十玉坊

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十玉坊(じゅうぎょくぼう)は、室町時代から江戸時代にかけて武蔵国で大きな勢力を持っていた、本山派(天台宗系)の有力な修験道寺院(熊野先達)である。江戸時代になって聖護院から院号免許を受け、十玉院と称した。

概要

創建時期は不明。室町時代の文明十二年(1480年)にはすでに存在し、聖護院から年行事職を認められていた。当初は「武州大塚」(現在の志木市幸町付近)にあり、道興准后の紀行文『廻国雑記』にもその名が登場する。この地域には「地獄谷」の地名が残っているが、これは十玉谷の転訛とされる。その後、水子(富士見市)などへ移転したが、一時期後継者不在のために断絶した。

天正七年(1579年)、滝山城主・北条氏照の許可や聖護院の教書により、多摩郡清戸(清瀬市芝山)で再興された。

江戸期には入間郡下南畑の難波田氏館跡を本拠地とし、京都・聖護院の直末として日本二十八先達(のち二十七先達)の一つに数えられた。

その後、明治時代には神仏分離令などの影響により廃絶した。

詳細年表

  • 文明十二年(1480年):聖護院の門跡(道興准后の前の代)から補任状(教書)を受け、武蔵国の「年行事職」(地域の修験を統括する役職)に任じられる。これが史料上の初見。[1]
  • 文明十八年(1486年):聖護院の道興准后が東国巡遊の際、武蔵国大塚の「十玉坊」に立ち寄る。道興はここで「武蔵野の 露やあつまる ひと雫 十の玉とは たれか名づけし」という歌を詠む。(『廻国雑記』)
  • 文明十九年(1487年):十玉坊賢承の名前が見える(聖護院門跡御教書)
  • 大永四年(1524年):聖護院(道興准后)より、十玉坊が武蔵国新座郡大塚郷の年行事職であることを重ねて安堵される。[2]
  • 天文三年(1534年):この頃までに新座郡大塚から入間郡水子(現・富士見市水子)へ拠点を移す。聖護院から水子郷での年行事職を安堵される。当時、扇谷上杉氏の重臣・難波田善銀(弾正少弼)が十玉坊の有力な旦那(パトロン)であった。
  • 天文十五年(1546年):河越夜戦にて、十玉坊の後援者であった難波田善銀ら難波田一族が討死。難波田氏が没落したことで、水子における十玉坊の経済的・政治的基盤が大きく揺らぐ。
  • 水子の地で後継者が途絶え、十玉坊は一時「断絶(廃絶)」する。
  • 天正七年(1579年):滝山城主(のち八王子城主)の北条氏照が修験道の支配強化のため再興を画策。聖護院の許可を得て、多摩郡清戸(現・東京都清瀬市芝山)の地へ十玉坊を移転・再興させる。
  • 慶長十九年(1614年):徳川家康から、多摩郡中清戸村(清瀬市)の境内地として「朱印地三石」を寄進される。徳川幕府からも本山派修験の重要拠点として公認される。[3]
  • 元禄十一年(1698年):京都・聖護院より正式に「院号」を免許され、これ以降「十玉坊」から「十玉院」(じゅうぎょくいん)と改称。この前後の時期に、旧パトロンの領地であった入間郡下南畑(難波田城址内)へ本拠地を再移転する。
  • 享保年間(1716-1736年):聖護院本山派の「日本二十七先達」(全国の有力な修験寺院の格付け)の一つに数えられる。武蔵国の本山派山伏を統括する「録事職(年行事)」として全盛期を迎える。
  • 文政年間(1820年代):幕府の地誌編纂事業により、十玉院の歴史や大塚時代の伝承(地獄谷の記述など)が記録される。この時点で下南畑村の難波田城跡(古城跡)に所在していた(『新編武蔵風土記稿』)
  • 明治五年(1872年): 明治政府による「修験道廃止令(神仏分離の一環)」が出される。これにより本山派・当山派の修験組織が解体され、十玉院は強制的に廃寺となる。最後の住職であった十玉院岱弁が柳下氏として復飾(還俗)し、地域の名主・農家となった。

注釈

  1. ↑ 『新編武蔵風土記稿』新座郡大塚村の条にある「文明十二年庚子七月十一日聖護院門跡教書」
  2. ↑ 『新編武蔵風土記稿』の「大永四年甲申八月廿三日道興教書」
  3. ↑ 『新編武蔵風土記稿』多摩郡中清戸村の条