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シラキのコホリのツカサ (トーク | 投稿記録) ページの作成:「三田村鳶魚 著『'''玉川上水の建設者 安松金右衛門'''』の現代語訳 第五章 (現代語訳:利用者:シラキのコホリのツカサ) ==その五 畑ばかりの新農村== 大和田は柳瀬川の水で灌漑に足ります。井戸もあって飲料に困りませんが、野火止は惣反別五百三十一丁七反七畝二十一歩と明細帳にございますけれども、これがみな畑であ…」 |
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::水積寸坪百三十五坪、田用水 | ::水積寸坪百三十五坪、田用水 | ||
:::田反別百二十一町一反四畝二歩、ただし一町につき一坪一合一勺五○七 | :::田反別百二十一町一反四畝二歩、ただし一町につき一坪一合一勺五○七 | ||
2026年3月20日 (金) 00:04時点における最新版
三田村鳶魚 著『玉川上水の建設者 安松金右衛門』の現代語訳 第五章
(現代語訳:利用者:シラキのコホリのツカサ)
その五 畑ばかりの新農村
大和田は柳瀬川の水で灌漑に足ります。井戸もあって飲料に困りませんが、野火止は惣反別五百三十一丁七反七畝二十一歩と明細帳にございますけれども、これがみな畑であって、一筆でも田はありません。農村といたしましては、水田のないことは容易ならぬことで、まして新開の場合には成り立ちにくい状況であろうと思います。しかし、武蔵野開墾を思い立ちましても、十分な水利が望まれません。となれば畑ばかりの農村を成立させるしか仕方がないでしょう。それははなはだしく困難なことであります。この困難に耐えて、野火止村を成立させ、武蔵野開墾の第一着をなし遂げました領主松平信綱の意図、もし武蔵財野開墾が承応の時代(1652年~1655年)に出来なかったならば、寛文の時代(1661年~1673年)に拡大することもなく、今日見る近郊の状態に至れなかったに違いありません。信綱が困難な武蔵野開墾を決意し、敢行した気持ちは言うまでもないでしょう。安松金右衛門がその計画を立て、畑ばかりの新農村を成立させる方法を考え、その実施に成功した事蹟は大いに称賛すべきものと思います。
灌漑用水がないために畑ばかりの農村をこしらえ、それの立ち行くだけの経済方策を回しても、どうしようもないのは飲料水でございます。これは代案のないものです。もし玉川上水から分水が得られなかったなら、信綱の武蔵野開墾はあやういものになったでしょう。しかし、野火止では村内の平林寺の井戸が最初に掘った井戸だといっております。『野火止宿開発根本覚書』に、
- 平林寺は寅卯(寛文二壬寅、三癸卯=1662年・1663年)の両年に御建立された。酉(宝永二乙酉=1705年)の年まで四十二年になります。和尚様(石院和尚)岩槻(武州足立郡金重村)に従い、お引っ越しされ、御寺がまだできないうちは、名主庄右衛門のところに御座になられ、御普請ができてからは、御移り渡りあそばされました。
と書いてあります。平林寺が出来たのは、川越城主の二代目、信綱の嫡・輝綱のときであって、これが村内唯一の井戸なのですが、武蔵野所在の井戸のように螺旋型に掘り下げたのでなく、まっすぐに掘ってあります。この井戸がいい水で、たくさん出ます。だいたい、この辺では浅くてはいけませんが、深くさえ掘れば水が得られるというのでもなく、何分にも水が出ない。出ても悪い。飲料水の得がたいところなのです。野火止でも平林寺の井戸の他には、適当な井戸がなかった。新しい住民は十年余も井戸がなくておりました。それでも過ごせたのは、分水があったからであります。
- およそ東西三~四里の間、昔はみな渺茫とした平原であったが、公の御仁恵深く、この辺へ玉川の水を引きはじめてから、今は皆、居村となった。それぞれ「新田」と号するのはこのためである。
- 小金井と名づけたのは、当所からはるか南の方に入見山というところがある。この山から清潔な水が湧出して、一村の人三十戸戸を養っている。元来、このあたりおよそ三~四里あまりの間、昔はさらに清水がなかった。土中に鉄気や塩気があったり、赤かったり白かったり、さらには渋みがあったりして、濁水で飲みにくく、人の住居になりがたかったが、天の助けによって自然と清水を得たのは、黄金を拾うことができたようにあものだ。ゆえに居村と成ってから小金井と名付けた。(『十方庵遊歴雑記』)
桜で知られた小金井のことを書いたところにこういう記載がありました。ここで野火止の玉川上水の分水による恩恵がわかります。小金井はそれより前に村落をなしたのも、人見山の傍らに湧泉があったためだとわかります。武蔵野の中では飲料水が特に尊重されます。ところどころにある堀兼井が名所として扱われるのも、古い井戸だからではないので、土地柄として得がたい飲料水が供給されますから、自然と住民が大切にする。それが顕著なものにしたのだと思います。武蔵野がいつまでも荒蕪の(荒れ果てた)ままに置かれたのは、飲料水のないためであったようです。玉川上水鑿通後、級に開発されました。その証拠はみな新田と呼ばれているのでもわかります。その新田には必ず上水の分水口がある。玉川上水の恩恵の大きな事は実に驚嘆すべきです。
野火止用水は灌漑のために玉川上水から分かたれたものといわれておりますが、それは寛文の時期(1661年~1673年)に伊呂波樋ができて以後のことで、本来、飲料水として分けられたのでございます。伊呂波樋のことは後で申しましょう。末水が灌漑用水になりましても、本来が飲料水なのですから、後々までも野火止村民としては依然として飲料で、実際に最初の事態から変わっておりません。いろいろ書類もございますが、天明七年(1787年)六月、野火止の名主常右衛門が、その筋へ提出した書付がわかりやすく申し立てております。
- 玉川御用水、小川村より分水口数十か所のうち、武州新坐郡野火止堀のこと、明暦元年(1655年)松平伊豆守様が同国川越の御領主であったとき、御一領にて、この野火留宿新田を御取立あそばされましたとき、百姓は相続のため、飲み水御拝領遊ばされましたとのことです。先年より申し伝えて先年より申し伝え、これ存じ奉っております。
- 上記につき、小川村分水口、数十か所のうち、野火止掘ばかり、左右切石で幅六尺にお定めがありました。そのほか、分水口残らず箱でございます。用水元まで道のり四~五里ございますが、野火止水下五か村の飲み水に下され置かれました。上記の末水、その節は川越領の当村(野火止村)、野火止領の館村、御他領の宗岡村・宮戸村、三ヶ村の田方用水に先年から下され置かれましたところ、たとえみな止められるときであっても、野火止堀分水口だけは飲み水程度だけ懸けられております。
- しかしながら、近年は小川村分水がたびたび皆留めを仰せつけられ、野火止堀も皆留と同様に留切となりました。特に今春三月二十七日より久しく皆留を仰せつけられ、今の時点で洩水等もないよう厳しく定められたため、右の村々は誠に飲み水がなく、一同大いに難儀が極まっております。
- 以上申し上げたことにより、先年より村々で堀井等を所持していた者があれば、大小の百姓共、遠方より朝夕に水を汲み上げて運ぶこととなり、農業に支障を来し、ことごとく困難が極まっております。末水懸りの村々は、今回の節まで用水をながらく相懸ることができず、はなはだしく不作となり、これまた難儀はなはだしいものでございます。
- さらに野火止堀の懸り分水口の儀は、昨年より野火止名主が世話をして来たので、小川村名主彌次郎方にも、これまで用水の懸りなどのことを相談して参りました。
- つきましては私こと、はなはだ恐れ入りますが、以上の村々の総代として訴訟を申し上げます。何とぞお慈悲をもって、野火止堀用水懸りのこと、従来同様、分水口の皆留を仰せつけられましたとしても、飲み水程度は下され置かれますならば、村々大小の百姓どもが続けてつかまつり、一同助け合いいたしますので、この上もなくありがたき幸せに存じ奉ります。以上。
玉川上水の水量の増減によって、各分水の量を制限することになっており、三分止め、七分止めなどというのがあり、全く分水しないで溝口をふさいでしまうのを皆留と申しました。天明七年(1787年)の盛夏に水涸れが強かったと見えて、皆留になりました。その時に野火止の名主が各村々の総代になって差出したのが、この書付でございます。
農村では耕作が第一でありますから、灌漑用水ほど大切なものはございません。しかし、飲料水は、それよりも必要なものです。当所開墾の際に領主・松平信網は、新拓百姓の飲料に玉川分水を頂戴したと言い伝えています。その証拠とも見られるべきことですが、数多い分水路と野火止用水路とは構造も違っている。灌漑用水とは別のものに見えます。末水が灌漑用になっておりましても、本来飲料水なのでございますから、どのような減水にも、五ヶ村の給水だけは与えられて、野火止用水には皆留ということはかつてなかったのでございます。しかし、近年は他の灌漑用水同様の御沙汰で皆留になりますが、野火止には堀井のある農家はございませんので、皆留をされれば百姓どもの呑み水がなくなります。こうした申し立ては度々ありますが、いつも野火止用水は多少とも給水されることになっておりました。何より、村内に平林寺の井戸の他に井戸がないのですから、給水しないわけにはいかなかったのでしょう。
- 承応三年間設以来、御上水三分の一の割をもって六尺口のところ、明治三年四月御改正となり、伏樋立一尺三寸、横一尺五寸四分、寸積二百坪、水賦金永三貫四百四十五文、
- ただし、水銀高永百文に付、五坪四合八勺六九九、
これは大和田町役場現存の文書です。この六尺口というのは分水口の寸法で、それには沿革もございますが、水賦金は明治になって始めて村掛りになったもので、その前は一文半銭たりとも、用水の負担はなかつたのでございます。
- 明治四年民部省土木司へ請書
- 水積 一寸四方 寸坪二百坪
- 水積寸坪六十四坪九合二勺、飲用水
人員千百六十四人、但百人につき、寸坪三坪割合
引テ
- 水積寸坪六十四坪九合二勺、飲用水
- 水積寸坪百三十五坪、田用水
- 田反別百二十一町一反四畝二歩、ただし一町につき一坪一合一勺五○七
- 水積 一寸四方 寸坪二百坪
大体の受用について飲用、田用の二種に分け、さらに内訳が書いてございます。
- 野火止村百三十戸、人員七百七十五人、寸坪二十二坪七合七勺
- 百二十七人、菅沢堀、三坪八合七勺
三百十九人、上(うわ)堀、九坪五合七勺
二百七十人、下(した)堀、八坪一合
四十一人、北野堀、一坪二合二勺
- 百二十七人、菅沢堀、三坪八合七勺
- 北野村二十戸、人員百五人、寸坪三坪一合五勺
- 人員五十九人、本村分、一坪七合七勺
同四十六人、野火止村分、一坪三合八勺
- 人員五十九人、本村分、一坪七合七勺
- 菅沢村四十軒、人員二百七十一人、寸坪八坪一合三勺
- 西堀村五十六軒、人員三百二十九人、寸坪九坪八合七勺
- 百五十四人、本村分、七坪六合二勺
七十五人、下堀分、二坪二合五勺
- 百五十四人、本村分、七坪六合二勺
館村、引又町、宗岡村、宮戸村は、各田地の面積を挙げ、その使用量を割り出してあります。水路図で見ないとわかりにくいのですが、野火止用水は三条の流れになって、野火止、菅沢、西堀の三部落を通っております。この流れの末が志木に入り、それから田用水になるので、志木より手前では飲用なのです。国定教科書が野火止用水を灌漑用と書いているのは、よろしくない。
今日においても、野火止には井戸がはなはだ少ない。井戸はあっても飲み水にならないのが多い。天明の時期に井戸のある農家がないといったのは事実であろう。それだけ、この用水の恩恵が大きい。
注釈
| 玉川上水の建設者 安松金右衛門 |
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