国造

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国造(くにのみやつこ)は古代の地方領主である。

国造制の成立は6世紀代、廃止については「大化改新」で新しい地方制度として評制が施行され、それによって廃止されたとみるのが一般的であるが、律令制下の八世紀においても国造が存在した。これは大化改新以前の国造とは異なる性格のものであったとも考えられている。

武蔵国領域内の国造

『先代旧事本紀』国造本紀によれば、後の武蔵国の領域にいたと考えられる国造は以下の3つが記されている。

  • 无邪志国造(むざしのくにのみやつこ)
志賀高穴穂(成務)朝の世、出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうがもろおしのかむさのみこと)の十世の孫・兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定められた。
  • 胸刺国造(むさしのくにのみやつこ)
岐閇国造(きへのくにのみやつこ)の祖・兄多毛比命(えたもひのみこと)の子の伊狭知直(いさちのあたい)を国造に定められた。
  • 知知夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)
瑞籬(崇神)朝の世、八意思金命(やごころおもいかねのみこと)の十世孫の知知夫命(ちちぶのみこと)を国造に定められ、大神を拝祠した。

この三国造を時代順に示すと以下の通りである。

知々夫国造

国造本紀「瑞籬朝(崇神)の御世、八意思金命(やごころおもいかねのみこと)の十世孫の知知夫命(ちちぶのみこと)を国造に定められ、大神を拝祠した」

崇神紀十一年四月乙卯「四道将軍が戎夷を平らげて帰ったと奏上した後、異俗が帰伏して国内安寧」とあるのによれば、知知夫命を国造に定められたのは崇神天皇十一年~十二年のころであろう、と新編武蔵風土記稿の著者は推測している。これは武蔵国エリアの国造の中では最も古いことになる。

知々夫国造は、現在の秩父につながるエリアの豪族であったと考えられる。

知々夫国造は八意思金命の十世の孫とされるが、八意思金命は高魂尊(高御産巣日神)の子と伝えられる。この高魂尊系の国造としては、以下の国造が挙げられている。

  • 宇佐国造(高魂尊の孫 宇佐都彦命)
  • 葛城国造(高御魂命の五世の孫 剣根命)
  • 比多国造(葛城国造と同祖 止波足尼)
  • 津嶋県直(高魂尊五世孫 建弥己己命)
  • 粟国造(高皇産霊尊の九世の孫 千波足尼)
  • 知知夫国造(八意思金命の十世の孫 知知夫命)

无邪志国造

国造本紀「志賀高穴穂(成務)朝の世、出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうがもろおしのかむさのみこと)の十世の孫・兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定められた」

无邪志国造の系譜は、天穂日命系である。その中でも、以下の国造と近いことがわかる。

  • 无邪志国造(出雲臣の祖、名 二井之宇迦諸忍之神狭命の十世の孫・兄多毛比命):武蔵
  • 菊麻国造(无邪志国造の祖 兄多毛比命の児 大鹿国直):上総国北西部(市原市付近)
  • 波伯国造(牟邪志国造と同祖 兄多毛比命の児 大八木足尼):伯耆国
  • 大嶋国造(无邪志国造と同祖 兄多毛比命の児 穴委古命):周防国大島郡
  • 相武国造(武刺国造の祖神、伊勢都彦命の三世孫、弟武彦命):相模(寒川)

その後、安閑紀元年十二月、笠原直(かさはらのあたい)使主(おみ)を国造とした記載がある。笠原直使主は、同族の笠原直(かさはらのあたい)小杵(おき)と国造の地位を争った。安閑天王元年(534)閏12月、小杵は上毛野君(かみつけぬのきみ)小熊(おぐま)と結び、使主を討とうとした。使主は朝廷に助力を求め、朝廷は使主を国造として小杵を滅ぼした。使主は朝廷のために横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おほひ)・倉樔(くらす)の四か所を屯倉とした。

笠原直は武蔵国崎玉(さきたま)郡笠原(かさはら)郷を中心とした勢力と考えられる。これは現在の埼玉県行田市埼玉付近と考えられる。

胸刺国造

国造本紀「岐閇国造(きへのくにのみやつこ)の祖・兄多毛比命(えたもひのみこと)の子の伊狭知直(いさちのあたい)を国造に定められた」

「道尻岐閇国造」(古事記・神代巻 天安河之宇気比段)は天津日子根命の後裔とされている。

国造本紀では、以下の通り、天津彦根命(天津日子根命)系の系譜が伝えられている。

  • 石城国造(建許呂命)
  • 茨城国造(天津彦根命の孫 筑波刀禰)
  • 師長国造(茨城国造の祖 建許呂命の児 意富鷲意弥命)
  • 須恵国造(茨城国造の祖 建許侶命の児 大布日意弥命)
  • 馬来田国造(茨城国造の祖 建許呂命の児 深河意弥命)
  • 石背国造(建許侶命の児 建弥依米命)
  • 周防国造(茨城国造と同祖 加米乃意美)
  • 道奥菊多国造(建許呂命の児 屋主刀禰)
  • 道口岐閑国造(建許呂命の児 宇佐比刀禰)
  • 胸刺国造(岐閇国造の祖 兄多毛比命の児 伊狭知直)

国造本紀では、无邪志国造の系譜にも、胸刺国造の系譜にも「兄多毛比命」の名前が挙がっているが、系譜が異なっている。

ムザシ国造は一つか二つか

无邪志国造と胸刺国造は、どちらも「ムザシ/ムサシ」と読める。この2国造が別であったという説と、同一であったという説がある。

たとえば、越谷市史では二国造説である。

 この无邪志国造については、胸刺国造との関連から両者が別々に併立していたとする二国造説と、両者同じとする同一国造説が行われていた。『新編武蔵風土記稿』は二国造説に立って、氷川神社の鎮座する足立郡大宮を无邪志国造の本拠に、都下多摩郡を胸刺国造の本拠に擬し、『埼玉県史』もこの立場を踏襲して後述の安閑元年の武蔵国造家の内紛は、胸刺の系譜を引く小杵が、无邪志国造家の笠原直使主に亡ぼされ、以後胸刺は无邪志に合一されたとの見解を取っている。これに対し姓氏研究の大家太田亮は、胸刺は〝ムサシ〟と訓ずべきで无邪志と同名の国であること、国造本紀の記載に重複が考えられるとして同一国造説を唱えている。そこでこの問題については文献的研究では限界があるので考古学の成果を援用するほかないだろう。
(中略)四世紀後半から六世紀にかけ武蔵国では、前述の文献史料や古墳分布等からみて、秩父・比企郡と荒川北岸の児玉・大里郡を支配した知々夫国造勢力圏、足立・埼玉・入間の諸郡を支配した无邪志国造勢力圏、多摩郡と多摩川下流域に勢力を持った胸刺国造勢力圏の存在が考えられ、国造の支配権も当初は知々夫や南武蔵の勢力が強かったが、六世紀以降首長権は北武蔵の埼玉古墳群周辺に移ったと推定されるのである。 — 越谷市史 通史 上 知々夫・无邪志・胸刺の三国造

国造についての研究者である篠川賢氏は、大化改新以前の国造は一つであったが、大宝二年に認定された国造氏は二氏だったとしている。

 資料上の「国造」の語に多様な意味のあることは、これまでもしばしば指摘されてきたところである。筆者は、次の五通りに分けられると考えている。

(ア)大和政権の地方官としての国造
(イ)(ア)の国造を出している(あるいは出していた)一族全体の呼称
(ウ)律令制下の国造
(エ)姓としての国造(国造姓)
(オ)大宝二年(702)に定められた国造氏

(中略)「国造本紀」には、山城国造と山背国造,元邪志国造と胸刺国造,加我国造と加宜国造という,同名(同音)の国造を掲げる例が三例存在している。(中略)
 これらの例については,ふつう重複とみなされているが,各「国造」の条文が、それぞれ独自の内容を持っていることの説明がつかない。また、これらの「国造」を(ア)の国造とみるならば、同名(同音)の国造が隣接して存在したことになり、実際に国造制下においてそのようなことがあったのか、という疑問が生ずる。ヤマシロ・ムサシ・カガのそれぞれの地域において、それを二分するようなクニの二国造が存在したならば、それは、同じ「国造本紀」において、「三野前(みのくち)国造」と「三野後(みのしり)国造」が掲げられているように、区別した名で記されたものと考えられる。
 とするならば、これらの「国造」は、(オ)の国造氏とみるのが妥当ということになるであろう。つまり、国造制下において現実に存在した国造は、ヤマシロ国造・ムサシ国造・カガ国造それぞれ一国造ずつであったが、それぞれの国造氏に認定されたのは二氏ずつ存在し、それが「国造本紀」に掲げられているということである。 — 篠川賢『国造(くにのみやつこ)――大和政権と地方豪族』(中公新書)2021年、pp.99-105

本サイトでは、篠川氏説の可能性が高いと考えつつ、もう一説、「ムザシ国造に任ぜられた者が時代によって違っていた」可能性も提示したい。すなわち、兄多毛比命~笠原直につながる系譜の者と、伊狭知直系の者が、同じムザシ国造に任ぜられていた、という可能性である。ムザシ国造は途中で別の氏族に移り、それを後世の資料で別の表記とした可能性もあると考える。

参考文献