「玉川上水の建設者 安松金右衛門」の版間の差分
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* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/02|その二 野火止用水路]] | * '''[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/02|その二 野火止用水路]]'''――通水に三年を要したという野火止用水の伝説を否定し、実際には四十日ほどで工事が完了・通水した歴史的事実を提示する。 | ||
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/03|その三 玉川上水の水盛]] | * '''[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/03|その三 玉川上水の水盛]]'''――玉川兄弟の事績に偏った『上水記』などの不備を指摘し、上水設計における安松金右衛門の真の貢献を浮き彫りにする。 | ||
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* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/05|その五 畑ばかりの新農村]] | * '''[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/05|その五 畑ばかりの新農村]]'''――水利に乏しい武蔵野の開墾において、野火止用水が本来は生活に不可欠な「飲料水」として供給された恩恵と役割を明らかにする。 | ||
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* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/13|その十三 江戸っ子の自慢]] | * '''[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/13|その十三 江戸っ子の自慢]]'''―― | ||
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2026年3月20日 (金) 08:47時点における最新版
三田村鳶魚著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』(電通出版部 昭和十七年(1942年))は、玉川上水・野火止用水の建設者である安松金右衛門の本当の業績を現代に伝えようとした書籍である。
著者・三田村鳶魚
三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)(1870年〜1952年)は、「江戸学の祖」や「生きた江戸の百科事典」と称される時代考証家である。
- 徹底した考証主義:新聞記者を経て研究に専念し、膨大な文献調査とフィールドワークによって「嘘の江戸」を排除しようとした。
- 時代小説への厳しい批判: 吉川英治などの大衆作家に対し、史実や風俗の誤りを容赦なく指摘したことで、当時の作家たちからは恐れられる存在だった。
- 在野の精神: 大学などのアカデミズムに属さず、生涯「町学者」として江戸の武家から市井の生活文化まで幅広く研究し続けた。
- 膨大な著作は『三田村鳶魚全集』(全28巻)にまとめられており、現在も時代考証の基本文献として重宝されている。
現代語訳
ここでは、全文を現代語訳して掲載する。現代語訳=シラキのコホリのツカサ
玉川上水の建設者 安松金右衛門
三田村鳶魚著
電通出版部
小引
徳川一世(家康)が天正十八年(1590年)8月朔日、初めて江戸城に入って以来、承応二年(1653年)まで60余年の間、江戸に住む限り、市民のみならず諸大名もみなことごとく飲料水に困りました。慶長になりまして、江戸城の修築が成り、市街地の町割りもできて、住民がだんだん増えてまいりましても、土地柄として井戸を掘っても、よい水が得られません。徳川一世は早く神田上水をこしらえさせましたけれども、膨脹が急な新都市のにわかに増加する人々の飲料をいかんともし難い。江戸は慶長五年(1600年)から京都、大阪と並んで三大都市と言われておりましたが、飲料水についての悩みは、日ごとに激しくなるばかりでありました。幕府として新都市の他の計画は着々成功して、江戸を装備し、整頓させましたが、市民生活というよりも、むしろ人間生存の大前提である飲料水の供給に欠けていることは、何よりも先に、何よりも急ぐべきことであるのに、これが欠如していました。それは新都市の成立を危うくするものであり、江戸の発達を望めないことにもなりますので、将軍の威勢、幕府の面目にかけても適当な方策を立てなければならないので、老中以下の役人もいたずらに焦慮するだけで、何分対策が得られませんでした。
幕府は四代がかり、家康・秀忠・家光・家綱、家綱将軍の時に、江戸町奉行・神尾備前守の斡旋によって、玉川庄右衛門・清右衛門の申し立てを得ました。玉川両人は玉川が上水に足りることを知り、羽村から四谷大木戸までの上水路を設計して上申したのです。幕府はすぐに採用し、閣老・松平伊豆守信綱を総奉行とし、伊奈半右衛門を奉行として、早速工事を起こさせました。玉川両人は工事を請けて提案の通りに開削しましたが、設計が不備であったために堀に水が流れません。そこで再び設計して工事を進めましたが、またしても水が通りません。再度の失敗で玉川上水計画は廃案になりそうでした。そのとき、松平信綱はせっかくの計画であるこの玉川上水案を放棄するのを残念に思われ、また江戸には上水で飲料を供給するよりほかに方法がなく、玉川からであれば豊富な分量も得られて、江戸に住む上下の人々も日頃の苦悩を免れることでもあり、ことに四代がかりの幕府の人生であるから、是非とも上水道開通に成功したいと希望されました。自分の家来に安松金右衛門という水利に達した者がいるので、その安松に命じて新たに玉川上水路の設計をさせ、首尾よく全国無二の長距離、大規模な工事を完成させ、信綱の三大まつりごとの一つに数えられる偉業を残しました。信綱は、また宿願であった武蔵野開墾も実現し、多大な新開拓地を得て、自分の領地だけでなく、幕府の直轄領および他領にも多くの農村を創設することができました。
主人信綱に民政上の手柄を立てさせた玉川上水の設計者・安松金右衛門は、旦那に手柄をさせたのは俺だと吹聴するどころか、そんな心持ちさえ持たない人物。忠義をいたしましたと口へ出すようなら決して忠臣ではありません。宣伝ということも自己宣伝になってしまえば醜態を極めます。信綱も自分の功績を知られないようにする心がけがありましたが、安松も同様な心持ちでありまして、実に奥ゆかしい武士なのでした。それゆえに、我々が朝となく夕となく汲んで飲んでいる玉川上水、承応二年から昭和の今日(※昭和十七年=1942年)までは310年、江戸をまたいで東京、父祖代々受容しており、現に市民677万8804人の命を救っております。将来いかなる水道ができましても、この玉川上水をしのぐほどのものはありますまい。もしできたとしても玉川上水を除くことはない。過去・現在・未来にわたって、玉川上水の恩恵はまことに東京市民に尽きないものと存じます。
この広大長遠な恩恵を東京市民に受けさせた安松金右衛門。安松がいなければ信綱が何と思われたところで、玉川上水は廃案になるよりほかなかったでしょう。その安松金右衛門の事蹟はもちろん、彼の名をすら知っている人が全市に幾人いるでしょうか。東京も七十余年でできたのではない。今日までどれほどの先人の苦労を積んでこしらえ上げたものでしょうか。自分の身体が祖先の先からの恩恵で育成されたように、古人の積んだ苦労がどれほど多いだろうか。我々は今更ながら、感銘を受けたままに報恩謝徳を心がけなければならない。
本書は報恩謝徳の心持ちを持って記述いたしました。筆者の思うほどに書けないのは愚文のゆえであります。十年来の心がけでこの記述をいたしましたが、資料の収集の足らぬため、不十分なのであります。私の報恩謝徳の心持ちは今後も決して衰えません。新資料を得て増補の必要を感じたときには、つとめて決行したいと存じます。特に武蔵野開墾は信綱の大仕事でもあり、今日の大東京を成す究極の事柄でもございますから、及ばずながら微力を尽くしたいと思っております。
昭和十七年立冬前二日(※1942年11月5日)
鳶魚生 しるす
目次
- 小引
- その一 紳書の誤謬――国定教科書や新井白石の『紳書』に見られる安松金右衛門に関する記述の誤謬を正し、確かな史料が欠落した背景を解明する。
- その二 野火止用水路――通水に三年を要したという野火止用水の伝説を否定し、実際には四十日ほどで工事が完了・通水した歴史的事実を提示する。
- その三 玉川上水の水盛――玉川兄弟の事績に偏った『上水記』などの不備を指摘し、上水設計における安松金右衛門の真の貢献を浮き彫りにする。
- その四 玉川兄弟の失敗――玉川兄弟による二度の設計失敗を、安松金右衛門が独自の測量法を用いた第三の設計案によって成功に導いた過程を詳述する。
- その五 畑ばかりの新農村――水利に乏しい武蔵野の開墾において、野火止用水が本来は生活に不可欠な「飲料水」として供給された恩恵と役割を明らかにする。
- その六 武蔵野開墾の規模――
- その七 引又の伊呂波樋――
- その八 川越運河――
- その九 悲しい水喰土――
- その十 金右衛門の経歴――
- その十一 宗岡の古図――
- その十二 玉川上水の記事――
- その十三 江戸っ子の自慢――
- その十四 江戸の穿井――