玉川上水の建設者 安松金右衛門/13

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三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』(電通出版部 昭和十七年(1942年))の現代語訳 第十三章

(現代語訳:シラキのコホリのツカサ

その十三 江戸っ子の自慢

 江戸では飲料水が尊かった。要するに、飲料水が乏しく、また得がたくもあったからです。一方では江戸っ子が水道の水を自慢すると、他方では上方者は江戸の水の悪いのに対して、何よりも京の水を誇っておりました。その京自慢はどうにも否定はできません。八百八町に井戸はどれあってもよい水は出ない。明治になっても、雑水と飲料とは整然と分けてありました。水道の水と掘り井でも清冽な水とを飲料に供し、一般の不良水は雑用としてありました。決して混用いたしません。若し飲料水を雑用すれば、誰もがもったいないことをするといい、家の中ではお眼玉をちょうだいする。隣近所からは不道徳な人間だといって指弾されます。それが習慣になっておりましたから、子供でも飲料水をほかのことに消費することはなかったのです。それから、雑水しか出ない井戸でも、井戸を潰すということは厳禁で、井戸を潰せばその家に祟る、その町が寂れると信じられておりました。さすがに欲張った地主であっても、古井戸を潰すのさえ忌み憚ったものです。そうした旧習が破れて、いつからか、盛んに飲料の水道の水が浪費され、しきりと井戸を潰すようになりました。

 現今は、井戸を掘れという声が聞こえてきました。また、全市の井戸町サヲして、非常給水組織をこしらえるとやら。これは先年の大震災に教えられて出た知恵なのでしょうが、さらに防空施設として井戸ほどのものはあるまい。東京市は百年の計だとして、第一期江戸川、第二期利根川、第三期霞ヶ浦と水道計画を立案したと聞く。水道の規価もだんだん拡大するだろうが、住民の増殖と同道して行けるであろうか。そうした計画は感謝すべきではあるものの、いずれにしても土地に乏しい飲料水なのだから、真っ先に水道の水はもっともっと貴んでもらいたい。雑水の井戸が一つあっても、それだけ飲料を費やすことが減じる勘定です。しかし、水道の水を貴んで、飲料以外に消費しないようにしようという心掛けのない人間には、お話も御苦労様にすぎない。江戸では玉川・神田の両上水があるのに、

寛文元年(1661年)十月
一 町中に井戸はなく、町数多くありますので、今から以後は、一町に井戸五つ、あるいは六つ、掘っておくべきである。
同十一月十五日
一 町中に井戸のない町は、一町に井戸を五つあるいは六つ掘るべきである。ただし、年内に井戸を掘ることは迷惑とのことで御訴訟申し上げる町は、御定めの外から水溜を多く置くべきである。手桶も右と同じ。

 火事の用意が主であったらしいが、こういう布令が出ております。幕府は某海外にもはなはだ深い考慮を巡らしており、市民もまた上水の恩恵を感謝しておりましたので、鑿井は非常に困難でもあり、大変な費用を要したにもかかわらず、よくその負担に耐えて、全市に多数の鑿井を見るに至ったのであります。鑿井に上水尊重の意味が合ったことをこの際に見ないようでは、江戸生活を知ることができますまい。上水を貴いものと思っていた証拠を手短に申すならば、児童の教科書であった江戸往来(続江戸往来を江戸往来と呼ぶようになって、先板の江戸往来を自遣往来と改めました)に、

かつては草深く生い茂るばかりだった武蔵野も、今や名に残り、明け方の月がまるで自分の家から出て、また自分の家に入っていくかのように思えるほど人家が密集し、その繁盛ぶりと豊かさは想像を絶するほどである。しかし、この場所は東西に土地が傾いていて湿気が深く、さらに水はたいそう塩辛かった。そのため、愚かな私どものような者は、自ら東西に馳せ、南北に走り回って水を求めたが、わずかな暇さえ得られなかった。家業はおろそかになり、時間を費やし、心を砕く日々であった。そうしたところ、尊き大君(徳川家綱将軍)が、かたじけなくも遥かにお聞き及びになり、「ここから十余里ほど西に行けば玉川がある。その水は清らかに冷たく、味もまた格別である。その水をここに引き、民を安心させよ」と仰せ出された。これによって、山を掘り、岩をうがち、数ヶ月にわたって工事に励んだ。その結果、ついに明暦年間に、少しの障りもなく江戸城下に水が到達したのである。長く流れる水は、幸いにも人々の「楽」となり、病を治し、患いを除き、渇きを癒やした。里の民の快楽は、何事もこれに及ぶものはない。

と冒頭に書いてあります、それ程に貴んだ上水であるため、「江戸自慢」は安政度に 書いた新しいものではあるが、

江戸中に井戸はあるが、飲み水は上水を用いる。

とあります。細川越中守綱利といへば、肥後熊本の城主五十四万石の殿様ですが、この殿様が白金の下屋敷へ、玉川上水を引いて滝をこしらえたと聞いて、国家老の長岡帯刀が、熊本から江戸まで海陸二百八十八里を駆けつけて、できたばかりのお庭を取りこわさせて、即刻帰国したといって、元禄度にこの名家老の噂が高かった。また、延享四年の落書に、

御本丸大奥十丈の滝、岩ぐみ龍門の体、暑気の節、特別に大仕掛、御女中様を御慰めする。
このこと、表の者は知らぬことである。当夏御普請できたとのこと。

 これは九代将軍家重の時の話で、表へ知らせずに玉川上水の滝を大奥の庭中へこしらえた。表とは幕閣をはじめ諸役人のこと、秘密にこしらえさせたのです。大諸侯でも熊本の殿様が、江戸の市民の飲料水をおもちゃにすることは、名家老・長岡帯刀のみならず、決して許しません。家重将軍は賢明な聞こえのある人でもないが、側近の者が外聞をはばかり、玉川上水での滝造りの一件はおし隠したのでしょう。天下様の威勢からは何の遠慮もなそうな家重将軍といえども、市民の飲料水を自私の娯楽に費すことは、悪徳な奢侈とされた。悪徳な奢侈、威勢とか、権力とか、そんなことを超越しています。江戸の故老は大御所様(家斉将軍)の栄華を前代の家重将軍に比較して、一般の論難を割引きさせようとした。それは小判の数を多く費やすよりも、水道の水を乱用するのが悪徳だと思っていたからです。それで家重将軍の当時にも、小判でいへば多いとも思われない、大奥の滝造りを隠蔽した心持ちが知れる。公方様さえこうであるから、長岡帯刀が熊本から飛んできたのもただちに頷けましょう。さらにさらに、それほどの上水の水を庶民の分際で、飲料でなく産湯につかったのは、なるほどなるほど、江戸っ子が大いに自慢したのも、実にごもっとも千万な成行でございます。

先年、江戸の鑿井についていささか申し述べたことがございますが、それは鑿井の困難なことと、その必要とを考えたのです。元禄度には江戸に水屋さんなるものが営業しておりました。この水屋さんは、飲料水になる井戸水を汲み、一担二荷の水を細長い桶へ入れてかついで歩きました。水道の桝に遠い家々では、水屋さん一荷入れておくれと叫んでいるのを、私どもの幼いときに聞きました。明治の十何年というころ、一荷一銭であったと思います。水道はあっても、共用栓・自家用栓といった給水施設が行き届いておりませんでしたから、水屋さんが江戸をまたいで東京の始めにも営業をしておったのです。これは鑿井のありがたみですが、その上に水道尊重の意味を加えてご覧いただきたいと思い、ここに付録いたしました。

注釈

玉川上水の建設者 安松金右衛門