玉川上水の建設者 安松金右衛門/12

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三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』(電通出版部 昭和十七年(1942年))の現代語訳 第十二章

(現代語訳:シラキのコホリのツカサ

その十二 玉川上水の記事

玉川上水についての記述は、いろいろあるようですが、江戸会誌第二冊第十一号(明治二十四年十一月二十六日発行)の「上水渠鑿通」記事がいずれよりも簡明でよろしいと思います。よってここへ付載して、本文とともにご覧を願うことにしたい。[1]

玉川上水は府下三上水の第一である。その源水は多摩郡羽村に於いて多摩川をせき止め、
『上水在絶略記』(『御府内上水在絶略記』)にいう。水元・羽村の川幅は6町あまり。一円の井堰をもって江戸の方へ水を堰く。これを羽衣の堰といい、また時雨の堰ともいう。『上水記』を考えると、水神川の下に一つの水閘を設け、石籠(じゃかご)で多摩川の全流を堰き止めて水門に流れ入る。これを大堰通という。大小の投渡[2]および筏通場がある。水門が二つある。一つの水門内は請枠(うけわく)を据え、大小の吐口がある。二つめの水門はその水量を調べる。玉川と上水渠との間に堤防を築き、委蛇(曲がりくねって)福生村に達する。これを堤通という。春秋の水漲の際は、一、二の水門を閉鎖し、大小の投渡を払い去り、水路を開放して漲勢をそぐ。その堰上は常に沙・礫を払い、水流を渠口に導くようにし、堰の下は一、二の出し籠および棒類を置いて、堤防の水害に備える。詳しいことは図を見ること(図は省略)。
また考えるに、玉川の本源は『上水記』・『多摩川考』・『調布玉川総図』(『調布玉川惣図』)などに見えるが、去る明治十一年(1878年)八月、東京府において土木課の吏員・山城祐之を派遣し、その本源を採究させたところ、甲州山梨郡神金村に一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬の流れがある。その一ノ瀬と称するものは、水源が最も遠く、流域が特に広いので、これがその水源であることは疑いようもない。しかしなお、その本源を究めれば、一ノ瀬から西北五十町ばかりのところに、角力取という一つの高山がある。その山間、字水干[3]というところに大きな花崗石があって、その下から一つの泉が湧出しているものがある。これを玉川の最も正しい本源とする。清冽さは比べようもなく、冷たさは氷のようである。その地は東に御岳山を望み、南に富士山・大菩薩峠を望む。羽村からここに至って、まとめると20余里あるという。詳しいことは『玉川水源巡検記』(『武蔵国玉川泉源巡検記』)一巻がある。
その水を分派して、これを導くこと10里30町46間(当時は13里と言った)にして、四谷区の西辺に達する。
昔は羽村より東北一里ばかり、箱根ヶ崎村、狭山の池から出る一条の助水があったが、元禄のころから水が涸れて流れなくなった。しかし、秋漲に際し、羽村の水門を閉鎖するに当たっては、この川に集まり落ちる水潦が上水に入って一路の助水となるとのこと。
そして大木戸の左にある水門から鉄管に入り、大路を経て麹町十二丁目に至り、二つの支管を分けて、麹町区に入り、東は皇城から大手町まで、北は番町・富士見町・飯田町、南は平河町・永田町の辺に及ぶ。その本管は四谷伝馬町一丁目から、南に転じて紀伊国坂を下り、赤坂表町の北から、溜池の東を過ぎ、虎ノ門に至る。これからいよいよ分かれていよいよ遠く、その末は千条万派して、南は西の久保、芝公園、金杉以北。東は築地、霊岸島、南新堀以西、八町堀、楓川を限り、北は京橋川以南、西は内桜田、永楽町以南、どの町も通流しないところはなく、どの家も日常の飲料はもちろん、その余りは池泉となり、跳水となり、防火の井となるなど、利用は極めて広い。水質もまた清冷で、いささかも混雑物が見えないという。近ごろ、麻布水道を設けて、大木戸の内から分派し、千駄ヶ谷・青山を経て、赤坂・麻布に通じる。去る(明治)十三年(1880年)の新設である。これまた府下、上水の内に合併された。今、樋管の延長を総計すれば、およそ4万9952間(呼樋(よびどい)はこの外である。ただし、二十一年(1888年)の調査による。以下同じ)。井の数は3000ある。右、上水の支配、設立のころはわからない。万治のころ(1658年~1661年)は上水奉行を置かれた。寛文十年(1660年)に町年寄 奈良屋・喜多村両人の支配となった(玉川庄右衛門・清右衛門は町年寄に差添支配される)。元禄六年(1693年)には上水改となって、道中奉行から兼ねた。元文四年(1739年)には町奉行に属する。
この年、玉川庄右衛門、水役取り放し、再度町年寄取扱となる。ただし水源はそれ以前から代官支配であった。
明和五年(1768年)以降は普請奉行に属した(はじめは目付・勘定吟味役が立ち合ったが、文化八年(1811年)に立ち会いを停められた)。文久二年(1862年)には作事奉行に帰す。維新(1868年)の後は一旦東京府所管となった。二年(1869年)3月に会計官・民部省を経て、四年(1871年)5月以降はまた東京府に属した。その経費は、幕府の時のいわゆる高割をもって水銀を課出した。
古来の定例で武家は百万石あたりをもって計算し、町方は小間2間を100石と計算する。元文四年(1739年)は玉川のみおよそ金467両あまり。寛政二年(1790年)は玉川・神田を合わせて、武家の分、銀5貫497匁あまり、町方の分、銀2貫413匁あまり。ただし毎年多少の増減あり。(享保撰要録、上水記)
維新の後は一時官費をもって支弁し、五年(1872年)8月からは旧町会所金(今の区部共有金、およそ10万4473円を支出する)をもって支弁したが、六年(1873年)には水賦金の法を設けて、聞小間(ききこま)に割合課出し、八年(1875年)以降はこれを改めて引取井の数に賦課した。去る明治二十一年(1887年)の賦額はおよそ2万3527円あまりである。これはその概略である。(『上水記』、『東京水道史』、二十一年『東京府統計書』)
そもそも、この上水の起立について『上水記』にこうある。明和五子年(1768年)御普請方へ町奉行から請取るときの古い書留によれば、承応元壬辰年(1652年)までは、御城内ならびに御城下、上下水なく、下々では所々の水溜まり・溜池などの水をくみ、樋で仕掛け、取用いて不自由であったので(私見では、赤坂溜池に限らず、ただ水溜まりの池もあっただろう。そうすれば井の頭の池もこの文明にわたるであろうか)、上水道になるべき道筋について、町奉行神尾備前守のお尋ねによって、玉川庄右衛門・清右衛門というもの、両人の父がところどころ求めたところ、武州羽村というところから玉川の水を江戸間で道のり13里を考えた。
一説に松平伊豆守の臣なにがしが考えたところである。これによって野火留分水口は格別の堀割であって、古い言い方で伊豆殿堀という。いにしえ伊豆守の家、郡方役人・安松金右衛門の工夫で主人へ申し立て、吟味の上、野火留上水ができた云々という。考えるに、このことは、詳しく明良洪範『老談一言記』などに見える。野火留の水口千二百坪(今は641坪)を引き取ったのを見れば、同所から上流は豆州の開鑿なのかもしれない。
御用水になるべき旨、絵図書付をもって評定所に申し出たことにより、御老中 阿部豊後守・松平伊豆守、寺社奉行 安藤右京亮・松平出雲守・神尾備前守、町奉行 石谷将監・牧野織部・八木勘十郎、御勘定奉行 曽根源右衛門・伊丹蔵人・伊奈半右衛門など(庄右衛門・清右衛門書付の趣旨にて記した。御役名などはあえて正さずにおいている)絵図書付の書面これを一覧し、すなわち見分として牧野織部・八木勘十郎・伊奈半十郎、上水道通り、庄右衛門・清右衛門を案内として道筋6日の東流にて見分を済ませ、江戸へ帰参した。
考えるに、拝島村農孫右衛門蔵文書に、「玉川から江戸へ取っております水道の両脇を見分して御用となし、伊奈半左・野村彦太・今井九右の手代一人ずつ、ならびに江戸町の年寄を一人、彼の地へ差し向けることにいたしました。そこで、その方も手付を一人出すよう申し出てください。日限につきましては、来月五日の四ツ前に高井土まで集まり、相談なさいますよう申しつけてください。委細は伊奈半左の手代が申します。自然の大雨が降りましたら延期、翌日にまかり出るのがもっともです。以上。二月二十五日 菅源左衛門、石将監、神備前守、松出雲守、設楽権兵衛様」とある。年号はないが、当時の文書であろう。設楽は正保以来の代官である。
同年十一月二十五日、評定所で上水道場普請に取り掛かること、両人へ申し渡し、翌巳年四月から堀り初め、同年十一月十五日まで、四谷大木戸まで堀り渡す。玉川から水を仕掛けるべしとの指示で、羽村大川にて堰を仕立て、水を仕懸けるところ、滞りなく四谷大吐まで水仕懸けてきた。それから虎御門前まで、残らず掘り立て、十分に水が来て、その後は追々分水があって、諸方上水を取り用いるということである。
考えるに、本文はまったく庄右衛門などの書上によるものである。嚴有院殿実紀には「承応二年正月十三日、麹町区芝口の市人ら、八王子玉川の水を府内に引くことをはかって訴え出たのを許され、費用として金7500両を給う」とあって、少し異なっている。
御府内備考にいう。承応記に、三年(1654年)、玉川の流水、日本橋から南は水道を用いるべしと仰せ出されたという。また、寛文年録を引用していう。十年庚戌(1670年)5月25日、玉川水道は狭いため、三間広くいたし、両方の土手に植木を仕るべき旨、御歩行目付 藤井善右衛門・江守伝左衛門、両人を奉行として仰せつけられるとの旨、老中これを伝達し、水道は今後町年寄支配を仕るべき旨、老中がこれを伝達すると。その後、元文五年(1740年)に福生村へ水路310間を掘り替えたとのこと、享保撰要集に載っている。
考えるに、竹橋余筆に載っている寛文九年(1669年)の文書に、拝島というところに逗留仕り、玉川から用水分け口、方々見立て、両所の水盛仕りましたところ、小作(考えるに、羽村の小字に「ヲサク」というところがある)と申すところから水盛りが出て、一里半ほど下で、野地から二尺ほど水高くまいりますつもりでございます。ここへ新堀仕ることができましたら、おおかた野中へ残らず用水掛り申すべしと存じ奉ります。またいいます。上水分け口と、このたび、見立て申しました水分け口、高下水盛いたしましたところに、四丈ほど水高いところにて分けますつもりで堀筋の杭を打たせます。上水から四丈ほど水高くまいりますので、どちらへどのように水を取るといいましても自由であると存じ奉ります」とある。すなわち、本文年録に見えるのと同時のことであって、そのころ盛んに武蔵野開墾があった。
維新の後も堤防以下、改修を加えたものも少なくない。その最大であるものは第二の水門を石造とし、羽村の官舎(旧時は陣屋があって、作事方の小吏が在留していた。維新の後は東京府の吏員の出張がある)から八王子電信分局へ伝話器を通じて、日々推量の進退を報じ、府内にある樋管は3880余間を展長し(十四年の調)、また伏管は潜樋(川底を通ずるもの)を鉄管に改修し、呼樋も引用者の申請によって、鉄管を用いられる、などである。
考えるに、玉川庄右衛門・清右衛門の事蹟を考えるに、おそらくは多摩川の近辺の農人である。『御府内備考』に、承応元年壬辰(1652年)、神尾備前守に命ぜられ、多摩川の百姓らを召して(原註に、庄右衛門・清右衛門という)とある。庄右衛門あるいは正右衛門に作るのは訛りである。また、両人を兄弟としたり、従兄弟としたりするものがあるが、ともに明らかな根拠はない。
承応元年(1652年)に町奉行 神尾元勝(備前守)の指図を得て、玉川上水を府内に引いたとき、その費用6000両を賜ったが、右は高井戸の辺で払い尽くしたため、これに継ぐに私費3000余両をもってし、
『上水在絶略記』には、はじめ6000両を給わり、自分の入り用1000両を出して、四谷大木戸まで堀割りしたとき、また2000両を給わるとある。御実紀のことはすでに上に註記した。
「文」第二冊第四号に、阿部弘蔵氏の「玉川上水の工事」と題した一篇を載せている[4]。その中にいう、このころは測量の術がいまだ開けず、量地の器などなかったため、清右衛門兄弟がこの水路の高低を量るには、もっぱら夜に作業をした。役夫に、ほど近いところには線香の火を持たせ、遠いところには提灯を持たせて、かなたへ行かせ、その火の光の見えない場所まで、前に測った場所を基準として尺を当て、ここはあそこから何尺何寸何分高く、このところはあそこから何尺何分低く、この地はあの地より何十尺、左の方により、あのところは何百尺、右の方に傾いている、ということを明らかにし、再三測り、試みて、始めて水路となすべき一つの線を見出し、これを上水の渠と定めたという。とある。実に異聞であるため、ここに付録する。
翌年に至って、虎ノ門外まで、水道が完全に開通したので、すなわちその功を賞して、玉川をその姓とし、かつ切米二百石分を金子にて給わって、上水役を命ぜられたが、その後、給知は水役銀に改められたとのこと(享保撰要集、庄右衛門・清右衛門書上。書上そのほかにも、虎ノ門外までのことが見えて、町々へ引き用いた工費のことは絶えて見えない。ゆえに、ある人がいう、これはおそらくは、それ以前に溜池の水を引いていた古い樋があって、これを用いたのであろうと。あるいはこういうこともあろう)。ある人がいうには、庄右衛門らの開鑿はもっぱら上水の用のみならず、かたわら武蔵野を開墾してその灌漑に供すべきためであったのだろう。開墾人の内に玉川次左衛門というものがいる。すなわちその同族の者であろう。
『竹橋余筆』に、寛文九年(1669年)、武蔵野開墾の時の文書を載せている。いわく、武蔵野総高合10万9186石余、内5万5000石余、玉川次左衛門ほうじの笹を指切ました分、云々と。下にも往々同人の名が出ているが略する。この次左衛門という者は、もしかして庄右衛門の同族ではないだろうか。もし、やはり同族であるときは、書上に玉川姓を賜ったというのもどうであろうか。それはともかくも、今、多摩川を引き、途中の地形を検査するに、水路はすべて高いところに設け、もっぱら引き取りの便を計った者であることは、すでに上に言ったとおりである。
しかし、ほかに明らかな証拠もないので、にわかには臆断できない。庄右衛門は元禄八年(1695年)六月八日に没し、浅草聖徳寺に葬る。法名を隆宗院正誉居士という。
浅草松葉町裏町聖徳寺は庄右衛門中興開基の檀那である。墓石二基あるが、一基は台石だけがあって碑石はない。位牌が一座ある。戸主とおぼしきもの、法名四つを題している。その首に本文の法名がある。よって過去帳を閲覧するに、元禄十一年(1698年)以上は佚して存在しないが、その後に没した者の位牌に見えた年月を参照して、庄右衛門の法名であることがわかる。また、これを初代、すなわち上水起立の人と定めたのは正徳五年(1715年)の書上に、「拙者ども親両人」とあるのによって推考される。元禄八年(1695年)は上、承応元年(1652年)からへだたることおよそ44年なので、仮に庄右衛門40歳以下、30歳以上のころ、上水を創開したものと見れば、没年はおよそ70~80歳であろう。ただし、清右衛門のことはすべて考えるところがない。
二代庄右衛門、名を知英という。
聖徳寺石地蔵の背銘に、尊躯檀主玉川庄右衛門知英とある。この地蔵は元禄十四年(1701年)に土中より首を得たが、宝永八年(1711年)に知英がその身体を補修したものである。この庄右衛門は享保中に没した。ただし、普請役に列したというのはこの人の代であろうか。『新編武蔵風土記』に、初代庄右衛門が直ちに普請役に挙げられたように記しているのは誤りである。普請役は元禄十四年(1701年)に始めて置かれた職名である。
三代庄右衛門のとき、元文四年(1739年)八月、本務をおろそかにした罪で、両人とも上水役を免ぜられた。
享保撰要集に、両人の罪を得たゆえんを詳しく記している。両人とも、50日戸じめの上に、庄右衛門は江戸払い、清右衛門は水役取り放ちとなった。
両家ともはじめは赤坂一ツ木にいたが、その後、芝へ移住し、子孫もいたが、文化・文政間(1804年~1830年)に家が絶えたという。

この記事では江戸水道の大概を知るに止める。安松吉実の事蹟を考えるたすけにはならないと思うので、その後の記録を採用しない。また、玉川庄右衛門についても、この記事につけていうべきことはあるが、安松のことにかかわらないので、さておく。

注釈

  1. この引用もすべて現代語訳している。
  2. 投渡(なげわたし):洪水時にあえて構造物の一部を川に流すことで、水圧による決壊や周辺地域の浸水被害を防ぐ伝統的な土木工法。
  3. 山梨県甲州市塩山の笠取山の山頂直下の水干(みずひ)が多摩川の源流とされている。
  4. 「玉川上水の工事」の内容については、本書その四 玉川兄弟の失敗に詳細がある。
玉川上水の建設者 安松金右衛門