新河岸川舟運

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新河岸川舟運(しんかしがわしゅううん)は、武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)周辺と江戸(東京)の間を結んでいた水上交通網・流通システムである。新河岸川(旧流路)および荒川を経由するルートで、江戸時代初期から昭和初期にかけて約300年間にわたり、地域経済を支える幹線物流インフラとして栄えた。

概要

 新河岸川舟運は、武蔵野台地北東縁を流れる新河岸川を利用した舟運である。昭和初期の河川改修以前の旧新河岸川は、伊佐沼(川越市東部)に源を発し、豊かな水量と「九十九曲り」と呼ばれる著しい蛇行を描きながら、新倉(現・和光市)付近で荒川に合流していた。荒川を「外川」と呼ぶのに対し、新河岸川は「内川」と呼ばれた。

 新河岸川の舟運は、川越藩による領主御用の物資輸送に始まり、やがて農村の発展や都市消費の拡大に伴って発展した。川越から荒川を経て江戸の浅草花川戸に至る舟路は約30里(約120km)に及び、新河岸川沿岸には23か所、合流後の荒川筋には16か所余りの河岸場(船着場・港)が連なっていた。

沿革と成立背景

川越五河岸の成立と領主御用

河岸場は、当初、川越藩をはじめとする領主の要請と主導によって開設された。特に重要な役割を果たしたのが、川越城下に近接する川越五河岸(寺尾・上新河岸・下新河岸・牛子・扇)である。

寺尾河岸
寛永十五年(1638年)、川越城主・堀田正盛が東照宮(川越仙波)再建資材の運搬のため、渇水期で使用不能だった荒川筋の平方・老袋河岸に代えて臨時の荷上場を設けたことに始まる。
新河岸(上・下新河岸)
正保年間(1644~1648年)頃、川越城主・松平伊豆守信綱によって開設され、後に上新河岸と下新河岸に分かれた。信綱は川越の都市整備および川越街道の整備と並行して水陸の交通体系を確立した。
牛子河岸
寛文四年(1664年)、城主・松平輝綱(信綱の子)が、江戸から瓜や茶の栽培用肥料を運び込む荷上場として設置した。
扇河岸
天和三年(1683年)、城主・松平信輝が江戸大火(お七火事)で焼失した川越藩江戸屋敷の再建資材を搬出するため臨時荷積場を設置。後に川越商人らの手で問屋が整備された。

江戸時代を通じて「御公儀・領主御用」が最優先され、年貢米の江戸への移送と貨幣化、および江戸からの物資調達が舟運開発の主目的であった。川越五河岸だけでも20軒以上の船問屋が集中し、新河岸川最大級の物流拠点群を形成していた。

中河岸の展開と地域経済の発展

川越五河岸から引又(志木)河岸までの河岸場群は中河岸(なかがし)と総称された。

元禄年間(1688~1704年)に川越城主・柳沢吉保が進めた三富新田の開発をはじめ、武蔵野の原野開拓が進むと、周辺農村の生産力が向上した。農林生産物の増加、肥料や生活必需品の需要増、江戸の巨大消費市場の発達が相互に影響し、中河岸は有力農民や商人層の手によって急速に活用・整備されていった。天明期(1781年~)までには、主要な河岸場のほとんどが開設された。

主な河岸場一覧

荒川合流点(川の口)から上流に向かって以下の河岸場が存在した。

  • 下流・黒目川筋:新倉(和光市)、井口、台、根岸、浜崎、宮戸(以上 朝霞市)
  • 中流(中河岸):引又、宗岡(以上 志木市)、前河岸、山下、鵜、鶴馬本河岸、蛇木、伊佐島(以上 富士見市)、百目木、福岡(以上 ふじみ野市)
  • 上流(川越五河岸等):古市場、寺尾、下新河岸、上新河岸、牛子、扇、仙波(以上 川越市)

ただし、新倉と仙波は明治時代の開設である。

経営と流通構造

船問屋の役割と権益

初期は領主御用達の商人が河岸を運営していたが、物資流通の拡大に伴い、仲介を専門とする船問屋が成立した。幕府は安永二年(1773年)の河岸吟味において、船問屋の営業権(問屋株)を公認し、統制を図った。川越五河岸の公認問屋数は最盛期で30軒(上新河岸8、下新河岸・扇・寺尾各7、牛子1)に達した。

船問屋の業務と機能は多岐にわたった。

  • 運送仲介と口銭:荷主から運賃を徴収し、約1割の手数料(口銭)を得て残りを船頭・船持ちに支払った。
  • 倉庫業と金融業:荷物を保管する蔵敷料を得るほか、荷物代金や運賃の立替払い、金利取得を行った。
  • 仲買商・商業経営:肥料や塩などの仲買問屋、船宿、飲食店などを兼業し、莫大な利益を蓄積した。

一部の船問屋は、困窮した農家の土地を集積して数十町歩を所有する大地主へ成長し、川越城下の商人を凌ぐ経済的影響力を持った。

船の種類と運行形態

喫水の浅い構造の船が用いられ、主に70~80石船(積載量15~19トン、米250~300俵程度)が主流であった。

船の区分 特徴・用途 航行日数・定期性
並船(なみぶね) 不定期の貨物船。材木・穀物など重量物を運搬。 不定期(7~20日程度)
早船(はやぶね) 定期貨物船。日・六のつく日に出航する「一六船」「二六船」などがあり毎日運航。荷主の上乗せや後に旅客も輸送。 1航海4~5日(夜行の下りは「川越夜船」と呼ばれた)
急船(きゅうせん) 急ぎの荷物を輸送する不定期船。 2~3日
飛切(とびきり) 主に江戸からの鮮魚などを運ぶ最速船。船頭4~5人が常時漕ぐ。 1泊2日(今日下って明日戻る)
その他特殊船 藩の御用船、江戸から糞尿を運ぶ「葛西船」、秋・冬に野菜を運ぶ「雁船」など。 —

川越夜船は「一晩寝ている間に江戸に着く」といわれ、その利便性から旅客利用が急増したため、川越街道の宿場町から客足の減少を訴えられ、幕府道中奉行を巻き込む問題に発展することもあった。

航行技術

新河岸川内では主に棹(さお)を用い、流路が広い荒川に出てから櫓(ろ)や帆を使用した。引又河岸付近までは潮の満ち引きの影響を受けたため、干満を利用して航行した。荒川から新河岸川に入る「川の口」では、「のっつけ」と呼ばれる舟曳人足が陸から綱で船を引っ張って遡上させた。

また、船頭たちの間では千住(水陸の要衝)に由来する「川越舟唄(千住節)」などの舟唄が唄われた。

輸送物資と広域流通網

新河岸川舟運は、武蔵国西部のみならず、信州(長野)や甲州(山梨)にまで至る広大な集散圏を持っていた。

主な積荷

上り荷(江戸・東京 → 内陸)
  • 食料品・日常品:塩、醤油、酒、酢、塩魚(鰹節など)、麻・綿・織物原材料、荒物・小間物
  • 資材・肥料:干鰮、油粕、糠、木灰、下肥(葛西船による)、石材
下り荷(内陸 → 江戸・東京)
  • 農林生産物:米・麦・雑穀(俵物)、甘藷(さつまいも・明治以降)、素麺(川越名産)、木炭
  • 建築資材・地場産品:材木(西川材)、八王子石灰(城郭・土蔵の建築材料)、戸障子、醤油、油

集散地域

  • 川越五河岸:川越、松山、越生、飯能、青梅方面の荷
  • 福岡・古市場・蛇木など:三富地域の農産物
  • 引又(志木)河岸:所沢、八王子、青梅、東村山、立川、甲州方面の荷

明治以降の繁栄と衰退

明治維新後も仙波河岸や新倉河岸が新設されるなど舟運は活発であったが、鉄道網の発達と治水事業(河川改修)という2つの要因によって急速に衰退へ向かった。

1. 鉄道網の整備による影響

  • 1889年(明治22年):甲武鉄道(現・JR中央線)開業 → 志木(引又)河岸の主要商圏であった山梨・東京都北西部の貨物が移行。
  • 1895年(明治28年):川越鉄道(現・西武国分寺線・新宿線)開業 → 甲武鉄道経由で東京と直結。
  • 1906年(明治39年):川越電気鉄道(川越~大宮)開業。
  • 1914年(大正3年):東上鉄道(現・東武東上線)川越~池袋間が開業。新河岸川と完全に並行する同線の開通により、大半の貨物が鉄道輸送へ転換した。

ただし、東上鉄道に関しては舟運業者が誘致した側面もあり、鉄道によって舟運が廃れたというより、舟運から鉄道に乗り換えたというほうが適切であろう。

2. 河川改修と通船停止

新河岸川は著しい蛇行のため水はけが悪く、しばしば大水害を引き起こしていた。明治四三年(1910年)の関東大水害を契機に荒川の大規模改修計画が始まり、続いて新河岸川の改修工事も決定した。

大正八年(1919年)より埼玉県による直線化・水路改修工事が開始され、昭和三年(1928年)に改修工事に伴う通船禁止令が出されたことで舟運は完全に停止し、約300年にわたる歴史に幕を下ろした。

参考文献

  • 齋藤貞雄 編『新河岸川舟運の盛衰』(昭和四十五年=1970年)
  • 埼玉県教育委員会『新河岸川の水運』 (歴史の道調査報告書第8集)(昭和六十二年=1987年)
  • 上福岡市立歴史民俗資料館 第8回特別展『新河岸川(舟運)の福岡・古市場河岸』(平成二年=1990年)
  • 神山健吉 著『武蔵の商都 「引又」の栄光 新河岸川舟運を最大に享受』(平成二十九年=2017年)
新河岸川舟運