伊勢物語
現在の平林寺境内にある野火止塚(九十九塚)・業平塚および野火止という地名に関して、平安時代の歌物語である『伊勢物語』およびその主人公とされる在原業平に絡めた伝説が語られている。
伊勢物語と新座郡
『伊勢物語』は平安時代の歌物語である。作者未詳。風流で色好みな男性の一代記のような形で約125の章段にまとめられている。主人公は明記されていないものの、在原業平とされてきた。在原業平の歌集をもとに作られたとも考えられてきたが、実際には他の歌をストーリーに合わせて改変したものと考えられる。
『伊勢物語』に登場する「男」とは在原業平であるという言い伝えそのものは平安時代から存在していた。ただし、実際に在原業平が東国に来たかどうかということについて、史実では確認ができず、あくまでも伝説にすぎない。
『伊勢物語』の12段「武蔵野」では、ある男が人の娘と駆け落ちし、武蔵野へ連れて行くが、追っ手が火を放った。そこで女が和歌を詠んだために見つかり、連行されていく。
平安時代後期の歴史書『大鏡』「五十七代 陽成院」の条では、「男」は在原業平、「人の娘」は二条の后(藤原高子=陽成天皇の母)と当てはめ、二人の若いときのエピソードとして記されている(確実な史実としての扱いではない)。ただし、和歌を詠んだのは業平の方であるとされている。
一方、新座郡エリアでの伝説では、「男」は在原業平、「人の娘」とは館村の田面長者長勝の娘である皐月の前であるとする。また、火を付けられたのが黒目川の「火の橋」(現・樋之橋)、皐月の前が和歌を詠んだところ火が止まったのが「野火止塚」であるという。平林寺境内には野火止塚・業平塚が現存する。また、野火止塚の別名・九十九(つくも)塚は、『伊勢物語』63段の「つくも髪」の歌に由来するともいう(他の説として、すくもを集めた塚とも、塚が非常に多かったためともいわれている)。
室町時代(15世紀末)の廻国雑記では、野火止の塚について伊勢物語の歌と絡めて紹介しており、野火止と伊勢物語を結びつける言説は少なくともこの時代まで遡れることがわかる。
ちなみに、東京の「業平橋」「言問橋」などの地名も伊勢物語・業平伝説に由来するものであるが、もう少し新しい時期に結びつけられた。業平橋は寛文二年(1662年)伊奈半十郎により架けられたが、この名称は江戸時代初期に開かれた業平天神の近くであることに由来するという(『新編武蔵風土記稿』)。業平天神は業平が亡くなったという業平塚に由来するが、江戸時代の時点で諸説ありとされており(成川運平の略で「ナリヒラ」説など)、業平がここで亡くなったという確証はない。さらに「言問橋」については、明治四年創業の「言問団子」という店が発祥で、昭和三年に竣工した橋が「言問橋」と命名されたものである。
現代語訳
この節の現代語訳はシラキのコホリのツカサによる。
一二
むかし、男がいた。人のむすめと駆け落ちして、武蔵野へ連れて行ったが、盗人ということで国守によって捕まえられてしまった。 そのときの状況について、男は女を草むらの中に隠して逃げていった。道を追ってくる者どもが「この野には盗人がいるはずだ」ということで火をつけようとした。女が悲しんで、
- 武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり
- 武蔵野は 今日は焼かないで 若草にたとえられるつま(夫)もこもっている わたしもこもっている
と詠んだのを聞いて、女も見つけて捕らえて、一緒に連行していった。
六三
むかし、色気の衰えていない女が、何とかして抱いてくれる男に会って結ばれたいと考えていたが、口に出して言うこともできず、見てもいない夢として話をした。子ども3人を呼び寄せて話したところ、上の二人は適当な返事で終わってしまった。三郎という息子だけが「きっとよい男が現れるでしょう」と夢占いをしたので、女は機嫌がよくなった。三郎は、ふつうの男では情愛が足りないから、何とかして有名な在五中将(在原業平)と結ばせたいと思った。まもなく三郎は、中将が狩りをしているところに出合ったので、道で馬の口をとって、このように思っていますということを話したので、中将は心を動かされ、女の家に来て寝た。ところが、その後は男が通ってこなかったので、女は男の家に行って垣根の間から見ているのを、男がちらっと見て、
- 百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬつくも髪我を恋ふらし面影に見ゆ
- 百歳に一歳足りないつくも髪の女が私に恋しているらしい。幻が見えた。
と歌を詠んで女の家に出かけようとする。それを見て、女はいばらやからたちの枝にひっかかりながら家に帰って、臥せて待っていた。男は、女がやっていたように、隠れて立って見ていた。女は男が来ないと思って寝ようとして、
- さむしろに衣かたしき今宵(こよひ)もや恋しき人に逢はでのみ寝む
- 狭くて寒いむしろに片袖を敷いて、今宵も恋しい人に会わずに寝るのね
と詠んだのを聞いて、男は気の毒に思い、その夜は女と寝た。世の中の通例では、自分が恋しく思う女だけを思い、恋しく思わぬ女のことは思わないものなのに、この人は、好きな女でもそうでもない女でも区別をしない心をもっていた。
森本茂『伊勢物語全釈』による解釈
以下、森本茂 著『伊勢物語全釈』大学堂書店(1973)[1]の記載を引用する。
一二
むかし、をとこありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率て行くほどに、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらの中におきて逃げにけり。道来る人、「この野は盗人あなり」とて、火つけむとす。女、わびて、
武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり
とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。
〔校異〕(塗籠本)
- 人のむすめ-女
- 武蔵野へ率て行く-武蔵の国へゆく
- 国の守にからめられにけり-国のつかさからめければ
- 道来る人-道ゆく人
- あなり-あり
- 火つけむとす-火をつけむとするに
- 率ていにけり-ゆきにけり
〔通解〕
昔、男がいた。ある人の娘を盗みだして、武蔵野へ連れて行くうちに、この男は盗人であったから、国司の役人に捕えられてしまった。(このようになるまでの経過をいえば)男は女を草むらの中に隠して逃げて行ってしまった。道を追ってくる人は、「この野に盗人がいるということだ」と言って、火をつけようとする。そこで女は困って、
- この武蔵野は今日は焼いてくださるな。私の夫も隠れていますし、私も隠れていますから。
と女のよみあげた声を聞きつけて、追手たちは女を捕えて、(野の向こうで捕えた)男といっしょに連れて行ってしまった。
〔語訳〕
- ○人のむすめを盗みて 六段の「からうじて盗みいでて」の場合と同様に、女の同意は得ていたのであろう。
- ○武蔵野へ率て行くほどに 武蔵野へ連れて行くうちに。武蔵野は草がおい茂り、人目をしのぶのにつごうがよいのである。「武蔵野」は多摩川流城から荒川流域へかけての原野で、今日の東京都青梅市を頂点とする多摩川の古い扇状地。今日の東京都・埼玉県にまたがり、相模野に接する。「率る」は、つれる、ひきつれる、伴うの意。
- ○盗人なりければ 盗人であったから。普通の盗人とはちがうが、女をひそかに連れ出すのも盗人にはちがいないから、わざわざ改めてことわったのであろう。松尾聡氏は「俳諧があるのであらう。上に『人のむすめを盗みて』と記したことばに乗って、『物品を盗んでも、人を盗んでも盗人であることは同じことですからね』といはうとする作者の諧謔であり」(平安時代物語論考)といわれる。
- ○国の守にからめられにけり 国司の役人に捕えられてしまった。以下の部分と内容的に矛盾するようであるが、「臆断」「古意」などにいうように、まず「からめられにけり」と先に結末を示しておき、以下の部分でその結末にいたる経過をのべているのであり、「ともに率ていにけり」が実際の結末である。「国の守」は、国司・受領ともいい、貞丈雑記に「国司と云は、日本六十六ヶ国に一国に六人ずつ(郡司は六人の外也)役人をすへ置て、百姓の諸願訴訟等を取さばき年貢を取立て、京都へ納め、諸勘定をしめくくり、軍役をも勤る也。此役人は天子より被仰付て、公家の中より人をえらびて、諸国へ下されし也」(巻四)とある。ここは国司の長官みずから野に出て盗人を捕えたとは思われないから、長官のもとにいる役人が捕えたのであろう。「からむ」(搦む)は、捕える、からめとること。「られ」は受身の助動詞「らる」の連用形。「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。
- ○女をは草むらの中におきて逃げにけり 男は追手がくるのをおそれて、女を草むらの中に隠し、自分は逃げようとするのである。「をば」は格助詞「を」に係助詞「は」のにごった「ば」の付いたもので、対象を強く示す。
- ○道来る人 道を追ってくる人。すなわち追手をさす。「愚見抄」「肖聞抄」などは「満(みち)来る人」と解するが、万葉集に「玉ぼこの道行く人』(巻二・巻十三・巻十九)の例があるし、「道来る人」であろう。真名本には「路行人」とある。このあたりの文が簡潔であるために、事の推移が分かりにくいが、おそらく「新釈」にのべたようであろう。すなわち、国司が人を出して盗人を追う時は、手分けしてあちこちの道から追って行くから、男(盗人)は草むらの中に女を隠して逃げたけれども、草むらの向こうで捕えられてしまった。しかし、男の逃げてきた道からくる追手には、広い野のことでもあり、そういう事のしだいが分からず、草むらに火をつけて男を追い出そうとしたのであろう。
- ○盗人あなり 盗人がいるということだ。「あなり」は「あるなり」の音便形「あんなり」の「ん」が表記されない形。「なり」は伝聞・推定・断定の三つの解釈が行われている。盗人が武蔵野に隠れることは常の例であり、国司が追手に対してすぐ武蔵野を探すように命じたとみると、伝聞が適当であり、追手が盗人を追いまわして、ついに武蔵野のあたりまできたという経過を重んじるならば、推定が適当であり、確固たる事実とすれば、断定が適当である。ここは伝聞とみておく。
- ○火つけむとす 火をつけようとする。火をつけて盗人を野から追い出そうとしたのであろう。
- ○わびて 困って。「わぶ」(侘ぶ)は、困る、つらく思うの意。
- ○武蔵野はの歌 「武蔵野は今日は」の二つの「は」は、他と区別して強く指示する係助詞で、「だけは」という気持ちを含む。「な……そ』は禁止の意。「若草の」は、若草が愛らしく美しいところから、「つま」(夫・妻)にかかる枕詞。「私記」は「草の中に、つまといふものがあるらしい。私は、二葉の揃ってゐるのをいふのだと思ふが、訣らない。すいこの事を、さいたづまというてゐる。すいこの出はじめの名であるから、関係があるらしいと思ふ」とのべている。「つま」について藤原清輔は、「つまといふ事は、男女のなからひはこれかれつまといふと知て侍つる也。男は女をつまといひ、女も男をつまといふなり」(袋草紙遺編)という。ここの「つま」は夫の意。以下の用例も夫である。日本書紀に「女人(をみな)有りて、難波の御津(みつ)に居(を)りて、哭(ねな)きて曰はく、『母(おも)にも兄(せ)、吾(あれ)にも兄。弱草(わかくさ)の吾(あ)が夫(つま)𪫧怜』といふ」(巻十五・仁覧天皇)、万葉集に「遠つ人松浦佐用比売(まつらさよひめ)夫恋(つまごひ)に領巾(ひれ)振りしより負へる山の名」(巻五・山上憶良)、後撰集に「人のをとこにて侍る人をあひ知りてつかはしける 右近 から衣かけて頼まぬ時ぞなき人の夫(つま)とは思ふものから」(巻十一・恋三)。「こもる」(籠る)は、かくれるの意であるが、「ここにありて他へゆかぬをいふ詞也』(新釈)という心持ちをあらわす語。女は男が逃げたけれどこのあたりに隠れているだろうと思い、この歌を声に出してよんだのであり、広い武蔵野のありさまがしのばれる。この歌の類歌には古今集に、「春日野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」(巻一・春上・題しらず・よみ人しらず)がある。「顕註密勘」「惟清抄」は、伊勢物語の「武蔵野は」を「春日野は」に改めて古今集に入れたとみ、「袖中抄」「臆断」「古意」「新釈」などは、古今集の「春日野は」を「武蔵野は」に改めて伊勢物語に入れたとみる。後者が適当であろう。〔余説参照〕
- ○よみけるを聞きて 女が声に出してこの歌をよんだので、女の居場所が分かってしまったのである。
- ○ともに率ていにけり 男といっしょに連れて行ってしまった。野の向こうで男を捕えた役人と、野の中で女を捕えた役人とが落ち合って、男女をいっしょに連れて行ったのである。
〔余説〕
- △武蔵野はの歌 大鏡には「(二条后が)いまだ世ごもりしておはしける時、在中将しのびて率(ゐ)てかくし奉りたりけるを、御兄人(せうと)の君達、基経の大臣、国経の大納言などの、若くおはしけむほどのことなりけむかし。とり返しにおはしたりける折、『つまもこもれり我もこもれり』とよみ給ひたりけるは、この御事なれば、末の世に『神代のことも』とは申いで給ひけるぞかし」(五七代・陽成院)とあるが、これは、この段の男女を業平・二条后とみる当時の伝承にもとづくのであろう。類歌の「春日野は」の歌は、すでに折ロ信夫・高崎正秀氏らによってのべられているように、新春の野焼き歌であり、よく似た発想の歌は万葉時代にいくつかみられる。すなわちこの歌は、「いよいよ春になって、野山の楽しさを考えるのに、早くも野を焼き出した、どうにもならぬ、また、草が伸びるまで待たなくてはー」(折ロノート編)というような気持ちで歌われたもので、その源は万葉集の「おもしろき野をばな焼きそ古草に新草(にひくさ)まじり生(お)ひは生ふるがに」(巻十四・雑歌)、「佐保河(さほがは)の岸のつかさの柴な刈りそね在りつつも春し来らげ立ち隠るがね」(巻四・大伴坂上郎女)などの、新春の野ごもりの古歌であり、さらにさかのぼると、古事記の「さねさし相武(さがむ)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも」(中巻・景行天皇)、日本書紀の「いざ吾君(あぎ)野に蒜(ひる)摘(つ)みに 蒜摘みに 我が行く道に 香(か)ぐはし 花橘……」(巻十・応神天皇)などに行きつく。「春日野の」の歌はこのような系統にあり、春日野の里人に歌われ伝承されたものであろう(古今集のよみ人しらず歌は、万葉時代に近い頃の作を多く含んでいる)。
〔評〕
この段は、古今集にみえる古歌「春日野は」の歌の初句を「武蔵野は」に改め、この歌を中心にして創作した物語であろうと思われ、「たどたどしい中に、絵巻物風な情景が浮んで来る」(高崎新釈)が、事がらの説明が簡潔すぎて、事件の順末が分かりにくいきらいがある。
「春日野の」の歌はすでにのべたように、野焼き歌の流れをくむもので、「野遊びすと野に出しに、野焚(のや)きするは興もなくなれるままに、今日は焼事なかれと云也。妻と共に野に出てあそぶなるべし」(古今和歌集打聴)のような歌なのであろう。初春とはいってもまだ膚寒い頃の春日野に、若菜をもとめて遊びにきた若い夫婦(男女)が「今日は春日野を焼いてくれるな」と野焼きの農民に呼びかけるという歌で、広い春日野を背景にして、古代人のそぼくな相聞の世界がしのばれる。ところがこの段では、追手に攻めこまれて万事窮したとき、追手に対して女のよみかけた歌に変っている。古今集の歌ののどかなロマンチシズムは消え去り、夫を気づかう女の悲痛な歌になっている。
この段の内容は業平の実事とは無関係であるが、愛する女を連れ出し、結末が悲劇に終るのは、六段の芥川の話に類似していてあわれである。
六三段
むかし、世心(よごころ)つける女、いかで心なさけあらむをとこに逢ひ得てしがなと思へど、言ひ出でむもたよりなさに、まことならぬ夢語りをす。子三人を呼びて語りけり。二人の子は、なさけなくいらへてやみぬ。三郎なりける子なむ、「よき御男ぞ出で来む」とあはするに、この女、気色いとよし。異人(ことひと)はいとなさけなし、いかでこの在五中将に逢はせてしがなと思ふ心あり。狩(かり)しありきけるに行きあひて、道にて馬の口をとりて、「かうかうなむ思ふ」といひければ、あはれがりて、来て寝にけり。さてのち、をとこ見えざりければ、女、をとこの家に行きてかいまみけるを、をとこほのかに見て、
- 百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬつくも髪我を恋ふらし面影に見ゆ
とて、出で立つ気色を見て、茨(むばら)からたちにかかりて、家に来てうち臥せり。をとこ、かの女のせしやうに、忍びて立てりて見れば、女嘆きて寝とて、
- さむしろに衣かたしき今宵(こよひ)もや恋しき人に逢はでのみ寝む
とよみけるを、をとこあはれと思ひて、その夜は寝にけり。世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は、思ふをも思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける。
〔校異〕(塗籠本)
- 世心つける女……語りけり-世心ある女いかでこのなざけある男を語らひてしがなと思へどもいひ出でむにもたよりなければまことならぬ夢語りをむすこ三人を呼び集めて語りけり
- 三郎なりける子-三郎なりける
- いとなさけなし-なさけなし
- 思ふ心あり-思ふ心ありけり
- 狩しありきけるに行きあひて道にて-狩しありきける道にゆきあひにけり
- かうかう-やうやう
- 来て-一夜(ひとよ)
- をとこ見えざりければ-をさをさ来ねば
- ほのかに-ほのかにも
- 見ゆ-立つ
- とて-といひて馬にくらおかせて
- からたちにかかりて-からたちとも知らず走りまどひて
- うち臥せり-臥せり
- かの女の-この女の
- 見れば女嘆きて-見ければ女うち嘆きて
- 逢はでのみ寝む-逢はでわが寝む
- をとこあはれと思ひて-あはれと見て
- 思ふをば……思ひ思はぬ人あるをこの人はその
〔通解〕
昔、好色の心のある女が、何とかして情愛のある男とちぎりを結びたいものだと思ったけれども、口に出して言おうにも、きっかけがなかったので、見もしない夢の話をした。子ども三人を呼び寄せて話して聞かせた。すると、上の二人の子どもは、すげなく答えて相手にしなかった。三男であった子どもは、「きっとよい男があらわれるでしょう」と夢合せをしたので、この女は非常にきげんがよい。三郎は、他の人はとても情愛がない、どうかしてあの在五中将とちぎりを結ばせたいものだと思っていた。まもなく三郎は、中将が狩をして野山をめぐっていたのに行き逢って、道で中将の馬の口をとって、「私はこれこれのように思っています」と言ったので、中将は強く心を動かされて、女の家に行って共寝した。ところが、それからのち、男が通ってこなかったので、女は男の家に出かけて行って、すきまからのぞき見をしていたのを、男がちらっと見て、
- 百歳に一歳足らないほどのつくも髪の老女が、私を恋い慕っているらしい。その姿がまぼろしとなって目に見えるよ。
と歌をよんで、男が女の家に出かける様子であるのを見て、女はいぱらやからたちにひっかかり、いそいで家に帰って、臥せって男のくるのを待っていた。やがて男は、女が男の家でしたように、こっそり立ってのぞいて見ると、女は(男がこないので)ため息をついて寝ようとして、
- 狭いむしろに片袖を敷いて、たったひとりで、今夜も恋しい人に逢わずに寝るのでしょうか。
とよんだのを聞いて、男は気のどくに思って、その夜はそこで共寝した。世間の常として、恋しく思う女を慕い、恋しく思わぬ女を慕わないものであるのに、この在五中将は、恋しく思う女でも、恋しく思わぬ女でも、区別をしないという、深い情愛の心をもっていた。
〔語釈〕
- ○世心つける女 好色の心のある女。「世心」は、異性を恋い慕う心、好色の心。
- ○いかで心なさけあらむをとこに逢ひ得てしがな 何とかして情愛のある男とちぎりを結びたいものだ。「いかで」は副詞で、下に「がな」を伴って、何とかして、どうにかしての意。「なさけ」(情)は、情愛・思いやり。「逢ひ得てしがな」の「逢ひ得」は、ちぎりを結ぶの意。「て」は完了の助動詞「つ」の連用形、「し」は過去の助動詞「き」の連体形、「がな」は願望の終助詞。底本のようだと、誰と指定せずに情愛のある男を目標にしているが、塗籠本のように「いかでこのなさけある男を語らひてしがな」とあると、はじめから在五中将(業平)を目標にしていることになる。
- ○たよりなさに きっかけがなかったので。「たよりなさ」(便りなさ)は、よい機会がない、きっかけがないの意。
- ○まことならぬ夢語り 見もしない夢の話。ほんとに夢をみていないのに、見たように作り話をして、その夢の話がよい男のあらわれる前兆であろうと思わせるのである。
- ○なさけなくいらへてやみぬ すげなく答えて相手にしなかった。「なさけなく」は「いらへて」にかかる。「新釈」は「なさけなく、いらへでやみぬ」と考え、「なさけなく」を「やみぬ」にかける。
- 〇三郎なりける子 三男であった子ども。当時は太郎・次郎・三郎・四郎・五郎……のように、数の順に名をつけた。「童子問」は老女の家に仕える奴隷の三男だろうというが、このままだと老女の三男と解するほかない。
- ○あはするに 夢合せをしたので。夢合せは夢判断・夢解ともいい、夢の吉凶をうらない、これこれのことの起こる前兆だと判断することをいう。夢合せのことは、日本書紀に「則ち天皇相夢(ゆめのみあはせ)して、二の子(みこ)に謂(かた)りて曰(のたま)はく」(巻五・崇神天皇)、拾遺集に「夢よりぞ恋しき人を見そめつる今は合はする人もあらなむ」(巻十一・恋一・題しらず・よみ人しらず)、更級日記に「帝きさきの御かげに隠るべきさまをのみ、夢解きも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ」などとある。
- ○異人はいとなさけなし 以下「逢はせてしがな」までは、三郎が心に思うこと。
- ○いかでこの在五中将に逢はせてしがな どうかしてあの在五中将とちぎりを結ばせたいものだ。「この」は「かの」と同じ意に用いている。「在五中将」は在原業平のこと。在原氏で、阿保親王の五男で、右近衛権中将であったので、在五中将という。
- ○狩しありきけるに行きあひて 中将が狩をして野山をめぐっていたのに行き逢って。三郎は母の願いを実現すべく、業平に逢う機会をうかがっていたのである。「し」はサ変動詞。
- ○かうかうなむ思ふ 私はこれこれのように思っています。「拾穂抄」は三郎の母が思うの意にするが、「新釈」に「母は夢語りをこそしつれ、中将を思ふよしにはいへることなし」というとおり、三郎が思うのである。
- ○あはれがりて 強く心を動かされて。母を思う三郎の孝心に感動したのであり、このような業平の心こそ「なさけある心」である。
- ○かいまみけるを すきまからのぞき見をしていたのを。「かいまみ」は「垣間見(かきまみ)」の音便形で、物のすぎまからのぞき見をすること。
- ○ほのかに見て ちらっと見て。「ほのかに」は、わずかに、少し、ちらっとの意。
- ○百年にの歌 「百年に一年足らぬ」は、年とっていることを誇張していう。「つくも髪」は、老女の髪がつくものように、短くすきまの多いさま。「つくも」については、(1)もずく、(2)ほんだわら、(3)ふといの三説があるが、和名抄に「江浦草(豆久毛、一云太久万毛)」(巻十七・水菜類)とあるから、ふといであろう。和名抄は海菜類・水菜類・園菜類に分かれているが、もずく・ほんだわらならば海菜類に属するはずである。水菜類ならば、ふといが適当である。ふとい(太藺)は、かやつり草科の多年草で、沼・湿地に生え、形は藺(い)に似て、細長い茎でむしろを作る。「我を恋ふらし面影に見ゆ」は、相手の姿がまぼろしとなって見えるのは、相手が自分を恋い慕っているからだという俗信にもとづいていい、ここはほんとは老女の姿を現実に見たのだが、それを言わずに、いたわりの思いをこめて、まぼろしと言ったのである。この歌は嘲笑したのでなく、同情の気持ちの歌である。〔余説参照〕
- ○茨からたちにかかりて いばらやからたちにひっかかり。「茨」は「うばら」ともいい、薔薇(しょうび・ばら)のこと。「からたち」(枳穀)は「唐橘(からたちばな)」の略で、やぶこうじ科の小灌木。ともに枝にとげがある。女はあわてて帰ろうとして、いばら・からたちの生えた野の近道を通ったのであろう。「うばら」「むばら」の表記について、薬島裕氏は「万葉は『宇馬・宇万(馬)、宇馬夜・宇麻夜(厩)……』のように、ウと記すのが普通であったが、平安時代の末ごろから『ム』が多くなったと考えられる」「古くは、一般にバ行音・マ行音の直前に位してしかも語頭にある場合には、後世ではウと書くところをムと書くことが多かった」「伊勢物語の原作の時代について考えてみると、おそらくmまたはmの起りはじめた時代であったろうから、平仮名で記すときにも、原作ではおそらく『うばら』『むばら』のように『う』『む』両者が用いられたのではないかと思われるのである」(講座解釈と文法・4)といわれる。
- ○うち臥せり 臥せって男のくるのを待っていた。一説に、疲れて臥せっているとする。
- ○女嘆きて寝とて 女はため息をついて寝ようとして。女は男がのぞき見しているのに気づかないで、男がこないと思ったのである。
- ○さむしろにの歌 「さむしろ」(狭蓆)は広蓆に対し、狭いむしろのこと。一説に「さ」を接頭語とみる。「さむし」に「寒し」を掛ける。「衣かたしき」は、衣の片袖を敷く、つまり、ひとり寝をすることをいう。「今宵もや」の「も」によって、今夜に限らず毎夜のことだと分かる。「や」は感動の意をもつ軽い疑問の係助詞。この歌は古今集の、「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」(巻十四・恋四・題しらず・よみ人しらず)の改作であろう。「橋姫」は橋を守る女神のことだが、この歌では宇治に住む美しい恋人を意味する。古今集のこの歌は、袖中抄は「橋姫の物語」にある歌だといい(巻八)、宇治の橋姫伝説は柳田国男の「橋姫」(一目小僧その他)にみえる。
- ○思ふをば思ひ思はぬをば思はぬ 「思ふ」「思はぬ」とは、「新釈」に「思ひ思はぬとは、たとへば、美しく若き女をばせちに思ひ、形のわろく老いたるなどをばさらに思はぬやうの事なり」という意味である。
- ○この人は 以下について「新釈」に、「もののあはれ知りて、なさけ深き人なれば、わろき女をも思ひ捨てず、心のうちには思ひ思はぬあるべけれど、その分かちを見せぬ心ばへありといふ意なり。いともいともよき人がらなりけり。源氏君もさやうの御心ばへなるやうにかの物語に書けるは、ここをまねびたるなり。さきにもたびたびいへるごとく、かうやうの心ばへ見えたる所ぞ、この物語のむねにはありける」というとおり、中将が深い情愛の心をもっていたことを書いている。
〔余説〕
- △つくも 諸説を次に示す。
- (1)もずく 「今もづくといふ物と見ゆ」(古意)、「昔はつく藻といへるを、今は顚倒してもづくといふなるべし」(童子問)、「今の海雲(もづく)てふ物を見るに、老たる人の髪の末の枯れたるに似たり」(よしやあしや)。もずく(海雲)は、ほんだわらなどの大きな海藻に着き、細長の糸状で、不規則に枝を出し、食用とする海草。
- (2)ほんだわら 「おのが産土若狭国の海に、つつもといへる藻ありて、浦人どもの来りて菜とする物なり。すなはち今の俗、年始の斎物にするほだはらといふ物、これなり」(比古婆衣・巻十九)。ほんだわら(ほだわら)は、大きい物は二、三メートルにもなり、質は柔かく、茎はやや円柱状。新年の飾りのほか、食用・肥料にも用いる。
- (3)ふとい 「ふとゐ、漢名香浦草といふに似たる名なれば、その類にやあらむ。ふとゐの枯ふしたるも、おほやうこの姿なり」(難語考)、「江浦草はふとゐといふ物なるべし。ふとゐをば、今もつくもといへり。……ふとゐは藺の形して太く、末に小さき穂のやうなる花咲けり。その花のさま、老人の髪短き頭に似たれば、『つくも髪』は、この江浦草の花に似たる髪をいふなりけり」(新釈)。
- △つくもの物語 散快物語に「つくもの物語」があった。これについて、和歌色葉集に「古物語に、うみ柿の一ありけるを、生(いき)物どもの争ひて、年高からむ者食はむといひけるに、鷺(さぎ)は三十さぎといひ、鴫(しぎ)は四十しぎといひ、蜂(はち)は八十はちといひ、蛛(くも)は九十くもといひて、くもの食らへることのあるを思ひていはむとて、百年に一年足らぬとはいへり」(中巻・百年にの歌の注)、奥義抄に「古き物語に、うみ柿の一つありけるを、ものどもの争ひて、年高からむ者食はむといひけるに、九十九もといひて、くものくらへることあり。それを思ひてくもといはむとて、百年に一年足らぬといへり。くもといふ文字につきて、つくも髪とよせたり。古歌のならひなり。かの女の年よれる者なれば、かくよめるなり」、袖中抄は奥義抄所載の話を引いて、「今いふ、九十くもの物語にて、このことを釈せむこといかが。むげのたはぶれ事なり」(巻十三)といふ。袖中抄の頃まで、つくもの物語が存在したようであるが、それは三宝絵詞に「本草鳥虫などの動植物を擬人化した物語」とあるものかもしれない。松尾聡氏・寺本直彦氏は、口誦的な短い物語であったろうといわれる(国文学・第十二巻第十五号、日本文学史・中古編・散鉄物語)。
〔評〕
老女の恋を扱った特異な内容の段である。中でもその恋を実現するに当たって、子どもの三郎を介し、今を時めく色好みの在五中将を相手にする所が、並はずれている。老女が「まことならぬ夢語り」をしたり、「男の家に行きてかいま見」たり、「茨からたちにかかりて、家に来てうち臥せ」ったりするところはこっけいであるが、見方を変えると、老女のいちずな情熱が強く胸を打つ。
「百年に」の歌は物語作者の創作歌かもしれないが、比較的よくよまれている。「さむしろに」の歌は古今集の歌の改作であろうが、歌のおもむきは低くなっているけれども、老女のよんだ歌としてみると、一抹のあわれさが漂う。
この段の男は「在五中将」と明記されている。こういう例は他の段になく、まったく珍しいことである。このように書いた理由を考えてみると、話の内容が特異であり、読者が仮空の話だと思いやすいから、いかにも実事らしくするために、思いきって、「在五中将」なる実名を取入れたのであって、決して業平の実事であったというのではない。ここに物語作者の深い配慮を感じさせると思う。末尾の「世の中の例」以下の部分には、この男がみやび男であることを書いている。こういう男が当時の理想的な情的な男であり、やがて源氏物語の光源氏へと発展する。この段の好色な老女は、源氏物語の源内侍(げんのないし)を思い起こさせる。源内侍はこの老女をモデルにしたのかもしれない。
注釈
- ↑ 森本茂 著『伊勢物語全釈』大学堂書店(1973):国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12453024