。『日本書紀』景行天皇 五十三年十月条に「(天皇)至三上総国。従海路渡三淡水門。是時。聞三覚賀鳥之声。欲見 其鳥形。尋而出海中。乃得三白姶。於是。 膳臣遠祖名磐鹿六獦。以蒲為三手椀。白姶為 胸而進之。故美六薦臣之功。而賜三膳大伴部」、『新撰姓氏録』左京皇別(膳大伴部条) にもほぼ同文がある。これは、武蔵国造が大部直(大伴直)を姓としていた論拠でもあるが、『日本後紀』弘仁二年九月壬辰朔条に「出羽国人少初位下无耶志直膳大伴部広勝賜三姓大伴直」とあり、その可能性は高い。

笠原直使主 津田左右吉は、笠原直が武蔵国造の姓として不適当であるとし、この記事の信憑性を退けた(『日本古典の研究』第四編 第三章)が、埼玉郡に笠原郷があり、後期古 墳として著名な埼玉古墳群が存在することは、 武蔵国造の本拠が同地で、笠原を姓とすることに不自然さはない。この記事は武蔵国の屯倉起源説話の型をとっているが、武蔵国造の内部抗争を発端とし、その争いに朝廷と上毛野君(おそらく上毛野国造とみられる)とが絡んでいたことにこの記事の重要性がある。甘粕健は、この使主と小杵との抗争の背景について、武蔵国内の古墳分布から次のような注目すべき説を展開している(「武蔵国造の反乱」『古代の日本』七)。武蔵国はもと上毛野君の支配の下にあり、武蔵国造の地位は同族関係にある国内諸首長の間で平和的に継承されていたが、笠原郷を中心に北武蔵に勢力を有する笠原直一族が世襲化の傾向を示すようになった。そして使主の時代に、南武蔵に勢力を張る同族小杵が、盟主である上毛野君小熊に内通して国造の地位を奪取しようと謀ったため、使主は朝廷に訴えたという。これが史実とすれば、この争乱は、武蔵国造が上毛野国造の影響力を領内から駆逐したのみならず、 朝廷としても強大な上毛野国造の弱体化に成功し、武蔵国内に屯倉を設定し東国経営の前進基地としたなどの意義が認められる。横淳。橘花。多氷。倉樔。四処屯倉 各々令制の横見、橘樹、多摩、久良岐郡の前身で、橘花以下三屯倉は敗れた小杵の領域を割譲したもの、横淳は北武蔵であるが、おそらく上毛野君に対する監視の意味で設置されたのであろう。なお安閑天皇二年、上毛野国に緑野屯倉が置かれている。これは、前年の事件で結果的に朝廷への反逆罪を問われた上毛野君に対する懲罰と解される。

武蔵宿禰不破麻呂 本姓丈部直。武蔵国足立郡の郡領家出身。『続日本紀』によると、天平宝字八年九月恵美押勝の乱に戦功を挙げ、外従五位下、神護景雲元年十二月改姓。国造任命もその理由による。  

胸刺国造 无邪志国造とは系譜を異にするが、重複錯誤の可能性が強い。 — 佐伯有清, 高島弘志 校訂・編『国造・県主関係史料集』,近藤出版社,1982.4. 国立国会図書館デジタルコレクション

考察

无邪志国造の系譜は、天穂日命系である。その中でも、以下の国造と近いことがわかる。

  • 无邪志国造(出雲臣の祖、名 二井之宇迦諸忍之神狭命の十世の孫・兄多毛比命):武蔵
  • 菊麻国造(无邪志国造の祖 兄多毛比命の児 大鹿国直):上総国北西部(市原市付近)
  • 波伯国造(牟邪志国造と同祖 兄多毛比命の児 大八木足尼):伯耆国
  • 大嶋国造(无邪志国造と同祖 兄多毛比命の児 穴委古命):周防国大島郡
  • 相武国造(武刺国造の祖神、伊勢都彦命の三世孫、弟武彦命):相模(寒川)

その後、安閑紀元年十二月、笠原直(かさはらのあたい)使主(おみ)を国造とした記載がある。笠原直使主は、同族の笠原直(かさはらのあたい)小杵(おき)と国造の地位を争った。安閑天王元年(534)閏12月、小杵は上毛野君(かみつけぬのきみ)小熊(おぐま)と結び、使主を討とうとした。使主は朝廷に助力を求め、朝廷は使主を国造として小杵を滅ぼした。使主は朝廷のために横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おほひ)・倉樔(くらす)の四か所を屯倉とした。

笠原直は武蔵国崎玉(さきたま)郡笠原(かさはら)郷を中心とした勢力と考えられる。これは現在の埼玉県行田市埼玉付近と考えられる。

国造本紀では、无邪志国造の系譜にも胸刺国造の系譜にも「兄多毛比命」の名前が挙がっているが、系譜が異なっている。

篠川賢氏は、大宝二年に同じムサシ国造として2氏を認定したと考えている。これは古来の国造とは関係がなかった可能性もある。

 資料上の「国造」の語に多様な意味のあることは、これまでもしばしば指摘されてきたところである。筆者は、次の五通りに分けられると考えている。

(ア)大和政権の地方官としての国造
(イ)(ア)の国造を出している(あるいは出していた)一族全体の呼称
(ウ)律令制下の国造
(エ)姓としての国造(国造姓)
(オ)大宝二年(702)に定められた国造氏

(中略)「国造本紀」には、山城国造と山背国造,元邪志国造と胸刺国造,加我国造と加宜国造という,同名(同音)の国造を掲げる例が三例存在している。(中略)
 これらの例については,ふつう重複とみなされているが,各「国造」の条文が、それぞれ独自の内容を持っていることの説明がつかない。また、これらの「国造」を(ア)の国造とみるならば、同名(同音)の国造が隣接して存在したことになり、実際に国造制下においてそのようなことがあったのか、という疑問が生ずる。ヤマシロ・ムサシ・カガのそれぞれの地域において、それを二分するようなクニの二国造が存在したならば、それは、同じ「国造本紀」において、「三野前(みのくち)国造」と「三野後(みのしり)国造」が掲げられているように、区別した名で記されたものと考えられる。
 とするならば、これらの「国造」は、(オ)の国造氏とみるのが妥当ということになるであろう。つまり、国造制下において現実に存在した国造は、ヤマシロ国造・ムサシ国造・カガ国造それぞれ一国造ずつであったが、それぞれの国造氏に認定されたのは二氏ずつ存在し、それが「国造本紀」に掲げられているということである。 — 篠川賢『国造(くにのみやつこ)――大和政権と地方豪族』(中公新書)2021年、pp.99-105

注・出典