「中武鉄道」の版間の差分
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明治二十八年(1895年)に[[川越鉄道]]が川越~国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。 | 明治二十八年(1895年)に[[川越鉄道]]が川越~国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。 | ||
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中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉ります。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴(よく肥えている)で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていました。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っています。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばなりません。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区(区域)をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかありません。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じます。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉ります。 | 中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉ります。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴(よく肥えている)で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていました。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っています。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばなりません。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区(区域)をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかありません。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じます。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉ります。 | ||
=== | 「この請願書に添付して提出された起業目論見書によると、中武鉄道会社の資本金(鉄道敷設費予算)は二六〇万円で、収支子算は、営業収入三八万八一二〇円(乗客収入二二万一七四〇円、貨物収入一六万六三八〇円)、営業費総額一五万九二四八円で、純益金は五万九二四八円と目論まれていた。」(『志木市史 通史編 下』p.147) | ||
'''中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願'''(埼玉県行政文書 明一七四七)<ref> | |||
===志木町から中武鉄道会社の敷設を要請する請願書=== | |||
'''中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願'''(埼玉県行政文書 明一七四七)<ref>『志木市史 近代資料編』をもとにして現代語訳</ref> | |||
私どもは謹んで連署をもって請願奉ります。元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。 | 私どもは謹んで連署をもって請願奉ります。元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。 | ||
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西川武左衛門(以下略) | 西川武左衛門(以下略) | ||
===宗岡村から中武鉄道会社の敷設を要請する請願書=== | |||
'''中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願'''(埼玉県行政文書 明一四七四)<ref>『志木市史通史編下』pp.148-149から現代語訳</ref> | |||
元来、武州中部地方の地味は豊腴、物産は豊饒であって、東京に接近しているのにもかかわらず、産業人事の発達ははかばかしくなく、地方一般はまことに遺憾に存じておりましたところ、今般、東京及び地方融資者の発起にて中武鉄道株式会社創立の計画がありました。その線路は我々ども積年の希望のとおり、東京から志木・川越・松山・児玉・藤岡を経て高崎に至るものであります。東京の中心から上州の要衝である高崎を最も近いルートで連絡して、大体において線路の配置がよろしきを得ているのみならず、武州の中心を経過して、経過する地方は人口稠密、物産豊饒で、つとに即今の利益があるにとどまらず、永遠に地方開発の効益は莫大であります。我々ども多年にわたって遺憾に存じておりましたところ、今回、中武鉄道が落成しましたら荒川以西の産業人事の開発もひとえにこの線路の開通によって達し申すべき地方一般の幸福に過ぎざる次第にございます。 | |||
===中武鉄道株式会社線路急設請願=== | ===中武鉄道株式会社線路急設請願=== | ||
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「元来、中武地方の地味は豊腴(ホウユ=肥沃)であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四~五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京と近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」 | 「元来、中武地方の地味は豊腴(ホウユ=肥沃)であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四~五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京と近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」 | ||
===鉄道会議議事速記録=== | |||
本願線路の大部分は諮詢第191号 [[毛武鉄道]]株式会社発起人、および諮詢第194号 武州鉄道株式会社発起人に敷設を許可すべき各線路の一部と方向を同じくし、その他の線路は鉄道敷設の必要を認めない。<ref>『志木市史通史編下』p.149</ref> | |||
==請願文書(B)== | ==請願文書(B)== | ||
2026年5月3日 (日) 20:28時点における版
中武鉄道は、東上鉄道に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。
明治二十八年(1895年)に川越鉄道が川越~国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。
ただし、中武鉄道株式会社という名称で二種類の計画が存在したようである。
一つは、明治二十八年(1895年)4月6日に創立請願書が出された中武鉄道株式会社である。『志木市史 通史編』(近代 第3章 資本主義の発展と地域社会)によれば、「東京市万世橋から埼玉県の志木町、川越町、松山町、児玉町、群馬県の藤岡町などを経て高崎に達する路線として、中武鉄道の敷設が企てられた。資本金は260万円、発起人は東京市京橋区の中沢彦吉外11名であった」とある。当サイトではこちらを「中武鉄道A」と仮称する。[1]
もう一つは、明治二十八年(1895年)8月20日に芝区の高安象次郎ほか13名により請願が行われた中武鉄道株式会社である。これは大宮停車場~所沢村~拝島村~八王子停車場を結ぶ計画である。このルートは、八王子鉄道会社と一部重なるものであった。当サイトではこちらを「中武鉄道B」と仮称する。[2]
どちらの計画も実現には至らなかった。
年譜
- 明治二十八年(1895年)
- 4月6日:中武鉄道(A)の創立請願書が出される。
- 8月20日:中武鉄道(B)の創立請願書が出される。
- 12月2日:志木町の西川武左衛門ほか139名が「中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願」を提出(A)
- 12月4日:宗岡村の萩島万歳ほか351名が「中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願」を提出(A)
- 12月7日:新河岸川舟運の福田屋ほか48名が「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出(A)
- 明治二十九年(1896年)7月:中武鉄道株式会社創立発起認可願を申請(B)。しかし、その後却下される。
請願文書(A)
以下、現代語訳はシラキのコホリのツカサによる。
中武鉄道創立請願書
中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉ります。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴(よく肥えている)で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていました。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っています。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばなりません。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区(区域)をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかありません。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じます。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉ります。
「この請願書に添付して提出された起業目論見書によると、中武鉄道会社の資本金(鉄道敷設費予算)は二六〇万円で、収支子算は、営業収入三八万八一二〇円(乗客収入二二万一七四〇円、貨物収入一六万六三八〇円)、営業費総額一五万九二四八円で、純益金は五万九二四八円と目論まれていた。」(『志木市史 通史編 下』p.147)
志木町から中武鉄道会社の敷設を要請する請願書
中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願(埼玉県行政文書 明一七四七)[4]
私どもは謹んで連署をもって請願奉ります。元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。
しかるところ、今般、東京及び地方有志者の発起で中武鉄道株式会社創立の計画があり、その線路は我々ども積年の希望のごとく、東京より志木、川越、松山、児玉、藤岡を経て高崎に至るものであり、東京の中心から上州の要衝である高崎との連絡を近接させて、大体において線路の配置がよろしいものであるのみならず、武州の中心を通過し、その経過する地方は人口稠密で物産が豊饒であり、すなわち今の利益があるだけにとどまらず、永遠に地方開発の効果が絶大であること信じております。この鉄道工事がひとたび成れば、我々ども多年遺憾に存じながらもとうていその目的を達することが難しかった荒川以西の産業・人事の開発もたちまち変わるでしょう。このことを申し上げる機会は、地方の幸福に過ぎるものはない次第でございます。元来、西武は一般に米麦および雑穀の産出はすこぶる巨額であり、ことに養蚕業については古来開けており、製糸紡績の事業は一年にますます増殖しております状況につき、この際、一旦鉄道が開通するに至れば、その進歩は今日の20倍に至るであろうことは必然でございます。加えて、広く武州全体の利益より申しても、河東河西の進歩を平均させ、今日半身不随の傾向を強制するのは最も急務であります。進んで、上武連絡の上からしても、最近最も早い線路の配置が適切に行われれば、この線路に過ぎるものはないと存じておりますので、なにとぞこの線路敷設のことを支給五人か下されたく、我々どもの宿望をお伝えいたしたく、一地方の状況に過ぎないとはいえ、沿道人民一般の熱望するところであります。一応切望の旨の趣旨を開陳し、支給発起人等の願いの旨をお伝えして、地方尋問の輿望をお伝えしたく、ここに連署をもって慎んで請願つかまつります。
明治二十八年12月2日
埼玉県新座郡志木町164番地
西川武左衛門(以下略)
宗岡村から中武鉄道会社の敷設を要請する請願書
中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願(埼玉県行政文書 明一四七四)[5]
元来、武州中部地方の地味は豊腴、物産は豊饒であって、東京に接近しているのにもかかわらず、産業人事の発達ははかばかしくなく、地方一般はまことに遺憾に存じておりましたところ、今般、東京及び地方融資者の発起にて中武鉄道株式会社創立の計画がありました。その線路は我々ども積年の希望のとおり、東京から志木・川越・松山・児玉・藤岡を経て高崎に至るものであります。東京の中心から上州の要衝である高崎を最も近いルートで連絡して、大体において線路の配置がよろしきを得ているのみならず、武州の中心を経過して、経過する地方は人口稠密、物産豊饒で、つとに即今の利益があるにとどまらず、永遠に地方開発の効益は莫大であります。我々ども多年にわたって遺憾に存じておりましたところ、今回、中武鉄道が落成しましたら荒川以西の産業人事の開発もひとえにこの線路の開通によって達し申すべき地方一般の幸福に過ぎざる次第にございます。
中武鉄道株式会社線路急設請願
明治二十八年12月7日、新河岸川船運の船問屋・福田屋十代当主星野仙蔵ほか48名が、通信大臣白根専一宛に「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出した。[6]
「元来、中武地方の地味は豊腴(ホウユ=肥沃)であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四~五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京と近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」
鉄道会議議事速記録
本願線路の大部分は諮詢第191号 毛武鉄道株式会社発起人、および諮詢第194号 武州鉄道株式会社発起人に敷設を許可すべき各線路の一部と方向を同じくし、その他の線路は鉄道敷設の必要を認めない。[7]
請願文書(B)
中武鉄道株式会社創立願書(抄)
中武鉄道株式会社創立発起認可願(明治二十九年七月)
今般、埼玉県武蔵国北足立郡大宮駅から同郡大和田町に至り、一つは入間郡所沢川越鉄道線に連続し、一つは大和田町から甲武鉄道線境停車場を経て官設川崎駅停車場に連続する、合計36マイル半の鉄道を敷設し、運輸の業をなし、公私の利便を起したく、すなわち明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例に基づいて、別紙書類を添えて捧げますので、許可くだされたく、このことを願い奉るものであります。
中武鉄道株式会社創立発起人
明治二十九年7月 発起人連署
中武鉄道株式会社起業目論見書
- 第一 本会社は株式組織とする
- 第二 本会社は鉄道を布設し、旅客荷物運輸の業を営むことを目的とする
- 第三 本会社は中武鉄道株式会社と称し、本社を東京市に設置する
- 第四 本会社の鉄道路線は埼玉県北足立郡大宮駅、既設日本鉄道株式会社停車場附近を起点とし、同郡与野町、同郡大久保村、同郡荒川羽根倉渡船場の下流東南を横断し、入間郡宗岡村新河岸川を横断、北足立郡志木町、大和田町、東京府下北多摩郡清戸で柳瀬川を渡り、直線で入間郡下荒井を経て、既設の川越鉄道株式会社所沢町停車場に連続する。その間およそ13マイル半。および、一つは北足立郡大和田町から南方に向かい、同郡保谷村、東京府下北多摩郡田無町甲武鉄道株式会社境停車場に接続し、そこから井口深大寺布田駅、和泉溝口小田中平間、官設鉄道川崎停車場に連続する。この間およそ23マイル。合計36マイル半。軌道幅員はすべて官線に準拠する。線路は別紙略図のとおり。
- 第五 本会社の資本は金150万円とし、これを3万株に分かち、一株の金額を50円とする
- 第六 鉄道布設費および運輸営業の収支概算は以下の通り
鉄道布設費概算
一 金150万円 建設費
内訳
金2万3500円 測量及土木監督費
金9万7000円 用地費
金20万円 土工費
金42万円 橋梁費
金2万3000円 コルベルト費
金35万円 軌道費
金1万3000円 伏樋費
金3万円 停車場費
金7500円 諸建築費
金15万5000円 汽鑵車及車両費
金3万6500円 運送費
金9000円 建築用汽車費
金2000円 柵垣及境界標杭費
金4500円 電線架設費
金9000円 建築用具費
金2万円 総掛費
金10万円 予備費
参考文献・注釈
| 旧新座郡エリア付近の鉄道路線・駅 |
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