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鉄道省『'''日本鉄道史 下篇'''』(大正十年(1921)8月31日発行)より、[[川越鉄道]]([[西武新宿線]]・西武国分寺線の前身)、[[東上鉄道]]([[東武東上線]]の前身)、[[武蔵野鉄道]]([[西武池袋線]]の前身)に関する記載を現代語訳して掲載する。なお、東村山以東の[[西武新宿線]]・JR[[武蔵野線]]・[[有楽町線]]・[[副都心線]]の前身となる路線はこの時代にはまだ存在しない。
鉄道省『'''日本鉄道史'''』(大正十年(1921)8月31日発行)より、[[川越鉄道]]([[西武新宿線]]・西武国分寺線の前身)、[[東上鉄道]]([[東武東上線]]の前身)、[[武蔵野鉄道]]([[西武池袋線]]の前身)に関する記載を現代語訳して掲載する。なお、東村山以東の[[西武新宿線]]・JR[[武蔵野線]]・[[有楽町線]]・[[副都心線]]の前身となる路線はこの時代にはまだ存在しない。


==第七章 私設鉄道の発達==
==第七章 私設鉄道の発達==

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鉄道省『日本鉄道史』(大正十年(1921)8月31日発行)より、川越鉄道西武新宿線・西武国分寺線の前身)、東上鉄道東武東上線の前身)、武蔵野鉄道西武池袋線の前身)に関する記載を現代語訳して掲載する。なお、東村山以東の西武新宿線・JR武蔵野線有楽町線副都心線の前身となる路線はこの時代にはまだ存在しない。

第七章 私設鉄道の発達

第四節 私設鉄道条例による鉄道

第十三 川越鉄道

川越鉄道の発起

川越鉄道は中央武蔵にある入間・高麗・比企の諸郡から既成鉄道に連絡しようとして起こったものであり、日本鉄道会社の線に接続するには荒川を渡る必要があるため、むしろ甲武鉄道会社の線に連絡する工事の容易さに及ばないと考えた。明治二十三年12月23日、発起人高麗郡柏原村増田忠順ほか38名は、川越を起点とし、入間川・所沢を経て国分寺に至り、甲武鉄道会社の線に連絡することを願い出た。

その距離は18マイル半で、資本金を25万5000円(後に30万円とした)とし、二十四年4月、仮免状の下付があった。翌二十五年6月21日、免許状が下付された。同年8月、米倉一平・雨宮敬次郎・向山小平次・益田忠順・西田和恊を委員に選挙し、米倉一平を委員長とし、岩田作兵衛・深井辨之助を検査役とし、会社を川越町に置いた。

そうして二十六年工事に着手し、二十七年12月、国分寺・久米川間が開通するに至った。

第十四章 私設鉄道

第二節 私設鉄道

第十六 川越鉄道

全域開通

川越鉄道会社は明治二十五年6月、国分寺・川越間18マイル40チェーンに対する免許状を受け、この工事を甲武鉄道会社に委託し、甲武鉄道会社は二十六年6月川越より工事を起こし、11月国分寺に建築課出張所を設け、国分寺より工事を起こした。二十七年12月21日、国分寺・久米川間5マイルを開通し、久米川に仮停車場を開いた。二十八年3月21日、久米川・川越間43マイル40チェーンを開通し、久米川にあった仮停車場を撤去した。

延長線不許可

明治二十八年12月、川越から東京市万世橋に至る線路延長[1]の免許を申請したが、翌二十九年4月、難聴届(ききとどけがたし)の指令を受けた。

賃金改正

会社の旅客賃金は下等1マイルの率をおよそ1銭3厘とし、中等はその2倍、上等は下等の3バイトしたが、三十二年4月1日より三等を1銭5厘とし、二等を三等の六割増し、一等を二等の六割増しとした。また、三十九年度に一等を配した。

営業委託

会社の営業は明治二十七年12月以来、これを甲武鉄道株式会社に委託していたが、この委託契約は三十三年12月施設鉄道法第26条により認可を受けた。三十九年、甲武鉄道が国有になり、これに際して同年9月末日を限って委託契約を解いた。

営業状態

会社の資本金は30万円であったが、明治二十八年度において6万円を増加し、払込額は三十九年度において全額に達し、借入金四万1000円を有した。開業マイル数は18マイル36チェーン(三十一年度に訂正した)に達し、同年度において機関車4両、客車12両、貨車29両を有し、建設費は39万7944円で、旅客55万5160人、貨物8万9528トンを輸送し、営業収入は10万7860円、営業費は6万9365円で、益金は建設費の9分7厘(9.7%)に当たり、払込株券に対して上半季8分5厘、下半季9分5厘を配当した。

会社位置

会社はその位置を川越町に定めていたが、営業委託の都合上二十八年1月4日、これを東京市麹町区飯田町甲武鉄道株式会社構内に移し、三十九年9月末日、委託解除とともにこれを川越町に移した。

役員異動

会社の役員は当初、専務取締役・米倉一平、取締役・雨宮慶次郎、向山小平次、益田忠順、西田和恊、監査役・岩田作兵衛、深井辨之助が在任していた。明治二十六年12月深井辨之助が辞して菅原恒覧がこれに代わった。二十八年10月、西田和恊が退き、岩田作兵衛が取締役に転じ、藤平重資が監査役となったが三十二年死去した。10月、三浦泰輔が監査役に当選した。三十三年10月、米倉一平を社長とし、岩田作兵衛を専務取締役とし、藤平重次を監査役とする。三十四年10月、藤平重次が辞し、三十五年10月、桂二郎を監査役とした。三十七年6月、社長・米倉一平が死去し、以後、社長を置かなかった。三十七年10月、監査役・桂二郎が退き、三浦泰輔が取締役となり、伊藤鼎、浅井謙藏を監査役とした。

部課

会社は当初、建築・汽車・運輸の三部を置いていたが、明治二十九年7月、甲武鉄道株式会社技術庁・菅原恒覧に建築および保線主任を嘱託した。また、同会社主事・岡田鋋に運輸部長を嘱託したが、三十一年7月にこれを解いた。三十四年に至り、部を課に改称した。


第四節 開業に至らなかった鉄道

第四 その他の鉄道

毛武鉄道

毛武鉄道は明治二十八年8月、東京市久能木宇兵衛ほか10名の発起により、資本金200万円で東京市小石川区富坂に起こり巣鴨・池袋・板橋より白子に至り、大和田、大井を経て川越に達し、松山を経て熊谷・妻沼・太田より足利に至る延長約57マイルの線を敷設しようとし、その免許を申請した。翌二十九年3月、鉄道会議は東京市内に属する富坂・板橋間を除きこの許可を決したので、発起人等は船路を板橋・足利間55マイルに更正し、5月23日仮免状を得た。そして同年6月、資本金を225万円に改め、9月創業総会において久能木宇兵衛ほか6名を取締役に、大江卓ほか2名を監査役に選挙し、会社の位置を東京市内に置き、10月免許状を申請して三十一年1月17日にこれを得た。

しかし、当時財界不振のため株金10分の1の払込をしただけで資金を上げることができなかったので、会社は事業廃止を決定し、三十二年5月15日をもって解散した。

しかし、その後、株主の中の有志の者が再興をはかり、同年8月をもって久能木宇兵衛ほか9名が発起人となり、再び資本金225万円をもって板橋より川越を経て足利に至る線を敷設しようとした。これより先、東京市千坂高雅ほか5名は5月板川鉄道を発起し、資本金80万円をもって板橋・川越間約19マイルの敷設を願い出ていた。

三十三年4月板川鉄道は却下され、5月毛武鉄道に対し仮免状が下付された。しかし指定期限内に免許状下付を申請しなかったため、三十五年5月をもって仮免状の効力を失った。


第二十章 私設鉄道

第二節 既設鉄道

第二 川越鉄道

軽便鉄道指定

川越鉄道は国分寺・川越間18マイル36チェーンを営業していたが、明治四十四年2月16日、軽便鉄道法により主務大臣の指定を受け、以後、同法に依拠するものとなった。

旅客賃率

これより先、明治四十二年10月25日より旅客賃金三等1マイルの率1銭5厘を1銭8厘(隣接区間は1銭5厘)に改正した。

営業状態

会社の資本金は36万円だったが、明治四十年度において増して50万円とし、その払込額は四十三年度において40万2000円に上り、借入金3万円を有している。同年度の建設費は44万0964円にして、機関車4両・客車12両・貨車69両を有し、旅客57万7092人、貨物10万0820トンを輸送し、その営業収入は12万4947円、営業費は6万9294円であって、益金は建設費の1割2分6厘に相当し、払込株金に対し両季とも年1割を配当する。

役員

明治四十年度の初めにあっては専務取締役・岩田作兵衛、取締役・雨宮敬次郎、向山小平次、増田忠順、三浦泰輔、監査役・菅原恒覧、伊藤鼎、浅井謙藏が在任していたが、四十四年1月、取締役・雨宮敬次郎が死去し、3月、雨宮亘がこれに代わった。

第三節 新設鉄道

第八 東上鉄道

免許

明治三十六年12月、東京市 千家尊賀ほか33名は東上鉄道を発起した。この線路は日本鉄道線巣鴨から大和田を経て川越に至り、松山、児玉、藤岡、飯塚を経て渋川に達する。74マイル[2]あまり(約119km)、資本金を600万円とした。

四十一年10月、仮免許を受けた。

四十四年11月、役員を選挙し、会社の位置を東京市本所区小梅瓦町に定め、資本金を450万円に改め、本免許を申請した。また、池袋・向原間軽便鉄道1マイルあまり(約1.6km)の免許を申請した。

大正元年11月16日、小石川(起点を巣鴨から改めた)・渋川間76マイルあまり(約122km)に対する本免許を受けた。また、同月30日、池袋・向原間の軽便鉄道の免許を受けた。

大正三年4月18日、川越・田面沢間1マイル31チェーン(2.03km)を軽便鉄道として免許された。

営業開始

大正三年5月1日、下板橋・川越間18マイル23チェーン(29.43km)が開通。同日、軽便鉄道池袋・下板橋(向原)間1マイル28チェーン(2.2km)、川越・田面沢間1マイル36チェーンが開通した。

大正五年10月27日、川越町・坂戸町間5マイル53チェーン(9.11km)が開通し、同字に軽便鉄道川越町・田面沢間の一部を廃した。東上鉄道の旅客賃金は並等1マイル2銭、特等をその5割増しとした。

軽便鉄道に指定

東上鉄道は大正七年3月27日、軽便鉄道法により、主務大臣の指定を受け、それ以降は同法に依拠するものとなった。

営業状態

会社の資本金は450万円で、大正六年度までに161万4207円を払い込み、その建設費は186万7940円で、借入金その他によって資本の不足を整理した。同年度における車両は、機関車五両、客車16両、貨車50両で、旅客75万8149人、貨物14万2079トンを輸送し、営業収入は19万5649円、営業費は13万9705円、益金は建設費の2分5厘に相当し、払込株金に対し両季3分あまりを配当した。

役員

明治四十四年11月創立総会において、原六郎、益田太郎、中島伊平、上野伝五右衛門、加藤政之助、吉野伝治、根津嘉一郎を取締役に、細野二郎、粕谷義三、稲茂登三郎、星野仙蔵を監査役に選挙し、根津嘉一郎を社長とし、吉野伝治を常務取締役とした。

その後、多少の更迭はあったが、大正六年度末にあっては取締役社長根津嘉一郎、常務取締役吉野伝治、取締役原邦造、中島伊平、上野伝五右衛門、監査役粕谷義三、稲茂登三郎が在任している。

第二十一章 軽便鉄道

第二節 軽便鉄道法による鉄道

武蔵野鉄道

武蔵野鉄道(株式会社)は埼玉県入間郡飯能町の出身者 阪本喜一の提唱によるものである。その目的は飯能地方を交通上において東京に近邇させ、あわせて従来河流によって迂回して搬出させられた貨物を直接に鉄道によって搬出させようとすることにあった。

明治四十四年、有志者にはかり、2月17日横浜市平沼専蔵ほか74名を発起人とし、巣鴨飯能間の免許を申請した。10月18日にはこれを受け、そこから工事を起こした。

大正四年4月15日、池袋・飯能間27マイル39チェーン(44.24km)が開通し、5月には国有鉄道線と連帯運輸を通した。

乗車賃金は3等1マイル1銭9厘の率とし、2等をその5割増しとしていたが、大正七年7月、3等の率を2銭4厘に改めた。

会社の資本金は当所75万円であったが、四十五年3月、これを100万円とした。大正七年においては払込額89万6800円に達し、社債金30万円、借入金25万0842円を有する。同年の建設費は136万4803円にのぼる。車両は機関車6両、客車19両、貨車80両で、旅客70万4686人、貨物15万8799トンを輸送し、営業収入は23万2046円。営業費は14万7866円で、益金は建設費の6分2厘に相当する。払込株金に対し上半季4分、下半季4分4厘を配当した。会社の決算期は暦年に基づき、両分して上下半季とする。

会社創立以来、平沼専蔵が取締役社長であったが、大正二年4月死去し、11月小能五郎が取締役社長となった。そして瀬下秀夫が創立以来専務取締役として在任していたが、7年2月に死去し、それから専務取締役を置かない。

東上鉄道

東上鉄道(株式会社)は施設鉄道法により大塚・渋川町間を免許され、また軽便鉄道法により大正元年11月30日、池袋・下板橋間1マイル28チェーン(2.17km)、三年4月18日川越・田面沢間1マイル36チェーン(2.33km)を免許された。三年5月1日、池袋・田面沢間を開業した。

五年10月27日、川越町・坂戸町間5マイル53チェーン(9.11km)を開業した。同時に川越町・田面沢間を廃した。

軽便鉄道法による営業は池袋・下板橋間1マイル28チェーン(2.17km)のみとなったが、大正七年3月27日、下板橋・川越町間、川越町・坂戸町間、未開業区間ともに軽便鉄道法により指定された。

開業線は25マイル23チェーン(40.70km)で、未開業線は坂戸町・渋川間51マイル43チェーン(82.94km)、小石川・下板橋間1マイル57チェーン(2.76km)である。

乗車賃金は並等2銭の率であったが、大正七年7月に2銭4厘とし、特等を廃した。

会社の資本金450万円に対し大正七年度までに165万0822円を払い込み、同年度の建設費は180万7175円で、車両数は前年と同じである。七年度の運輸数量は旅客76万4878人、貨物12万8588トンで、同年度の営業収入24万0252円より営業費14万7794を差し引いた益金は建設費の4分9厘に相当し、払込株金に対し上半季3分9厘、下半季5分を配当した。

七年度においては社長・根津嘉一郎、常務取締役・吉野伝治が在任している。

書誌・注

  1. 川越から都内を直通で結ぶ路線で、現在の東武東上線に近い路線の最初の計画ともいえる。
  2. 初期の鉄道の距離表示は、イギリス式のマイル(哩)・チェーン(鎖)・リンク(輪)であった。1マイル=80チェーン、1チェーン=100リンクとなる。なお、1マイルは1.609344kmである。以下、換算した数値を小数点第3位を四捨五入して(  )内に示す。
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計画線