玉川上水の建設者 安松金右衛門/03
三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』の現代語訳 第三章
(現代語訳:利用者:シラキのコホリのツカサ)
その三 玉川上水の水盛
寛政三年に御普請奉行 上水方 石野遠江守広通の書いた『上水記』、それは玉川清左衛門の書上を主としている。それで、当該官庁にも古記録のなかったことわわかるが、石野広通は玉川の書上を本筋としたので、書上にないことで捨てがたく思ったことを、すべて一説として傍記しております。なぜ上水記を書くときに、一概に玉川の書上にのみ依拠したのであろうか。玉川上水について他にまとまった書き物がなかったこともありましょうが、玉川の書上を鵜呑みにしたのはよろしくありません。是非穿鑿して、庄右衛門・清右衛門の書上がどの程度信頼できるものであるかどうかを吟味しなければならなかったのです。これは上水記の過怠だったと思います。それ以来、玉川上水の話をするには、この『上水記』が玉川の書上と並んで無二の典拠になっているのは残念でなりません。
- 玉川上水の事。
- 明和五子年(1768年)以前、町奉行持で、町年寄かかりであった。明和五子年、御普請方に町奉行より請取時の古い書き留めにいう。承応元壬辰年(原註:寛政三年まで、およそ140年)までは、御城内ならびに御城下、上水道はなく、下々にては所々の水溜り、溜池などの水を汲み、樋にて仕懸、取り用いて不自由だったので、上水道になるべき水筋を、町奉行 神尾備前守の尋ねにより、玉川庄右衛門・清右衛門という者の父、所々相求める所に、武州羽村という所から、玉川の水を江戸まで、道のり十三里のところ、水盛を相考え、御用水になるべき旨、絵図・書き付けをもって評定所に申し出た。これにより、、御老中 阿部豊後守・松平伊豆守、寺社奉行 安藤右京亮・松平出雲守・神尾備前守、町奉行石谷将監・牧野織部・八木勘十郎、御勘定奉行 曽根源左衛門・伊丹蔵人・伊奈半左衛門(原註:玉川庄右衛門が書付の趣にて記している。御役名等はあえて正していない)等、絵図書き付けを一覧した。そこで見分として牧野織部・八木勘十郎・伊奈半左衛門、上水通り庄右衛門・清右衛門が案内として、道筋六日の逗留にて見分を済ませて江戸に帰参した。同年十一月二十五日、評定所にて、上水道堀普請に取り掛かるよう、両人に申し渡した。翌巳年四月四日より掘り始め、同年十一月十五日まで、四谷大木戸まで掘りわたす。玉川より水を仕掛けるべしとの由にて、羽村大川にて壊を仕立て、水のかかるところ滞りなく、四谷大吐(おおはき)まで水がかかってきた。そこから虎御門まで残らず掘り立てて十分に滞りなく水が来て、その後、追々分水が作られて諸方で上水を取り用いるということである。
以上は上水記の記載ですが、承応元年(1652年)十一月に上水道開鑿が決定し、二年四 月に起工して、十一月に四谷大木戸までの工事が済みました。玉川上水は江戸城および城下の町々へ給水するのが目的でございますから、四谷大木戸まででは、城下の町々へは及びません。『御府内備考』[1]が「『承応記』に三年玉川の流水、日本橋より南へ水道を用いるべきであるとおっしゃったという。……同じ十一月十五日に、四谷大木戸まで、行程十三里あまり掘割、また二千両を下され、翌四月に至って、虎御門外まで掘り割り、水引きが成功した」といい、『東京通志』が「大木戸から虎門外に至るまで陰溝を掘らせて、三年甲午四月に完成した。」というのも、城下の町々へ給水ができて、始めて竣功といえるわけなのです。
江戸の水道は乃祖家康が、天正年中(1573年~1592年)に大久保主水に命じて、神田上水をはじめてから、三世家光の晩年に多く企画され、家綱の時に至って、ようやく玉川上水が成功しました。実に徳川氏は四代がかりで、この事業を仕上げたのでございます。玉川上水は承応三年四月に成功いたしましたのですから、三年がかりでした。二年目にはやっと四谷大木戸までしか来ておりません。玉川上水の工事に三年かかりましたのが、野火止用水路の話に混入して、ああいう伝説を生じたのであろうと思います。と申すのも、玉川上水と野火止用水との工事が、時間的に密接しているだけでなく、玉川上水の工事がなければ、野火止用水の工事が起こらない理由があります。そのわけを述べるには、玉川清右衛門・庄右衛門の書上を吟味しなければなりません。それも長い文段でございますから、前に掲げました上水記が依拠したところだけ、すなわち全文の半分を出しておきましょう。さしあたっての入用は、それだけで十分でございますから、残りはここでは省略いたしましょう。
- 恐れながら書き付けをもって申し上げます。
- 玉川上水道のこと。六十三年以前、承応元壬辰年(1652年)まで、御城内ならびに御城下、御武家様方とも、上本道がございませんでしたので、下々にては御堀または溜池などの水を樋で仕掛けて取ることになっており、不自由でございました。
- そこで上水道になりうる水筋がございましたので、見立てを願い上げましたところ、町御奉行 神尾備前守様が以前から私たちの親ども二人に仰せつけられておりました。そして所々吟味いたしましたところ、武州羽村というところから玉川の水を引き入れ、御当地まで道のり十三里程(50kmあまり)のところ、野山ともに日数をかけて水盛(測量)・吟味し、御用水になると申し上げました。委細は絵図・書付で、御評定所まで申し上げました。
- そのときの御老中様方の御列座、阿部豊後守様・松平伊豆守様、寺社奉行 安藤右京亮様・松平出雲守様・神尾備前守様、町奉行 石谷将監様・牧野織部様・八木勘十郎様、御勘定奉行 曽根源左衛門様・伊丹蔵人様・伊奈半左衛門様がその絵図を御覧あそばされ、御吟味の上、「重宝であり、忠義な進言である」と評価をいただきました。現地の御見分として牧野織部様・八本勘十郎様・伊奈半十郎様、以上三人様にお越しいただきましたので、私もお供いたしまして、上水道の通り道の明細をお見せいたしました。道筋に六日逗留されてご見分を済ませて江戸へお戻りになりました。同年十二月二十五日、御評定の惣御寄合に親どもが呼び出されました。上水道を掘り、普請に早々に取り掛かるよう仰せつけられ、ご入り用金六千両をお渡しいただきました。
- 翌年(承応二年=1653年)巳四月四日に掘り始め、同年十一月十五日までに、四谷大木戸まで押し渡しましたところ、先に玉川からの水の仕掛けをご覧あそばされたい旨仰せつけられましたので、すなわち羽村の大川(多摩川)にて堰を仕立て、水を仕掛けましたところ、滞りなく、四谷大吐まで満水になりました。
- しかし、以前にいただきました御入用金6000両は、高井戸あたりまでに払ってしまい、金子は多分に不足しておりました。このことを度々申し上げましたところ、「堀普請ができて、水が滞らずにうまくかかれば、末々悪いようにはしないだろう。まず、この先は自分で費用をもって、虎御門まで掘り立てるように」と仰せつけられたため、ありがたく存じ奉り、自分たちの金千両あまり、ならびに町屋敷三か所、金千両あまりで売却し、以上の金子をもって虎御門まで残らず掘り立てまして水を掛けましたところ、十分に滞りなくまいりましたため、ご満足あそばされました。その後、親どもは召し出され、玉川上水御役を永代にわたって仰せつけられ、すなわち両人ともにそのとき二百石分を金子で下され置き、名字も玉川に改めてくださり、刀御免もあそばされましたために、ありがたく存じ奉っております。
不審の多い文言です。この書面は承応元年を六十三年前というので、正徳五年にしたためたものであることがわかります。したがって、その時、玉川の方は三代目になっている。この世代はその家の菩提所・聖徳寺の過去帳によるのですが、的確らしくないようです。いずれにしても、「親ども」とあるのは初代庄右衛門・清右衛門を指して言ったと解せられます。その中に「私もお供いたしまして」というのは、この書面を書いた人のようにも読めて紛らわしいが、これも初代が見分役人のご案内をしたのであり、この書面の筆者ではありません。それをこの書面に盲徒してしまったために、上水記では「玉川庄右衛門、清右衛門という者の父」と書きました。そうであれば玉川上水を見立てましたのは、初代庄右・清右の親であったと言うことになりますけれども、苗字御免になった庄右・清右が玉川上水通鑿を申し立てたのであって、その父ではありません。
また、初代の庄右・清右を芝口の町人とし、また深川の町人とも書いてありますが、何とも決着がつきません。工事の足し前に町屋敷三箇所を売ったという。それほど地面持ちならば、相応な町人であろうに、在り所も知れないといふのは怪しい。それから工事費の下附金も、本文には六千両とありますが、『玉露叢』[2]には七千五百両、『御府内備考』には八千両、『武蔵名所絵図』には一万両と書いてございます。この金高はいずれにしても、既に設計して工事を請負ったのに、高井戸までで費用がなくなったという。工事の四分の三ほどで資金がなくなった訳で、全額で二分五厘(25%)の見積り違いになる。どうしてこのような計算違いを生じたものが、だれもこれを疑わないということも不審極まりないように思われます。しかし、費用がなくなったことを度々申立てたとありますから、費用を定めて請け負ったのではないようにも解せられますが、費用を定めずに工事を命ぜられたとすれば、幕府は当事者の諸求があり次第、交付するべきはずであるのに、工事が出来上って水が来さえすれば、末々悪いやうにはしまいと告げて、資金を下附しなかったといふことがどうしても合点のいかないことです。
従来、玉川両家は苗宇帯刀御免となり、玉川上水御普請役を勤めることになって、自分の威福のために都合のいいように、手前勝手なことばかりを書き上げたように思われる。明暦火災の後には古記録が焼亡したために、玉川のみならず諸方の書き上げが、役人にも古記録がないのを見透かして、ずいぶんと甚だしいわがままな申立てをしたらしゅうございます。
上水記に「玉川の水を江戸まで道のり十三里の所、水盛相考」えたというところへ、分註して、
- 一説に、松平伊豆守の臣何某が考えたことである。これにより、野火留分水口は格別の掘割で、むかしから伊豆守殿堀という。また、いにしえ、伊豆守の家臣で郡方役人の安松金右衛門が工夫して、主人へ申し立て、吟味のうえ、野火止用水ができたともいう。
とあって、玉川上水の水盛は松平信綱の家来の考えであったとし、そのために野火止分水が出来たという。さらに安松金右衛門を描き出しては来ても、野火止用水の方へ強く引付けて書いたから、大体が暖味になつてしまう。
御府内備考も「多摩郡羽村という所からこの水を引いて、江戸まで十三里の間、道の次第を考え、絵図を作って申し上げたところ」といふところへ分註して、
- 松平伊豆守のある家人の考えたものともいう。しかし、これは野火留へ引いたことを言うのであろう。
といって、玉川上水の水盛りも、野火止用水の設計も、共に松平信綱の家来・安松金右衛門の成案であるのを知らずに、とにかく野火止用水の方へばかり引張ってしまう。それほど、この両工事は設計者が同一であるために、また時日が近かったために、混雑して明白を欠いておりました。安松金右衛門が玉川上水の水盛をしたことは、全く世間に聞こえていないわけでもないのに、野火止用水の工事のために紛れてしまうのです。野火止用水は、当時川越侯であつた松平伊豆守信綱が、自家の領地を開発するだけの規模ではなく、武蔵野開発の計画を立てて、寛文九年武蔵野開墾文書に、「武蔵野惣高合十万九千八十六石余の新拓を得た」とあります。それは『竹橋余筆』[3]に収録された文書なので、ご覧になれば内訳もわかります。野火止五字、六百八十五石といへば、決して大きな開墾ではないのですけれども、『松平伊豆守旧領高覚』によれば、
- 一高四万九千六百九十八十八石八斗五升 武州越城付
- 内六千二百三十五石五升二合 新田並検地出高入
- 外一万四千三十八石四斗二升二合 新田検地出高
- 一高二万四千三百一石一斗五升 武州埼西領
- 内四千七百六十四千七百六斗四斗四升八合 新田並検地出高入
- 外九千四百十九石七斗一升 新田検地出高
- 高合七万石 拝領高
- 内一万千石 新田並検地出高入
- 高合七万石 拝領高
- 外二万三千八百五十八石一斗三升二合 新田高検地出高
- これは今以高外
とあって、七万石の身上である松平伊豆守は、新田開発のために九万四千三百石余になった。自分の身上が三割五分強に膨大したのみならず、幕府の直領にも新拓十万石余を増加させました。その根本をなすものが野火止開発でありまして、その資源は野火止用水路の疏開なのですから、この辺の八石百姓の勘定にいたしますと、十二万石では農家一万五千軒の生命を与奪するものでございます。だからこそ、野火止用水は名高くもあり、世間から非常に注目されるのであります。
野火止用水がこのように名高いものでございましたので、設計者・安松金右衛門の名はこちらの方で鳴り響いております。それがまた、玉川上水についての彼の名を覆うようにもなっていきました。功績から申せば、武蔵野開発十二万石の根元になりました野火止用水疏開にもまして、玉川上水の水盛は今日に至っては、帝国の首都への給水でありますから比較になりませんが、当時にいたしましても三大都市の随一として数えられた江戸水道のことでございますから、大きな手柄に相違ないのことではありますが、あまりにも野火止用水が顕著であるために、彼の功名が隠されたと見えます。それに、玉川上水の方は庄右衛門・清右衛門の子孫が元文の時代(1736年~1741年)まで御普請役を承って、しきりに父祖の功績を宜伝してをりましたので、このためにも安松金右衛門の玉川上水についての功績は覆われたものと思います。
一体、玉川上水は左右衛門・清右衛門が設計いたして、幕府の採択を得たものであるのに、どうして安松金右衛門が設計したのか。庄右衛門の書上には、水は滞りなく四谷大木戸まで来たとあるけれども、両人の設計は不良であって、工事は失敗した。それゆえに、安松金右衛門が改めて設計して、新しい水盛によって玉川上水の工事は成功したのであります。このことは、享和三年(1803年)九月、水道奉行・佐橋長門守が、時の老中・松平伊豆守の諮問に対して提出した『玉川上水堀之起発並野火留村引取口訳書』によって明らかにわかることです。この時、伊豆守家は信明といって、三州(三河)吉田、ただ今の豊橋の殿様でありました。前にも申した通り、同家には古記録がないのですから、佐橋長門守に調査させて公私のためにしたのでしょう。この書類は現に大河内子爵家に原本があり、その写しは日比谷図書館の『玉川上水雑書』の中に採収してございます。これによって、庄右・清右の設計が失敗に帰し、工事が頓挫したことを知れば、彼らの書き上げについての不審も一部は減ることにもなり、安松金右衛門の功績もよくわかるようになります。
注釈
| 玉川上水の建設者 安松金右衛門 |
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