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	<title>シラキのコホリ - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-06-01T19:54:51Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>チョウショウインハタザクラ</title>
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		<updated>2026-05-31T13:07:36Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;チョウショウインハタザクラ（長勝院旗桜）&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は、志木市柏町三丁目の長勝院跡にある推定樹齢400年以上のハタザクラである。志木市の指定文化財となっている。目通り樹回り3.05m、高さ11.20m。花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁（1から2枚）を生ずるヤマザクラ（バラ科）の一種で、この種のハタザクラ…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;チョウショウインハタザクラ（長勝院旗桜）&#039;&#039;&#039;は、[[志木市]][[柏町]]三丁目の[[長勝院]]跡にある推定樹齢400年以上のハタザクラである。志木市の[[指定文化財]]となっている。目通り樹回り3.05m、高さ11.20m。花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁（1から2枚）を生ずるヤマザクラ（バラ科）の一種で、この種のハタザクラとしては、他に類がなく唯一の栽培品種であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*昭和五十七年（1982年）3月30日：志木市「指定保存樹木第189号、樹種サクラ」に指定。&lt;br /&gt;
*平成五年（1993年）10月6日：「長勝院の桜」を志木市指定文化財に指定&lt;br /&gt;
*平成十年（1998年）&lt;br /&gt;
**9月1日：財団法人 日本さくらの会「櫻の科学」第6号に、川崎哲也「ヤマザクラ系の栽培品種チョウショウインハタザクラ」論文が掲載され、ヤマザクラの新しい栽培品種として記載された。&lt;br /&gt;
**11月：「長勝院の桜」から「チョウショウインハタザクラ」に名称を変更。&lt;br /&gt;
*平成十二年（2000年）5月5日：埼玉新聞社の「[[21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選]]」に選出。&lt;br /&gt;
*平成十五年（2003年）11月30日：財団法人 日本さくらの会「櫻の科学」第10号に、情報として宮﨑尚子（「petitぶんか村」編集長）による「チョウショウインハタザクラによるまちおこし」が掲載。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==公式の解説==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|&#039;&#039;&#039;チョウショウインハタザクラ&amp;lt;br /&amp;gt;（長勝院旗桜）&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　目通（めどお）り樹回（きまわ）り（目の高さ位の所の樹の周囲）三・〇五ｍ、高さ十一・二〇ｍ推定樹齢四百年以上のハタザクラ。 &amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁（一～二枚）を生ずるヤマザクラ（バラ科）の一型で開花時の花付きは極めてにぎやかです。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　県内各地の桜と比較しても巨木の中にはいるもので、樹齢等の点からみても大変貴重なサクラです。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　またかつてこの地にあったともいわれる柏の城の歴史を語る生き証人としても大変重要な桜で、今後大切に保護していくべき桜花です。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
平成六年二月二十五日&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
志木市教育委員会|チョウショウインハタザクラ前の説明板より}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==櫻の科学　掲載論文の概要==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ヤマザクラ系の栽培品種チョウショウインハタザクラ===&lt;br /&gt;
財団法人 日本さくらの会「櫻の科学」第6号&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
川崎哲也&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|&#039;&#039;&#039;摘要&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
# 志木市長勝院境内の桜の大木の樹種に関して調査を行なった。&lt;br /&gt;
# この大木はおおむねヤマザクラの特徴を持つと考えられた。&lt;br /&gt;
# この大木に見られる特徴でヤマザクラにも見られるものは次のとおりである。&amp;lt;br /&amp;gt;　成葉の向軸面は濃緑色で、光沢がある。&amp;lt;br /&amp;gt;　成葉の背軸面は蒼白色を帯びる。&amp;lt;br /&amp;gt;　成葉の縁の鋸歯は細かくて、その先端が芒状で、糸状にはならない。&amp;lt;br /&amp;gt;　萼筒は長鐘形である。&amp;lt;br /&amp;gt;　萼片は披針状三角形、全縁である。&lt;br /&gt;
# これらの特徴からこの大木はヤマザクラ系統のものであると考えられる。&lt;br /&gt;
# 鱗片の外面の先端に縮毛があることから、この大木が生まれてきた何時かの時点でヤマザクラ以外の種の関与があったかもしれない。&lt;br /&gt;
# このサクラの大木は、ヤマザクラの一般的な個体と比較して、枝がやや太い、花が大型である、5弁花のほかに1-2の旗弁を持つ6ｰ7弁花があるなど、特異的な特徴を持っている。また、白色の花弁と紅紫色を帯びた若芽との対比が美しい、現地において古くから栽培されているなどのことから、ヤマザクラの一栽培品種と見なし得ると考える。&lt;br /&gt;
# このサクラの大木は、今までに知られていなかったものであるから、新しい栽培品種として記載した。}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===チョウショウインハタザクラによるまちおこし――地域情報紙の視点から――===&lt;br /&gt;
財団法人 日本さくらの会「櫻の科学」第10号&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[プチぶんか村|petit（プチ）ぶんか村]]」編集長　宮﨑尚子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*尾崎征男氏（市の文化財保護委員、市史編さん委員、環境教育推進員の集い座長を歴任）が市に働きかけ、「長勝院の桜」が志木市文化財第1号に指定される。また、専門家に調査を依頼したところ、川崎哲也氏の調査により、新種であることが判明した（上記論文）。&lt;br /&gt;
*まちおこしの具体例&lt;br /&gt;
**ハタザクラまつり：毎年4月第二日曜日の観桜会。&lt;br /&gt;
**はたさくらまんじゅう：2002年、全国菓子大博覧会で金賞受賞。&lt;br /&gt;
***取扱店＝菓匠・八百國（本町一丁目）、きくや和菓子店（中宗岡四丁目）、風月堂（上宗岡四丁目）、万葉和菓司（柏町五丁目）、有喜菓子舗（本町五丁目）&lt;br /&gt;
**長勝院はたざくら最中：新座市の和菓子店「菊扇」店主が考案。&lt;br /&gt;
**銘酒はたざくら：柏町のマイリカーショップセキノ（現・関野酒店）のオリジナル銘酒。当初は「旗桜」の銘柄だったが、はたざくらまんじゅうと同じラベルに変更。&lt;br /&gt;
**ハタザクラ新聞（環境教育推進員の集いが発行）&lt;br /&gt;
**志木古木切り絵双六&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現在のチョウショウインハタザクラと町おこし==&lt;br /&gt;
以上のまちおこしに関しては、2026年現在は継続されていないものも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ハタザクラまつり：2005年4月3日に第10回ハタザクラまつりが開催された記録が最後。それ以降は実施されていない。&lt;br /&gt;
*はたさくらまんじゅう、長勝院はたざくら最中：現在は閉業もしくはすでに販売されていないようである。&lt;br /&gt;
*銘酒はたざくら：[https://www.city.shiki.lg.jp/uploaded/attachment/19551.pdf 広報しき2025年7月号]によれば、「はたざくらには本醸造と純米酒の2種類があり、それぞれの特徴を尋ねると「本醸造は淡麗辛口で、35度から40度のぬる燗かんまたは常温で味わうのがおすすめです。純米酒は淡麗甘口で、香りをより楽しむために冷酒で味わうのが特におすすめです。」と教えてくれました。リピートする人もいるほど多くの人から愛されるはたざくらですが、原材料費の高騰などの影響により、現在店頭に並んでいる商品のみで販売終了となってしまうとのことです。」とある。&lt;br /&gt;
*現在は毎年の開花状況を志木市が発信している。&lt;br /&gt;
*市内カッパ像のひとつ「さくら子」が設置されている。「チョウショウインハタザクラ」を見守っているイメージである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ハタザクラ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ハタザクラ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9&amp;diff=325</id>
		<title>テンプレート:ハタザクラ</title>
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		<updated>2026-05-31T13:05:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot; |- ! 旧新座郡エリアのハタザクラ |- |  * 志木市 ** チョウショウインハタザクラ（長勝院旗桜） * 新座市 ** ミョウオンサワハタザクラ（妙音沢旗桜） * 朝霞市 ** アサカハタザクラ（朝霞旗桜） *** ダイノシロヤマ（台の城山） *** ゴウド（郷戸） ** クロメガワ（黒目川） |}」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 旧[[新座郡]]エリアのハタザクラ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
* [[志木市]]&lt;br /&gt;
** [[チョウショウインハタザクラ]]（長勝院旗桜）&lt;br /&gt;
* [[新座市]]&lt;br /&gt;
** [[ミョウオンサワハタザクラ]]（妙音沢旗桜）&lt;br /&gt;
* [[朝霞市]]&lt;br /&gt;
** [[アサカハタザクラ]]（朝霞旗桜）&lt;br /&gt;
*** [[ダイノシロヤマ]]（台の城山）&lt;br /&gt;
*** [[ゴウド]]（郷戸）&lt;br /&gt;
** [[クロメガワ]]（黒目川）&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E6%A0%B9%E5%B2%B8%E6%9D%91%E3%83%BB%E5%8F%B0%E6%9D%91&amp;diff=324</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/根岸村・台村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E6%A0%B9%E5%B2%B8%E6%9D%91%E3%83%BB%E5%8F%B0%E6%9D%91&amp;diff=324"/>
		<updated>2026-05-30T15:10:13Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の根岸村・台村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==根岸村（ねぎし）・台村（だい）==  両村の地形としては、一戸・一畔が転々と錯綜している。このため、実際にその地について村名を問うても戸ごとに唱えを異にするに至っている。ゆえに、どちらをその村とはっき…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[根岸村・台村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==根岸村（ねぎし）・台村（だい）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
両村の地形としては、一戸・一畔が転々と錯綜している。このため、実際にその地について村名を問うても戸ごとに唱えを異にするに至っている。ゆえに、どちらをその村とはっきりと境界を弁別することは難しい（改租の際、すでに両村を合併し、若柳村と改称したことを申請するに至った。しかし、飛地の処分に食い違いがあるため、ついにそうはならずに終わった）。よって、今、疆域・幅員・地勢・地味・字地・山川・池沼・道路などは両村のはじめにおいて併せてこれを編集した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東・南の二面は悪水路をもって[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉村]]との境界とし、西は[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡村]]に接し、東・北の間は[[新河岸川]]をもって[[武蔵国新座郡村誌/上内間木村|上内間木村]]を限り、[[黒目川]]をもって[[武蔵国新座郡村誌/田島村|田島村]]に隣り合っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字四反田から）西（字宮原に至る）10町40間&lt;br /&gt;
*南（字流山から）北（字下手町に至る）20町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*おおむね平坦であって、東西に長く、南北に短い。東北隅の一方の辺は水田が開け、新河岸・黒目の両川を帯び、運輸の便を得た。炭は乏しいが、薪は余嬴がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*耕田は黒・白、陸田は赤・黒の交種であって、稲・粱（あわ）・菽（まめ）・麦に適しにくい。水辺に沿っているが、その便を得ることは少なく、時々洪水のわざわいを被る。陸田もまた旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;根岸&#039;&#039;&#039;（ねぎし）：村の中央にある。東西8町20間・南北6町50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;谷中&#039;&#039;&#039;（やなか）：根岸の北に連なる。東西5町10間・南北7町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;内間木前&#039;&#039;&#039;（うちまきまへ）：谷中の東に連なる。東西3町45間・南北7町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;久天&#039;&#039;&#039;（くてん）：内間木前の南に連なる。東西4町5間・南北6町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;郷戸&#039;&#039;&#039;（がうど）：久天の南に連なる。東西4町50間・南北8町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;向原&#039;&#039;&#039;：郷戸の西南に連なる。東西5町20間・南北7町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;新井前&#039;&#039;&#039;（あらゐまへ）：向原の西北に連なる。東西6町10間・南北10町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新河岸川]]&#039;&#039;&#039;：幅15間、深いところ4尺。村の北の方、田嶋村から来て東北の境を流れ、東の方、上新倉村に入る。その間14町55間、幅7間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ3尺、浅いところ1尺。西北の方、岡村から来て田嶋村の境界を東に流れ、字下手町で新河岸川に合流する。その間11町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;笹橋&#039;&#039;&#039;：村路に属する。村の北の方、黒目川に架かり、本村から岡村に通す。長さ7間、幅2間。土造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*[[溜池]]：東西28間、南北29間。周回120間。村の東の方、字久天にある。両村の用水とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の坤（南西）の方、飛地字広沢林にある。辰（東南東）の方で上新倉村の境界から戌（西北西）の方、岡村との境界に入る。長さ3町30間、幅4間。その他村路は数条ある。一々記載するに足らず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==根岸村==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）、徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
*正保のころ（1644年～1648年）：村高475石。そのうち250石を旗下士内藤半弥、200石を松平隼人らの采地とし、余る25石を代官の支配とする。&lt;br /&gt;
*元禄のころから（1688年～1704年）：すべて代官の支配となる（内藤・松平の食邑を転収した年代は未詳。また、村吏がいうには、「元禄三年（1690年）9月から松平美濃守が知行したと伝えている」と。しかし、『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「元禄三年、松平潔兵衛・八木仁兵衛の検地である。このころは御料所ばかりで、私領の入会はない」と載せている。これによって考えれば、美濃守が知行したとは解せない。よって、捨てて採らなかった。）&lt;br /&gt;
*維新の際は高427石9斗3升7合となり、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里5町。&lt;br /&gt;
*四隣：下内間木邑（元標）へ15町。岡村（元標）へ10町。上新倉村（元標）へ15町。田島村（元標）へ12町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ1里5町。大和田町へ2里（字根岸の掲示場から測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：17町6反6畝18歩&lt;br /&gt;
*畑：95町9反6畝7歩&lt;br /&gt;
*総計：113町6反2畝25歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村艮（北東）の方、下内間木村の内、芝生地（5反1畝1歩）&lt;br /&gt;
*坤（南西）の方、近傍入会地の内林（広沢原という。反別18町2反6畝）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米62石8斗6升8合、金130円72銭1厘&lt;br /&gt;
*賦金：金13円95銭&lt;br /&gt;
*総計：米65石2升、金85円44銭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：81戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：3戸（平社）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*堂：1戸&lt;br /&gt;
*総計：86戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：253口（平民）&lt;br /&gt;
*女：255口（同上）&lt;br /&gt;
*総計：508口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：21頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷船：9艘（90石積8艘、65石積1艘）&lt;br /&gt;
*漁船：2艘&lt;br /&gt;
*水害予備船：1艘&lt;br /&gt;
*総計12艘&lt;br /&gt;
*荷車：9両（中小）&lt;br /&gt;
*農業車：10両&lt;br /&gt;
*総計：19両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;須賀社&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;現在、岡氷川神社の境内社となっている須賀神社か。&amp;lt;/ref&amp;gt;：平社。社地は東西5間半・南北8間・面積44坪。村の北の方にある。素戔嗚尊を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;天神社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西4間・南北8間・面積32坪。村の北の方にある。菅原道真を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西4間・南北4間・面積16坪。村の西の方にある。祭神未詳。祭日定めず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[金剛寺]]&#039;&#039;&#039;：東西20間・南北24間・面積480坪。新義真言宗 豊島郡上石神井村[[三宝寺]]の末派である。村の中央にある。開基創建は詳らかではない。『新編武蔵風土記稿』に、「この地は堯諄房法印の開山である。年代は詳らかではないが、慶長三年（1598年）にこの法印が多磨郡清戸下宿の円通寺に転じたとあるので、文禄年中もしくは慶長の造立であろう」と載っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[大日堂]]&#039;&#039;&#039;：東西5間・南北6間・面積30坪。村の西の方にある。創建未詳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*村の中央にある。金剛寺を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：169石6斗&lt;br /&gt;
*麦：276石&lt;br /&gt;
*大豆：77石3斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菽（まめ）、麦、甘藷などの余嬴があって、近傍の町村に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女とも農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==台村（だい）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえは根岸村と一村であったか。正保の後分かれて独立の一村となる（年暦は詳らかではないが、正保の図にこの村名を載せず、元禄の図に見えるので、その間のことであろう）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郷・庄・領も根岸村に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
分村のころは根岸村と同じ。その後、直轄代官の支配となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*維新の際、村高361石6斗3合2勺あって、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下また根岸村に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里半。&lt;br /&gt;
*四隣：岡村（元標）へ12町。上新倉村（元標）へ12町。下内間木村（元標）へ20町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿（元標）へ1里10町。大和田町（元標）へ2里（字郷戸掲示場から測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：11町9反1畝4歩&lt;br /&gt;
*畑：74町8反9畝29歩&lt;br /&gt;
*総計：86町8反1畝3歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村艮の方、下内間木村の内、芝生地（4反4畝29歩）&lt;br /&gt;
*坤の方、近傍入会地の内、林（14町5反29歩）、畑（3町7反2畝20歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米45石8斗、金104円74銭8厘&lt;br /&gt;
*賦金：金90銭&lt;br /&gt;
*総計：米45石8斗、金105円64銭8厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：59戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：4戸（村社1坐、平社3坐）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*総計：79戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：170口（平民）&lt;br /&gt;
*女：176口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：346口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：20頭&lt;br /&gt;
*牝馬：13頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷船：3艘（90石積2艘、60石積1艘）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西7間半・南北4間・面積30坪。村の東の方にある。豊受姫を祭る。祭日2月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;庭津日社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西7間半・南北4間・面積30坪。大戸比売命を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;厳島社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西11間半・南北7間・面積81坪。市杵比売命を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;天神社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西10間・南北2間・面積20坪。菅原道真を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[台雲寺]]&#039;&#039;&#039;：東西20間・南北17間・面積344坪。新義真言宗 豊島郡石神井村[[三宝寺]]の末派である。村の中央にある。創建開基の年代は詳らかではない。『新編武蔵風土記稿』に、「中興開山の法印が定政という。これも遷化の年代は詳らかではないが、この法印から法流6世宥恵法印が境内に建立した石碑に元禄八年とあることから、法印定政は御入国から遠くない人であろう」と載っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：120石&lt;br /&gt;
*大麦：181石6斗&lt;br /&gt;
*小麦：78石7斗&lt;br /&gt;
*大豆：64石&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米・麦は質が悪く、そば・甘藷などは特に質が良く美しい。余嬴があって東京あたりに輸出する。もっとも米・麦の余りは近傍で販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|ねきしたい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B2%A1%E6%9D%91&amp;diff=323</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/岡村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B2%A1%E6%9D%91&amp;diff=323"/>
		<updated>2026-05-30T14:53:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[岡村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==岡村（をか）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は[[武蔵国新座郡村誌/根岸村|根岸]]・[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉]]の両村と野道・小渠をもって境とし、東南は[[武蔵国新座郡村誌/台村|台]]・[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山]]の二村に連なり、[[広沢原]]の深林に接する。西は[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼村]]との境界を用水路・小径とし、北は[[黒目川]]を隔てて[[武蔵国新座郡村誌/浜崎村|浜崎]]・[[武蔵国新座郡村誌/田島村|田島]]の両村に対している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字向山の東辺から）西（字八幡山の西端に至る）8町20間&lt;br /&gt;
*南（字広沢原の南の境界から）北（字沖田、黒目川べりに至る）37町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）、徳川氏の所有となる。旗下士・甲斐庄喜右衛門に賜う。&lt;br /&gt;
*元和元年乙卯（1615年）、村高468石のうち200石を代官・近山与左衛門の支配とし、268石を三枝土佐守の采地とする（『風土記』に、御打入の後2分し、半ばは私領となったという。今、村吏の録申による。正保のころ、村高468石あってその268石を三枝土佐守の治めるところとし、その200石を代官・近山与左衛門が支配したということは田園簿に明記されている）&lt;br /&gt;
*元禄十一年戊寅（1698年）、あわせて代官の支配とする。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至っては、高542石7斗6升7合（高の増加した年暦は明らかではない）を代官松村忠四郎が支配する&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：根岸村へ5町20間。溝沼村へ13町。台村へ10町。浜崎村へ15町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ35町（中央字谷つの西南四達より測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*南は広沢原の深林を追って、高く乾燥している。北は黒目川を帯び、卑湿で水田が多い。運輸は便利、薪・炭が富饒である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色は赤黒、質悪く、稲・粱に適せず。水田は氾濫のわざわいがあって、陸田は旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：17町2反6畝13歩&lt;br /&gt;
*畑：117町7反8畝14歩&lt;br /&gt;
*総計：135町4畝27歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
村の南の方、台村の内に畑　2反2畝5歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;沖田&#039;&#039;&#039;（おきた）：村の北方にある。東西130間・南北160間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;堂の下&#039;&#039;&#039;（どうのした）：沖田の南に連なる。東西90間・南北125間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川&#039;&#039;&#039;：堂の下の東方に連なる。東西280間・南北85間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;土井&#039;&#039;&#039;（どい）：玉川の東の方に連なる。東西65間・南北60間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;寺田&#039;&#039;&#039;：土井の西方に連なる。東西220間・南北50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;岡台&#039;&#039;&#039;（をかだい）：寺田の南方にある。東西160間・南北150間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;城戸&#039;&#039;&#039;（きど）：岡台の東方に連なる。東西130間・南北75間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;谷つ&#039;&#039;&#039;（やつ）：城戸の南方にある。東西250間・南北70間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中谷つ&#039;&#039;&#039;：谷つの南方。東西70間・南北90間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;榎戸&#039;&#039;&#039;：中谷つの南方。東西150間・南北40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中道&#039;&#039;&#039;：榎戸の西方。東西130間・南北290間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、鎌原、浜崎前、縄境、折本、谷中、寺田、滝の下、根古屋、城山、樋坪、下谷つ、茅面、向山、前谷つ、高根、八幡山、天神の上、七鎌戸、上の台、庚申出口、庚申前、高橋道、中新田、立出し、諏訪の原、天ヶ久保、大辻、馬堀、原畑、北原、堂山、向原、平沢、越戸、池の上、広沢、広沢原などの名がある。一々広さを記せず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米65石2升、金70円56銭5厘&lt;br /&gt;
*賦金：金14円87銭5厘&lt;br /&gt;
*総計：米65石2升、金85円44銭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：71戸（平民）&lt;br /&gt;
*寄留：1戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：3戸（村社1坐、平社2坐）&lt;br /&gt;
*寺：2戸（真言宗1宇、日蓮宗1宇）&lt;br /&gt;
*総計：79戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：210口（平民）&lt;br /&gt;
*女：222口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：432口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：24両（小車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ7尺、浅いところ1尺5寸、幅6間。溝沼村から流れてくる。東北の境を屈曲して根岸・田島両村の間に入る。その間15町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：林道に属する。村の北方、黒目川の上流に架す。長さ4間3尺、幅2間。木製。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*林：[[広沢原]]といい、民有に属する。東西2町・南北11町。村の西端にあって松・ケヤキ、その他、雑木である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*[[広沢観音堂|広沢観音の池]]：村の南方。東南15間、南北20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：村の西方、溝沼村の境から東方・根岸村の境界に至る。長さ3町30間、幅4間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[岡氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西49間・南北26間・面積500坪。村の東方にある。素戔嗚尊を祭る（[[新編武蔵風土記稿]]に在原業平を祭るとある）。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;八幡社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西30間・南北8間・面積265坪。村の西の方にある。応神天皇を祭る。祭日9月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;諏訪社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西12間・南北10間・面積120坪。本村の南の方にある。建御名方命を祭る。祭日7月27日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東圓寺]]&#039;&#039;&#039;：東西25間・南北16間8歩・面積920坪。村の西方にある。新義真言宗 豊島郡石神井村[[三宝寺]]の末派であって、開基のことが伝わらず。寛弘三年丙午（1006年）僧永慶という物が力を尽くして中興したという。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[本仙寺]]&#039;&#039;&#039;：東西20間・南北16間・面積326坪。村の北方、城山の中腹にある。日蓮宗池上本門寺の末派である。貞治元年、僧日宜が開基創建した。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;不動堂&#039;&#039;&#039;：東西20間6歩・南北17間・面積310坪。村の西方にある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢観音堂|観音堂]]&#039;&#039;&#039;：東西16間・南北16間・面積265坪。村の南方にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：村の西方にある。生徒　男56人、女6人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*村の中央にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*城跡：字城山の上にあって、なお塹壕の形を残す。しかし、誰の居城なのかはっきりしない。今、民有の山林となり、雑木が繁茂している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：148石8斗8升5合&lt;br /&gt;
*大麦：33石6斗3升5合&lt;br /&gt;
*大豆：132石6斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、甘藷、大根のたぐいは余嬴があって、他の町村に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|おか]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B2%A1%E6%9D%91&amp;diff=322</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/岡村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B2%A1%E6%9D%91&amp;diff=322"/>
		<updated>2026-05-28T14:45:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の岡村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==岡村（をか）==  本村はいにしえ新倉郷広沢庄野方領に属する。  ===疆域=== 東は根岸・上新倉の両村と野道・小渠をもって境とし、東南は武蔵国新座郡村誌/…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[岡村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==岡村（をか）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は[[武蔵国新座郡村誌/根岸村|根岸]]・[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉]]の両村と野道・小渠をもって境とし、東南は[[武蔵国新座郡村誌/台村|台]]・[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山]]の二村に連なり、[[広沢原]]の深林に接する。西は[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼村]]との境界を用水路・小径とし、北は[[黒目川]]を隔てて[[武蔵国新座郡村誌/浜崎村|浜崎]]・[[武蔵国新座郡村誌/田島村|田島]]の両村に対している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字向山の東辺から）西（字八幡山の西端に至る）8町20間&lt;br /&gt;
*南（字広沢原の南の境界から）北（字沖田、黒目川べりに至る）37町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）、徳川氏の所有となる。旗下士・甲斐庄喜右衛門に賜う。&lt;br /&gt;
*元和元年乙卯（1615年）、村高468石のうち200石を代官・近山与左衛門の支配とし、268石を三枝土佐守の采地とする（『風土記』に、御打入の後2分し、半ばは私領となったという。今、村吏の録申による。正保のころ、村高468石あってその268石を三枝土佐守の治めるところとし、その200石を代官・近山与左衛門が支配したということは田園簿に明記されている）&lt;br /&gt;
*元禄十一年戊寅（1698年）、あわせて代官の支配とする。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至っては、高542石7斗6升7合（高の増加した年暦は明らかではない）を代官松村忠四郎が支配する&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：根岸村へ5町20間。溝沼村へ13町。台村へ10町。浜崎村へ15町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ35町（中央字谷つの西南四達より測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*南は広沢原の深林を追って、高く乾燥している。北は黒目川を帯び、卑湿で水田が多い。運輸は便利、薪・炭が富饒である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色は赤黒、質悪く、稲・粱に適せず。水田は氾濫のわざわいがあって、陸田は旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：17町2反6畝13歩&lt;br /&gt;
*畑：117町7反8畝14歩&lt;br /&gt;
*総計：135町4畝27歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
村の南の方、台村の内に畑　2反2畝5歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;沖田&#039;&#039;&#039;（おきた）：村の北方にある。東西130間・南北160間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;堂の下&#039;&#039;&#039;（どうのした）：沖田の南に連なる。東西90間・南北125間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川&#039;&#039;&#039;：堂の下の東方に連なる。東西280間・南北85間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;土井&#039;&#039;&#039;（どい）：玉川の東の方に連なる。東西65間・南北60間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;寺田&#039;&#039;&#039;：土井の西方に連なる。東西220間・南北50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;岡台&#039;&#039;&#039;（をかだい）：寺田の南方にある。東西160間・南北150間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;城戸&#039;&#039;&#039;（きど）：岡台の東方に連なる。東西130間・南北75間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;谷つ&#039;&#039;&#039;（やつ）：城戸の南方にある。東西250間・南北70間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中谷つ&#039;&#039;&#039;：谷つの南方。東西70間・南北90間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;榎戸&#039;&#039;&#039;：中谷つの南方。東西150間・南北40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中道&#039;&#039;&#039;：榎戸の西方。東西130間・南北290間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、鎌原、浜崎前、縄境、折本、谷中、寺田、滝の下、根古屋、城山、樋坪、下谷つ、茅面、向山、前谷つ、高根、八幡山、天神の上、七鎌戸、上の台、庚申出口、庚申前、高橋道、中新田、立出し、諏訪の原、天ヶ久保、大辻、馬堀、原畑、北原、堂山、向原、平沢、越戸、池の上、広沢、広沢原などの名がある。一々広さを記せず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米65石2升、金70円56銭5厘&lt;br /&gt;
*賦金：金14円87銭5厘&lt;br /&gt;
*総計：米65石2升、金85円44銭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：71戸（平民）&lt;br /&gt;
*寄留：1戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：3戸（村社1坐、平社12坐）&lt;br /&gt;
*寺：2戸（真言宗1宇、日蓮宗1宇）&lt;br /&gt;
*総計：79戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：210口（平民）&lt;br /&gt;
*女：222口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：432口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：24両（小車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ7尺、浅いところ1尺5寸、幅6間。溝沼村から流れてくる。東北の境を屈曲して根岸・田島両村の間に入る。その間15町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：林道に属する。村の北方、黒目川の上流に架す。長さ4間3尺、幅2間。木製。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*林：[[広沢原]]といい、民有に属する。東西2町・南北11町。村の西端にあって松・ケヤキ、その他、雑木である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*[[広沢観音堂|広沢観音の池]]：村の南方。東南15間、南北20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：村の西方、溝沼村の境から東方・根岸村の境界に至る。長さ3町30間、幅4間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[岡氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西49間・南北26間・面積500坪。村の東方にある。素戔嗚尊を祭る（[[新編武蔵風土記稿]]に在原業平を祭るとある）。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;八幡社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西30間・南北8間・面積265坪。村の西の方にある。応神天皇を祭る。祭日9月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;諏訪社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西12間・南北10間・面積120坪。本村の南の方にある。建御名方命を祭る。祭日7月27日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東圓寺]]&#039;&#039;&#039;：東西25間・南北16間8歩・面積920坪。村の西方にある。新義真言宗 豊島郡石神井村[[三宝寺]]の末派であって、開基のことが伝わらず。寛弘三年丙午（1006年）僧永慶という物が力を尽くして中興したという。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[本仙寺]]&#039;&#039;&#039;：東西20間・南北16間・面積326坪。村の北方、城山の中腹にある。日蓮宗池上本門寺の末派である。貞治元年、僧日宜が開基創建した。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;不動堂&#039;&#039;&#039;：東西20間6歩・南北17間・面積310坪。村の西方にある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢観音堂|観音堂]]&#039;&#039;&#039;：東西16間・南北16間・面積265坪。村の南方にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：村の西方にある。生徒　男56人、女6人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*村の中央にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*城跡：字城山の上にあって、なお塹壕の形を残す。しかし、誰の居城なのかはっきりしない。今、民有の山林となり、雑木が繁茂している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：148石8斗8升5合&lt;br /&gt;
*大麦：33石6斗3升5合&lt;br /&gt;
*大豆：132石6斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、甘藷、大根のたぐいは余嬴があって、他の町村に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|おか]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82&amp;diff=321</id>
		<title>広沢観音堂</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82&amp;diff=321"/>
		<updated>2026-05-28T12:53:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;広沢観音堂&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は、朝霞市本町三丁目5番28号、広沢の池の北に位置する観音堂である。別名「広沢観音様」「広沢の観音（様）」。  ファイル:広沢観音堂.jpg  江戸時代には岡の東圓寺の持であったが、明治時代以降、池と観音堂は官地となり、戦後、池は町、観音堂は東圓寺の管理となった。  ==本尊== ファイル:広沢観音堂正面.jpg|右…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;広沢観音堂&#039;&#039;&#039;は、[[朝霞市]][[本町]]三丁目5番28号、広沢の池の北に位置する観音堂である。別名「広沢観音様」「広沢の観音（様）」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:広沢観音堂.jpg]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代には[[岡]]の[[東圓寺]]の持であったが、明治時代以降、池と観音堂は官地となり、戦後、池は町、観音堂は東圓寺の管理となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==本尊==&lt;br /&gt;
[[ファイル:広沢観音堂正面.jpg|右|フレームなし|広沢観音堂の正面]]&lt;br /&gt;
{{Quotation|観音堂には、中央に観音の厨子、その左右に4月8日の釈迦誕生仏、小さな厨子に入った菩薩像が置かれている。中央の木造の観音像は本尊ではなく、オマエダチ（お前立）と呼ばれている。この観音ノ厨子の中に小さな厨子が入っており、そこに3つの像が納められている。その中央と右が観音像とされているが、左は不明である。このうち中央の観音が「一寸八分」と呼ばれる、広沢観音の本尊である。|朝霞市教育委員会生涯学習課『広沢の池　―あさかの民俗　一―』}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 写真 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の地蔵丸彫立像.jpg|&#039;&#039;&#039;広沢観音堂の地蔵丸彫立像&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の六十六部廻国塔.jpg|&#039;&#039;&#039;広沢観音堂の六十六部廻国塔&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の普門品供養塔.jpg|&#039;&#039;&#039;広沢観音堂の普門品供養塔&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の木祠白山社.jpg|&#039;&#039;&#039;広沢観音堂の木祠白山社&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の石碑.jpg|右：観音修繕入佛供養塔　左：本堂改築・庫裏修復記念碑&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の石仏.jpg|左：地蔵丸彫像　中：地蔵浮彫像　右：無縫塔&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の墓碑.jpg|広沢観音堂の墓碑&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==記載==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===[[新編武蔵風土記稿/巻之133新座郡5|新編武蔵風土記稿 岡村]]===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;観音堂&lt;br /&gt;
:広沢池のあたり、少し高いところにある。そのため広沢観音というべきで、土地の人が平沢観音と言うのは誤りで、広沢観音であるべきだ。堂は三間四面、除地五段ある。昔は今のちから南の方にある山の上にあり、堂も広大であったが、天正十八年（1590年）北条氏照の城山（この城は入間郡城村の内にある）合戦のとき、煙を上げようとしてこの堂を焼いたという（あるいは、別に大伽藍があったのを焼いたともいう）。今は礎石のみ残っている。土地の俗称に、その地を堂山と字している。今の堂は村内の東圓寺の持である。三枝摂津守が当所を知行したとき、除地となったという。今も同じである。&lt;br /&gt;
;広沢池&lt;br /&gt;
:村の南の方、観音堂の下にある。東西30間、南北24～5間、それほどの景勝地ではないが、古跡である。いつのころであったか、この池で農夫が足をすすごうとしてひたしたところ、物があって爪先をくわえたように思われたので、いぶかしんでそのまま水中を探ったところ、古い鰐口であった。これは昔の観音堂の鰐口であろうということで、そのまま東圓寺へ納めたという。年号も刻んでいたが、耳慣れない年号なので覚えられていない。古いものであろう、と土地の人が言っている。このことを東圓寺の住僧に尋ねたが、どうであるかわからないと言った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===[[武蔵国新座郡村誌/岡村|武蔵国新座郡村誌 岡村]]===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*観音堂：東西16間、南北16間、面積265坪、村の東方にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝霞市教育委員会生涯学習課『広沢の池　―あさかの民俗　一―』朝霞市教育委員会,平成十四年（2002年）3月29日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:寺院|ひろさわかんのんとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E5%A2%93%E7%A2%91.jpg&amp;diff=320</id>
		<title>ファイル:広沢観音堂の墓碑.jpg</title>
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		<updated>2026-05-28T12:11:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の墓碑&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の墓碑&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E6%9C%A8%E7%A5%A0%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A4%BE.jpg&amp;diff=319</id>
		<title>ファイル:広沢観音堂の木祠白山社.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E6%9C%A8%E7%A5%A0%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A4%BE.jpg&amp;diff=319"/>
		<updated>2026-05-28T12:11:11Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の木祠白山社&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の木祠白山社&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E7%9F%B3%E4%BB%8F.jpg&amp;diff=318</id>
		<title>ファイル:広沢観音堂の石仏.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E7%9F%B3%E4%BB%8F.jpg&amp;diff=318"/>
		<updated>2026-05-28T12:09:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の石仏
左：地蔵丸彫像
中：地蔵浮彫像
右：無縫塔&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の石仏&lt;br /&gt;
左：地蔵丸彫像&lt;br /&gt;
中：地蔵浮彫像&lt;br /&gt;
右：無縫塔&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E7%9F%B3%E7%A2%91.jpg&amp;diff=317</id>
		<title>ファイル:広沢観音堂の石碑.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E7%9F%B3%E7%A2%91.jpg&amp;diff=317"/>
		<updated>2026-05-28T12:08:01Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の石碑
右：観音修繕入佛供養塔
左：本堂改築・庫裏修復記念碑&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の石碑&lt;br /&gt;
右：観音修繕入佛供養塔&lt;br /&gt;
左：本堂改築・庫裏修復記念碑&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E6%AD%A3%E9%9D%A2.jpg&amp;diff=316</id>
		<title>ファイル:広沢観音堂正面.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E6%AD%A3%E9%9D%A2.jpg&amp;diff=316"/>
		<updated>2026-05-28T12:05:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂正面&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]正面&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>ファイル:広沢観音堂の普門品供養塔.jpg</title>
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		<updated>2026-05-28T12:04:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の普門品供養塔&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の普門品供養塔&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>ファイル:広沢観音堂の六十六部廻国塔.jpg</title>
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		<updated>2026-05-28T12:02:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の六十六部廻国塔&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の六十六部廻国塔&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>ファイル:広沢観音堂の地蔵丸彫立像.jpg</title>
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		<updated>2026-05-28T12:01:42Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の地蔵丸彫立像&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の地蔵丸彫立像&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>ファイル:広沢観音堂.jpg</title>
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		<updated>2026-05-28T12:00:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 朝霞市の広沢観音堂&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[朝霞市]]の[[広沢観音堂]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
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		<title>広沢の池</title>
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		<updated>2026-05-26T13:28:41Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;広沢の池&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は、朝霞市の市指定史跡となっている池である。  800x800ピクセル  所在地は朝霞市栄町一丁目1番地。台地の崖下に湧き出す地下水がたまってできた池であり、越戸川の水源の一つになっている。水田の用水として利用されてきた。  ==概要==  広沢の池からすぐの崖上には、西に朝霞中央公園…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;広沢の池&#039;&#039;&#039;は、[[朝霞市]]の市指定史跡となっている池である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:広沢の池.jpg|フレームなし|800x800ピクセル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
所在地は朝霞市[[栄町]]一丁目1番地。台地の崖下に湧き出す地下水がたまってできた池であり、越戸川の水源の一つになっている。水田の用水として利用されてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
広沢の池からすぐの崖上には、西に朝霞中央公園、南に朝霞第八小学校の台地があり、この地域には[[広沢原]]が広がっていた。広沢原はかつての[[上新倉村]]・[[下新倉村]]・[[小榑村]]・[[溝沼村]]に囲まれた一里四方の雑木林である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その崖下の湧水地が広沢の池と呼ばれている。池のほとりには[[広沢観音堂]]が鎮座している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は暗渠になっているが、この池からの流れは[[七ツ釜]]からの流れと合流して、[[越戸川]]となる。下流地域の住人が毎年、池浚いを行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 明治以降：国有地であった。&lt;br /&gt;
* 昭和の初めから昭和三十年代：野菜の生産が盛んになるとともに、池の下手の一角が野菜の洗い場として利用された。&lt;br /&gt;
* 昭和四十八年（1973年）：広沢の池は市を代表する自然湧水であるとして、朝霞市が市指定文化財（史跡）に指定&lt;br /&gt;
* 平成四年（1992年）：池の水位が急激に下がり始めたため、観音堂脇に井戸を掘り、深層の地下水を供給。水位が戻る。&lt;br /&gt;
* 平成十一年（1999年）：崩れた池の南側の護岸改修工事を実施。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==地図==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国土地理院地図により、標高2mずつに色分けした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:広沢の池の地形図.png]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 写真 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢の池.jpg|広沢の池&lt;br /&gt;
ファイル:広沢の池2.jpg|広沢の池&lt;br /&gt;
ファイル:広沢の池3.jpg|広沢の池&lt;br /&gt;
ファイル:広沢の池説明板.jpg|広沢の池説明板&lt;br /&gt;
ファイル:広沢の池の建造物.jpg|広沢の池の建造物。奥に観音堂が見える。&lt;br /&gt;
ファイル:広沢の池の不動明王浮彫像.jpg|広沢の池の不動明王浮彫像&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音池さらい記念碑.jpg|広沢観音池さらい記念碑&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音池の弁財天稲荷文字塔.jpg|広沢観音池の弁財天稲荷文字塔&lt;br /&gt;
ファイル:広沢の池の木の祠.jpg|広沢の池の木の祠&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==記載==&lt;br /&gt;
===朝霞市による指定史跡碑===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;朝霞市 指定史跡 広沢の池&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和四十八年一月一日指定&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この池は台地の崖下からの湧き水によってできたもので、『新編武蔵風土記稿』によると、周辺の灌漑用水として古くから利用されてきた貴重なものである。また、現在では市街地に残された湧水地として周辺の環境とともに貴重な景観を保っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===朝霞市による説明板===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;朝霞市指定史跡『広沢の池』&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
指定年月日　昭和48年1月1日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　広沢の池には、今でもたくさんの魚が生息し、季節によっていろいろな渡り鳥が飛来してきます。また池のほとりには木々が生い茂り、昔の面影を残しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
# 位置&lt;br /&gt;
#:　朝霞市の南東部に位置し、現在の住居表示では栄町一丁目にあります。最寄り駅の東武東上線朝霞駅からは南西約600mの位置にあたります。&lt;br /&gt;
# 由来&lt;br /&gt;
#:　広沢の池の崖上には、かつては広沢原が広がっていました。大地上の雑木林を背に負い、それらの地下水が崖下に湧き出るところが、広沢の池や七ツ釜などの湧水地です。&lt;br /&gt;
#:　明治8年当時の様子を伝える『武蔵国郡村誌』のなかに、「広沢観音の池村（岡村）の南方 東西十五間　南北二十間」と記されています。&lt;br /&gt;
#:　また、江戸時代の文政年間に幕府によりまとめられた『新編武蔵風土記稿』には、「広沢の池 岡村にあり、此辺諸村の養水みなこの池中七ツ釜と云所より湧出す」とあり、広沢の池の水は、細く東に流れ出て七ツ釜の水と合流して越戸川となり、根岸台、新倉の水田の灌漑用水として利用されていました。&lt;br /&gt;
#:　また、同じく『新編武蔵風土記稿』によると、この近辺には沢が多く、特に広沢の池は広い沢だったため、広沢の池と言う名になったと伝えられていますが、これは言い伝えだけで証拠はなく、おそらくは、もともと広沢と言う地名があったところにある池と言うことで「広沢の池」と言う名が付いたのであろうと記録されています。&lt;br /&gt;
# 大きさ&lt;br /&gt;
#: 現在の広沢の池は、東西約50m・南北約25mを測り、面積約1,000㎡となっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成21年5月　朝霞市教育委員会&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===[[新編武蔵風土記稿/巻之129新座郡1#水利|新編武蔵風土記稿 総説 水利]]===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 広沢池：岡村にある。この辺の諸村の養水はみなこの池の中の七ツ釜というところから漏出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===[[新編武蔵風土記稿/巻之129新座郡1#荘名|新編武蔵風土記稿 総説 荘名]]===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;広沢（廣澤)&lt;br /&gt;
:23村。この庄名はいずれのころから起こったかわからない。本郡岡村の南の方に広沢の池があり、このためにその辺をすべて広沢と号すともいう。これはこの辺に沢が多い中でも、この池だけが特に広く、池の中の水の漏出するところが数か所ある。土地の人はそこを指して七ツ釜という。それでこの池も広い沢というようになったのでこの名が起こったのだろう。とはいうものの、それもただ口碑に伝えただけで、そのような証拠はないので、もとより広沢の名があったために池もそう名付けたのかもしれない。&lt;br /&gt;
:この庄は新倉・片山・舘の3郷にまたがり、属する村が多い。郡の東から西へ貫き、南は中沢・小榑などの数村にとどまり、北は田島・宮戸などの村々に至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===[[武蔵国新座郡村誌/岡村|武蔵国新座郡村誌 岡村]]===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*広沢観音の池：村の南方、東45間、南北20間&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝霞市教育委員会生涯学習課『広沢の池　―あさかの民俗　一―』朝霞市教育委員会,平成十四年（2002年）3月29日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ひろさわのいけ}}&lt;br /&gt;
[[Category:池]][[Category:史跡]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E7%B7%A8%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E7%A8%BF/%E5%B7%BB%E4%B9%8B129%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A11&amp;diff=310</id>
		<title>新編武蔵風土記稿/巻之129新座郡1</title>
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		<updated>2026-05-26T13:13:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 広沢（廣澤) */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;新編武蔵風土記稿　巻之一百二十九&amp;lt;br /&amp;gt;新座郡之一&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=郡図=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:正保年中改定図.png|サムネイル]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:元禄年中改定図.png|サムネイル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=総説=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新座郡は[[延喜式]]民部省の内に始めて武蔵国新座と見える。この郡名はいにしえ郡郷を定められたときから置かれたのか、またその後にできたのか。延喜より以前のことは古記にも現れていないので、その年代を今から考えることはできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[和名類聚抄|倭名鈔]]新座郡の註に「爾比久良」とあるので「ニヒクラ（にいくら）」と称することは古くからの言い方であった。それで、中古からは仮借して「新倉」とも書いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古老が伝えるには、[[御入国]]の後までは「新座」「新倉」と書くことが並び行われていたが、座の字を「くら」と訓読みするのは世の人が耳慣れないことから、後に地元の人はみな「新倉」と書くに至った。さて、新倉村の人が、わが村は郡の本郷であるといって、他の村をおとしめるような言い方をしたため、村の人は穏やかではないと思い、ついには論争を起こして訴えた。そのときの御代官が聞いて、「なぜこのようなことがあるのかといえば、郡名の字を誤って村名と同字を用いたがゆえに、愚かな民がこのような道理に合わないことを言い出しているのだろう」ということで、郡の文字を座の字に改められたと言い伝えられているというが、その年代は不詳であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地に伝えられた簿書に「元禄十一年（1698）までは新倉郡と記し、同十二年（1699）から新座の字に改めた」というが、正保（1645-1648）の改に新座郡と記してあるので、信じがたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともかく、新倉の言い方があるのだから、この村が郡の本郷であることはいつわりではないだろう。たとえば豊島郡に豊島村があり、入間郡に入間村があり、高麗郡には高麗本郷がある。この数村はみな郡の本村である。当郡もまたそうであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すでに、いにしえは新座村とさえ書かれていた。その証しは正保と元禄の改に明らかである。古老が伝えたとおりであれば、よこしまな民をくじくためにそのように命じられたのだろうと思われる。それ以降、言い方も地区ごとに分かれて、東南の方では「ニヰクラ（にいくら）」とも「ニヰザ（にいざ）」ともいう。西の方、高崎領の辺では「シンザ」という。このように古称を失ったので、現地の人は混乱して称している。しかし、享保二年（1717）、郡名の読み方を定められ、また享和三年（1803）にも郡村の言い方を細かいところまで調べるべきであるとの命があって、そのうたがわしいものを正されて、今は「ニヰザ（にいざ）」と言うこととなったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この郡は江戸から乾（北西）の方角に当たり、行程は四里以上ある。東は豊島郡に隣接し、おおよそ白子川を境界としている。南西は豊島・多摩二郡のきわに押し入り、西から北へは斜めに入間郡に接し、おおよそ柳瀬川を境界とするが、川越道の筋には中野村が柳瀬川の西にある。また、西北の隅にあたって本郡内間木村と入間郡宗岡村との界は地続きである。北から東へはこれも斜めに足立郡に隣接し、荒川を界としている。東西二里あまり、南北二里半ばかりである。前にも述べたとおり、四隅ともに斜めなので、その形は菱形に似ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地の大半は高く、南の方には山谷林丘が多く、イノシシ、シカ、キツネ、タヌキ、ウサギの類が住んでいる。北の方は川が延べわたっており、水鳥や野鳥が多い。その辺はみな平地であって、多くは砂場である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い伝えでは、この郡はむかしははなはだ小郡であって、今の西北の崖下は当時は大河入江のようであり、白浪が岸を洗っていたという。今の地理をもって考えれば、この説はおぼつかないことであるが、桑田の変がないとはいえないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、南西の方も中古まで武蔵野の末であって、茫々たる原野だったので、そのころは今の新倉・白子の数村の地のみ民家があったと思われる。延喜式にも五十戸以上で隣郡に付しにくい地は別に一郡を置かれたと書かれているので、この地は小さな村里であるが地理によって一郡と定められたのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御入国以来、年々に新田を開かれたため、今は土地の高いところは陸田となり、低いところは水田となって、すでに七～八分は開けたけれども、なお山林原野も少なくない。水田が陸田に比べると少ないのは地勢のためである。寒暖の気候はおおよそ豊島・多摩などの数郡と同じ。すべて田畑の土目は中の中であって下もまじっている。しかし、地元の人が耕して培養の功を欠かないため、諸作物はともに豊作であって、戸数も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風俗はおおよそ他郡と異なることはない。ただ、重陽の佳節を祝うのは九月九日に限らず、家々農事が終わるまでとしている。ゆえに収納の遅速によっては、神社の祭日を用いることもあるという。また召し使う者の出入りは二月二日を期限とする。これは江戸と違う。江戸も昔は二月二日を期限としていたが、今はすべて三月五日に定められている。そのように定められたのは寛文九年のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郡内街道は二条ある。その一条は江戸から川越への街道であって、東の方は豊島郡赤塚村から入って郡中を横に抜き、行程二里を経て西の方、大和田町から柳瀬川を越して入間郡に入る。言い伝えによると、この街道はむかしは今の道よりは北にあった。その跡が現に残っているのがところどころにあるという。しかし、この古街道がいにしえの鎌倉街道であるというときは、今の川越街道とは別なのであろう。僧・日蓮が佐渡国へ配流されたとき、武蔵国に至り、久米川の地から新倉を過ぎ、日を経て児玉時国のもとに宿したということが年譜にあるのは、ここで言っている古街道のことであろうか。なお、その古道の凝っている村々へも出しているため、照らし見るべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一条は甲斐国・相模国から陸奥への街道であり、南側は多摩郡清人村から郡内菅沢村へ入って、北へ向かい、引又町から新河岸川をこえて入間郡宗岡村へ入り、数里を経て足立郡与野宿に達する。この街道も昔から開けているというが、その年歴は伝わらない。これもそれぞれの村々に載せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==郷名==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和名抄に所載の郷名は一つ＋余戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今、その地がわかっていない。地元の人が言うには、白子のあたりであろう。コとキとは五音の相通であるから、「シラキ」というのを中略したものであろうという。この説は牽強付会にもおもわれ、簡単には受け入れられないが、このころ郡内の多くは未開の地であったから、その在所は実際に白子のあたりであっただろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===余戸===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===今の郷名===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====片山====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10村。この地は江戸から行程四里であって、郡の南端にある。隣郡・多磨郡の地にも少しまたがっている。郷の中の東南はすべて土地が高く、西北に向かって崖がある。崖下の耕地から見れば片山と名付けたのもおのずから地の様子によっていることがわかる。東は広沢原から南の方へかけて小榑（こくれ）・保谷などの数村と境をへだて、西は多磨郡神山郷の隣であり、本軍にかかっては野火留宿の地に接する。北は新倉郷膝折宿の境に至る。東西は一里半にすぎず、南北はわずかに半里ばかりである。その中でも郡中にある地はいにしえはわずか一村でであって、片山村だけだったが、後、その村地を分けて10村とした。このほか、多磨郡の内落合村と同村の新田とを合わせて12村がこの郷に属す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地の人の言い伝えに、昔、七沢七郎という人がこの地に住んだという。この地は崖下に七か所の沢があって水田を養う水となった。地名にも中沢がある。そのほか、大沢・小沢などといういうものがみな七沢のうちである。そうであれば、七沢をもって氏としたのではないだろうか。この人のことは、他に伝えられる事跡が知られていないという。また、土地の人で好事家の者がいうには、七沢氏のことは古老の伝えたものだけであって、別に証拠となるべきこともないという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、御入国の後に片山七騎と号してこの地の地頭・米津内蔵助をはじめとして桜井庄之助、神谷与重郞、荒川又六郎（子孫が断絶したために当所のうちどの地を知行していたかはわからない）、木村伊右衛門、柘植甚八郎（これも子孫が断絶したため、知行の地を伝えない）、小野久内らがこの地に住んだ。後には人数も増して、十八騎となったという。しかし、七人のほか、田中一郎右衛門がこの地を賜ったことは家譜にも見えているが（田中の知行も所替えがあったので旧領の地が今いずれの所であったかわからない）、そのほかの名は聞こえないので、十八騎というものはおそらくは誤りで、八騎だったのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この郷の陸田は土性真土であって根張り少なく、糞芥の培養がなければ諸菜よくない。水田は水乏しく、沢々の水や野寺村児ヵ淵の水を引いて養水としているので、ややもすれば足りないことを憂いている。昔、松平伊豆守信綱の家人・安松金右衛門に命じて多摩川の水を引いたとき、この郷中から人夫を出して助ければ長く養水の便を得て互いの利となるだろうとさとしたのに、頑愚な土地の住民らは受け交わさなかった。おそらく心中では、「郷中に沢があって養水には足りている。それに今回のくわだては恐らくは完成しないだろう。もし水利をむさぼって人夫を費やしたとしても多くは無駄になるだろう」と考えたのだろう。だが、案に相違して、隣村には水が溢れるに至った。そこで今に至ってもこの郷へ水を引くことを得られず。土地の人の後悔は大方ならずという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====舘====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1村。北条の家人 大石家の館跡がある地なのでこの郷の名が起こったのだろうと土地の人は言う。しかし、郷名の起こったのはもっと古い世からのことなので、この説もうかつには信じることができない。楯村に大石家の館跡があるというが、北条家の家人なのでやっと永禄・天正の間（1558～1592）のことと思われる。それより以前の世から舘があったとしても、大石家は木曽義仲の子孫であるというのだが、そのような古い世のこととも思われない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべて郷名の起こりは和名抄には載っていないといえども往古のことと思われる。ほかに理由があるのだろうが、わかるわけもない。しかし、中古、村名や字の区別もなく、すべて郷と記したものも文書などによく見られるので、これらもその類であって、舘村の郷と記したのがいつのまにか郷名ということになったのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この郷は郡中、西北の方にあって、広沢の庄にかかっている。属するのは舘村の一村だけである。地形は、東は野方領の内、宮戸村を境界とし、南の方は大和田野火止などの村々に接している。その二村は郷庄の名称も今は伝えない地であるという。西から北へは入間郡に隣り合っており、柳瀬・新河岸の二流が境をめぐっている。東西二十町あまり、南北は一里にあまる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郷中すべて土地高く、畑が多い。西の方、柳瀬川の辺だけ水田がある。もとより僻地であるが、陸奥街道にかかっているため、おのずから旅人の往来もあって、賑わっている土地である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====新倉====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9村。郡内の東北の方にある。郷の東南は保谷村に始まって、郡の東の境を北の方へ長く続いている。そのうち、広沢原から北はおおよそこの郷に属している。北の方は荒川を境界とし、東はすべて豊島郡に隣接し、南は多磨郡に至り、西は郡内の片山郷の諸村に及んでいる。そこから川越街道を境界とし、西北に寄ったところに舘村のうち引又町、入間郡宗岡村に接している。郷中にはすべてで20村あって、広沢庄野方領の地にかかっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この郷名は和名抄には載っていない。その後いつのころから起こったのだろうか。文保年中（1317～1319）親王家から吉良亀松に下し賜われた文書には、武蔵国新倉郷七百貫云々と載せられているが、今の世では村と称すべきものでも郷と書いたものが古記に多く見られるので、舘郷と同じ疑いがないわけではない。また、新倉の文字も古くから書かれてきたこともこれによってわかる。これは全く訓の具合がよいのに従った者であろう。その実は郡の本であるため、新座の字を用いる方が正しいかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==荘名==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===今の荘名===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====広沢（廣澤)====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
23村。この庄名はいずれのころから起こったかわからない。本郡岡村の南の方に[[広沢の池]]があり、このためにその辺をすべて広沢と号すともいう。これはこの辺に沢が多い中でも、この池だけが特に広く、池の中の水の漏出するところが数か所ある。土地の人はそこを指して[[七ツ釜]]という。それでこの池も広い沢というようになったのでこの名が起こったのだろう。とはいうものの、それもただ口碑に伝えただけで、そのような証拠はないので、もとより広沢の名があったために池もそう名付けたのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この庄は新倉・片山・舘の3郷にまたがり、属する村が多い。郡の東から西へ貫き、南は中沢・小榑などの数村にとどまり、北は田島・宮戸などの村々に至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==領名==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===今の領名===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====野方====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
34村。そのうち、宮戸・内間木の辺は、土地の人は峡田領（はけたりょう）であるというが、誤りであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==里名==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===今の里名===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====黒目里====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堀ノ内・栗原・十二天・辻などの諸村にこの里名がある。黒目川の名によって起こったのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==村数==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
34村&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
34村というのは今現在の数である。正保年間の改に村数18。元禄の改正には13村増えて31村となっている。その後また3村が増えて今の数となった。このほか後年新開の地ができて持添新田と称するものが7。これは本村に付属している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==山川==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===黒目川===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
水上は多磨郡柳窪村で、所々の清水が集まり、二条の流れとなる。同郡落合村に至って合流して一流となり、本郡栗原村へ流れ入る。この辺をすべて黒目里というため、この名がある。久留目川とも書き、また来目川とも記す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
川幅は2～3間のところも5～6間のところもあり、末流に至って十余間に至る。その中でも根岸河岸より下は川幅もことに広く、船の往来が絶えない。すべて水上から村数13村ばかりの地、およそ2里あまりの間を屈曲して流れ、田島・根岸両村の際にいたって新河岸川に落ち合う。フナ・ナマズの類が多く生ずるが、土地の人は漁していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===白子川===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この川を新倉川とも呼ぶ。もとは一条の流れであったが、至るところによって名が異なる。水上はこの郷の小榑村と豊島郡土支田村との境の井頭池から流れ出て、郡の境5村の間、2里半ばかりを経て荒川へ落ち入る。川幅が狭いところでは1～2間、広いところでも10間以上にはならない。上下白子村の辺では白子川といい、下新倉村では新倉川と称している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==原野==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===広沢原===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郡の中央に広がっている。この辺の地名を広沢というため、この名がある。訛ってヒラサワともいうため、今、平沢と記すところもある。昔は限りなき曠野であったが、今は土地開けて、原も減ってきたという。しかし、なお長短を等しくするときは一里四方もあるだろう。白子・新倉・小榑・片山・膝折・丘・根岸・台などの村々がその境をめぐっている。そのため、新倉に近いところを新倉原といい、膝折の辺では膝折原といい、辻村の台の上を上ノ原という。これらはみな広沢原の内である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
享保年中から次第に新田となって、18村各自進退するというが、多くの村々へわたる原といい、しかも今もいにしえの状態を失っていない。草・茅・樹・木立がむらがって分けるのに惑うほどの地なので、ここに載せた。なお、新田の状も合わせて読むこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==水利==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;井頭池&lt;br /&gt;
:豊島郡とこの郡の境にある。この池の下流、白子川・新倉川の間、所々に堰をかまえて東方数村の用水としている。&lt;br /&gt;
;児ヵ淵&lt;br /&gt;
:野寺村にある。片山の諸村の養水はこの淵から出ている。&lt;br /&gt;
;七ツ沢&lt;br /&gt;
:片山郷の内にある。これも郷中の養水となる。&lt;br /&gt;
;広沢池&lt;br /&gt;
:岡村にある。この辺の諸村の養水はみなこの池の中の七ッ釜というところから漏出している。&lt;br /&gt;
;黒目川養水&lt;br /&gt;
:栗原村・十二天村。この辺でも所々に堰を設けて養水を引いている。&lt;br /&gt;
;多磨川分水&lt;br /&gt;
:多磨郡羽村分水の下流。同郡小川村の境から分かれて本郡へ入り、数条となってみなぎり流れて、引又町のはてに至る。その間2里に及ぶ。水の色は炊水（米のとぎ汁）のようであり、潺湲（せんかん＝さらさらと水が流れる様子）としている。これは郡中の西の方の諸村の養水となっている。&lt;br /&gt;
:言い伝えによれば、松平伊豆守信綱が川越を領した。この領内、当郡武蔵野のうち、野火留の曠野を開墾することを計画したが、この地は水利が悪かったので、遠く多磨川の水を引こうとして、その旨を言上し、御許しをこうむった。やがて家人の中で水利に精通した者を選び、安松金右衛門に命じてそのことを司らせた。そのころ、大和田の辺や多磨郡のうち本郡近辺の地の多くは開けていなかったが、水利の便を経れば開墾される地も多いだろうと、土地の民はこぞって願った。そこで彼らにさとして人夫を出させたので喜び勇んでつとめたため、それほどかからずに16里の間を掘り通して新河岸川の岸に至ったので、水が来るのをまっていたところ、1年を過ぎても来なかった。信綱がまた質問したところ、安松が答えたのは、「とかく水は入るべきものでありますが、返す返すも申し上げたい。この御城下は武蔵野の内で土性うるおいなく、風あれば塵土を吹き上げるため、家々席上に紙を延べ敷いてこれを防いでいます。しかし、今年はいつの年よりも砂塵が少ない。また、土地の民に尋ねたところ、諸菜のうるわしいことは今年のようなことは今までなかったと答えました。思うに、水上は遠くてすぐには水が来ないけれども、土中には自ら広く潤っていることは、この二つのことからもわかるでしょう」ということなので、信綱が今度は当時の代官・羽生又右衛門という者に問うたが、安松が申すことは虚偽ではなかった。しかし、3年をすぎてもなお徴候がなかったのでまた安松に問われたところ、去年の答えのとおりであったので、そのとき、信綱は「3年の久しい期間を経て水が来ないのであるから、汝の申すことを疑わざるを得ない」とのことであったが、安松は驚く気配もなく、ほどなく水が来るでしょうと言った。その年の秋に至って、大雨のあと、水の音がおびただしく、さながら雷のように響き渡って、16里ほどみなぎり、一時に新河岸川へ流れ入った様子は目を驚かせる許りであったという。それから多磨川水道の水7分は江戸へかけられ、3分は川越領新田の養水に賜り、今に至って当地の水利は乏しくなくなったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==土産==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;大根&lt;br /&gt;
;ゴボウ&lt;br /&gt;
;蕪根&lt;br /&gt;
;芋&lt;br /&gt;
:この四種最も多く、美味である。そのほかの諸菜も耕して江戸へ運んでいる。&lt;br /&gt;
;鯉&lt;br /&gt;
:荒川から出る。味はことにおいしい。土地の人はすべて荒川鯉という。多くは江戸へ運んで士地でもはなはだ少ない。&lt;br /&gt;
{{新編武蔵風土記稿}}&lt;br /&gt;
[[category:新編武蔵風土記稿|129]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>ファイル:広沢の池の地形図.png</title>
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		<updated>2026-05-26T13:09:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池を中心とし、七ツ釜・越戸川・広沢原を示した地形図。国土地理院地図を加工した。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]を中心とし、[[七ツ釜]]・[[越戸川]]・[[広沢原]]を示した地形図。国土地理院地図を加工した。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>ファイル:広沢の池の木の祠.jpg</title>
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		<updated>2026-05-24T14:53:03Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池北西端にある木の祠。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]北西端にある木の祠。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>ファイル:広沢観音池の弁財天稲荷文字塔.jpg</title>
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		<updated>2026-05-24T14:52:23Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池北西部の弁財天稲荷文字塔&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]北西部の弁財天稲荷文字塔&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>ファイル:広沢観音池さらい記念碑.jpg</title>
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		<updated>2026-05-24T14:50:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池北西端にある広沢観音池さらい記念碑。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]北西端にある広沢観音池さらい記念碑。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
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		<title>ファイル:広沢の池の不動明王浮彫像.jpg</title>
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		<updated>2026-05-24T14:49:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池北西部の不動明王像。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]北西部の不動明王像。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%B1%A0%E3%81%AE%E5%BB%BA%E9%80%A0%E7%89%A9.jpg&amp;diff=304</id>
		<title>ファイル:広沢の池の建造物.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%B1%A0%E3%81%AE%E5%BB%BA%E9%80%A0%E7%89%A9.jpg&amp;diff=304"/>
		<updated>2026-05-24T14:47:43Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池の北西部にある祠や石碑。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]の北西部にある祠や石碑。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%B1%A0%E8%AA%AC%E6%98%8E%E6%9D%BF.jpg&amp;diff=303</id>
		<title>ファイル:広沢の池説明板.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%B1%A0%E8%AA%AC%E6%98%8E%E6%9D%BF.jpg&amp;diff=303"/>
		<updated>2026-05-24T14:46:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池について、朝霞市教育委員会による解説板。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]について、朝霞市教育委員会による解説板。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%B1%A03.jpg&amp;diff=302</id>
		<title>ファイル:広沢の池3.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%B1%A03.jpg&amp;diff=302"/>
		<updated>2026-05-24T14:46:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池の北側から南に向かって撮影。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]の北側から南に向かって撮影。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%B1%A02.jpg&amp;diff=301</id>
		<title>ファイル:広沢の池2.jpg</title>
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		<updated>2026-05-24T14:45:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池の北側から東に向かって撮影。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]の北側から東に向かって撮影。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E3%81%AE%E6%B1%A0.jpg&amp;diff=300</id>
		<title>ファイル:広沢の池.jpg</title>
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		<updated>2026-05-24T14:44:50Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢の池の北東端から撮影。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢の池]]の北東端から撮影。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%BA%AC%E8%B6%8A%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=299</id>
		<title>京越鉄道</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%BA%AC%E8%B6%8A%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=299"/>
		<updated>2026-05-04T14:17:08Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;京越鉄道&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は、東上鉄道に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。  毛武鉄道の鉄道敷設有効期限は明治三十五年（1902年）に失効した。川越商人（高山二兵衛、綾部利右衛門、山崎嘉七、竹谷兼吉、小川五郎右衛門ら）、福岡河岸の星野仙蔵、白子村の富沢俊らが発起人となり、京越鉄道株式会社を立ち上げた。…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;京越鉄道&#039;&#039;&#039;は、[[東上鉄道]]に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[毛武鉄道]]の鉄道敷設有効期限は明治三十五年（1902年）に失効した。川越商人（高山二兵衛、綾部利右衛門、山崎嘉七、竹谷兼吉、小川五郎右衛門ら）、福岡河岸の星野仙蔵、白子村の富沢俊らが発起人となり、京越鉄道株式会社を立ち上げた。ルートは池袋から上板橋・下練馬村・[[白子村]]・[[膝折村]]・[[志木町]]・福岡村・川越町小仙波村・[[川越鉄道]][[川越駅]]となっており、膝折までは[[川越街道]]沿い、そこから志木・福岡の[[新河岸川舟運]]ルート沿いという、後の[[東上鉄道]]→[[東武東上線]]の前身ともいえる計画であった。仮免許申請は明治三十五年（1902年）8月21日である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
京越鉄道は実現することがなかったが、翌年設立される[[東上鉄道]]でついに川越～東京間の路線が実現することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
*明治三十五年（1902年）&lt;br /&gt;
**8月21日：京越鉄道敷設の出願。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書現代語訳==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、『志木市史　近代資料編』にもとづき、[[User:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]が現代語訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===京越鉄道株式会社発起ニ付仮免許申請===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私どもは今般、東京府北豊島郡池袋村　日本鉄道株式会社　池袋停車場を起点とし、同郡上板橋村、下練馬村、埼玉県北足立郡白子村、膝折村、志木町、入間郡福岡村、川越町字小仙波村等を経て、既成の川越鉄道株式会社　川越停車場に至る約18マイル4分の3間に、軌道幅員3尺6寸の蒸汽鉄道を敷設し、旅客および貨物の運輸業を営む目的をもって、京越鉄道株式会社を発起したくございますので、仮免許を御下付くだされたく、明治三十三年法律第六十四号私設鉄道法第二条に拠り、別紙書類を添え、発起人連署をもってこのことを願い奉ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治三十五年（1902年）8月21日  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
京越鉄道株式会社発起人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*埼玉県入間郡川越町大字川越440番地　高山仁兵衛（印）&lt;br /&gt;
*埼玉県入間郡川越町大字川越350番地　綾部利右衛門（印）&lt;br /&gt;
*埼玉県入間郡川越町大字川越1010番地　山崎嘉七（印）&lt;br /&gt;
*埼玉県入間郡川越町大字川越512番地　竹谷兼吉（印）&lt;br /&gt;
*埼玉県入間郡川越町大字川越512番地　竹谷幹吉（印）&lt;br /&gt;
*埼玉県入間郡川越町大字小久保93番地　小川五郎右衛門（印）&lt;br /&gt;
*埼玉県入間郡福岡村大字福岡2番地　星野仙蔵（印）&lt;br /&gt;
*埼玉県北足立郡白子村大字白子77番地　富沢俊（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逓信大臣子爵芳川顕正殿  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(星野重光氏所蔵)  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===京越鉄道株式会社起業目論見書===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 一、本会社の目的は鉄道を敷設し旅客および貨物の運輸業を営むものとする&lt;br /&gt;
* 二、本会社は株式組織であり、京越鉄道株式会社と称し、本社を埼玉県入間郡川越町に設置する&lt;br /&gt;
* 三、敷設すべき線路は東京府北豊島郡池袋村　日本鉄道株式会社　池袋停車場を起点とし、同府同郡上板橋村、下練馬村、埼玉県北足立郡白子村、膝折村、志木町、同県入間郡福岡村、仙波村等を経て、既成の川越鉄道株式会社　川越停車場に到る約18マイル4分の3間とする&lt;br /&gt;
* 四、蒸汽鉄道であって、その軌間は3フィート6インチとする&lt;br /&gt;
* 五、資本総額、金65万円&lt;br /&gt;
* 六、株式総数は1万3000株で、一株の金額は金50円とする&lt;br /&gt;
* 七、発起人の氏名、住所および引受株数は以下のとおり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**株式1500株 金7万5000円&lt;br /&gt;
***埼玉県入間郡川越町大字川越440番地　高山仁兵衛  &lt;br /&gt;
**株式1000株 金5万円&lt;br /&gt;
***埼玉県入間郡川越町大字川越350番地　綾部利右衛門&lt;br /&gt;
**株式1000株 金5万円&lt;br /&gt;
***埼玉県入間郡川越町大字川越1010番地　山崎嘉七&lt;br /&gt;
**株式500株 金2万5000円&lt;br /&gt;
***埼玉県入間郡川越町大字川越512番地　竹谷兼吉&lt;br /&gt;
**株式500株 金2万5000円&lt;br /&gt;
***埼玉県入間郡川越町大字川越512番地　竹谷幹吉&lt;br /&gt;
**株式500株 金2万5000円&lt;br /&gt;
***埼玉県入間郡川越町大字小久保93番地　小川五郎右衛門&lt;br /&gt;
**株式1000株 金5万円  &lt;br /&gt;
***埼玉県入間郡福岡村大字福岡2番地　星野仙蔵&lt;br /&gt;
**株式500株 金2万5000円  &lt;br /&gt;
***埼玉県北足立郡白子村大字白子77番地　富沢俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のとおりでございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治三十五年（1902年）8月21日  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
右発起人&lt;br /&gt;
高山仁兵衛（印）&lt;br /&gt;
山崎嘉七（印）&lt;br /&gt;
綾部利右衛門（印）&lt;br /&gt;
竹谷兼吉（印）&lt;br /&gt;
竹谷幹吉&lt;br /&gt;
小川五郎右衛門（印）&lt;br /&gt;
星野仙蔵&lt;br /&gt;
富沢俊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(星野重光氏所蔵)  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===京越鉄道会社調査書（明治三十五年8月）===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;起業が公共の利益であることを証する調書&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我が川越町というのは実に埼玉県下における唯一の都邑であって、人口約2万ばかり。南は武蔵野の一大沃野を控え、西は秩父山の一帯の丘岳がそびえ、付近の村落はまた人烟はなはだ稠密であって、米・大麦・小麦・タバコ・綿・甘藷・馬鈴薯・ブドウ・繭・生糸・製茶・織物などの農産物、生産物に富みます。したがって、商工業の隆盛を促し、旅客貨物の川越町を出入りするものは歳月とともに多くなってきています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これより先、川越鉄道株式会社の設立があり、同町から入間川、所沢などを経て国分寺に至り、甲武鉄道株式会社の甲武線と接続して東京市との連絡を通じ、もって一面に地方の交通を便利にし、一面に東京・横浜市等の運輸を便利にすることを期しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今、ひそかに線路の形勢上から観察すると、川越鉄道の既成線路は東京市に至るにはすこぶる紆余縈回（遠回り）であり、川越停車場から東京飯田町停車場に至るには延長35マイル2分の1強に達し、平均約2時間30分の時間を要するというもので、交通運輸の適切な利便に欠けているという感がないとはいえません。このため、今日の実状にあっては、旅客は陸路大宮町に赴き、日本鉄道株式会社第一区線によって東京市に出入りする者もいます。貨物は依然としてなお隅田川から新河岸川を経て一時しのぎの川船便に拠るものがあります。しかしながらこれもなおいまだもとより便利というものではないのはもちろんのこと、川越町と東京市との交通運輸はついに不利不便のもとにあることを脱することができていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
往年、しばしば東京市から旧川越街道に沿って川越町、松山町を経て、熊ケ谷町あるいは高崎市に通じさせる企図を講じたものがあります。とりわけ、毛武線と称するものは一旦本免状下付の運に接したものの、当時は一般的に経済界が不振の時期に当たり、不幸にして敷設の機に接することができませんでした。そしてついに本年五月、その有効期限を失うに至ったのは、今なお世人の記憶に新たなところであって、当時、川越町を始め沿線地方が等しく失望せざるをえないところでありました。今や機運がようやく熟し、そして沿線地方の産業その他の進歩は、実に今日も交通不便のもとにあるのに耐えることができない状況です。このため、今回我が地方有志者が決然と起って本鉄道敷設の出願をするに至ったのであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本鉄道の敷設線路は川越町から東京府池袋に至る一直線であって、そのマイル数は実に十18マイル4分の3にすぎません。これを既成の川越線を経て、そこから甲武線に乗って東京府新宿駅に至る約31マイル2分の1強を短縮すれば、すなわち5：3の割合であって、本線によるものが東京に到達するとき、彼の線によるものが国分寺駅に到達する時と同じです。彼の線が二時間あまりを費やすところ、本線においては1時間で足りる計算となります。単にこれだけで考えても、地方一般の利便ははかることができないものであることは疑えません。かつ、本線敷設で得られる約13マイルと約1時間との縮減は、既成諸鉄道の便を借りて東京はもちろん、その他関西、東北いずれの地方に行こうとする者に対し、八王子・甲府を経て中央官線に行こうとする者を除けばことごとく利便を受けることができるでしょう。また、旧川越街道と称するものは川越線と日鉄第一区線の中央に位置し、いずれの線に拠っても近くて2～3里、遠いところでは5～6里を隔て、今や交通利便が益々ひらけ、特に帝都からのへだたりは近いものであるにもかかわらず、徒歩で行くことがやむを得ない悲境にあるのは実に遺憾と言わざるを得ません。さらに本線沿道に属する町村の人口をみると、町にあっては川越町の2万以外には5000以下のもの2、村にあっては5000以上のもの1、5000以下のもの22、2000以下のもの4あります。今、これを積算すれば非常に多くに達します。これらの者みな不便の下に忍ばなければならないというのは、たしかに大きな負担ではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし、本線に対する将来の希望ということであれば、もとより今出願するような短距離に安んずるだけではありません。後日、社会進歩にともなって、交通が益々頻繁さを加えるようになれば、一方は池袋駅から進んで東京市内に入り、小石川もしくは万世橋付近にまで延長し、一方は川越駅から伊草、中山、松山、大岡等を経て熊谷に出て日鉄第一区線と連絡し、あるいはまた松山から一枝線を分岐し、管谷、小川、大河原、三沢等を経て秩父の大宮郷に達せさせることを期するものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
要するに、本線は旧[[毛武線]]と京板線との復活を図り、あわせて秩父に通ずる枝線も計画中にありますから、これで旧線の改善を期そうと欲するに他なりませんが、従来、世の起業者がいたずらに当初より単に外観に走り、規模を厖大に見せるため、頭と足がかけ離れ、ついに失敗に終わった覆轍を踏まぬようつとめて慎重にし、小さいことから順次大きいことに及ぼす企図をもって地方の現況を考え、力の耐えられるところをもって端緒に就こうと考えております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
議者はこうおっしゃるかもしれません。「現に川越鉄道というものがあり、たとえその線路は甚だしく迂回をなし、甲武線を経て東京市に達するには本線に比して約2倍の距離があある。したがって、約2倍の時間と賃金（運賃）を消費しなければならないとはいえども、とにかく不完全ながらも交通運輸に資するところがある。だからあえて別に本線を敷設する必要はないだろう」と。そうではあっても、既成川越鉄道というものは、その敷設線路の方向および位置等から考えると、必ず川越地方と八王子・甲府方面、すなわち遠く中央線に属する一般地方との連絡を取ることをその主たる目的とし、この敷設を見るに至ったものと断言していいでしょう。そして、なお当時には川越地方と東京都の間はいまだ交通の頻繁なものではありませんでした。また、地方産物ははなはだ多いというわけでもなく、輸送機関の急要を感じることが切実というわけではなかったため、このような遠回りをして東京に到達することに甘んじたのでしょう。しかし、今日に至っては、帝都と地方との間の交通日々繁く、既成の川越線および甲武線をもってしても到底、旅客の不便や貨物の渋滞があることを免れがたいのです。したがって、商工業上、その他一般の地方人民が直接・間接に被っている不便・不利を挙げれば数えることもできません。これこそ実に本鉄道敷設の出願をなすに至った理由なのです。仰いで願わくば当局者はこの実状を諒察し、かつ出願者の衷情（真心）もくみとって、速やかに仮免状下付の恩命に接することができますように。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に当たって、本鉄道敷設の暁に際してこの間における旅客貨物の費用・運賃に果してどれくらいの影響を与えるか否かを攻査しようと思います。おそらく現今における旅行の方法によれば、従来一年ごとに約金16万1000円を要していたところ、汽車賃としてはわずかに約金6万5000円に減り、その差額、約金9万6000円余となり、すなわち約6割引で節減できるという数になります。もし、また貨物についてその差額を求めるなら、さらにその節約の割合は実に一層顕著であることがわかるでしょう。すなわち、従来の運賃においては毎年約金70万5700円を要したものが、汽車賃においてはわずかに約金5万3000円で足りることとなり、その差額は約金65万3000円に該当し、すなわち約13分の1でも余りある数となり、ほとんど私の予想外の観があることを免れません（旅客貨物の明細表は第一号及第二号表に詳細を記しました)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本線のように真に短小の一文線であっても、地は帝都に接し、交通が極めて頻繁であるため、鉄道の利便を感じることが最も深く、したがって地方に対しては論を要せず、その公衆一般に与える便益はまことに偉大なものであって、ついに国家経済に及ぼす影響もまた甚た少からざることがわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;線路予測図説明書&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本線の起点は日本鉄道株式会社　山手線板橋駅と目白駅との中間に属し、目下同会社において建設工事中である豊島線と山手線と連絡するところの新設・池袋駅であり、すなわちここで初めて本線は分岐して北方を指し、字・金井窪を過ぎ、川越街道&amp;lt;ref&amp;gt;原文は「川越鉄道」とあるが、金井窪は現在の板橋区大山金井町で、金井窪バス停、新金井窪橋に名前が残っている。ここは川越鉄道とは関係がない場所であり、[[川越街道]]の誤りと考えられる。川越街道は現在の東上線と大山駅で交差している。&amp;lt;/ref&amp;gt;を踏み切って上板橋の東裏に出て、ここに上板橋駅を設置する予定とする。この間の地勢は0マイルから1マイル30チェーンに至る間、極めて平坦な普通田畑地を通過するのみで、橋梁としては千川上水に二十フィートを架せば足ります。1マイル30チェーンから2マイル30チェーンに至る間は少し窪地に傾くため、やや多量の盛り土を要し、加えて2マイル10チェーン下頭川&amp;lt;ref&amp;gt;川越街道が石神井川を越える橋に下頭橋がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;に径30フィート鉄桁2連の架橋を要するでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお上板橋から街道の右方に沿って北西を指して下練馬村(停車場予定地)部落の北東を過ぎ、字赤塚を経て白子村(停車場予定地)に至るのはこの間もまた概ね地勢最も普通平坦でほとんど全部畑地に属し、ただ多少の切盛があるだけです。しかし、下赤塚から白子に至るには一起一伏しています。従って比較的多量の切り盛りを要します。その白子に入っては土地がはなはだ低く窪地であるため、盛り土の高さは40尺以上に達する区域があります。かつ、6マイル付近にあっては径間15フィート（2連）から12フィート（1連）のアーチ橋を要するものがあるなどすこぶる多大な施行を免れることはできません。本線中至難の工区です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
白子を出て一マイルほどで線路は少し右方に折れ、一直線に膝折(停車場予定地)を経て志木町に向かうに当たり、同町に至らない10マイル付近から再び進路を左方に取り、少しずつ川越街道を離れ、やや北方に迂回して進みます。地形の起伏することは前区に酷似し、また多少の切盛があることを免れません。架橋は8マイル43チェーンに径間15フィートのアーチ、同52チェーンに同じ12フィート4列、同61チェーン黒目川に同30フィートがあります。やや困難があると思われます。そこから志木町(停車場予定地)に至れば、何の施設も要することなく、極めて平易な切り盛りを要するだけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
志木町から水谷村、鶴瀬村を経て一直線に福岡村(停車場予定地)に至る間は地形また多少の起伏ありますが、それほど多大の土工は必要ありません。ただひとつ、志木町を出てまもなく、すなわち10マイル63チェーンに柳瀬川があります。これは本線における第一の長大な架橋で、径間40フィート鉄桁4連を要します。また12マイル13チェーンに径間12フィートのアーチ1つおよび14マイル23チェーンに径間15フィートの架橋が1つあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福岡村を隔てて少しいくと線路は少し右方に折れ、寺尾村、砂村などを過ぎ、一直線に仙波村に至り、17マイル付近においてさらにまた右方に転じて川越町に向かい、17マイル付近から針路を左方に変じ、川越市街の南方を迂回し、ついに既成川越鉄道会社線川越駅に達します。この間は地形が最も普通平坦であって、多少の切盛を要するほか、架橋は径間20フィート1連を要するもの2流と、同15フィート、同12フィートの各1連を要するものそれぞれ1つあるだけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、要するに、本線は起点より終点に至るまていわゆる武蔵野原の一隅を通過するものであるため、概して上地平坦であり、間には多少の起伏と三、四の川流とがあるほか、難場と称すべきものはまったくなく、地目については畑がその七分を占め、田はその二分、平林はその一分に居るため、地価も少し高いものは免れることができないとしても、そのために本鉄道敷設の障碍となるほとではないことは議論のないところであります。概して事は極めて平易であるものと信じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
調査主任　岸　真次郎&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;運輸営業上の収支概算書&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　金13万3210円3銭2厘 収入総額&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　但　一日一マイル平均金19円46銭4厘強&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　内訳&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金6万5115円28銭5厘 乗客収入&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　但　一日一マイル平均金9円51銭5厘弱&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金6万8094円74銭7厘 貨物収入&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　但　一日一マイル平均金9円95銭弱&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　金5万9944円51銭4厘 支出総額&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　但　一日一マイル平均金8円75銭9厘強&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　内訳&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金1万1175円26銭8厘 運輸費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金1万9036円44銭3厘 線路保存費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3217円80銭9厘 汽車費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金6514円99銭4厘 総係費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
収支差引&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　金7万3265円51銭8厘 総益金&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　　内&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　金7326円55銭2厘　積立金及び役員賞与金&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
差引&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　金6万5938円9拾5銭6厘　純益金&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　但　資本金65万円に対し年利1割1厘4毛強に当たる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;運輸営業上の収支概算書&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
説明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　建設費予算は実地予測の上、細密な調査を遂げ、かつ一般の工費予算を基礎とし、全図既成鉄道建設費決算額も参照し、本線に対して最も適切と認められる標準価格を定め、時価に照らして算出したものです。元来、本線が経過する地形はいわゆるいにしえの武蔵野原の一隅に属するため、もとより概して一般平坦です。わずかに白子～志木間において多少の起伏があるのを見るほかは、橋梁もわずかに十か所であり、総延長四百フィートに足りず、最長のものであってもただ柳瀬川の160フィートのものが1つあるだけです。また、溝橋に至っても、その径間三フィートから十フィートに至るものが計40か所あるのもまた普通平易なものなので、全体の工事は極めて簡易なものと信じて疑いません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　乗客および貨物の種類、ならびに数量は、もっぱら沿道の町村役場につき、またその主要貨物に至っては特に当業者に調査したものを参照してそれぞれ算出したものであり、その結果、乗客収入について一日ごとに一マイル平均金9円51銭5厘弱、貨物収入は同金9円95銭弱を得ました。これはすなわち、乗客は毎日往復平均全線を通して313人弱、すなわち片道156人弱、貨物は同じく207トン弱、片道103トン半弱に相当する割合となります。そして、主な貨物は川越町および沿道各駅において多少の相違があるのは免かれないといえどもほとんど大同小異で、輸入にあっては肥料、塩、油、酒、醬油、砂糖、石炭、綿糸、石材、鉄材等。輸出にあっては雑穀類、甘藷、織物、もしくは薪炭、材木、砂利（東京は輪出）などであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに本線における交通の概況について一言しますと、わが川越町においてはもとより現に既設川越鉄道の便があるといえども、もともとその線路の方向は単に南部の一部から甲州方面に対する交通においては特に遺憾なしといえますが、その帝都に向かっての交通にとっては、たとえ甲武線を経由する不便は忍んだとしても、その線路は余りにはなはだしく迂回をしているため、いたずらに比較的多大な費用と時間とを要し、ほとんど何の効験も見られないようです。このため、今なお川越町はもちろん、本鉄道沿線地方一般から東京に到る無数の旅客の六割は、旧川越街道を車馬にて馳せたり、もしくは徒歩することがやむを得ず、残りの四割は間接に汽車便を借りるとしてもその大半はむしろ川越線に拠らず、多くは川越町から3里も車馬に乗り、荒川を渡って日鉄大宮駅に出て始めて汽車に搭乗するのを常としております。ことにまた貨物に至っては、その不便は一層はなはだしいものであって、今なお概して車馬もしくは間に合わせの川船便によることをやむを得ない状況であり、その交通の頻繁さが日に月に増進している今日にあっては、実に彼我の不便不利は言うに及びません。今、既設川越鉄道に接している我が川越町における状況でも前記のとおりであることを知っていただけましたら、そのほかの沿道町村一般の不便はおそらく何人といえども推察することは困難ではないでしょう。これこそすなわち、本鉄道出願が急要であるという主旨です。ゆえに申し上げますが、もし本線がついに敷設の暁に至れば、川越町および沿線町村一般の享受すべき利便の偉大さはまことにはかることができないものがあるのは、火をみるより明瞭なものであろう、ということを私は信じて疑いません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　営業費は仮設各鉄道の成績を参照し、収入金に対して約45%と仮定しました。たしかに本線路の勾配は百分の一を限度とし、かつ一般の組織は極めて質素軽便主義を採り、専ら虚飾を去り、実用を旨とする方針であることをもって、本額は余りはあっても不足はないものと確信します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
調査主任　岸　真次郎  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(星野重光氏所蔵)  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献・注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:計画されていた鉄道路線|きようえつてつとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>テンプレート:鉄道</title>
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		<updated>2026-05-03T13:14:36Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 旧[[新座郡]]エリア付近の[[鉄道路線]]・駅&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]&#039;&#039;&#039;（[[東上鉄道]]）&lt;br /&gt;
**[[柳瀬川駅]] - [[志木駅]] - [[朝霞台駅]] - [[朝霞駅]]（[[膝折駅]]） - [[和光市駅]]（[[にいくら駅]]→[[新倉駅]]→[[大和町駅]]）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;東京メトロ [[有楽町線]]・[[副都心線]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[和光市駅]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;JR[[武蔵野線]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[新座貨物ターミナル駅]] - [[新座駅]] - [[北朝霞駅]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[西武池袋線]]&#039;&#039;&#039;（[[武蔵野鉄道]]）&lt;br /&gt;
** [[清瀬駅]] - 東久留米駅 - [[ひばりヶ丘駅]]（[[田無町駅]]） - [[保谷駅]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[西武新宿線]]&#039;&#039;&#039;（[[川越鉄道]]・[[西武村山線]]）&lt;br /&gt;
**[[西武柳沢駅]] - [[東伏見駅]]（[[上保谷駅]]）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;JR中央線&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**（武蔵関駅）&lt;br /&gt;
;計画されていた路線&lt;br /&gt;
*[[中武鉄道]] / [[毛武鉄道]] / [[川越鉄道#延長線不許可|川越鉄道延長線]] / [[京越鉄道]]&lt;br /&gt;
*[[村山軽便鉄道]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東武高島平線]]&#039;&#039;&#039;（都営地下鉄三田線）&lt;br /&gt;
**大和町駅 - [[新倉駅 (東武高島平線)|新倉駅]] - [[吹上観音駅]] - 三園町駅（西高島平駅）&lt;br /&gt;
;計画線&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;東京メトロ[[大江戸線延伸計画]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
** 東所沢駅 - 清瀬北部駅 - [[新座中央駅]] - [[大泉学園町駅]] - [[大泉町駅]] - 土支田駅&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
* [[日本鉄道史]]（大正十年）&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=297</id>
		<title>中武鉄道</title>
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		<updated>2026-05-03T13:11:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;中武鉄道&#039;&#039;&#039;は、[[東上鉄道]]に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）に[[川越鉄道]]が川越～国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、中武鉄道株式会社という名称で二種類の計画が存在したようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは、明治二十八年（1895年）4月6日に創立請願書が出された中武鉄道株式会社である。『志木市史　通史編』（近代　第3章　資本主義の発展と地域社会）によれば、「東京市万世橋から埼玉県の志木町、川越町、松山町、児玉町、群馬県の藤岡町などを経て高崎に達する路線として、中武鉄道の敷設が企てられた。資本金は260万円、発起人は東京市京橋区の中沢彦吉外11名であった」とある。当サイトではこちらを「中武鉄道A」と仮称する。&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史 近代史料編』『志木市史 通史編』、老川慶喜『埼玉鉄道物語』日本経済評論社,2011&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つは、明治二十八年（1895年）8月20日に芝区の高安象次郎ほか13名により請願が行われた中武鉄道株式会社である。これは大宮停車場～所沢村～拝島村～八王子停車場を結ぶ計画である。このルートは、八王子鉄道会社と一部重なるものであった。当サイトではこちらを「中武鉄道B」と仮称する。&amp;lt;ref&amp;gt;白田勝美「[https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/187 明治中期埼玉県内私設鉄道敷設計画について－第二次鉄道熟期と「幻の鉄道」－]」『埼玉県立文書館　書館紀要第6号』埼玉県立文書館,1992年&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どちらの計画も実現には至らなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、明治三十四年（1901年）開業・大正六年（1917年）廃止となった「中武馬車鉄道」（入間馬車鉄道停車場～青梅駅）は別会社である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
*明治二十八年（1895年）&lt;br /&gt;
**4月6日：中武鉄道（A）の創立請願書が出される。&lt;br /&gt;
**8月20日：中武鉄道（B）の創立請願書が出される。&lt;br /&gt;
**12月2日：志木町の西川武左衛門ほか139名が「中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願」を提出（A）&lt;br /&gt;
**12月4日：宗岡村の萩島万歳ほか351名が「中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願」を提出（A）&lt;br /&gt;
**12月7日：新河岸川舟運の福田屋ほか48名が「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出（A）&lt;br /&gt;
*明治二十九年（1896年）7月：中武鉄道株式会社創立発起認可願を申請（B）。しかし、その後却下される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書（A）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、現代語訳は[[User:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]による。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道創立請願書===&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　通史編』に引用された原文を現代語訳&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉ります。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴（よく肥えている）で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていました。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っています。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばなりません。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区（区域）をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかありません。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じます。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「この請願書に添付して提出された起業目論見書によると、中武鉄道会社の資本金(鉄道敷設費予算)は二六〇万円で、収支子算は、営業収入三八万八一二〇円(乗客収入二二万一七四〇円、貨物収入一六万六三八〇円)、営業費総額一五万九二四八円で、純益金は五万九二四八円と目論まれていた。」（『志木市史　通史編　下』p.147）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木町から中武鉄道会社の敷設を要請する請願書===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願&#039;&#039;&#039;（埼玉県行政文書 明一七四七）&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　近代資料編』をもとにして現代語訳&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私どもは謹んで連署をもって請願奉ります。元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかるところ、今般、東京及び地方有志者の発起で中武鉄道株式会社創立の計画があり、その線路は我々ども積年の希望のごとく、東京より志木、川越、松山、児玉、藤岡を経て高崎に至るものであり、東京の中心から上州の要衝である高崎との連絡を近接させて、大体において線路の配置がよろしいものであるのみならず、武州の中心を通過し、その経過する地方は人口稠密で物産が豊饒であり、すなわち今の利益があるだけにとどまらず、永遠に地方開発の効果が絶大であること信じております。この鉄道工事がひとたび成れば、我々ども多年遺憾に存じながらもとうていその目的を達することが難しかった荒川以西の産業・人事の開発もたちまち変わるでしょう。このことを申し上げる機会は、地方の幸福に過ぎるものはない次第でございます。元来、西武は一般に米麦および雑穀の産出はすこぶる巨額であり、ことに養蚕業については古来開けており、製糸紡績の事業は一年にますます増殖しております状況につき、この際、一旦鉄道が開通するに至れば、その進歩は今日の20倍に至るであろうことは必然でございます。加えて、広く武州全体の利益より申しても、河東河西の進歩を平均させ、今日半身不随の傾向を強制するのは最も急務であります。進んで、上武連絡の上からしても、最近最も早い線路の配置が適切に行われれば、この線路に過ぎるものはないと存じておりますので、なにとぞこの線路敷設のことを支給五人か下されたく、我々どもの宿望をお伝えいたしたく、一地方の状況に過ぎないとはいえ、沿道人民一般の熱望するところであります。一応切望の旨の趣旨を開陳し、支給発起人等の願いの旨をお伝えして、地方尋問の輿望をお伝えしたく、ここに連署をもって慎んで請願つかまつります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月2日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県新座郡志木町164番地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西川武左衛門（以下略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===宗岡村から中武鉄道会社の敷設を要請する請願書===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願&#039;&#039;&#039;（埼玉県行政文書 明一四七四）&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史通史編下』pp.148-149から現代語訳&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元来、武州中部地方の地味は豊腴、物産は豊饒であって、東京に接近しているのにもかかわらず、産業人事の発達ははかばかしくなく、地方一般はまことに遺憾に存じておりましたところ、今般、東京及び地方融資者の発起にて中武鉄道株式会社創立の計画がありました。その線路は我々ども積年の希望のとおり、東京から志木・川越・松山・児玉・藤岡を経て高崎に至るものであります。東京の中心から上州の要衝である高崎を最も近いルートで連絡して、大体において線路の配置がよろしきを得ているのみならず、武州の中心を経過して、経過する地方は人口稠密、物産豊饒で、つとに即今の利益があるにとどまらず、永遠に地方開発の効益は莫大であります。我々ども多年にわたって遺憾に存じておりましたところ、今回、中武鉄道が落成しましたら荒川以西の産業人事の開発もひとえにこの線路の開通によって達し申すべき地方一般の幸福に過ぎざる次第にございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社線路急設請願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月7日、新河岸川船運の船問屋・福田屋十代当主星野仙蔵ほか48名が、通信大臣白根専一宛に「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出した。&amp;lt;ref&amp;gt;ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館『第20回特別展　東上線の開通と上福岡駅　－舟運の終末から鉄道へ－』2005年11月&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「元来、中武地方の地味は豊腴（ホウユ＝肥沃）であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四～五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京と近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===鉄道会議議事速記録===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本願線路の大部分は諮詢第191号　[[毛武鉄道]]株式会社発起人、および諮詢第194号　武州鉄道株式会社発起人に敷設を許可すべき各線路の一部と方向を同じくし、その他の線路は鉄道敷設の必要を認めない。&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史通史編下』p.149&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書（B）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社創立願書（抄）===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社創立発起認可願&#039;&#039;&#039;（明治二十九年七月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今般、埼玉県武蔵国北足立郡大宮駅から同郡大和田町に至り、一つは入間郡所沢[[川越鉄道]]線に連続し、一つは大和田町から甲武鉄道線境停車場を経て官設川崎駅停車場に連続する、合計36マイル半の鉄道を敷設し、運輸の業をなし、公私の利便を起したく、すなわち明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例に基づいて、別紙書類を添えて捧げますので、許可くだされたく、このことを願い奉るものであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社創立発起人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十九年7月　発起人連署&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社起業目論見書===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*第一　本会社は株式組織とする&lt;br /&gt;
*第二　本会社は鉄道を布設し、旅客荷物運輸の業を営むことを目的とする&lt;br /&gt;
*第三　本会社は中武鉄道株式会社と称し、本社を東京市に設置する&lt;br /&gt;
*第四　本会社の鉄道路線は[[埼玉県]][[北足立郡]]大宮駅、既設日本鉄道株式会社停車場附近を起点とし、同郡与野町、同郡大久保村、同郡荒川羽根倉渡船場の下流東南を横断し、入間郡[[宗岡村]][[新河岸川]]を横断、北足立郡[[志木町]]、[[大和田町]]、東京府下北多摩郡清戸で[[柳瀬川]]を渡り、直線で入間郡下荒井を経て、既設の[[川越鉄道]]株式会社所沢町停車場に連続する。その間およそ13マイル半。および、一つは北足立郡[[大和田町]]から南方に向かい、同郡[[保谷村]]、東京府下北多摩郡田無町甲武鉄道株式会社境停車場に接続し、そこから井口深大寺布田駅、和泉溝口小田中平間、官設鉄道川崎停車場に連続する。この間およそ23マイル。合計36マイル半。軌道幅員はすべて官線に準拠する。線路は別紙略図のとおり。&lt;br /&gt;
*第五　本会社の資本は金150万円とし、これを3万株に分かち、一株の金額を50円とする&lt;br /&gt;
*第六　鉄道布設費および運輸営業の収支概算は以下の通り&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　鉄道布設費概算&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
一　金150万円　建設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　内訳&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3500円　測量及土木監督費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9万7000円　用地費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金20万円　土工費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金42万円　橋梁費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3000円　コルベルト費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金35万円　軌道費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金1万3000円　伏樋費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万円　停車場費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金7500円　諸建築費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金15万5000円　汽鑵車及車両費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万6500円　運送費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用汽車費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2000円　柵垣及境界標杭費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金4500円　電線架設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用具費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万円　総掛費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金10万円　予備費&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献・注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:計画されていた鉄道路線|ちゆうふてつとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=296</id>
		<title>テンプレート:鉄道</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=296"/>
		<updated>2026-05-03T13:05:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 旧[[新座郡]]エリア付近の[[鉄道路線]]・駅&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]&#039;&#039;&#039;（[[東上鉄道]]）&lt;br /&gt;
**[[柳瀬川駅]] - [[志木駅]] - [[朝霞台駅]] - [[朝霞駅]]（[[膝折駅]]） - [[和光市駅]]（[[にいくら駅]]→[[新倉駅]]→[[大和町駅]]）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;東京メトロ [[有楽町線]]・[[副都心線]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[和光市駅]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;JR[[武蔵野線]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[新座貨物ターミナル駅]] - [[新座駅]] - [[北朝霞駅]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[西武池袋線]]&#039;&#039;&#039;（[[武蔵野鉄道]]）&lt;br /&gt;
** [[清瀬駅]] - 東久留米駅 - [[ひばりヶ丘駅]]（[[田無町駅]]） - [[保谷駅]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[西武新宿線]]&#039;&#039;&#039;（[[川越鉄道]]・[[西武村山線]]）&lt;br /&gt;
**[[西武柳沢駅]] - [[東伏見駅]]（[[上保谷駅]]）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;JR中央線&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**（武蔵関駅）&lt;br /&gt;
;計画されていた路線&lt;br /&gt;
*[[川越鉄道#延長線不許可|川越鉄道延長線]] / [[中武鉄道]] / [[毛武鉄道]] / [[京越鉄道]]&lt;br /&gt;
*[[村山軽便鉄道]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東武高島平線]]&#039;&#039;&#039;（都営地下鉄三田線）&lt;br /&gt;
**大和町駅 - [[新倉駅 (東武高島平線)|新倉駅]] - [[吹上観音駅]] - 三園町駅（西高島平駅）&lt;br /&gt;
;計画線&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;東京メトロ[[大江戸線延伸計画]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
** 東所沢駅 - 清瀬北部駅 - [[新座中央駅]] - [[大泉学園町駅]] - [[大泉町駅]] - 土支田駅&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
* [[日本鉄道史]]（大正十年）&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=295</id>
		<title>川越鉄道</title>
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		<updated>2026-05-03T11:37:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;川越鉄道は、明治二十七年（1894年）に国分寺・久米川間、明治二十八年（1895年）3月21日に久米川・川越間が開通した。この路線は、現在の[[西武新宿線]]の一部および西武国分寺線の一部となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）には、川越から東京・万世橋までの延長線を出願している。この計画は不認可となるが、新河岸川舟運を鉄道に置き換えることを想定したこの計画はその後の[[中武鉄道]]・[[毛武鉄道]]などにも引き継がれ、[[東上鉄道]]において実現されることとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==川越鉄道の開通==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
川越鉄道は入間・高麗・比企の諸郡から既成鉄道に連絡しようとしたものであるが、日本鉄道会社線に接続するには荒川を渡る必要がある。一方、甲武鉄道会社（現在の中央線）に連絡する方が工事が容易であると考えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*明治二十三年（1890年）12月23日：発起人高麗郡柏原村増田忠順ほか38名は、川越を起点とし、入間川・所沢を経て国分寺に至り、甲武鉄道会社の線に連絡する川越鉄道会社を計画。距離は18マイル半、資本金は25万5000円である。&lt;br /&gt;
*明治二十四年（1891年）4月：仮免状下付&lt;br /&gt;
*明治二十五年（1892年）&lt;br /&gt;
**6月21日：免許状下付。&lt;br /&gt;
**8月：会社の本社を川越町に置く。&lt;br /&gt;
*明治二十六年（1893年）：工事に着手。ただし、この工事は甲武鉄道会社に委託している。&lt;br /&gt;
*明治二十七年（1894年）12月21日：国分寺・久米川間（5マイル）が開通。久米川に仮停車場を置く。&lt;br /&gt;
*明治二十八年（1895年）&lt;br /&gt;
**3月21日：久米川・川越間（43マイル40チェーン）が開通、久米川にあった仮停車場を撤去した。&lt;br /&gt;
**8月：東村山停車場開業&lt;br /&gt;
*明治三十年（1897年）11月14日：南大塚停車場開業&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===川越鉄道の駅===&lt;br /&gt;
◆は明治二十七年の開通時の駅、★は明治二十八年3月21日の久米川・川越間開通時の駅。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 川越停車場★（現在の本川越駅）&lt;br /&gt;
** 南大塚停車場（明治三十年11月14日～）&lt;br /&gt;
* 入間川停車場★（現在の狭山市駅）&lt;br /&gt;
* 入曽停車場★&lt;br /&gt;
* 所沢停車場★&lt;br /&gt;
* 久米川仮停車場◆&lt;br /&gt;
** 東村山停車場（明治二十八年8月、久米川仮停車場から南寄りに開業）&lt;br /&gt;
* 小川駅◆&lt;br /&gt;
* 国分寺駅◆&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===延長線不許可===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八（1895年）年12月10日、川越鉄道会社 専務取締役から逓信大臣・白根専一宛に提出された「鉄道線路延長願」で、川越から東京市万世橋に至る線路延長の免許を申請した。この路線は、後の[[東上鉄道]]に近い路線の計画であり、川越と東京を直結させるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「鉄道線路延長願」では、路線延長を必要とする理由について、以下のように述べている（現代語訳：[[User:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:　弊社鉄道については甲武鉄道線国分寺駅より埼玉県入間郡川越町に達する18哩半であり、開業以来日に日にだんだん旺盛の状態を呈しており、沿線地方もまた急速に物産需給が頻繁になっております。そして、川越は埼玉県下の枢要な地区であり、物貨集散の中心であります。しかし、弊社鉄道は川越にとどまっておりますので、同地方の貨物を東京に運送したり、東京から同地方に運送しようとすると、弊社線および甲武線35マイルあまりを迂回せざるを得ません。そうでなければ牛馬の背または川舟に頼るほかありません。これは未だ同地方に充分な利便を与えることができていないということであり、公共事業上の遺憾は少なくありません。つきましては、弊社はつとに川越より大宮に通ずべき線路について踏査をタマしましたところ、その距離はわずか8マイルほどでありますが、共工費は非常に巨額を要し、収支はもとより償還できるとは申せません。このため、百方精査の末、さらに川越より駒林村・志木町・下新倉村・上板橋町などを経て大塚辻町より東京市内に入り、神田川に出て万世橋付近に至る一線を選定いたしました。すなわち、そのマイル数は22マイル間に延長線を布設し、もって益々この地方と東京間における運輸交通の利便を加え、永く公共事業の実を挙げ申したいという精神にてございます。この延長線は川越・東京間の最短距離であり、他日には中仙道および秩父方面へ連絡する線路を敷設いたしましたら、これらの線路に対し、東京に達する唯一の総合線となるであろうものであって、その利便は一層加わるものであると確信しております。要するに、右延長線を敷設することは、目前の公共の利便を増すのみならず、弊社の将来の利害を慮ってもまた益々必要なことであると奉り存じます。もし本線またはその比較並行の線路を他会社の所有に期するなどのことがありましたらならば、たちまち弊社の命脈の安危に関わりますので、何とぞ特別のご詮議をもって願意を至急ご認許いただき、仮免状をご下付くだされたく、本日9日株主臨時総会の決議に基づき別紙目論見書並びに略図をあい添え、この段を願い奉るものであります。（『鉄道会議議事速記録』第七回第一〇号、明治二十九年三月三十日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、翌二十九年（1896年）4月、難聴届（ききとどけがたし）の指令を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===甲武鉄道への営業委託===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十七年（1894年）12月以来、会社の営業を甲武鉄道株式会社に委託していた。会社の所在地も、明治二十八年（1895年）1月4日に東京市麹町区飯田町の甲武鉄道株式会社の構内に移した。営業委託契約は明治三十三年（1900年）12月施設鉄道法第26条により認可を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治三十九年（1906年）に甲武鉄道が国有になり、同年9月末日を限りとして委託契約を解いた。同時に会社も川越町に移転した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==会社の消滅==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正九年（1920年）、武蔵水電に吸収合併された。武蔵水田は、大正二年（1913年）に[[川越電気鉄道]]と合併しており、大正十年（1921年）には西武軌道も吸収合併している。大正十一年（1922年）、鉄道・軌道事業は新設の武蔵鉄道に譲渡されることとなったが、武蔵鉄道は[[西武鉄道]]と改称して設立された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和二十年（1945年）、[[武蔵野鉄道]]が西武鉄道・食糧増産を吸収合併し、西武農業鉄道に改称した。翌昭和二十一年（1946年）11月、現在の[[西武鉄道]]に改称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:過去の鉄道路線|かわこえてつとう]]&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=294</id>
		<title>中武鉄道</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=294"/>
		<updated>2026-05-03T11:28:40Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;中武鉄道&#039;&#039;&#039;は、[[東上鉄道]]に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）に[[川越鉄道]]が川越～国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、中武鉄道株式会社という名称で二種類の計画が存在したようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは、明治二十八年（1895年）4月6日に創立請願書が出された中武鉄道株式会社である。『志木市史　通史編』（近代　第3章　資本主義の発展と地域社会）によれば、「東京市万世橋から埼玉県の志木町、川越町、松山町、児玉町、群馬県の藤岡町などを経て高崎に達する路線として、中武鉄道の敷設が企てられた。資本金は260万円、発起人は東京市京橋区の中沢彦吉外11名であった」とある。当サイトではこちらを「中武鉄道A」と仮称する。&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史 近代史料編』『志木市史 通史編』、老川慶喜『埼玉鉄道物語』日本経済評論社,2011&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つは、明治二十八年（1895年）8月20日に芝区の高安象次郎ほか13名により請願が行われた中武鉄道株式会社である。これは大宮停車場～所沢村～拝島村～八王子停車場を結ぶ計画である。このルートは、八王子鉄道会社と一部重なるものであった。当サイトではこちらを「中武鉄道B」と仮称する。&amp;lt;ref&amp;gt;白田勝美「[https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/187 明治中期埼玉県内私設鉄道敷設計画について－第二次鉄道熟期と「幻の鉄道」－]」『埼玉県立文書館　書館紀要第6号』埼玉県立文書館,1992年&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どちらの計画も実現には至らなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
*明治二十八年（1895年）&lt;br /&gt;
**4月6日：中武鉄道（A）の創立請願書が出される。&lt;br /&gt;
**8月20日：中武鉄道（B）の創立請願書が出される。&lt;br /&gt;
**12月2日：志木町の西川武左衛門ほか139名が「中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願」を提出（A）&lt;br /&gt;
**12月4日：宗岡村の萩島万歳ほか351名が「中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願」を提出（A）&lt;br /&gt;
**12月7日：新河岸川舟運の福田屋ほか48名が「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出（A）&lt;br /&gt;
*明治二十九年（1896年）7月：中武鉄道株式会社創立発起認可願を申請（B）。しかし、その後却下される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書（A）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、現代語訳は[[User:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]による。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道創立請願書===&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　通史編』に引用された原文を現代語訳&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉ります。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴（よく肥えている）で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていました。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っています。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばなりません。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区（区域）をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかありません。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じます。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「この請願書に添付して提出された起業目論見書によると、中武鉄道会社の資本金(鉄道敷設費予算)は二六〇万円で、収支子算は、営業収入三八万八一二〇円(乗客収入二二万一七四〇円、貨物収入一六万六三八〇円)、営業費総額一五万九二四八円で、純益金は五万九二四八円と目論まれていた。」（『志木市史　通史編　下』p.147）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木町から中武鉄道会社の敷設を要請する請願書===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願&#039;&#039;&#039;（埼玉県行政文書 明一七四七）&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　近代資料編』をもとにして現代語訳&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私どもは謹んで連署をもって請願奉ります。元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかるところ、今般、東京及び地方有志者の発起で中武鉄道株式会社創立の計画があり、その線路は我々ども積年の希望のごとく、東京より志木、川越、松山、児玉、藤岡を経て高崎に至るものであり、東京の中心から上州の要衝である高崎との連絡を近接させて、大体において線路の配置がよろしいものであるのみならず、武州の中心を通過し、その経過する地方は人口稠密で物産が豊饒であり、すなわち今の利益があるだけにとどまらず、永遠に地方開発の効果が絶大であること信じております。この鉄道工事がひとたび成れば、我々ども多年遺憾に存じながらもとうていその目的を達することが難しかった荒川以西の産業・人事の開発もたちまち変わるでしょう。このことを申し上げる機会は、地方の幸福に過ぎるものはない次第でございます。元来、西武は一般に米麦および雑穀の産出はすこぶる巨額であり、ことに養蚕業については古来開けており、製糸紡績の事業は一年にますます増殖しております状況につき、この際、一旦鉄道が開通するに至れば、その進歩は今日の20倍に至るであろうことは必然でございます。加えて、広く武州全体の利益より申しても、河東河西の進歩を平均させ、今日半身不随の傾向を強制するのは最も急務であります。進んで、上武連絡の上からしても、最近最も早い線路の配置が適切に行われれば、この線路に過ぎるものはないと存じておりますので、なにとぞこの線路敷設のことを支給五人か下されたく、我々どもの宿望をお伝えいたしたく、一地方の状況に過ぎないとはいえ、沿道人民一般の熱望するところであります。一応切望の旨の趣旨を開陳し、支給発起人等の願いの旨をお伝えして、地方尋問の輿望をお伝えしたく、ここに連署をもって慎んで請願つかまつります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月2日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県新座郡志木町164番地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西川武左衛門（以下略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===宗岡村から中武鉄道会社の敷設を要請する請願書===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願&#039;&#039;&#039;（埼玉県行政文書 明一四七四）&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史通史編下』pp.148-149から現代語訳&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元来、武州中部地方の地味は豊腴、物産は豊饒であって、東京に接近しているのにもかかわらず、産業人事の発達ははかばかしくなく、地方一般はまことに遺憾に存じておりましたところ、今般、東京及び地方融資者の発起にて中武鉄道株式会社創立の計画がありました。その線路は我々ども積年の希望のとおり、東京から志木・川越・松山・児玉・藤岡を経て高崎に至るものであります。東京の中心から上州の要衝である高崎を最も近いルートで連絡して、大体において線路の配置がよろしきを得ているのみならず、武州の中心を経過して、経過する地方は人口稠密、物産豊饒で、つとに即今の利益があるにとどまらず、永遠に地方開発の効益は莫大であります。我々ども多年にわたって遺憾に存じておりましたところ、今回、中武鉄道が落成しましたら荒川以西の産業人事の開発もひとえにこの線路の開通によって達し申すべき地方一般の幸福に過ぎざる次第にございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社線路急設請願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月7日、新河岸川船運の船問屋・福田屋十代当主星野仙蔵ほか48名が、通信大臣白根専一宛に「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出した。&amp;lt;ref&amp;gt;ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館『第20回特別展　東上線の開通と上福岡駅　－舟運の終末から鉄道へ－』2005年11月&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「元来、中武地方の地味は豊腴（ホウユ＝肥沃）であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四～五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京と近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===鉄道会議議事速記録===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本願線路の大部分は諮詢第191号　[[毛武鉄道]]株式会社発起人、および諮詢第194号　武州鉄道株式会社発起人に敷設を許可すべき各線路の一部と方向を同じくし、その他の線路は鉄道敷設の必要を認めない。&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史通史編下』p.149&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書（B）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社創立願書（抄）===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社創立発起認可願&#039;&#039;&#039;（明治二十九年七月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今般、埼玉県武蔵国北足立郡大宮駅から同郡大和田町に至り、一つは入間郡所沢[[川越鉄道]]線に連続し、一つは大和田町から甲武鉄道線境停車場を経て官設川崎駅停車場に連続する、合計36マイル半の鉄道を敷設し、運輸の業をなし、公私の利便を起したく、すなわち明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例に基づいて、別紙書類を添えて捧げますので、許可くだされたく、このことを願い奉るものであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社創立発起人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十九年7月　発起人連署&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社起業目論見書===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*第一　本会社は株式組織とする&lt;br /&gt;
*第二　本会社は鉄道を布設し、旅客荷物運輸の業を営むことを目的とする&lt;br /&gt;
*第三　本会社は中武鉄道株式会社と称し、本社を東京市に設置する&lt;br /&gt;
*第四　本会社の鉄道路線は[[埼玉県]][[北足立郡]]大宮駅、既設日本鉄道株式会社停車場附近を起点とし、同郡与野町、同郡大久保村、同郡荒川羽根倉渡船場の下流東南を横断し、入間郡[[宗岡村]][[新河岸川]]を横断、北足立郡[[志木町]]、[[大和田町]]、東京府下北多摩郡清戸で[[柳瀬川]]を渡り、直線で入間郡下荒井を経て、既設の[[川越鉄道]]株式会社所沢町停車場に連続する。その間およそ13マイル半。および、一つは北足立郡[[大和田町]]から南方に向かい、同郡[[保谷村]]、東京府下北多摩郡田無町甲武鉄道株式会社境停車場に接続し、そこから井口深大寺布田駅、和泉溝口小田中平間、官設鉄道川崎停車場に連続する。この間およそ23マイル。合計36マイル半。軌道幅員はすべて官線に準拠する。線路は別紙略図のとおり。&lt;br /&gt;
*第五　本会社の資本は金150万円とし、これを3万株に分かち、一株の金額を50円とする&lt;br /&gt;
*第六　鉄道布設費および運輸営業の収支概算は以下の通り&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　鉄道布設費概算&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
一　金150万円　建設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　内訳&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3500円　測量及土木監督費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9万7000円　用地費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金20万円　土工費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金42万円　橋梁費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3000円　コルベルト費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金35万円　軌道費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金1万3000円　伏樋費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万円　停車場費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金7500円　諸建築費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金15万5000円　汽鑵車及車両費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万6500円　運送費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用汽車費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2000円　柵垣及境界標杭費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金4500円　電線架設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用具費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万円　総掛費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金10万円　予備費&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献・注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:計画されていた鉄道路線|ちゆうふてつとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AF%9B%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=293</id>
		<title>毛武鉄道</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AF%9B%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=293"/>
		<updated>2026-05-03T11:03:42Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;毛武鉄道&#039;&#039;&#039;は、[[東上鉄道]]に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）に[[川越鉄道]]が川越～国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。毛武鉄道もその一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛武鉄道は、東京市の久能木宇兵衛らを発起人として明治二十八年（1895年）8月1日に設立認可の請願が行われた。東京市小石川区富坂町付近から栃木県足利町に至る路線の建設を計画したものである。路線の趣旨としては、北関東の養蚕・製糸・織物業地帯を東京・横浜と連絡させるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この計画をめぐって、志木町と大和田町が対立している。当初の大和田を経由する予定線から、志木町経由の実測線に変更された。これに対して、大和田町・膝折町・新倉町・三芳町・大井村・仙波村・川越町の沿線住民が不認可願を提出している。一方、志木町などの住民から、反論の請願が出された。これは、川越街道沿いの町村と、新河岸川舟運で栄えた志木町との対立であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれにせよ、毛武鉄道は日露戦争後の経済不況のため、実現はしなかった&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　近代資料編』第三節　鉄道の計画と地域交通の変化（p309）では「その後、毛武鉄道は実測線を決定線として路線建設を図るが、明治二十九年（一八九六）三月の鉄道会議で却下されることになった。」とある。これは時系列が前後してしまうため、誤記と考えられる。明治二十九年の鉄道会議では、一部を除き仮免状が下付されており、その後の経済不況で実現しなかったというのが正しい情報と考えられる。&amp;lt;/ref&amp;gt;が、[[東上鉄道]]の先駆的な計画となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*明治二十八年（1895年）8月1日：設立認可願が出される。&lt;br /&gt;
*明治二十九年（1896年）&lt;br /&gt;
**3月：鉄道会議で、中板橋～富阪町間を除き、仮免状が下付される。&lt;br /&gt;
**8月14日：川越街道沿道の住民が「毛武鉄道株式会社改正線路不認可願」を提出。実測線に反対し、予定線どおりに建設することを希望。&lt;br /&gt;
**10月30日：「毛武鉄道株式会社設立免許申請書」提出。この書類では予定線から実測線に変更。&lt;br /&gt;
**10月30日：志木町の住民らが「毛武鉄道株式会社実測線路認可請願」を提出。予定線に反対し、実測線に従って建設することを希望。&lt;br /&gt;
*明治三十二年（1899年）&amp;lt;ref&amp;gt;以下の情報は『[[日本鉄道史]]』による。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
**5月15日：経済不況のため、事業廃止を決定し、解散。&lt;br /&gt;
**8月：久能木宇兵衛らが再起、板橋から川越を経て足利に至る路線を布設しようとする。&lt;br /&gt;
*明治三十三年（1900年）5月：毛武鉄道に対し、仮免状が下付される。&lt;br /&gt;
*明治三十五年（1902年）5月：指定期限内に免許状下付を申請しなかったため、仮免状の効力を失う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書現代語訳==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、『志木市史　近代資料編』にもとづき、[[User:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]が現代語訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===毛武鉄道株式会社設立認可願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私ども、今般、東京市小石川区富坂町近傍を起点とし、巣鴨・池袋を経て日本鉄道品川線を上板橋において横断し、下板橋に出て下練馬を経て埼玉県白子に至り、それから旧川越街道に沿って大和田・大井を川越町に入り、川越線との連絡を通じ、更に進んで中山・松山・大谷を経て熊谷に至り、ここで再び日本鉄道第一区線を貫通し、そこからまた奈良妻沼を経て群馬県太田に出て、最後に栃木県足利町に達して終わる、約延長57マイル間に鉄道を布設し、旅客・貨物の運輸業を営むという目的をもって毛武鉄道株式会社を設立いたしたく、何卒御認可くだされたく、よって明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例第一条第二条により、別紙書類を添えて発起人一同連署にてこのことを願い奉りそうろうなり &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）8月13日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛武鉄道株式会社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
発起人 &lt;br /&gt;
* 東京市日本橋区室町三丁目五番地　久能木宇兵衛（印）&lt;br /&gt;
*同市同区馬喰町三丁目六番地　大河原毎太郎（印）&lt;br /&gt;
*東京府南豊嶋郡淀橋町元柏木村八百九十五番地　伊藤茂右衛門（印）&lt;br /&gt;
*茨城県猿島郡八俣村大字東山田弐百壱番地　初見敬二郎（印）&lt;br /&gt;
*茨城県猿島郡八俣村大字東山田百四十六番地　初見八郎（印）&lt;br /&gt;
*東京市日本橋区富沢町壱番地　横山五兵衛（印）&lt;br /&gt;
*東京市日本橋区薬研堀町三十番地　横山寅次郎（印）&lt;br /&gt;
*東京南小田原町四丁目壱番地　森岡昌純（印）&lt;br /&gt;
*東京市京橋区三拾間堀町三丁目六番地　原猪作（印）&lt;br /&gt;
*東京小石川武嶋町二十七番地　中江篤介（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逓信大臣渡辺国武殿（『鉄道院文書』国立公文書館蔵）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===毛武鉄道株式会社改正線路不認可願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛武鉄道株式会社は明治二十八年八月十三日付をもって発起人連名の上、鉄道敷設に件を出願し、その後、鉄道会議において決議の上、上仮免状下付の御命令になりました。その経過線路は出願書および付属図に記載してあるとおり、東京市小石川区富坂町近傍を起点とし、巣鴨・池袋を経て日本鉄道品川線を上板橋駅において横断し、下板橋に出て下練馬を経て埼玉県下白子に至り、そこから旧川越街道に沿って大和田・大井を川越町に入り、川越線との連絡を通し、さらに進んで栃木県下足利町に達して終わる計画であり、その経過の概況は別紙甲号図（すなわち、当該会社が出願の際に添付したもの）のとおり、旧川越街道というものに標準を取っていることもまた明らかなことと存じ奉ります。これを乙号図と比べると、この線路の川越町に至るまでは乙号図イ～ロ線に該当するものでございます。しかし、会社がさきに東京府知事ならびに埼玉県知事から許可を得た線路実測の行為をみますと、甲号図に依拠したのではなく、遠くその東部に位置する乙号図イ～ハ線を実測し、仮免許を得た線路はおいて問わない有り様でございます。このことからはほぼ会社の意向を知ることができるものであり、会社の意向はむしろこの実測線路によろうとするものであると存じ奉ります。これについて、願い出た者らの村方からみれば、願い出た者らの予想どおり、会社が実測線において鉄道敷設をなすならば、村々人民に非常な迷惑を引き起こすだけでなく、国家公益の点からみても、また会社存立の点からみても、実測線路が極局不利益であることは明白であるため、以下にその事実を陳述いたします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　実測線路である乙号図イ～ハ線の近くには、願い出た者らの村方の人民が有する熟田が一面に存在する個所であり、これらの村民は僅かに耕作のために衣食しているものであります。この付近一帯の地所は従来、低湿な地であるのみならず、ここに沿って荒川・柳瀬川・新河岸川が存在しているため、常に田面に浸水停滞し、排水の道がないため、折角秋実の見込ある禾穀を腐朽させてしまうことはほぼ毎年の出来事であります。ゆえに、村民らにおいても、しきりに排水の方法を講じておりますが、どうしても前記のような地勢であるため、その工事が困難であることと費用がおびただしいことに苦しみ、今日まで推移している次第でございます。それなのに、いよいよ右会社が実測線に沿って鉄道布設をなし、堤塘の建築、橋梁の架設を行った場合は、村民らがせっかく苦心した疏水の念慮もついに断絶しなければならない情況に至るのみならず、米穀の浸潤・朽腐はますますその頻度を高め、村民の惨害は言うに忍びない様相となって苦慮することになるでしょう。ことに柳瀬川は毎年出水氾濫の恐れがあります。そのため多数の田面を害することは近隣人民の熟知する次第でございます。ことに、仙波・大井においては俗に野水と称し、霧雨降下の際には多量の水が地中に浸入したり、田畑に氾濫したりして、降雨が止んだあとでも永く停水して田畑を害することが甚だしく、かつ、その際には地中の所々から湧水し、とうていこれを治める方法はなく、地方人民にとって一大危難として常に憂慮しているところですが、万一実測線に堤防などの建設があるときはその頻度はますます高まり、惨害はまた言いようのない様相になるはずであると申し上げます。なお、仮免許線によるときは常に水害の恐れある柳瀬川の上流を通過するため、その線に当たって堤防建築しても推量はやや少ないところなので、川水氾濫のおそれは、これを実測線のある同じ川の下流に沿って堤防を建設する危害に比べれば、その利害は智者の言葉を待たなくてもわかります。水流が多い川の下流に氾濫する危害が甚だしいのは普通のことわりに照らしても明らかなことであると恐れながら察しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　実測線は先に鉄道会議において否決された南北中央線に該当する箇所なので、この実測線を毛武線の確定線とすれば、一旦不認可となった線路に向かってまたもや御認可を与えられるという奇怪な現象が現れることになってしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　乙図イ～ロ線、すなわち仮免許線によるときは、旧川越街道であるため、線路に沿って人煙稠密でありますが、その家屋はことごとく道路に沿って存在するため、この線（すなわち人家存在の裏手）によって鉄道布設されることになりますが、そのために人家を毀壊し、人民住居の移転などをする憂いは少ないにもかかわらず、実測線によるときは三々五々建っている多数の部落の人家を毀壊し、多年住み慣れた住居とその耕作の事業とを放棄しなければならない不幸な人民を多数生み出すことは、実地の状況にてらして争わないことであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　いうまでもなく実測線によるときは、当該会社出願の線路中に存在する下練馬村・大和田町などはまったくその地内を通過しないこととなるため、いよいよ実測線をもって確定線とするときは、会社出願の趣旨にももとりますし、仮免許の精神にも合わない不法の線路を申請させることとなります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　これを貨物集散の点からみても、これまで大井・大和田・膝折・白子およびその付近の地から生産した産物は、これを荷車または馬車などにより東京その他の地に運搬するか、あるいはこれを志木に出し、同地から荒川舟楫の便をもって各地に運送するというすこぶる不便な方法によるものでありましたが、会社の出願線、すなわち乙図イ～ロ線において鉄道を敷設したときは、これらの貨物はことごとく鉄道の便により直接、東京その他付近の地に搬出できる利益があるにもかかわらず、実測線に拠るときは従来のように一応志木付近に搬出し、その後、鉄道または船便にゆだねることとなり、鉄道敷設によって何ら新たな利益を生ずることがないと恐れながら察しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、実測線によるときは有名な新倉村の村社を毀壊し、その立木を伐採し、膝折村の旧跡である荒沢滝不動尊堂宇なども毀壊しなければならなくなり、ただ地方の風致を害するだけでなく、人民信仰のことにも影響し、曖昧な地方人民にはそのため一種の感情を若起するようになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　くわえて、この地形上からみましても、仮免許線は川越鉄道線と日本鉄道線との中央に位置し、その距離もまた相互に十マイル以上を隔てているために鉄道布設の精神にも合っていますが、実測線によるときは、二本鉄道線とはわずかに数マイルを隔てており、その距離が接近しているため、その利益を得る範囲も狭少となり、鉄道敷設の精神に背くことと存じます。仮免許線によるときは、線路に該当する収用の土地はことごとく畑地・山林であるため、会社における買収の費用も少なく、なおその土地もまた平坦であるため、設計が容易ですが、実測線によるときは一面に熟田を填充させるため、買収の費用も増加し、土地もまた凸凹がはなはだしいため、工事経営にも困難を来たすはずであると存じます。そのため、会社経済にとっても、仮免許線による方が得策と存じ奉ります。そのマイル数を比較しても、仮免許線は実測線に比べてわずかの差があるだけなので、この点はいずれにしても大きな影響はないものと存じております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　なお、仮免許線によれば、毛武鉄道線と川越線とはそれぞれ連絡し（当該会社出願書にあるとおり）旅客の便利および荷物運搬の便にもなりますが、実測線によれば両線路の間に数町の間隔を生じ、そのため不便を感ずるのはもちろん、川越町小学校はまさに実測線路に沿うこととなり、日々通学する数多の幼童がレールを横断しなければなることとなり、危険であることはいうまでもないのはもちろん、父兄の憂慮もまた配慮しなければならず、したがって地方教育上にも大きな影響を生じるようになるだろうと痛心しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の次第につき、いよいよ毛武鉄道株式会社が実測線をもって鉄道敷設の確定線といたされましたら、地方人民の惨害は言うべきではない次第であり、なお国家公益上にも大きな影響を生じることをお察しいただきたく、情状ご賢察の上、当該会社が実測線をもって確定線路となすことは御認可なさらないよう、連署をもってこのことを願い奉ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十九年（1896年）8月14日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*埼玉県北足立郡大和田町  金子峰吉　外135名&lt;br /&gt;
*同県北足立郡膝折村  大畑少輔　外35名&lt;br /&gt;
*同県北足立郡新倉村  鈴木太郎八　外66名&lt;br /&gt;
*同県入間郡三芳町  松本長次　外17名&lt;br /&gt;
*同県入間郡大井村　関野伝次郎  外50名&lt;br /&gt;
*同県入間郡仙波村　福岡栄太郎　外23名&lt;br /&gt;
*同県入間郡川越町　印藤元右衛門　外136名  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逓信大臣白根専一殿&lt;br /&gt;
(『鉄道院文書』国立公文書館蔵) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===毛武鉄道株式会社実測線路認可請願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県北足立郡志木町外拾壱ケ町村　西川武左衛門外九百三拾四名  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;毛武鉄道株式会社実測線路認可請願&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛武鉄道株式会社は先に東京府下小石川区上富坂付近より栃木県下足利に至るべき鉄道を布設することを出願しました。そして、その経過地の一部分において、埼玉県白子村と川越町との間は旧川越街道に準拠して線路を布設するとの形式図でありましたが、その後、仮免状の御下付がありましてから、会社は技師を派出して線路の良否を選み、距離の遠近を計り、地方の便否と会社の収利とについて丁寧慎重に踏査を尽したところ、その結果、ついに東北に寄って布設するのが適当であることを発見し、大いに運輸交通の便益を発達させることを認め、出願の予定線を変えて白子村から内間木・志木・水谷・鶴瀬・福岡・高階などの各町村を経て川越町に達する測量を終え、その筋に向かって本免状下付のことを出願したとのこと。これは実に至当の措置であり、地方便益の点からみても、国家鴻益の点からみても、また会社収益の点からみても、まさに完全無欠・唯一無二の好線路というべきです。ところが、先の予定線に係っていた膝折・大和田・大井などの旧川越街道に接近するところの住民は地方の便否を顧みず、国家の鴻益に着目せず、会社が予定線を変じて東北に寄ったのを妬み、かつ自己の地を経過するか否かは個人の利害に大いに関係あるため、種々の虚欺の説を捏造し、またまったく事実に反する説を唱導して、実測線を不認可とされるよう請願したとのこと。このような誣言・妄説はもとより当局者の賢明を蔽う価値がないことはかたく信じて疑わないところではありますが、いささか事情を開陳して、この判明を仰ぐことをやむを得ない次第でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一 旧川越街道沿道の人民は、会社実測線に鉄道を布設するときは自己の所有地に水害を被ると称していますが、事実はまったくこれに反し、実測線の経過地はかえってことごとく私どもの地籍であって、すこしも反対者の地籍を通過しないという次第でございます。そうではありますが、仮に一歩譲って柳瀬川を横断するために水害を醸生することがあるというのも、単に実測線を取ったために起こることではございません。というのも、柳瀬川というのは西から東に向かって流れ下る一小川流であるため、水源まで遡らない限りはこの線路は到底これを横断しないわけにはいきません。そして、二者はいずれをとってもたかだか一里を隔てないところであり、水害についてあれこれ言うのは実に価値のない空論というべきです。ましてや実地について踏査するときは堤塘の状勢と、リバーベーズンとの形勢は、実測線地方がかえって大いに旧川越街道付近に優るものがあるものです。仮に数歩を譲って彼らの言うように鉄道布設のために排水の便を妨げ、米穀を朽腐させることがあるとしても、その損害を被るべき地方はすなわち私どもの沿道地方のみであって、1～2里を隔てた膝折・大和田・大井などの地方に及ぶことは決してないのは既往の事実にてらしても、現在の実況を踏査しても明確である次第でございます。このことからみれば、もしこのために彼らが言うような損害が発生することがあるとすれば、彼らは自ら好んでその害を歓迎するかのような奇怪な結果を生ずるものであり、前後矛盾の甚しいものと言わざるを得ません。それにもかかわらず、前に述べたように実測線沿道の地方には工事の設計がよろしきを得ており、被害の点はいささかも発見されないこと、また、交通・運輸の便利を計る鉄道に対して、たしかに予定線ではあるものの、距離が3マイルほど遠くなるというのに強いて予定線に布設しなければならないとするのであれば、国家の公益を無視するものと言わざるを得ません。そして、彼らと全然反対の結果として、柳瀬川・荒川・新河岸川に対しては実測の線路はその排水上、少しも関係のない良地を選択されているものであることは、私ども沿川住民が異口同音に賛成することであります。要するに、彼らが他地方の水害云々の証説を作為するのは、個人の希望を満足させようとする一つの奸策であって、その真意があるのは、ただただその線路を自己の居住地に寄らせようとの希望の一途にあるだけです。このため、水害云々はその希望を達しようとする一つの方便に用いられているものであるため、あえて信ずる価値がないものというべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　実測線に拠るときは、民家を毀壊し人民の居住を移転させるものといったり、神社・堂宇を毀つといったり、樹林の風致を害するといったりしていますが、これもまた事実に反する妄説というべきです。彼らが称する新倉村の村社や荒沢滝不動尊堂は線路から数百間隔てており、社殿堂宇を毀つ必要があるだけでなく、樹木の伐採をも要しない次第でございます。前に述べたとおりの状況であるため、もしこの鉄道が開通する日に至れば、あまねく各地方人士の視聴に触れ、その風致は鉄道のために広がり、それによって寒村僻地の神社仏閣も都の人士の参詣が増加して、かえって当該地の繁栄と地方の信仰を増加することこそあれ、彼らがいうような悪感情を惹起することは断じていささかもない次第でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　彼らはまた言います。一旦不認可となった南北中央線に該当すると言ったり、旧川越街道に依らず実測線を取るときは仮免状の精神に背戻すると言ったり、毛武線は当初川越線と連絡する計画であったのに実測線を見るときは数丁の間隔があると言ったり、旧川越街道に依るときは既設線・日本鉄道第一区線と川越鉄道との中間にあってその其両端の距離が適当であるのに、実測線に依るときは少なからず中間を失するため、鉄道布設の精神にもとると言ったりしています。 しかし、これまた弁駁する価値なく、かえって彼らの愚を証明するものといえます。そもそも鉄道布設拒否の権は第一に主務省の掌中にあります。これに向かって意見をすることは、もとより越権不遜の責を免れないというべきであります。そうして私どもの私見として考えるに、鉄道の布設というものは第一に起点と終点に重きを置き、その中間の経過地は大体においてできるだけ短距離を取るのが意味あるものとなるので、実測線が予定線に比べておよそ3マイルを短縮する利益があるのだから、そのうちの小さな一部分において、予定線によらず実測線を取るとしても、その地方運輸の利害と会社の経済とによって選定するものであるはずです。だとすれば、ある一部分の不認可となった他の会社の線路に該当する箇所があったとしても、不可ということではないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつ、実測線によるときは仮免許の精神にもとるといいますが、仮免許というものはそのように厳格な制裁を有するものでありましょうか。私どもがほのかに聞くところによれば、仮免許というものは会社が出願した線路の大体に向かって認許を与えられ、これを実地について測量踏査すべきために、仮に許可されたものであるとのこと。言いかえれば、仮免許は実地踏査を終えて、よい線路を選定して出願させるための一つの予備命令ともいうべきものであります。とすればある一つの小さな部分において予定線を変えて他の良線を取るのは、会社の自由であって、当局者といえどもあえてこれに干渉されるようなことはないことと信じております。既設線との距離を論ずるに至っては、実に現実離れの極みというべきです。もし既設線の妨害となるような憂いがあれば、たとえ仮免状であったとしても当局者は最初からこれに対して下付されるようなことはないはずです。しかし、白子・川越間わずか数里の間において一里内外の変更については、既設線に大きな関係がどうしてありましょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　彼らはまた線路に該当する土地買収および線路布設の費用について云々しているといえども、これまた大いに事実に反する点があるだけでなく、全然無用の余計な言葉であるというべきです。なぜならば、たとえ鉄道は一つの国家公共的事業であるといっても、一方に収益を企図して設計する会社がわざわざ不利な方向を取ることがあるでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一 実測線は川越小学校に近いことをもって鉄道開通の際に至って日々通学する数多の生徒が軌道を横断しなければならないことをもって、危険を正治、のべて地方教育に影響を及ぼすと称しておりますが、事実には合わない妄説というべきです。今、川越小学校と実測線との関係を略説すれば、校舎は市街の東端、旧川越城跡の大手門跡にあります。実測線は校舎の東、民家が稀少な部分を通過するものですので、数多くの生徒が往復するところというわけではありません。ですから、このような杞憂を抱く必要がありません。ましてや、危険を防ぐには数多の方法があるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　貨物集散の点について論及するに至っては、いよいよ彼らが馬脚を現した者というべきです。そもそも志木町は荒川の支流である新河岸川に接し、古来、中武地方枢要の良津であって、貨物の集散は繁盛烏を極め、地方第一の商業地であります。そして、彼らの膝折・大和田・大井などの諸村は、旧川越街道に沿い、茅屋が軒を並べて立っているものの、一商業地と称すべきものはなく、貨物の集散を見ることなく、単に一小農民の部落と称すべきであり、いささかも鉄道布設の必要をみない田舎の邑であるのに、一旦毛武会社が出した漠然とした形式図を見て、ある一派の人民が僥倖を万一に期してたくみに沿道の良民を煽動したため、犬が一日虚に吠えて、万の犬が実を伝え、付和雷同し、若干の調印を得、たことをもって当局者を煩わせたのでございます。たとえ両者同等の地位に立つとしても、生存競争は社会の常でありますから、私どもはどうしてだまって自己もその他の地も危機に瀕するのを待っていることができましょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の次第につき、私どもがこれを述べるのもよろしくないことですが、当局者におかれましては正確な調査をなされ、適切な許否を与えられたものでありますから、口を閉ざして今日まで黙しておりましたが、予定線沿道の住民の中に種々の口実を設けて運動する者がいるのを聞き、私どもはやむを得ず、実際の状況を述べて、実測線に認可を与えられますことを、ここに別紙図面を添え、謹んで請願つかまつります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十九年（1896年）10月30日  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県北足立郡志木町164番地&amp;lt;br&amp;gt;平民 西川武左衛門（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※以下略（埼玉行政文書　明2430）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* 白田勝美「[https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/187 明治中期埼玉県内私設鉄道敷設計画について－第二次鉄道熟期と「幻の鉄道」－]」『埼玉県立文書館　書館紀要第6号』埼玉県立文書館,1992年&lt;br /&gt;
* ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館『第20回特別展　東上線の開通と上福岡駅　－舟運の終末から鉄道へ－』2005年11月&lt;br /&gt;
* 老川慶喜『埼玉鉄道物語　鉄道・地域・経済』日本経済評論社,2011年&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:計画されていた鉄道路線|もうふてつとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=292</id>
		<title>中武鉄道</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=292"/>
		<updated>2026-05-03T11:00:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;中武鉄道は、[[東上鉄道]]に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）に[[川越鉄道]]が川越～国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、中武鉄道株式会社という名称で二種類の計画が存在したようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは、明治二十八年（1895年）4月6日に創立請願書が出された中武鉄道株式会社である。『志木市史　通史編』（近代　第3章　資本主義の発展と地域社会）によれば、「東京市万世橋から埼玉県の志木町、川越町、松山町、児玉町、群馬県の藤岡町などを経て高崎に達する路線として、中武鉄道の敷設が企てられた。資本金は260万円、発起人は東京市京橋区の中沢彦吉外11名であった」とある。当サイトではこちらを「中武鉄道A」と仮称する。&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史 近代史料編』『志木市史 通史編』、老川慶喜『埼玉鉄道物語』日本経済評論社,2011&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つは、明治二十八年（1895年）8月20日に芝区の高安象次郎ほか13名により請願が行われた中武鉄道株式会社である。これは大宮停車場～所沢村～拝島村～八王子停車場を結ぶ計画である。このルートは、八王子鉄道会社と一部重なるものであった。当サイトではこちらを「中武鉄道B」と仮称する。&amp;lt;ref&amp;gt;白田勝美「[https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/187 明治中期埼玉県内私設鉄道敷設計画について－第二次鉄道熟期と「幻の鉄道」－]」『埼玉県立文書館　書館紀要第6号』埼玉県立文書館,1992年&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どちらの計画も実現には至らなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
*明治二十八年（1895年）&lt;br /&gt;
**4月6日：中武鉄道（A）の創立請願書が出される。&lt;br /&gt;
**8月20日：中武鉄道（B）の創立請願書が出される。&lt;br /&gt;
**12月2日：志木町の西川武左衛門ほか139名が「中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願」を提出（A）&lt;br /&gt;
**12月4日：宗岡村の萩島万歳ほか351名が「中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願」を提出（A）&lt;br /&gt;
**12月7日：新河岸川舟運の福田屋ほか48名が「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出（A）&lt;br /&gt;
*明治二十九年（1896年）7月：中武鉄道株式会社創立発起認可願を申請（B）。しかし、その後却下される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書（A）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、現代語訳は[[User:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]による。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道創立請願書===&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　通史編』に引用された原文を現代語訳&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉ります。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴（よく肥えている）で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていました。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っています。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばなりません。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区（区域）をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかありません。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じます。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道会社の敷設を要請する請願書===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願&#039;&#039;&#039;（埼玉県行政文書 明一七四七）&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　近代資料編』をもとにして現代語訳した。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私どもは謹んで連署をもって請願奉ります。元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかるところ、今般、東京及び地方有志者の発起で中武鉄道株式会社創立の計画があり、その線路は我々ども積年の希望のごとく、東京より志木、川越、松山、児玉、藤岡を経て高崎に至るものであり、東京の中心から上州の要衝である高崎との連絡を近接させて、大体において線路の配置がよろしいものであるのみならず、武州の中心を通過し、その経過する地方は人口稠密で物産が豊饒であり、すなわち今の利益があるだけにとどまらず、永遠に地方開発の効果が絶大であること信じております。この鉄道工事がひとたび成れば、我々ども多年遺憾に存じながらもとうていその目的を達することが難しかった荒川以西の産業・人事の開発もたちまち変わるでしょう。このことを申し上げる機会は、地方の幸福に過ぎるものはない次第でございます。元来、西武は一般に米麦および雑穀の産出はすこぶる巨額であり、ことに養蚕業については古来開けており、製糸紡績の事業は一年にますます増殖しております状況につき、この際、一旦鉄道が開通するに至れば、その進歩は今日の20倍に至るであろうことは必然でございます。加えて、広く武州全体の利益より申しても、河東河西の進歩を平均させ、今日半身不随の傾向を強制するのは最も急務であります。進んで、上武連絡の上からしても、最近最も早い線路の配置が適切に行われれば、この線路に過ぎるものはないと存じておりますので、なにとぞこの線路敷設のことを支給五人か下されたく、我々どもの宿望をお伝えいたしたく、一地方の状況に過ぎないとはいえ、沿道人民一般の熱望するところであります。一応切望の旨の趣旨を開陳し、支給発起人等の願いの旨をお伝えして、地方尋問の輿望をお伝えしたく、ここに連署をもって慎んで請願つかまつります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月2日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県新座郡志木町164番地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西川武左衛門（以下略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社線路急設請願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月7日、新河岸川船運の船問屋・福田屋十代当主星野仙蔵ほか48名が、通信大臣白根専一宛に「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出した。&amp;lt;ref&amp;gt;ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館『第20回特別展　東上線の開通と上福岡駅　－舟運の終末から鉄道へ－』2005年11月&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「元来、中武地方の地味は豊腴（ホウユ＝肥沃）であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四～五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京と近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書（B）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社創立願書（抄）===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社創立発起認可願&#039;&#039;&#039;（明治二十九年七月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今般、埼玉県武蔵国北足立郡大宮駅から同郡大和田町に至り、一つは入間郡所沢[[川越鉄道]]線に連続し、一つは大和田町から甲武鉄道線境停車場を経て官設川崎駅停車場に連続する、合計36マイル半の鉄道を敷設し、運輸の業をなし、公私の利便を起したく、すなわち明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例に基づいて、別紙書類を添えて捧げますので、許可くだされたく、このことを願い奉るものであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社創立発起人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十九年7月　発起人連署&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社起業目論見書===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*第一　本会社は株式組織とする&lt;br /&gt;
*第二　本会社は鉄道を布設し、旅客荷物運輸の業を営むことを目的とする&lt;br /&gt;
*第三　本会社は中武鉄道株式会社と称し、本社を東京市に設置する&lt;br /&gt;
*第四　本会社の鉄道路線は[[埼玉県]][[北足立郡]]大宮駅、既設日本鉄道株式会社停車場附近を起点とし、同郡与野町、同郡大久保村、同郡荒川羽根倉渡船場の下流東南を横断し、入間郡[[宗岡村]][[新河岸川]]を横断、北足立郡[[志木町]]、[[大和田町]]、東京府下北多摩郡清戸で[[柳瀬川]]を渡り、直線で入間郡下荒井を経て、既設の[[川越鉄道]]株式会社所沢町停車場に連続する。その間およそ13マイル半。および、一つは北足立郡[[大和田町]]から南方に向かい、同郡[[保谷村]]、東京府下北多摩郡田無町甲武鉄道株式会社境停車場に接続し、そこから井口深大寺布田駅、和泉溝口小田中平間、官設鉄道川崎停車場に連続する。この間およそ23マイル。合計36マイル半。軌道幅員はすべて官線に準拠する。線路は別紙略図のとおり。&lt;br /&gt;
*第五　本会社の資本は金150万円とし、これを3万株に分かち、一株の金額を50円とする&lt;br /&gt;
*第六　鉄道布設費および運輸営業の収支概算は以下の通り&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　鉄道布設費概算&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
一　金150万円　建設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　内訳&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3500円　測量及土木監督費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9万7000円　用地費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金20万円　土工費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金42万円　橋梁費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3000円　コルベルト費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金35万円　軌道費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金1万3000円　伏樋費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万円　停車場費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金7500円　諸建築費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金15万5000円　汽鑵車及車両費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万6500円　運送費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用汽車費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2000円　柵垣及境界標杭費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金4500円　電線架設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用具費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万円　総掛費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金10万円　予備費&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献・注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:計画されていた鉄道路線|ちゆうふてつとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=291</id>
		<title>中武鉄道</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=291"/>
		<updated>2026-05-03T10:13:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;中武鉄道は、[[東上鉄道]]に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）に[[川越鉄道]]が川越～国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社は明治二十八年8月20日に芝区の高安象次郎ほか13名により請願が行われた。これは大宮停車場～所沢村～拝島村～八王子停車場を結ぶ計画である。このルートは、八王子鉄道会社と一部重なるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月7日、新河岸川船運の船問屋・福田屋十代当主星野仙蔵ほか48名が、通信大臣白根専一宛に「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出した。その内容を現代語訳すると、「元来、中武地方の地味は豊腴（ホウユ＝肥沃）であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四～五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京都近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」というものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道は八王子鉄道会社と同一の計画と判断された。明治二十九年に鉄道敷設の免許を申請したが、却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
*明治二十八年（1895年）&lt;br /&gt;
**8月20日：創立請願書が出される。&lt;br /&gt;
**12月7日：新河岸川舟運の福田屋ほかが「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出&lt;br /&gt;
*明治二十九年（1896年）7月：中武鉄道株式会社創立発起認可願を申請。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書現代語訳==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、『志木市史　近代資料編』『志木市史　通史編』にもとづき、[[User:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]が現代語訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道創立請願書===&lt;br /&gt;
『志木市史　通史編』（近代　第3章　資本主義の発展と地域社会）によれば、「東京市万世橋から埼玉県の志木町、川越町、松山町、児玉町、群馬県の藤岡町などを経て高崎に達する路線として、中武鉄道の敷設が企てられた。資本金は260万円、発起人は東京市京橋区の中沢彦吉外11名であった」とある。以下、この中武鉄道会社の創立請願書を現代語訳して掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉ります。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴（よく肥えている）で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていました。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っています。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばなりません。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区（区域）をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかありません。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じます。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道会社の敷設を要請する請願書===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願&#039;&#039;&#039;（埼玉県行政文書 明一七四七）&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　近代資料編』をもとにして現代語訳した。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私どもは謹んで連署をもって請願奉ります。元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかるところ、今般、東京及び地方有志者の発起で中武鉄道株式会社創立の計画があり、その線路は我々ども積年の希望のごとく、東京より志木、川越、松山、児玉、藤岡を経て高崎に至るものであり、東京の中心から上州の要衝である高崎との連絡を近接させて、大体において線路の配置がよろしいものであるのみならず、武州の中心を通過し、その経過する地方は人口稠密で物産が豊饒であり、すなわち今の利益があるだけにとどまらず、永遠に地方開発の効果が絶大であること信じております。この鉄道工事がひとたび成れば、我々ども多年遺憾に存じながらもとうていその目的を達することが難しかった荒川以西の産業・人事の開発もたちまち変わるでしょう。このことを申し上げる機会は、地方の幸福に過ぎるものはない次第でございます。元来、西武は一般に米麦および雑穀の産出はすこぶる巨額であり、ことに養蚕業については古来開けており、製糸紡績の事業は一年にますます増殖しております状況につき、この際、一旦鉄道が開通するに至れば、その進歩は今日の20倍に至るであろうことは必然でございます。加えて、広く武州全体の利益より申しても、河東河西の進歩を平均させ、今日半身不随の傾向を強制するのは最も急務であります。進んで、上武連絡の上からしても、最近最も早い線路の配置が適切に行われれば、この線路に過ぎるものはないと存じておりますので、なにとぞこの線路敷設のことを支給五人か下されたく、我々どもの宿望をお伝えいたしたく、一地方の状況に過ぎないとはいえ、沿道人民一般の熱望するところであります。一応切望の旨の趣旨を開陳し、支給発起人等の願いの旨をお伝えして、地方尋問の輿望をお伝えしたく、ここに連署をもって慎んで請願つかまつります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月2日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県新座郡志木町164番地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西川武左衛門（以下略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社創立願書（抄）===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社創立発起認可願&#039;&#039;&#039;（明治二十九年七月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今般、埼玉県武蔵国北足立郡大宮駅ヨリ同郡大和田町ニ至リ、一ハ入間郡所沢川越鉄道線ニ連続シ、一ハ大和田町ヨリ甲武鉄道線境停車場ヲ経テ官設川崎駅停車場ニ連続スル、合計36哩（マイル）半の鉄道ヲ敷設シ、運輸ノ業ヲ為シ、公私ノ利便ヲ起シ度、則チ明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例ニ基キ、別紙書類相添捧呈致候間、御許可被成下度、此段奉願候也&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社創立発起人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十九年7月　発起人連署&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社起業目論見書===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*第一　本会社ハ株式組織トス&lt;br /&gt;
*第二　本会社ハ鉄道ヲ布設シ、旅客荷物運輸ノ業ヲ営ムヲ以テ目的トス&lt;br /&gt;
*第三　本会社ハ中武鉄道株式会社ト称シ、本社ヲ東京市ニ設置ス&lt;br /&gt;
*第四　本会社ノ鉄道路線ハ[[埼玉県]][[北足立郡]]大宮駅、既設日本鉄道株式会社停車場附近ヲ起点トシ、同郡与野町、同郡大久保村、同郡荒川羽根倉渡船場ノ下流東南ヲ横断し、入間郡[[宗岡村]][[新河岸川]]ヲ横断、北足立郡[[志木町]]、[[大和田町]]、東京府下北多摩郡清戸[[柳瀬川]]ヲ渡リ、直線入間郡下荒井ヲ経テ、既設川越鉄道株式会社所沢町停車場ニ連続スル、其間凡ソ13哩半、及一ハ北足立郡大和田町ヨリ南方ニ向ヒ、同郡[[保谷村]]、東京府下北多摩郡田無町甲武鉄道株式会社境停車場ニ接続、夫ヨリ井口深大寺布田駅、和泉溝口小田中平間、官設鉄道川崎停車場ニ連続スル、此間凡ソ23哩、合計36哩半、軌道幅員ハ総テ官線ニ準拠ス、線路ハ別紙略図ノ如シ&lt;br /&gt;
*第五　本会社ノ資本ハ金150万円トシ、之ヲ3万株ニ分チ、一株ノ金額ヲ50円トス&lt;br /&gt;
*第六　鉄道布設費及運輸営業ノ収支概算ハ左ノ如シ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　鉄道布設費概算&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
一　金150万円　建設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　内訳&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3500円　測量及土木監督費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9万7000円　用地費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金20万円　土工費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金42万円　橋梁費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3000円　コルベルト費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金35万円　軌道費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金1万3000円　伏樋費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万円　停車場費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金7500円　諸建築費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金15万5000円　汽鑵車及車両費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万6500円　運送費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用汽車費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2000円　柵垣及境界標杭費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金4500円　電線架設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用具費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万円　総掛費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金10万円　予備費&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* 白田勝美「[https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/187 明治中期埼玉県内私設鉄道敷設計画について－第二次鉄道熟期と「幻の鉄道」－]」『埼玉県立文書館　書館紀要第6号』埼玉県立文書館,1992年&lt;br /&gt;
* ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館『第20回特別展　東上線の開通と上福岡駅　－舟運の終末から鉄道へ－』2005年11月&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:計画されていた鉄道路線|ちゆうふてつとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=290</id>
		<title>中武鉄道</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=290"/>
		<updated>2026-05-03T10:12:34Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;中武鉄道は、[[東上鉄道]]に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった路線の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）に[[川越鉄道]]が川越～国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社は明治二十八年8月20日に芝区の高安象次郎ほか13名により請願が行われた。これは大宮停車場～所沢村～拝島村～八王子停車場を結ぶ計画である。このルートは、八王子鉄道会社と一部重なるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月7日、新河岸川船運の船問屋・福田屋十代当主星野仙蔵ほか48名が、通信大臣白根専一宛に「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出した。その内容を現代語訳すると、「元来、中武地方の地味は豊腴（ホウユ＝肥沃）であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四～五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京都近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」というものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道は八王子鉄道会社と同一の計画と判断された。明治二十九年に鉄道敷設の免許を申請したが、却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
*明治二十八年（1895年）&lt;br /&gt;
**8月20日：創立請願書が出される。&lt;br /&gt;
**12月7日：新河岸川舟運の福田屋ほかが「中武鉄道株式会社線路急設請願」を提出&lt;br /&gt;
*明治二十九年（1896年）7月：中武鉄道株式会社創立発起認可願を申請。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書現代語訳==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、『志木市史　近代資料編』『志木市史　通史編』にもとづき、[[User:シラキのコホリのツカサ]]が現代語訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道創立請願書===&lt;br /&gt;
『志木市史　通史編』（近代　第3章　資本主義の発展と地域社会）によれば、「東京市万世橋から埼玉県の志木町、川越町、松山町、児玉町、群馬県の藤岡町などを経て高崎に達する路線として、中武鉄道の敷設が企てられた。資本金は260万円、発起人は東京市京橋区の中沢彦吉外11名であった」とある。以下、この中武鉄道会社の創立請願書を現代語訳して掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉ります。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴（よく肥えている）で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていました。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っています。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばなりません。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区（区域）をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかありません。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じます。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道会社の敷設を要請する請願書===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願&#039;&#039;&#039;（埼玉県行政文書 明一七四七）&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　近代資料編』をもとにして現代語訳した。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私どもは謹んで連署をもって請願奉ります。元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかるところ、今般、東京及び地方有志者の発起で中武鉄道株式会社創立の計画があり、その線路は我々ども積年の希望のごとく、東京より志木、川越、松山、児玉、藤岡を経て高崎に至るものであり、東京の中心から上州の要衝である高崎との連絡を近接させて、大体において線路の配置がよろしいものであるのみならず、武州の中心を通過し、その経過する地方は人口稠密で物産が豊饒であり、すなわち今の利益があるだけにとどまらず、永遠に地方開発の効果が絶大であること信じております。この鉄道工事がひとたび成れば、我々ども多年遺憾に存じながらもとうていその目的を達することが難しかった荒川以西の産業・人事の開発もたちまち変わるでしょう。このことを申し上げる機会は、地方の幸福に過ぎるものはない次第でございます。元来、西武は一般に米麦および雑穀の産出はすこぶる巨額であり、ことに養蚕業については古来開けており、製糸紡績の事業は一年にますます増殖しております状況につき、この際、一旦鉄道が開通するに至れば、その進歩は今日の20倍に至るであろうことは必然でございます。加えて、広く武州全体の利益より申しても、河東河西の進歩を平均させ、今日半身不随の傾向を強制するのは最も急務であります。進んで、上武連絡の上からしても、最近最も早い線路の配置が適切に行われれば、この線路に過ぎるものはないと存じておりますので、なにとぞこの線路敷設のことを支給五人か下されたく、我々どもの宿望をお伝えいたしたく、一地方の状況に過ぎないとはいえ、沿道人民一般の熱望するところであります。一応切望の旨の趣旨を開陳し、支給発起人等の願いの旨をお伝えして、地方尋問の輿望をお伝えしたく、ここに連署をもって慎んで請願つかまつります。&lt;br /&gt;
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明治二十八年12月2日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県新座郡志木町164番地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西川武左衛門（以下略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社創立願書（抄）===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中武鉄道株式会社創立発起認可願&#039;&#039;&#039;（明治二十九年七月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今般、埼玉県武蔵国北足立郡大宮駅ヨリ同郡大和田町ニ至リ、一ハ入間郡所沢川越鉄道線ニ連続シ、一ハ大和田町ヨリ甲武鉄道線境停車場ヲ経テ官設川崎駅停車場ニ連続スル、合計36哩（マイル）半の鉄道ヲ敷設シ、運輸ノ業ヲ為シ、公私ノ利便ヲ起シ度、則チ明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例ニ基キ、別紙書類相添捧呈致候間、御許可被成下度、此段奉願候也&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社創立発起人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十九年7月　発起人連署&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社起業目論見書===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*第一　本会社ハ株式組織トス&lt;br /&gt;
*第二　本会社ハ鉄道ヲ布設シ、旅客荷物運輸ノ業ヲ営ムヲ以テ目的トス&lt;br /&gt;
*第三　本会社ハ中武鉄道株式会社ト称シ、本社ヲ東京市ニ設置ス&lt;br /&gt;
*第四　本会社ノ鉄道路線ハ[[埼玉県]][[北足立郡]]大宮駅、既設日本鉄道株式会社停車場附近ヲ起点トシ、同郡与野町、同郡大久保村、同郡荒川羽根倉渡船場ノ下流東南ヲ横断し、入間郡[[宗岡村]][[新河岸川]]ヲ横断、北足立郡[[志木町]]、[[大和田町]]、東京府下北多摩郡清戸[[柳瀬川]]ヲ渡リ、直線入間郡下荒井ヲ経テ、既設川越鉄道株式会社所沢町停車場ニ連続スル、其間凡ソ13哩半、及一ハ北足立郡大和田町ヨリ南方ニ向ヒ、同郡[[保谷村]]、東京府下北多摩郡田無町甲武鉄道株式会社境停車場ニ接続、夫ヨリ井口深大寺布田駅、和泉溝口小田中平間、官設鉄道川崎停車場ニ連続スル、此間凡ソ23哩、合計36哩半、軌道幅員ハ総テ官線ニ準拠ス、線路ハ別紙略図ノ如シ&lt;br /&gt;
*第五　本会社ノ資本ハ金150万円トシ、之ヲ3万株ニ分チ、一株ノ金額ヲ50円トス&lt;br /&gt;
*第六　鉄道布設費及運輸営業ノ収支概算ハ左ノ如シ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　鉄道布設費概算&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
一　金150万円　建設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　内訳&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3500円　測量及土木監督費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9万7000円　用地費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金20万円　土工費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金42万円　橋梁費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3000円　コルベルト費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金35万円　軌道費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金1万3000円　伏樋費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万円　停車場費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金7500円　諸建築費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金15万5000円　汽鑵車及車両費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万6500円　運送費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用汽車費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2000円　柵垣及境界標杭費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金4500円　電線架設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用具費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万円　総掛費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金10万円　予備費&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* 白田勝美「[https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/187 明治中期埼玉県内私設鉄道敷設計画について－第二次鉄道熟期と「幻の鉄道」－]」『埼玉県立文書館　書館紀要第6号』埼玉県立文書館,1992年&lt;br /&gt;
* ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館『第20回特別展　東上線の開通と上福岡駅　－舟運の終末から鉄道へ－』2005年11月&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:計画されていた鉄道路線|ちゆうふてつとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>毛武鉄道</title>
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		<updated>2026-05-02T09:38:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;毛武鉄道&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は、東京市の久能木宇兵衛らを発起人として明治二十八年（1895年）8月1日に設立認可の請願が行われた。東京市小石川区富坂町付近から栃木県足利町に至る路線の建設を計画したものである。路線の趣旨としては、北関東の養蚕・製糸・織物業地帯を東京・横浜と連絡させるものであった。  この計画をめぐって、志木町と大和田町が対…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;毛武鉄道&#039;&#039;&#039;は、東京市の久能木宇兵衛らを発起人として明治二十八年（1895年）8月1日に設立認可の請願が行われた。東京市小石川区富坂町付近から栃木県足利町に至る路線の建設を計画したものである。路線の趣旨としては、北関東の養蚕・製糸・織物業地帯を東京・横浜と連絡させるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この計画をめぐって、志木町と大和田町が対立している。当初の大和田を経由する予定線から、志木町経由の実測線に変更された。これに対して、大和田町・膝折町・新倉町・三芳町・大井村・仙波村・川越町の沿線住民が不認可願を提出している。一方、志木町などの住民から、反論の請願が出された。これは、川越街道沿いの町村と、新河岸川舟運で栄えた志木町との対立であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれにせよ、毛武鉄道は日露戦争後の経済不況のため、実現はしなかった&amp;lt;ref&amp;gt;『志木市史　近代資料編』第三節　鉄道の計画と地域交通の変化（p309）では「その後、毛武鉄道は実測線を決定線として路線建設を図るが、明治二十九年（一八九六）三月の鉄道会議で却下されることになった。」とある。これは時系列が前後してしまうため、誤記と考えられる。明治二十九年の鉄道会議では、一部を除き仮免状が下付されており、その後の経済不況で実現しなかったというのが正しい情報と考えられる。&amp;lt;/ref&amp;gt;が、[[東上鉄道]]の先駆的な計画となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*明治二十八年（1895年）8月1日：設立認可願が出される。&lt;br /&gt;
*明治二十九年（1896年）&lt;br /&gt;
**3月：鉄道会議で、中板橋～富阪町間を除き、仮免状が下付される。&lt;br /&gt;
**8月14日：川越街道沿道の住民が「毛武鉄道株式会社改正線路不認可願」を提出。実測線に反対し、予定線どおりに建設することを希望。&lt;br /&gt;
**10月30日：「毛武鉄道株式会社設立免許申請書」提出。この書類では予定線から実測線に変更。&lt;br /&gt;
**10月30日：志木町の住民らが「毛武鉄道株式会社実測線路認可請願」を提出。予定線に反対し、実測線に従って建設することを希望。&lt;br /&gt;
*経済不況のため、実現せず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==請願文書現代語訳==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、『志木市史　近代資料編』にもとづき、[[User:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]が現代語訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===毛武鉄道株式会社設立認可願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私ども、今般、東京市小石川区富坂町近傍を起点とし、巣鴨・池袋を経て日本鉄道品川線を上板橋において横断し、下板橋に出て下練馬を経て埼玉県白子に至り、それから旧川越街道に沿って大和田・大井を川越町に入り、川越線との連絡を通じ、更に進んで中山・松山・大谷を経て熊谷に至り、ここで再び日本鉄道第一区線を貫通し、そこからまた奈良妻沼を経て群馬県太田に出て、最後に栃木県足利町に達して終わる、約延長57マイル間に鉄道を布設し、旅客・貨物の運輸業を営むという目的をもって毛武鉄道株式会社を設立いたしたく、何卒御認可くだされたく、よって明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例第一条第二条により、別紙書類を添えて発起人一同連署にてこのことを願い奉りそうろうなり &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）8月13日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛武鉄道株式会社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
発起人 &lt;br /&gt;
* 東京市日本橋区室町三丁目五番地　久能木宇兵衛（印）&lt;br /&gt;
*同市同区馬喰町三丁目六番地　大河原毎太郎（印）&lt;br /&gt;
*東京府南豊嶋郡淀橋町元柏木村八百九十五番地　伊藤茂右衛門（印）&lt;br /&gt;
*茨城県猿島郡八俣村大字東山田弐百壱番地　初見敬二郎（印）&lt;br /&gt;
*茨城県猿島郡八俣村大字東山田百四十六番地　初見八郎（印）&lt;br /&gt;
*東京市日本橋区富沢町壱番地　横山五兵衛（印）&lt;br /&gt;
*東京市日本橋区薬研堀町三十番地　横山寅次郎（印）&lt;br /&gt;
*東京南小田原町四丁目壱番地　森岡昌純（印）&lt;br /&gt;
*東京市京橋区三拾間堀町三丁目六番地　原猪作（印）&lt;br /&gt;
*東京小石川武嶋町二十七番地　中江篤介（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逓信大臣渡辺国武殿（『鉄道院文書』国立公文書館蔵）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===毛武鉄道株式会社改正線路不認可願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛武鉄道株式会社は明治二十八年八月十三日付をもって発起人連名の上、鉄道敷設に件を出願し、その後、鉄道会議において決議の上、上仮免状下付の御命令になりました。その経過線路は出願書および付属図に記載してあるとおり、東京市小石川区富坂町近傍を起点とし、巣鴨・池袋を経て日本鉄道品川線を上板橋駅において横断し、下板橋に出て下練馬を経て埼玉県下白子に至り、そこから旧川越街道に沿って大和田・大井を川越町に入り、川越線との連絡を通し、さらに進んで栃木県下足利町に達して終わる計画であり、その経過の概況は別紙甲号図（すなわち、当該会社が出願の際に添付したもの）のとおり、旧川越街道というものに標準を取っていることもまた明らかなことと存じ奉ります。これを乙号図と比べると、この線路の川越町に至るまでは乙号図イ～ロ線に該当するものでございます。しかし、会社がさきに東京府知事ならびに埼玉県知事から許可を得た線路実測の行為をみますと、甲号図に依拠したのではなく、遠くその東部に位置する乙号図イ～ハ線を実測し、仮免許を得た線路はおいて問わない有り様でございます。このことからはほぼ会社の意向を知ることができるものであり、会社の意向はむしろこの実測線路によろうとするものであると存じ奉ります。これについて、願い出た者らの村方からみれば、願い出た者らの予想どおり、会社が実測線において鉄道敷設をなすならば、村々人民に非常な迷惑を引き起こすだけでなく、国家公益の点からみても、また会社存立の点からみても、実測線路が極局不利益であることは明白であるため、以下にその事実を陳述いたします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　実測線路である乙号図イ～ハ線の近くには、願い出た者らの村方の人民が有する熟田が一面に存在する個所であり、これらの村民は僅かに耕作のために衣食しているものであります。この付近一帯の地所は従来、低湿な地であるのみならず、ここに沿って荒川・柳瀬川・新河岸川が存在しているため、常に田面に浸水停滞し、排水の道がないため、折角秋実の見込ある禾穀を腐朽させてしまうことはほぼ毎年の出来事であります。ゆえに、村民らにおいても、しきりに排水の方法を講じておりますが、どうしても前記のような地勢であるため、その工事が困難であることと費用がおびただしいことに苦しみ、今日まで推移している次第でございます。それなのに、いよいよ右会社が実測線に沿って鉄道布設をなし、堤塘の建築、橋梁の架設を行った場合は、村民らがせっかく苦心した疏水の念慮もついに断絶しなければならない情況に至るのみならず、米穀の浸潤・朽腐はますますその頻度を高め、村民の惨害は言うに忍びない様相となって苦慮することになるでしょう。ことに柳瀬川は毎年出水氾濫の恐れがあります。そのため多数の田面を害することは近隣人民の熟知する次第でございます。ことに、仙波・大井においては俗に野水と称し、霧雨降下の際には多量の水が地中に浸入したり、田畑に氾濫したりして、降雨が止んだあとでも永く停水して田畑を害することが甚だしく、かつ、その際には地中の所々から湧水し、とうていこれを治める方法はなく、地方人民にとって一大危難として常に憂慮しているところですが、万一実測線に堤防などの建設があるときはその頻度はますます高まり、惨害はまた言いようのない様相になるはずであると申し上げます。なお、仮免許線によるときは常に水害の恐れある柳瀬川の上流を通過するため、その線に当たって堤防建築しても推量はやや少ないところなので、川水氾濫のおそれは、これを実測線のある同じ川の下流に沿って堤防を建設する危害に比べれば、その利害は智者の言葉を待たなくてもわかります。水流が多い川の下流に氾濫する危害が甚だしいのは普通のことわりに照らしても明らかなことであると恐れながら察しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　実測線は先に鉄道会議において否決された南北中央線に該当する箇所なので、この実測線を毛武線の確定線とすれば、一旦不認可となった線路に向かってまたもや御認可を与えられるという奇怪な現象が現れることになってしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　乙図イ～ロ線、すなわち仮免許線によるときは、旧川越街道であるため、線路に沿って人煙稠密でありますが、その家屋はことごとく道路に沿って存在するため、この線（すなわち人家存在の裏手）によって鉄道布設されることになりますが、そのために人家を毀壊し、人民住居の移転などをする憂いは少ないにもかかわらず、実測線によるときは三々五々建っている多数の部落の人家を毀壊し、多年住み慣れた住居とその耕作の事業とを放棄しなければならない不幸な人民を多数生み出すことは、実地の状況にてらして争わないことであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　いうまでもなく実測線によるときは、当該会社出願の線路中に存在する下練馬村・大和田町などはまったくその地内を通過しないこととなるため、いよいよ実測線をもって確定線とするときは、会社出願の趣旨にももとりますし、仮免許の精神にも合わない不法の線路を申請させることとなります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　これを貨物集散の点からみても、これまで大井・大和田・膝折・白子およびその付近の地から生産した産物は、これを荷車または馬車などにより東京その他の地に運搬するか、あるいはこれを志木に出し、同地から荒川舟楫の便をもって各地に運送するというすこぶる不便な方法によるものでありましたが、会社の出願線、すなわち乙図イ～ロ線において鉄道を敷設したときは、これらの貨物はことごとく鉄道の便により直接、東京その他付近の地に搬出できる利益があるにもかかわらず、実測線に拠るときは従来のように一応志木付近に搬出し、その後、鉄道または船便にゆだねることとなり、鉄道敷設によって何ら新たな利益を生ずることがないと恐れながら察しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、実測線によるときは有名な新倉村の村社を毀壊し、その立木を伐採し、膝折村の旧跡である荒沢滝不動尊堂宇なども毀壊しなければならなくなり、ただ地方の風致を害するだけでなく、人民信仰のことにも影響し、曖昧な地方人民にはそのため一種の感情を若起するようになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　くわえて、この地形上からみましても、仮免許線は川越鉄道線と日本鉄道線との中央に位置し、その距離もまた相互に十マイル以上を隔てているために鉄道布設の精神にも合っていますが、実測線によるときは、二本鉄道線とはわずかに数マイルを隔てており、その距離が接近しているため、その利益を得る範囲も狭少となり、鉄道敷設の精神に背くことと存じます。仮免許線によるときは、線路に該当する収用の土地はことごとく畑地・山林であるため、会社における買収の費用も少なく、なおその土地もまた平坦であるため、設計が容易ですが、実測線によるときは一面に熟田を填充させるため、買収の費用も増加し、土地もまた凸凹がはなはだしいため、工事経営にも困難を来たすはずであると存じます。そのため、会社経済にとっても、仮免許線による方が得策と存じ奉ります。そのマイル数を比較しても、仮免許線は実測線に比べてわずかの差があるだけなので、この点はいずれにしても大きな影響はないものと存じております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　なお、仮免許線によれば、毛武鉄道線と川越線とはそれぞれ連絡し（当該会社出願書にあるとおり）旅客の便利および荷物運搬の便にもなりますが、実測線によれば両線路の間に数町の間隔を生じ、そのため不便を感ずるのはもちろん、川越町小学校はまさに実測線路に沿うこととなり、日々通学する数多の幼童がレールを横断しなければなることとなり、危険であることはいうまでもないのはもちろん、父兄の憂慮もまた配慮しなければならず、したがって地方教育上にも大きな影響を生じるようになるだろうと痛心しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の次第につき、いよいよ毛武鉄道株式会社が実測線をもって鉄道敷設の確定線といたされましたら、地方人民の惨害は言うべきではない次第であり、なお国家公益上にも大きな影響を生じることをお察しいただきたく、情状ご賢察の上、当該会社が実測線をもって確定線路となすことは御認可なさらないよう、連署をもってこのことを願い奉ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十九年（1896年）8月14日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*埼玉県北足立郡大和田町  金子峰吉　外135名&lt;br /&gt;
*同県北足立郡膝折村  大畑少輔　外35名&lt;br /&gt;
*同県北足立郡新倉村  鈴木太郎八　外66名&lt;br /&gt;
*同県入間郡三芳町  松本長次　外17名&lt;br /&gt;
*同県入間郡大井村　関野伝次郎  外50名&lt;br /&gt;
*同県入間郡仙波村　福岡栄太郎　外23名&lt;br /&gt;
*同県入間郡川越町　印藤元右衛門　外136名  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逓信大臣白根専一殿&lt;br /&gt;
(『鉄道院文書』国立公文書館蔵) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===毛武鉄道株式会社実測線路認可請願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県北足立郡志木町外拾壱ケ町村　西川武左衛門外九百三拾四名  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;毛武鉄道株式会社実測線路認可請願&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛武鉄道株式会社は先に東京府下小石川区上富坂付近より栃木県下足利に至るべき鉄道を布設することを出願しました。そして、その経過地の一部分において、埼玉県白子村と川越町との間は旧川越街道に準拠して線路を布設するとの形式図でありましたが、その後、仮免状の御下付がありましてから、会社は技師を派出して線路の良否を選み、距離の遠近を計り、地方の便否と会社の収利とについて丁寧慎重に踏査を尽したところ、その結果、ついに東北に寄って布設するのが適当であることを発見し、大いに運輸交通の便益を発達させることを認め、出願の予定線を変えて白子村から内間木・志木・水谷・鶴瀬・福岡・高階などの各町村を経て川越町に達する測量を終え、その筋に向かって本免状下付のことを出願したとのこと。これは実に至当の措置であり、地方便益の点からみても、国家鴻益の点からみても、また会社収益の点からみても、まさに完全無欠・唯一無二の好線路というべきです。ところが、先の予定線に係っていた膝折・大和田・大井などの旧川越街道に接近するところの住民は地方の便否を顧みず、国家の鴻益に着目せず、会社が予定線を変じて東北に寄ったのを妬み、かつ自己の地を経過するか否かは個人の利害に大いに関係あるため、種々の虚欺の説を捏造し、またまったく事実に反する説を唱導して、実測線を不認可とされるよう請願したとのこと。このような誣言・妄説はもとより当局者の賢明を蔽う価値がないことはかたく信じて疑わないところではありますが、いささか事情を開陳して、この判明を仰ぐことをやむを得ない次第でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一 旧川越街道沿道の人民は、会社実測線に鉄道を布設するときは自己の所有地に水害を被ると称していますが、事実はまったくこれに反し、実測線の経過地はかえってことごとく私どもの地籍であって、すこしも反対者の地籍を通過しないという次第でございます。そうではありますが、仮に一歩譲って柳瀬川を横断するために水害を醸生することがあるというのも、単に実測線を取ったために起こることではございません。というのも、柳瀬川というのは西から東に向かって流れ下る一小川流であるため、水源まで遡らない限りはこの線路は到底これを横断しないわけにはいきません。そして、二者はいずれをとってもたかだか一里を隔てないところであり、水害についてあれこれ言うのは実に価値のない空論というべきです。ましてや実地について踏査するときは堤塘の状勢と、リバーベーズンとの形勢は、実測線地方がかえって大いに旧川越街道付近に優るものがあるものです。仮に数歩を譲って彼らの言うように鉄道布設のために排水の便を妨げ、米穀を朽腐させることがあるとしても、その損害を被るべき地方はすなわち私どもの沿道地方のみであって、1～2里を隔てた膝折・大和田・大井などの地方に及ぶことは決してないのは既往の事実にてらしても、現在の実況を踏査しても明確である次第でございます。このことからみれば、もしこのために彼らが言うような損害が発生することがあるとすれば、彼らは自ら好んでその害を歓迎するかのような奇怪な結果を生ずるものであり、前後矛盾の甚しいものと言わざるを得ません。それにもかかわらず、前に述べたように実測線沿道の地方には工事の設計がよろしきを得ており、被害の点はいささかも発見されないこと、また、交通・運輸の便利を計る鉄道に対して、たしかに予定線ではあるものの、距離が3マイルほど遠くなるというのに強いて予定線に布設しなければならないとするのであれば、国家の公益を無視するものと言わざるを得ません。そして、彼らと全然反対の結果として、柳瀬川・荒川・新河岸川に対しては実測の線路はその排水上、少しも関係のない良地を選択されているものであることは、私ども沿川住民が異口同音に賛成することであります。要するに、彼らが他地方の水害云々の証説を作為するのは、個人の希望を満足させようとする一つの奸策であって、その真意があるのは、ただただその線路を自己の居住地に寄らせようとの希望の一途にあるだけです。このため、水害云々はその希望を達しようとする一つの方便に用いられているものであるため、あえて信ずる価値がないものというべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　実測線に拠るときは、民家を毀壊し人民の居住を移転させるものといったり、神社・堂宇を毀つといったり、樹林の風致を害するといったりしていますが、これもまた事実に反する妄説というべきです。彼らが称する新倉村の村社や荒沢滝不動尊堂は線路から数百間隔てており、社殿堂宇を毀つ必要があるだけでなく、樹木の伐採をも要しない次第でございます。前に述べたとおりの状況であるため、もしこの鉄道が開通する日に至れば、あまねく各地方人士の視聴に触れ、その風致は鉄道のために広がり、それによって寒村僻地の神社仏閣も都の人士の参詣が増加して、かえって当該地の繁栄と地方の信仰を増加することこそあれ、彼らがいうような悪感情を惹起することは断じていささかもない次第でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　彼らはまた言います。一旦不認可となった南北中央線に該当すると言ったり、旧川越街道に依らず実測線を取るときは仮免状の精神に背戻すると言ったり、毛武線は当初川越線と連絡する計画であったのに実測線を見るときは数丁の間隔があると言ったり、旧川越街道に依るときは既設線・日本鉄道第一区線と川越鉄道との中間にあってその其両端の距離が適当であるのに、実測線に依るときは少なからず中間を失するため、鉄道布設の精神にもとると言ったりしています。 しかし、これまた弁駁する価値なく、かえって彼らの愚を証明するものといえます。そもそも鉄道布設拒否の権は第一に主務省の掌中にあります。これに向かって意見をすることは、もとより越権不遜の責を免れないというべきであります。そうして私どもの私見として考えるに、鉄道の布設というものは第一に起点と終点に重きを置き、その中間の経過地は大体においてできるだけ短距離を取るのが意味あるものとなるので、実測線が予定線に比べておよそ3マイルを短縮する利益があるのだから、そのうちの小さな一部分において、予定線によらず実測線を取るとしても、その地方運輸の利害と会社の経済とによって選定するものであるはずです。だとすれば、ある一部分の不認可となった他の会社の線路に該当する箇所があったとしても、不可ということではないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつ、実測線によるときは仮免許の精神にもとるといいますが、仮免許というものはそのように厳格な制裁を有するものでありましょうか。私どもがほのかに聞くところによれば、仮免許というものは会社が出願した線路の大体に向かって認許を与えられ、これを実地について測量踏査すべきために、仮に許可されたものであるとのこと。言いかえれば、仮免許は実地踏査を終えて、よい線路を選定して出願させるための一つの予備命令ともいうべきものであります。とすればある一つの小さな部分において予定線を変えて他の良線を取るのは、会社の自由であって、当局者といえどもあえてこれに干渉されるようなことはないことと信じております。既設線との距離を論ずるに至っては、実に現実離れの極みというべきです。もし既設線の妨害となるような憂いがあれば、たとえ仮免状であったとしても当局者は最初からこれに対して下付されるようなことはないはずです。しかし、白子・川越間わずか数里の間において一里内外の変更については、既設線に大きな関係がどうしてありましょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　彼らはまた線路に該当する土地買収および線路布設の費用について云々しているといえども、これまた大いに事実に反する点があるだけでなく、全然無用の余計な言葉であるというべきです。なぜならば、たとえ鉄道は一つの国家公共的事業であるといっても、一方に収益を企図して設計する会社がわざわざ不利な方向を取ることがあるでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一 実測線は川越小学校に近いことをもって鉄道開通の際に至って日々通学する数多の生徒が軌道を横断しなければならないことをもって、危険を正治、のべて地方教育に影響を及ぼすと称しておりますが、事実には合わない妄説というべきです。今、川越小学校と実測線との関係を略説すれば、校舎は市街の東端、旧川越城跡の大手門跡にあります。実測線は校舎の東、民家が稀少な部分を通過するものですので、数多くの生徒が往復するところというわけではありません。ですから、このような杞憂を抱く必要がありません。ましてや、危険を防ぐには数多の方法があるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　貨物集散の点について論及するに至っては、いよいよ彼らが馬脚を現した者というべきです。そもそも志木町は荒川の支流である新河岸川に接し、古来、中武地方枢要の良津であって、貨物の集散は繁盛烏を極め、地方第一の商業地であります。そして、彼らの膝折・大和田・大井などの諸村は、旧川越街道に沿い、茅屋が軒を並べて立っているものの、一商業地と称すべきものはなく、貨物の集散を見ることなく、単に一小農民の部落と称すべきであり、いささかも鉄道布設の必要をみない田舎の邑であるのに、一旦毛武会社が出した漠然とした形式図を見て、ある一派の人民が僥倖を万一に期してたくみに沿道の良民を煽動したため、犬が一日虚に吠えて、万の犬が実を伝え、付和雷同し、若干の調印を得、たことをもって当局者を煩わせたのでございます。たとえ両者同等の地位に立つとしても、生存競争は社会の常でありますから、私どもはどうしてだまって自己もその他の地も危機に瀕するのを待っていることができましょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の次第につき、私どもがこれを述べるのもよろしくないことですが、当局者におかれましては正確な調査をなされ、適切な許否を与えられたものでありますから、口を閉ざして今日まで黙しておりましたが、予定線沿道の住民の中に種々の口実を設けて運動する者がいるのを聞き、私どもはやむを得ず、実際の状況を述べて、実測線に認可を与えられますことを、ここに別紙図面を添え、謹んで請願つかまつります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十九年（1896年）10月30日  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県北足立郡志木町164番地&amp;lt;br&amp;gt;平民 西川武左衛門（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※以下略（埼玉行政文書　明2430）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* 白田勝美「[https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/187 明治中期埼玉県内私設鉄道敷設計画について－第二次鉄道熟期と「幻の鉄道」－]」『埼玉県立文書館　書館紀要第6号』埼玉県立文書館,1992年&lt;br /&gt;
* ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館『第20回特別展　東上線の開通と上福岡駅　－舟運の終末から鉄道へ－』2005年11月&lt;br /&gt;
* 老川慶喜『埼玉鉄道物語　鉄道・地域・経済』日本経済評論社,2011年&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:計画されていた鉄道路線|もうふてつとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=288</id>
		<title>中武鉄道</title>
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		<updated>2026-04-30T09:59:08Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;中武鉄道は、[[東上鉄道]]に先行する鉄道計画であるが、実現に至らなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年（1895年）に[[川越鉄道]]が川越～国分寺間を結んだことを契機に、新河岸川の水運を鉄道に置き換える計画が多数出された。中武鉄道もその一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社は明治二十八年8月20日に芝区の高安象次郎ほか13名により請願が行われた。これは大宮停車場～所沢村～拝島村～八王子停車場を結ぶ計画である。このルートは、八王子鉄道会社と一部重なるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月7日、新河岸川船運の船問屋・福田屋十代当主星野仙蔵ほか48名が、通信大臣白根専一宛に「中部鉄道株式会社線路急設請願」を提出した。その内容を現代語訳すると、「元来、中武地方の地味は豊腴（ホウユ＝肥沃）であり、物産もまた豊かであって東京に近接しているものの、運輸は新河岸川の舟によって四～五日を経過しなければ使うことができない。敏速を尊ぶ今日において、船を使うのでは迂遠で不便・不利なことが少なくない。ゆえに東京都近接する地方である割に工業・産業と人智の開発進歩していない。これはまことに地方一族の遺憾とするところである」というものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道は八王子鉄道会社と同一の計画と判断された。明治二十九年に鉄道敷設の免許を申請したが、却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==中武鉄道創立請願書==&lt;br /&gt;
『志木市史』（近代　第3章　資本主義の発展と地域社会）によれば、「東京市万世橋から埼玉県の志木町、川越町、松山町、児玉町、群馬県の藤岡町などを経て高崎に達する路線として、中武鉄道の敷設が企てられた。資本金は260万円、発起人は東京市京橋区の中沢彦吉外11名であった」とある。以下、この中武鉄道会社の創立請願書を現代語訳して掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社発起人等は慎んで請願し奉り候。武州の地は広さ数十里、荒川の水流がその中部を貫いて東西を分けており、河東・河西ともに土壌は膏腴（よく肥えている）で物産に富み、特に中部および西部に至っては農耕・蚕織の業が特に開けており、産業上の進達は年ごとにすこぶる顕著なものがあるにもかかわらず、荒川の水流が東部および北部との交通を遮断して、古来その関係ははなはだ疎遠になってしまっていた。しかし、河東にあっては往年鉄道の敷設があり、南は東京に、北は上州に交通往復の便がますます便利になり、荒川以東利根川以西の平地はことごとく便利になって面目を一新するに至っている。これに反して中西部地方にあっては荒川の水流に遮断されて東部地方とまったくその状況が異なり、鉄道の利便性については享受することがはなはだ薄く、産業の状況、交通の状態より百般の事項に至るまでその発達の度合いがはなはだ遅いといわねばならない。特に西方秩父の一部に至っては山岳に四方を囲まれてさらに一つの寰区（区域）をなしており、将来興起するであろう事業は枚挙するにいとまがないにも関わらず、交通の途が閉塞している限りは長く今日の状況を持続するしかない。これは要するに今日のまま経過すれば武州の中部および西部の枢要な地方はほとんど萎縮・不振の境遇に陥り、その発達進興はほとんど期することができないということになってしまうため、荒川以西の産業を奮発し、秩父山間の豊かな資源を開発して武州中西部の面目を一新し、東部地方と併進発達させることは、実に急務中の急務と信じる。すなわち、東京から埼玉県下入間郡川越町、同県比企郡松山町、同県児玉郡児玉町、群馬県緑野郡藤岡町を経て同県西群馬郡高崎町に至る鉄道を敷設する計算を立て、以降、線路の景況収支の計算など再三実地の調査を行ったところ、線路は平坦で施行は至って容易であり、収支の計算は通過する地方の人口稠密・物産豊饒であり、貨客の来往が極めて頻繁であるため、相応に収支の見込みも立ったため、中部鉄道株式会社の発起を御認可あい成り候よういたしたく、ここに別紙起業目論見書・仮定款をあい添えてこの段つつしんで請願奉り候なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==中武鉄道会社の敷設を要請する請願書==&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;埼玉県行政文書 明一七四七&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社線路敷設冀望ノ請願===&lt;br /&gt;
埼玉県武蔵国新座郡志木町　西川武左衛門　ほか139名&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（以下、現代語訳）&lt;br /&gt;
請願奉り候　元来、武州中部地方の地味は膏腴、物産は豊饒。加えて東京に近接しているにかかわらず、商工業およびその他事物の発達が遅れているのは、地方一般実に遺憾に存じておりましたところ、往年日本鉄道会社において東北鉄道の計画が始まるや、まず東京高崎間に鉄道線路を敷設する予定で、地方一般はみなその挙に賛成し、一日も早く線路の開通を望んでおります。特に当時日本鉄道会社は武州の中心を貫通する川越街道により線路を布設するという内議であって、我々はともに深くその計画の適切であることを信じ、上武を連結するのは武州の開発上当然の次第と存じておりました。が、途中でその議論が一変したようで、ついに中山道に線路を定めることとなりましたが、なお我々どもの希望のとおり、上武を連絡して中武の開発に資することは少なくないと存じております。しかし、その線路の過ぎるところは荒川以東に属するため、河東における鉄道開通の余響はすこぶる顕著でありますけれども、もとよりこの河流は名称の如く水流がはなはだ険悪でややもすれば濁流が流れること久しく、両岸相互の交通を途絶することもしばしばで、河流の東西の交通はほとんど遮断されている姿にあります。わずかにこの川流一条をへだてるだけでありますが、その利害を比較すると、河西の各地に至っては産業人事の開発が河東とはまったく天地の差があり、同じ武州の地方であっても東部は幸せにも非常に発達しており、我々ども河西の地方では不幸にも今日なお昔の状態に停滞し、天然の豊饒物産の豊かさは多いにもかかわらず、地方全体が萎縮不振の姿で、その左は実に甚だしく、我々ども数年来地方のため遺憾至極に存じております次第にございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかるところ、今般、東京及び地方有志者の発起で中武鉄道株式会社創立の計画があり、その線路は我々ども積年の希望のごとく、東京より志木、川越、松山、児玉、藤岡を経て高崎に至るものであり、東京の中心から上州の要衝である高崎との連絡を近接させて、大体において線路の配置がよろしいものであるのみならず、武州の中心を通過し、その経過する地方は人口稠密で物産が豊饒であり、すなわち今の利益があるだけにとどまらず、永遠に地方開発の効果が絶大であること信じております。この鉄道工事がひとたび成れば、我々ども多年遺憾に存じながらもとうていその目的を達することが難しかった荒川以西の産業・人事の開発もたちまち変わるでしょう。このことを申し上げる機会は、地方の幸福に過ぎるものはない次第でございます。元来、西武は一般に米麦および雑穀の産出はすこぶる巨額であり、ことに養蚕業については古来開けており、製糸紡績の事業は一年にますます増殖しております状況につき、この際、一旦鉄道が開通するに至れば、その進歩は今日の20倍に至るであろうことは必然でございます。加えて、広く武州全体の利益より申しても、河東河西の進歩を平均させ、今日半身不随の傾向を強制するのは最も急務であります。進んで、上武連絡の上からしても、最近最も早い線路の配置が適切に行われれば、この線路に過ぎるものはないと存じておりますので、なにとぞこの線路敷設のことを支給五人か下されたく、我々どもの宿望をお伝えいたしたく、一地方の状況に過ぎないとはいえ、沿道人民一般の熱望するところであります。一応切望の旨の趣旨を開陳し、支給発起人等の願いの旨をお伝えして、地方尋問の輿望をお伝えしたく、ここに連署をもって慎んで請願つかまつります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十八年12月2日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県新座郡志木町164番地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西川武左衛門（以下略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==中武鉄道株式会社創立願書（抄）==&lt;br /&gt;
（明治二十九年七月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社創立発起認可願===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今般埼玉県武蔵国北足立郡大宮駅ヨリ同郡大和田町ニ至リ、一ハ入間郡所沢川越鉄道線ニ連続シ、一ハ大和田町ヨリ甲武鉄道線境停車場ヲ経テ官設川崎駅停車場ニ連続スル、合計36哩（マイル）半の鉄道ヲ敷設シ、運輸ノ業ヲ為シ、公私ノ利便ヲ起シ度、則チ明治二十年勅令第十二号私設鉄道条例ニ基キ、別紙書類相添捧呈致候間、御許可被成下度、此段奉願候也&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中武鉄道株式会社創立発起人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治廿九年七月　発起人連署&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中武鉄道株式会社起業目論見書===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*第一　本会社ハ株式組織トス&lt;br /&gt;
*第二　本会社ハ鉄道ヲ布設シ、旅客荷物運輸ノ業ヲ営ムヲ以テ目的トス&lt;br /&gt;
*第三　本会社ハ中武鉄道株式会社ト称シ、本社ヲ東京市ニ設置ス&lt;br /&gt;
*第四　本会社ノ鉄道路線ハ[[埼玉県]][[北足立郡]]大宮駅、既設日本鉄道株式会社停車場附近ヲ起点トシ、同郡与野町、同郡大久保村、同郡荒川羽根倉渡船場ノ下流東南ヲ横断し、入間郡[[宗岡村]][[新河岸川]]ヲ横断、北足立郡[[志木町]]、[[大和田町]]、東京府下北多摩郡清戸[[柳瀬川]]ヲ渡リ、直線入間郡下荒井ヲ経テ、既設川越鉄道株式会社所沢町停車場ニ連続スル、其間凡ソ13哩半、及一ハ北足立郡大和田町ヨリ南方ニ向ヒ、同郡[[保谷村]]、東京府下北多摩郡田無町甲武鉄道株式会社境停車場ニ接続、夫ヨリ井口深大寺布田駅、和泉溝口小田中平間、官設鉄道川崎停車場ニ連続スル、此間凡ソ23哩、合計36哩半、軌道幅員ハ総テ官線ニ準拠ス、線路ハ別紙略図ノ如シ&lt;br /&gt;
*第五　本会社ノ資本ハ金150万円トシ、之ヲ3万株ニ分チ、一株ノ金額ヲ50円トス&lt;br /&gt;
*第六　鉄道布設費及運輸営業ノ収支概算ハ左ノ如シ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　鉄道布設費概算&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
一　金150万円　建設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　　内訳&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3500円　測量及土木監督費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9万7000円　用地費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金20万円　土工費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金42万円　橋梁費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万3000円　コルベルト費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金35万円　軌道費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金1万3000円　伏樋費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万円　停車場費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金7500円　諸建築費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金15万5000円　汽鑵車及車両費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金3万6500円　運送費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用汽車費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2000円　柵垣及境界標杭費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金4500円　電線架設費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金9000円　建築用具費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金2万円　総掛費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　金10万円　予備費&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* 白田勝美「[https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/187 明治中期埼玉県内私設鉄道敷設計画について－第二次鉄道熟期と「幻の鉄道」－]」『埼玉県立文書館　書館紀要第6号』埼玉県立文書館,1992年&lt;br /&gt;
* ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館『第20回特別展　東上線の開通と上福岡駅　－舟運の終末から鉄道へ－』2005年11月&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:計画されていた鉄道路線|ちゅうふてつとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3&amp;diff=287</id>
		<title>株式会社マイタウン</title>
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		<updated>2026-04-24T14:40:38Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;株式会社マイタウン&#039;&#039;&#039;は、地域密着の不動産会社・ハウスメーカーとして活動している。本社は[[朝霞市]][[三原]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
CMのキャッチフレーズは「心が帰りたくなる住まい。マイタウン&amp;lt;ref&amp;gt;[https://www.asaka-mytown.co.jp/cm_gallery/ CMギャラリー | 朝霞市・志木市・和光市・新座市の一戸建（新築・中古）分譲住宅・不動産なら【マイタウン】]&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公式サイト：https://www.asaka-mytown.co.jp/&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
志木本店・丸井志木店・朝霞店・成増店・保谷店の五店舗を展開し、東武東上線・西武池袋線沿線の郊外エリアを得意としている。つまり、旧[[新座郡]]エリアを中心としたエリアに展開しているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地探しから手がけ、自社設計・自社施工の「分譲住宅事業」「注文住宅事業」を展開するトラストステージ事業を主力とし、新築一戸建て・中古一戸建て・分譲住宅・一軒家を紹介している。また、マルイファミリー志木には&#039;&#039;&#039;NATURIM&#039;&#039;&#039;という雑貨店も出店している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;[[MyTown東上線!!]]&#039;&#039;&#039;」ブログを展開し、地域の魅力を伝えることで地域活性化をはかっている。また、あさかみらいこども食堂にも協賛している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[彩夏祭]]にも協賛しており、北朝霞運動公園会場は「&#039;&#039;&#039;マイタウン&#039;&#039;&#039;北朝霞会場ステージ」、朝霞会場メイン通りは「&#039;&#039;&#039;マイタウン&#039;&#039;&#039;通り」と称される。&lt;br /&gt;
[[ファイル:まいたん.jpg|サムネイル|株式会社マイタウン公式キャラクター「まいたん」(2025年11月23日、[[マルイファミリー志木]]前で撮影)]]&lt;br /&gt;
なお、株式会社マイタウン公式キャラクター「まいたん」もイベント等で活動している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==沿革==&lt;br /&gt;
*平成四年（1992年）：11月、&#039;&#039;&#039;株式会社マイタウン朝霞&#039;&#039;&#039;　設立&lt;br /&gt;
*平成十三年（2001年）：4月、分譲住宅事業をスタート&lt;br /&gt;
*平成十七年（2005年）：11月、朝霞市根岸台5-4-6の新社屋に本社移転、社名を&#039;&#039;&#039;株式会社マイタウン&#039;&#039;&#039;に変更。&lt;br /&gt;
*平成二十三年（2011年）：4月、朝霞市三原2-19-20に新社屋・志木支店開設。5月、	本社を志木支店へ移転して志木本店とし、朝霞本社を朝霞支店に変更。&lt;br /&gt;
*平成二十五年（2013年）：6月、保谷支店オープン&lt;br /&gt;
*平成二十九年（2017年）：1月、成増支店オープン&lt;br /&gt;
*平成三十年（2018年）：9月、[[マルイファミリー志木]]3FにNATURIMオープン。11月	、丸井志木店オープン。&lt;br /&gt;
*令和二年（2020年）：6月、&#039;&#039;&#039;MyTown東上線!&#039;&#039;&#039;!の掲載開始。&lt;br /&gt;
*令和三年（2021年）：7月、設立30周年を機に、企業イメージキャラクターに菅野美穂を起用。&lt;br /&gt;
*令和四年（2022年）：11月、マイタウンベース開設（志木駅）&lt;br /&gt;
*令和五年（2023年）：9月、ふじみ野店オープン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==MyTown東上線!!==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;[[MyTown東上線!!]]も参照&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
株式会社マイタウンは、ローカルパワーエンジン株式会社に委託して「[https://machi.asaka-mytown.co.jp/ My Town 東上線!!]」サイトを運営している。東武東上線内の朝霞、志木、新座、和光、みずほ台、鶴瀬、上福岡、ふじみ野を活性化することを目的とし、情報発信を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:不動産会社|まいたうん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3&amp;diff=286</id>
		<title>株式会社マイタウン</title>
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		<updated>2026-04-24T10:15:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;株式会社マイタウンは、地域密着の不動産会社・ハウスメーカーとして活動している。本社は[[朝霞市]][[三原]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
CMのキャッチフレーズは「心が帰りたくなる住まい。マイタウン&amp;lt;ref&amp;gt;[https://www.asaka-mytown.co.jp/cm_gallery/ CMギャラリー | 朝霞市・志木市・和光市・新座市の一戸建（新築・中古）分譲住宅・不動産なら【マイタウン】]&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公式サイト：https://www.asaka-mytown.co.jp/&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
志木本店・丸井志木店・朝霞店・成増店・保谷店の五店舗を展開し、東武東上線・西武池袋線沿線の郊外エリアを得意としている。つまり、旧[[新座郡]]エリアを中心としたエリアに展開しているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地探しから手がけ、自社設計・自社施工の「分譲住宅事業」「注文住宅事業」を展開するトラストステージ事業を主力とし、新築一戸建て・中古一戸建て・分譲住宅・一軒家を紹介している。また、マルイファミリー志木には&#039;&#039;&#039;NATURIM&#039;&#039;&#039;という雑貨店も出店している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;[[MyTown東上線!!]]&#039;&#039;&#039;」ブログを展開し、地域の魅力を伝えることで地域活性化をはかっている。また、あさかみらいこども食堂にも協賛している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[彩夏祭]]にも協賛しており、北朝霞運動公園会場は「&#039;&#039;&#039;マイタウン&#039;&#039;&#039;北朝霞会場ステージ」、朝霞会場メイン通りは「&#039;&#039;&#039;マイタウン&#039;&#039;&#039;通り」と称される。&lt;br /&gt;
[[ファイル:まいたん.jpg|サムネイル|株式会社マイタウン公式キャラクター「まいたん」(2025年11月23日、[[マルイファミリー志木]]前で撮影)]]&lt;br /&gt;
なお、株式会社マイタウン公式キャラクター「まいたん」もイベント等で活動している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==沿革==&lt;br /&gt;
*平成四年（1992年）：11月、&#039;&#039;&#039;株式会社マイタウン朝霞&#039;&#039;&#039;　設立&lt;br /&gt;
*平成十三年（2001年）：4月、分譲住宅事業をスタート&lt;br /&gt;
*平成十七年（2005年）：11月、朝霞市根岸台5-4-6の新社屋に本社移転、社名を&#039;&#039;&#039;株式会社マイタウン&#039;&#039;&#039;に変更。&lt;br /&gt;
*平成二十三年（2011年）：4月、朝霞市三原2-19-20に新社屋・志木支店開設。5月、	本社を志木支店へ移転して志木本店とし、朝霞本社を朝霞支店に変更。&lt;br /&gt;
*平成二十五年（2013年）：6月、保谷支店オープン&lt;br /&gt;
*平成二十九年（2017年）：1月、成増支店オープン&lt;br /&gt;
*平成三十年（2018年）：9月、[[マルイファミリー志木]]3FにNATURIMオープン。11月	、丸井志木店オープン。&lt;br /&gt;
*令和二年（2020年）：6月、&#039;&#039;&#039;MyTown東上線!&#039;&#039;&#039;!の掲載開始。&lt;br /&gt;
*令和三年（2021年）：7月、設立30周年を機に、企業イメージキャラクターに菅野美穂を起用。&lt;br /&gt;
*令和四年（2022年）：11月、マイタウンベース開設（志木駅）&lt;br /&gt;
*令和五年（2023年）：9月、ふじみ野店オープン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==MyTown東上線!!==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;[[MyTown東上線!!]]も参照&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
株式会社マイタウンは、ローカルパワーエンジン株式会社に委託して「[https://machi.asaka-mytown.co.jp/ My Town 東上線!!]」サイトを運営している。東武東上線内の朝霞、志木、新座、和光、みずほ台、鶴瀬、上福岡、ふじみ野を活性化することを目的とし、情報発信を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:不動産会社|まいたうん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E4%BC%81%E6%A5%AD&amp;diff=285</id>
		<title>カテゴリ:企業</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E4%BC%81%E6%A5%AD&amp;diff=285"/>
		<updated>2026-04-24T10:10:20Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「ききよう」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:シラキのコホリ|ききよう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E4%B8%8D%E5%8B%95%E7%94%A3%E4%BC%9A%E7%A4%BE&amp;diff=284</id>
		<title>カテゴリ:不動産会社</title>
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		<updated>2026-04-24T10:09:19Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「ふとうさんかいしや」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:企業|ふとうさんかいしや]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>株式会社マイタウン</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3&amp;diff=283"/>
		<updated>2026-04-20T12:53:31Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* MyTown東上線!! */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;株式会社マイタウンは、地域密着の不動産会社・ハウスメーカーとして活動している。本社は[[朝霞市]][[三原]]。新築一戸建て・中古一戸建て・分譲住宅・一軒家を紹介している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公式サイト：https://www.asaka-mytown.co.jp/&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
志木本店・丸井志木店・朝霞店・成増店・保谷店の五店舗を展開し、東武東上線・西武池袋線沿線の郊外エリアを得意としている。つまり、旧[[新座郡]]エリアを中心としたエリアに展開しているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地探しから手がけ、自社設計・自社施工の「分譲住宅事業」「注文住宅事業」を展開するトラストステージ事業を主力としている。また、マルイファミリー志木には&#039;&#039;&#039;NATURIM&#039;&#039;&#039;という雑貨店も出店している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;[[MyTown東上線!!]]&#039;&#039;&#039;」ブログを展開し、地域の魅力を伝えることで地域活性化をはかっている。また、あさかみらいこども食堂にも協賛している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[彩夏祭]]にも協賛しており、北朝霞運動公園会場は「&#039;&#039;&#039;マイタウン&#039;&#039;&#039;北朝霞会場ステージ」、朝霞会場メイン通りは「&#039;&#039;&#039;マイタウン&#039;&#039;&#039;通り」と称される。&lt;br /&gt;
[[ファイル:まいたん.jpg|サムネイル|株式会社マイタウン公式キャラクター「まいたん」(2025年11月23日、[[マルイファミリー志木]]前で撮影)]]&lt;br /&gt;
なお、株式会社マイタウン公式キャラクター「まいたん」もイベント等で活動している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==沿革==&lt;br /&gt;
*平成四年（1992年）：11月、&#039;&#039;&#039;株式会社マイタウン朝霞&#039;&#039;&#039;　設立&lt;br /&gt;
*平成十三年（2001年）：4月、分譲住宅事業をスタート&lt;br /&gt;
*平成十七年（2005年）：11月、朝霞市根岸台5-4-6の新社屋に本社移転、社名を&#039;&#039;&#039;株式会社マイタウン&#039;&#039;&#039;に変更。&lt;br /&gt;
*平成二十三年（2011年）：4月、朝霞市三原2-19-20に新社屋・志木支店開設。5月、	本社を志木支店へ移転して志木本店とし、朝霞本社を朝霞支店に変更。&lt;br /&gt;
*平成二十五年（2013年）：6月、保谷支店オープン&lt;br /&gt;
*平成二十九年（2017年）：1月、成増支店オープン&lt;br /&gt;
*平成三十年（2018年）：9月、[[マルイファミリー志木]]3FにNATURIMオープン。11月	、丸井志木店オープン。&lt;br /&gt;
*令和二年（2020年）：6月、&#039;&#039;&#039;MyTown東上線!&#039;&#039;&#039;!の掲載開始。&lt;br /&gt;
*令和三年（2021年）：7月、設立30周年を機に、企業イメージキャラクターに菅野美穂を起用。&lt;br /&gt;
*令和四年（2022年）：11月、マイタウンベース開設（志木駅）&lt;br /&gt;
*令和五年（2023年）：9月、ふじみ野店オープン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==MyTown東上線!!==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;[[MyTown東上線!!]]も参照&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
株式会社マイタウンは、ローカルパワーエンジン株式会社に委託して「[https://machi.asaka-mytown.co.jp/ My Town 東上線!!]」サイトを運営している。東武東上線内の朝霞、志木、新座、和光、みずほ台、鶴瀬、上福岡、ふじみ野を活性化することを目的とし、情報発信を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:不動産会社|まいたうん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=MyTown%E6%9D%B1%E4%B8%8A%E7%B7%9A!!&amp;diff=282</id>
		<title>MyTown東上線!!</title>
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		<updated>2026-04-20T12:53:17Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「株式会社マイタウンは、ローカルパワーエンジン株式会社に委託して「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;My Town 東上線!!&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;」サイトを運営している。  https://machi.asaka-mytown.co.jp/  東武東上線内の朝霞、志木、新座、和光、みずほ台、鶴瀬、上福岡、ふじみ野を活性化することを目的とし、グルメ、ショッピング、スポーツ、ビジネス、レジャー、公共施設、医療、子育て、教育、…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[株式会社マイタウン]]は、ローカルパワーエンジン株式会社に委託して「&#039;&#039;&#039;My Town 東上線!!&#039;&#039;&#039;」サイトを運営している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
https://machi.asaka-mytown.co.jp/&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東武東上線内の朝霞、志木、新座、和光、みずほ台、鶴瀬、上福岡、ふじみ野を活性化することを目的とし、グルメ、ショッピング、スポーツ、ビジネス、レジャー、公共施設、医療、子育て、教育、美容・健康、習い事といったカテゴリーで、様々な施設やイベントを紹介している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も古い記事は、2020年6月1日付「[https://machi.asaka-mytown.co.jp/leisure/park/asaka-shiroyama-park/ 朝霞に眠る歴史！岡の城山公園]」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:Webサイト|MyTownとうしようせん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<updated>2026-04-20T11:51:53Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「めていあ」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:シラキのコホリ|めていあ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>カテゴリ:Webサイト</title>
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		<updated>2026-04-20T11:51:17Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:メディア|うえふさいと]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>カテゴリ:Webサイト</title>
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		<updated>2026-04-20T11:50:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「メディア」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[メディア]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%8F%B7%E5%A4%96NET&amp;diff=278</id>
		<title>号外NET</title>
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		<updated>2026-04-20T08:21:20Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;「号外NET」は、地域ニュースサイトである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2014年1月、関西でスタート。2025年現在、全国230エリアで展開している。市町村ごとに主婦ライターが毎日記事を執筆している。内容は、地域の開店閉店情報、地域イベント、人気グルメネタなど、地域の魅力を再発見することを目指している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
運営は、大阪市東淀川区東淡路に本拠を置く「本氣（マジ）メディア株式会社」（1997年創業）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==新座郡エリア==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧[[新羅郡]]・[[新座郡]]エリアは、以下4地域版でカバーされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [https://niiza-shiki.goguynet.jp/ 号外NET 新座市・志木市] &lt;br /&gt;
** 現在のライター：にざしき&lt;br /&gt;
** 最古の記事＝2019/05/10「[https://niiza-shiki.goguynet.jp/2019/05/10/itatoma/ 【新座市】志木駅前のイタリアントマトが閉店…。]」 &lt;br /&gt;
* [https://asaka-wako.goguynet.jp/ 号外NET 朝霞市・和光市]&lt;br /&gt;
** 現在のライター：ほたて→はなみずき&lt;br /&gt;
** 最古の記事＝2019/07/21「[https://asaka-wako.goguynet.jp/2019/07/21/asakadenkichiopen/ 【朝霞市】デンキチ朝霞店オープン日は約300mの行列ができていました‼︎]」&lt;br /&gt;
* [https://nerima.goguynet.jp/ 号外NET 練馬区] &lt;br /&gt;
** 現在のライター：みにもも&lt;br /&gt;
** 最古の記事＝2019/06/05 「[https://nerima.goguynet.jp/2019/06/05/kojimaheiten/ 【練馬区】氷川台駅にある「中華蕎麦こじま」が閉店してしまいました！]」&lt;br /&gt;
* [https://nishitokyo.goguynet.jp/ 号外NET 西東京市]&lt;br /&gt;
** 現在のライター：いろは二歩&lt;br /&gt;
** 最古の記事＝2021/09/01 「[https://nishitokyo.goguynet.jp/2021/09/01/seiyu/ 【西東京市】惣菜だけじゃない、種類豊富で安くておいしい焼きたてパンも買える！西友保谷店のベーカリーコーナーに行ってみました]」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地元の新規開店・閉店情報をはじめとして、イベントなど、地域に密着した記事が多い。また、読者から寄せられた情報に加え、実際に訪問・購入・食事している記事が多く、地域の最新ニュースを得るには最適のサイトである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==沿革==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 1997年 大阪市東淀川区大道南で個人事業「アルマジック」創業。クーポンフリーペーパー「ゴーガイチケット上新庄版、東大阪版、大東・四条畷版」創刊&lt;br /&gt;
* 2000年 東淀川区小松に移転、個人から法人「有限会社アルマジック」に移行。ゴーガイ.net（携帯版提示型）スタート（Ver.1）&lt;br /&gt;
* 2002年 株式会社に変更。&lt;br /&gt;
* 2005年 ゴーガイチケットケータイ版スタート（Ver.2）&lt;br /&gt;
* 2008年 「本氣メディア株式会社」に社名変更&lt;br /&gt;
* 2012年 編集会社「株式会社ゴーガイチケット」設立&lt;br /&gt;
* 2013年 「朝日新聞がお届けするゴーガイチケット大阪府版」77万部を発行&lt;br /&gt;
* 2014年 地域ニュースサイト　号外NET東淀川がスタート&lt;br /&gt;
* 2020年 号外NET 100エリア達成&lt;br /&gt;
* 2021年 号外NET 200エリア達成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:Webサイト|こうかいねつと]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3&amp;diff=277</id>
		<title>株式会社マイタウン</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3&amp;diff=277"/>
		<updated>2026-04-19T15:27:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;株式会社マイタウンは、地域密着の不動産会社・ハウスメーカーとして活動している。本社は[[朝霞市]][[三原]]。新築一戸建て・中古一戸建て・分譲住宅・一軒家を紹介している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公式サイト：https://www.asaka-mytown.co.jp/&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
志木本店・丸井志木店・朝霞店・成増店・保谷店の五店舗を展開し、東武東上線・西武池袋線沿線の郊外エリアを得意としている。つまり、旧[[新座郡]]エリアを中心としたエリアに展開しているといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地探しから手がけ、自社設計・自社施工の「分譲住宅事業」「注文住宅事業」を展開するトラストステージ事業を主力としている。また、マルイファミリー志木には&#039;&#039;&#039;NATURIM&#039;&#039;&#039;という雑貨店も出店している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;MyTown東上線!!&#039;&#039;&#039;」ブログを展開し、地域の魅力を伝えることで地域活性化をはかっている。また、あさかみらいこども食堂にも協賛している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[彩夏祭]]にも協賛しており、北朝霞運動公園会場は「&#039;&#039;&#039;マイタウン&#039;&#039;&#039;北朝霞会場ステージ」、朝霞会場メイン通りは「&#039;&#039;&#039;マイタウン&#039;&#039;&#039;通り」と称される。&lt;br /&gt;
[[ファイル:まいたん.jpg|サムネイル|株式会社マイタウン公式キャラクター「まいたん」(2025年11月23日、[[マルイファミリー志木]]前で撮影)]]&lt;br /&gt;
なお、株式会社マイタウン公式キャラクター「まいたん」もイベント等で活動している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==沿革==&lt;br /&gt;
*平成四年（1992年）：11月、&#039;&#039;&#039;株式会社マイタウン朝霞&#039;&#039;&#039;　設立&lt;br /&gt;
*平成十三年（2001年）：4月、分譲住宅事業をスタート&lt;br /&gt;
*平成十七年（2005年）：11月、朝霞市根岸台5-4-6の新社屋に本社移転、社名を&#039;&#039;&#039;株式会社マイタウン&#039;&#039;&#039;に変更。&lt;br /&gt;
*平成二十三年（2011年）：4月、朝霞市三原2-19-20に新社屋・志木支店開設。5月、	本社を志木支店へ移転して志木本店とし、朝霞本社を朝霞支店に変更。&lt;br /&gt;
*平成二十五年（2013年）：6月、保谷支店オープン&lt;br /&gt;
*平成二十九年（2017年）：1月、成増支店オープン&lt;br /&gt;
*平成三十年（2018年）：9月、[[マルイファミリー志木]]3FにNATURIMオープン。11月	、丸井志木店オープン。&lt;br /&gt;
*令和二年（2020年）：6月、&#039;&#039;&#039;MyTown東上線!&#039;&#039;&#039;!の掲載開始。&lt;br /&gt;
*令和三年（2021年）：7月、設立30周年を機に、企業イメージキャラクターに菅野美穂を起用。&lt;br /&gt;
*令和四年（2022年）：11月、マイタウンベース開設（志木駅）&lt;br /&gt;
*令和五年（2023年）：9月、ふじみ野店オープン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==MyTown東上線!!==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
株式会社マイタウンは、ローカルパワーエンジン株式会社に委託して「[https://machi.asaka-mytown.co.jp/ My Town 東上線!!]」サイトを運営している。東武東上線内の朝霞、志木、新座、和光、みずほ台、鶴瀬、上福岡、ふじみ野を活性化することを目的とし、情報発信を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最も古い記事は、2020年6月1日付「[https://machi.asaka-mytown.co.jp/leisure/park/asaka-shiroyama-park/ 朝霞に眠る歴史！岡の城山公園]」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グルメ、ショッピング、スポーツ、ビジネス、レジャー、公共施設、医療、子育て、教育、美容・健康、習い事といったカテゴリーで、様々な施設やイベントを紹介している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:不動産会社|まいたうん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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