「中武鉄道」の版間の差分
シラキのコホリのツカサ (トーク | 投稿記録) 編集の要約なし |
シラキのコホリのツカサ (トーク | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
| 18行目: | 18行目: | ||
==請願文書現代語訳== | ==請願文書現代語訳== | ||
以下、『志木市史 近代資料編』『志木市史 通史編』にもとづき、[[User:シラキのコホリのツカサ]]が現代語訳した。 | 以下、『志木市史 近代資料編』『志木市史 通史編』にもとづき、[[User:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]が現代語訳した。 | ||
===中武鉄道創立請願書=== | ===中武鉄道創立請願書=== | ||
2026年5月3日 (日) 19:13時点における版
中武鉄道は、東上鉄道に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。
明治二十八年(1895年)に川越鉄道が川越~国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。
中武鉄道株式会社は明治二十八年8月20日に芝区の高安象次郎ほか13名により請願が行われた。これは大宮停車場~所沢村~拝島村~八王子停車場を結ぶ計画である。このルートは、八王子鉄道会社と一部重なるものであった。
明治二十八年12月7日、新河岸川船運の船問屋・福田屋十代当主星野仙蔵ほか48名が、通信大臣白根専一宛に「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出した。その内容を現代語訳すると、「元来、中武地方の地味は豊腴(ホウユ=肥沃)であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四~五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京都近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」というものである。
中武鉄道は八王子鉄道会社と同一の計画と判断された。明治二十九年に鉄道敷設の免許を申請したが、却下された。
年譜
- 明治二十八年(1895年)
- 8月20日:創立請願書が出される。
- 12月7日:新河岸川舟運の福田屋ほかが「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出
- 明治二十九年(1896年)7月:中武鉄道株式会社創立発起認可願を申請。
請願文書現代語訳
以下、『志木市史 近代資料編』『志木市史 通史編』にもとづき、シラキのコホリのツカサが現代語訳した。
中武鉄道創立請願書
『志木市史 通史編』(近代 第3章 資本主義の発展と地域社会)によれば、「東京市万世橋から埼玉県の志木町、川越町、松山町、児玉町、群馬県の藤岡町などを経て高崎に達する路線として、中武鉄道の敷設が企てられた。資本金は260万円、発起人は東京市京橋区の中沢彦吉外11名であった」とある。以下、この中武鉄道会社の創立請願書を現代語訳して掲載する。
中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉ります。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴(よく肥えている)で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていました。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っています。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばなりません。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区(区域)をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかありません。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じます。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉ります。
中武鉄道会社の敷設を要請する請願書
中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願(埼玉県行政文書 明一七四七)[1]
私どもは謹んで連署をもって請願奉ります。元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。
しかるところ、今般、東京及び地方有志者の発起で中武鉄道株式会社創立の計画があり、その線路は我々ども積年の希望のごとく、東京より志木、川越、松山、児玉、藤岡を経て高崎に至るものであり、東京の中心から上州の要衝である高崎との連絡を近接させて、大体において線路の配置がよろしいものであるのみならず、武州の中心を通過し、その経過する地方は人口稠密で物産が豊饒であり、すなわち今の利益があるだけにとどまらず、永遠に地方開発の効果が絶大であること信じております。この鉄道工事がひとたび成れば、我々ども多年遺憾に存じながらもとうていその目的を達することが難しかった荒川以西の産業・人事の開発もたちまち変わるでしょう。このことを申し上げる機会は、地方の幸福に過ぎるものはない次第でございます。元来、西武は一般に米麦および雑穀の産出はすこぶる巨額であり、ことに養蚕業については古来開けており、製糸紡績の事業は一年にますます増殖しております状況につき、この際、一旦鉄道が開通するに至れば、その進歩は今日の20倍に至るであろうことは必然でございます。加えて、広く武州全体の利益より申しても、河東河西の進歩を平均させ、今日半身不随の傾向を強制するのは最も急務であります。進んで、上武連絡の上からしても、最近最も早い線路の配置が適切に行われれば、この線路に過ぎるものはないと存じておりますので、なにとぞこの線路敷設のことを支給五人か下されたく、我々どもの宿望をお伝えいたしたく、一地方の状況に過ぎないとはいえ、沿道人民一般の熱望するところであります。一応切望の旨の趣旨を開陳し、支給発起人等の願いの旨をお伝えして、地方尋問の輿望をお伝えしたく、ここに連署をもって慎んで請願つかまつります。
明治二十八年12月2日
埼玉県新座郡志木町164番地
西川武左衛門(以下略)
中武鉄道株式会社創立願書(抄)
中武鉄道株式会社創立発起認可願(明治二十九年七月)
今般、埼玉県武蔵国北足立郡大宮駅ヨリ同郡大和田町ニ至リ、一ハ入間郡所沢川越鉄道線ニ連続シ、一ハ大和田町ヨリ甲武鉄道線境停車場ヲ経テ官設川崎駅停車場ニ連続スル、合計36哩(マイル)半の鉄道ヲ敷設シ、運輸ノ業ヲ為シ、公私ノ利便ヲ起シ度、則チ明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例ニ基キ、別紙書類相添捧呈致候間、御許可被成下度、此段奉願候也
中武鉄道株式会社創立発起人
明治二十九年7月 発起人連署
中武鉄道株式会社起業目論見書
- 第一 本会社ハ株式組織トス
- 第二 本会社ハ鉄道ヲ布設シ、旅客荷物運輸ノ業ヲ営ムヲ以テ目的トス
- 第三 本会社ハ中武鉄道株式会社ト称シ、本社ヲ東京市ニ設置ス
- 第四 本会社ノ鉄道路線ハ埼玉県北足立郡大宮駅、既設日本鉄道株式会社停車場附近ヲ起点トシ、同郡与野町、同郡大久保村、同郡荒川羽根倉渡船場ノ下流東南ヲ横断し、入間郡宗岡村新河岸川ヲ横断、北足立郡志木町、大和田町、東京府下北多摩郡清戸柳瀬川ヲ渡リ、直線入間郡下荒井ヲ経テ、既設川越鉄道株式会社所沢町停車場ニ連続スル、其間凡ソ13哩半、及一ハ北足立郡大和田町ヨリ南方ニ向ヒ、同郡保谷村、東京府下北多摩郡田無町甲武鉄道株式会社境停車場ニ接続、夫ヨリ井口深大寺布田駅、和泉溝口小田中平間、官設鉄道川崎停車場ニ連続スル、此間凡ソ23哩、合計36哩半、軌道幅員ハ総テ官線ニ準拠ス、線路ハ別紙略図ノ如シ
- 第五 本会社ノ資本ハ金150万円トシ、之ヲ3万株ニ分チ、一株ノ金額ヲ50円トス
- 第六 鉄道布設費及運輸営業ノ収支概算ハ左ノ如シ
鉄道布設費概算
一 金150万円 建設費
内訳
金2万3500円 測量及土木監督費
金9万7000円 用地費
金20万円 土工費
金42万円 橋梁費
金2万3000円 コルベルト費
金35万円 軌道費
金1万3000円 伏樋費
金3万円 停車場費
金7500円 諸建築費
金15万5000円 汽鑵車及車両費
金3万6500円 運送費
金9000円 建築用汽車費
金2000円 柵垣及境界標杭費
金4500円 電線架設費
金9000円 建築用具費
金2万円 総掛費
金10万円 予備費
参考文献
- 白田勝美「明治中期埼玉県内私設鉄道敷設計画について-第二次鉄道熟期と「幻の鉄道」-」『埼玉県立文書館 書館紀要第6号』埼玉県立文書館,1992年
- ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館『第20回特別展 東上線の開通と上福岡駅 -舟運の終末から鉄道へ-』2005年11月
注釈
- ↑ 『志木市史 近代資料編』をもとにして現代語訳した。
| 旧新座郡エリア付近の鉄道路線・駅 |
|---|
|
|