武蔵国
武蔵国(むさしのくに)は、現在の埼玉県、東京都、神奈川県川崎市・横浜市あたりを含む律令国である。国府は府中にあった。

ムサシとチチブ
武蔵国が置かれた年代について明記されたものはないが、それ以前の「国造(くにのみやつこ)」として、知々夫(チチブ)、无邪志(ムザシ)、胸刺の三国造の名前が残っている。この中で知々夫彦命が国造と定められたのが最も古いとされている。知々夫が今の秩父エリアであることは間違いないだろう。
残る无邪志と胸刺はどちらもムザシ、つまり武蔵(むさし)の名を持つ。ここで2つの見解がある。
- 秩父を除く武蔵のエリアは无邪志と胸刺に分かれていた。つまり、後の武蔵国のエリアは3つに分かれていた。
- 无邪志と胸刺はどちらもムザシ国造であり、後の武蔵国のエリアはチチブとムザシの2つに分かれていた。
当サイトでは、第2の見解を支持する。まず、読み方が同じなのに別の国造ということは考えにい(たとえば、毛野は2つに分かれているが、「上つ毛野」(上野)と「下つ毛野」(下野)という区別した呼び方がある)。第二に、ムザシ国造の地位を与えられた豪族はいくつか存在したのではないかと考えられる[1]。
6世紀には武蔵国造の乱が勃発したと日本書紀に記載されている。武蔵国造の笠原直(かさはらのあたい)使主(おみ)と、同族の小杵(おき)が、武蔵国造の地位を巡って争っていた。小杵は上毛野君(かみつけののきみ)小熊(おぐま)と共謀して使主を殺害しようとした。使主は大和朝廷に助けを求めたため、朝廷は使主を武蔵国造と定め、小杵を討ったという。
この事件を機として武蔵国内に、横渟屯倉(よこぬのみやけ)、橘花屯倉(たちばなのみやけ)、多氷屯倉(おほひのみやけ)、倉樔屯倉(くらすのみやけ)の4つの朝廷直轄領が置かれたと記録されている。
令制国「武蔵国」の成立
大宝元年(701年)に制定された「大宝律令」以降、九州から東北南部までの領域(当時の大和朝廷の勢力圏)に、中央から派遣された「国司」が置かれるようになった。この国司が治める国を、歴史用語で「令制国」と呼ぶ。武蔵国が成立した年月の記録はないが、大宝三年(703年)には最初の武蔵守(武蔵国司の長官)が任ぜられた記録がある。また、設置された当初は東山道に属していたが、後に東海道に移管した。
- 大宝三年(703年)引田朝臣祖父が武蔵守となる。
- 宝亀二年(771年)10月27日 東山道から東海道に移管される。
鎌倉時代までは国司が置かれていたが、その後は名称だけが残った。その後も正式には武蔵が廃止されたわけではなく、明治初期には「武蔵国」と「東京府・埼玉県・神奈川県」が併記されたこともあった。その後、行政は都道府県単位で行われるようになり、「武蔵国」という名称は歴史的・伝統的なものとなっている。
郡
当初は以下の19郡が置かれていた。
- 豊島郡(としま)
- 荏原郡(えばら)
- 橘樹郡(たちばな)
- 久良郡(久良岐・海月)(くらき)
- 都筑郡(つづき)
- 多摩郡(多麻・多磨)(たま)=国府
- 入間郡(いるま)
- 秩父郡(ちちぶ)
- 男衾郡(をぶすま)
- 大里郡(おほさと)
- 比企郡(ひき)
- 横見郡(よこみ)
- 足立郡(あだち)
- 崎玉郡(さいたま)
- 幡羅郡(はら)
- 榛沢郡(はんざは)
- 那珂郡(なか)
- 児玉郡(こだま)
- 賀美郡(かみ)
後、新たに2郡が設置された。
- 霊亀二年(716年)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵国に移し、高麗郡を立てる。
- 天平宝字二年(758年)日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、初めて新羅郡を置く。
また、江戸時代初期に下総国の一部が武蔵国に編入された。
- 寛永四年~十四年(1627~37)の間に、下総国葛飾郡の西部が武蔵国に編入される。
明治維新後、郡が再編されている。
- 豊島郡→北豊島郡・南豊島郡
- 足立郡→北足立郡・南足立郡
- 埼玉郡→北埼玉郡・南埼玉郡
- 葛飾郡→北葛飾郡・南葛飾郡
- 多摩郡→北多摩郡・西多摩郡・南多摩郡・東多摩郡
名称の由来について
「ムサシ」という国名の由来については不詳である。
古くは「ムザシ」と濁って呼ばれていたと考えられる。古事記では牟邪志「ムザシ」と濁って読むように記されている。万葉集十四に「牟射志野(ムザシヌ)」とあり、これも濁っている。後に美字として「武蔵」と書かれるようになったが、「蔵」も「ザ」の音である。身刺(ムザシ)・胸刺(ムネザシ?)の表記もある。
本居宣長の『古事記伝』七巻には、師・賀茂真淵の説として、「相模・武蔵はもともと一つの「牟佐」であったのを上下に分けて、「牟佐上・牟佐下」という。上はムを省いて「さがみ」、下はモを省いて「むさし」にしたのである」と記されている。しかし、隣接する毛野を上野・下野、総を上総・下総というように、上下で分ける場合は上・下を国名の前に記すのが通例である。ムサだけムサ上・ムサ下とし、略称をサガミ・ムサシと別々の切り方で示すのは、こじつけに思える。
一方、『古事記伝』二十七巻では「佐斯国」を想定し、佐斯上(サシガミ)・身佐斯(ムザシ=サシ国の中心)という説を唱えている。[2]しかし、これもまた難があり、「佐斯」国が存在した他の資料もなければ、サシ上・身ザシと並べるのも違和感がある。
その他の説として、以下のようなものがある。以下、現代語訳して示すが、いずれも根拠としては弱く、受け入れられない説が多い。
〔諸国名義考 上〕
武蔵 和名抄に、「武蔵(牟佐之、国府は多麼郡に在る)」、名義はまだわからない。縣居大人(=賀茂真淵)は「身狹上(むさがみ)に対する身狹下(むさしも)である」と言われたが、肯定できないことはすでに述べた。古事記伝に「(中略)名義いまだ思いつかず」とある。立入信友が言うには、「国造本紀に、无邪志(むさし)の国造の次に胸刺(むなさし)ノ国造とあるが、近い地名と聞こえる。胸刺・身刺(むさし)などの古事による地名ではないか」という。続日本紀 称徳天皇 神護景雲二年(767年)6月癸巳、武蔵国が白雉を云々、奏していうのに「雉者斯良臣一心忠貞之応。白色乃聖朝重光照臨之符。国号武蔵。既呈戢武崇文之祥(キジというものは、忠義一途な良臣の真心が天に通じた現れであります。その白い色は、聖なる朝廷の光が再び照り輝く兆しであります。この国の名である武蔵は、武事を治め文教を尊ぶというめでたい兆候を既に示しております)」などとある。もと牟邪志の三字を好字に改めて二字に定め、武蔵(むざ)と書いて志(し)の字を略いたことに始まり、後にこの国から白雉を奉ったことについて、武蔵の二字を祝して奏したる詞である。決して国名の起りと思い誤ってはならない。それなのに、ある本に『武蔵国風土記』からと引用した中に、「武蔵国秩父嵩者、其勢如勇者怒立、日本武美此山、奉爲祈禱、以兵具納埋岩蔵、故曰武蔵(武蔵国の秩父の山々は、その勢いがまるで勇者が怒って立ち上がったかのようです。日本武尊はこの山を愛で、祈りを捧げ、兵具を岩の洞窟に納め埋めました。故に「武蔵」と名付けられたのです)」というのは、いにしえにはこの字音がなかったことや和銅の勅命も知らぬ後世の人が、字義に合わせて考えた偽作である。それにしてもわからない国号である。
〔温故隨筆 二〕
武州の訓は、六つさしの略である。「さし」は道路の意味である。この国は諸州の人の海道であるからだ。子供が遊ぶ「十六むさし」というものもそういうことである。古事記に刺国とあるのは武蔵であろう。(中略)また、加茂氏が「むさがみ=むさし」ともいふ説は根拠がないというわけでもない。
〔武蔵志料 二〕
武蔵国号考 当国の名付けた理由は、その意味ははっきりしない。また、文献に見えるところもない。(中略)さてその文字も、上古は定まることなく、古事記には牟邪志と書いたのは仮名書きである。その後、元明天皇の時代に、国郡郷村の名を改めて、能字二字に定められたときに武蔵と書き改められたのである。故に、この字によって意味を推し量ることはできない。以下、そのことを記しておく。
第一の一説にいう。牟邪志美(ムザシミ)である。その理由は、牟邪(ムザ)は草である。志美(シミ)は繁(しげる)である。上古の時代は、東方の国はいまだ王化も及ばなかったため、民の家も定まらず、もとより守・司の官もなかったほどで、ただ木・草ばかり生い茂っていたので、獣が住んでいただけである。後の世でも、この国には八百里の荒野があると有名で、「武蔵野というところは行けども秋の果実もない」などとも歌に詠まれており、天下に広く知られた特徴として語り継がれている。これももっともであろう。(中略)
第二の一説。この国は広く大きいゆえに、隣国が六つある。それは相模、甲斐、信濃、上野、下野、下総である。この六国に境界が差し合っているので、六差という意味である。これもまたよくわからない。
第三の一説。この国は関八州の中央にある。これを人の形に例えると、相模を首とする。ゆえに小首(さかみ)というのだろうか。武蔵がその次に有るので身のようである。身は武と通い、武久呂(むくろ)ともいう。「さし」はいにしえ三韓の言葉で城を「左志(サシ)」と言った。この訓は日本書紀の古注にも見える。それゆえ、中央城の意味でもあろうか。(中略)
第四の一説。以上の第三説は文字には関係なく、ことばと意味で言う説である。さて、元明天皇の時代に文字を改められたとき、武蔵としたこと。これはまた理由なくしてできることではない。そこで考えるに、秩父郡に武甲山といふ山がある。土俗の言い伝えに、昔、日本武尊が東夷を征し従えたとき、その甲をこの山に埋められたという。そのことは、摂津国武庫山の故事と似ている。この山ももともと武甲(むこ)と訓じていたものが、字の音の読み方に引かれて、いまは「ぶこう」と呼んでいるが、これも訛りである。その武を用いたのではないか。蔵は扉であって、「とざし」の略であろう。武器を納め、軍器を山にかくされたため、戸閉(とざし)と言ったのではないか。(中略)今考えるに、この説はうまく言っているようではあるが、武は音、蔵は訓である。音訓を交えて意味を言うのは、強引と言うべきかもしれない。しかし、国郡名は音訓を交えて用いているので、その説があり得ないとも言い切れないため、一応記しておいて後世の校正を待つ。
第五の案。国名風土記に、秩父郡武甲山に日本武尊の甲冑を収めたことを言っている。これは摂津国兵庫の武庫山のことを思い合わせて書いたのではないかとも思うが、続日本紀〈二十九〉称徳天皇神護景雲二年六月癸巳、武蔵国が雉を献上した。その勅にいう。「この国の名である武蔵は、武事を治め文教を尊ぶというめでたい兆候を既に示しております」と群卿が奏上したことを思えば、そういうことがあったとしてもおかしくはない。(巻二十九ノ九丁ノ右)
ある人がいう。武蔵・相模は、もと上下の国である。いにしえは虜囚を武佐(ムサ)と言った。上古に三韓の囚人を置いたことが諸国にある。摂津の高麗郡、当国にも高麗郡がある。さて、近江国の武佐の郡もまたその虜囚を置いたところであるから、相模は武佐上(むさかみ)の上をはぶき、武蔵にむさ下の下を略したのである。これは上下に国を分けた例であるという。
注記
- ↑ ムザシ国造が2氏族あることについて、詳しくは国造を参照のこと。
- ↑ 「駿河・相模・武蔵の地をすべてもとは「佐斯国」と言っていたのを二つに分けて相模・武蔵としたのであろう。駿河は後にまた相模から分かれたことは上述したとおりである。つまり、相模という名は佐斯上(サシガミ)の斯(シ)を省いたものであり、武蔵は身佐斯(ムザシ)の意味であろう。古書にはよく身刺(ムザシ)と書かれていることが多い。身とは中に主(ムネ)とあるところをいう。屋の中に主とあるところを身屋(ムヤ)というのと同じである。後世に母屋というのは、牟夜を訛ったものである。そうであるから武蔵は佐斯ノ国の内に主とある真原(マハラ)の地なのでこう名付けられたのであろう。佐を濁るのは連便である。さて一国を二ツに分けて名る場合、前後といったり上下といったりするのはすべて例があるが、また丹波を分けて丹波・丹後というのは、後にそろえて丹前とは言わない。この佐斯国を分けたときも、佐斯上に対して佐斯下とは言わなかったということも前例があるといえる。」