玉川上水の建設者 安松金右衛門/08

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三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』の現代語訳 第八章

(現代語訳:利用者:シラキのコホリのツカサ

その八 川越運河

 川越と江戸とをつなぐ新河岸川の漕運。奥州道中・木曽道中から外れたこの都会は、江戸へ水上二十里の漕運が開けていたために、中武蔵・奥武蔵への物資が、ここから出入するので、商売も繁昌し、土地も賑やかでありました。それは新河岸川の恩恵であります。この新河岸川について、川越史科は大体を『新編武蔵風土記稿』にしたがって、

正保元年、この年のころ、新河岸川舟を通じる
〔風土記〕入間川総説。新河岸川。(上略)この漕運の便宜は、いにしえの川越領主伊豆守信綱の時から始まった。その年代は正保元年(1644年)とも、また寛文二年(1662年)であるともいう。考えるに、榎本『万之覚』に三年すでに舟便云々と記されている。今、正保元年説に従う。
〔同〕上新河岸。この村名は正保ノ改には見えない。元禄に至って始めて見えるので、その間に開けたのだろう。これ以前、御打入の後、ようやく土地が開け、川越城近郷の運送の便をよくするため、これを舟着き場とし、新たに河岸場を開いたため、新河岸と名を記すという。村名を上下に分けたのは、新河岸川水流によって分けたものである。寛文二年四月二十四日に造られた石地蔵の後光に沢田甚右衛門尉が始めてこの河岸を開いたことが彫られている。
〔同〕下新河岸。慶安の水帳に新河岸と記され、元禄六年の水帳には下新河岸と記されているので、これ以前に上下の名が分れたのであろう。

と言っておりますが、榎本弥左衛門『万之覚』には慶安五年(承応改元、1652年)に、川越の家老・深井藤右衛門が、建築材料を舟廻しにしたことはあるが、まだ新河岸という名前はない。新河岸という名は承応二年(1653年)以後になって書いてあります。

 新河岸川と呼んでいるこの川は、川越市の東方、芳野村の伊佐沼(旧四十一町歩、埋め立て十三町歩、現在二十八町歩)から、市の南を流れ、仙波を経て新河岸に達する。この間一里五町、これを九十(ぐじゅう)川という。ここから新倉で荒川へ合流する。新河岸~新倉の間は四里半、川勢は屈曲、まがりくねって俗に九十九曲りと呼ばれる。昭和六年三月、新河岸川改修工事が成って、九十九曲はもう見られない。屈曲を除いて水流をまっすぐにし、旧航程の半ばを短縮した。そのため、今日は舟楫を通じることができなくなった。寛永十六年、松平信綱が川越城主となるや、まず当所の水利を考え、早く運河の計画を定め、この河川の改修工事を成したようである。船着の便宜を考えて、発着に利があるようにと新河岸を開いたため、運河ができてから数年の後にできたのだろう。運河峻成当時は、おそらく新河岸はなかったようだ。

 この運河の工事はだれによって成功したのか、ほとんど話にも出ないありさまですが、誰かこの仕事に当たった人がいなければなりません。しかし私はただいま、前にも引用いたしました小島文平の訳書にある、小畑・安松の両人が川越まで内川の通船に成功したという、その記載を繰返すより外に、何も持っておりません。伊佐沼~新河岸間を流れていた九十川を改修し、さらに新河岸から新倉で荒川へ合流させる内川水路を治定した功績は、伊呂波樋の巧妙な施設と共に、だれの手腕によったかを究明して、その報恩・謝徳を怠ってはならないでしょう。しかし信綱の流儀で、文書等を遺しておりませんから、この運河の膨大な恩徳は、当該地方だけでなく広くこうむっておりますのに、誰が働いて工事を成しとげたのか全くわかりません。もし詳しく調べたら、安松金右衛門が民政に寄与した功績がほかにも多くあるのではなかろうかと思います。この穿鑿は、今後長く、川越市がやるべきことでしょう。

 新井白石の『紳書』に、「信綱が金右衛門に命じて、多摩川の水を十六里引かせて新河岸に達せさせようとした」というのは、玉川上水を分けて野火止用水、その野火止用水の流末を宗岡村伊呂波樋で誘い、遂に新河岸川へ落ちることからの間違いで、玉川上水は玉川上水、野火止用水は野火止用水、伊呂波樋は伊呂波樋、川越運河は川越連河で、それぞれ別々のもので、最初から玉川上水の末を荒川へ落とすように計画したのではありません。決していちどに十六里引水したのではありません。この際、まさにこの事を論じておきましょう。

注釈


玉川上水の建設者 安松金右衛門