安松金右衛門

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安松 金右衛門(やすまつ きんえもん、慶長十六年(1611年) - 貞享三年10月27日(1686年12月11日))は、江戸時代初期の武士、技術者である。川越藩主・松平信綱の家臣(陪臣)であり、玉川上水および野火止用水の設計・建設における真の功労者とされる。

名は吉実(よしざね)。算術の達人として知られ、武蔵野の開発や江戸の給水システムの確立に極めて重要な役割を果たした。

生涯

出自

本国は河内、生国は播磨とされる。元々の名字は神吉(かんき)氏であり、播磨国神吉城(現在の兵庫県加古川市)の一族であったが、織田信長による中国攻めの中で没落し、東国へ流落したと考えられている。安松家伝来の具足櫃には「神吉氏」の名が記されていたという。

松平家への出仕

正保元年(1644年)、幕府の御勘定方であった能勢四郎右衛門頼安の推薦により、当時川越藩主であった松平信綱に召し抱えられた。当初は蔵米100俵を支給される「元締め」であったが、慶安元年(1648年)には知行100石の「代官」となり、その後、数度の加増を経て200石に至った。

玉川上水の開削

承応二年(1653年)、江戸の深刻な飲料水不足を解消するため玉川上水の開削が始まった。当初は町人の玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が設計・請負にあたったが、第1案(府中八幡下付近)および第2案(福生村熊川付近)ともに地質の不備や測量の誤りから水が地中に染み込む(水喰土)などして失敗し、計画は廃案の危機に瀕した。

この窮地に対し、総奉行の松平信綱は自らの家臣である安松金右衛門に再設計を命じ、安松は以下の3つの設計案を提示した。

  • 第1案:羽村地内尾作から五ノ神村を経て福生村へ至る案。
  • 第2案:羽村地内阿蘇宮から堀り込む案。尾作案より優れるが、田地が多く潰れる難点があった。
  • 第3案:羽村の丸山裾から堰き入れ、川縁に堤を築いて福生村より堀り入れる案。あわせて狭山の筥が池(箱根ヶ崎)を助水として合同させる。

この第3案が採用され、安松の精緻な測量と設計によって玉川上水は成功裏に完成した。安松はこの際、夜間に提灯の火を用いて高低を測る独自の測量法を用いたと伝えられており、使用された「山道形」の印がついた提灯は、後に信綱の菩提寺である平林寺に納められた。

野火止用水と武蔵野開発

信綱の悲願であった武蔵野開墾を支えるため、安松は玉川上水の分水である野火止用水の設計・施工も担当した。野火止用水は、飲料水が皆無であった未墾の原野へ水を引くためのものであった。俗説では通水までに3年を要したとされるが、榎本弥左衛門の記録によれば、実際には承応四年(1655年)2月10日の着工からわずか40日余り(3月20日)で竣工・通水させている。この用水の完成により、野火止周辺の新田開発は飛躍的に進み、信綱の領地のみならず幕府直轄領を含めた大規模な農村創設が可能となった。

伊呂波樋と新河岸川漕運

安松の業績は用水の開削に留まらない。野火止用水の流末を新河岸川を跨いで宗岡村へと送るための巨大な掛樋「伊呂波樋(いろはどい)」を工夫・設計し、水利の悪かった地域を豊かな水田地帯へと変えた。また、川越と江戸を繋ぐ物流の要となった新河岸川の漕運(川越運河)の開発においても、小畑助左衛門と共に中心的な役割を果たしたとされる。

神田上水の改修

万治から寛文年間にかけて行われた神田上水の改修、特にお茶の水付近の鑿通に伴う小石川掛樋(白堀)の設計にも、幕府からの「お頼み」という形で参画したと伝えられている。陪臣である安松に幕府が直接協力を仰ぐのは極めて異例のことであった。

晩年と死後

寛文二年(1662年)、信綱の嫡男・輝綱が家督を継ぐと川越へ遣わされ、郡代として格式高い「独礼(どくれい)」の待遇を受けた。晩年は老衰のため家督を子の金右衛門に譲り、貞享3年(1686年)に死去した。

安松家はその後、十代にわたって「院殿号」を冠した戒名を与えられた。江戸時代において院殿号は叙任された大名や一部の有力旗本に限られるものであり、一介の陪臣が代々これを許されるのは、その功績が「黄金より尊い」とされた上水の建設に携わったことに対する、破格の待遇であったと考えられている。

墓所・供養

当初の墓所は江戸の大宗寺(現在の東京都新宿区)にあり、一族の合葬墓として九左衛門(父とされる)以下の法名が刻まれていた。昭和十年(1935年)、安松の業績を顕彰するため、野火止水利組合と松平家の協議により、埼玉県新座市の平林寺にある松平信綱の墓所側近へと改葬された。

評価と伝説

三田村鳶魚は、玉川上水の真の設計者は玉川兄弟ではなく安松金右衛門であり、安松がいなければ上水計画は廃案になっていたと断言している。安松自身は、自らの功績を誇ることを潔しとしない「奥ゆかしい武士」であったため、その名は玉川兄弟の陰に隠れがちであった。

国定教科書や新井白石の『紳書』には、野火止用水の開通を巡って安松が不屈の忍耐を見せる逸話が収録されたが、三田村は「三年水が来なかった」という記述については当時の記録(榎本『万之覚』)と照らし合わせ、歴史的誤謬であると指摘している。

参考文献

三田村鳶魚玉川上水の建設者 安松金右衛門(1942年、電通出版部)