玉川上水の建設者 安松金右衛門/11

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三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』(電通出版部 昭和十七年(1942年))の現代語訳 第十一章

(現代語訳:シラキのコホリのツカサ

その十一 宗岡の古図

先年、宗岡・内間木の両村を訪れ、若干の文書絵図も見、古老の昔話も聞きました。宗岡3000石と言っておりますが、正徳二年(1712年)の記録には1600石とあります。承応二年(1653年)年貢割付には、高523石2斗3升、寛文四年(1664年)には606石6斗7升になっております。宗岡新田の旧家・市之瀬幸太郎という人が持っている古図では、全村を上中下に三分し、宗岡新田は村の中央にあって中組の場所である。これは白井武右衛門の開墾による、と言い伝えている。伊呂波樋の末端は精進場(本名・下ノ谷)に達する。樋の所在からいえば全く川越領(信綱の采地)で、上宗岡へ灌漑した余りを白井が岡部領へもらったもののようである。白井の新田開発と伊呂波樋の流末を貰ったことは別のことである。とすれば、白井が河越領の用水工事に手を出すはずはなく、またその費用についても2000石の岡部氏に出せる者ではないはずだ。信綱の采地だからこそ、まさに訳書のとおり、安松が伊呂波樋も工夫し、武蔵野開発の規模に沿って働きそうな話であります。東京市史稿は、

白井武右衛門と称する者は岡部忠直の臣である。正保元年甲申(1644年)宗岡村を忠直に賜って采地とした。当時、同村は灌漑の利がなく、水害が多いことを患っていた。この者にそのことを管理させたところ、この者は心を民益に尽くし、堤を築くこと675間、字して佃堤という。もって悪水が侵入したり溢れたりするのを防ぎ、中に新田を開いた。寛文二年壬寅(1662年)、この者はまた松平信綱に請い、多摩川支渠の余水を分けて宗岡村をうるおすことを謀り、巨大な筧を架してこれを通じた。これがすなわち伊呂波樋である。その後、痩せた土地が変じて豊かな地となり、村民は皆その恩沢に潤った。後にこの者が没したとき、民はその功徳を思い、忘れず、文化十年癸酉(1813年)正月、旧観音堂の住僧である浄意が議を発して募縁し、その記念碑を寺の中に建てた。明治三年(1870年)庚午に寺は廃したけれども、五層の石塔はいまもなお存在し、村民は毎年6月14日にその者を祭り、今もなお廃しないという。(武蔵通志)

と付記しただけで、何の弁論も加えていません。これでは伊呂波樋は白井武右衛門が計画し実施したように見えてしまいます。この中で思い当たるのは、岡部氏が正保元年に宗岡村の采地を得たということ。そのほかは、宗岡新田というところと、本村にあるところでは場所が合わない。それを落着させるだけの資料もありませんが、岡部小次郎吉次は正保四年(1647年)8月、1500石の遺跡を相続するときに、部屋住みから召し出されて、すでに500石拝領しておりました。それを合わせて2000石になったのであり、その采地は武蔵の多摩・入間・都筑、甲斐の八代、上総の山辺、下総の香取など六郡の内にあったと申します。白井武右衛門が働きましたのは、前にも申しましました通り、この吉次が家督相続して以後のことと思われます。宗岡新田を開いたのも慶安・承応(1648年~1655年)のときと思われ、まさに野火止用水ができたのを見て、白井が伊豆守家に願い出て伊呂波樋を促成し、その余流をもらったのでしょう。それは自分の計画した宗岡新田が一段落した後でありましょう。

安松吉実の院殿号を解説する事柄は、吉田藩士長坂氏が書いた『自他随筆」に、

久松筑前守御目付の時の公儀日記に、神田上水が出来したとき、安松を公儀よりお頼みのよし、留めてこれがあるという。

と見え、高士略伝にも「公儀の御帳にもその名がある」と見える。

この神田上水については、江戸会誌(第2冊第12号)の上水渠鑿通記事が簡明に大概を尽くしております。寛文政修のことを述べるのに先立って、その要点を抜き書きいたしましょう。

神田上水は府下三上水(玉川、神田、千川)の第二である。水源は多摩郡吉祥寺村にある井の頭の池(本村と牟礼村の境にある。「井の頭」は「猪の頭」とも書く。これを本流とする)。また同郡上井草善福寺の池から流れ出るものが一条あり、和田村で本流と合する。下井草村妙正寺の池から流れ出る井草川があり、落合村に至って本流へ合する。および、玉川上水を代々木村から分流するものが角筈村の淀橋の下で本流に入る。以上三派はともにその助水である。
この水は、高田を経て関口(ここまでは旧来の川筋で、白堀から以下はアラタに開鑿したものである)に至り、分れて2派となる。一つは大洗堰を下りて江戸川となり、一つは水門から目白台下にある白堀に入ってすなわち上水となる。水源からここ(花水橋以上)に至っておよそ5里26町15間とする。これより小日向・小石川の台下を経て(むかしは花水橋から工廠構外までは白堀だったが、明治十年に巻石蓋を設けられた。およそ859間3尺である)、砲兵工廠の内を通じ[1]、はじめて伏管に入り、水道橋の東において懸樋で神田川を横断する。ここから東はすべて伏管であって、縦横に通流するものが百千条に分かれる。南は京橋川以北、東は永代橋から大川以西、北は神田川を限り、西は大手町から一ツ橋の外に至るまで、すべての町で流通しないところはなく、引用していない家はない(上水記、上水在絶略記)
樋管の延長はおよそ3万6452間(呼樋はここに含まない)。井の数はおよそ3663であり、そのほかはすべて玉川上水と異ならない。考えるに、この上水ができたのはその年代が明らかではない。東照宮(家康)が吉祥寺の池水を茶の湯に使われたがゆえにお茶の水と言う、ともいう。また、台徳公(秀忠)が上水開発を命ぜられたとき、大僧正天海に修法させたところ、清水が七か所から湧き出たので七の井と名付け、府内へ引いた後は「七の井は神田の井の頭である」という命があって井の頭と称すともいう(上水記、上水在絶略記、四神地名録、水元役茂十郎書上、また一説に古名「御矢の水」というともいうが出所は不明)。
また、大猷公(家光)のとき、堀割したとも、寛永六年になったとも、寛永六年に始まったともあって(事蹟合考、江戸砂子、府内備考)、みな一定しない。
今考えるに、諸説はたいてい土地の人の伝説、または後人の付会などに出て、一つも信頼できるものはない。
そこで他書を検索すると、『大猷公実記』寛永元年四月五日の条に、松平下野守忠郷の邸(今の永楽町二丁目一番地)[2]にはじめて臨駕があった云々。池には樋で玉川の水をせき入れていたため、波が広くて大河かと疑ったという。ここでいう「玉川」は神田上水の誤りであって、後世、玉川上水の開鑿があったために混じってしまったものである。しかし、これによって、この上水ができたのは寛永以前であることがわかる。
また、寛永二年に大猷公が佐々与右衛門実時に賜った米印状に、武州豊島郡関口村30石8斗、潮川村24石2斗云々とある。関口村は今の関口町[3]のあたりであって、その昔、堰を設けて上水をせき上げたことからこの名が起こったものであるが、寛永の初めにすでにこれを村名に付けていたことから、上水ができたのは寛永よりはるか以前であることがわかる。
とすれば、さらにいつの経営であるかということになるが、これはおそらく徳川家東遷の初期にできたものであろう。そのことは菓子司大久保主水由緒書に、先祖藤五郎忠行、入国の時に、江戸において水の手を見立てるべき旨の東照宮の命を受け、小石川の水道を見立てたことにより、その賞として名を主水とたまわり、さらに水は濁りを嫌うものであるため、主水(もんど)を澄んでモムト(もんと)とよぶように命があったため、歴代もんとと称しているということが見える。この小石川水道はすなわち今日の神田上水であることは疑いようがない。(町年寄旧記に、神田上水のことは御入国以来、猪の頭の池水を御公儀御入用をもって水道に仰せつけられ、町奉行御支配であって、その御用向きは拙者どもへ仰付られた。上関口・小日向・金杉の三か村、拙者ども三人の御代官に仰せつけられ、御年貢取り立て御勘定申し上げます云々とある。これは正徳四年八月の書上である。ただし、この上水を大久保の開鑿であろうと言うのは、江戸図解集覧をはじめとして数書に見えるもので、もとより私が言い出した説ではない)
しかし、府内で、この水道はついに成功しなかったのだろうというのはまちがいである。もし成功していなければ、何をもって東照公は、主水の名を賜ってこれを賞せられたのであろうか(鉄砲師宗八郎に胝(あかがり)氏を賜った例などから推して知るべきである)。また『慶長見聞集』「江戸町水道の事」の条に、「町ゆたかに栄えるといえども、井の水へ塩が入り、万民これを嘆く。君はこれを聞かれて民を憐れみ、神田山岸の水を北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、この二水を江戸町へあまねく与えられた」とあることをもってそれ以前に水道がなかった証拠とする者もいるが、これはまったくそうではない。この神田山岸の水はすなわち神田上水の委流であるはずだが、年月が経っているため、三浦浄心がたまたまその伝を失って、神田山から湧き出た一脈の水泉と誤認したものであろう。ゆえに私は図解集説などの説に賛同し、この上水はすなわち大久保が開通したものであって、天正年中にできあがったものであると断定する。

この考証によって、神田上水は天正年中に開鑿したもので、江戸の最初の水道であることがわかります。すなわち、天正日記に、「十八年七月十二日、藤五郎まいられた。江戸水道のことを承る」とある。その神田上水は、武蔵野地名考に「その後、万治のころ、江戸川堀割ができて、小石川に掛樋以来、広大な用水となったとある。それはお茶の水の鑿通によって神田川・江戸川の流域が変更したときに、神田上水の小石川掛樋ができたのです。お茶の水鑿通は伊達陸奥守綱宗が、幕命を受けて、万治三年二月から寛文元年四月まで、14か月がかりで竣功いたしましたから、神田上水改修は寛文元年のことです。この改修は井の頭ほか二か所の水を玉川上水の補水にしたので、牟礼村から小石川まで、樋がなくて流れる。これを白堀(しらほり)と申しました。訳書にこの白堀の計画を安松が立てたと言っております。自他隨筆に幕府から安松をお頼みになつたというのは、この事を指したのでしょう。幕府が諸藩の家来に直命することは、はなはだないことですが、誰もが知っている例は、吉宗将軍が郡山藩(柳沢)の儒学者である荻生惣右衛門に命じて、六諭衍義の和解をさせ、また、諮問に答申させたことがあります。こういうような場合に、藩中では格別な扱いをいたします。その別扱いが死後にまで及んで、院殿号などということもあるのです。そのことごとくがそうなるわけではありませんが、若干の例はございます。江戸時代には寺院の方でも、なかなか厳重でしたし、ことに藩中が格別なことを傍観しておりません。何の理由もなく院殿号などをつけたら、ただちにその家は処分されます。しかし、金右衛門吉実に院殿號をつけたことについて、つけてよい理由があっても、ただいまその証拠とすべきものは何もないのです。誠に残念でなりません。

寛文二年、信綱の嗣子輝綱が家督をつがれたとき、川越へ遣わされて、郡代にされたといえば、彼が隠居退職した年次はわかりませんが、伊呂波樋などの工作が最後の御奉公であったのかもしれません。彼は貞享三年十月二十四日に没しましたが、年齢は知れません。正保以来、二代の主君に仕え、前後四十余年の御奉公を全うしたのであります。

十年前から、野火止開発の調査に着手いたしましたが、何分にも当村の資料が得られません。今日においても探索を怠ってはいないつもりでありますが、いかんともし難いことになっております。金右衛門吉実の事功は野火止用水については確認されます。伊呂波樋になるともう十分でなく、玉川上水については根本資料がないといわれ、寛政三年に御普請奉行上水方石野遠江守広通の上水記には一説として書いてあり、その後享和三年に御普請奉行水道方佐橋長門守佳如が肯定した小島文平の玉川御上水之起原並野火留分水之訳書には、金右衛門吉実が三度目の設計によつて、ようやく玉川上水工事が成功したことが明白に記述してあります。石野、佐橋は当職の役人で、うろんなはずもないと思いますが、川越運河の方は全く歯を没して語る者なしという有り様で、私は今後も安松氏の功績に対して、報恩謝徳のためにも、ぜひその事跡の鮮明に勉めようと思っております。

注釈

  1. 現在の小石川後楽園
  2. 松平下野守忠郷は蒲生忠郷。麹町区永楽町二丁目一番地は現在の千代田区大手町一丁目と丸の内一丁目の境界付近に当たる。
  3. 文京区関口
玉川上水の建設者 安松金右衛門