道興准后
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道興准后(どうこうじゅんごう、1430年 - 1502年10月23日)は、室町時代中期の天台宗の僧、歌人。聖護院門跡第24世。院号は後青竜院。父は関白・太政大臣の近衛房嗣である。
東国を巡った際の記録である『廻国雑記』では、「大塚の十玉坊」を起点として行動している時期があるが、これは現在の志木市付近と考えられる。
概要
摂関家である近衛家に生まれ、幼少期に出家して仏道に専念した。天台宗の顕密両教に通達し、聖護院門跡、園城寺長吏、熊野三山および新熊野の検校を兼任。大僧正に任じられ、准三后(准摂政・関白・太政大臣待遇)の位に登った。
修験道本山派の総本山である聖護院の門主として、厳格な回国修行や霊山での禅定、参籠を重ねる一方、公家文化の中心にあった近衛家の血統として和歌・漢詩・連歌にも秀でた。当代を代表する風雅の士であり、室町幕府第8代将軍・足利義政やその子・足利義尚とも深い交友関係を持った。
家族・血縁関係
- 父:近衛房嗣(文安二年(1444年)に関白、寛正二年(1461年)に太政大臣。出家して大通と号し、長享二年(1488年)に87歳で没。後知足院と号する)
- 長兄:近衛教基(右大臣を務めたが寛正三年に40歳で没)
- 弟:近衛政家(関白、太政大臣、准三后。後法興院と号する。日記『後法興院政家記』の著者で、道興の理解者・支援者)
- 弟:実相院僧正 増運(道興と特に親交が深かった)
- 弟:三宝院僧都 政深
- 弟:浄土寺住持 政弁
年譜・事蹟
誕生から聖護院入室(1430年 - 1465年)
- 永享二年(1430年):近衛房嗣の次男として京に生まれる。
- 幼少期〜青年期:幼くして出家し、天台宗の顕密両教を修める。
- 長禄三年(1459年):秋、百首歌の合点(添削)を一条兼良に請い、和歌への傾倒を示す。
- 寛政三年(1462年):8代将軍・足利義政の弟である義観僧正が聖護院に入室。この時期前後、道興は聖護院門跡第24世を継承する。
畿内巡礼と那智参籠・応仁の乱(1466年 - 1485年)
- 文正元年(1466年)
- 7月22日:畿内および周辺諸国(山城・大和・摂津・丹波・近江・美濃・尾張・播磨・但馬・和泉・河内・紀伊・伊勢・若狭・丹後・備前・備中・備後・安芸など)の回国巡礼に出発。大勢の京都の人々や坊官に見送られる。
- 9月21日:帰京。
- 10月3日:巡回しきれなかった丹波・播磨へ再び巡礼に出向く。
- 11月8日:3年間の参籠修行のため紀州那智へ出立。参籠中に熊野大峰の峰入りを行い、細字写経(法華経・般若心経等)に励む。
- 応仁元年(1467年)
- 5月:道興の那智参籠中に応仁の乱が勃発。
- 応仁二年(1468年)
- 7月5日:山伏姿で戦乱の都へ帰京。
- 8月6日:兵火により聖護院が焼亡。その直後、将軍の所用で伊勢へ下向。そのまま、戦火を避けて宇治の三室戸寺に一時身を寄せる。
- その後、聖護院が洛北岩倉の長谷(ながたに)に移築され、道興は長谷を拠点とする。
- 文明三年(1471年)頃:勅命により組織された勅撰和歌集の書写に参画(道興筆『古今和歌集写本』が伝わる)。
- 文明十二年(1480年)7月:勅命を受け、『拾遺和歌集』の書写を行う。
- 文明十三年(1481年)10月:将軍・足利義政が妻・日野富子との不和等から出奔し、道興が住む長谷の聖護院宿坊に入って隠居する(~文明十四年)。義政滞在にあたり、聖護院の大規模な改修が行われる。
- 文明十四年(1482年):足利義尚が主催する「将軍家十五番歌合」に歌人として連なる。
『廻国雑記』の東国・北陸・みちのく巡礼(1486年 - 1487年)
- 文明十八年(1486年)(56歳)
- 6月6日:出発に先立ち、禁裏(勝仁親王)および幕府(義政・義尚)へ暇乞いの挨拶を行う。義政・義尚父子から贈歌を受ける。
- 6月16日早朝:長谷の聖護院を出発。大原越え、朽木を経て若狭・小浜の曹源院へ。
- 夏:越前・加賀・能登・越中・越後を巡礼。途中で白山・石動山・立山に登り禅定を果たす。
- 7月15日:越後国府に到着し、上杉氏の元に滞在。
- 秋(9月上旬):三国峠を越えて上野・武蔵・下総・常陸・上総・安房を巡り、房総から海路で三浦三崎へ渡り鎌倉に入る。
- 秋〜冬:関東平野を北上して日光山へ参詣。常陸の筑波山に登拝し、下総を経て再び鎌倉へ戻り、建長寺・円覚寺などの鎌倉五山・諸寺を参拝。さらに伊勢・箱根・駿河(箱根権現・三島明神・富士山)へ赴き、相模の大山に登拝。
- 年末:武蔵国の大塚十玉坊に滞在して越年。武蔵野の名所旧跡や大石信濃守の館などを訪ねる。
- 文明十九年(1487年)
- 早春:甲州路に入り武田氏の館や諸社寺を訪問。その後、相模・上野・下野を北上し、白河の関を越えて陸奥国に入る。
- 春:みちのくで矢機の社などの社寺参詣、歌枕(実方朝臣の墓、塩釜、松島)を訪ねる。『廻国雑記』では、名取川での詠歌を最後に旅の記述が終わっている。
- 5月:巡礼を終え、帰京。
晩年と西国巡礼(1488年 - 1502年)
- 長享二年(1488年):父・近衛房嗣が87歳で没する。
- 明応二年(1493年)
- 8月13日:西国巡礼のため都を出発。備前児島から讃岐へ渡る。
- 冬〜翌年:四国で越年する。
- 明応三年(1494年)
- 6月:四国巡礼から帰洛。
- 8月:葛城山への入峰を試みるが、弟の政家らの制止により延期する。
- 明応四年(1495年)
- 宗祇が勧進した「長門住吉社奉納百首」などの歌合・法楽歌に参加。近衛家での月次連歌会などを通じて肖柏・宗長らとも交流する。
- 文亀元年(1502年)9月22日夜:72歳で入滅。追号は後青竜院。
『廻国雑記』の意義
文明十八年(1486年)から翌十九年にかけての巡礼の記録である『廻国雑記』は、旅先での感懐を和歌・漢詩・俳諧歌に託して記した紀行文学である。各地の地名を詠み込んだ俳諧歌が多く含まれ、室町後期の文芸風潮や歌風を顕著に伝える。また、幸田露伴は「飾らない淡々とした文体の中に深い味わいと情感があり、古を考証する上でも有益な愛すべき名著」と高く評価している。
旅の表面は風雅の行脚に見えるが、当時の政治・宗教的背景から以下の公的・政治的目的を帯びていたと推測されている。
- 聖護院本山の統制強化。室町幕府の衰退に伴い動揺していた聖護院傘下の修験道寺坊や「霞」の結束強化を狙っていた。
- 宗教争乱の慰撫。修験道内部(本山派と当山派)の対立緩和や、白山等における修験道社人・社僧と浄土真宗僧徒との抗争への介入。
- 地方情勢の視察。将軍義政・義尚父子の護持僧として、下剋上の絶えない東国・みちのくの豪族や地方情勢の監察。