広沢観音堂

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広沢観音堂は、朝霞市本町三丁目5番28号、広沢の池の北に位置する観音堂である。別名「広沢観音様」「広沢の観音(様)」。

江戸時代には東圓寺の持であったが、明治時代以降、池と観音堂は官地となり、戦後、池は町、観音堂は東圓寺の管理となった。

本尊

広沢観音堂の正面
広沢観音堂の正面
観音堂には、中央に観音の厨子、その左右に4月8日の釈迦誕生仏、小さな厨子に入った菩薩像が置かれている。中央の木造の観音像は本尊ではなく、オマエダチ(お前立)と呼ばれている。この観音ノ厨子の中に小さな厨子が入っており、そこに3つの像が納められている。その中央と右が観音像とされているが、左は不明である。このうち中央の観音が「一寸八分」と呼ばれる、広沢観音の本尊である。 — 朝霞市教育委員会生涯学習課『広沢の池 ―あさかの民俗 一―』

写真

記載

新編武蔵風土記稿 岡村

観音堂
広沢池のあたり、少し高いところにある。そのため広沢観音というべきで、土地の人が平沢観音と言うのは誤りで、広沢観音であるべきだ。堂は三間四面、除地五段ある。昔は今のちから南の方にある山の上にあり、堂も広大であったが、天正十八年(1590年)北条氏照の城山(この城は入間郡城村の内にある)合戦のとき、煙を上げようとしてこの堂を焼いたという(あるいは、別に大伽藍があったのを焼いたともいう)。今は礎石のみ残っている。土地の俗称に、その地を堂山と字している。今の堂は村内の東圓寺の持である。三枝摂津守が当所を知行したとき、除地となったという。今も同じである。
広沢池
村の南の方、観音堂の下にある。東西30間、南北24~5間、それほどの景勝地ではないが、古跡である。いつのころであったか、この池で農夫が足をすすごうとしてひたしたところ、物があって爪先をくわえたように思われたので、いぶかしんでそのまま水中を探ったところ、古い鰐口であった。これは昔の観音堂の鰐口であろうということで、そのまま東圓寺へ納めたという。年号も刻んでいたが、耳慣れない年号なので覚えられていない。古いものであろう、と土地の人が言っている。このことを東圓寺の住僧に尋ねたが、どうであるかわからないと言った。

武蔵国新座郡村誌 岡村

  • 観音堂:東西16間、南北16間、面積265坪、村の東方にある。

参考文献

朝霞市教育委員会生涯学習課『広沢の池 ―あさかの民俗 一―』朝霞市教育委員会,平成十四年(2002年)3月29日