玉川上水の建設者 安松金右衛門/10
三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』(電通出版部 昭和十七年(1942年))の現代語訳 第十章
(現代語訳:シラキのコホリのツカサ)
その十 金右衛門の経歴
安松金右衛門は六万石の川越藩に出仕したのですが、そのときはまだ信綱が武蔵野開発の腹案を実現しようとして、高のない原野を五千石のつもりで拝領いたしたという正保四年(1648年)の御加増以前であります。伊豆守家の分限帳に、
- 松林院様(信綱の法諱)御代
- 本国・河内 生国・播磨 安松金右衛門吉実
- 正保元庚申年(1644年) 月日不明、御代官・能勢四郎右衛門殿の御肝煎にて召し出され、御蔵米百俵を下されました
- 慶安元戊子年(1648年) 月日不明、知行百石の高にお直し下されました
- 年月日不明(万治元年(1658年)十一月)上野御修復御用をおつとめになられたとき、元締め役を仰せつけられました
- 年月日不明、御加増三十石と七十石、二度下されて、都合二百石の高石に成し下されました
- 智光院様(二世輝綱の法諱)御代
- 年月不明、御家督のとき(寛文二年(1662年))川越へ遣わされ、郡代を仰せつけられ、御徒格の手代一人お預けになり、格式は独礼の格に仰せ渡されました
- 年月不明、極めて老いられたため、御役のことを差し上げ、悴・金右衛門を代番に差出したく願い奉りましたところ、御役御免となり、悴・金右衛門に代番を仰せつけられました
- 貞享三丙寅年(1686年)十月二十七日 病死なさいました
とあります。しかし、万治元年の松林院様御分限帳も同文の記載ながら、本国・河内、生国・摂津とある。本藩(三河吉田)高士略伝にも、
- 安松金右衛門吉実は、本国・河内、生国・播磨にて、算術の達人である。正保元年甲申年(1644年)御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎によって、松林公に奉仕した。現米百俵賜り、後に百石になり、三十石・七十石、二度加増されて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。
とあります。高士略伝は古くない書き物ですが、後々までも安松の生国を播磨としていたことがわかります。最初は代官に従属する元締めとして任用されたのでしょう。安松を推薦した能勢四郎右衛門は島原の陣(島原の乱)の糧食方を承った御勘定方で、信綱の出征に従った人です。この四郎右衛門は頼安と申して、正保元年(1645年)十二月二十五日に退職し、翌年十二月二十七日に死にました。その引退のときに配下の安松を伊豆守家へ推薦したとみえます。しかし、訳書には大河内金兵衛の配下の小畑・安松を推薦したと申してあります。この金兵衛は久綱といって、父金兵衛秀綱の職を継いで、永く代官を勧め、寛永十五年(1638年)十二月五日に士官をやめ、正保三年(1647年)四月三日に七十七歳で没しました。この金兵衛久綱が伊豆守信綱の実父であります。『埼玉史談』が、
- 羽生領代官として大河内金兵衛が赴任された時代、すなわち文禄三年(1595年)。
というのも、また、
- 金兵衛様より二合半領の内、新田開発、弾左衛門(酒巻)へ仰せつけられ、首尾よく成就。
というのも、伊豆守信綱の父・金兵衛久綱のことです。訳書がいう、金兵衛久綱が峡田領・川越領の代官であったという証拠は見られません。また、その時に遣わした手代のうちの才能ある両人を推薦したという。両人はたしかに信綱の武蔵野間発を補佐したのに相違ありませんが、両人は同時に推挙されていません。伊豆守家の分限帳には、
- 本国・丹波 生国不明 小畠助左衛門正盛(初名 助十郎)
- 松林院様[1]御代
- 寛永八辛未年(1631年)、月日不明、小島六太夫が申し上げ、御近習へ召し出され、御宛行二百目、二人扶持、四度御仕着(衣服の支給)を下されました
- 同十四丁丑年(1637年)12月、島原御陣への御供を仰せつけられ、御帰陣以後、御納戸役を仰せつけられ、新知百五十石を下されました
- 年月不明、御徒大頭を仰せつけられ、御加増百五十石、合計三百石下されました
- 年月不明、御奏者番を仰せつけられ、御加増百石下されました
- 年月不明、御家老を仰せつけられ、御加増二百石、合計六百石下されました
- 神龍院様[2]御代
- 延宝八庚申年(1680年)閏8月6日、川越の勝手(経営)を仰せつけられました。
- 天和三癸亥年(1683年)10月25日、お役目の御免(引退)を願い出ておりましたところ、隠居を仰せつけられ、せがれ助左衛門に家督を滞りなく下しおかれました。また、隠居料として百石を下し置かれ、楽幽と名を改め申しました。
- 元禄十乙亥年(1697年)9月3日、病死いたしました。
はっきりと小島六大夫の推挙とある。分限帳に従って、安松は能勢、小畠は小島の推挙とすべきであろう。助左衛門の出仕は早く寛永八年にあって、金右衛門とは十四年のへだたりがあります。旦那の信綱も1万5000石の身上で、助左衛門が出仕した後、三年月目に忍の城主になりました。それゆえに助左衛門も側小姓として出身したので、誰の彼のと物々しい推挙を待つほどの事ではない。寛永八年から天和三年に隠居するまで、53年間の長い奉公をしたのです。金右衛門も年齢がわかりませんが、この人も年齢がわかりません。
金右衛門は5年奉公して、慶安元年(1648年)に百俵を知行百石に改められました。川越の運河、あの内川改修が正保元年とすれば、安松金右衛門の奉公の初めに当たる。 それをたしかめる証拠が出てまいりませんが、百俵から百石に転じ、蔵米取りか知行取りになったことは見逃しがたい。
弟の金太夫が召し出されたのは、金右衛門が知行取りになった翌々年です。分限帳に、
- (本国河内・生国播磨)安松金太夫吉茂
- 松林院様御代
- 慶安三庚寅年(1650年)月日不明、召し出され、御代官を仰せつけられ、知行70石下し置かれました。
- 寛文八戊申年(1668年)4月19日、病死いたしました。
また、藩臣家状にも、
- 安松
- 慶安三年庚寅(1650年)月日不明 奉仕
- 天明二年壬寅(1783年)まで133年
- 金太夫吉茂、その子・八郎右衛門吉房、その子・金太夫安茂、その子・金助安一(60石 近習目付兼小納戸馬廻格)
とある家です。この家は今日も豊橋にあつて、同所の全久院が菩提所だと聞いて往訪したが、古い碑石はない。それもそのはず、伊豆守家は川越から下総古河へ、古河から吉田(豊橋)へと転封し、藩中も従って転じたので、当所には正徳三年(1713年)7月、吉田へ就封以後の墳墓があるはずもない。全久院の過去帳に、
- 聖徳院緑靄宗竹居士 寛文八年(1668年)4月15日
- 玉容院芳衣妙珍大姉 万治四年(1661年)5月10日
これは忌日が分限帳と合っていないものの、初代金太夫夫婦であろう。もちろん、碑石なし。その家にも記録がない。ただ開くことができたのは、安松の本来の在名は神吉氏であって、古い具足櫃などには神吉氏と書いてあったという。総見記や太閤記で知られるようになった播州三木城主・別所長治、華々しい中国攻略のときに信長は神吉・志方の表へ押し寄せ、両城を攻め破り、その上で三木城へ取り詰めて、適切にせよと命令した。神吉城はついに天正六年(1578年)5月16日に落ちましたが、守将・神吉民部少輔はよく戦ったものの、伯父神吉藤太夫に謀られて討たれたという話があります。神吉と書いてカンキとよむ。金右衛門はこの一族だったのでしょう。それゆえに民間に流落したばかりか、旧里を出て東国へまで彷徨するようになったのでしょう。安松の生国が播州、もとの苗字が神吉ならば、別に詮索せずともわかることです。
弟の金太夫の方はそれまでにして、兄の金右衛門の世代を尋ねてみる。これは新宿の大宗寺が菩提所で、当主は安松勝二、金右衛門から11台目、現在は横浜に住居。過去帳には、
- 正保四年(1648年)6月14日 光岳院頓譽相得居士
- 安松九左衛門
- 貞享三年(1686年)10月27日 玄洞院殿欣譽浄秀居士
- 同 金右衛門吉実
- 享保二年(1717年)6月16日 喚迎院遣譽容玄居士
- 同 金右衛門吉政
- 元文三年(1738年)2月9日 豈方院西譽遣立居士
- 同 金右衛門安之
- 文化三年(1806年)12月1日 転心院輪譽法山居士
- 同 金右衛門安寛 88歳
- 文化十三年(1816年)9月2日 速了院宝譽巍冠居士
- 同 金右衛門安政 68歳
- 文政十一年(1828年)7月1日 光円院大譽即相居士
- 同 金右衛門安邦
- 明治十九年(1886年)5月1日 豊徳院仁譽安民居士
- 同 金右衛門安民 77歳
- 同三十七年6月14日(1904年) 大智院叟譽知新居士
- 同 金右衛門新(アラタ) 78歳
- 大正十三年(1924年)10月8日 安寿院楽茲心光居士
- 同 金右衛門事(ツコウ)
とあります。九左衛門は金右衛門の父であろう。この父は金右衛門が主取りして、4年目に没したとみえる。この初代金右衛門以来、その前にも院殿をつけた法号はありません。江戸時代には旗本衆でも、叙任した者に限っていました。大名衆は皆従五位下朝散大夫ですから院殿号でしたけれども、御家人衆はもちろん、旗本衆でも何の守とかいわない運中には、院殿号はありません。まして諸大名の家来は、陪臣といって禄高にこだわらず、幕府直参の者よりも一段格の下ったものに扱っていました。ただし、加州とか薩州とかいった大大名の家老には、任官する者が若干在って、何の守になっているのがある。それは別段のこと。伊豆守家は7万石、大諸侯ではありませんから、家老にも何の守はない。金右衛門はわずか200石、陪臣でなくても院殿号などはもってのほかの話。その彼がただ一人、十代にわたって院殿号をつけている。伊豆守家7万石の藩中にも、彼のほかに院殿号をつけている者ははに。これについては大いに話があります。
さて大宗寺の墓を見ると、一塔は九右衛門以下の法名が彫りつけてあって、倶会というのです。分限帳の記載によれば金右衛門吉実は、川越へ退老したので、同地で没しているはずです。しかし、川越には安松家の墓所がありません。主家が再三転封しているので、そのたびに墓所を移すこともできなかったのではあるまいかとも思われる。何にせよ、誰も安松金右衛門の墓が大宗寺にあるのを知りません。あるいは埋没しないともいえない。そこで野火止水利組合へ通知し、伊豆守家の菩提所である平林寺へ協議し、両方の力を借りて、昭和十年(1935年)の初夏に、大河内子爵家の許諾を得て、同家の塋域(墓地)の側近に彼の墓を移し、永久に野火止水利組合が供養をすることに定めました。古い碑石を新宿大宗寺から移すのですから、同寺の了解を求め、当主・勝二氏と一族の同意を得て、新しい碑石をこしらえ、大宗寺の旧位置へ樹立いたしました。お話は玉川上水へ戻ります。例の上水記を改めて読みますと、
- ふるい書留にいう。承応元壬辰年(1652年。原註:寛政三年までおよそ140年)までは、御城内ならびに御城下、上水道がございませんでしたので、下々にてはところどころの水たまり、溜池などの水をくみ、樋で仕掛けて取ることになっており、不自由でございました。そこで上水道になりうる水筋について、町奉行 神尾備前守様のお尋ねにより、玉川庄右衛門、清右衛門という者、両人の父(東京市史稿は、二代庄右衛門・幼名三十郎、三代庄右衛門・幼名長六、ともに初代の子であって兄弟である。正徳五年の書き上げは三代庄右衛門の提出した者であろう。そうであればここに父というのは初代庄右衛門を言っているのであろう)ところどころ求めていたところ、武州羽村というところから、玉川の水を江戸まで道のり13里、水盛を考えた。
ここの原註は大いに留意すべきものでありますから、煩わしいようですが、特筆しておきましょう。
- 一説に、松平伊豆守の臣何某が考えるところである。これによって野火留分水口は格別の堀割であり、古い言い方で伊豆守殿堀という。また言われているのが、いにしえ伊豆守の家、郡方役人・安松金右衛門が工夫して主人へ申し立て、吟味のうえ野火留上水が出来たという。
「松平伊豆守の臣何某が考るところである」で文が切れています。すなわち、玉川上水の水盛は伊豆守の家来が考えたというふうに読めます。次いで、「これによって」というのですから、「玉川上水の水盛をしたことによって」ということになります。
この一説に付随して起こってくるのは「野火止用水工事同時説」でございます。川越史料には「承応二年(1653年)から」とあり、埼玉県志には同三年(1654年)からと書かれていますが、野火止宿開発根本之覚書には、
- 承応三未年(1654年)、今から49年前、小河村の西の方から江戸御用水を分けくだし置かれました。川道は野火止宿まで四里でございます。
と書いてあります。しかし当時の見聞を書きつけました榎木弥左衛門『万之覚』には、
- 明暦元年(1655年)二月十日ごろより野火留用水開鑿。三月二十日に至り、水道を通す。
と明記してあります。こちらが正しいと思われる。承応四年は改元して明暦元年ですから、承応三年六月二十日に玉川上水が成功いたしまして、翌年の三月に野火止用水が落成しました。その間が八か月あります。決して同時ではありません。その間違いは玉川上水路踏査と野火止開発とが、ともに承応元年であったから起こったのでしょう。
- 武州新倉郡野火止宿開発、承応元年巳歳(1652年)に始まる。今年・酉の年まで52年になります(開発根本之覚) この年(承応二=1653年)春から八月中まで、野火止新田に54戸移住する。(榎本万之覚)
などによって紛れたのであろうと思います。
それから、安松が万治元年(1658年)に幕府から拝領物をいたしたこと、江戸時代には陪臣が幕府から拝領物をするなどというのは希有なことでもあり、容易ならぬことでもありました。それは、
- 万治元年十二月二十日、東叡山大猷廟慈眼塔修補の御手伝い、輝綱がこれを監し、そのことにかかわった家臣らにものを賜った。(家譜)
この「家臣ら」の中に安松が加わっていたことは、分限帳の記載でわかります。
- 年月は不明。上野御修覆をお勤めなさったとき、本締役を仰せつけられました。
とあるので、金右衛門がそのことにかかわった川越侯の家来の一人だったことを証拠立てます。
注釈
| 玉川上水の建設者 安松金右衛門 |
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