玉川上水の建設者 安松金右衛門/14
三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』(電通出版部 昭和十七年(1942年))の現代語訳 第十四章
(現代語訳:シラキのコホリのツカサ)
その十四 江戸の鑿井
近頃、東京の上水は山口の貯水池が出来まして[1]、東村山の貯水池[2]とあいまって大分多い水量を得られるようになりました。まずこれで東京の水切れというものは心配がないことになるのかと思うと、そうではなくて、目の先に近郊八十二か町村を併合する、大東京の計画があるのですから[3]、この上にもまだ水道の拡張計画をしなければならないことになっておりまして、江戸川の水を引き込むとか、利根川の水を引き込むとかいう計画を立てて、調べていたそうでありますが、それでも適当な計画が得られないというので、話はやっぱりあとへ戻って、多摩川の上流、西多摩郡の氷川村、古里村――多摩川の水源地であるそこから水を取る。そうでなければ東村山と山口との両貯水池によって得るところの六~七倍のものを得られるというので、昭和八年度から十か年計画で、多摩川の上流から水を取る計画をしている。これができれば世界最大の水道であるとかいう話を聞いております。[4]
従来、江戸ではいろいろな水道があったこともありますが、多摩川上水が何といっても江戸の給水の大部分をなしていたのであります。近いところで村山の貯水池が出来まして以来、玉川沿岸――これは昔の武蔵野の地帯でありますから、いずれも田畑に対する水の供給というものに乏しいのであります。のみならず飲用水に事欠く場所が多い。現在においてさえ、従来に比べて水が不自由になったということは、沿岸の人々が言っているところであります。もし今よりももっと上流から水を取るようなことになりましたならば、沿岸の水の乏しくなることは、今よりどれほどひどくなりましょうか。ことに、ひでりにでもなるような年柄にでもなりましたならば、沿岸の諸村にどれほどの被害、困惑を生ずるでありましょうか。最近十年来、羽村でアユが取れなくなって、漁民が仕事を失っているくらいの話ではあるまいと思います。新しい計画によって、それで東京市民は水切れの心配がなくなるものといたしましても、多摩川沿岸の人々の水の不足することを考えたならば、東京の者さえ不自由が無ければ、沿岸の者などはどうでもいいというようなことが許されるかどうか。それにはいろいろな例もありますけれども、さしあたって東京の人たちが水に不自由しなければ、沿岸の者はどうでもかまわないという都市の暴虐が許されることか、許されぬことかということを言っておけばいいと思います。
その都市の暴虐は問題として残しておいて、沿岸の住民等に迷惑をかけて、それで果して東京市民が水に不自由がなくなるかどうか、現在の東京市だけは、山口・東村山両貯水池によって、供給される水量で足りているとする。実は、これも決して足りているとは言えない。将来の大東京――近く併合する近郊八十二か町村、それも今後どれほど人口が増加するか、その増加した人口に対してまでの水量の保障は、多摩川上流から給水をするという新案でも、とてもできないだろうと思う。これは将来に大きな問題を残しておくことだと思います。
そこで江戸時代において、水道がどんな按配であったか、また鑿井[5]がどんなであったか、今日は全く鑿井というものを認めずに、もっぱら水道によることになっておりますが、これもまた大いに考えてみなければならぬ事柄であろうと思います。将来この多摩川上流案のみならず、その他に水が得られる考案もありましょうが、いずれにも鑿井を除外して考えることはできますまい。それは人口の増えていくことが何の程度で、どれほどになろうかという見込みがつかない。したがって、それに対する供水量もどれほどであるかわからないのだから、いずれとも条件をつけて鑿井を利用するようなことはしても、まったく鑿井を省くということは、よろしくないようにばかり考えられる。
江戸時代の水道の状況を考えてみると、紀州の医官によって書かれた『江戸自慢』[6]、これによって安政(1854年~1860年)度の水道の様子が簡単に見える。「江戸中に井戸はあれども飲み水は上水を用いる」というので、ここに玉川上水と神田上水と二つの上水があつて、それからの給水状況が書いてある。そうしてこの上水というものは、飲料水だけに使っておった。我々どもが知っている頃までも、雑水(ぞうみず)と称して、飲料水以外の水は皆鑿井から汲んできて使っていた。鑿井の内でもなかなかいい水の出る分は、もちろん飲料水にしておりました。今日は上水を雑水にも使えば、散水にも使う。飲料水だけでなく何でも使う。そんなことをしているならば、昔はもっと人数が少なかったには少なかったけれども、両水道で供給する水量というものは、統計がないから明白にわかりませんが、今日よりよほど少なかったのですから、とてもどうにもならなかった。ただ飲料水に限って使うという節約が行われていたから、かろうじて用を足してきたのです。その引き続きでありますから、明治十五年(1882年)に書かれた『空おぼへ』[7]などを見ますと、やはり神田・玉川の両上水で、江戸時代のままに踏襲して用いたのであることが知れます。この時まで――これよりずっと後までとおぼえていますが、江戸時代同様な状況で給水されておりました。その給水線路はくわしくここに挙げてあります。
- 水筋 小日向より小石川内神田一円、日本橋両国八丁堀橋辺、京橋向は御堀端通り、南へすきや町河岸まで通ずる。元吉原に水道尻というところがある。これが水道の終りである。
しかし、江戸の上水というものは、神田と玉川との二つではなくて、その他に綾瀬川の水を取り入れた白堀上水、玉川の分水と石神井の三宝寺池の水とを合わせた千川上水、まだもう二つほど上水があったのでありますが、これは享保年間に、幕府が費用を出すのに困って廃してしまった。千川上水の方は、明治になって再興したこともありましたけれども、それもついに廃れたようであります。
元来、江戸は水が無いのみならず、ついに井戸を掘っても水が得られない。飲料水にするような河川も近所にない。ただわずかに多摩川があるだけであります。それだから水道と水ということは、江戸っ子が恐ろしく自慢にしたものだ。それが果して自慢すべきものであるか否かは知りませんけれども、水が悪い上に乏しい土地柄でありますから、良い水を多く得られる水道というものは、どれほどうれしいものであったかわからない。江戸っ子は何よりも「金のしゃちほこを睨んで、水道の水で産湯をつかった」ということを得意げにいう。金のしゃちほこの方は、江戸城の天守にあったのですが、明暦の火事で焼けてなくなってしまった。それはなくなってもそれまでの話でありますが、なくてはならぬ水道の方は、享保に幕府が費用の節倹から、上水の数を減じましたけれども、神田・玉川の上水だけは、どうしてもやめることができないのみならず、それが東京にまで持ち越しております。今日でも多摩川の水、それに神田上水の有力な水源地であります井ノ頭の弁天の池の水は、助勢として今日の東京の水道に送水されております。
さて、この大自慢の水道は、承応の時期にできたものでありまして、御普請奉行の上水方でありました石野遠江守の書いた『上水記』に従いますと、明和五年に町奉行から御普請方へ上水工事を受け取りました時分の古い書留に、承応元年までは御城内ならびに城下の町々に上水というものはなくて、下々の者は所々の水溜り・溜池などの水を汲んで、それを樋にかけて使っていたので、水には実に不自由なものだったとある。そこで石野は、赤阪の溜池の水を皆が飲んでいたが、あれなどは溜り水の一つである。それだから井ノ頭なども、やはり溜り水の池であったろう。と書いております。この溜池の方はそのとおり溜り水であったのですが、井ノ頭の方は野水ではありますけれども、湧き出すのであったのです。
そこで武蔵野の時代からの井戸の様子を眺める。戸田茂睡が天和年中に書いた『紫の一本』の中には、井戸が九つ挙げてある。これも井戸が如何に珍重されたか、ということを物語るものと思われます。『江戸名所記』のようなものにも、やはり井戸のことが書いてある。水に困った土地だけに、江戸としては古い名所記などから、井戸には注意していたとみえる。『紫の一本』のは註記が詳しいから、ひとまずここに出しておきます。
- 極楽の井(小石川)
- (山沼水)蜘の井
- (山清水)堀兼の井(牛込)
- 麹町の井(神田)(口は小さく底は広い)
- 亀の井(同上 口は小さく底は広い)
- 亀井戸(同上)
- 油の井(芝)
- (山清水)策の井(四谷)
- 野中の清水(谷中)
この九つの中で、清水――ひとりでに湧く水を井戸にしているものが七つまであります。九つに対する七つ、湧水を多く使っていたことが考えられる。このうちにはもう知れなくなってしまったものもありますが、明治の始めまで残っていた。古いのは、小石川の極楽水[8]、鮫橋仲之町の旭の井戸[9]、津守の策の井戸[10]、市谷船河原町の堀兼の井戸[11]などでありました。これはいずれも湧水でありまして、策の井などは猿頬[12]を投げ込んであって、猿頬で水を汲み出して飲めるというほど、水がたくさん、上の方まで出ておりました。井戸を掘るということの不十分でありました時代には、湧水が珍重されたに違いない。まして江戸居廻りのところでは、掘ってもいい水が得られませんから、どうしても湧水を使う理屈になってくるはずであります。水道がなかった時代には、この湧水がどれほど珍重されたかわからない。もちろん、湧水だけで用が足りるわけではありませんから、井戸は掘らなければならない。その古い井戸はどういう風にして掘ったか、それは文化十二年(1815年)版行になりました『武蔵野話』[13]などにも、古い井戸の絵があります。それに斉藤鶴磯は「二十年前まで、この辺の井戸は「七曲り」といって、今の井戸とはことのほか違っている。今はもうないが、土地の人が頭の上に手桶を載せて下まで下りて行って柄杓で水を汲む」と書いている。これは所沢に近い堀兼村にある堀兼井のことを書いたので、もう文化のころには半分ほど埋めて、釣瓶で汲んでいたということであります。これとほぼほぼ似たようなものが、今日でも羽村の内の五ノ神村青梅の停車場の側のところに、半分埋めてある古井戸がありまして[14]、今は釣瓶で汲むようになっておりますけれども、それによって見ると、螺旋状をなして、ぐるぐる廻りながら下りて行ったものだということがわかる。まだこの他にも、そこここに堀兼井の名が残っているところもあり、その形状は五ノ神村の井戸のように、旧形をよく現しているものばかりではありませんが、ああいう掘り方が武蔵野一般の鑿井方法だったように思われます。
それですから、まだ江戸のうちにも二つ三つ、堀兼井という名だけ残っているわけで「堀兼」というのは、掘りかねるという意味ではもちろんありません。「兼」という字も借物で、私などはこれは曲尺のことを「カネジャク」という、あの曲の字を書いた方が、よく意義が現れると思う。螺旋状をなしているのですから、曲の手にぐるぐる廻って掘り下げてある、それで「堀兼井」というのだと思っています。たまに掘った昔の井戸は、この堀兼井で、それにしたところが大変な手数をかけて、それだけの労苦をして行っても、なかなか良い水を得ることはできない。そうでなければ、山清水の流れ出るのを場所を見つけて、そこから水を取る。さもなければ湧水を待つ。こういうのが古いところの給水方法であります。それですから、昔、井戸を掘るのはなかなか容易なことではない。その容易でない井戸も、掘りさえすれば必ず良水が得られるというわけでありませんから、掘るだけの労苦では決していい水は得られない。それには『雨窓閑話』[15]というものがあって、これに昔の人の水を得る苦心が書いてあります。この随筆は作者も時代も知れません。白川楽翁[16]が書かれたという説がありますけれども、これは確かに間違っている。が、時代はどうもその頃のものだと思われます。それにはこんなことが書いてある。
ある殿様が御話しなさるのに、私が家督を相続して、領分の村々を巡検した時、ある村のひなびたあたりへ行ったところ、たいそういい水が出るという評判を聞いて、そこへ寄ってその水を飲んで見ると、いかにもいい水であった。その時にかたわらへ六十余の婆さんが来ておじぎをしている。それから、この婆さんを呼んで、この水はたいそう良い水だが、この村方ではこの水を使っているのか、といって聞いた。そうするとその婆さんが申すのに、左様でございます。この辺の民家は二百軒ほどでございますが、皆この水を使っております。それにつきましてお話がございます。この村方と申すのは、まことに水の悪いところでございましたので、私の親父がそれをひどく嘆息いたしまして、どうか村方の者に良い水を与えたい。ということを若い時から心願を立てまして、薬師様に願掛けをして、彼方此方と方々に井戸を掘りました。前後八十か所も捕ったでしょうけれども、何分にも良い水が得られません。その間に年も大分たち、自分もだんだん年をとりまして、身体も衰えて参りましたが、それでもようやくこの井戸を掘って、良い水が出るようになりました。これを最期に親父は亡くなりましたが、親父が最後に掘った井戸から良い水が出たというので、この井戸の名は親父の名をそのままに「五左衛門井戸」とただ今でも申しております。もはや四十年ばかりにもなりましょうか、村方の者が打ち寄って、この婆は井戸を掘った五左衛門の子だというので、扶持をくれてこの井戸の持主ということにしてくれまして、そのために安静に暮らしております。これはまことに父親のおかげと存じます。今日、殿様がここをお通りになって、この井戸をご覧になるということでございましたから、井戸守でございますので、私がここまでまかり出ました。」と申しました。――こういうことが書いてある。
この土地はどこであるかわかりませんが、いづれにしても武蔵野の中の話で、どの村方においても水が大切にされ、井戸が珍重された、ということが知れます。そうして良い水を掘り当てるということは、それが公益の最大のものと思われていたことがよくわかります。昔は水脈に掘り当てるということを、僥倖のように思っておりました。掘り方が深いからきっといいわけでもない。いい按配に良い水を掘り当てるということは、もっけの幸いということになっていた。そういう風でありましたから、神仏から水をお授け下されたということや、名僧智識が杖の先で掘ったら水が出たという伝説があるのは、人聞業ではないかの如く思われていた証拠だと思います。それゆえ、井戸の数も甚だ少なく、良い水もむろん少ないわけでありますが、綱吉将軍の代になりまして、だんだんと水道が増えて、何々水道、何々水道と五つ位の名称があるようになって参りましたけれども、その当時の江戸にいたしましたところが、やはり水は乏しいので、元禄三年(1690年)版の『枝珊瑚珠』[17]という笑話の本に、在所の親仁が江戸へ小僧に出した自分の子供を叱る言葉がある。「お前はまことに花のお江戸へ参って、湯の水風呂に入れる。おれは何年も湯を浴びたことはないのに、お前はしあわせだ」というようなことをいっている。『近世事物考』[18]を見ますと、「風呂といえば海の水である。たまに塩気のない水を汲んで使うのを水風呂という」と書いてある。井戸水で風呂を立てるということは、大都会の江戸でなければできないことだ、ということがこの笑話でわかります。
もっとも後々までも江戸には湯屋というものが少のうございました。武家屋敷などでも、組屋敷などになりますと、浴室はたいていない。仲間内でもやって、湯を立ててそれに入る。めいめいに湯殿を持っているなんていうことはありませんでした。町家もよほど大きな町人でなければ、湯殿を持っているのはなかった。宝暦以降になりましては、場末の町々まで浴場があるようになりましたが、宝暦以前はそんなわけに行かなかった。これは全く鑿井の関係であります。それでも場所によっては、なかなか湯に遠いところがいくらもあって、場末ばかりが湯に違いわけではありませんでした。宝暦(1751年~1764年)以降に場末の町々まで湯屋があるようになりましても、自分の家に浴室を持っている者ははなはだ稀なので、それは江戸が燃料が高いばかりの理由ではない。第一に専用の井戸を持っていなければ、湯が立てられなかったからであります。
それには最も面白い話がありまして、埼玉県入間郡、所沢から二里ばかり行ったところに三富村(さんとめむら)というところがある[19]。これは柳沢吉保が開拓した村で、元禄七年に着手して、九年には成就した村であります。この三富村は開拓される前まで「芝行水」ということが行われていた。ここには限りません。関八州は一円の平野であって、水の乏しいところですから、どこでもそうですが、この芝行水というものが残っていたという証拠がありますのは、私の知っているのでは、この三富村だけである。それはどんなことをするのかというと、芝を刈って来て日陰に干して、それで身体から手足をすっかりこすって、脂や汗を取って、それで入浴の代わりにしたのです。『枝珊瑚珠』の親父が「おれはなん年にも湯をあびたことはないが」といったのは、やはり芝行水であったかどうか知りませんが、そういうようなことが行われていたのを、合点させるものだと思います。
享保版の『御伽百物語』[20]を見ますと、桶町一丁目の南側に柳屋善八という者がありまして、その家に譲の井という井戸があった。この井戸は水がいいために、その水が売れまして、柳屋は身代がよくなった。この井戸は子孫に譲る柳屋の宝物だというので、譲の井といったのだ、と書いてあります。それに続いて江戸に名のある井戸が所々にあるといって、その井戸を挙げてある。それには牛込の「堀かね井」、源介橋の「油の井」、神田の「宮の小路町の井」、四谷の「策の井」、須田町の「亀の井」、権田原の「鱏(うなぎ)の井」、湯島の「柳の井」、谷中の「野中の井」、自性院の「蜘蛛の井」、小石川の「極楽井」、亀井戸の「藤の井」、「玉水の井」、「御福の井」、「封の井」、「新の井」等、すべて十八、名井があるといっております。この十八というのは数が足りません。譲の井と合わせても十六しか挙げてありませんが、「江戸の十八井」という言い方は、ここに伝えられてあります。同じ享保にできた『江戸砂子』[21]には、井戸を二十二挙げてある。この『江戸砂子』に当てて『御伽百物語』の方を見ると、その所在もよくわかりますけれども、同名の井戸が多いから、紛れ易くもある。『続江戸砂子』以下にも、名井というので井戸が挙げてありますが、享保度の名井は『江戸砂子』に尽されているように思います。
『江戸砂子』の二十二井というのは、
- 「麹町の井」、杉浦出雲守屋敷内。
- それから神田明神の内横小路があり、西町という。北の奥に井戸がある。これも「小路町の井」で、呼び名の同じ井戸が二つあります。
- 「野中の井」、またの名を「柏木の井」という。三嶋の内の町屋の裏にこれがある。
- 「山伏の井」。これは浜町の堀家の裏通にある。
- 「亀の井」。連雀町の金田丹波守の屋敷にある。
- 「御水屋敷の井」、立大工町。
- 「主水の井」、白銀町の大久保主水の屋敷。
- 「柳の井」、神田冬青(モチ)の木坂 酒井家。
- 「譲の井」、桶町にあり、その場所は不詳。
『古鹿子』に、日本橋より京橋をきっての名水で、夏になると一杯を一文で売った。それで金持ちになって、子孫にその水を譲ったから「護の井」という。このころは掘抜井戸がまことに少ない。ただ、これだけが掘り抜きであった。この井戸は前の柳屋の井戸らしいですが、ここではその所在がわからないとなっている。『古鹿子』というのは、元禄版の『江戸総鹿子』[22]のことを申したのです。
- 「姫が井」、またの名を「桜が井」という。山下御門と幸橋の間の土手際にある。
- 「封の井」、これは桜田内にあるが、その場所はわからない。
- 同じ名の「柳の井」がまたありまして、これは三浦志摩守の屋敷、虎の門内。
- 「桜が井」。井伊家の表門の下にあって、車の三つついた釣瓶で汲む。
- 「若草の井」。同所の辻番の下、御堀の上のところにある。
- 「策の井」。新宿の追分の西、松井源次郎中屋敷。これは津の守のことです。
- 「蜘蛛の井」。瘤寺境内。癇寺というのは自性院のことです。
- また「封の井」というのがある。青山因幡守の屋敷。
- 「玉の井」。堀ノ内安法寺の内。
- 「御福の井」。浅草六角堂地蔵の下にある。
- また「桜が井」、これは浅草新寺町の東陽寺の内にある。
- 「堀兼の井」、牛込逢坂下。
- 「真間の井」、真間弘法寺の内。
- 「朝比奈の井」、品川松平土佐守下屋敷。
こういう風に書いてある。これで見ますと、水を売ったというのは「譲の井」だけでありますが、だいぶん享保ごろには井戸が増えている。それがみな鑿井ではありますまいが、とにかく井戸は増えております。良い水の出るので名高い井戸がこれだけあるのだから、雑水の出るような井戸は、大分増えたことだろうと思われる。一体、江戸の鑿井の認められるのは、享保以来のことであります。それはいずれもみな掘抜井戸で、前の掘兼式のとは違った方式のものであります。
掘抜井戸は上方には古くからあったようでありますが、江戸でも享保以前から掘り抜きがあったことと思われる。現に『続五元集』[23]の中に元禄十四(1701年)と書き添えてある附合があります。
凉風におもふ矢つほや臗(シリコブタ)
手拭を着てしさる掘貫
というのですが、これよりもまだ前の、延宝版の『吉原大雑書』[24]に、ある遊女を評して「この人に町内のほりぬき井戸ほどふかい人があったとのこと」と書いてある。この当時の新吉原には掘抜井戸はなく、水道尻というところはありましたが、水道も新吉原にはないので、元吉原の方に水道が引き込んであった。水道尻というのは水道の一番おしまいのことで、この名だけが伝わって、新吉原に水道尻というところがありました。が、実際の水道はなかつた。『洞房古鑑』[25]を見ますと、新吉原の掘井戸の水というものは、皆いけない水であって、砂利場竹門の脇にある井戸の水がよいので、日々そこから汲ませて、水銭としてその井戸の持主に、月々集め銭にして贈っておりました。それが享保年間になって、揚屋町の尾張屋清十郎のところで、はじめて、井戸を掘った。そうするといい按配に水が大変湧き出した。この湧出する水があまり分量が多く、いい水であったので、見物が集まるほどであった。それから廊のうちの町々でも、井戸を捕らせるものがあって、竹門から汲ませることはやめになった。その頃、江戸の町の方でも、方々で井戸を掘らせていたが、前の尾張屋清十郎は、どうぞいい水が得られるようにといって、箕輪の秋葉権現に祈願した。その御利益でいい水が出たんだといって、御礼のために秋葉権現の社地に井戸を一つ掘っております。そこでこの『洞房古鑑』には――後には掘抜井戸といったものですが――「モミヌキ井戸」と書いてある。後の掘り方とどう違うか知れませんが、同じではなかったんだろうと思われます。
吉原の井戸は揚屋町の尾張屋清十郎の井戸がはじまりで、それは享保何年であったかわかりませんが、享保十三年の物揃を見ますと「近年よく成った物、里(さと)の水と葛野九郎兵衛」とある。それから里の水がよくなったというほどですから、大分モミヌキ井戸がたくさんできたということは、『洞房古鑑』の文句と引き合わせて考えられることでありますが、あり合わせた享保十二年(1727年)の細見を見ますと、角町に「井、新井、新井」と三つ井戸が書いてある。京町一丁目のところには「井、新井」と二つある。京町二丁目にも「新井」とあって、「巳五月以来」と書いてある。巳の五月というのは、享保十年のことであります。ちょっとここで見ただけでも、新しく掘った井戸が四つほどある。吉原に井戸のだんだん増えて行く様子は、この十二年の細見だけ見ても考えられる。「巳五月以来」とあるから考えて見ると、前の新井、新井とあるのは、その前であることが知れます。尾張屋のはじめの井戸というのも、当然享保十年(1725年)以前であることが知れます。
そこで江戸の掘抜井戸の発明者は誰かというと、神田の白銀町に五郎右衛門という代々の井戸掘がありました。その五郎右衛門が享保八年に、馬場先門内の竹姫様の御用邸内に、新しく井戸を掘った。この竹姫様というのは、綱吉将軍の養女で、享保十四年六月、薩摩の島津へ御輿入れなされた御方です。その御用邸へ井戸を掘りますときに、掘抜ではない、中水の約束でありましたけれど、なかなか水が出ない。それから五郎右衛門は親父に相談してみた。どうして水が出ないか、何かうまい方法はなかろうか、といって相談した。そうすると親父がいうのに、掘って行った底がどんな土であるか、その土質によって竹の管を深くさし込んで見たら、あるいは水脈に届くかも知れない、そうしてみるがいい、ということであった。そこで五郎右衛門は、大きな竹の節を抜いて、そうして今まで掘ってきた井戸に下して、どんどん打ち込んだ。十間ばかり打ち込んだと思うと、いい水が出て来た。これが江戸で掘抜の方法に気がついた最初である、ということになっております。それから三年ほどの間に、五郎右衛門は二十ほどの井戸を掘った。当時の井戸は八両ずつの約束だったが、掘抜の場合には十七両貰うことにした。これからだんだん掘抜井戸というものが流行って来たのですが、これは本当の掘抜井戸ではありません。が、享保八年に五郎右衛門が井戸の新しい掘り方を工夫したということは、江戸の鑿井の上に大きな影響を与えたことだったのであります。
その五郎右衛門が、こういうことを言っている。「すべて掘抜井戸をこしらえるには、五間ほど堀っていくと、底には青へナという土がある。その青へナを竹で突き通して行くと、その下に岩がある。この岩に突き当たれば手ごたえがある。その手ごたえがあった時に、さし込んで行った竹を抜き取れば、いい水が得られる。けれどもこれはまだ中水(ちゅうみず)の井戸であって、掘抜ということになると、下の岩を突き通してからでないといけない。岩を突き通してしまへば、本当のいい水が出てくるのだ。」――こういうことをいっている。けれどもなかなか竹を突き通しただけで、岩が砕けるはずはない。この竹で青へナを突き破るというやりかたは、今日でもやっております打ち込みというやつで、今は竹じゃありません。大きな鉄の棒の先の尖ったやつ――大きな錐(きり)のようなものです。それを上から下にして打ち込むので、これは大きな鉄の錐ですから、これなら岩も砕けるでしょうが、竹ではとても砕けない。鉄と竹とは違いますが、とにかく上から打ち込んで行くという掘り方、これは五郎右衛門が始めたというのがよさそうであります。
五郎右衛門と同時に、南茅場町に八兵衛というものがありまして、これも五郎右衛門と同じ方法で掘抜をこしらえた。それですからずんずんと掘抜井戸がふえて参りまして、享保十九年のころには本所の方まで掘抜井戸ができて、水に不自由しないようになったということです。『洞房古鑑』にある「モミヌキ井戸」というのも、五郎右衛門の竹を青へナの中へ押し込むやつではないかと思います。後のように足場をかけて、万力で大きな鉄錐を上下するのではなく、竹管を揉み込むようにするから「モミヌキ」という言葉が出たんじゃないかと思う。
幕府は享保十八年(1733年)十二月九日、布令を出して、井戸掘代金は年賦請負にしていい、といって願い出たものがあるから、望の者はそれと相談するがいい、という御触を出している。これは鑿井の奨励で、当時水道を減じて居りますし、防火制度をこしらえておりますから、いずれにしても井戸を多くこしらえる心構えがあったことが見受けられます。
そういうわけで、享保度には井戸がだんだん増えて参りましたけれども、当代には井戸屋というものはなかったようです。五郎右衛門の家は数代続いた井戸掘りだといいますから、享保以前からあったに違いありませんが、享保度までの書類には、井戸掘りという名称はありません。土方の一部の作業としておったものだろうと思われます。馬文耕が宝暦六年に書いた『宝丙密が秘とつ』[26]の中に、以下のようなことがあります。
- 上野広小路金沢丹後、願に付き、堀井戸おおせつけられましたこと
- 江戸金吹町 金沢丹後という菓子屋、近年ことのほか繁昌して、日本橋にも大きな店を持ち、上野広小路にも出店がある。いずれも女の兄弟で、聟を取ってその家を分けた。みな商売繁栄して、やんごとない有り様である。上野広小路金沢、菓子餅などを製するが、上野あたりは水がはなはだ不自由である。この近辺、御徒組屋敷、神田数馬組、三枚橋きわ、御徒の地借、本何弥阿某の持井戸が、近辺で名水と唱えて、人々がこれを貰い、汲んで使っていた。堀貫井であって、わき出ることは泉である。これによって惜しまず人に汲ませた。人々は相応に謝礼して、これを汲んだ。かの金沢丹後の方からも毎日、本阿弥の井戸から大勢で水を汲ませ、饅頭・餅菓子などを製したために、おびただしい水も入り用で、みなその井戸から汲み取った。そのため、五節句そのほか寒暑の付け届けは莫大で、よろしく例を尽くしていたが、どうしたことか本阿弥と金沢の間が過失となって、金沢の水汲みを門を留めて入れず、水一滴もくれず、金沢は大いに難儀していろいろ詫びたが得心しなかった。これによって丹後の方で何とかして手前で井戸を掘りたいと願ったけれども、手前には土地もなく、私に致し方もないので、いろいろ公辺へ手入れをした。小田原町大和屋助五郎はその次女を仔細あって堀田相模守のところへ奉公に出し置いていたので、この縁をもって内証から金沢井戸を御免下されますようにといろいろと申し上げた。町奉行様へもお聞きあわせがありましたが、その例なきところであるため、願が叶うともみえなかった。しかし、今度、仁王門ができたことにつき願を出し、もし出火した場合に仁王門御防の水がご用心のためにもなりますため、井戸御免下さるべし、と手前入り用をもって掘らせたいことの理由を願い置いていた。ものも願いようによって、成りがたきことでも成就するものである。たちどころに願いのとおりおおせつけられ、即時に道奉行・小長谷喜太郞が見分を相済ませ、五月七日に願いのとおり申しつけられた。その翌八日から数百人をかけて井戸を掘らせようとしたところ、五月八日は上野厳有院様の御霊屋へ公方様が御成につき、その翌九日より井戸堀に大勢がかかって、丹後店先前へ井戸を普請し、今は思うままにできたとかいう。ことしのものがたりの花ともなれば、ここにしるすだけである。
享保の時期にずいぶんたくさん井戸ができたようですが、まだなかなか足りない。『宝丙密か秘とつ』が書かれたのは宝暦六年(1756年)のことでありますが、このころでも井戸が少ないから貰い水をする。貰い水のために多分の礼をしたらしいことが書いてあります。この井戸は明治三十六年(1903年)まであった井戸ですが、ちょうどこのころに筋違外の内田屋の井戸ができた。今の松住町のところで、これも電車開通のために、金沢の井戸とともに潰してしまいました。内田屋の井戸については、『無名随筆』[27]の中に次のようなことが書いてあります。
- 内田屋の井戸
- 菅貞明翁の筆記に、昌平橋外内田屋本家の井戸は寛政九巳年、新規掘り立てたもので、たいへんむずかしい井であったが、入用を多くかけ、人々が精力を尽して成就したという。右は本所菊川町の井戸屋伝九郎(でく市という。伝九郎ということである)
請負で、掘方は同所浅次郎といって、井戸堀の方では名の聞えたものである。この井戸、最初は金高百両のつもりで請負取り掛かったところ、思いのほか水脈が遠くて悪水だけが湧き出すため、毎日おびただしい人数をかけ、いろいろな仕方でおこなって、数月の間掘り立てたが埒が明かず、追々諸入り用が多くかかり、後には人足そのほかへの諸払いも差し支えたため、請負人が難儀し、所詮、先の金高ではこの井戸ができるのは難しいことを内田屋へ相談したところ、主人も眉をひそめ、このことはどうすればいいだろうかと、一同評議に及んだ。支配人なにがしが申すには、「百両の金子は無益になり、以上の始末でありますからこの上どれほど入り用がかかったとしても成就することは覚束ない。大金を費やし、心労することは必要ないため、これ限りでやめるべきである」という。次の番頭某が申すには、「これまでしかかったことをこのままうち捨てることは残念ではないでしょうか。なすべきだけの手段を尽くして、それでも成就しなければ仕方ないですが、金がかかるのをいやがって中途でやめたと言われるのは、家名の恥辱ともなるでしょう。たくさん入り用でありましても、職方はじめ人足たちの潤いにもなりますから、これは施しの筋合いで、無益の損失というわけではありません。なおまた取り掛からせるべきです」と言った。評議はこれで決まって、再度掘りかかった。この番頭は大相模の不動尊に願掛けに行き、請負人伝九郎は成田の不動尊へ参り、断食して心願をこめ、跡は掘り方の浅次郎が引き受け、これも亀戸の妙義権現を祈念して精を出して掘り立てた。すると取り掛かってから六日目にいたって出家が一人来て、井戸をつくづくと見て、「この掘り方ではなかなか成就しないでしょう」という。浅次郎はこれを聞いて、「ではどうすればいいだろうか。ねがわくば教えてください」と言った。その僧が申すには、「長い棒をこしらえ、その先へあほりというものをつけ、高いやぐらの上から突き立て、井の底にある砂をだんだん掻い出すときは成就うたがいない」と教えた。浅次郎は大いに喜び、伝九郎が留守中だがこの道具をこしらえた。あはりは桶で、厚い木で作り、桶底に別に厚い木を用い、これをもって井の底を突き、砂を掻い出すことを試みた。するとたちまちの間に桶がこわれて長く保つのが難しかったので、これではうまくいかないということで、そこから鍛冶屋に誂えて、鉄でその道具をこしらえた。これを用いて試みたところ、至極よろしかったので、だんだん砂をかきだして、事故なく成就した。そのため主人始め一同は喜んで、人の精力により末代までの宝を得たといって、その番頭をはじめ、井戸方のものどもを厚く賞し、にぎやかにお祝いをした。仕上げまでの金高は全部で750両かかったという。はじめのうちはこの井戸は水を吹き上げて、内田屋の方は地面が高いため大道へ流れ出たため、溝を掘って川へ落としていたが、後には水勢もよわくなって、始めのようには吹き上げなくなった。先の浅次郎はこのときのことを絵にかかせて妙義の社へ奉納した。その額は今もあるという。
これは寛政九年に掘った井戸でありまして、本所菊川町の井戸屋伝九郎が諸負って捕つた。百両の約束であつたのが七百五十両かかった、と書いてある。このくらい金をかけた井戸は、江戸にも少なかったらしい。内田屋でも神信心をして、いい水が出るやうに祈ったということが書いてある。この時分は掘り方もだいぶん変わっておりますけれども、それでもいい水を得ることはなかなか容易でない。また、井戸掘りについてもいろいろ工夫したことは、この本文を見ればよくわかりますが、享保から宝暦、宝暦から寛政と、多くの年数を経ても、鑿井の困難だったことは、この記事によって十分伺うことができると思います。内田屋の井戸については、『明寛秘録』[28]の寛政二年のところに、夏から秋までかかって掘った。いい水が出たから、だれもかれもこの水を汲むようにというので、みんなにこれを汲ませた。本来、ここは掘り抜きにはならない場所であったのに、入り用構わず手間をかけて、ついに掘り抜きにしていい水を得たということが書いてあります。『無名随筆』の方と付け合わせると、寛政九年と寛政二年のどちらがいいかわかりませんが、内田屋がたいへん金をかけて井戸を掘ったことは確かであります。内田屋のみならず、商家で井戸をこしらえるときは、いつも店頭に掘る。これは、自分の家だけで使わずに、人にも使わせる意味から、こういう癖がついたので、いい水が少ないから、いい井戸を誰にも使わせるということは、大変な公益でありましたために、わざわざ店先へ掘らせたものであります。
こういう風にだんだん年を経るに従って、井戸を捕ることが盛んになって来たのでありますが、松浦静山侯の『甲子夜話』[29]を見ますと、「自分の幼少のころには掘抜井戸が少なかったが、中年より少し前のころから掘抜がはじまり、今では江戸中一般のことになって、どこにも掘抜の無いところはない」ということを書いておられます。静山侯は天保二年(1831年)六月に八十二で逝去されたお方ですから、幼年のころというのは安永・天明(1772~1789)、中年といえば寛政(1789年~1801年)ごろになりましょう。そうすると享保度(1716年~1736年)がなかなか鑿井の盛んな時だったようですが、また寛政度になって、ひとさかり鑿井が盛んになったことが知れます。
文化十一年に書いた『塵塚談』[30]を見ますと、こういうことが書いてある。掘抜井戸というものは先年からあったが、武家には一向にない。掘抜井戸を掘るには二百両もかかることであるから、大きな商人でもなければ捕らせることができない。だからあそこに一つ、ここに一つというほどで、ようやく探しあてるくらいのものだった。ところが、二、三十年前から大阪の井戸掘が来て「あふり」とかいう道具で無造作に井戸を作ることをおぼえてから、堀井戸の入用というものが大変少なくなっている。自分が知っている極楽水――これは小石川です――豆腐屋では、井戸側とも三両二分でできた。その向こうに「みつまた」という湯屋があって、これは最初に掘らせたから二十両ほどもかかった。そのせいであるかも知れないが、近辺で一番いい水になっている。近頃は江戸中で掘抜井戸が多くなって、一町内に三か所も四か所もあるようになったということが書いてある。二百両もかかるのだから武家にはない、大商人でなければない、というのはどうにも情けない話で、武家の資力の乏しかったこともよくわかります。
寛政頃の大名のことを集めて書きました『近世諸家美談』[31]というものの中に「大名に有ってよいものは、よい家老、駿馬、渡り小姓、掘ぬき井戸、達者な右筆」ということがあります。昔は二百両も入用がかかるために、欲しいものではあっても、大名でも掘抜井戸を自由に掘らせることはできないから、大きな屋敷でもわずかに三か所、四か所というほどしかない。竹姫様御入輿の時、薩州では水道を邸内に引き込むことを条件にして、幕府の許可を得ている、というようなこともあった。ところが二、三十年といえば天明度のことですが、大阪から井戸掘りが来て以来、大変安くなった。来た当座に二十両ほどであったものが、しばらくたつと井戸側とも三両二分でできる、という風になった。それはどういうことかというと、「あふり」という道具を使うようになったからで、「あふり」のことは内田屋の話の中にも書いてあります。この掘り方は俗に「上方ぼり」といっておりましたが、これがはじまった頃は、なかなか井戸が多くできた。一九の黄表紙にも『時花抜塹新』[32]というのができております。
『続青本年表』[33]には、江戸に掘抜はなかったが、天明の末にこの職人が来て掘りはじめた、と書いてある。一体、機械を使って掘抜をするということは、幕府の御大工棟梁の溝口内匠の考察だといっておりますが、大阪から井戸掘りが来て始めたのだともいわれております。そこで「あふり」というのはどういうものであるかといいますと、その様子は文政七年版の『如月稲荷祭』[34]の本文に詳しく書いてあります。
- 掘抜をほりますには、最初ワクをいれまして、下へ掘りさげます。そのときは、とかく中水が一夜のうちにたまります。それゆえに朝ごとに玄蕃で水をかえます。そのとき、職人のうちで主だった者が、綱楫ということをいたします。大勢に網をひかせまして、そのもとをおさえておりまして、水をかい出します。下にも人が入っておりまして、水を玄蕃へくみ入れます。右の玄蕃を下へやりますときに、「まーいるは桶よ」と呼びまして、下で玄蕃へ水をいっぱい入れますと、引く人のほうへむかいまして「ひーだーりしよ」と言います。まず、それはさておき、掘抜といいますものは、もうしますものは一ばんしまいに錐を入れまして、岩を抜きます。さようにいたしますと、水を吹き出します。
この掘り方は私の幼年のころまであったので、私もよくおぼえております。この掘り方によって井戸を掘った様子は『我衣』[35]の文化十二年の条にも出ております。松平讃岐守殿の屋敷――これは讃州高松の殿様で、今の松平頼寿伯の御家ですが、この屋敷は御茶ノ水の上の方にありました。そこへ掘抜井戸を掘って、いよいよ今日錐を入れて水が吹き出すということになったとき、その水筋へ突き当てるというと、恐ろしい水勢で、たいそう高く湧出した。皆がびっくりするほどだったと書いてあります。この錐を入れるために足場をこしらえるので、寛政十一年版の『仲街艶談』[36]という酒落本に「その高慢のはなは掘抜の足代よりも高く」と書いてある。これはずいぶん高くこしらえるもので、その高いところまで万力で引き上げておいて、下へドンと錐を下す。また引き上げてはドンと下す。この様を書いたものは、文化十二年版の『堀の内奇談馬方蕎麦』[37]に、
- おりよをほりぬきのやりだとおもふさうだ、
- 「なぜぢやへ」あげたりさげたり。
- おりよ(という女)を、掘抜の錐だと思っているそうだ。
- なぜだい?
- 上げたり下げたり(褒めたり、けなしたり)する。
と書いてあります。これは足代に高くこしらえて、万力で鉄の太い錐を引き上げてはドンと落とし、また引き上げてはドンと落とします。こんなことによって、その状況はよく見えます。
大阪掘りの入って来たのは天明度のことで、それがひろがって、寛政度には堀抜井戸がたくさんになった。享和元年に書いた『黒甜鎖語』の中に、近ごろ江戸では掘抜井戸というものをこしらえはじめた。先頃まで千両で請負ったといい、五百両でもできると聞いていたが、寛政八年の夏、佐竹の三味線堀の屋敷で掘抜井戸をこしらえたら百両で出来た。浅草の中屋敷に二ところ掘ったのは、五十両ずつでできた。これまで秋田から江戸へ出て勤番をつとめる藩中の者は、どうも腫腸満や痳疾のような病気をおこしたが、それは水の悪いためにおこる病気と見えて、掘抜井戸ができてから、それらの病がなくなった、と書いてある。けれども、殿様に差し上げるには、上野の元光院の水を汲んでくる。この元光院から汲んでくる水と、今度の掘抜の水とを秤にかけて比べてみたところ、掘抜の方は三島茶碗に一杯が二分軽かった。それほど今度の掘抜の方がいい水だ、といってある。この殿様の飲料水ということについては、掘抜がだんだんできるようになっても、なかなか吟味されたものでありまして、お茶の水――この名称の起こりは、聖堂のところに名水がありまして、将軍家のお茶の水に汲用されたからであります。これは慶長九年に元神田からここへ転じてまいりました高林寺の境内の井戸で、この寺は明暦三年の火事の後は駒込へ移りました。渠の名井は万治の神田川堀割の時に、水際へわずかに形跡を残しましたが、享保の河身政修でまったく水底に没してしまいました。その後に、昌平橋外の加賀原にあつた加賀の井、また本願寺の井とも申しました。これはは慶長年間に本願寺があったところだといいます。すなわち神田の旅籠町三丁目の汁粉屋の裏に、御膳水というのがあって、これが江戸中で一番いい水ということであった。維新前は将軍の飲料水はこの井戸から汲んでいた。このかたわらに茗荷屋という家があって、阿部様の小買物をするのを内職にしていましたが、本職はその井戸の番をするので、それで生計を立てていたのです。
水の吟味がだんだん詳しくなり、水道よりいい水が鑿井から出てくるので、それを吟味して、将軍のみならず諸大名もそれを飲む。また一般から見ましても、『寛天見聞記』[38]にある通り、寛政度には川上不白によって抹茶が広まりましたが、さらに享和ごろから煎茶が大変流行ってまいりまして、お客を呼んでお茶を幾通りも出す。そうしてそのお茶の銘と水の出所――これは玉川、これは隅田川、これはどこの井戸の水、ということを言い当てるのを賞美した。やはり享和時分のことですが、八百善へ茶漬けを食いに行ったら、一日待たせられた。茶漬けの茶を入れるために、多摩川まで水を汲みにやったので、それで手間取ったのだというような話もある。そういう風に水の吟味ということが盛んになって来ました。その時は井戸の掘賃がますます安くなってまいりましたので、化政度になってはいよいよ掘抜井戸が多くなってきた。享保度、寛政度、化政度と幾度かに区切って見れば、そのたびごとに井戸の数が増えてまいりました。しかしながら、江戸の土地柄としては、いつも水が十分とはいえません。水道は無論、神田、玉川の両上水があるのですが、『我衣』の文化十四年五月の条を見ると、十五日頃からひどい暑さになってきて、すっかりひでり模様になった。雨が一粒も降らず、日に日に照りまさってまいりましたから、その月の二十三、四日の頃には、町々が水ぎれになった。下町あたりでは一荷百文から百十二文位で水を買うようになった。この水屋というものは、主に下町におりまして、天秤棒の両端へ網長い桶をつけて、それをかついで一荷いくらというわけで、それを売る。町の小娘などは門に出て、「水屋さん、一杯入れてください」といって呼び込んだものです。そういう風は明治十何年頃までも続いておって、一荷一銭でしたか、二銭でしたか、中には片荷でいいといって、桶一つだけ入れてもらったこともあったようであります。水を売るということは、他の地方には珍しいことですが、江戸では古くからあったことと見えて、享保二十年(1735年)版の『渡世身持談義』[39]に、「江戸へ下り、しばらく水売りしていたが」と書いてある。享保ごろからあったと見えます。明治になっても町々の間を水屋が歩く。これはいい井戸を見つけて、そこと約束してあって、その水を売ったのですが、本郷本町の水道橋北詰の西側、そこにもとの上水の排水がありましたので、そこにはたいへん水売りが集まっていて、そこから水を取ってかついで売る。私も子供の時分に、その様子を見たことがある。『江戸名所図会』などにも書いてあります。
これは後の話ですが、文政度にこしらえた『京江戸自慢くらべ』[40]の中にも、
- 江戸:極楽というべき国はお江戸である。
- 京:水がきれると眼前の餓鬼。
と書いてある。これは前に述べた水ぎれの場合に、一荷百文から百十二文もするというような、水の飢饉が来ることを言ったものであります。京都の者はしきりに水の自慢をする。江戸の者は水道の自慢はするけれども、水の自慢はできない。水がいいのもないし、多くもない。だが水道という大裂裂なことがしてある、というのが自慢で、水が乏しくないとか、水がいいとかいうことは、江戸の人は言えなかった。『商人職人懐日記』などどでも、江戸のことを「第一は水がわるくて、土ぼこりがして、女房はすくない。植えこみを見ず、用事所の無双、ほんの一時であっても皮羽織、気がつまってならぬ」といって指摘しています。水の悪いことは、そんなところじゃない、もっと古くからの話で、『慶長見聞集』[41]にも、江戸の町の跡は大名町になってしまった――というのは丸の内のことですが、今の江戸の町場というものは、十二年前、江戸城修築の時に、海を埋めたところにあるので、町は豊かに繁昌するけれども、井戸の水に塩がさして、まことに迷惑すると書いてあります。
そういうわけでありますから、江戸では鑿井ということが、いろいろな方法によって奨励もされれば研究もされ、井戸を掘るいうことは、公益事業の一つとして行なわれましたが、いつになっても江戸の水は十分でなかった。そこで掘抜でない井戸でも雑水と称して、飲料水以外に便用していた。それは今から見れば、比較にならないほど低率な給水量であったにもかかわらず、江戸の市民は神田・玉川の両上水の給水によって、ともかくもしのげたというのは、掘抜によって飲料水の足し前をして、その他は雑水というのであり、掘り抜かない水でも何でも、あらゆる水を使ったからしのげたのであります。河川の少ないところでありますから、川水を自由に飲料水に足して行くことはむずかしい。両国川のようなのも塩入りでありますから、綾瀬川より向こうでなければ飲料水には使えません。やむを得ず多摩川の水を今日まで使ってきたわけですが、掘抜井戸のある者は、水質についていうと、玉川よりいい水がたしかにあった。その良い水の出る掘抜井戸をつぶし、雑水井戸もつぶして、すべてを上水に求める。東京は益々人口が増え、面積もひろがっていく。一年一年と申したいが、実は一月一月どころではない。一日一日と用水量が加増して行くという時に当たって、はなはだ乏しい上水の水を、洗濯にも使えば、大小便の流し水にも使う、というようなことをして参りましたならば、とても足りっこはない、不足するにきまった話であります。その不足を多摩川に求めて、両岸の農作物や住民の飲料水にまで影響させて、そうしてその水を水道によって東京へ運んで、湯に立てて入るくらいはおろかなこと、庭の噴水にして玩具にしている、というようなことをする。何の心あってそんなことをするのか。昔の人のしたことを考えてみますと、東京になりましても、鑿井ということはどうしても思い捨てることはできない。のみならず、上水を乱暴に消費するということも大いに慎まなければならぬことであると思う。倹約といえば、金銭のことだけしかないようにばかり思うほど、人間というものは考えなしなものであろうか。
この鑿井談は昭和六年中に述べたものでありますが、当時思い及ばなかった防空上の必要から、更に鑿井の急な実施を保進したことは、実に目覚しいことと存じます。
注釈
- ↑ 昭和九年(1934年)、柳瀬川浸食谷を活用して山口貯水池が完成した。現在は狭山湖の別称でも呼ばれる。
- ↑ 昭和二年(1927年)、村山貯水池が完成した。別称は多摩湖。
- ↑ 東京市は明治二十二年(1889年)に東京市が15区で設立された。その後、昭和七年(1932年)に、近隣地域を含めて35区に拡大した。これを大東京と呼ぶ。
- ↑ 小河内貯水池計画のこと。氷川村・古里村と小河内村は合併して西多摩郡奥多摩町となっている。太平洋戦争のために計画は延期され、戦後、昭和三十二年(1957年)に完成した。別名、奥多摩湖。
- ↑ 鑿井:地下水や石油などを採取するために井戸を掘ること。
- ↑ 『江戸自慢』:三田村鳶魚校閲の『未完随筆百種』第十四所収(三田村鳶魚 校 ほか『未刊随筆百種』第十四,米山堂,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション)。その解説を現代語訳すると、「紀州の付家老、水野土佐守の侍医・原田某が、在江戸中の見聞をもって、本国と比較して書いたものであるため、安政(1854年~1860年)以後の江戸のありさまが非常に詳しくわかる。おそらく、耳目に馴染まなかったために、見聞がみな新しく思われ、よく事物に聡明であることを得たのではないだろうか。西沢李叟の『皇都午睡』に比べて簡約・明晰であるところが優れている」。『皇都午睡』(こうとごすい、嘉永三年(1850年))の著者は大坂の戯作者・西沢一鳳(綺語堂李叟)である。
- ↑ 『伝術暗記空おぼへ』:明治十五年(1882年)。国書刊行会 編『新燕石十種』第一(国書刊行会、明治45)に収録されている。
- ↑ 小石川の極楽の井のあった場所は、現在、文京区小石川四丁目の小石川パークタワー内の「極楽水」として、弁財天が祭られている。
- ↑ 鮫河橋仲町は現在の新宿区南元町、ガーデンヒルズ四ツ谷迎賓の森付近。
- ↑ 松平摂津守下屋敷にあった「策(むち)の井」は、現在の西新宿一丁目六番地、新宿エルタワービル付近にあった。現在はモニュメントが作られている。
- ↑ 新宿区市谷船河原町九番地で、史跡に指定されている。『紫の一本』の牛込の堀兼の井に該当する。
- ↑ 片手桶
- ↑ 『武蔵野話』:斎藤鶴磯による。初編は文化十二年(1815年)、続編は文政十年(1827年)に出版された。
- ↑ 羽村駅すぐの五ノ神社に、「五ノ神まいまいず井戸」が残っている。地面にすり鉢状の大きな穴を掘り、その底から井戸を掘ったもの。
- ↑ 『雨窓閑話』:収録されている『日本随筆全集』第十九巻の解題を現代語訳すると、「著者未詳、嘉永四年(1851年)刊。本書は白河公松平定信の著という伝説があるが、文体から考えても妄説であることは明らかである。『常山紀談』『明良洪範』本集第十五巻に収めた『翁草』などの類書であり、元亀・天正ごろから、下って徳川時代初期の武士の逸話などで満たされている。」
- ↑ 白河楽翁。松平定信のこと。
- ↑ 『枝珊瑚珠』:江戸で著名な座敷咄の名手・鹿野武左衛門と浮世絵師の石川流宣らが集まって作った笑話集。地本問屋・相模屋太兵衛の刊。『噺本大系』第6巻に収録。
- ↑ 『近世事物考』:久松祐之撰。『近古文芸温知叢書』第12編に収録。「水風呂」の項を現代語訳すると、「昔、鎌倉時代より足利ころまでも、貴人を客に招いたときは、必ず風呂をたててもてなした。風呂と言えば海水である。たまたま井戸水を用いるのを水風呂という。行水もこれに同じ。今は据(すえ)風呂などと書く。」とある。
- ↑ 三富(さんとめ)は、上富・中富・下富で、三富新田があった。現在の川越市、所沢市、狭山市、ふじみ野市、三芳町の五市町にまたがる。
- ↑ 『御伽百物語』:『珍本全集』下(博文館、明治36)の解題を現代語訳すると、「白梅園鷺水の作。鷺水、姓は青木、歌仙堂と号する。別号を白梅園、また三省軒という。京都の人で、野々口田圃の門に入った。俳諧をよくし、文章に巧みである。才能は学問に優れ、世情にも通じていたので、その筋の著書がひじょうに多い。享保十八年(1733年)3月26日、病で亡くなった」とのことである。本文では巻之二の「桶町の譲の井」項の内容を要約している、
- ↑ 『江戸砂子』:俳人・菊岡沾涼の著、享保十七年(1732年)刊行の江戸地誌。『続江戸砂子』は同著者による享保二十年(1735年)の作である。この井戸の記載は、全編にわたる中から数え上げたものと思われる。
- ↑ 『江戸総鹿子』:元禄三年『増補江戸惣鹿子名所大全』のことと思われる。
- ↑ 『続五元集』:松尾芭蕉の高弟である俳人・榎本其角の発句集。『俳諧文庫』第4編の解題を現代語訳すると、「『五元集』および『五元集拾遺』は、晋子(=其角)の没後四十年目の延享四年(1747年)に、百万坊旨原(小栗旨原)がその遺稿を得て、世に出したもの、また『続五元集』は同じく旨原がそれより五年目の宝暦二年(1752年)に刊行したものである。」とある。
- ↑ 『吉原大雑書』:江戸吉原に関する初期のガイドブック。延宝三年(1675年)刊行、菱川師宣が絵を担当している。
- ↑ 『洞房古鑑』:新吉原の「天満屋」の抱え主、竹島仁左衛門春延が著した随筆・記録書。宝暦四年(1754年)ごろに成立。
- ↑ 『宝丙密秘登津』:講談師・馬文耕の著。文耕の著書は刊行なく、いずれも写本のみである。三田村鳶魚 校『未刊随筆百種』第十に収録されている。
- ↑ 『無名随筆』:詳細不明。
- ↑ 『明寛秘録』:詳細不明。『徳川理財会要 徳川三百年財政経済変遷史』に収められた「徳川理財会要 引用書目並参考書目」書目第六(p1223)に、佐藤忠三郎蔵書の一つとして「明寛秘録(一三)」と記されているが、それ以外の情報はない。
- ↑ 『甲子夜話』:肥前平戸の松浦静山が文政四年(1821年)~天保十二年(1841年)にわたって書き記した随筆集。
- ↑ 『塵塚談』:ちりづかだん。『近古文芸温知叢書』第9編に収録されている。その解題を日本語訳すると、「この本は小川顕道が著す。顕道は又右衛門と称し、代々小石川養生所の肝煎で二十口俸を給う。その祖父笙船は小石川に住む町医であったが、享保中に施薬院を設けるべきであると幕府に建言し、それが採用され、小石川に養生所を建てられたため、笙船が肝煎を命ぜられ、それ以降世襲となった。顕道はもと医者であるが、読書を非常に解し、幼いときから閲歴したところ、世事の変遷と風俗の異同を記して伝えた」とある。下巻に「掘抜井戸の事」が記されている。
- ↑ 『近世諸家美談』:詳細不明。
- ↑ 『時花抜塹新』:詳細不明
- ↑ 『続青本年表』:詳細不明
- ↑ 『如月稲荷祭』:詳細不明
- ↑ 『我衣』:[1]所収の解題によれば、「この書は曳尾庵の撰である。曳尾庵は文化のころ、府下四谷に住んでいた医師で、傍ら俳諧をたしなみ、号を召水または南竹というと聞くが、その氏名・通称とも詳らかではない。ましてやその事蹟についてはまったくわからない。ただその人が筆記した日記二十巻ばかりある。編者はかつてそのごく一部のみ残っている残部を見たが、上は官令から下は日常家事に至るまで、項目を並べて記載し、その間に自ら見聞したこと、田舎の新しいこと、あるいは古老の昔話、または写本中の異聞などを載せたものであった。おそらく、このままでは速読するのに不便なため、後人がその全書について、都下の風俗人事、事物の相違についての記事を選んで一篇とした。今、世に流布している単冊のものがこれである」とある。ただし、本文に「文化十二年の条」は見当たらない。
- ↑ 『仲街艶談』:『江戸時代文芸資料』第1の解題によれば、「本書は小春・治兵衛の情事に擬して、深川仲町遊里の光景から、子供と遊客とのたくらみを描いたものである。寛政十一年の版本であるが、著者・戯家山人はだれの匿名か未詳である。」とのこと。本文に引用された部分は、その序文に見える。
- ↑ 『堀の内奇談馬方蕎麦』:正式名は『堀の内滑稽馬方蕎麦』。著者は瓢箪園一寸法師(西来居/未仏)。葛飾の町人・権兵衛と吉が、3月13日の縁日に合わせ、妙法寺へ参詣する際の珍道中を描いた人情本。
- ↑ 『寛天見聞記』:『燕石十種』第3に所収。その解題によれば、「著者名不詳。天保年間、水野越前守の改革に逢った人が、寛政から天保に至るまでの世の中のようすの変遷を目撃し、贅沢が増えていることを嘆いて書簡を記したものである」とのこと。
- ↑ 『渡世身持談義』:享保二十年(1735年)刊、江島其磧著。五巻五冊。
- ↑ 『京江戸自慢くらべ』:『文政雑説集』に記されている。『未刊随筆百種』第十九の解題によれば、「文化二年から文政三年に至る間の落書を集めた。採択にはわずかな志があるようだ。女見立寄魚之句は時の習俗を明らかに露呈させ、京・江戸自慢はいかに得意であったかを示している。また水野出羽守の当時に天明の時期の落書を追記したのは、田沼氏を踏襲したその成績の最後を揶揄したものであろうか。家斉擁立の魂胆もまた面白い。収録は多くはないものの、文章の練り方がよく、一つ一つ興味を引かれるので、よんでも乏しくは思えない。」とある。京江戸自慢くらべでは「江戸:極楽といふべき国は御江戸也/京:水がきれると眼前のがき」という一節がある。
- ↑ 『慶長見聞集』:三浦浄心 著。北条家に関する事柄や、その当時の見聞を記したものとされる。
| 玉川上水の建設者 安松金右衛門 |
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