京越鉄道

提供:シラキのコホリ
2026年5月4日 (月) 23:17時点におけるシラキのコホリのツカサ (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「'''京越鉄道'''は、東上鉄道に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。 毛武鉄道の鉄道敷設有効期限は明治三十五年(1902年)に失効した。川越商人(高山二兵衛、綾部利右衛門、山崎嘉七、竹谷兼吉、小川五郎右衛門ら)、福岡河岸の星野仙蔵、白子村の富沢俊らが発起人となり、京越鉄道株式会社を立ち上げた。…」)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

京越鉄道は、東上鉄道に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。

毛武鉄道の鉄道敷設有効期限は明治三十五年(1902年)に失効した。川越商人(高山二兵衛、綾部利右衛門、山崎嘉七、竹谷兼吉、小川五郎右衛門ら)、福岡河岸の星野仙蔵、白子村の富沢俊らが発起人となり、京越鉄道株式会社を立ち上げた。ルートは池袋から上板橋・下練馬村・白子村膝折村志木町・福岡村・川越町小仙波村・川越鉄道川越駅となっており、膝折までは川越街道沿い、そこから志木・福岡の新河岸川舟運ルート沿いという、後の東上鉄道東武東上線の前身ともいえる計画であった。仮免許申請は明治三十五年(1902年)8月21日である。

京越鉄道は実現することがなかったが、翌年設立される東上鉄道でついに川越~東京間の路線が実現することになる。

年譜

  • 明治三十五年(1902年)
    • 8月21日:京越鉄道敷設の出願。

請願文書現代語訳

以下、『志木市史 近代資料編』にもとづき、シラキのコホリのツカサが現代語訳した。

京越鉄道株式会社発起ニ付仮免許申請

私どもは今般、東京府北豊島郡池袋村 日本鉄道株式会社 池袋停車場を起点とし、同郡上板橋村、下練馬村、埼玉県北足立郡白子村、膝折村、志木町、入間郡福岡村、川越町字小仙波村等を経て、既成の川越鉄道株式会社 川越停車場に至る約18マイル4分の3間に、軌道幅員3尺6寸の蒸汽鉄道を敷設し、旅客および貨物の運輸業を営む目的をもって、京越鉄道株式会社を発起したくございますので、仮免許を御下付くだされたく、明治三十三年法律第六十四号私設鉄道法第二条に拠り、別紙書類を添え、発起人連署をもってこのことを願い奉ります。

明治三十五年(1902年)8月21日

京越鉄道株式会社発起人

  • 埼玉県入間郡川越町大字川越440番地 高山仁兵衛(印)
  • 埼玉県入間郡川越町大字川越350番地 綾部利右衛門(印)
  • 埼玉県入間郡川越町大字川越1010番地 山崎嘉七(印)
  • 埼玉県入間郡川越町大字川越512番地 竹谷兼吉(印)
  • 埼玉県入間郡川越町大字川越512番地 竹谷幹吉(印)
  • 埼玉県入間郡川越町大字小久保93番地 小川五郎右衛門(印)
  • 埼玉県入間郡福岡村大字福岡2番地 星野仙蔵(印)
  • 埼玉県北足立郡白子村大字白子77番地 富沢俊(印)

逓信大臣子爵芳川顕正殿

(星野重光氏所蔵)

京越鉄道株式会社起業目論見書

  • 一、本会社の目的は鉄道を敷設し旅客および貨物の運輸業を営むものとする
  • 二、本会社は株式組織であり、京越鉄道株式会社と称し、本社を埼玉県入間郡川越町に設置する
  • 三、敷設すべき線路は東京府北豊島郡池袋村 日本鉄道株式会社 池袋停車場を起点とし、同府同郡上板橋村、下練馬村、埼玉県北足立郡白子村、膝折村、志木町、同県入間郡福岡村、仙波村等を経て、既成の川越鉄道株式会社 川越停車場に到る約18マイル4分の3間とする
  • 四、蒸汽鉄道であって、その軌間は3フィート6インチとする
  • 五、資本総額、金65万円
  • 六、株式総数は1万3000株で、一株の金額は金50円とする
  • 七、発起人の氏名、住所および引受株数は以下のとおり
    • 株式1500株 金7万5000円
      • 埼玉県入間郡川越町大字川越440番地 高山仁兵衛
    • 株式1000株 金5万円
      • 埼玉県入間郡川越町大字川越350番地 綾部利右衛門
    • 株式1000株 金5万円
      • 埼玉県入間郡川越町大字川越1010番地 山崎嘉七
    • 株式500株 金2万5000円
      • 埼玉県入間郡川越町大字川越512番地 竹谷兼吉
    • 株式500株 金2万5000円
      • 埼玉県入間郡川越町大字川越512番地 竹谷幹吉
    • 株式500株 金2万5000円
      • 埼玉県入間郡川越町大字小久保93番地 小川五郎右衛門
    • 株式1000株 金5万円
      • 埼玉県入間郡福岡村大字福岡2番地 星野仙蔵
    • 株式500株 金2万5000円
      • 埼玉県北足立郡白子村大字白子77番地 富沢俊

以上のとおりでございます。

明治三十五年(1902年)8月21日

右発起人 高山仁兵衛(印) 山崎嘉七(印) 綾部利右衛門(印) 竹谷兼吉(印) 竹谷幹吉 小川五郎右衛門(印) 星野仙蔵 富沢俊

(星野重光氏所蔵)

京越鉄道会社調査書(明治三十五年8月)

起業が公共の利益であることを証する調書

我が川越町というのは実に埼玉県下における唯一の都邑であって、人口約2万ばかり。南は武蔵野の一大沃野を控え、西は秩父山の一帯の丘岳がそびえ、付近の村落はまた人烟はなはだ稠密であって、米・大麦・小麦・タバコ・綿・甘藷・馬鈴薯・ブドウ・繭・生糸・製茶・織物などの農産物、生産物に富みます。したがって、商工業の隆盛を促し、旅客貨物の川越町を出入りするものは歳月とともに多くなってきています。

これより先、川越鉄道株式会社の設立があり、同町から入間川、所沢などを経て国分寺に至り、甲武鉄道株式会社の甲武線と接続して東京市との連絡を通じ、もって一面に地方の交通を便利にし、一面に東京・横浜市等の運輸を便利にすることを期しました。

今、ひそかに線路の形勢上から観察すると、川越鉄道の既成線路は東京市に至るにはすこぶる紆余縈回(遠回り)であり、川越停車場から東京飯田町停車場に至るには延長35マイル2分の1強に達し、平均約2時間30分の時間を要するというもので、交通運輸の適切な利便に欠けているという感がないとはいえません。このため、今日の実状にあっては、旅客は陸路大宮町に赴き、日本鉄道株式会社第一区線によって東京市に出入りする者もいます。貨物は依然としてなお隅田川から新河岸川を経て一時しのぎの川船便に拠るものがあります。しかしながらこれもなおいまだもとより便利というものではないのはもちろんのこと、川越町と東京市との交通運輸はついに不利不便のもとにあることを脱することができていません。

往年、しばしば東京市から旧川越街道に沿って川越町、松山町を経て、熊ケ谷町あるいは高崎市に通じさせる企図を講じたものがあります。とりわけ、毛武線と称するものは一旦本免状下付の運に接したものの、当時は一般的に経済界が不振の時期に当たり、不幸にして敷設の機に接することができませんでした。そしてついに本年五月、その有効期限を失うに至ったのは、今なお世人の記憶に新たなところであって、当時、川越町を始め沿線地方が等しく失望せざるをえないところでありました。今や機運がようやく熟し、そして沿線地方の産業その他の進歩は、実に今日も交通不便のもとにあるのに耐えることができない状況です。このため、今回我が地方有志者が決然と起って本鉄道敷設の出願をするに至ったのであります。

本鉄道の敷設線路は川越町から東京府池袋に至る一直線であって、そのマイル数は実に十18マイル4分の3にすぎません。これを既成の川越線を経て、そこから甲武線に乗って東京府新宿駅に至る約31マイル2分の1強を短縮すれば、すなわち5:3の割合であって、本線によるものが東京に到達するとき、彼の線によるものが国分寺駅に到達する時と同じです。彼の線が二時間あまりを費やすところ、本線においては1時間で足りる計算となります。単にこれだけで考えても、地方一般の利便ははかることができないものであることは疑えません。かつ、本線敷設で得られる約13マイルと約1時間との縮減は、既成諸鉄道の便を借りて東京はもちろん、その他関西、東北いずれの地方に行こうとする者に対し、八王子・甲府を経て中央官線に行こうとする者を除けばことごとく利便を受けることができるでしょう。また、旧川越街道と称するものは川越線と日鉄第一区線の中央に位置し、いずれの線に拠っても近くて2~3里、遠いところでは5~6里を隔て、今や交通利便が益々ひらけ、特に帝都からのへだたりは近いものであるにもかかわらず、徒歩で行くことがやむを得ない悲境にあるのは実に遺憾と言わざるを得ません。さらに本線沿道に属する町村の人口をみると、町にあっては川越町の2万以外には5000以下のもの2、村にあっては5000以上のもの1、5000以下のもの22、2000以下のもの4あります。今、これを積算すれば非常に多くに達します。これらの者みな不便の下に忍ばなければならないというのは、たしかに大きな負担ではないでしょうか。

もし、本線に対する将来の希望ということであれば、もとより今出願するような短距離に安んずるだけではありません。後日、社会進歩にともなって、交通が益々頻繁さを加えるようになれば、一方は池袋駅から進んで東京市内に入り、小石川もしくは万世橋付近にまで延長し、一方は川越駅から伊草、中山、松山、大岡等を経て熊谷に出て日鉄第一区線と連絡し、あるいはまた松山から一枝線を分岐し、管谷、小川、大河原、三沢等を経て秩父の大宮郷に達せさせることを期するものです。

要するに、本線は旧毛武線と京板線との復活を図り、あわせて秩父に通ずる枝線も計画中にありますから、これで旧線の改善を期そうと欲するに他なりませんが、従来、世の起業者がいたずらに当初より単に外観に走り、規模を厖大に見せるため、頭と足がかけ離れ、ついに失敗に終わった覆轍を踏まぬようつとめて慎重にし、小さいことから順次大きいことに及ぼす企図をもって地方の現況を考え、力の耐えられるところをもって端緒に就こうと考えております。

議者はこうおっしゃるかもしれません。「現に川越鉄道というものがあり、たとえその線路は甚だしく迂回をなし、甲武線を経て東京市に達するには本線に比して約2倍の距離があある。したがって、約2倍の時間と賃金(運賃)を消費しなければならないとはいえども、とにかく不完全ながらも交通運輸に資するところがある。だからあえて別に本線を敷設する必要はないだろう」と。そうではあっても、既成川越鉄道というものは、その敷設線路の方向および位置等から考えると、必ず川越地方と八王子・甲府方面、すなわち遠く中央線に属する一般地方との連絡を取ることをその主たる目的とし、この敷設を見るに至ったものと断言していいでしょう。そして、なお当時には川越地方と東京都の間はいまだ交通の頻繁なものではありませんでした。また、地方産物ははなはだ多いというわけでもなく、輸送機関の急要を感じることが切実というわけではなかったため、このような遠回りをして東京に到達することに甘んじたのでしょう。しかし、今日に至っては、帝都と地方との間の交通日々繁く、既成の川越線および甲武線をもってしても到底、旅客の不便や貨物の渋滞があることを免れがたいのです。したがって、商工業上、その他一般の地方人民が直接・間接に被っている不便・不利を挙げれば数えることもできません。これこそ実に本鉄道敷設の出願をなすに至った理由なのです。仰いで願わくば当局者はこの実状を諒察し、かつ出願者の衷情(真心)もくみとって、速やかに仮免状下付の恩命に接することができますように。

最後に当たって、本鉄道敷設の暁に際してこの間における旅客貨物の費用・運賃に果してどれくらいの影響を与えるか否かを攻査しようと思います。おそらく現今における旅行の方法によれば、従来一年ごとに約金16万1000円を要していたところ、汽車賃としてはわずかに約金6万5000円に減り、その差額、約金9万6000円余となり、すなわち約6割引で節減できるという数になります。もし、また貨物についてその差額を求めるなら、さらにその節約の割合は実に一層顕著であることがわかるでしょう。すなわち、従来の運賃においては毎年約金70万5700円を要したものが、汽車賃においてはわずかに約金5万3000円で足りることとなり、その差額は約金65万3000円に該当し、すなわち約13分の1でも余りある数となり、ほとんど私の予想外の観があることを免れません(旅客貨物の明細表は第一号及第二号表に詳細を記しました)。

本線のように真に短小の一文線であっても、地は帝都に接し、交通が極めて頻繁であるため、鉄道の利便を感じることが最も深く、したがって地方に対しては論を要せず、その公衆一般に与える便益はまことに偉大なものであって、ついに国家経済に及ぼす影響もまた甚た少からざることがわかります。

線路予測図説明書

本線の起点は日本鉄道株式会社 山手線板橋駅と目白駅との中間に属し、目下同会社において建設工事中である豊島線と山手線と連絡するところの新設・池袋駅であり、すなわちここで初めて本線は分岐して北方を指し、字・金井窪を過ぎ、川越街道[1]を踏み切って上板橋の東裏に出て、ここに上板橋駅を設置する予定とする。この間の地勢は0マイルから1マイル30チェーンに至る間、極めて平坦な普通田畑地を通過するのみで、橋梁としては千川上水に二十フィートを架せば足ります。1マイル30チェーンから2マイル30チェーンに至る間は少し窪地に傾くため、やや多量の盛り土を要し、加えて2マイル10チェーン下頭川[2]に径30フィート鉄桁2連の架橋を要するでしょう。

なお上板橋から街道の右方に沿って北西を指して下練馬村(停車場予定地)部落の北東を過ぎ、字赤塚を経て白子村(停車場予定地)に至るのはこの間もまた概ね地勢最も普通平坦でほとんど全部畑地に属し、ただ多少の切盛があるだけです。しかし、下赤塚から白子に至るには一起一伏しています。従って比較的多量の切り盛りを要します。その白子に入っては土地がはなはだ低く窪地であるため、盛り土の高さは40尺以上に達する区域があります。かつ、6マイル付近にあっては径間15フィート(2連)から12フィート(1連)のアーチ橋を要するものがあるなどすこぶる多大な施行を免れることはできません。本線中至難の工区です。

白子を出て一マイルほどで線路は少し右方に折れ、一直線に膝折(停車場予定地)を経て志木町に向かうに当たり、同町に至らない10マイル付近から再び進路を左方に取り、少しずつ川越街道を離れ、やや北方に迂回して進みます。地形の起伏することは前区に酷似し、また多少の切盛があることを免れません。架橋は8マイル43チェーンに径間15フィートのアーチ、同52チェーンに同じ12フィート4列、同61チェーン黒目川に同30フィートがあります。やや困難があると思われます。そこから志木町(停車場予定地)に至れば、何の施設も要することなく、極めて平易な切り盛りを要するだけです。

志木町から水谷村、鶴瀬村を経て一直線に福岡村(停車場予定地)に至る間は地形また多少の起伏ありますが、それほど多大の土工は必要ありません。ただひとつ、志木町を出てまもなく、すなわち10マイル63チェーンに柳瀬川があります。これは本線における第一の長大な架橋で、径間40フィート鉄桁4連を要します。また12マイル13チェーンに径間12フィートのアーチ1つおよび14マイル23チェーンに径間15フィートの架橋が1つあります。

福岡村を隔てて少しいくと線路は少し右方に折れ、寺尾村、砂村などを過ぎ、一直線に仙波村に至り、17マイル付近においてさらにまた右方に転じて川越町に向かい、17マイル付近から針路を左方に変じ、川越市街の南方を迂回し、ついに既成川越鉄道会社線川越駅に達します。この間は地形が最も普通平坦であって、多少の切盛を要するほか、架橋は径間20フィート1連を要するもの2流と、同15フィート、同12フィートの各1連を要するものそれぞれ1つあるだけです。

これは、要するに、本線は起点より終点に至るまていわゆる武蔵野原の一隅を通過するものであるため、概して上地平坦であり、間には多少の起伏と三、四の川流とがあるほか、難場と称すべきものはまったくなく、地目については畑がその七分を占め、田はその二分、平林はその一分に居るため、地価も少し高いものは免れることができないとしても、そのために本鉄道敷設の障碍となるほとではないことは議論のないところであります。概して事は極めて平易であるものと信じます。

調査主任 岸 真次郎

運輸営業上の収支概算書

一 金13万3210円3銭2厘 収入総額
 但 一日一マイル平均金19円46銭4厘強
  内訳
 金6万5115円28銭5厘 乗客収入
  但 一日一マイル平均金9円51銭5厘弱
 金6万8094円74銭7厘 貨物収入
  但 一日一マイル平均金9円95銭弱

一 金5万9944円51銭4厘 支出総額
 但 一日一マイル平均金8円75銭9厘強
  内訳
 金1万1175円26銭8厘 運輸費
 金1万9036円44銭3厘 線路保存費
 金2万3217円80銭9厘 汽車費
 金6514円99銭4厘 総係費

収支差引

一 金7万3265円51銭8厘 総益金
   内
  金7326円55銭2厘 積立金及び役員賞与金

差引

一 金6万5938円9拾5銭6厘 純益金
 但 資本金65万円に対し年利1割1厘4毛強に当たる

運輸営業上の収支概算書

説明

一 建設費予算は実地予測の上、細密な調査を遂げ、かつ一般の工費予算を基礎とし、全図既成鉄道建設費決算額も参照し、本線に対して最も適切と認められる標準価格を定め、時価に照らして算出したものです。元来、本線が経過する地形はいわゆるいにしえの武蔵野原の一隅に属するため、もとより概して一般平坦です。わずかに白子~志木間において多少の起伏があるのを見るほかは、橋梁もわずかに十か所であり、総延長四百フィートに足りず、最長のものであってもただ柳瀬川の160フィートのものが1つあるだけです。また、溝橋に至っても、その径間三フィートから十フィートに至るものが計40か所あるのもまた普通平易なものなので、全体の工事は極めて簡易なものと信じて疑いません。

一 乗客および貨物の種類、ならびに数量は、もっぱら沿道の町村役場につき、またその主要貨物に至っては特に当業者に調査したものを参照してそれぞれ算出したものであり、その結果、乗客収入について一日ごとに一マイル平均金9円51銭5厘弱、貨物収入は同金9円95銭弱を得ました。これはすなわち、乗客は毎日往復平均全線を通して313人弱、すなわち片道156人弱、貨物は同じく207トン弱、片道103トン半弱に相当する割合となります。そして、主な貨物は川越町および沿道各駅において多少の相違があるのは免かれないといえどもほとんど大同小異で、輸入にあっては肥料、塩、油、酒、醬油、砂糖、石炭、綿糸、石材、鉄材等。輸出にあっては雑穀類、甘藷、織物、もしくは薪炭、材木、砂利(東京は輪出)などであります。

さらに本線における交通の概況について一言しますと、わが川越町においてはもとより現に既設川越鉄道の便があるといえども、もともとその線路の方向は単に南部の一部から甲州方面に対する交通においては特に遺憾なしといえますが、その帝都に向かっての交通にとっては、たとえ甲武線を経由する不便は忍んだとしても、その線路は余りにはなはだしく迂回をしているため、いたずらに比較的多大な費用と時間とを要し、ほとんど何の効験も見られないようです。このため、今なお川越町はもちろん、本鉄道沿線地方一般から東京に到る無数の旅客の六割は、旧川越街道を車馬にて馳せたり、もしくは徒歩することがやむを得ず、残りの四割は間接に汽車便を借りるとしてもその大半はむしろ川越線に拠らず、多くは川越町から3里も車馬に乗り、荒川を渡って日鉄大宮駅に出て始めて汽車に搭乗するのを常としております。ことにまた貨物に至っては、その不便は一層はなはだしいものであって、今なお概して車馬もしくは間に合わせの川船便によることをやむを得ない状況であり、その交通の頻繁さが日に月に増進している今日にあっては、実に彼我の不便不利は言うに及びません。今、既設川越鉄道に接している我が川越町における状況でも前記のとおりであることを知っていただけましたら、そのほかの沿道町村一般の不便はおそらく何人といえども推察することは困難ではないでしょう。これこそすなわち、本鉄道出願が急要であるという主旨です。ゆえに申し上げますが、もし本線がついに敷設の暁に至れば、川越町および沿線町村一般の享受すべき利便の偉大さはまことにはかることができないものがあるのは、火をみるより明瞭なものであろう、ということを私は信じて疑いません。

一 営業費は仮設各鉄道の成績を参照し、収入金に対して約45%と仮定しました。たしかに本線路の勾配は百分の一を限度とし、かつ一般の組織は極めて質素軽便主義を採り、専ら虚飾を去り、実用を旨とする方針であることをもって、本額は余りはあっても不足はないものと確信します。

調査主任 岸 真次郎

(星野重光氏所蔵)

参考文献・注釈

  1. 原文は「川越鉄道」とあるが、金井窪は現在の板橋区大山金井町で、金井窪バス停、新金井窪橋に名前が残っている。ここは川越鉄道とは関係がない場所であり、川越街道の誤りと考えられる。川越街道は現在の東上線と大山駅で交差している。
  2. 川越街道が石神井川を越える橋に下頭橋がある。
新座郡エリア付近の鉄道路線・駅
計画されていた路線
計画線