新編武蔵風土記稿/巻之130新座郡2

提供:シラキのコホリ

新編武蔵風土記稿 巻之一百三十
新座郡之二

現代語訳=シラキのコホリのツカサ

野方領

野方領は、本郡および豊島・多磨の3郡にまたがっている。その領名の起こった年代は定かではない。野方と称する理由は、野は武蔵野を指して言っており、方はほとりなどというのと同じで、世俗に「最寄り」というような意味であろう。しかし、今はこの領にかかるところは野に近い地ではない。それなのにこの領名を負ったのは、もと武蔵は八百里の曠野であるということで、往古はただ果ても限りもない荒野であった。古歌にも多く詠まれており、その証しは明らかである。それを世々開墾して、今のようになったのである。

『東鑑』建久二年、建暦三年、寛喜二年、暦仁二年、仁治二年、などのたびたびに武蔵野の内に新田を開かれたことも見えるが、これはそれほどの大挙であったとも思われない。これからうち続いて関東は戦国となったので、開墾のことをやっている余裕もなかったが、御打入があってから早々に小泉太夫・伊奈熊蔵らに命ぜられて新墾が大変盛んになった。何事も近いところから遠くに至るのはものごとの勢いなので、このときも野の端から次第に開けたものを、その地がみな野のほとりであるために称して野方と呼んだのであろう。また、その野方の地先を年々開いて新田となり、広がり行くうちに野方領の地も自然に今のように広大になったと思われる。また、最近まで今の武蔵野新田のあたりはなお原野であったため、まさに野方の名に合っているといえるだろう。

今、3郡の内はすべててで134村に及ぶが、その中の本郡はすべてこの領に属している。

石神村

(イシカミ)
 石神村は、本郡の西の端にある。この辺10村(当村をはじめとして下に載る片山村までをいう)はいにしえ1村であったことは、郷名の条で述べたとおりである。また、当村はもと郷名だったがそれが失われたともいう。しかし、土地の人は多く片山郷に属すという。もと1村の内であるものに郷名の異同があるのはおかしいので、土地の人の説はもっともだと思われる。10村に分かれた年代は明らかではないが、正保のころ、改定の絵図には片山1村で、元禄年中改正の絵図にはすでに10村に分かれているので、この間のことであろう。その他の9村も皆同じである。

しかし、なお古名を保っており、今も村名を記すときは上に片山の2字を加えて書く。片山石神、片山堀之内などというようにである。

この10村はもと1村であるが、民家の都合に合わせて分けたため、土地は互いに入り合っているところがはなはだ多く、どこが1村の境界ともわからない。今は土地の人であっても自分が受けている田畑の外では境界を熟知することができなくなっている。(この村に限らず、郷中みな境界は明らかでないため、ただ概要を記している。以下同じ)

当村は広沢荘に属し、家数は40軒。たいてい東西へ5町、南北へ3町ほどの間にある。東には栗原村があり、西南は多磨郡神山村に隣接して、往還を境界としている。この辺に本郡西屋敷村あり。北は多磨郡田中村に隣接する。この村の南の方にわずかに平地があって、田野が入り乱れている。西北には岡があって地も広く、山・畑ともに多い。

寛永四年、江川太郎左衛門・小長谷勘左衛門らが検地した。いにしえから御料所であって、今は川崎へ伊右衛門の支配所である。

小名

  • 清水

山川

  • 黒目川:栗原村より流れ入り、村内を斜めによぎり、上片山村と堀之内村との間に入る。川幅六間あまり。この村内で川の東岸に分水口がある。これより2条となり、村内および十二天村入合の地および辻・中沢などの村々の養水としている。

橋梁

  • 大橋:黒目川にかかる
  • 小橋九:これもみな黒目川にかかる

神社

  • 氷川社:除地。2000坪あまり東方にある。村の惣鎮守。勧請の年歴は明らかではない。野寺村満行寺の管轄。
  • 稲荷社:除地。これも満行寺の管轄。
  • 第六天社:除地。上に同じ。共に勧請の事蹟を伝えていない。みな小祠である。

寺院

  • 観音堂:村の西にある。堂は2間に2間半。本尊観音坐像唐仏であって、瀧見の観音と号する。
    言い伝えによれば、寛永のころ、この村の小名 清水というところに夜な夜な物があって光を放ったので、土地の人が怪しみ、これは狐狸のせいであろうと思い、恐れおののいて、日が暮れれば人々は門を閉ざして往来も絶え果てた。しばらくたってもやまないので、土地の人が集まって議論して言うには「このように不測の光があってやまないのは狐狸のせいではないだろう。何か理由があるはずだ」ということで、集まってその地を掘ったところ、銅像の観音と鐸1個が出てきた。鐸には瀧山浄妙寺と刻まれていた。土地の人は奇異に思い、すぐに四面の堂を造って、その中にこの銅像を安置し、ゆかりについて黄檗宗の僧を招待して庵主と定め、村内に立っている神社の別当職にこの庵を兼帯させた。しかし、この辺の神社はもと野寺村満行寺の管轄であったため、満行寺の僧がその職を失ったことを本意ではないと考え、訴訟に及んだので検察させられた。そこで堂宇を破却されたこと、また、この本尊仏出現の由来を言上したところ、「瀧見の観音は昔三体まで唐山からわたってきたという話は聞くが、今はその2体のみ世に伝えて、残る1体の所在がわからない。おそらくはこの坐像なのだろう」ということで、当村へ預けおかれるとの旨が命ぜられたという。これは土地の人の口碑にあることだが、受け入れがたい説である。
    そのころはこの辺に民家が4軒建ち並んでいたが、いつのころであろうか、その中から失火してすべて焼亡した。そのとき、主の男は失踪して行方不明で、家にいた女・子供はみな焼死した。これはあってはならないことなので、このことを代官へ訴えるのに、その非命であることをあわれみ、彼らの追福のため宅地の跡へ寮を造立して、かの観音を安置させてから、今に至って道心者を置いてこの堂を守らせた。

堀之内村

堀之内村は石神村の東にあたる。この村名も郷名だったという説があるが、片山郷に属していたのだろう。枝郷 栗原村は現に片山郷であるため、この村も片山に属すべきだというのは証明となるだろう。また、土地の人の説に、この辺を黒目里と号すという。

江戸から6里の行程である。広沢荘という。家数12軒。東・南・北の三面は辻村の地と入り交じっている。水田は少し、畑は多く、土地の広さは東西10町あまり、南北4~5丁の間に入れ違っている。米穀の津出しは北の方、引又村の河岸まで2里の陸路を運び、新河岸川・荒川の間、18里の舟路を経て江戸に至る。村役は川越街道膝折宿へ定助の人夫を出す。

元禄六年、滝野重左衛門・近山与右衛門が検地した。それ以前のことは明らかではないが、片山七騎のうちの知行所であったのだろう。いつのころからか御料となって、今は川崎平右衛門が支配する。

当郷のうち、栗原村はこの村の枝郷であったが、元禄以前に分かれて1村となったという。

森林

  • 林25所:村中のところどころに散在する。みな雑木を植える。ともに百姓持ち。

山川

  • 黒目川:辻村の上の方より流れて来て、同村と当村の境を流れる。川幅7間あまり。また石神村で分水した養水の流れは十二天村の方から来て、辻村を経て当村でこの川へ落ち入る。

橋梁

  • 樋橋(ひの):黒目川にかかる。長さ7間あまり。土地の人の説に、もと火ノ橋と書いていた。昔、在五中将(在原業平)が武蔵野に隠れたとき、そのありかを知ろうとしてここから火を放って焼き立てたが、延焼して今の野火留塚の地に至って火が消えたという。この説、野火留の地名によって伊勢物語を付会したことは言うまでもなく明らかである。ましてやこの橋はトヒ(とい)橋というのであれば、水利のことによって起こった名前であることは間違いない。
  • 樋橋:樋の橋と同様のもので、少し下流にある。長さ7間あまり。2橋とも名は同じものであろうが、土地の人がいうところが異なっているので記載した。
  • 渡:これも同川筋にある。歩いて渡るところであるので渡と名付けたのだろう。大したことではない。

郡署

  • 御薬園:村内の西の端にある。四方に垣があるが、守る家もなく、百姓等の預りである。園内は野原に等しく、百草がくさむらとなっている。江戸からも采薬御用によって時々御医師が来る。

神社

  • 白山稲荷合社:除地。6尺四方の祠である。前に鳥居を立てる。村の中央にある。

寺院

  • 地蔵堂:除地。村の中央から東に寄っている。堂は2間半に4間。本尊地蔵菩薩坐像で、その丈は蓮華座とを合わせて1丈ばかり。恵心僧都の作であるという。前立も同像で長さ2尺ある。寮なので山号・寺号などもなし。当村辻村法台寺の管轄。

堀之内村枝郷 栗原村

栗原村は堀之内村の枝郷であるが、元禄十五年改め武蔵国図およびそのころの郷帳にも現に載せられているので、古い村であることは議論がない。そのちは広沢庄に属し、黒目ノ里と称する。堀之内村の南にあり、家数30軒。西は多磨郡落合村に隣接し、北には石神村あり。この境は黒目川を限りとするところもある。南は下保谷村に隣接し、南と東の間は野寺村・辻村の地に接している。東には中沢村がある。おおよそ東西へ5町ばかり、南北へ8町ほどの間にある。そのほか、本村堀之内の土地にも飛地がある。土地は南の方に丘があって、それ以外はみな平地である。畑が多く、水田は少ない。

村民は多磨郡田無村・足立郡蕨宿・本郡膝折宿の3駅へ助郷を務めている。

元和元年、大坂の役で木村甚九郎勝元、父源太郎元政とともに供奉して戦功があったので、その賞として当郡の内二百石の地を勝元に賜ったことが家譜に載っている。この地もその内にある。また、元和三年、元政が亡くなったので、遺領四百八十石を勝元に賜り、当所二百石の地は勝元の弟 伊右衛門安次に賜うという。これより累世知行して、今の亀太郎に至っている。

また当村の新田あり。これは地続きで下保谷村の間にあるが、元多摩郡の地なのでその郡に属する。そのことについては合わせて参照すること。

小名

  • アヲ屋敷:村内西北の方にある
  • 前通り
  • 榎下

森林

  • 林:村の南浅間の社の辺にある。雑木がむらがって立っている。北面はなだれて丘のようである。地頭木村氏の林である。

山川

  • 黒目川:多磨郡落合村から流れて来て、村内を通って上片山村に入る。川幅2間から3間ほど。その間ところどころに小橋をかける。
  • 川2所:一つは黒目川の支流で、村の西を流れる。一つは弁天の祠の側にある池水を源とする。2流ともに上片山村へ入る。この2流は小川であってその名もない。

寺院

  • 浅間社:南の丘の上にある。畑中の道から左へ折れて入口に鳥居を立てる。高さ7尺、左右の幅6尺。また8間ほど行って左へ曲がり、そこから16~17間ばかり置くに社がある。9尺に1間。戌亥の方に向かう。四面に雑木立が並んでいる。地頭木村氏の建立したものと言い伝えるが、鎮座の年代はわからない。村の鎮守である。
  • 稲荷社:荒屋敷にある。小祠。
  • 稲荷社:これも小祠である。村の東南の方にある。
  • 弁天社:村の中央にある。小祠前に鳥居を立てる。小池があって、弁天の祠をめぐっている。東の方に水の落ち口があって、郷中の養水はここから出る。

寺院

  • 寮:除地。20坪あまり。榎下にある。2間に3間の寮であり、観音の坐像を安置している。村の管理である。

十二天村

十二天村は栗原村の北にある。一名を下栗原村ともいう。辻村の中に包まれている。これも広沢荘黒目里に属する。

野寺村満行寺の縁起にこうある。満行寺は今の十二天村にあって、七堂伽藍が善美を尽くしていた。そのころは十二天の社があって、北条家より寄付の田畑等も多かったという。後に今の地へ移ったとき、十二天の社は廃したが、その名残で村名となったという。

家数20軒あまり。鈴木・本田・高橋・瀧島などいうものが新墾したということで、今なお村民にその子孫が残っている。

元和元年、栗原村と同じく木村甚九郎勝元に賜ったが、同三年に勝元の父源太郎元政が没し、父の遺領を相続してからこの地と栗原村を弟伊右衛門安次に賜った。こうして世々知行し、今の亀太郎に至っている。

この村を土地の人がみな下栗原村と称しているのは、開墾した者はもと栗原村の人であったためにこの地も自然にその村の枝郷のようになったのではないか。もとより栗原の名主が兼持している。だからこそ片山村がいまだ分かれていないころでさえ、栗原の地と合わせて二百石の惣高として木村氏に賜ったのだろう。このことは証拠があるというわけではないが、土地の人が下栗原村と称していることから考えると、こうではないかと思われる。

また、中沢村の小名にも栗原八石と十二天村がある。これもおそらくはむかし栗原の内だったのを二百石に割ったあまりなので中沢の地に属することになったのだろう。中沢村の条でも合わせて考えるべきである。

この村は最も入合が多く、境界が分けがたい。西の方には石神村の飛地に接しているところもある。また、上片山村と小甚村との境、上片山村と野寺村との際などにも当村の飛地がある。村内の北の方は地が低く水田があり、南は高くて畑が多い。

山川

  • 川:黒目川の支流である。辻村から流れてきて村の西境を流れてまた辻村へ入る。養水の料に分水した小川である。

神社

  • 稲荷社:除地。三段あまり。小榑村と上片山村との際にある飛地の内にあり。社は一間四方。鎮座の年代はわからない。

中沢村

当村の内、西に向かって崖がある。崖から沢水が湧出する。この左右に数か所の沢がある。ゆえに中沢村と称するのであろう。片山郷の内では、東の端に当たる。広沢荘といい、家数50間。東は広沢原に接し、南は小榑村に隣接し、西から北のめぐりは野寺・上片山・辻・石神・十二天の数村と入り合って、所々に飛地がある。村の東の方は土地が高く、畑が多い。西の方は低くて水田がある。また本村から若干の町数を隔てて黒目川分水の流れに臨む。

百姓の宅地がわずかのところを小名 十二天村という。民家は名主八兵衛という者の1軒のみで、四面ともに田畑となり、黒目川の東岸は十二天村の地なのでこのように称する。おそらく割付の時の余地をこの中沢村へ付けたものと思われる。この地面は石神村に包まれ、南は川を隔てて辻村の地と向かい合っている。

また、本村から若干の町数を隔てて栗原八石と称するところがある。その地は栗原村の北に接していて、村高18石あるために上を省略して栗原八石という。思うに、これも栗原村の内で割り余った地なのであろう。それで上下の栗原に対して中栗原というべきところ、そういう地ではないので、当村に属したのだろう。別に民家もない。御入国の後、米津勘兵衛田政に賜ったため、累代の領地であって、いまの伊勢ノ上に至っている。

神社

  • 稲荷社:村の南の方、畑の中にある。小祠だが、古木2、3株が立ち覆っており、古い祠と思われる。

上片山村

上片山村は中沢村の東北に隣接している。そのため、昔は下中沢村と号していた。今も土地の人はみな下中沢村と称する。上片山村と称することはいずれのころから改まったのだろうか。近ごろ、公へ書き出した郷村の内には上片山村と載せている。元禄十五年改定の図および郷帳にも下中沢とシルされている。今の村名では郷の本村のように見えるが、土地の人に問えば、この地は郷中でも最も遅く開けたのであり、その証拠に、神社・寺院以下一つも古跡はないという。そのため、まったく下片山村に対してたまたまこの名を称して、実は中沢村の内なのであろう。広沢荘に属し、家数は24~25軒で、村内に散住している。たいていこの村は中沢・原ヶ谷戸の2村の地に入り交じっている。中ごろ羽田氏に賜ってから累世知行して今の善太郎に至る。

山川

  • 市場坂:村内西に向かった崖にある。西辺の高地へ下る所である
  • 観音坂:これも同じ並びで、北寄りの方にある。中腹に観音堂があるため、この名を得た
  • 黒目川:西の耕地を流れる
  • 妙音沢:一名、大沢。市場坂の下にある。山の根から遊水する水が潺湲として沢中の雑草を洗い、とても清冷である。セキショウが多く生えている。上に小竹が生え茂って、幽遠の地である。言い伝えに、昔、杉山検校という盲人がこの沢で弁天の画像を得たためにこの名があるという。当所について辻村法台寺の縁起を見るとこのようにある。寛文のころ十二天村鈴木氏の子に盲人がいた。幼いころからよく琵琶を弾いた。天和三年に検校職に進む。性格は念仏を信じ、日課として三万遍をとなえ、常に観智国師を崇敬し、法台寺に詣で、影像を拝し、また弁才天を信じて祈念すること二十余年に及ぶ。こうして正徳二年六月十六日の夜、夢に一人の美人を見た。告げて言うには、明日市場坂下の沢にて琵琶を伝授しよう、と。検校は奇異であると思い、黎明に身を清め、浄服を着てその場所に行き向かい、草むらの中に座って恭敬礼拝し、一心に御名を唱え、卯の刻から巳の刻に至ったが、しきりに眠気を催して一睡したところ、異香があたって薫じ、巌上に弁才天が現れ、琵琶を弾じて座していらっしゃった。その妙曲は人間の及ぶところではない。告げておっしゃるには、汝が年来国師に祈願してきた志を憐れんで、ここに来たりて出現したのだ、と。巳の刻から午の刻に衣良妻でことごとく秘曲を授けおわって、いずくともなく去って行かれるのを見て夢から覚めた。検校は感涙を流して頂拝した。連れていった男が言うには、ここにある鬼樹の桜に弁天の御影がかかっている、と。巻き取って授けられたので検校は一層歓喜して、家に持ち帰ったという。この縁起に載っているのはこの通りであって、検校の称号を載せていない。もし杉山検校というのであれば、かの本所一ツ目の弁天を創立した検校と同人か、また別人か。杉山の事蹟を調べてみると、検校は伊勢の出生した人であり、元禄七年六月二十四日没したというからには、この検校ではないであろう。杉山が弁天を信じていることは世の人の知るところであるから、土地の人の説は付会したものであろう。また、縁起等が言うことも、方便の節であろうか。信じがたいというのは当然である。
  • 小沢:大沢の並びにある。

寺院

  • 観音堂:観音坂の中腹南側にある。石階8段を上がって正面に動画ある。二間・三間半。創建の年代は分からないが、境内に幽誉諦忍大徳の碑がある。元禄十二年九月二十三日寂すと刻まれている。これより前に建立されたことがわかる。辻村法台寺の管轄。
  • 阿弥陀堂:境内二十間四方ばかり。村の西、辻村・中沢村との三村入合の地にある。堂は九尺二四間。これも創建の年代はわからないが古い堂ではないという。法台寺の管轄。
    • 稲荷社:境内に入って左の隅にある。小祠である。
    • 古碑 3:一つは上に弥陀の種字を刻んでその下に正安廿年七月二十八日の9字がほのかに見える。考えるに正安四年に改元があって乾元と号している。そうすればこの碑に記された年号はおそらくは誤りであろう。残り二つは損壊して見分けられない。この三碑は外から持ってきて立てたものであろう。

野寺村

野寺村の名は、村内に建っている満行寺を古から野寺と号することから起こった。家数14軒。片山郷の西の方にあり、東は辻・中沢・上片山3村の地に入り交じっている。南は下保谷村に隣接し、西は中沢村の飛地 栗原八石に接し、北は下片山村の飛地 貝沼に隣接している。村内、北の方は土地が低く水田がある。中央から南は土地が高くて畑が多い。水田は少ないが、八幡山の麓にある清水を引用いて養水がなおあまりある。それで水害・干害どちらもそれほどの憂いはないところという。古くから小野氏の知行するところで、今に至って子孫 久米五郎吉寿が知行している。小野家譜に小野久内 台徳院殿に使え奉って御鷹匠頭となる。この人は武蔵のうち300石の地を知行している。後、また同国内で100石の地を加え賜った。しかし、正保の初め改定の郷帳はすでに小野久内が当所を領していたことを載せているので、この村は最初に賜った300石の地の内に含まれるのであろう。

小名

  • 後中沢

山川

  • 清水:八幡山の麓にある。わずかの清水であるが、村内と近村の養水はここから湧き出ている。

神社[1]

  • 八幡社:除地。下に載る弁天の社地および別当寺境内ともに3町あまり。村内、南の山上にあり。別当は満行寺である。この寺の門と当社の入口と相対する間に路がある。入口は寅卯(東北東)の方に向いている。石段9級を登ってわずかの平地がある。ここに鳥居を立て、左右に石灯籠がある。また3級の石段を登って26~27歩行けば左右に老杉がある。ここからまた6、7歩奥に北に向かって石段がある。16級を登って社前に至る。
    • 拝殿:3間×2間
    • 本社:2間×3間で茅葺きである。満行寺縁起にいう、当社鎮座の年歴は多くの星霜を経て詳らかではないが、祭神正八幡は本地が三尊阿弥陀仏であり、行基菩薩神亀元年(724年)の作である。康平六年(1061年)に社の修復がある。そのころは屋根も瓦葺きであったと言い伝えている。当時のものと思われるが、今、この山の辺で古瓦の砕けたものを拾えることがある。長治二年(1105)源義家奥州征伐のとき、当社へ賊の首領 安倍貞任・安倍宗任らを調伏の立願があった。このとき本社を再造して北向きに作ってから、今に至っても同じ向きである。すべての神社で北向きのものはほとんどなく、日本国中でこの社も含めてわずか三社しかないという。しかし、この寺伝は年代が相違している。古書を調べると、頼義が貞任らを誅したのは康平五年(1060年)のことである。また、寛治五年(1091)に義家が清原家衡・清原武衡を滅ぼした。長治は寛治五年から十五年後である。事蹟が全く合わない。縁起は妄誕(でたらめ)であることがわかる。
  • 弁天社:(除地。八幡の条下にいうところのようである。)八幡の山下にある。小祠である。勧請の年代は詳らかではないが、正保のころの地図にこの祠が載っているので、このころにはすでに鎮座していたことがわかる。これも満行寺の持。

寺院

  • 満行寺:境内除地3町。村の南、八幡山の崖下にある。真言宗真義。豊島郡石神井村三宝寺の末山である。野寺山(または八幡山とも)弥陀院瀧本坊と号する。開山・開基ともに詳らかではないが、古い阿蘭若(※人里離れた修行の適地)であり、古歌に「武蔵野の野寺の鐘」など詠まれているのはこの寺のことであると寺伝に言う。また、昔はこの寺は今の十二天村にあった。そのころは七堂伽藍が甍を列ね、鎮守正八幡宮・白山権現・稲荷・冨士浅間・弁天以下30あまりの末社、300か所の坊に僧侶が充満して念誦の声が立つことはなかったという。それからはるかの星霜を経て、関東は戦争の地となったため、それほど盛んだった梵檀も衰え、その後、今の地へ移った。その移った時代は詳らかではない。小田原北条家の時代の末であっただろうかという。
    • 表門:八幡の山の下にある。南向き。
    • 裏門:同様だが、東の方に寄っている。
    • 本堂:表門の正面にある。9間×6間半。本尊不動明王の立像(丈3尺あまり)を安置している。
    • 宝物仏具数種:七堂伽藍であったときに用いていた古物である。右の外にも建治元年(1275年)に作った石仏、文正元年(1466年)の二十三夜待大勢至菩薩の供養塔などがある。
    • 阿弥陀堂:本堂に向かって左にある。3間四方。
    • 地蔵堂:阿弥陀堂の側にある。石仏の地蔵である。近年のものであるとのこと。この寺の住持が癪を患ったが、ついに起きることができなくなったことを知って、遺言し、ここに葬らせた。この僧はかねてから死期を知り、かつ臨終正念を得たことの奇特さに人々は感嘆した。この地蔵は墓のしるしである。これもこの僧の示寂が2月24日であって地蔵の縁日に当たるからであろうか。後に人々が参詣して種々の立願をするとおのおのその験を得たので、ますます奇異に思い、堂を営んで、今は近郷から参詣する人も多いと言い伝えている。
    • 鐘楼:これも同所にある。この寺は鐘の名所であって、古代にもその名は高かったと寺伝にいう。昔はこの鐘楼も鎮守八幡の社頭にもあったという。古鐘は昔、回禄の災(=火災)にかかったが、池の中へ投げ入れておいたところ後に失われたとも、また盗みが鐘楼に入って盗み去ろうとしたのを見とがめられたので鐘を池の中へ捨て去り、そのまま取り上げられずなくなったともいう。寺伝にはこのことについて様々な説があるが、みな妄誕であり、認めがたい。なお、下の古跡の条に載せたので参照してほしい。今、掛かっている鐘の銘にはこのようにある。
      満行寺鐘銘並序
      武陽野寺之郷。満行寺者。真言瑜伽之梵場也。本尊不動明王。鎮護八幡宮。堂舎介檜杉而森々。今飛泉清冷。而宜洗俗耳。往時於此地、有業平之詠歌。又往昔如靈鐘没池底之由来。別記縁起。寔為東海随一之旧跡矣。去萬治暦中。雖賢範光任造治一鐘。而以補於旧闕。會回禄之横災。而更亡失其之聲鳴。而星霜稍淹於爰。先師栄保復企新鋳永願。相継而現住宥盛諸檀越助縁造二尺銅鐘、而以令成先師素懐、然而頃需銘詞於余。以旧朋誰堪辞。卒為之銘曰。
      八幡山嶺 旧不朽名 金鐘新鋳 形容佩瑩
      捷槌一打 聖衆応鳴 霊音数振 五趣四頸
      三尊輻湊 八部遊行 上従有項 下抵獄程
      因此能響 済彼群生 呈於功夢 抜苦於色
      懿哉霜鐘 編為法盟 峯頭煙滅 瀑布水清
         法印長栄欽誌
      右の銘文によれば再造の鐘もふたたび回禄(火の神→火災)にかかって、今の鐘はその後の新しい鋳造ということになる。この野寺の鐘を古歌によんだもの、寺伝および世々の集に出るものを左に記す。その中には、受け入れがたいものが少なくない。しかし、ひとまず疑いのある寺伝に、「武蔵野の野寺の鐘の声聞けば遠近人ぞ道いそぐらん」これは在原業平が天長三年(826年)に詠んだものというものの、寺記のほかに所見もないので、いかがなものだろうか。また、世に歌仙三十六人の集というものがある。これは後人の手になったものであって、信用しがたいというが、その中の貫之集に野寺を詠んだ歌があるので、一応ここに記しておく。「はるるると思ひてもやれ武蔵野のほりかねの井に野寺あるてう」この鐘は亡失したというのだが、古いことであろうか。文明の頃はすでにこの鐘はなかったとみえて、廻国雑記にいう。「野寺というところ。ここにも行った。これも鐘の名所であるという。この鐘はいにしえ国の乱れによって土の底に埋もれたものであるという。ものまま掘り出さなかった。――おとに聞野寺を問へば跡ふりて こたふる鐘もなき夕哉」
    • 稲荷・榛名・天神・弁天・諏訪合社:本堂に向かって右にある。

墳墓

  • 古塚:村内辰巳(東南)の方にある。由来は明らかではない。

旧跡

  • 児ヵ淵:八幡の山下、弁天の祠のそばにある。今は埋められて2坪ばかりの地の窪んだところから清水が湧出している。この淵の名によれば、むかし、野寺の稚児がこの淵に落ちたということでこのように名付けたのであろうか。そういったことは言い伝えられていない。ただ言い伝えでは、いにしえ広い池であって、野寺鐘楼八幡の社地にあったとき、賊がかの鐘を楼上からおろして盗み去ろうとしたが、誤ってこの淵へ取り落とし、そのまま逝去したともいう。また、ある年火災にかかって社頭みな灰燼となったとき、鐘をこの地中へ押し落とし、沈めておいたが、後に紛失したともいう。そののちどうしたことか、この鐘は大津の三井寺にあるなど僧らが夢を説いたというような虚誕の妄説を言うが、信用しがたい。三井寺にあるのなら、戦国の際に賊が持ち去ってかの寺に至ったということになるのだろうか。いずれにしてもとかく言うべきほどのことでもない。

辻村

辻村は片山郷の中央にあって黒目里広沢庄に属している。家数80軒、東南は上片山村に接し、南西は野寺村に続き、西北に石神村がある。東は原ヶ谷戸村の境に至る。このほか、中沢村と堀之内村の地と錯綜しているところもある。村内の土地に高低があって水田は少なく、畑は多い。米穀はこの村から2里ほど北の方、新河岸川の中の引又河岸まで運び、その河岸から船路およそ16里を経て江戸に至る。村民は川越街道膝折宿へ定助を務めている。古来、御料所であって、寛永四年(1627年)江川佐兵衛・小長谷勘左衛門が検地した。今は川崎平右衛門の支配するところである。

小名

  • 陣屋
  • 内畑
  • 馬場
  • 道場

山林

  • 御林:一か所
  • 百姓持林:9丁1反。松雑木混じっている林である。村内に散在して134か所ある。

山川

  • 黒目川:村内では幅6間ばかり。水車が二か所あり、この川の分水を用いている。

原野

  • 上原:膝折宿寄りで、午房通りの上にある。

橋梁

  • 橋:黒目川に架かる。長さ6間あまり。

郡署

  • 御薬園 4:一つは小名陣屋というところにある。北ノ原に2つある。一つは小名道場というところにある。これは9反9畝ある。

神社

  • 氷川社:村の西の台、野火止の境にある。大門の間1町半ばかり。そのうち半町ほど奥に鳥居が建つ。本社は1間×9尺の宮作で、上屋は2間×3間ある。前に拝殿が建つ。2間×3間半。この社の鎮座の年代は詳らかではないが、古い勧請であるという。大問の両脇をはじめ社の三面に松すぎの老樹が隙間なく並んでひっそりしている。この村と原ヶ谷戸・上片山・堀之内5村の総鎮守である。むかし村内蓮光寺が当社の大門の側にあったときは持であったが、現在地に移っていくときに別当を円光院にゆずり、今はその院の持となっている。

寺院

  • 法台寺:除地4000坪。村の南の方にある。浄土宗鎮西派、江戸増上寺末山である。この寺は往古は時宗の道場であって、遊行二世他阿真教上人の開基であるという。創建の年代は明らかではない。上人は遊行十六年で元応元年正月27日相州当麻山無量光寺にて83歳で示寂した。中興開山は普光観智国師である。国師は天文十三年当国多摩郡由木村で生まれた。俗姓は由木氏。平山武者所季重の子孫、由木左衛門尉利重の次男である。十歳のときこの寺に入って蓮阿上人の弟子となる。このころまでは当寺は遊行派であったが、国師が18歳のとき鎮西派に改め、増上寺十世感誉存貞和尚の弟子となり、後、増上寺十二世の住持にうつり、元和六年(1620年)11月2日75歳で示寂した。この国師のことは世にも知られているところであり、また多摩郡由木村にもその伝が出ているので、それと照らし合わせて見てほしい。この寺は北条家分国のときは寄付の寺料も多かったが、御入国の初めに召し上げられていた。慶長年中、国師が乞い奉ったことから13石5斗の御朱印を賜り、今に至るまで変わらない。
    • 石地蔵:境内の入口左にある。
    • 庚申塔:同所右の方にある。
    • 中門:冠木門である。入口から100歩あまりへだてている。南向き。
    • 大門:中門からまた100歩ばかり奥にある。大平山の三文字が書かれている。
    • 制札:中門と大門の間にあって、東側に建っている。その文は以下のとおり。
      一 山林竹木境内諸役免許之事
      一 於境内殺生堅不可致之事
        月日   当山
    • 傍示杭:同所西側にあって制札と並んで建っている。増上寺中興開山観智国師の御剃髪のところと書かれている。
    • 本堂:門の正面にある。10間×11間。本尊阿弥陀如来の立像は恵心僧都の作である。この本堂はもと増上寺江戸龍ノ口にあったときの堂である。後に増上寺を芝へ移され、本堂以下新たに御造営あったため、法台寺は国師の剃髪の地であるため後に下し賜ったものである。
    • 東照宮御像:御丈7寸。観智国師が増上寺住職のとき御帰依が他にことなるものであったので、この御木造も当寺へ収まったものであろう。御宮も境内にあったが、最近壊れたため、今は本堂に安置し奉る。
    • 観智国師像:2尺5寸。慶長十六年10月国師65歳のときの寿像である。
    • 鐘楼:本堂に向かって右にある。本堂より廊下に続けて階段を設けている。鐘は銘文もあるが近年のものであるので略す。
    • 地蔵堂:鐘楼の側にある。小さい堂である。
    • 古碑 13:鐘楼の後ろにある。歴代和尚中興以後の墳墓からは南にある。13基ともに中に名号6字を大きく刻んであり、左右に年歴を記してある。その碑は東に向かって建てるものが6基。各々高さ6尺、幅1尺2寸ある。
       正和二年癸丑(1313年)七月廿一日
       元亨二年壬戌(1322年)十月日沙弥蓮阿之逆修也[2]
       嘉暦四年己巳(1329年)八月二十八日連阿弥陀仏聖
       元徳元年(1329年)十二月廿八日往生持阿弥陀仏
       建武四年丁丑三月十七日見阿弥陀仏
      (考えるに建武四年は延元二年(1337年)に当たる。辺鄙な地では改元が伝わらなかったと見えるが、こういうことは関東にはよくある)
       元亨二年壬戌(1322年)十月日藤原氏尚之逆修也
      (この一基は名号を刻んでいない。)
      また北に向かって建てたもの七基はそれぞれ高さ四尺幅一尺。その文にこうある。
       建武三年丙子(1336年)二月十七日以其男女追修幅有大金光照地蔵光中演説微妙法開悟父母発意 沙弥儷阿
      (この一基は名号を刻んでいない)
       貞和三年(1347年)三月十七日是一房往生
       文和二年(1353年)二月作阿弥陀仏往生
       延文二年(1357年)二月廿九日倫阿弥陀仏
       康安九年[3]九月六日連阿弥陀仏聖
       正和二癸丑(1313年)七月廿一日
       明徳二年辛未(1391年)十月廿六日眼阿弥陀仏
    • 龍灯椵(もみ=樅):本堂の後園にある。大きさ一囲ばかり。当寺の東、字馬場というところへいにしえ弁天が来降したことがある。そのとき、この木へ龍灯が上ったため龍灯椵という。これも僧侶の妄説であって信じることはできないが、寺僧が伝えるとおり記した。
    • 椵:本堂に向かって左にある。三囲ほどの老樹である。開山実植の椵という札が立っている。
    • 山王宮:大問を入って左、実植椵の側にある。土を盛ってその上に祠を建てている。一間に3~4四尺ばかりであるが、造作は非常に巧みである。宮の後ろに銀杏の老樹がある。大きさ三囲ほどに見える。
    • 古城跡:境内大門並木の北にある。4間四方ほどのちである。誰の館跡なのか詳らかではない。ただ古城跡と言い伝えているだけである。今は墓所となっている。
    • 塔頭 智光院:大門を入って左の方にある。創建の初めは詳らかではない。
  • 蓮光寺:境内五反。村の北の方、原ヶ谷戸村の境にある。新義真言宗。豊島郡石神井村三宝寺末である。医王山と号する。開山法印重元、明徳三年の創建である。当寺は昔は村内氷川明神の別当で、寺もその社地にあった。いつごろからか今の地へ移り、別当職も原ヶ谷戸村円光院に譲ったと言い伝える。
    • 表門:本堂の正面にある。東向き、両控作である。
    • 裏門:表門の並びで、南の方20間あまり隔てて建っている。
    • 本堂:10間に6間。本尊は薬師如来の坐像を安置する。もとの本尊仏はその貌がはなはだ小さいため、後にこの像を彫刻して本尊としたという。
    • 薬師如来像:弘法大師の作と言い伝える。長さ5寸ほど。本尊の側に安置する。これが昔の本尊仏である。
    • 不動像:作者不詳
    • 弘法大師像:同
    • 伝教大師像:同
    • 開山像:坐像。長さ1尺8~9寸ばかり。面相威望あり、畏敬すべき要望である。そばに位牌がある。「開山法印重元 応永七年(1400年)7月12日」と面に刻み、裏に「明徳三年(1392年)開寺 生国遠州人也」と刻している。この位牌は大変古いものとみえて潤飾もみな剥落し、殊勝なものである。そのほか開山の事実を調べてもわからない。
    • 弁財天像:坐像。長さ1尺5~6寸。中古まで当寺の南に当たる田の間にこの弁天の堂があったが、一旦破壊したため、しばらくこの本堂に安置する。その堂の跡は今に至って除地であるという。
    • 稲荷社:本堂に向かって右にある。小祠である。
    • 古碑:墓所にある。応永五戊戌と刻して上に阿弥陀の種子(梵字)がある。そのほかの文字は滅して読めない。
  • 地蔵堂:蓮光寺から南にあたる。堂は2間4面。本尊地蔵は立像で長さ9尺ほど。
    • 寮:境内堂の正面にある。別当は蓮光寺から僧を置いて地蔵堂を守らせている。
    • 古碑:境内墓所に建つ。応永六年(1399年)の字がかすかに見える。
  • 観音堂:地蔵堂の南西に当たる。小堂の内に石像の観音を安置する。台石に享保十五龍集甲戌年夏四月初八日と刻する。百姓持。
    •  古碑3:一つは永仁五年(1297年)と刻す。一つは永仁六年(1298年)七月と見える。一つは貞治五年(1366年)六月廿日と刻す。三碑とも上に阿弥陀の種子を彫る。

古跡

  • 新塚:村の北の方、膝折町の地の境にある。土地の人によれば、東照宮(※徳川家康)がこの地で御鷹狩りのときにおっしゃるには、「古歌に『武蔵野は月の入るべき山もなし 尾花が末にかかるしら雲[4]』『出にも入るにもおなじ武蔵野の尾花をわくる秋の夜の月[5]』、また『武蔵野は草のはやまも霜枯れて出るも入るも月ぞさわらぬ』あるいは『武蔵野は草の葉山の陰分て出も入も月ぞさわらぬ』ともある。また、宗祇の連歌にも『雲入嶺もしらぬ行末』とあったのに『武蔵野や草のはやまの陰わけて』と続けていたこともある。この野に昔から山がないのであれば小山を築くように」と命ぜられ、慶長十一年(1606年)鍬が入れられて日ならず山となった。これに上って望めば荒野を眼下にみなして類なき眺望であったという。その後はこの辺の遠近みな田畑となり、あるいは樹木生い茂って眺望も昔のごとくではないというが、今もここに上ってみると野火止の辺、平林寺の木立から膝折・大和田の辺を眼下に見下ろして景色の地である。その地のありさまは天然の山のようであって、人が築き立てた塚には見えない。また村の老人の説に、「もと二位塚と書いた。これは官女が二位のしるしの塚である」として、二条の后のことを付会したものは妄言であってさらに受け入れがたいことである。

原ヶ谷戸村

原ヶ谷戸村は片山郷の内、北の方にある。広沢庄に属す。この地はもと原野であって、所々に谷がある。故にこの永起こったのであろう。方言に谷を「やつ」とも「やと」とも呼べるゆえ「たに」と読まないようにするために戸の字を加えたのである。鎌倉の地名に扇谷・比企谷・亀谷などがある。当国の中でも豊島郡宮ヶ谷戸村がある。また、同郡滝野川村の端村「谷村」はただちに「やと村」という。このほかにも谷戸と称するところは多い。家数24軒、東南は上片山村の地に接し、西は辻・中沢2村と入りまじり、北は下片山村の地に隣る。平地・谷戸が出会う所々でうちまじって、田畑ともに等しく見られる。元和九年(1623年)12月晦日、桜井庄之助勝成に賜ってから今に至って子孫庄之助応勝が知行する。

  • 駒形:辻村と当村の境の辺をいう。

山川

  • 黒目川:辻村の方から流れてきて村内を屈曲して下片山村に入る。

神社

  • 駒形権現社:除地5畝。字駒形にある。本社は宮作である。上屋2間四方。前に鳥居を立てる。鎮座の年代など詳らかではない。
    • 別当 円光院:年貢他。20間四方ほど。権現の社前にある。真言宗新義。隣村下片山の東福寺の末。駒形山と号する。寮は4間半に3間半。本尊観音を安置する。また不動の像もあって、前に護摩壇を設ける。当院開基の年歴も詳らかではないという。前住代々石碑の内に、権大僧都法印胤恵 (1736年)5月4日と刻まれている。これより古い年号が見られないとすれば、古い開闢ではないことを推して知るべし。
    • 観音堂:本堂の前にあってはるかに権現の社と相対する。2間四方の堂である。

下片山村

下片山村は片山郷と東南の極にある。元禄の図に片山下村というものが当村のことである。広沢荘という。家数40軒。南は原ヶ谷戸村の地と入り合い、東北は膝折町に隣り、西は野火止宿の地に接し、広狭はたいてい東西へ8~9町、南北へ5~6町の間にある。村内ところどころに野合があり、田畑がうちまじる。中古には羽田氏が賜ってから代々知行して今の善太郎に至る。

小名

  • 貝沼:村より西の方にあって野寺村に隣るところわずかの飛地である。

山川

  • 黒目川:原ヶ谷戸村より流れてきて村内を屈曲して膝折町へ入る。

神社

  • 弁天社:村内西の方、黒目川の岸にある小社であるが、巧みに造られていて、前にたっている鳥居もそれほど小さくない。側に大木が立っていて古色に見える。

寺院

  • 東福寺:村の中央にある。新義真言宗。石神井村三宝寺の末。十王山と号する。客殿7間に5間。本尊薬師如来を安置する。開山開基ともに詳らかではない。
    • 焔魔堂:門前にある。
  • 阿弥陀堂:村の東北にある。2間四方の堂で、道心者がここにいる。名主持。

注釈

  1. 原文は寺院とあるが明らかな誤りのため訂正した
  2. 逆修とは生前にあらかじめ自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ることである。
  3. 康安は二年までしかなく、康安九年は存在しない。康安元年は1361年にあたるため、1369年を指すのかどうかは未詳。
  4. 武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花が末にかかる白雲(425番)源通方『続古今和歌集』
  5. 出づるにも入るにも同じ武蔵野の尾花を分くる秋の夜の月『玉葉集』巻十四:雑一
新編武蔵風土記稿
郡図、総説
野方領
石神村、堀之内村、(堀之内村枝郷)栗原村、十二天村、中沢村、上片山村、野寺村、辻村、原ヶ谷戸村、下片山村
大和田町、野火留宿、菅沢村
館村、北野村、上内間木村、下内間木村、宮戸村(附持添新田)、浜崎村(附持添新田)、溝沼村(附持添新田)、膝折宿(附持添新田)
岡村、広沢原新田、田島村(附持添新田)、根岸村、台村、上新倉村、下新倉村
上白子村、下白子村、橋戸村、小榑村、上保谷村(附持添新田)、下保谷村(附持添新田)