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	<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/09 - 版の履歴</title>
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		<title>シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第九章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その九　悲しい水喰土==  　小島文平が享和三年九月、御普請奉行（水道方）佐橋長門守佳如へ提出した『玉川上水堀割之起発並野火留村引取分水口訳書』は、新しいものでもあり、その家の申し伝えと土地の口碑に…」</title>
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&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第九章&lt;br /&gt;
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（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
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==その九　悲しい水喰土==&lt;br /&gt;
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　小島文平が享和三年九月、御普請奉行（水道方）佐橋長門守佳如へ提出した『玉川上水堀割之起発並野火留村引取分水口訳書』は、新しいものでもあり、その家の申し伝えと土地の口碑にあることを取りまとめたものであって、安全な資料ではないという人もあります。私は、[[松平信綱]]を玉川上水工事の総奉行であったという記載について、宮崎成身の『国字分類雑記』、植田孟縉の『武蔵名勝図会』を傍証として、肯定いたしましてから、訳書が指定をしております玉川兄弟の蹉跌（失敗）の証拠、再度の設計失敗の跡を踏査して、安松の玉川上水についての事功を顕揚しようと思い立ちました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川兄弟の最初の計画は、多摩郡国分寺村真姿の流（川越線細田の真姿弁天を祀っている祠の下の池）を取り入れるつもりで、日野の渡（現在は日野橋）の下から府中八幡下へ引き込み、狭山の筥が池の流れも谷保村地先で合流させて、四谷大木戸へ向って水盛を渡したところ、八幡下の御滝で流筋低く、誘導してきた水はそこから涸れ、字金泥（府中町谷戸の南端)へ落ちてしまう。地字は金尻であるけれども、地元では「カナシイ」と呼び、同所の坂道を「悲しい坂」と言っております。今も日野橋の下から、府中の入口、堰屋塚まで二十余町の堀敷が、途切れ途切れではありますが残っております。玉川兄弟第一計画失敗の証跡として残っている古堀敷を、土地では新堀（しんぼり）または空堀（からぼり）と言っております。土地の言い伝えでは、承応の頃、神代村の瀧坂の辺まで掘り、試みに水を引き入れたところ、現在「悲しい」と称するところへ来て、幾度も堤塘が崩壊して、不成功に終わり、そのために役人がその責任として処刑されたと伝えております。それゆえ、この「カナシイ」の地名が起ったと言います。今でも祝儀の際などはこの道を通らないと、府中史談会長・猿渡盛厚氏から聞きました。土地の伝説と小島の『訳書』と、廃渠とをもって、十分に証拠となっております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府がこの工事の着手を命じたのは、承応元年十一月十五日で、翌二年二月十日に（『徳川実紀』）伊奈半左衛門が上水道奉行を仰付けられました。あるいは（『徳川実紀』）伊奈半十郎を水道奉行にした、ともあります。『上水記』でも評定所の連名に伊奈半左衛門があり、見分に出かけた内に伊奈半十郎があります。半十郎忠治は伊奈備前守忠次の次男で、承応二年六月二十七日没、半左衛門忠克は半十郎忠治の惣領、正保二年八月十日から御代官を勤めております。忠克は承応二年十二月二十二日に遺跡相続し、父に代ってその職を嗣いだ、と書かれています。承応二年二月十一日に水道奉行になつたのは親父の半十郎忠治で、見分に出掛けたのは息子の半左衛門忠克です、水道奉行の半十郎忠治は四月四日に起工して、六月二十七日には死んでおります。息子の半左衛門忠克がその父の職を嗣いだ十二月まで水道奉行が欠けており、見ようによっては水道奉行が二人あったかとも疑われます。この半十郎忠治の死が「悲しい」の伝説に上（かみ）役人が一人切腹したというのに関係ありそうです。また、羽村の水神祠にも、工事に関係して切腹した人を祭ったという地元の話がある。半十郎忠治は六十二歳で没したので、普通の老衰と思われる。上水工事失敗は必ずしも水道奉行である彼が責めを負わなければならないということもないでしょうが、結局、工事の失敗がなければ、そうした俚談俗説も出ては来ないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、第二の計画は、さかのぼって福生村地先から引き入れて、四谷大木戸へ水盛して、堀割も済み、いよいよ水を仕掛けて見ると、熊川村地内で引いて来た水がことごとく地中にしみこみ、流れるどころでない。その場所を、今日でも「水喰土」と書いて「ミヅクラヒド」と読む一つの地字を残した。旧知の八王子史談会長天野佐一郎氏に頼んで、福生村の宇新堀、廃渠のあるのは同村の南北隅、羽村から川崎へ寄ったところ。幅五間ほどの古堀敷が、長さ四町ほど残っています。水喰土は拝島駅から西北へ五町ほど距てて、左側が低く右側が高い土手が大凡五間ぐらい残ってをります。堤上から南望すれば、畑地は古堀敷よりもはなはだ低く、高く築いた土手からは十間も差があるように見える。さうして現在の玉川上水は水喰土から二町足らずのところ、熊川村の地元、八高線を隔てて北を一秒三尺の水勢で流れているのを見分させてもらいました。『武蔵名勝図会』にいうところの、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:福生村の西、多摩川畔に上水口址と称する堰の跡がある。地元の話では、はじめこの地から流通させようと定めたが、不便なことから今の地に改鑿したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これです。この記載は、面倒なことを避けて、暴露はありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これで、玉川兄弟の設計は、二度とも失敗したことは疑いない。小島文平の訳書は新しいものでもあり、口碑伝説を集めたものに過ぎないといわれても、祖先信綱の遺風で、旧吉田高崎両藩主の家に何も残されていないとすれば、根本史料などというものは、将来にも出て来そうもない。口碑伝説だからだめともいえまい。後に書いたものだからだめともいえまい。我が国には古事記があるではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の施設については、安松金右衛門の事功を疑う者はない。玉川上水は清右・庄右兄弟が水脈を見立てた功はないとはいえないが、工事設計は二度までも失敗している。このとき、金右衛門が川越侯の命を受けて、三度目の設計をしたという、端的な証拠がないという。そこで安松の身上について、多少の考察を試みましたところが、これもまたわからないことだらけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*09]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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