玉川上水の建設者 安松金右衛門/04
三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』の現代語訳 第四章
(現代語訳:利用者:シラキのコホリのツカサ)
その四 玉川兄弟の失敗
玉川上水は今日でも分水口が十六箇所ございますが、享和の頃は三十三箇所ございました[1]。この分水口について、いつも色々と問題が起こりますので、郡代からも御普請奉行からも、常に吏員を出して実地を踏査させております。誰もが知っている大田南畝の『調布日記』[2]は、文化五年の十二月から翌六年の四月まで、当該地方を巡回した記録であります。南畝はそのほかに『向岡閑語』と『玉川砂利』[3]を書きました。ああいうものは南畝以外にもいくつかあってもおかしくないのに、一向に伝わっておりません。
佐橋長門守は職掌の上からも、知っていないはずはありません。また、幕閣としても、どんな地方問題が起ってくるかもしれないため、『玉川上水堀之起発並野火留村引取分水口訳書』のような調査が必要なので、老中松平伊豆守が調査を命令いたしましたのも、自分の領地に関するだけの意味ではありますまい。
命を受けた佐橋長門守は附紙をして「玉川上水堀割之規発並野火留村引取分水口訳書帳面、ご覧に入れますことにつき、申し上げました書き付け」と書いて、本書の来由と信頼できる理由を述べています。
- 千人頭・原半左衛門の組で与頭(くみがしら)を務める小島文平は、その土地の生まれ育ちでございますので、玉川上水の掘り割りの始まりや、野火止村への分水口が作られた訳について、先祖より申し伝えたこと、地元の伝承をよく心得ているとのことでした。そこで、文平が江戸へ出て参りました折に呼び寄せて詳しく尋ねてみたところ、玉川上水の掘り割りの成り立ちについては、役所の書留(公式記録)とも一致する点が多くございました。その上、野火止村への分水の訳についても、以前お下げ渡しいただいた御留書(控えの文書)の内容を念頭に置いて聞き取りましたところ、事実として合致する点が多々見受けられました。これは有力な参考資料になるのではないかと考え、彼が話した内容を書面にして提出するよう命じましたところ、このたび別帳(報告書)を差し出して参りました。つきましては、内容をご高覧いただきたく、ここに差し出します。以上。
- 亥の年九月
- 佐橋長門守
この亥年というのは享和三年(1803年)であります。それは大河内家文書の中に、
- 享和元酉年
- 一 当時水道御奉行佐橋長門守様の由、野火止名主申聞之
とあるだけでなく、累代武鑑御普請奉行のところに、
- 享和元酉十一月十二日 御目付より
- 文化五辰十一月廿六日 京都町奉行
- 佐橋長門守佳如(ヨシユキ)
と見えますのでわかります。ただ残念なことには、松平伊豆守信明から佐橋長門守へ交附した留書というのが、大河内家にその控えがあるはずなのに残っておりません。
小島文平は当時千人同心で、八王子千人町におりましたが、その先代・善兵衛は小川村に住み、大庄屋を勤め、村内の人足を引き連れて玉川上水工事に参加した。それゆえ野火止分水堀割にも立合ったので、詳しい申し伝えもある。佐橋は文平の申立を聞取り、勉めて証拠を求め、是認すべきことを知り、さらに書面にさせて、分水口の現状記録とともに幕閣へ答申したのでございます。
小島文平の書面に従えば、庄右衛門・清右衛門の設計は二度も失敗している。その失敗の証拠は古堀敷を残しておりますから、動かせない事実と思います。古堀敷の踏査は別に書きますが、まず第一の失敗は、
- 玉川は水元が甲州都留郡 小菅山・多波山、武州多摩郡 日原山の渓間から流れ出、三流合同し、厳に争い流れ下るため、水は非常に軽い。長流水なので仙薬に等しいため、御本丸かかりになり、その残水を御城下へ下されたので、これに勝る御救があるだろうかちうことで、武州多摩郡国分寺村の真姿の流れを、合水に引入れるのがよい、と目論んだ。多摩郡日野の渡の側にある青柳村の下、今の府中領田用水口から引き入れ、府中八幡下から往還の方へ堀曲げ、梁谷村の裏通を掘り、合水としたならば、出水のとき、堰を押し流しても、狭山にある筥が池も、武蔵野を流れ流れて谷保村にて合水になり、南池とも水流れ流れるだろう。三筋合同すればひでり水の災いはない。そこで四ツ谷大木戸へむけて盛り渡した。すると、八幡下は井筋が低く、水入かねた古堀敷が甲州海道堰屋塚前にある。
ということで、失敗の証拠は府中八幡下にある。享和三年に小島文平の書いたものは、玉川上水工事のあと百五十年過ぎた後年の記録ではあるが、ただ後年のものだというだけで放棄していいというわけではない。当時のものだからといっても吟味せずに鵜呑みにする訳には行かないのと同様でこざいます。文平の書き上げにしても相当な取捨選択が必要でありますが、玉川兄弟の設計の第一の失敗は、八幡下の古堀敷を証拠として、前掲の記載を採用いたしたい。それから設計を新たにして、
- それから六、七里、川上へ登り、福生村地口から引き入れ、四ツ谷までの水盛も済み、関東御代官・伊奈半十郎殿、承応二年よりなお伊奈半左衛門殿かかりで、家来差出、御扶持方を給わり、人足は村々より差出し賃銀をくだされて、堀渡しを行った。大猷院様(家光の諡号)の思し召しを継がせられ、厳有院様(家綱の諡号)にもご賢慮を御いたわしあそばされ、どれほど堀割ができたか見分してきなさい、と惣奉行・松平伊豆守(信綱)殿へ上意があった。その日帰りで時々ご見分したところ、御城より直に御一人乗切で、御越しなさって、堀割の始末について言上があったという。
伊奈半十郎(忠治)は承暦二月十一日、玉川水道奉行になったのであります。この人は庄右衛門・清右衛門の案内で、第一設計の踏査をしております。伊奈半右衛門(忠克)[4]は半十郎の嫡男で、父が承応二年六月二十七日逝去いたしましたから、代わって水道工事の係になったと見えます。ここは文平の書き上げの書き方がよろしくないので、わかりにくい。伊奈の系図で見ますと明白です。家綱将軍が二度日の設計によって始めた工事を心配されたというのは、いかにもありえることと思われます。しかし、松平信綱は、庄右・清右が上水の設計を申し立てたときから阿部豊後守とともに関係しておりますが、この工事の惣奉行になったというのははっきりとしません。いろいろ探して見ますと、宮崎成身の『国字分類雑記』[5]玉川上水の項に、
- 承応二癸巳年正月十六日、松平伊豆守を奉行として、玉川上水を江戸へ引くための水道を穿たせた(山本筆記)
とあるのを見つけました。だが、『山本筆記』は見ておりません。植田孟縉の『武蔵名勝図会』[6]にも、信綱が総奉行であったと書いております。前にも述べましたとおり、松平信綱に関する資料は稀少なのでありますから、宮崎氏に感謝しなければなりません。こうして、小島文平の臆測の説ではないことがわかりました。もちろん、他に傍証もございます。さて二度目の設計で工事を進めていきますと、
- さて、堀渡も済み、江戸表へ水懸りは間違いないということを申し立て、水を仕懸けたところ、今、字に水喰土と唱えるところ、熊川村地内で水は残らず地中に引きしみてしまい、流れなかったので、詮方(せんかた)も尽きた。伊豆守殿の家来・安松金右衛門に再び水盛するように伺いがあり、仰せつけられた。
今度は熊川村で水が止まってしまいました。これも古堀敷が残っており、今日も水喰土と書いてミヅクラヒド(みずくらいど)と字(あざ)の名を呼んでおります[7]。『武蔵名勝図絵』に、
- 上水口跡 福生村の西寄り。ここに玉川上水口の堰所がある。そのいわれを知る者はいないが、堰の跡があって、今は水も入らない。伝へに言うには、玉川の最初の引入口に堀ったが、水道が便利ではないために工事がとまり、今の羽村の地へ掘り替えた古堰であるという。傍に関上明神の小社がある。これは初めに堰口に水神を祀った小祠である。
というのが、それだと思われます。
第一の青柳村線、第二の福生村線、どちらも失敗に帰しましたから、松平信綱は自分の家来の安松金右衛門に設計させた別の案で幕閣の指揮を求めたというのであります。そこで別案によって工事を進捗させることになり、安松は全部で三種の設計をいたしました。
- 羽村地内尾作から五ノ神村に懸り、川崎村へ堀込み、福生村にて出合う積りで水盛りを渡し、堤なく、堰も洗堰で、万代不朽の御場所であることを申し上げた。
これが第一案で、
- 羽村地内阿蘇宮から堀り込み、川崎村へ懸り、福生村へ落ち合うべき積りで水盛をし、尾作同様の御場所、
これが第二案で、
- とりわけ阿蘇宮の方が勝っている訳は、尾作は水突き当っているため、水門の保ちがどうであろうか。その上、御田地が多くつぶれ、阿蘇宮も少しは御田地が潰れるので、なお場所を見立てるべきであるという御評議があり、
安松はさらに第三案を提起いたしました。
- 羽村前、丸山裾から水を反させ、今、水神の社を祀っているところに堰入、川縁通り堤を築き立て、井筋とし、福生村より堀入、熊川村地内から拝島村裏まで、水喰土の前後は捨塀にし、堀筋を替え、水仕替け、狭山にある筥が池の流れも、今の砂川村裏で御上水に跨るので助水合同し、江戸へ十分に水懸り、
この第三案が採用されて、玉川上水工事は成功いたしました。
- 御上水堀渡のことは、信綱朝臣の善政が多い中、三大政のひとつである。これにより御上水懸り高三歩倒褒美として下されたということで、(伊奈)半右衛門殿家来、堀割を取扱われた出役の者も、それぞれに御褒美も下されたという。また、庄右衛門・清右衛門は玉川と名乗るべき旨、苗字御免があった。明暦三年、銀九貫七百五十匁下され、羽村水元の御普請、江戸内の樋耕伏替え、水銀を取集めることを仰せつけられた。
といい、なお、
- 安松金右衛門の水盛、堀割は御郡代の懸りであって、最寄の村々から人足を出し、願人は庄右衛門・清右衛門、
といってあります。安松の設計によつて伊奈の手で工事をなし、玉川両人は発見者として記録されたというのです。玉川両人の書き上げにも賞与を受けた日時が見えません。したがって、『上水記』を初めとして、玉川両人の書き上げによって書いたものには、いずれも受賞の時日がないのでございますが、『徳川実紀』には「承応三年六月廿日、この日、去年命ぜられた玉川上水が成功したため、そのことを奉った町人へ報金三百両を下された。」と書いてあります。褒美の金だけ頂戴しているのですから、苗字帯刀を許されたことが疑わしくなり、『府内備考』などは、武蔵野開墾人の中に玉川次左衛門という者があるのを挙げて、「書上にいうように、玉川姓を賜わったというのもいかがであろうか。」と言っているのが目につくようにもなります。もちろん、庄右・清右が玉川を上水によろしいと見立てた。その発見は確かに彼らの功績に相違ありません。
玉川両人は再度失敗しておりますが、その設計には実測しないはずがない。どのような方法を執ったか、それについて阿部弘蔵氏の発表されました『玉川上水ノ工事』[8]がございます。これがすこぶる面白く思われます。
- この頃は測量の術もいまだ開けておらず、量地の品などもなかったため、清右衛門兄弟がこの水路の高低を量るには、ひたすら夜に業をなした。役夫らに、程近い所には線香の火を持たせ、程遠い所には提灯を持たせて、かなたへと行かせ、その火の光りが見えないのを度とし、前に量った場所を準として尺をあて、ここはあそこから何尺何寸何分高く、この場所はあそこから何尺何寸何分低く、この地はあの地から何十尺、左の方に寄り、あの場所は何百尺、右の方に傾いている、ということを明らかにし、再三測り、試みて、始めて水路となすべき一つの線を見出し、これを上水の渠と定めたという。
阿部氏は何によって書いたのか、出所を述べていない。しかし、こういう測量の方法は、以前から行われていたので、『常山紀談』[9]にも、
- 朝鮮の平安川は深さ八~九尋、四~五百石積の船の往来があって、日本では見ない大川なので、川の広さを諸家の士が、七~八町、十町、あるいは十二~三町あるだろうなどと言うが、明らかではなかった。恩田長政の士、吉田六郎太夫・又助の父子に見積りをせよと下知された。そのようなことに慣れていないため、覚束ないと辞退したが、父子の組に功みな者も有あるだろうと言われた。翌朝、又助は組の士を引きつれ、川岸に出、川の向こうに朝鮮人が三人見えた。又助、「小柳権七は身長が高い。あの向いの人が退かないうちに、急いで堤の上を行け。指物を振った時、踏み留まれ」と言い含めた。権七は走って行き、その身長が向いの人と同じに見えるとき、指物を振ると立ち止まった。そこでその間を打ってみると、八町五段である。長政はこれを聞いて「又助二十一歳、老功の者にも劣らない」と称美された。
とあって同じ方法なのです。この方法によって玉川両人が測量したというのだが、小島文平は野火止分水の話にして、こういっております。
- 野火留用水口のこと、堀割の始末に種々の雑説があるが、伊豆守殿が拝領したという話が里語(地元の伝承)と符合している訳は以下のとおり。堀筋は上口が一間半、敷(底)が一間、左右の土手が一間、分水口から四里の間は除地(年貢免除の地)とされた。これは、御褒美としてくだされたものではなく、私領の免直り(めんなおり=年貢率の調整)ぐらいであったが、御料所の地所を潰し、特に堀筋を往来自由にさせるためであった。そのため、道敷まで領地として下されるというはずもなく、この点をもって推測しても明らかである。拝領があってからは、昼夜を問わず、水盛・掘割をおこない、灯燈の腰に黒く筋を書いて目印・目当にした。後に金右衛門はこれを平林寺へ納め、その功績を永く伝えようということで、今もこの寺では、その合印(マーク)の灯燈を用いているという。
信綱が玉川上水の三歩を拝領して、野火止用水を疎開したことは、全く伝説だけであって、文献の証拠となるものはありません。また、野火止用水のように、大名が自分の領地のために、幕府の施設物を頒与され、土地をも使用させた例もないのです。それはまず差し置きまして、安松金右衛門が野火止用水設計の際、測量に使用した提灯を、信綱の菩提所である野火止平林寺へ納めたということですが、現在平林寺では山道のついた提灯を使用しております。吉田藩士・長坂氏の『自他隨筆』に、
- 平林寺の燈灯の印は山道形である。御屋敷下目付の燈灯印も同じことである。竹の尺を定め、燈灯をともし、高下を見たのである。
- 所は堀わりはしない。二つ三つ探っておけば、水勢が強いため、三~四日に自然と水道がつくという。
- 山道形
- ――高いところは掘けずれ、と。
- ――低いところは土手をきずけ、と。
- 水利のときの燈灯の印である。
山道の提燈は安松が水利工作の時に便用したものであることがわかる。また、長坂氏によって、小島文平が平林寺へ納めたというのも確かだとわかります。阿部氏が出所をいわずに、玉川上水の測量に便用した提灯の話の根拠も分かってきました。山道の提灯を玉川両人が測量に使用したことは旁証がなく、安松が使用したことは後々のものにもせよ書体があり、平林寺では現在も便用しております。阿部氏のは伝説の聞き書きと思われますが、それさえ安松が例の提灯を使用して、玉川上水工事の測量をいたしましたから、当該地方にも伝説が伝わっているのではないかとさえ思はれます。もちろん、玉川両人が使用したものならば、松平家(今日の大河内子爵家)で襲用されるはずのないものと思います。
『高士略伝』に、安松が野火止用水について、二様の設計を立てたことが見えます。これも、玉川上水について最初に二つの案を提出したことの誤伝らしい。
- 「ここに水道を作ることができる道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千年も不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。
いずれも伝説であつて、考証が困難なのは誠に残念に思います。しかし、玉川両人の設計が二度も失敗していることは、実在する古堀敷によって明確であり、野火止用水が三年がかりで疏通したのでないことは、玉川上水の話と聞違ったということはわかります。また阿部氏の記述をひもといてみると、山道の提灯は安松の使用したものとわかり、そうすると彼が玉川上水工事の実測を行ったと考えられます。
野火止用水が出来上がりましたのは、明暦元年(承応四年改元)三月でありまして、玉川上水の成功(承応三年六月)した翌年翌年なのでございます。これは川越城主松平伊豆守信綱の家来・小畑助右衛門、安松金右衛門の両人が、一万石開墾の計画を立てまして、まさに玉川上水起工の際から着手いたしました。それは榎本『万之覚』に、
- 武蔵野火留新田、同巳(承応二癸巳)の春中から、同八月中まで、五十四~五間(間の字は軒の仮用)家出来ました。家一軒に金二両、米一俵ずつ御貸しをなさったと承っております。但、伊豆守様より。
と書いてございます。大和田町沿革に従えば、信綱はこの新墾に当って、一夫に一町の地を授け、七間半に四百八十間の地形と定め、その半を林とし、他を宅地と畑とし、全体の八分の一を年貢地と定めましたから、住民は地が肥えているか痩せているか、年の豊作・凶作に拘らず、税金に苦しむ者がなかったといいますが、この計算は不安なもので、吟味の限りではない。ただ伝説として大概をいうのに止めたい。正確な領地高は当村の文書が出て来ないので、残急ながらわからないのであります。新農村には御年貢の心配は無かったとしても、『高士略伝』にございますとおり、「その頃、野火留は武蔵野で、井戸もなく、泉水が湧出する所もない」ので、井戸を掘っても三十尺以上の深さになって、ようやく水が得られるほどであったといいます。それは当所のみのことでなく、武蔵野一帯の有様で、元禄の頃までも柴行水(しばぎょうずい)が行われていたところがございます。茅を刈りまして、日陰で乾燥させて、それで身体も手足も拭つて、入浴に代えるのが柴行水であります。入浴はそれでも済むでしょうが、飲料水は猶予のならないものでございますから、飲用水のないところには住居は出来ません。つまり、野火止用水は灌漑のために出来たのでなく、飲料のために作られたのであります。
注釈
- ↑ 『上水記』三には、分水口として以下の33か所が記されている。拝島村、殿ヶ谷新田、柴崎村、砂川村、中藤新田、野火留村、平兵衛新田、小川村、榎戸新田、鈴木新田、国分寺村、大沼田新田、野中新田、田無村、鈴木村、関野新田、下小金井新田、下小金井村、梶野新田、千川口、境村、品川用水、無礼村、烏山村、上北沢村、下高井戸村、幡ヶ谷村、三田用水、淀橋の水車、原宿村、千駄ヶ谷:戸田因幡守抱屋敷へ引取候上分水口、四谷内藤宿:内藤大和守下屋敷へ引取候上分水口、四谷内藤宿 田安御下屋敷水口。
- ↑ 大田南畝『調布日記』は全三巻。
- ↑ 『玉川披砂』二巻は社寺などの記録。『玉川砂利』一巻および『向丘閑話』二巻は随筆である。
- ↑ 「伊奈半左衛門」が正しい
- ↑ 『国字分類雑記』:宮崎成身撰、全39巻(本編35巻、付録4巻)の随筆・考証資料集。
- ↑ 『武蔵名勝図会(むさしめいしようずえ)』:12巻12冊。別名『武蔵国名勝図会』。多摩郡の地誌である。著者、植田孟縉は、八王子市千人同心組頭の植田家の養子で、『新編武蔵風土記稿』の編纂にも携わり、多摩・高麗・秩父三郡の廻村調査を行った。
- ↑ 水喰土: 福生市大字熊川1359-1「みずくらいど公園」として玉川上水開削工事跡が保存されている。
- ↑ 阿部弘蔵「玉川上水ノ工事」『文』第2巻4号(金港堂)
- ↑ 『常山紀談(じょうざんきだん)』:江戸中期の随筆、歴史書。正編25巻、拾遺4巻、付録『雨夜灯』1巻の全30冊。湯浅常山著。自序は元文四年(1739年)。戦国時代から江戸時代初頭の武士の逸話や言行を集大成したもの。
| 玉川上水の建設者 安松金右衛門 |
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