玉川上水の建設者 安松金右衛門/07
三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』の現代語訳 第七章
(現代語訳:利用者:シラキのコホリのツカサ)
その七 引又の伊呂波樋
野火止用水の末流をどのように作用させたかを知るには、引又(現在の埼玉県入間郡志木町[1])の伊呂波樋を説明するのが一番よろしい。この樋は千貫樋とも呼ばれて、六十の箱樋を継ぎ合わせて、百二十間の長さがある。多摩那羽村から当所までは九里あります。いうまでもなく玉川上水あっての野火止用水、野火止用水あつての伊呂波樋です。宗岡村(埼玉県入間郡)誌に、
- 承応二年、川越の城主松平信綱、多摩川上水工事竣功賞として、幕府から水量三分の一を信綱に賜わった。信綱はそこでその分水を、領地武蔵野新田の飲料に供しようとし、家臣・安松金右衛門に溝を掘らせ、新河岸川に達した。長さ六里余、俗にこれを伊豆殿堀という(諸書に散見されることは少し異なるけれども、古書類によって記す)。寛文二年、上下宗岡村は幕府の直轄となり、幕臣・岡部忠直がここを支配した。家臣・白井武左衛門は、本村が用水に乏しいことを憂い、多摩川上水の分水末を利用する計画を立てた。幸いにも宗岡新田村は信綱の領地であるため、侯に説いて許可を得、分水末(志木町)から巨大な筧を新河岸川上に架した。長さは百九十七間で、本村の字・精進場に達した。全村は今もその余慶に浴している。
この伊呂波樋は野火止用水が引又で新河岸川へ落ちてしまうのを、そこで落とさずに宗岡村へ引くために、新河岸川を跨がせるためのものです。川越史料が、
- この年(万治二年(1659年))松平伊豆守、岡部佐兵衛に命じて、野火止用水を引股から掛樋により新河岸川上を経て宗岡村に引く。
といい、それに『新編武蔵風土記稿』を一部引用して附記してあります。
- 宗岡村用水、松平伊豆守、岡部佐兵衛が知行だったころ、万治二年玉川上水の分水を新座郡引股から掛樋で新川岸川の上を通し、村内およびこの辺のところどころの水田にそそいだ。その掛樋の継ぎ合わせた数が四十八あるので、伊呂波樋と呼んだ。
- 新座郡(もとは新倉郡、元禄の時代に新座郡となり、現在は入間郡[2])舘村の伊呂波樋は、新河岸川に架して、対岸宗岡村境の上に至る。引又橋の並びで西の方にある。長さ百二十六間あまり、幅二尺あまり、四方ところどころで継ぎ合わせている。その数が四十八あって、長さ九十六間、幅は筧と同じ。中央に高桝二つを設けている。これは水をたたえて激流とし、高いところにのぼらせる工夫である。この埋樋と筧とを合わせて二百二十二間一尺ある。農時には水をせきかけて、入間都の内の諸村の水田へそそぐ。言い伝えに、松平美濃守(柳沢吉保)が川越の地を領していたとき、領地入間郡宗岡村の辺、諸村の水利が不便であることを憂えて、当村の用水の余流がむなしく新河岸川へおとしいれられることを幸いとして、この樋を作ったという。また、秋元但馬守が領主であったときのことともいう。どちらが正しいかはわからない。
伊呂波樋という名前は、後には継ぎ合わせの数が多くなったが、最初は四十八継ぎあったから起ったと言い伝えています。川越史料が伊呂波樋の出来たのを万治二年というのは、『新編武蔵風土記稿』に従ったのでしょうが、仮に万治二年(1659年)としても、柳沢や秋元が河越城主であったときとするのはよろしくない。柳沢が河越城主であったのは、元禄七年(1694年)から宝永元年(1704年)まで11年間、秋元は正徳二年(1712年)から天保十二年(1842年)まで百三十年間です。風土記稿もこのへんはだいぶいい加減なものです。
宗岡村地誌のとおり、寛文二年というのがよろしいようです。同地誌に、白井武左衛門のことを書いて、
- 白井氏は生まれた地がわからない。正保元年、上下宗岡村は幕府の直轄となり、幕臣岡部忠直が支配した。白井武左衛門はその執事であった。氏が当村に赴任すると、鋭意公共の事業を興し、村民の利益を謀ろうとした。本村は灌漑の利に乏しく、旱魃の災があることを憂えて、寛文年中に松平信綱に説き、多摩川分水の末を引く大工事を行ってその害を除き、また本村宇佃に六百七十余間の長堤を築いて、悪水が溢れ入ることを防ぎ、新田場堤を築き、その堤の外にある荒野を開いて良田としたことなど、その功績は少なくない。その後、村民はその徳を後世に伝えようとし、ここに記念碑を建てて功徳を賞し、今に至るも毎年六月十四日に氏の祭祀を行っている。
この岡部佐兵衛忠直は、『寛政重脩諸家譜』で見ますと、延宝三年(1675年)七月に家督相続した人であるため、宗岡築堤のことはその先々代、小次郎吉次のときのことと思われます。この家は武蔵国多摩・人間郡、甲斐国八代、上総国山辺、下総国香取の諸郡で二千石余を領しておりました。吉次は正保四年(1648年)八月に相続した人で、千五百石から二千五百石に加増されております。宗岡村の古図によれば、全村を上中下に三分し、中は川越領(当時の城主・松平信綱)で、上下が岡部氏の領地でした。現在、宗岡新田というと、旧下組の場所の名になっているが[3]、岡部氏の領地、白井武右衛門の働きで開けたのは、村の中央にある。古図で見れば紛れもない。新田場堤というのも、現在「新田」と呼ばれる所にあるので、白井武右衛門の開墾した場所とは違う。そのことは同村の石原康治氏が撰んだ『白井氏治水碑』に詳しく書いてあります。
- 禹の九潦は水があることを憂えている。湯の七旱は水がないことに困っている[4]。どちらもこれは水である。水が多すぎれば害があり、水が絶えれば利益はない。ただ指揮者伝明けが利害を察することができ、水をさえぎって防いだり、通じて用いたりする。治水としてなすことはこれで終わる。わが白井武右衛門民のような人こそ、そういう人であろう。氏は幕府の臣・岡部忠直(※吉次の誤りであることは以前に述べた))の部下である。わが宗岡村はかつて、分けて上中下とした。正保のはじめ、中宗岡は松平信綱が領し、上・下は忠直の采地であった。忠直はそこで氏に統治を命じた。氏は村に来ると、その東南の低い湿地から蒸気が立ち上るのを見て、鋤を使って開き、堤で囲み、肥沃な土壌をいくらか得て新田とした。新田の西は新河岸川に迫り、しばしば水害を被る。そこでまた堤を築き、これを防ぐ。西より北に六百七十間におよぶ。いわゆる佃堤である。本村の稲田はまた以前は灌水の便が乏しく、旱害にしきりにおそわれていた。氏は深くこれを憂えた。これ以前に信綱はその封土のうち、野火止荒原を開墾しようとし、地が乾燥していて水が少ないことに悩み、渠を掘り、玉水を引いた。曲がりくねって東北に流れること六里、わが西の境にいたって、その余水は最後に新河岸川に入る。氏、余水が空しく川に入るのを惜しみ、そこで思ったのは、「これで灌漑の利を開くことができるだろう。しかも、公の領土もまたここにある。喜びと悲しみは一体であるから、水を公に乞うのがいいだろう」と。そこでこれを信綱に請い、許された。そこで川の前岸で水箱を構えた。だいたい六尺ほど、高さはほとんど倍ある。箱の前に別に伏溝を設け、それを南に走らせ、渠の余流を受け、箱に遅らせている。箱の脚に口があり、これを入れる。箱の首のところにまた口を設け、樋ををつないでいる。我が国の俗に木の筧を樋という。樋の幅一尺四寸、深さも同じ。その下図は四十八で、樋をつないでいき、柱を立てて支え、川の上に架して横断させる。遠くこれを埋めると白虹のようである。首から尾までおよそ百九十七間、この通水によってはじめて田をうるおす。里の人はこれを伊呂波樋という。完成したのは実に寛文二年である。堤防で囲み、水害が除かれ、溝樋に水が流れ、水利が開かれたとき、九潦七旱も憂えなくてよい。民がその恩沢を受けてから今まで二百五十年である。まさに功をその時代に加え、徳を子孫に伝える者である。明治中興に至って、あらゆることが革新した。この樋もまた規制を改め、鉄管に代わっている。工事は丁酉(明治三十年)に始まり、癸卯(明治三十六年)に終わった。その利は以前を超えるけれども、旧観は残っていない。そこで年月が久しくなれば引水が氏によって始まったことが知られなくなることを恐れ、最近、村人がともに相談して言うには、今こそこれを石に刻んでずっと伝えようということで、文を私に委嘱した。私はこの里に住み、またその余慶に浴している者であるから、断ることなどできなかった。そこで旧記によってそのあらましを述べる。もし系譜の生没年の詳細は今はもうわからず、惜しいことである(銘を略す。原文は漢文)
伊呂波樋が鉄管になって埋設され、地上の姿を失ったときに、この立派な碑が建ったのです。今は『江戸名所図会』に昔のおもかげを忍ぶしかありません。この碑文にもあるとおり、信綱が封内の開墾のために野火止用水を引いて、それが引又(志木村)の市場というところまで来ている。ここに捨樋があって、舘村用水を分けた後は柳瀬川へ落としてしまう。野火止用水は引又の市場までであった。それを見て、岡部氏の陣屋に在勤する白井武右衛門が、灌漑の水に乏しい宗岡村へもらうことを考えた。そこには、岡部氏の領地のみではなく、大きいのはないが小さい地頭はたくさんいた。いずれも武蔵野開発について当時の河越藩へ懇請して引水のことが調いました。そこで引又の市場から柳瀬川をまたいで、宗岡の精進場(下の谷(シタノヤ))へ引き、それから村内を環流するようにし、内間木村も潤沢になるに至ったのです。白井の働きは佃堤によつて新田を開き、野火止用水の流末を誘って、当村の旱害を不足しないようにしたことにある。村内宇前内手の観音堂は、今は廃寺になっておりますが、そこの墓地には、用水開基と肩書した碑があり、位牌も村内・千光寺に移して祀られております。そのいずれにも忌日がありません。ただ当村では六月十四日(祇園会の翌日)を白井様の日といって、毎年全村休業しております。その人の功績によつて、村人が今日もその恩恵に感謝していることは、まことに美しい思いでもあり、人間はそうでなければならぬものです。それでは、安松金右衛門は誰から感謝され、だれかに忘れられずにいるのでしょうか。
この伊呂波樋の設計は誰がしたのであるか、白井が施設したという記録もないのに、江戸名所図会などはあっさりと、
- この地(膝折)に用水がある。引又の宿の中を流れて内川(所沢では粂川といい、大和田へ来て柳瀬川といい、引又橋の手前で合流してからを内川といいました。水路改修以前はこの内川が羽根倉の渡しのところで、荒川と落ち合うようになっていたのです)の橋際に至る。そこに枡を設け、川を隔てて宗岡の地へ通じていました。寛永のころ、秋元侯が川越を領せられていたこと(伊呂波樋創設が寛永の時代ではなかったことはすでに述べた)、農耕の助けとして、野火止の用水をここに引かせたのだという。そのころ、白井某という人が、この樋からの水の引き方を工夫して、四十八段にかけたという。
と申して、白井武左衛門の設計のように書いております。
引又の宿は南北へ長き三町余あって、新宿、本宿、中宿、坂下町といい、新宿の入口から町の真中を幅三尺余、深さ四五尺の大樋が縦貫しており、新宿の方は高く、坂下の方は次第に低くなっていて、そこに大枡がありました。この大枡は玉川上水の四谷大木戸にあつたのと同じもので、桝の効用については『上水記』が解説しております。
- 埋樹は土中にある。水見桝は地上にある。また高桝がある。懸樋がある。分水のところに「わかれ」枡がある。水見桝のふたをあけて水勢を常に調べる。高桝でせき上げる。登り龍樋は上るところにかまえ、下り龍樋は引き落とす。みな、その地の高低にしたがう。しかし、水元より高くはあがらない。ひき落とし、高く上げて水勢を増す。河や堀の水底を潜るところもある。これを潜樋という。橋の下に沿って向う岸にわたるところも、渡り樋または懸樋という。石で流れを通すところを万年樋という。樋がなくて流れるところを白堀という。地方によっては素樋という。
文化の時期に小日向水道町の本法寺敬順の書きました十方菴遊歴雑記の中に、伊呂波樋の見聞が書いてあります。ただ今では明治三十六年に鉄管埋設に変革いたしましたので、伊呂波樋は二百五十年来の旧観を喪失してしまいました。ここにその本文を抄出するのは、ただ懐古の資料というだけではございません。
- 愚老がここに逍遙したのは、引股町の千貫樋と大いにいいはやして、評判が高いので、これを見ようとわざわざこの地に至ったものです。埋樋に沿ってつま先下がりにだんだんと北の方へ行くと、坂の下口左側に高桝を掘り埋めてある。高さおよそ五尺あまり、幅およそ三尺四~五寸四方。ここから坂を下りて、川端まで次第に低くなって、一丈あまりも地面を下っただろう。この坂口から土橋までおよそ一里あまり。さて、例の高桝から幅二尺四方の樋を坂口に深く土中に掘り込み、内川の渚に至って、その掘埋めた樋を地上へあらわして、内川の上をわたり樋としている。内川の幅、土橋で調べてみると長さ十七間、水面から渡樋の下面までおよそ一丈四五尺。このわたり樋の長さは二間つつで継ぎ、都合六十継、百二十間という。この引股橋から南は新座郡で松平右京亮領分(宝永二年三月三日、先祖墳墓の地であるということで、野火止領三千石を高崎藩主へ加増)、また、川から北は入間郡で秋元左衛門尉領内、千六百石の田地へ引く用水の樋という。すでに川向こう、入間郡棟岡村の堤の際に至って、水門に至って止まる。ここまでわたり樋の長さ百二十余間、樋の大きさは二尺四方。この用水なかったならば、数か村の農民の一切の仕付ものができないだろう。人間の工夫は賞賛に値する。これを近郷こぞって引股の樋とよび、あれこれとほめそやすことである。
野火止用水の流れの末を宗岡村へ誘引することについては、地盤が低下しているので相応に工夫を要したことがわかります。坂下の大樋は水勢を激成する効用のある登り龍の樋でしょう。以上、続けて書きましたのは、この敬順といふ老僧が妙に江戸っ子を出し、不似合な娑婆っ気から向う見ずに熊さん八さんになっているのは困りものですが、功績のすべてを松平信綱に帰して、大いに感嘆しておりますのを見過ごせません。
- ただし、高桝をはじめ、渡樋にいたるまで、木はマツ、モミ、スギの類で作り、板の厚さ二寸、もとより渡樋に家根はない。これは用水のためだろうか。このことからつくづく思う二、東武(=江戸)四ツ谷御門の外の高桝は左右にあって、南に一本、北に一本、都合三本、地上へ出るところは低くても五尺あまり、高いところは九尺あまり、幅はそれぞれ五尺から六尺四方、木の厚さ三寸、みなヒノキのふしのない板で作り、さらにわたり樋に家根を別に作り、みな節のないヒノキで作成された。しかもまたむかし、承応二癸巳年十一月十五日、四ツ谷大木戸から多摩郡羽村まで道のり十三里のところ、水盛を考え、掘り割りを工夫し、さらに四ツ谷御門外に仰ぎ見るほどの高桝を三つもこしらえ、御城内・御用やしきをはじめ、御城下町の者たち何百万人となく、命根をやしなう費用も簡単なものではなかった。この四ツ谷御門の高桝、渡樋から所々分水されている埋樋、また神田白堀上水、大洗堰の工夫より、水道橋のわたり樋、江戸一円分水の埋樋を、引股近在の井の中の蛙の者たちに見せたいものである。ただし、野火止の分水口は格別の堀割であって、古い話に伊豆殿堀という。これは松平伊豆守信綱、川越在城のとき、野火留辺も領内であったため、玉川から引水を工夫し、野火留近辺に田地もできた。それまではまことのむさし野の平原であったという。そこで信綱はむかし、多摩郡羽村というところから、この引股の駅まで九里の間、長流を引いて近郷を助け、なおまた内川の上から渡樋百二十間を造作し、入間郡棟岡村へ分流させ、若干の田畑の用水とした工夫、高智は感賞すべきものだ。
変な比較をして気持ちよがっている、どうにも馬鹿らしいところもあるが、「それまではまことの武蔵野の平原」であったといって、玉川上水、野火止用水、宗岡引水を列挙して、その功績を顕揚し、信綱の事業に感歎しておりますのは、刮目すべきものと思います。
松平信綱の武蔵野開発には、地方水利に功みであった小畑助左衛門、安松金右衛門の両人の関与しないものはございません。
- 建出――新聞の村々(野火止、菅澤、西堀)は井戸を掘っても砂利が崩れ込み、水が出ないので、この分水を幾筋にも引き廻し、百姓の相続や木品盛木の手当てとした。残水の廃れたのを、いろは樋という長さ二間ずつの樋を四十八間かけて、川を越し、樋の下を通船往来できるように安松金右衛門が工夫をし、宗岡村を畑田成とした。元禄年中まで川越在城のため、三代(信綱、輝綱、信輝)が領した。次に柳沢美濃守へ渡り、近来、秋元但馬守殿の領分なので、以前の姿に修理を加え、今も堰があり、別に宮戸村へも一筋懸り、これは小給所であるとのこと。(野火留分水国之訳書)
このように、野火止用水の流末が、宗岡・内間木・宮戸の三村を支持している伊呂波樋の設計も、安松金右衛門によって立てられ、その功績を今日に遣しているのであろうが、これだけでは証拠が足りない。けれども江戸名所図会に対して、確かに一説として見るべきであらう。
注釈
| 玉川上水の建設者 安松金右衛門 |
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