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	<title>シラキのコホリ - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-09-06T05:19:25Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E7%BE%85&amp;diff=406</id>
		<title>新羅</title>
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		<updated>2026-08-29T01:51:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;新羅&#039;&#039;&#039;（しらぎ）は、古代、朝鮮半島南東部にあり、後に朝鮮半島全域を支配した国家である。[[新羅郡]]は、新羅出身の渡来人を[[武蔵国]]に置いたことに由来する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正確な建国の年代は不明である。『三国史記』「新羅本紀」の記載は伝説的であり、史実と認めるには難がある。中国の『資治通鑑』巻104・太元2（377年）年条に、「新羅が高句麗とともに前秦に朝貢した」という記事が文献上の初出であることから、4世紀末には建国されていたことがわかる。その当時は、北の大国である高句麗に従属する立場だった。また、西の百済・伽耶諸国、海の向こうの倭とは対立していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
智証麻立干は500年に即位し、不定であった国号を正式に新羅とし、王号を麻立干から「王」へと変更した。この後、新羅は国力を拡大し、朝鮮半島は三国時代に入る。その間、中国では隋、唐が建国され、朝鮮半島の諸国は隋・唐に朝貢した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
642年、高句麗で淵蓋蘇文がクーデターを起こして実権を握った。百済では前年に即位した義慈王が新羅に侵攻し、大耶城が陥落するなど、新羅の領土は大きく奪われた。643年には高句麗と百済が和睦を結び、さらに倭国とも連携しようとしたため、新羅は国際的に孤立することとなった。そこで、新羅は唐と結ぶことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
660年に唐・新羅連合軍が百済を攻め、滅亡させた。さらに663年の白村江の戦いで、百済の遺臣を支援した倭国軍が敗北し、百済は完全に滅亡した。唐はさらに668年、高句麗を滅亡させる。こうして新羅は勢力を守ったが、朝鮮半島北部には渤海が建国され、高句麗の遺民などが集った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このあとの統一新羅時代には国力は安定する。日本に&#039;&#039;&#039;[[新羅郡]]&#039;&#039;&#039;が置かれたのもこの時代、753年のことだった。しかし、やがて内乱が続く混乱の時代となる。892年に南西部に後百済、901年に北部に後高句麗が建国され、後三国時代に入った。後高句麗の武将によるクーデターで高麗が建国された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
935年、新羅の敬順王が高麗に帰順。これにより新羅は滅亡した。高麗は936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==国号==&lt;br /&gt;
当初は「斯蘆」（しろ、サロ）と称していたが、503年に「新羅（シルラ）」を正式な国号とした。倭では「シンラ」と呼ぶこともあったが、シラキ、シラギと呼ぶようになる。「キ（ギ）」がついた理由は明らかではない。城＝キという説、ギは百済人による蔑称との説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鮎貝房之進『雑攷』第二輯　上巻「日本の韓、新羅、任那、百済、高麗、漢、呉、秦等の古訓に就きて」（『[[朝鮮国名攷]]』）（二）新羅（シラキ）をシラキと訓じたるに就きて　によれば、「サ」は「新しい」、「ロ／ラ」は「国」を表し、つまり「新しい国」という意味になる。このサの部分を意訳したのが「新」の文字であると考えられる。「新羅＝新しい国」だが、固有名詞化し、厳密には重複表現となる「新羅国（新しい国という名の国）」も通用されるようになった。キ（邑城）は日本語でも同様の意味で使われるが、「あたらしい国の邑城」という意味でシラキと呼ばれた、という考え方であり、当サイトではこの説を最有力としたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:歴史|しらき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E5%80%89%E9%A7%85&amp;diff=405</id>
		<title>新倉駅</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E5%80%89%E9%A7%85&amp;diff=405"/>
		<updated>2026-08-26T13:08:33Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]新倉駅&#039;&#039;&#039;は昭和九年（1934年）2月1日に開業した。開設当初は「新倉駅（にいぐら）」であったが、半年後の同年7月12日に「新倉駅（にいくら）」と濁らない読み方に改称されている。当時の所在地は埼玉県[[北足立郡]][[新倉村]]にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|昭和九年（一九三四）に開設された新倉駅（現[[和光市駅]]）は畑の中に点在するだけで、その周辺にはほとんど人家は見当たらなかった。昭和一三年当時、一日の乗客数は一六〇人余にすぎず、静かな田園地帯であった。|『和光市史 通史編 下巻』p.800}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|軍需工場の進出にともない、白子村、新倉村ともに村の様子を大きく変貌させた。昭和一〇年に両村合わせて四八四〇人であった人口は、昭和二〇年(一九四五）には一万人を超え、この間に農家戸数は六〇戸近く減少した。そして、昭和九年に開設した東武東上線新倉駅の乗客数は、関設当時の一日平均九四人からその約ニニ倍にも達したのである。|『和光市史 通史編 下巻』p.533}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、昭和十八年（1943年）4月1日、新倉村と[[白子村]]が合併して[[大和町]]になったが、「[[大和町駅]]（やまとまち）」への改称は昭和二十六年（1951年）10月1日と遅れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、昭和四十五年（1970年）10月31日、[[大和町]]が改称して[[和光町]]となり、即日市制施行により[[和光市]]となった。「[[和光市駅]]（わこうし）」への改称は、同年12月20日であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名称変更の経緯についての記載の混乱==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和光市や東武鉄道の公式サイトで、当初の駅名が「にいくら駅」、その半年後に「新倉駅」と改名した、との情報が掲載されている。公式の場での記載であるため、この情報がWikipediaでも採用されてしまっている。しかし、これは誤りであり、当初から「新倉」駅だったが、読み方だけ「にいぐら」から「にいくら」に変更されたというのが事実であると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Wikipediaの根拠となった公式サイトの記載 ===&lt;br /&gt;
[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 和光市駅 - Wikipedia]（2026年8月11日閲覧）では、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|1914年（大正3年）5月1日に東上鉄道（現・東武東上本線）池袋駅 - 田面沢駅の開業から大幅に遅れて、1934年（昭和9年）2月1日に埼玉県新座郡新倉村ににいくら駅として開業したのが始まりである。開業直後の同年7月12日に新倉駅へ変更した。|[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 和光市駅 - Wikipedia]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載されており&amp;lt;ref&amp;gt;本文中の「埼玉県新座郡新倉村」との記載は誤りである。昭和九年当時、新座郡はすでに北足立郡に編入されていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;、東武鉄道[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅]と、それを参考にしたと思われる[https://web.archive.org/web/20220315050052/http://wako-kurashinabi.jp/rekisi.html 和光市くらしナビ-和光市の歴史]のアーカイブを参照している。一方で、「『東武鉄道六十五年史』には、新倉駅（にいぐら）として開業し、後の7月12日に読みを（にいくら）へ改めた旨の記述がある。」との注記も行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Wikipediaの同項の[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 ノート:和光市駅]では、2011年のコメントにおいて、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|東武鉄道のウェブサイトには、「にいくら駅」で開業しその後「新倉駅」に変更したとあります。また、和光市のサイトにも「『にいくら駅』の開設を始め、」といった記述があることから、開業当時の駅名名称は「にいくら駅」であり、そののちに「新倉駅」に改名したのであると十分に言えます。|[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 ノート:和光市駅]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあり、東武鉄道と和光市のサイトに書かれているから間違いないという1ユーザーの判断をもとに、この情報が15年以上維持されていることがわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに、2026年8月時点の[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅｜東武鉄道公式サイト]では、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|開設当時は「にいくら駅」でしたが、半年後には当時の村名の「新倉駅」に変り、また町名が変更して「大和町駅」に変りました。|[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅｜東武鉄道公式サイト]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と明記されており、また、「和光市歴史の玉手箱」（和光市デジタルミュージアム）でも[https://rekitama-wako.jp/museum/hensen/showa/toujousen-niikuraeki.php 東上線 新倉駅]の項において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|昭和9年に東上線新倉駅（はじめは「にいくら」駅）は開業した。|[https://rekitama-wako.jp/museum/hensen/showa/toujousen-niikuraeki.php 東上線 新倉駅-和光市デジタルミュージアム]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記されており、公式なサイトの記載には確かにその旨の記載は見られる。&amp;lt;gallery widths=&amp;quot;360&amp;quot; heights=&amp;quot;360&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:和光市駅｜東武鉄道公式サイト.png|東武鉄道公式サイト「和光市駅」の記載（2026年8月）&lt;br /&gt;
ファイル:和光市歴史の玉手箱 新倉駅.png|「和光市歴史の玉手箱」の新倉駅ページ（2026年8月）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;さらに、この記載に基づき、「[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%80%89%E6%9D%91 新倉村 - Wikipedia]」でも&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 1934年（昭和9年）2月1日 - 東上鉄道（現：東武東上線）にいくら駅（現：和光市駅）が開業。&lt;br /&gt;
* 1934年（昭和9年）7月12日 - 駅名を新倉駅に変更。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 信頼できる情報源 ===&lt;br /&gt;
一方で、和光市史や『東武鉄道百年史』などの信頼できる書籍においては、「にいくら駅」であった時期があるという記載はまったく見られない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当サイトでは、東武鉄道社史編纂室『東武鉄道百年史［資料編］』（東武鉄道株式会社、平成10年9月30日）の記載が正しいものとして採用したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:東武鉄道百年史資料編p220.png]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 和光市（わこうし）&lt;br /&gt;
** 昭和9.2.1（新倉（にいぐら））&lt;br /&gt;
** 9.7.12（「にいくら」と改称）&lt;br /&gt;
** 26.10.1（大和町（やまとまち）と改称）&lt;br /&gt;
** 45.12.20（現駅名に改称）&lt;br /&gt;
** 62.8.25（有楽町線接着）＊営団業務を受託&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、新倉・大和町・和光市はいずれもルビとして読み方が記されているが、「にいくら」のみ、カギカッコ付きで記されている。これは、読み方のみを変更したものと読み取れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:過去の駅|にいくら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<updated>2026-08-26T12:54:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;/* ここに記述したCSSはすべての外装に反映されます */&lt;br /&gt;
/* wikitable/prettytable class for skinning normal tables */&lt;br /&gt;
table.wikitable,&lt;br /&gt;
table.prettytable {&lt;br /&gt;
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}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
table.wikitable th, table.wikitable td,&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
/* Google Fontsから BIZ UDP明朝 を読み込む */&lt;br /&gt;
@import url(&#039;https://googleapis.com&#039;);&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
/* 見出しに BIZ UDP明朝 を適用する */&lt;br /&gt;
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}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>膝折駅</title>
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		<updated>2026-08-17T15:15:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;東上鉄道（東武東上線）膝折駅&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（ひざおりえき）は、東上鉄道開通の大正三年（1914年）5月1日に開業した。当時の所在地は埼玉県北足立郡膝折村にあたる。  大正九年（1926年）7月27日、東武鉄道と東上鉄道が合併し、東武東上線の駅となる。  その後、昭和七年（1932年）5月1日、町制施行と同時に改名し、朝霞町となる。同5月10…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[[東上鉄道]]（[[東武東上線]]）膝折駅&#039;&#039;&#039;（ひざおりえき）は、[[東上鉄道]]開通の大正三年（1914年）5月1日に開業した。当時の所在地は埼玉県[[北足立郡]][[膝折村]]にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正九年（1926年）7月27日、東武鉄道と東上鉄道が合併し、東武東上線の駅となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、昭和七年（1932年）5月1日、町制施行と同時に改名し、[[朝霞町]]となる。同5月10日、[[朝霞駅]]に改称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
[[Category:過去の駅|ひざおり]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%94%BA%E9%A7%85&amp;diff=402</id>
		<title>大和町駅</title>
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		<updated>2026-08-17T14:56:57Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]大和町駅&#039;&#039;&#039;（やまとまちえき）は、昭和二十六年（1951年）10月1日に[[新倉駅]]から改称した駅名である。昭和十八年（1943年）4月1日、[[北足立郡]][[新倉村]]と[[白子村]]が合併して[[大和町]]になったことによるものであるが、地名の変更から8年も経っての駅名変更であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和四十五年（1970年）10月31日、[[大和町]]が改称して[[和光町]]となり、即日市制施行により[[和光市]]となった。これにともない、同年12月20日、「[[和光市駅]]（わこうし）」への改称が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|&amp;lt;p&amp;gt;&#039;&#039;&#039;てんやわんやの市名変更&#039;&#039;&#039;&amp;lt;/p&amp;gt;&amp;lt;p&amp;gt;（前略）東上線「大和町駅」。和光市になっても駅名はいぜんと変わっていない。町役場から「和光市駅にしてほしい」と、駅側に連絡あったのは9月上旬。大谷久雄駅長は直ちに東上業務局に連絡、本社伺いを立てたが最終的には運輸省の認可がおり「鉄道広報」に発表して全国に告示してからでないと駅名は変えられない。&amp;lt;br /&amp;gt;　切付の手配も済ませてからという段どりなので、市制施行にはとても間に合わない。そうかといってノンビリも出来ず、12月20日をメドにもっか準備を進めているが、昭和26年「にいくら駅」が「やまとまち駅」になったこともあり、駅名改称はこんどが三度目となる。|「和光市民新聞」昭和45.11.5号より／『和光市史 通史編 下巻』p.760}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:過去の駅|やまとまちええき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E9%A7%85&amp;diff=401</id>
		<title>カテゴリ:駅</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E9%A7%85&amp;diff=401"/>
		<updated>2026-08-11T16:01:28Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「*えき」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[カテゴリ:鉄道|*えき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E9%A7%85&amp;diff=400</id>
		<title>カテゴリ:過去の駅</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E9%A7%85&amp;diff=400"/>
		<updated>2026-08-11T16:01:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:駅|*かこのえき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=399</id>
		<title>旧新座郡エリアの現在の町丁名</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=399"/>
		<updated>2026-08-11T15:46:47Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;以下の表は、かつて[[新座郡]]に含まれたことのあるエリアについて、現在の市区町丁および郵便番号を示したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本表では、現在の行政区域を前提とするため、志木市の宗岡地区（もと入間郡）、西東京市の旧田無市エリア（もと多摩郡）も含む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 市 !! 町名 !! よみがな !! 丁目 !! 郵便番号&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[志木市]]||[[上宗岡 (志木市)|上宗岡]]&amp;lt;ref&amp;gt;宗岡地域は、実際には新座郡に入ったことはない。明治二十九年（1896年）新座郡が[[北足立郡]]と合併して新座郡が消滅した後、昭和十九年に宗岡村は他村と合併して[[志紀町]]となり、北足立郡に入った。&amp;lt;/ref&amp;gt;||かみむねおか||一丁目～五丁目||353-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[中宗岡 (志木市)|中宗岡]]||なかむねおか||一丁目～五丁目||353-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[下宗岡 (志木市)|下宗岡]]||しもむねおか||一丁目～四丁目||353-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[宗岡 (志木市)|宗岡]]||むねおか||　||353-0008&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[本町 (志木市)|&#039;&#039;&#039;本町&#039;&#039;&#039;]]||ほんちょう||一丁目～六丁目||353-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[幸町 (志木市)|&#039;&#039;&#039;幸町&#039;&#039;&#039;]]||さいわいちょう||一丁目～四丁目||353-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[館 (志木市)|&#039;&#039;&#039;館&#039;&#039;&#039;]]||たて||一丁目～二丁目||353-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[富士見市]]&amp;lt;ref&amp;gt;本表では、富士見市のうち、かつて[[北足立郡]][[志紀町]]の一部を構成していた旧水谷村の区域のみを示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;||榎町||えのきちょう|| ||354-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||貝塚||かいづか||一丁目～二丁目||354-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||東みずほ台||ひがしみずほだい||一丁目～四丁目||354-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||&#039;&#039;&#039;[[針ケ谷 (富士見市)|針ケ谷]]&amp;lt;ref&amp;gt;富士見市[[針ヶ谷]]はかつて[[新座郡]][[舘村]]の一部だったという記載がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||はりがや||一丁目～二丁目、大字||354-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||西みずほ台||にしみずほだい||一丁目～三丁目||354-0018&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水子||みずこ||大字||354-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水谷||みずたに||一丁目～二丁目||354-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水谷東||みずたにひがし||一丁目～三丁目||354-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[新座市]]||[[東北 (新座市)|&#039;&#039;&#039;東北&#039;&#039;&#039;]]||とおほく&amp;lt;ref&amp;gt;新座市東北の読み方は、公的には「とうほく」ではなく「とおほく」となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;||一丁目～二丁目||352-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[東 (新座市)|&#039;&#039;&#039;東&#039;&#039;&#039;]]||ひがし||一丁目～三丁目||352-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[北野 (新座市)|&#039;&#039;&#039;北野&#039;&#039;&#039;]]||きたの||一丁目～三丁目||352-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[大和田 (新座市)|&#039;&#039;&#039;大和田&#039;&#039;&#039;]]||おおわだ||一丁目～五丁目||352-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[中野 (新座市)|&#039;&#039;&#039;中野&#039;&#039;&#039;]]||なかの||一丁目～二丁目||352-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新座 (新座市)|&#039;&#039;&#039;新座&#039;&#039;&#039;]]||にいざ||一丁目～三丁目||352-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野火止 (新座市)|&#039;&#039;&#039;野火止&#039;&#039;&#039;]]||のびとめ||一丁目～八丁目||352-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[畑中 (新座市)|&#039;&#039;&#039;畑中&#039;&#039;&#039;]]||はたなか||一丁目～三丁目||352-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新塚 (新座市)|&#039;&#039;&#039;新塚&#039;&#039;&#039;]]||にいづか||一丁目／大字新塚||352-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栄 (新座市)|&#039;&#039;&#039;栄&#039;&#039;&#039;]]||さかえ||一丁目～五丁目||352-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[池田 (新座市)|&#039;&#039;&#039;池田&#039;&#039;&#039;]]||いけだ||一丁目～五丁目||352-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[馬場 (新座市)|&#039;&#039;&#039;馬場&#039;&#039;&#039;]]||ばば||一丁目～四丁目||352-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[菅沢 (新座市)|&#039;&#039;&#039;菅沢&#039;&#039;&#039;]]||すがさわ||一丁目～二丁目||352-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[あたご (新座市)|&#039;&#039;&#039;あたご&#039;&#039;&#039;]]||あたご||一丁目～三丁目||352-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[本多 (新座市)|&#039;&#039;&#039;本多&#039;&#039;&#039;]]||ほんだ||一丁目～二丁目||352-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[堀ノ内 (新座市)|&#039;&#039;&#039;堀ノ内&#039;&#039;&#039;]]||ほりのうち||一丁目～五丁目||352-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[道場 (新座市)|&#039;&#039;&#039;道場&#039;&#039;&#039;]]||どうじょう||一丁目～二丁目||352-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[片山 (新座市)|&#039;&#039;&#039;片山&#039;&#039;&#039;]]||かたやま||一丁目～三丁目||352-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[西堀 (新座市)|&#039;&#039;&#039;西堀&#039;&#039;&#039;]]||にしぼり||一丁目～三丁目||352-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新堀 (新座市)|&#039;&#039;&#039;新堀&#039;&#039;&#039;]]||しんぼり||一丁目～三丁目||352-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[石神 (新座市)|&#039;&#039;&#039;石神&#039;&#039;&#039;]]||いしがみ||一丁目～五丁目||352-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野寺 (新座市)|&#039;&#039;&#039;野寺&#039;&#039;&#039;]]||のでら||一丁目～五丁目||352-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栗原 (新座市)|&#039;&#039;&#039;栗原&#039;&#039;&#039;]]||くりはら||一丁目～六丁目||352-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[朝霞市]]||[[上内間木 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;上内間木&#039;&#039;&#039;]]||かみうちまぎ||大字||351-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[下内間木 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;下内間木&#039;&#039;&#039;]]||しもうちまぎ||大字||351-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[台 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;台&#039;&#039;&#039;]]||だい||大字||351-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;根岸&#039;&#039;&#039;]]||ねぎし||大字||351-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸台 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;根岸台&#039;&#039;&#039;]]||ねぎしだい||一丁目～八丁目||351-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[仲町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;仲町&#039;&#039;&#039;]]||なかちょう||一丁目～二丁目||351-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[岡 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;岡&#039;&#039;&#039;]]||おか||一丁目～三丁目、大字||351-0007&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[本町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;本町&#039;&#039;&#039;]]||ほんちょう||一丁目～三丁目||351-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[栄町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;栄町&#039;&#039;&#039;]]||さかえちょう||一丁目～五丁目||351-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;膝折&#039;&#039;&#039;]]||ひざおり||大字||351-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;膝折町&#039;&#039;&#039;]]||ひざおりちょう||一丁目～五丁目||351-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[幸町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;幸町&#039;&#039;&#039;]]||さいわいちょう||一丁目～三丁目||351-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[青葉台 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;青葉台&#039;&#039;&#039;]]||あおばだい||一丁目||351-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西弁財 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;西弁財&#039;&#039;&#039;]]||にしべんざい||一丁目～二丁目||351-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[東弁財 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;東弁財&#039;&#039;&#039;]]||ひがしべんざい||一丁目～三丁目||351-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[溝沼 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;溝沼&#039;&#039;&#039;]]||みぞぬま||一丁目～七丁目、大字||351-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[泉水 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;泉水&#039;&#039;&#039;]]||せんずい||一丁目～三丁目||351-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[三原 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;三原&#039;&#039;&#039;]]||みはら||一丁目～五丁目||351-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[宮戸 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;宮戸&#039;&#039;&#039;]]||みやど||一丁目～四丁目、大字||351-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[田島 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;田島&#039;&#039;&#039;]]||たじま||一丁目～二丁目、大字||351-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[浜崎 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;浜崎&#039;&#039;&#039;]]||はまさき||一丁目～四丁目、大字||351-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西原 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;西原&#039;&#039;&#039;]]||にしはら||一丁目～二丁目||351-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[朝志ケ丘 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;朝志ケ丘&#039;&#039;&#039;]]||あさしがおか||一丁目～四丁目||351-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[北原 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;北原&#039;&#039;&#039;]]||きたはら||一丁目～二丁目||351-0036&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||&#039;&#039;&#039;自衛隊&amp;lt;ref&amp;gt;朝霞市の町丁別人口統計では、自衛隊の人口数も含まれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|| ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[和光市]]||[[白子 (和光市)|&#039;&#039;&#039;白子&#039;&#039;&#039;]]||しらこ||一丁目～四丁目||351-0101&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪 (和光市)|&#039;&#039;&#039;諏訪&#039;&#039;&#039;]]||すわ|| ||351-0102&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪原団地 (和光市)|&#039;&#039;&#039;諏訪原団地&#039;&#039;&#039;]]||すわはらだんち|| ||351-0103&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[南 (和光市)|&#039;&#039;&#039;南&#039;&#039;&#039;]]||みなみ||一丁目～二丁目||351-0104&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[西大和団地 (和光市)|&#039;&#039;&#039;西大和団地&#039;&#039;&#039;]]||にしやまとだんち||　||351-0105&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[広沢 (和光市)|&#039;&#039;&#039;広沢&#039;&#039;&#039;]]||ひろさわ|| ||351-0106&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[下新倉 (和光市)|&#039;&#039;&#039;下新倉&#039;&#039;&#039;]]||しもにいくら||一丁目～六丁目、大字||351-0111&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[丸山台 (和光市)|&#039;&#039;&#039;丸山台&#039;&#039;&#039;]]||まるやまだい||一丁目～三丁目||351-0112&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[中央 (和光市)|&#039;&#039;&#039;中央&#039;&#039;&#039;]]||ちゅうおう||一丁目～二丁目||351-0113&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[本町 (和光市)|&#039;&#039;&#039;本町&#039;&#039;&#039;]]||ほんちょう|| ||351-0114&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[新倉 (和光市)|&#039;&#039;&#039;新倉&#039;&#039;&#039;]]||にいくら||一丁目～八丁目、大字||351-0115&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||&#039;&#039;&#039;（松ノ木島町）&amp;lt;ref&amp;gt;1989年に郵便番号も割り振られているが、現在は新倉七丁目に含まれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||（まつのきじまちょう）|| ||351-0116&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[練馬区]]&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区の町丁について、ここでは大泉地区のみを示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[大泉学園町 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;大泉学園町&#039;&#039;&#039;]]||おおいずみがくえんちょう||一丁目～九丁目||178-0061&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[大泉町 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;大泉町&#039;&#039;&#039;]]||おおいずみまち||一丁目～六丁目||178-0062&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[南大泉 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;南大泉&#039;&#039;&#039;]]||みなみおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0064&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;西大泉&#039;&#039;&#039;]]||にしおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0065&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉町 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;西大泉町&#039;&#039;&#039;]]||にしおおいずみまち|| ||178-0066&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||東大泉&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区大泉地区のうち、東大泉は旧新座郡に含まれない。旧・豊島郡上土支田村のエリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||ひがしおおいずみ||一丁目～七丁目||178-0063&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[西東京市]]&amp;lt;ref&amp;gt;ここでは旧新座郡エリアに含まれる地域のみにリンクをつけている。すなわち、旧保谷市の範囲である。&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[ひばりが丘 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;ひばりが丘&#039;&#039;&#039;]]||ひばりがおか||一丁目～四丁目&amp;lt;ref&amp;gt;ひばりが丘三丁目2番のみ、旧「田無町ひばりが丘団地」であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;||202-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[ひばりが丘北 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;ひばりが丘北&#039;&#039;&#039;]]||ひばりがおかきた||一丁目～四丁目||202-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[北町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;北町&#039;&#039;&#039;]]||きたまち||一丁目～六丁目||202-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[下保谷 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;下保谷&#039;&#039;&#039;]]||しもほうや||一丁目～五丁目||202-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[住吉町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;住吉町&#039;&#039;&#039;]]||すみよしちょう||一丁目～六丁目||202-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[栄町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;栄町&#039;&#039;&#039;]]||さかえちょう||一丁目～三丁目||202-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[泉町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;泉町&#039;&#039;&#039;]]||いずみちょう||一丁目～六丁目||202-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;東町&#039;&#039;&#039;]]||ひがしちょう||一丁目～六丁目||202-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[中町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;中町&#039;&#039;&#039;]]||なかまち||一丁目～六丁目||202-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[富士町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;富士町&#039;&#039;&#039;]]||ふじまち||一丁目～六丁目||202-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[保谷町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;保谷町&#039;&#039;&#039;]]||ほうやちょう||一丁目～六丁目||202-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東伏見 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;東伏見&#039;&#039;&#039;]]||ひがしふしみ||一丁目～六丁目||202-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[柳沢 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;柳沢&#039;&#039;&#039;]]||やぎさわ||一丁目～六丁目||202-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[新町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;新町&#039;&#039;&#039;]]||しんまち||一丁目～六丁目||202-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市&amp;lt;ref&amp;gt;郵便番号が188で始まるのは、旧田無市（旧多摩郡）エリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||谷戸町||やとちょう||一丁目～三丁目||188-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||緑町||みどりちょう||一丁目～三丁目||188-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||北原町||きたはらちょう||一丁目～三丁目||188-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||西原町||にしはらちょう||一丁目～五丁目||188-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||田無町||たなしちょう||一丁目～七丁目||188-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||南町||みなみちょう||一丁目～六丁目||188-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||向台町||むこうだいちょう||一丁目～六丁目||188-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||芝久保町||しばくぼちょう||一丁目～五丁目||188-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[清瀬市]]||&#039;&#039;&#039;[[中里 (清瀬市)|中里]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市中里一丁目の南半分、中里三丁目の南端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩、中里、上清戸。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||なかざと||一丁目～六丁目||204-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|清瀬市||&#039;&#039;&#039;[[梅園 (清瀬市)|梅園]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市梅園二丁目の北側大半、梅園三丁目の北側大半は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||うめぞの||一丁目～三丁目||204-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東久留米市]]||&#039;&#039;&#039;[[野火止 (東久留米市)|野火止]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市野火止二丁目の北端、野火止三丁目の北端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は小山、北前沢、東下里。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||のびどめ||一丁目～三丁目||203-0041&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東久留米市||&#039;&#039;&#039;[[下里 (東久留米市)|下里]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市下里七丁目の北端、下里六丁目の北側大半、下里四丁目の北西部は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は中前沢、西下里、南前沢。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||しもさと||一丁目～七丁目||203-0043&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:現在の地域区分|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=398</id>
		<title>旧新座郡エリアの現在の町丁名</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=398"/>
		<updated>2026-08-11T15:45:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;以下の表は、かつて[[新座郡]]に含まれたことのあるエリアについて、現在の市区町丁および郵便番号を示したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本表では、現在の行政区域を前提とするため、志木市の宗岡地区（もと入間郡）、西東京市の旧田無市エリア（もと多摩郡）も含む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 市 !! 町名 !! よみがな !! 丁目 !! 郵便番号&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[志木市]]||&#039;&#039;&#039;[[上宗岡 (志木市)|上宗岡]]&amp;lt;ref&amp;gt;宗岡地域は、実際には新座郡に入ったことはない。明治二十九年（1896年）新座郡が[[北足立郡]]と合併して新座郡が消滅した後、昭和十九年に宗岡村は他村と合併して[[志紀町]]となり、北足立郡に入った。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||かみむねおか||一丁目～五丁目||353-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[中宗岡 (志木市)|&#039;&#039;&#039;中宗岡&#039;&#039;&#039;]]||なかむねおか||一丁目～五丁目||353-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[下宗岡 (志木市)|&#039;&#039;&#039;下宗岡&#039;&#039;&#039;]]||しもむねおか||一丁目～四丁目||353-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[宗岡 (志木市)|&#039;&#039;&#039;宗岡&#039;&#039;&#039;]]||むねおか||　||353-0008&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[本町 (志木市)|&#039;&#039;&#039;本町&#039;&#039;&#039;]]||ほんちょう||一丁目～六丁目||353-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[幸町 (志木市)|&#039;&#039;&#039;幸町&#039;&#039;&#039;]]||さいわいちょう||一丁目～四丁目||353-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[館 (志木市)|&#039;&#039;&#039;館&#039;&#039;&#039;]]||たて||一丁目～二丁目||353-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[富士見市]]&amp;lt;ref&amp;gt;本表では、富士見市のうち、かつて[[北足立郡]][[志紀町]]の一部を構成していた旧水谷村の区域のみを示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;||榎町||えのきちょう|| ||354-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||貝塚||かいづか||一丁目～二丁目||354-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||東みずほ台||ひがしみずほだい||一丁目～四丁目||354-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||&#039;&#039;&#039;[[針ケ谷 (富士見市)|針ケ谷]]&amp;lt;ref&amp;gt;富士見市[[針ヶ谷]]はかつて[[新座郡]][[舘村]]の一部だったという記載がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||はりがや||一丁目～二丁目、大字||354-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||西みずほ台||にしみずほだい||一丁目～三丁目||354-0018&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水子||みずこ||大字||354-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水谷||みずたに||一丁目～二丁目||354-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水谷東||みずたにひがし||一丁目～三丁目||354-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[新座市]]||[[東北 (新座市)|&#039;&#039;&#039;東北&#039;&#039;&#039;]]||とおほく&amp;lt;ref&amp;gt;新座市東北の読み方は、公的には「とうほく」ではなく「とおほく」となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;||一丁目～二丁目||352-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[東 (新座市)|&#039;&#039;&#039;東&#039;&#039;&#039;]]||ひがし||一丁目～三丁目||352-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[北野 (新座市)|&#039;&#039;&#039;北野&#039;&#039;&#039;]]||きたの||一丁目～三丁目||352-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[大和田 (新座市)|&#039;&#039;&#039;大和田&#039;&#039;&#039;]]||おおわだ||一丁目～五丁目||352-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[中野 (新座市)|&#039;&#039;&#039;中野&#039;&#039;&#039;]]||なかの||一丁目～二丁目||352-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新座 (新座市)|&#039;&#039;&#039;新座&#039;&#039;&#039;]]||にいざ||一丁目～三丁目||352-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野火止 (新座市)|&#039;&#039;&#039;野火止&#039;&#039;&#039;]]||のびとめ||一丁目～八丁目||352-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[畑中 (新座市)|&#039;&#039;&#039;畑中&#039;&#039;&#039;]]||はたなか||一丁目～三丁目||352-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新塚 (新座市)|&#039;&#039;&#039;新塚&#039;&#039;&#039;]]||にいづか||一丁目／大字新塚||352-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栄 (新座市)|&#039;&#039;&#039;栄&#039;&#039;&#039;]]||さかえ||一丁目～五丁目||352-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[池田 (新座市)|&#039;&#039;&#039;池田&#039;&#039;&#039;]]||いけだ||一丁目～五丁目||352-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[馬場 (新座市)|&#039;&#039;&#039;馬場&#039;&#039;&#039;]]||ばば||一丁目～四丁目||352-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[菅沢 (新座市)|&#039;&#039;&#039;菅沢&#039;&#039;&#039;]]||すがさわ||一丁目～二丁目||352-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[あたご (新座市)|&#039;&#039;&#039;あたご&#039;&#039;&#039;]]||あたご||一丁目～三丁目||352-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[本多 (新座市)|&#039;&#039;&#039;本多&#039;&#039;&#039;]]||ほんだ||一丁目～二丁目||352-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[堀ノ内 (新座市)|&#039;&#039;&#039;堀ノ内&#039;&#039;&#039;]]||ほりのうち||一丁目～五丁目||352-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[道場 (新座市)|&#039;&#039;&#039;道場&#039;&#039;&#039;]]||どうじょう||一丁目～二丁目||352-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[片山 (新座市)|&#039;&#039;&#039;片山&#039;&#039;&#039;]]||かたやま||一丁目～三丁目||352-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[西堀 (新座市)|&#039;&#039;&#039;西堀&#039;&#039;&#039;]]||にしぼり||一丁目～三丁目||352-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新堀 (新座市)|&#039;&#039;&#039;新堀&#039;&#039;&#039;]]||しんぼり||一丁目～三丁目||352-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[石神 (新座市)|&#039;&#039;&#039;石神&#039;&#039;&#039;]]||いしがみ||一丁目～五丁目||352-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野寺 (新座市)|&#039;&#039;&#039;野寺&#039;&#039;&#039;]]||のでら||一丁目～五丁目||352-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栗原 (新座市)|&#039;&#039;&#039;栗原&#039;&#039;&#039;]]||くりはら||一丁目～六丁目||352-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[朝霞市]]||[[上内間木 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;上内間木&#039;&#039;&#039;]]||かみうちまぎ||大字||351-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[下内間木 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;下内間木&#039;&#039;&#039;]]||しもうちまぎ||大字||351-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[台 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;台&#039;&#039;&#039;]]||だい||大字||351-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;根岸&#039;&#039;&#039;]]||ねぎし||大字||351-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸台 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;根岸台&#039;&#039;&#039;]]||ねぎしだい||一丁目～八丁目||351-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[仲町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;仲町&#039;&#039;&#039;]]||なかちょう||一丁目～二丁目||351-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[岡 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;岡&#039;&#039;&#039;]]||おか||一丁目～三丁目、大字||351-0007&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[本町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;本町&#039;&#039;&#039;]]||ほんちょう||一丁目～三丁目||351-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[栄町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;栄町&#039;&#039;&#039;]]||さかえちょう||一丁目～五丁目||351-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;膝折&#039;&#039;&#039;]]||ひざおり||大字||351-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;膝折町&#039;&#039;&#039;]]||ひざおりちょう||一丁目～五丁目||351-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[幸町 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;幸町&#039;&#039;&#039;]]||さいわいちょう||一丁目～三丁目||351-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[青葉台 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;青葉台&#039;&#039;&#039;]]||あおばだい||一丁目||351-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西弁財 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;西弁財&#039;&#039;&#039;]]||にしべんざい||一丁目～二丁目||351-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[東弁財 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;東弁財&#039;&#039;&#039;]]||ひがしべんざい||一丁目～三丁目||351-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[溝沼 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;溝沼&#039;&#039;&#039;]]||みぞぬま||一丁目～七丁目、大字||351-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[泉水 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;泉水&#039;&#039;&#039;]]||せんずい||一丁目～三丁目||351-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[三原 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;三原&#039;&#039;&#039;]]||みはら||一丁目～五丁目||351-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[宮戸 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;宮戸&#039;&#039;&#039;]]||みやど||一丁目～四丁目、大字||351-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[田島 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;田島&#039;&#039;&#039;]]||たじま||一丁目～二丁目、大字||351-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[浜崎 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;浜崎&#039;&#039;&#039;]]||はまさき||一丁目～四丁目、大字||351-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西原 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;西原&#039;&#039;&#039;]]||にしはら||一丁目～二丁目||351-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[朝志ケ丘 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;朝志ケ丘&#039;&#039;&#039;]]||あさしがおか||一丁目～四丁目||351-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[北原 (朝霞市)|&#039;&#039;&#039;北原&#039;&#039;&#039;]]||きたはら||一丁目～二丁目||351-0036&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||&#039;&#039;&#039;自衛隊&amp;lt;ref&amp;gt;朝霞市の町丁別人口統計では、自衛隊の人口数も含まれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|| ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[和光市]]||[[白子 (和光市)|&#039;&#039;&#039;白子&#039;&#039;&#039;]]||しらこ||一丁目～四丁目||351-0101&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪 (和光市)|&#039;&#039;&#039;諏訪&#039;&#039;&#039;]]||すわ|| ||351-0102&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪原団地 (和光市)|&#039;&#039;&#039;諏訪原団地&#039;&#039;&#039;]]||すわはらだんち|| ||351-0103&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[南 (和光市)|&#039;&#039;&#039;南&#039;&#039;&#039;]]||みなみ||一丁目～二丁目||351-0104&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[西大和団地 (和光市)|&#039;&#039;&#039;西大和団地&#039;&#039;&#039;]]||にしやまとだんち||　||351-0105&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[広沢 (和光市)|&#039;&#039;&#039;広沢&#039;&#039;&#039;]]||ひろさわ|| ||351-0106&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[下新倉 (和光市)|&#039;&#039;&#039;下新倉&#039;&#039;&#039;]]||しもにいくら||一丁目～六丁目、大字||351-0111&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[丸山台 (和光市)|&#039;&#039;&#039;丸山台&#039;&#039;&#039;]]||まるやまだい||一丁目～三丁目||351-0112&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[中央 (和光市)|&#039;&#039;&#039;中央&#039;&#039;&#039;]]||ちゅうおう||一丁目～二丁目||351-0113&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[本町 (和光市)|&#039;&#039;&#039;本町&#039;&#039;&#039;]]||ほんちょう|| ||351-0114&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[新倉 (和光市)|&#039;&#039;&#039;新倉&#039;&#039;&#039;]]||にいくら||一丁目～八丁目、大字||351-0115&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||&#039;&#039;&#039;（松ノ木島町）&amp;lt;ref&amp;gt;1989年に郵便番号も割り振られているが、現在は新倉七丁目に含まれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||（まつのきじまちょう）|| ||351-0116&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[練馬区]]&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区の町丁について、ここでは大泉地区のみを示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[大泉学園町 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;大泉学園町&#039;&#039;&#039;]]||おおいずみがくえんちょう||一丁目～九丁目||178-0061&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[大泉町 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;大泉町&#039;&#039;&#039;]]||おおいずみまち||一丁目～六丁目||178-0062&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[南大泉 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;南大泉&#039;&#039;&#039;]]||みなみおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0064&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;西大泉&#039;&#039;&#039;]]||にしおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0065&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉町 (練馬区)|&#039;&#039;&#039;西大泉町&#039;&#039;&#039;]]||にしおおいずみまち|| ||178-0066&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||東大泉&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区大泉地区のうち、東大泉は旧新座郡に含まれない。旧・豊島郡上土支田村のエリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||ひがしおおいずみ||一丁目～七丁目||178-0063&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[西東京市]]&amp;lt;ref&amp;gt;ここでは旧新座郡エリアに含まれる地域のみにリンクをつけている。すなわち、旧保谷市の範囲である。&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[ひばりが丘 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;ひばりが丘&#039;&#039;&#039;]]||ひばりがおか||一丁目～四丁目&amp;lt;ref&amp;gt;ひばりが丘三丁目2番のみ、旧「田無町ひばりが丘団地」であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;||202-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[ひばりが丘北 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;ひばりが丘北&#039;&#039;&#039;]]||ひばりがおかきた||一丁目～四丁目||202-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[北町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;北町&#039;&#039;&#039;]]||きたまち||一丁目～六丁目||202-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[下保谷 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;下保谷&#039;&#039;&#039;]]||しもほうや||一丁目～五丁目||202-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[住吉町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;住吉町&#039;&#039;&#039;]]||すみよしちょう||一丁目～六丁目||202-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[栄町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;栄町&#039;&#039;&#039;]]||さかえちょう||一丁目～三丁目||202-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[泉町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;泉町&#039;&#039;&#039;]]||いずみちょう||一丁目～六丁目||202-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;東町&#039;&#039;&#039;]]||ひがしちょう||一丁目～六丁目||202-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[中町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;中町&#039;&#039;&#039;]]||なかまち||一丁目～六丁目||202-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[富士町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;富士町&#039;&#039;&#039;]]||ふじまち||一丁目～六丁目||202-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[保谷町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;保谷町&#039;&#039;&#039;]]||ほうやちょう||一丁目～六丁目||202-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東伏見 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;東伏見&#039;&#039;&#039;]]||ひがしふしみ||一丁目～六丁目||202-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[柳沢 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;柳沢&#039;&#039;&#039;]]||やぎさわ||一丁目～六丁目||202-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[新町 (西東京市)|&#039;&#039;&#039;新町&#039;&#039;&#039;]]||しんまち||一丁目～六丁目||202-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市&amp;lt;ref&amp;gt;郵便番号が188で始まるのは、旧田無市（旧多摩郡）エリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||谷戸町||やとちょう||一丁目～三丁目||188-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||緑町||みどりちょう||一丁目～三丁目||188-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||北原町||きたはらちょう||一丁目～三丁目||188-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||西原町||にしはらちょう||一丁目～五丁目||188-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||田無町||たなしちょう||一丁目～七丁目||188-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||南町||みなみちょう||一丁目～六丁目||188-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||向台町||むこうだいちょう||一丁目～六丁目||188-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||芝久保町||しばくぼちょう||一丁目～五丁目||188-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[清瀬市]]||&#039;&#039;&#039;[[中里 (清瀬市)|中里]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市中里一丁目の南半分、中里三丁目の南端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩、中里、上清戸。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||なかざと||一丁目～六丁目||204-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|清瀬市||&#039;&#039;&#039;[[梅園 (清瀬市)|梅園]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市梅園二丁目の北側大半、梅園三丁目の北側大半は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||うめぞの||一丁目～三丁目||204-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東久留米市]]||&#039;&#039;&#039;[[野火止 (東久留米市)|野火止]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市野火止二丁目の北端、野火止三丁目の北端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は小山、北前沢、東下里。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||のびどめ||一丁目～三丁目||203-0041&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東久留米市||&#039;&#039;&#039;[[下里 (東久留米市)|下里]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市下里七丁目の北端、下里六丁目の北側大半、下里四丁目の北西部は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は中前沢、西下里、南前沢。&amp;lt;/ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;||しもさと||一丁目～七丁目||203-0043&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:現在の地域区分|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E8%AA%8C&amp;diff=397</id>
		<title>武蔵国新座郡誌</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E8%AA%8C&amp;diff=397"/>
		<updated>2026-08-11T15:26:28Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国郡村誌]]のうち、[[武蔵国新座郡誌]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
==武蔵国新座郡誌==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本郡は中古から新座（にいくら）を仮借して新倉あるいは新座とも書いた。最近は里俗に新座（にいざ）とのみ称している。しかし、今なお古称に従う。（『[[和名類聚抄]]』新座郡の註に「爾比久良」と見えるので「にひくら」と称するのは古い言い方である。そして、新座と称してきたけれども、その年暦がいまだ明らかになっていない。今、上保谷村戸長の保谷某が蔵する古文書を見ると、元禄七年申戌3月、その村の惣百姓から道中奉行に進達する手紙に「新倉郡」と書かれている。『[[新編武蔵風土記稿]]』の本郡の総説に、享保二年に郡名の呼び方を定められ、また享和三年にも郡村の唱えを穿鑿すべきであるという命があって、その疑わしいことを正されたため、今は「にいざ」と唱えることとなった、と載せてある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、元禄六年癸酉、わずかに西北の一隅を割いて入間郡に編入した。今の針ヶ谷がこれである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東は豊島郡に隣接し、南・西の二面は豊島・多摩の二郡に挿入し、犬牙錯雑している。西北は入間郡と区切るのにおおむね柳瀬川をもってし、東北は荒川を隔てて足立郡が見えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東西2里13町20間、南北2里34町40間、面積四方里654&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 足利氏執政の初め、足利基氏をもって鎌倉の管領とし、後、その執事である上杉氏が交互に管領となり、中頃、渋川義鏡の管するところとなった。&lt;br /&gt;
* 大永中、北条氏綱が渋川氏を滅ぼした。&lt;br /&gt;
* また、天文中、その子、氏康が扇谷上杉氏を滅ぼし、その地を併合して臣下に賜った。このときに、家人・大石某を本郡舘村の城に置き、近郊を鎮めさせた。&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅、北条氏が滅亡し、徳川氏の所有に帰す。そして、川越城主・酒井河内守重忠（慶長年中、その弟、酒井備後守忠利に代わり、寛永の初め、忠利の子、忠勝に至って、弟、壱岐守忠重（すなわち忠利の三男）に与え、子孫世襲して旗下の士である）、板倉四郎右衛門勝重（右あるいは左に作る。後、伊賀守のときに京師町奉行であった。その玄孫、周防守重冬のときに至って、元禄十一年戊寅3月にこの地を治めて伊勢国の内に移す）、米津内蔵助などの提封および旗士の采地、伊賀組騎歩卒の給邑とし、残りはすべて代官の支配に属する（寛永の末、松平信綱が川越の城主となってから、本郡の内を賜り、正保より寛文の頃に至って今の野火止・内堀・北野・菅沢などの地を新たに開発して、その孫・信輝のとき、元禄七年甲戌に古河城に移ったときまでは領していたのであろう。しかし、今、その証拠となすべきものがないため、ここに註記して、本文には掲載しない）。&lt;br /&gt;
*寛文三年癸卯2月、郡南直轄の地を小田原城主・稲葉美濃守正則に賜う（子・正往の代に至り、天和三年癸亥6月、封を移し、また直轄とする）&lt;br /&gt;
*元禄七年甲戌正月、松平美濃守吉保（はじめ柳沢出羽守保明、後、甲斐守）、川越城を賜って郡西を領する。&lt;br /&gt;
*宝永の初め、甲斐国府中城に移封して、高崎城主松平右京太夫輝貞が代わって世襲する。旗士の采邑もまた変遷あり。&lt;br /&gt;
*維新の際、武蔵知県事に所属する（松平氏、米津氏の領地は故のとおり）&lt;br /&gt;
*明治二年己巳正月、品川県の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治二年6月、松平・米津の両氏が各封土を奉還して、高崎（松平氏の領地）龍ケ崎（米津氏の領地）の2藩となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未7月、両藩を県に改める。&lt;br /&gt;
*明治四年11月、3県をともに廃して入間県の所管とする。&lt;br /&gt;
*明治6年6月熊谷県の管理するところとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東12里7町39間4尺（入間郡川越を経て中央膝折村に至る）。&lt;br /&gt;
*四隣：豊島郡（東京日本橋）へ6里6町44間1尺。多摩郡（八王子）へ7里17町10間4尺。入間郡（川越）へ4里21町47間1尺。足立郡（浦和）へ3里22町47間2尺。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*平夷・高燥で林・丘が多い。その区域は菱形をなして、四つの境に綱ラル。川越街道および旧奥州街道の両線が縦横にこれを貫く。東北の一隅はやや低下、諸川が注ぎ流れ、暴漲のおそれがある。このため、村民は往々にして土塁を築き、家屋をその上に建てる。こうして車馬・舟楫の便を得る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===気候===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*東京と異ならない。寒暖計は極めて暑いときおよそ95度&amp;lt;ref&amp;gt;華氏95度は35℃。&amp;lt;/ref&amp;gt;、極めて寒いときおよそ30度&amp;lt;ref&amp;gt;華氏30度は-1.1℃。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===風俗===&lt;br /&gt;
*質朴。古いものが残り、よく作業を努める。また詞訟（訴訟）を好むような悪い風習は少なく、面して活発な侠気に乏しい。かつ、豪富があるわけではないが、赤貧の者も多くはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*耕田はおおむね中等にあり、東北隅の一部、荒川沿いのあたりは沙磧（砂の河原）であるため、桑樹あるいは紫竹に適し、その他陸田は質が下等であるが培養の努力を欠かさなければ菽（豆）・麦・甘藷・菜種・藍葉などの類は最もよろしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===郷荘===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[和名類聚抄]]に載っている志木郷は、今の地がどれであるかわからない。昔は四郷あった。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;片山郷&#039;&#039;&#039;は片山村を管する&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;館郷&#039;&#039;&#039;は志木宿（旧名・館村）を管する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;新倉郷&#039;&#039;&#039;は7村を管する（上下新倉、岡、田島、台、根岸、橋戸（『[[新編武蔵風土記稿]]』には上下保谷を入れ9村とする））&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;栗原郷&#039;&#039;&#039;は上下保谷の2村を管する（この両村は村吏の録申による）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他は郷名を失する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
荘名はただ広沢があって、11村を管する（岡、田島、根岸、台、上新倉、白子、橋戸、小榑、上保谷、下保谷）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郡内すべて[[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
片山村のうち、黒目川に沿ったところを黒目里と呼び、また三芳野里というものは大和田町・志木宿あたりを称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===町村数===&lt;br /&gt;
*町：1&lt;br /&gt;
*宿：1&lt;br /&gt;
*村：22&lt;br /&gt;
*新田：1&lt;br /&gt;
*総計：25&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：489町5畝9歩&lt;br /&gt;
*畑：4326町5畝16歩5厘&lt;br /&gt;
*総計：4815町1反25歩5厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米965石7斗4升（この石代金1万2217円816銭3厘）、金4425円73銭3厘&lt;br /&gt;
*賦金：金2146円35銭2厘5毛&lt;br /&gt;
*総計：金1万8789円95銭8里5毛&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：3323戸（士族12戸、平民3311戸）&lt;br /&gt;
*寄留：56戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*本籍　男：9772口（士族23口、平民9749口）&lt;br /&gt;
*女：9672口（士族26口、平民9649口）&lt;br /&gt;
*総計：1万9444口（他、出寄留38人＝男21人、女17人）&lt;br /&gt;
*寄留男：91口&lt;br /&gt;
*寄留女：77口&lt;br /&gt;
*総計：167口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡牛：5頭&lt;br /&gt;
*牡馬：316頭&lt;br /&gt;
*総：321頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：110両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[荒川]]&#039;&#039;&#039;：里俗に外川ともいう。内に新河岸川があるためである。二等河に属する。堤防がある。舟・筏を通す。西北、入間郡との境界から来て、郡の東北辺を宇繞して、下内間木村と上新倉村の境界で新河岸川と合流し、東南に流れて豊島郡との境界に入る。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新河岸川]]&#039;&#039;&#039;：一名、内川という。外に荒川があるのに対して称している。三等河に属し、舟・楫を通す。入間郡との境から来て、志木宿の北を過ぎ、下内間木村に至り、田島・根岸両村の際から出てくる黒目川を受け、東流して荒川に注ぐ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[柳瀬川]]&#039;&#039;&#039;：舟・筏は通さない。入間郡との境から来て大半は本郡の西北の境辺を流れ、志木宿の北に至って新河岸川に合流する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[英橋]]&#039;&#039;&#039;：川越街道に属し、柳瀬川に架す。大和田町の中央から西の方にある。長さ20間、幅2間半、土造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;&#039;：源を多摩郡に発し、本郡に来て、中央を貫き、田島・根岸の辺で新河岸川に入る。上流は幅がわずかに2～3間であるが、末流は10間あまりとなる。かつ根岸の河岸場から下は特に広く、舟・筏を通すに至る。&lt;br /&gt;
*小榑村の「井頭の池」から湧き出て郡の東南の辺りを流れ、耕田をうるおし、豊島郡の境界で荒川に注ぐ一本の河がある。わずかに数村にとどまるだけでなく、水源および橋戸の両村では&#039;&#039;&#039;小井戸川&#039;&#039;&#039;と称し、白子では&#039;&#039;&#039;大川&#039;&#039;&#039;、下新倉では&#039;&#039;&#039;野川&#039;&#039;&#039;と唱え、各村でその名を異にするため、省いて、ここに掲げず、それぞれの村の本文に詳しく書いた。&amp;lt;ref&amp;gt;現在の[[白子川]]を指す。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川分水&#039;&#039;&#039;：玉川上水の分流であり、多摩郡砂川村から分かれ、2里あまりを経て本郡西南の境に入り、地元の民の飲料になったり耕田の用水となったりしながら蛇行屈曲して東北の辺境志木宿の端に至る。その間3里14町あまり。そこから100余間は巨大な筧を通じ、入間郡宗岡村の耕田をうるおして荒川に入る。言い伝えに、その昔、松平信綱が川越城の主であったとき、新座郡は武蔵野の中にあって土地が高燥、井水がはなはだ乏しく、地はおおむね不毛に属していることを憂い、玉川上水を引いて、野火止の野を開墾しようと欲し、その家士である安松金右衛門に謀った。金右衛門はもともと水理に明らかな者である。金右衛門が答えていうには、3000金を費やせば必ず成功するでありましょう、と。信綱はすなわちこの者にそのことを司らせ、承応元年をもってはじめて功を起こした。当時、多摩郡の新座郡に接する村民も、またその水利に頼って、開墾に従事することを請う。そこでその村民に役に従わせた。民衆はみなよろこんでこれに応じ、日ならずして完成したが、年を越しても水流が通じない。このため、物議が紛々である。信綱はその理由を金右衛門に問うた。金右衛門が答えていうには、「これは土地が鬆疎（スカスカ）で水気がまだあまねく浸潤していないからです。地に浸潤すれば水流は必ず通じるでしょう」と。このまま3年、信綱はしばしば問うたが、金右衛門はまったく意に介さなかった。ある日、大いに雨が降った。水流が滾々として水路がみな満ちたのは、金右衛門の言ったとおりであった。信綱はその功を賞して、禄225石を加えて賜ったという。信綱はそのとき伊豆守に任ぜられていたため、土地の人は今なお伊豆溝と称する。当時、新河岸川に流れ入っていたが、後、寛文二年に至り、徳川氏の士、岡部左兵衛忠直という者が入間郡宗岡村を治めたとき、その家人・白井武左衛門に命じて、巨大な筧（この筧を伊呂波樋と賞した。宗岡村誌に詳しく書いている）を新河岸川の上に架し、この流れを引いて耕田の用水とし、荒川に入らせた。分水の上流から荒川口に至るまで長さは6里11町あまりで、沿岸の地は田圃が日に開け、戸口は月ごとに加わり、今はその流れを井戸水に代え、考えに供するところ、多摩・新座・入間およそ20村あるため、その利も大きいというべきだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：[[広沢林]]といい、民有に属する。郡の中央から少し東にあって、上下新倉・白子・橋戸・小榑・片山・膝折・溝沼・岡・台・根岸の11村にまたがる。東（下新倉村地内から）西（小榑村地内に至る）およそ30町。南（橋戸村地内から）北（片山・膝折の端に至る）およそ20町。反別およそ500町。楢、栗、痩松そのほかの雑樹が生えている。大木はない。昔は曠野であって、茅草のみが生えて、村民の秣場であったという。享保年中、筧播磨守が検地し、本郡のうち17村（今は堀之内、辻、下中沢、下片山、中沢、原ヶ谷戸の六か村は片山村の内に合併した。また上下白子も一村となったため、先ほどの11村となっている）へ割り付けたことは、その村民が蔵する古書に見える。その後、種樹を植え、白田を開いたこともある。ゆえに従来の官簿で畑地・秣場などの名義であった。維新の後、改組の際に至って林地の名を称することとなった。『[[新編武蔵風土記稿]]』に載っている広沢原新田というものは1里四方もあるはずだが、今、ここに掲げるのは林樾（林のかげ）に関するもののみを記した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：二等道路に属する。豊島郡との境から入間郡との境に達する。本郡にかかる里程は2里14町29間5尺。豊島郡下板橋（2里5町20間2尺）白子（郡境から2町26間1尺、膝折に至る1里1町41間4尺）膝折（32町50間）大和田（1里13町49間2尺。郡境まで13町27間）入間郡大井&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;旧奥州街道&#039;&#039;&#039;：三等道路に属する。多摩郡との境から入って菅沢・野火止・北野の3村を経て志木宿に達する。その間1里20町8間4尺。志木宿から足立郡与野町に至る。2里6町1間1尺。今、街道の名を唱えるのはここにとまる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*社：127坐（村社31坐、平社96社）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*寺34宇（新義真言宗24宇、臨済宗3宇、日蓮宗3宇、天台宗1宇、曹洞宗2宇、浄土宗1宇）&lt;br /&gt;
*堂25宇&lt;br /&gt;
*庵1宇&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：14か所（大和田、野火止、志木上、上内間木、浜崎、岡、上新倉、白子、橋戸、膝折、片山、上保谷、下保谷、小榑の諸町村に各1校ある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===郵便===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*郵便局：4か所（志木宿、大和田町、膝折、白子の両村にある。それぞれ当時取扱人の宅舎を仮用する）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===製造場===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;鍼線製造場&#039;&#039;&#039;：膝折村に3か所、片山村に1か所、それぞれ百有余坪の工場を黒目川の辺・際に設置し、水車の力を借りて金・銀・銅・鉄・真鍮線のたぐいを製造している。もっとも常に製するのは銅および黄銅の2種にとどまる。そもそもこの仕事は天保の初め、荏原郡目黒村製線場を廃するにあたり、ここに移したものである。鍼糸の製造は関左（関東）でこの2村のみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*甘藷：921万7436斤。この価は3万9634円97銭5厘。&lt;br /&gt;
*藍葉：79万206斤。この価は3万7139円68銭2厘。&lt;br /&gt;
*紫竹：1485束。この価は594円。&lt;br /&gt;
*鍼線：およそ60万斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甘藷・紫竹・鍼線はおおむね東京辺に輸出し、藍葉は近傍に販売する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男：闔郡（郡全体）で農耕を専らにする。もっとも郡の南部、林丘に属するところは往々にして采薪・焼炭を兼ねる者がいるとはいえども、わずかに一家の生計を補うに足りるのみ。&lt;br /&gt;
*女：農業に従事し、その中でも傍ら養蚕・紡績をなすものがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|*むさしのくににいさくんし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%85%A5%E9%96%93%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%AE%97%E5%B2%A1%E6%9D%91&amp;diff=396</id>
		<title>武蔵国入間郡村誌/宗岡村</title>
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		<updated>2026-08-11T15:22:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国入間郡村誌の宗岡村項の現代語訳。宗岡村は入間郡に属したが、昭和十九年に水谷村・宗岡村・内間木村・志木町が合併して北足立郡志紀町となった。戦後に分立したが、その後、再び志木町と合併して現在の志木市となっているため、ここに取り上げるものである。  :現代語訳＝利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコ…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国入間郡村誌]]の[[宗岡村]]項の現代語訳。宗岡村は入間郡に属したが、昭和十九年に水谷村・宗岡村・内間木村・志木町が合併して[[北足立郡]][[志紀町]]となった。戦後に分立したが、その後、再び志木町と合併して現在の[[志木市]]となっているため、ここに取り上げるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==宗岡（むねをか）村==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村は昔、古谷郷・仙波庄・河越領に属す&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（村名の起こりはそのよしを伝えない。[[廻国雑記]]に、「宗岡というところを通りましたところ、夕のけむりを見て、〈夕煙 あらそふ暮れを 見せてけり わか家々の むね岡の宿〉」と詠まれたのは個々のことであろうから、古くからの地名であろう。しかし、今、地形をもって考えるに、このあたりに岡はまったくないので、もしくは昔この地を領した人の氏などによるのではないだろうか。また、名乗りなどをもって唱え始めたのかもしれないが、正しくはわからない（[[新編武蔵風土記稿]]））&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（その昔、奥州往還であって、鎌倉への通路であった。文明・長享のころまで（1469～1489年）は宿駅があった。ゆえに上宿・中宿・下宿・横町などと唱える地がある。また、字五十井戸に一里塚の跡がある。榎の古木がある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は足立郡塚本・五関・新田・上大久保・下大久保・領家・中島・栄和・西堀・町谷・本宿・田嶋の12か村と荒川を隔てて相対する。南は[[新座郡]][[武蔵国新座郡村誌/上内間木村|上内間木村]]と小路で区切られ、[[武蔵国新座郡村誌/宮戸村|宮戸村]]と[[新河岸川]]で区切られる。西は本郡[[武蔵国入間郡村誌/水子村|水子村]]・[[武蔵国新座郡村誌/志木宿|志木宿]]と新河岸川中央が境界となる。北は本郡南畑新田・下難波田村と道路で区切られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東西22町30間&lt;br /&gt;
*南北34町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）：徳川氏に属し、酒井河内守の封土となる&lt;br /&gt;
* 慶長年間（1596～1615年）：弟の備後守に替わる&lt;br /&gt;
* 寛永十二年乙亥（1635年）：堀田加賀守に替わる&lt;br /&gt;
* 寛永十六年己卯（1639年）：代官の管轄となる&lt;br /&gt;
* 正保元年甲申（1644年）：松平伊豆守の領地（331石）および岡部小次郎の采邑（212石7斗）となる&lt;br /&gt;
* 元禄七年甲戌（1694年）：すべて松平美濃守の領地になる&lt;br /&gt;
* 宝永二年乙酉（1705年）：代官の所轄に戻る&lt;br /&gt;
* 正徳二年壬辰（1712年）：村高を割いて（1639石1斗5升6合）秋元但馬守の領地とし、残り（32石4斗2升2合）はなお代官に属す&lt;br /&gt;
* 天保十三年壬寅（1832年）：秋元氏の封土は松平大和守に代わる&lt;br /&gt;
* 明治元年戊辰（1868年）：代官属地は武蔵知県事に属し、明治二年己巳（1869年）品川県となる。&lt;br /&gt;
* 松平氏の領地は前橋藩となり、明治四年辛未（1871年）前橋県と改まり、品川県とともに入間県に属する&lt;br /&gt;
* 明治六年癸酉（1873年）：熊谷県の所轄となる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南方11里（三貫田より測る）&lt;br /&gt;
*四隣：下大久保村へ32町、五関村へ1里2町、塚本村へ1里7町、神田村へ1里14町、上大久保村へ1里10町、領家村へ1里10町、中島村へ1里18町、西堀村へ1里22町、町屋村へ1里10町、本宿村へ1里20町、田嶋村へ1里、南畑新田へ32町、志木宿へ14町50間、上内間木村へ31町&lt;br /&gt;
*近傍宿町：川越町へ3里34町、中仙道浦和宿へ2里22町25間、足立郡与野町へ1里15町10間、新座郡[[武蔵国新座郡村誌/大和田町|大和田町]]へ1里15町50間&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*平坦。&lt;br /&gt;
*東に荒川を帯び、西南に新河岸川を帯びる。運漕に便利。&lt;br /&gt;
*薪・炭は乏しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色、赤・白が混じり、真土で、稲・粱に適さない。麦・桑に応じる。&lt;br /&gt;
*水は利便である。年々水害を被る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：113町7反9畝7歩&lt;br /&gt;
*畑：232町4反5畝27歩&lt;br /&gt;
*林：2畝8歩&lt;br /&gt;
*総計：346町2反7畝12歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*三貫田（さんくわんた）：村の中央の地。東西3町30間、南北3町20間。&lt;br /&gt;
*五井戸（ごゐど）：三貫田の北に連なる。東西3町、南北5町20間。&lt;br /&gt;
*散在（さんざい）：五井戸の東に連なる。東西2町30間、南北9町20間。&lt;br /&gt;
*中散在沼（なかさんざいぬま）：散在の東に連なる。東西1町50間、南北6町40間。&lt;br /&gt;
*大明神沼（だいみゃうじんぬま）：中散在沼の東に連なる。東西2町10間、南北5町20間。&lt;br /&gt;
*大野（おほの）：大明神沼の東に連なる。東西2町10間、南北12町50間。&lt;br /&gt;
*一貫野（いっくわんの）：大野の東に連なる。東西2町10間、南北4町30間。&lt;br /&gt;
*堤附：一貫野の西に連なる。東西4町10間、南北3町50間。&lt;br /&gt;
*溝向（みぞむかう）：堤附の西に連なる。東西2町10間、南北4町50間。&lt;br /&gt;
*新田場：溝向の西に連なる。東西9町、南北4町44間。&lt;br /&gt;
*内川端（うちかわばた）：新田場の西に連なる。東西4町40間、南北4町10間。&lt;br /&gt;
*圦口（いりくち）：内川端の北方にある。東西2町50間、南北1町50間。&lt;br /&gt;
*落合（おちあひ）：圦口の東に連なる。東西4町30間、南北3町。&lt;br /&gt;
*東田（ひがした）：落合の北に連なる。東西4町40間、南北2町20間。&lt;br /&gt;
*牛ヶ谷戸（うしがやと）：東田の北に連なる。東西3町30間、南北2町。&lt;br /&gt;
*西田（にしだ）：牛ヶ谷戸の南に連なる。東西2町10間、南北2町50間。&lt;br /&gt;
*馬場（ばんば）：西田の西に連なる。東西1町20間、南北1町30間。&lt;br /&gt;
*蓮田（はすた）：馬場の北に連なる。東西2町5間、南北2町30間。&lt;br /&gt;
*郷士（がうし）：蓮田の西に連なる。東西55間、南北2町30間。&lt;br /&gt;
*下田屋鋪（げたやしき）：郷士の北に連なる。東西3町10間、南北3町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、宮前（みやまへ）、龍ヶ谷戸宿（りゃうがやとしゅく）、圦（いり）、東（ひがし）、三ツ木（みつき）、東前（ひがしまへ）、六反田（ろくたんだ）、圦前（いりまへ）、東光寺（とうくわうじ）、後（うしろ）、堤根（つつみね）、永沼（ながぬま）、佃（つくだ）、袋（ふくろ）、外新田（そとしんでん）、南野（みなみの）、精進場（しょうじんば）、権現堂（ごんげんどう）、籠島（かごしま）、橋下（はしした）、羽根倉（はねくら）、上宿（かみしゅく）、ビワ田、ヒル田、江口三ツ木町（えとどみつき）、相ノ田（あいのた）、五反田（ごだんた）、深町（ふかまち）、長田（ながた）、サラ沼、沼田道上（ぬまたみちかみ）、シャウブ沼、深沼浅間腰（ふかぬませんけんこし）の字がある。今、ここに略す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 上・中・下（村内を三つに分けて称し、名主も三人で各3所を支配した）&lt;br /&gt;
* 宿（もとはここに市が立っていたが、しばしば水災があったため、今は隣郡引又町へ移した。ここは鎌倉から奥州への古街道であったという。今も多く立ち並んでいるここに少しうずたかい塚がある。上に榎の一株が立っている。これがすなわち一里塚であり、これが古街道の証拠であるという）&lt;br /&gt;
* 東光寺（東光寺というのは、そういう寺があったためであって、いつごろかこの寺号を足立郡内谷村に引いたとのこと。今も内谷村に東光と称する寺がある）&lt;br /&gt;
* 羽倉河岸（ここも奥州古街道で、荒川の岸をいう。ここは船渡あり。対岸・足立郡下大久保村と当村との持である。また、足立郡田嶋村の内、秋加瀬というところへ通じる作場渡がある。もとより当村の持ではないという）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五位戸、江口、瀬戸、籠島（かごしま）、落合、蛭田（ひるた）、ミツキ町、三貫田、ビハ田、相ノ手、牛ヶ谷、上宿、下田屋敷（げたやしき）、フクロ、精進場、権現堂、ゴウシ、三ザヘ、永沼、大野、大野ヤタレ、ハライ、深川、佃（つくだ）、龍ヶ谷戸、馬場、サラ沼（新編武蔵風土記稿）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米476石7斗2升4合、金313円53銭1厘&lt;br /&gt;
*賦金：金4円50銭&lt;br /&gt;
*総計：米476石7斗2升4合、金318円3銭1厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：336戸（平民）&lt;br /&gt;
*社20戸（村社5坐、平社15坐）&lt;br /&gt;
*寺6戸（真言宗2宇、曹洞宗1宇、堂3宇）&lt;br /&gt;
*総計362戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：879口&lt;br /&gt;
*女：953口&lt;br /&gt;
*総計：1832口（他、出寄留 11人、男7人、女4人、外寄留10人、男6人、女4人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：79頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*渡船：1艘&lt;br /&gt;
*艀船（はしけ）：2艘&lt;br /&gt;
*荷車：9両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[荒川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ1丈5尺、浅いところ2尺、広いところ80間、狭いところ50間。緩流、薄く濁る。舟・筏を通す。堤防がある。村の北方、南畑新田から来て辰巳の方、上内間木村に入る。その間1里10町41間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;羽根倉渡&#039;&#039;&#039;：与野道に属し、村の東方、荒川の上流にある。渡船1艘。私渡。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;秋ヶ瀬渡&#039;&#039;&#039;：浦和道に属し、村の東方、荒川の下流にある。渡船1艘。私渡。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[新河岸川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ1丈5尺、浅いところ2尺、広いところ25間、狭いところ15間。緩流、薄く濁る。舟・筏を通す。堤防がある。村の北方、下南畑村から来て、南方、上内間木村に入る。その間1里23町24間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;土橋&#039;&#039;&#039;：引又道に属し、村の西方、新河岸川の中流に架かる。長さ15間3尺、幅2間。土造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[引又道]]&#039;&#039;&#039;：村の東北、羽根倉渡船場から西方、志木宿との境界に至る。長さ23町34間、幅2間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;浦和道&#039;&#039;&#039;：村の西方、志木宿との境界から東南、田島村との境界に至る。長さ23町29間3尺、幅2間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;蕨道&#039;&#039;&#039;：村の西方、志木宿との境界から南方、上内間木村との境界に至る。長さ23町1間、幅9尺。&lt;br /&gt;
* 掲示場：村の中央にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===堤塘===&lt;br /&gt;
* 荒川除堤：荒川に沿い、村の北方、南畑新田との境界から辰巳の方、上内間木村との境界に至る。長さ1911間3尺、堤敷12間、馬踏6尺から9尺、高さ1丈2尺から1丈。根堅めに小竹がある。修繕費用は官に属する。&lt;br /&gt;
* 新河岸川除堤：新河岸川に沿い、村の西北、下南畑村との境界から南方、上内間木村との境界に至る。長さ2841間、堤敷8間、馬踏5尺から8尺、高さ7尺から1丈2尺。根堅めに小竹がある。水門7か所あり。修繕費用は官に属する。&lt;br /&gt;
* 築田堤：新河岸川に沿い、村の東北、字蓮田から起こり、西南、字宿に至る。長さ675間、馬踏3尺5寸、高さ5尺から8尺5寸、堤敷5間から3間半。水圦樋1か所ある。根堅めに小竹がある。修繕費用は官に属する。&lt;br /&gt;
* 下之谷堤：新河岸川に沿い、村の西方、字下之谷にある。長さ303間、堤敷3間、馬踏6尺。水門1か所ある。修繕費用は民に属する。&lt;br /&gt;
* 中堤：村の東北、荒川除堤から西南、新河岸川除堤に連続する。長さ539間、堤敷2間、馬踏9尺、高さ3尺。用水圦樋3か所ある。修繕費用は民に属する。&lt;br /&gt;
* 一貫野堤：荒川に沿い、村の辰巳の方、字一貫野にある。長さ765間、堤敷2間、馬踏3尺、高さ4尺。修繕費用は民に属する。&lt;br /&gt;
* 本野堤：荒川に沿い、村の東方、字本野にある。長さ402間、堤敷2間、馬踏3尺。修繕費用は民に属する。&lt;br /&gt;
* 羽根倉堤：荒川に沿い、村の北方、字羽根倉などにある。長さ42間、馬踏3尺、高さ3尺、堤敷2間。修繕費用は民に属する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[伊呂波樋|いろは筧]]&#039;&#039;&#039;：内法1尺4寸四方、長さ197間5寸（内55間6寸埋樋は志木宿にある）。村の西方志木宿の地内から本村の字精進場へ架設し、玉川上水を多摩郡砂川村から分水している。寛文二年の設立である。この筧（懸樋）は48挺を用いているため「いろは」の号を付す。ゆえに里俗「いろは筧」という。承応二年、川越城主松平伊豆守が武蔵野新田に飲料が乏しいのを憂い、一条の溝渠を掘って、玉川上水を引き、引用に供する。土地の人はこれを伊豆殿堀と称する。寛文二年、本村地頭・岡部左兵衛の臣、白井武左衛門という者が水利の不便を嘆き、この筧を架設し、伊豆殿堀の下流を引き、灌漑の利を開く。今に至るもこれに頼る。&lt;br /&gt;
* 久保田圦樋：内法幅4尺5寸、高さ3尺、長さ8間。村の南方、新河岸川除堤にある。&lt;br /&gt;
* 籠嶋圦樋：内法幅4尺5寸、高さ3尺、長さ8間。村の南方、新河岸川除堤にある。&lt;br /&gt;
* 落合圦樋：内法幅5尺5寸、高さ3尺、長さ8間。村の南方、新河岸川除堤にある。&lt;br /&gt;
* 蓮田圦樋：内法幅5尺5寸、高さ3尺5寸、長さ7間。村の西南、新河岸川除堤にある。&lt;br /&gt;
* 江口圦樋：内法幅5尺5寸、高さ3尺8寸、長さ8間。村の西方、新河岸川除堤にある。&lt;br /&gt;
* 下野谷圦樋：内法幅5尺5寸、高さ3尺3寸、長さ6間。村の西方、新河岸川除堤にある。&lt;br /&gt;
* 石橋大圦樋：内法幅5尺5寸、高さ3尺3寸、長さ8間。村の西方、新河岸川除堤にある。&lt;br /&gt;
* 石橋小圦樋：内法4尺5寸、高さ3尺5寸、長さ6間3尺。村の西北、新河岸川除堤にある。&lt;br /&gt;
* 築田用水圦樋：内法1尺4寸四方、長さ4間。村の北方、築田堤にある。用水路である。&lt;br /&gt;
* 中堤用水圦樋：内法1尺4寸四方、長さ4間。村の南方、中堤にある。用水路である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西28間4尺8寸、南北10間、面積317坪。村の西北にある。素戔嗚尊を祭る。承暦二年（1078年）3月勧請。祭日2月17日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西13間、南北43間3尺、面積565坪。村の北方にある。木花咲耶姫命を祭る。祭日6月1日。社中に銀杏の老樹あり。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;天神社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西9間2尺4寸、南北40間、面積376坪。村の西方にある。菅原道真を祭る。祭日9月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西24間、南北13間4尺8寸、面積331坪。村の東方にある。素戔嗚尊を祭る。祭日9月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西22間1尺2寸、南北24間3尺、面積259坪。村の南方にある。素戔嗚尊を祭る。宝徳三年（1451年）9月19日勧請。祭日9月19日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西10間3尺、南北10間、面積105坪。村の西北にある。稲倉魂命を祭る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;八幡社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西16間、南北8間3尺6寸、面積137坪。村の東北にある。応神天皇を祭る。祭日8月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間3尺、南北2間3尺、面積16坪。村の北方にある。稲倉魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西12間3尺、南北12間、面積150坪。村の北方にある。稲倉魂命を祭る。祭日同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;神明社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西2間、南北11間、面積22坪。村の北方にある。天照皇大神を祭る。祭日9月19日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;天津社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西9間、南北2間2尺、面積21坪。村の北方にある。面足尊を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西3間2尺、南北9間、面積30坪。村の西方にある。稲倉魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西10間、南北4間3尺、面積45坪。村の東方にある。稲倉魂命を祭る。祭日同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西7間2尺4寸、南北10間、面積74坪。村の南方にある。稲倉魂命を祭る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西9間、南北12間2尺、面積11坪。村の南方にある。稲倉魂命を祭る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西4間、南北9間3尺、面積38坪。村の東南にある。稲倉魂命を祭る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西7間3尺、南北6間、面積45坪。村の東南にある。稲倉魂命を祭る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西13間、南北16間、面積88坪。村の西方にある。稲倉魂命を祭る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大六天社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西3間、南北11間、面積33坪。村の西北にある。面足尊を祭る。祭日なし。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;白山社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西2間3尺、南北3間。面積8坪。村の西北にある。白山姫命を祭る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大仙寺&#039;&#039;&#039;：東西30間3尺6寸、南北25間3尺6寸、面積783坪。村の北方にある。曹洞宗。足立郡領家村大泉院の末派である。昔、松木寮と称した草庵であったが、弘治二年（1556年）2月、僧・喜翁良悦が開基創建し、大仙寺と号す。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;千光寺&#039;&#039;&#039;：東西31間4尺5寸、南北24間1尺5寸、面積769坪。村の西北にある。真言宗。新座郡大和田町[[普光明寺]]の末派である。天慶四年（941年）、承興が開基創建した。応徳二年（1085年）、法印・権大僧都　善海が中興した。宝永六年（1709年）二月、当寺24代住職・大阿闍梨法印・正運の代に再興した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;実蔵院&#039;&#039;&#039;：東西12間、南北15間4尺、面積188坪。村の中央にある。真言宗。新座郡志木宿宝幢寺&amp;lt;ref&amp;gt;実蔵院の本寺について、原文では宝障寺とあるが、新編武蔵風土記稿では宝幢寺となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;の末派である。昔、行者・澄平という者が草庵を創立したものを、明暦三年（1657年）沙門・宥啓が再興して宝蔵院と号する。&lt;br /&gt;
* 地蔵堂：東西14間、南北4間2尺4寸、面積61坪。村の西北にある。&lt;br /&gt;
* 観音堂：東西13間、南北4間、面積52坪。村の東方にある。&lt;br /&gt;
* 大日堂：東西12間、南北5間、面積60坪。村の東南にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
* 公立小学校：村の西方、実蔵院を仮用する。生徒 男80人、女20人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===役場===&lt;br /&gt;
* 村事務所：村の中央、戸長宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
* 米：1875石&lt;br /&gt;
* 小麦：373石&lt;br /&gt;
* 大豆：193石&lt;br /&gt;
* 蚕豆：150石&lt;br /&gt;
* 菜種：94石3斗&lt;br /&gt;
* 芥子：33石&lt;br /&gt;
* 桑：143駄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
* 男は農工商を専らとし、女は耕作・織を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国入間郡村誌|むねおかむら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%8C%97%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E9%83%A1%E3%83%BB%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E9%95%B7&amp;diff=395</id>
		<title>北足立郡・新座郡長</title>
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		<updated>2026-08-11T12:41:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;大区小区制が廃止された後、郡区町村編制法に基づいて明治十二年以降に設置された[[新座郡]]長は、北足立郡長が兼任していた。また、明治二十九年3月の北足立郡・新座郡の合併後は、当然ながら新座郡エリアは北足立郡の領域となり、北足立郡長が郡の長となった。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+北足立 兼 新座郡長&lt;br /&gt;
!代数&lt;br /&gt;
!氏名&lt;br /&gt;
!任官年月&lt;br /&gt;
!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|初代&lt;br /&gt;
|平野　政信&lt;br /&gt;
|明治十二年（1879年）3月17日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2代&lt;br /&gt;
|宮内　公美&lt;br /&gt;
|明治十二年（1879年）12月17日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3代&lt;br /&gt;
|天野　三郎&lt;br /&gt;
|明治十三年（1880年）11月6日&lt;br /&gt;
|明治十六年（1883年）&amp;lt;br /&amp;gt;[[北足立・新座郡各村字届書]]を作成&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|4代&lt;br /&gt;
|長谷川　敬介&lt;br /&gt;
|明治十八年（1885年）4月9日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5代&lt;br /&gt;
|小泉　寛則&lt;br /&gt;
|明治十九年（1886年）7月25日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6代&lt;br /&gt;
|加藤　炳&lt;br /&gt;
|明治二十七年（1894年）7月4日&lt;br /&gt;
|明治二十九年（1896年）3月31日&amp;lt;br /&amp;gt;北足立郡と新座郡が合併&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7代&lt;br /&gt;
|平井　光長&lt;br /&gt;
|明治三十年（1897年）8月2日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|8代&lt;br /&gt;
|石井　晋一&lt;br /&gt;
|明治三十年（1897年）9月13日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9代&lt;br /&gt;
|早川　光蔵&lt;br /&gt;
|明治三十年（1897年）12月22日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10代&lt;br /&gt;
|石井　半左衛門&lt;br /&gt;
|大正四年（1915年）1月18日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11代&lt;br /&gt;
|市川　春太郎&lt;br /&gt;
|大正十年（1921年）6月23日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|12代&lt;br /&gt;
|武田　熊蔵&lt;br /&gt;
|大正十二年（1923年）1月30日&lt;br /&gt;
|大正15年（1926年）6月30日&amp;lt;br /&amp;gt;郡役所廃止。郡長も廃官&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
[[カテゴリ:役職]][[カテゴリ:北足立郡]]&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きたあたちくんにいさくんちよう}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E5%8C%97%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E9%83%A1&amp;diff=394</id>
		<title>カテゴリ:北足立郡</title>
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		<updated>2026-08-11T12:41:01Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「*3きたあたちくん」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:地域|*3きたあたちくん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%8C%97%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E9%83%A1&amp;diff=393</id>
		<title>北足立郡</title>
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		<updated>2026-08-11T12:39:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;北足立郡&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（きたあだちぐん）は武蔵国・埼玉県に存在した郡である。もともとは&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;足立郡&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;であったが、明治維新後に南北に分割され、埼玉県側が北足立郡、東京府側が南足立郡となった。また、旧新座郡とは郡長・郡庁が兼務されており、後に旧新座郡域の大半が北足立郡に併合されることとなった。  それにより、最大領域としては…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;北足立郡&#039;&#039;&#039;（きたあだちぐん）は[[武蔵国]]・[[埼玉県]]に存在した郡である。もともとは&#039;&#039;&#039;足立郡&#039;&#039;&#039;であったが、明治維新後に南北に分割され、埼玉県側が北足立郡、東京府側が南足立郡となった。また、旧[[新座郡]]とは郡長・郡庁が兼務されており、後に旧新座郡域の大半が北足立郡に併合されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それにより、最大領域としては、本来の足立郡北側（現在のさいたま市、川口市、鴻巣市、上尾市、草加市、蕨市、戸田市、桶川市、北本市、八潮市、伊奈町）に加え、旧新座郡エリア（[[志木市]]志木地区、[[新座市]]、[[朝霞市]]、[[和光市]]、東京都[[西東京市]]の一部（保谷エリア））、さらに旧入間郡に含まれた旧[[水谷村]]（富士見市）、[[宗岡村]]（志木市）エリアにまたがっていた。現在は北足立郡伊奈町のみが郡に入っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==明治以前の足立郡==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古代（律令期）===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足立郡（あだちのこおり / あだちぐん）の名称は、古くは『続日本紀』等に「武蔵国足立郡」として登場する。和名類聚抄（和名抄）では「あだち」と読まれ、大宮台地を中心として南北に長く広がる地域を指していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古代の郡家（郡衙）は現在の大宮氷川神社（さいたま市大宮区）周辺にあったと推測されている。武蔵国一宮である氷川神社を中心に、地域的な信仰・行政の中心地が形成されていた。&lt;br /&gt;
[[ファイル:足立郡.jpg|サムネイル|[https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-chime.html 「足立」の地名由来｜足立区]より引用]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中世（鎌倉～戦国期）===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武蔵七党など武士団の台頭とともに足立氏（安達氏）が歴史に表れる。足立遠元は源頼朝に従い、幕府の重臣（十三人の合議制の構成員の一人）として権勢を振るった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
室町時代から戦国時代にかけては、太田道灌による岩付城（岩槻城）の築城とその周辺の支配の進展、さらに後北条氏の支配下への編入を経て、足立郡域は武蔵国の重要拠点として攻防の舞台となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===近世（江戸時代）===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川家康の江戸入国以降、足立郡は江戸幕府の直轄地（幕府領・旗本領を中心とし、一部忍藩領など）となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中山道が整備され、郡内には&#039;&#039;&#039;浦和宿・大宮宿・上尾宿・桶川宿・鴻巣宿&#039;&#039;&#039;の5つの宿場が設置され&amp;lt;ref&amp;gt;7番目の鴻巣宿と8番目の熊谷宿の間の「間の宿」として設置された吹上宿も足立郡に属する。&amp;lt;/ref&amp;gt;、江戸と京都・北陸を結ぶ交通の要衝として大きく発展した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、18世紀前半、徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永により&#039;&#039;&#039;見沼代用水&#039;&#039;&#039;が開削された。見沼溜井の干拓（見沼新田）とともに農業生産力が飛躍的に向上し、水田地帯としての基盤が急速に整えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==明治維新以後==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治維新後、廃藩置県（明治四年＝1871年）やその後の府県統合（大宮県・浦和県から埼玉県への編入）を経て、足立郡の管轄は埼玉県と東京府（現在の東京都）にまたがる形となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===郡区町村編制法と南北分割===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治十一年（1878年）7月の「郡区町村編制法」に基づき、旧来の「足立郡」は南北の二郡に分割されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;南足立郡&#039;&#039;&#039;: 東京府（現・東京都）に属する区域。旧足立郡の最南部（現在の東京都足立区の大部分に相当）。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;北足立郡&#039;&#039;&#039;: 埼玉県に属する区域。旧足立郡の過半を占める北部・中部・南部地域（現在のさいたま市、川口市、上尾市、鴻巣市などに相当）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治十二年（1879年）3月17日、埼玉県における郡区町村編制法の施行に伴い、行政区画としての&#039;&#039;&#039;埼玉県北足立郡&#039;&#039;&#039;が正式に発足した。郡役所は中山道の重要拠点であった&#039;&#039;&#039;浦和宿&#039;&#039;&#039;（現在のさいたま市浦和区）に設置された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===新座郡の吸収合併===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治二十二年（1889年）の町村制施行時、新座郡には以下の2町7村が存在していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[志木町]]、[[大和田町]]、[[片山村]]、[[膝折村]]、[[内間木村]]、[[新倉村]]、[[白子村]]、[[保谷村]]、[[榑橋村]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
行政上の扱いとして、新座郡は発足当時から独立した郡役所を持たず、浦和の北足立郡役所が新座郡を兼管していた。また、&#039;&#039;&#039;[[北足立郡・新座郡長]]&#039;&#039;&#039;も同一人物が兼務していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1890年代に入り、政府は小規模な郡を再編・統合して行政効率を高める「郡制施行に向けた府県郡制改正」を推進した。この中で人口・面積ともに小規模であった新座郡を北足立郡へ統合する方針が示された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、新座郡の住民や地域社会からは強い反対運動が起こった。その理由として、新座郡域は荒川によって北足立郡と物理的に隔てられており、水運や交易、交通の面で川越や東京との結びつきが深かったこと、また文化的にも東京側との親和性が高かったことが挙げられる。特に保谷村や新倉村、白子村などの南部・東部地域は東京府近郊としての経済的依存度が高く、北足立郡への統合ではなく「東京府北豊島郡への編入」を求める動きが展開された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その結果、明治二十四年（1891年）には[[榑橋村]]および[[新倉村]]の一部（長久保）が東京府北豊島郡[[大泉村]]（現・練馬区大泉地区）へと編入された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===明治二十九年統合の実施===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、新座郡側の反対や東京府編入運動運動にもかかわらず、埼玉県の強い主導と国家的な行政区画整理の流れの中で編入計画は強行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;明治二十九年（1896年）4月1日&#039;&#039;&#039;、郡制施行に伴って新座郡は廃止され、旧新座郡の残る2町6村（志木町、大和田町、片山村、膝折村、内間木村、新倉村、白子村、保谷村）の全域が北足立郡へ編入された。この結果、北足立郡は旧足立郡域に旧新座郡域を加えた県内最大の人口と財政規模を誇る広大な郡域へと拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===新座郡統合後の主な変遷===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新座郡統合直後の明治四十年（1907年）4月1日、新座郡域の最南端に位置していた&#039;&#039;&#039;[[保谷村]]&#039;&#039;&#039;（のちの[[保谷市]]、現[[西東京市]]）は、生活圏が東京側にある実情を踏まえ、埼玉県北足立郡から離脱して東京府北多摩郡に変更された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後の旧新座郡エリアでは町制・市制への移行や合併が進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 大正15年（1926年）6月30日：郡役所廃止。郡長も廃官。&amp;lt;ref&amp;gt;[[北足立郡・新座郡長]]の項を参照&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 昭和七年（1932年）5月1日：[[膝折村]]が町制施行と同時に改称し、[[朝霞町]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和十八年（1943年）4月1日：[[新倉村]]と[[白子村]]が合併して[[大和町]]が発足。&lt;br /&gt;
* 昭和十九年（1944年）2月11日：[[志木町]]・[[内間木村]]、入間郡[[宗岡村]]・[[水谷村]]が合併して北足立郡[[志紀町]]が発足。&lt;br /&gt;
* 昭和二十三年（1948年）4月1日：志紀町廃止。北足立郡[[志木町]]・[[内間木村]]・[[宗岡村]]・[[水谷村]]を再設置。&lt;br /&gt;
* 昭和三十年（1955年）&lt;br /&gt;
** 3月1日：[[大和田町]]・[[片山村]]が合併して[[新座町]]が発足。&lt;br /&gt;
** 4月1日：[[朝霞町]]・[[内間木村]]が合併して改めて[[朝霞町]]が発足。&lt;br /&gt;
** 5月1日：[[志木町]]・[[宗岡村]]が合併して[[足立町]]が発足。&lt;br /&gt;
* 昭和三十一年（1956年）4月1日：[[水谷村]]と入間郡鶴瀬村・南畑村が合併して入間郡富士見村が発足、北足立郡から離脱。&lt;br /&gt;
* 昭和四十二年（1967年）3月15日：[[朝霞町]]が市制施行して[[朝霞市]]となる。北足立郡から離脱。&lt;br /&gt;
* 昭和四十五年（1970年）&lt;br /&gt;
** 10月26日：[[足立町]]が[[志木町]]に改称、即日市制施行して[[志木市]]となる。&lt;br /&gt;
** 10月31日：[[大和町]]が[[和光町]]に改称、即日市制施行して[[和光市]]となる。&lt;br /&gt;
** 11月1日：[[新座町]]が市制施行して[[新座市]]となる。いずれも北足立郡から離脱。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現在の状況==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
度重なる市制施行と平成の大合併（2001年の浦和市・大宮市・与野市合併によるさいたま市発足など）を経て、現在の北足立郡に所属する自治体は伊奈町（いなまち）の1町のみとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
行政区画としての郡域は大幅に縮小したものの、かつて足立郡と新座郡が統合された歴史は、現在の埼玉県南西部の広域行政や地域間の歴史的・地理的関係の中に残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:北足立郡|きたあたちくん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E9%83%A1.jpg&amp;diff=392</id>
		<title>ファイル:足立郡.jpg</title>
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		<updated>2026-08-11T12:34:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: [https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-chime.html 「足立」の地名由来｜足立区]より引用&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-chime.html 「足立」の地名由来｜足立区]より引用&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>カテゴリ:現在の地域区分</title>
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		<updated>2026-08-11T12:25:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:地域|*4げんざい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>カテゴリ:新座郡</title>
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		<updated>2026-08-11T12:25:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]に関する記事。&lt;br /&gt;
[[Category:地域|*2にいくらくん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>カテゴリ:新羅郡</title>
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		<updated>2026-08-11T12:24:47Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新羅郡]]に関する記事。&lt;br /&gt;
[[Category:地域|*1しらきのこほり]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>カテゴリ:現在の地域区分</title>
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		<updated>2026-08-11T12:22:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:地域|地域区分]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>カテゴリ:過去の駅</title>
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		<updated>2026-08-11T06:14:57Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「かこのえき」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:鉄道|かこのえき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%94%BA%E9%A7%85&amp;diff=386</id>
		<title>大和町駅</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%94%BA%E9%A7%85&amp;diff=386"/>
		<updated>2026-08-11T06:14:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]大和町駅&#039;&#039;&#039;（やまとまちえき）は、昭和二十六年（1951年）10月1日に[[新倉駅]]から改称した駅名である。昭和十八年（1943年）4月1日、[[北足立郡]][[新倉村]]と[[白子村]]が合併して[[大和町]]になったことによるものであるが、地名の変更から8年も経っての駅名変更であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和四十五年（1970年）10月31日、[[大和町]]が改称して[[和光町]]となり、即日市制施行により[[和光市]]となった。これにともない、同年12月20日、「[[和光市駅]]（わこうし）」への改称が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:過去の駅|やまとまちええき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%94%BA%E9%A7%85&amp;diff=385</id>
		<title>大和町駅</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%94%BA%E9%A7%85&amp;diff=385"/>
		<updated>2026-08-11T06:14:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;東武東上線大和町駅&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（やまとまち）は、昭和二十六年（1951年）10月1日に新倉駅から改称した駅名である。昭和十八年（1943年）4月1日、北足立郡新倉村と白子村が合併して大和町になったことによるものであるが、地名の変更から8年も経っての駅名変更であった。  昭和四十五年（1970年）10月31日、大和町が改称して和光町…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]大和町駅&#039;&#039;&#039;（やまとまち）は、昭和二十六年（1951年）10月1日に[[新倉駅]]から改称した駅名である。昭和十八年（1943年）4月1日、[[北足立郡]][[新倉村]]と[[白子村]]が合併して[[大和町]]になったことによるものであるが、地名の変更から8年も経っての駅名変更であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和四十五年（1970年）10月31日、[[大和町]]が改称して[[和光町]]となり、即日市制施行により[[和光市]]となった。これにともない、同年12月20日、「[[和光市駅]]（わこうし）」への改称が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[:カテゴリ:過去の駅]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E5%80%89%E9%A7%85&amp;diff=384</id>
		<title>新倉駅</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E5%80%89%E9%A7%85&amp;diff=384"/>
		<updated>2026-08-11T03:48:03Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]新倉駅&#039;&#039;&#039;は昭和九年（1934年）2月1日に開業した。開設当初は「新倉駅（にいぐら）」であったが、半年後の同年7月12日に「新倉駅（にいくら）」と濁らない読み方に改称されている。当時の所在地は埼玉県[[北足立郡]][[新倉村]]にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|昭和九年（一九三四）に開設された新倉駅（現[[和光市駅]]）は畑の中に点在するだけで、その周辺にはほとんど人家は見当たらなかった。昭和一三年当時、一日の乗客数は一六〇人余にすぎず、静かな田園地帯であった。|『和光市史 通史編 下巻』p.800}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|軍需工場の進出にともない、白子村、新倉村ともに村の様子を大きく変貌させた。昭和一〇年に両村合わせて四八四〇人であった人口は、昭和二〇年(一九四五）には一万人を超え、この間に農家戸数は六〇戸近く減少した。そして、昭和九年に開設した東武東上線新倉駅の乗客数は、関設当時の一日平均九四人からその約ニニ倍にも達したのである。|『和光市史 通史編 下巻』p.533}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、昭和十八年（1943年）4月1日、新倉村と[[白子村]]が合併して[[大和町]]になったが、「[[大和町駅]]（やまとまち）」への改称は昭和二十六年（1951年）10月1日と遅れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、昭和四十五年（1970年）10月31日、[[大和町]]が改称して[[和光町]]となり、即日市制施行により[[和光市]]となった。「[[和光市駅]]（わこうし）」への改称は、同年12月20日であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名称変更の経緯についての記載の混乱==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和光市や東武鉄道の公式サイトで、当初の駅名が「にいくら駅」、その半年後に「新倉駅」と改名した、との情報が掲載されている。公式の場での記載であるため、この情報がWikipediaでも採用されてしまっている。しかし、これは誤りであり、当初から「新倉」駅だったが、読み方だけ「にいぐら」から「にいくら」に変更されたというのが事実であると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Wikipediaの根拠となった公式サイトの記載 ===&lt;br /&gt;
[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 和光市駅 - Wikipedia]（2026年8月11日閲覧）では、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|1914年（大正3年）5月1日に東上鉄道（現・東武東上本線）池袋駅 - 田面沢駅の開業から大幅に遅れて、1934年（昭和9年）2月1日に埼玉県新座郡新倉村ににいくら駅として開業したのが始まりである。開業直後の同年7月12日に新倉駅へ変更した。|[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 和光市駅 - Wikipedia]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載されており&amp;lt;ref&amp;gt;本文中の「埼玉県新座郡新倉村」との記載は誤りである。昭和九年当時、新座郡はすでに北足立郡に編入されていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;、東武鉄道[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅]と、それを参考にしたと思われる[https://web.archive.org/web/20220315050052/http://wako-kurashinabi.jp/rekisi.html 和光市くらしナビ-和光市の歴史]のアーカイブを参照している。一方で、「『東武鉄道六十五年史』には、新倉駅（にいぐら）として開業し、後の7月12日に読みを（にいくら）へ改めた旨の記述がある。」との注記も行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Wikipediaの同項の[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 ノート:和光市駅]では、2011年のコメントにおいて、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|東武鉄道のウェブサイトには、「にいくら駅」で開業しその後「新倉駅」に変更したとあります。また、和光市のサイトにも「『にいくら駅』の開設を始め、」といった記述があることから、開業当時の駅名名称は「にいくら駅」であり、そののちに「新倉駅」に改名したのであると十分に言えます。|[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 ノート:和光市駅]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあり、東武鉄道と和光市のサイトに書かれているから間違いないという1ユーザーの判断をもとに、この情報が15年以上維持されていることがわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに、2026年8月時点の[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅｜東武鉄道公式サイト]では、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|開設当時は「にいくら駅」でしたが、半年後には当時の村名の「新倉駅」に変り、また町名が変更して「大和町駅」に変りました。|[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅｜東武鉄道公式サイト]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と明記されており、また、「和光市歴史の玉手箱」（和光市デジタルミュージアム）でも[https://rekitama-wako.jp/museum/hensen/showa/toujousen-niikuraeki.php 東上線 新倉駅]の項において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|昭和9年に東上線新倉駅（はじめは「にいくら」駅）は開業した。|[https://rekitama-wako.jp/museum/hensen/showa/toujousen-niikuraeki.php 東上線 新倉駅-和光市デジタルミュージアム]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記されており、公式なサイトの記載には確かにその旨の記載は見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:和光市駅｜東武鉄道公式サイト.png|境界]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:和光市歴史の玉手箱 新倉駅.png|境界]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、この記載に基づき、「[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%80%89%E6%9D%91 新倉村 - Wikipedia]」でも&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 1934年（昭和9年）2月1日 - 東上鉄道（現：東武東上線）にいくら駅（現：和光市駅）が開業。&lt;br /&gt;
* 1934年（昭和9年）7月12日 - 駅名を新倉駅に変更。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 信頼できる情報源 ===&lt;br /&gt;
一方で、和光市史や『東武鉄道百年史』などの信頼できる書籍においては、「にいくら駅」であった時期があるという記載はまったく見られない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当サイトでは、東武鉄道社史編纂室『東武鉄道百年史［資料編］』（東武鉄道株式会社、平成10年9月30日）の記載が正しいものとして採用したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:東武鉄道百年史資料編p220.png]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 和光市（わこうし）&lt;br /&gt;
** 昭和9.2.1（新倉（にいぐら））&lt;br /&gt;
** 9.7.12（「にいくら」と改称）&lt;br /&gt;
** 26.10.1（大和町（やまとまち）と改称）&lt;br /&gt;
** 45.12.20（現駅名に改称）&lt;br /&gt;
** 62.8.25（有楽町線接着）＊営団業務を受託&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、新倉・大和町・和光市はいずれもルビとして読み方が記されているが、「にいくら」のみ、カギカッコ付きで記されている。これは、読み方のみを変更したものと読み取れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:過去の駅|にいくら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E5%80%89%E9%A7%85&amp;diff=383</id>
		<title>新倉駅</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E5%80%89%E9%A7%85&amp;diff=383"/>
		<updated>2026-08-10T17:30:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;東武東上線新倉駅&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は昭和九年（1934年）2月1日に開業した。開設当初は「新倉駅（にいぐら）」であったが、半年後の同年7月12日に「新倉駅（にいくら）」と濁らない読み方に改称されている。当時の所在地は埼玉県北足立郡新倉村にあたる。  {{Quotation|昭和九年（一九三四）に開設された新倉駅（現和光市駅）は畑の中に点在するだ…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]新倉駅&#039;&#039;&#039;は昭和九年（1934年）2月1日に開業した。開設当初は「新倉駅（にいぐら）」であったが、半年後の同年7月12日に「新倉駅（にいくら）」と濁らない読み方に改称されている。当時の所在地は埼玉県[[北足立郡]][[新倉村]]にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|昭和九年（一九三四）に開設された新倉駅（現[[和光市駅]]）は畑の中に点在するだけで、その周辺にはほとんど人家は見当たらなかった。昭和一三年当時、一日の乗客数は一六〇人余にすぎず、静かな田園地帯であった。|『和光市史 通史編 下巻』p.800}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|軍需工場の進出にともない、白子村、新倉村ともに村の様子を大きく変貌させた。昭和一〇年に両村合わせて四八四〇人であった人口は、昭和二〇年(一九四五）には一万人を超え、この間に農家戸数は六〇戸近く減少した。そして、昭和九年に開設した東武東上線新倉駅の乗客数は、関設当時の一日平均九四人からその約ニニ倍にも達したのである。|『和光市史 通史編 下巻』p.533}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、昭和十八年（1943年）4月1日、新倉村と[[白子村]]が合併して[[大和町]]になったが、「[[大和町駅]]（やまとまち）」への改称は昭和二十六年（1951年）10月1日と遅れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、昭和四十五年（1970年）10月31日、[[大和町]]が改称して[[和光町]]となり、即日市制施行により[[和光市]]となった。「[[和光市駅]]（わこうし）」への改称は、同年12月20日であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名称変更の経緯についての記載の混乱==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和光市や東武鉄道の公式サイトで、当初の駅名が「にいくら駅」、その半年後に「新倉駅」と改名した、との情報が掲載されている。公式の場での記載であるため、この情報がWikipediaでも採用されてしまっている。しかし、これは誤りであり、当初から「新倉」駅だったが、読み方だけ「にいぐら」から「にいくら」に変更されたというのが事実であると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Wikipediaの根拠となった公式サイトの記載 ===&lt;br /&gt;
[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 和光市駅 - Wikipedia]（2026年8月11日閲覧）では、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|1914年（大正3年）5月1日に東上鉄道（現・東武東上本線）池袋駅 - 田面沢駅の開業から大幅に遅れて、1934年（昭和9年）2月1日に埼玉県新座郡新倉村ににいくら駅として開業したのが始まりである。開業直後の同年7月12日に新倉駅へ変更した。|[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 和光市駅 - Wikipedia]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載されており&amp;lt;ref&amp;gt;本文中の「埼玉県新座郡新倉村」との記載は誤りである。昭和九年当時、新座郡はすでに北足立郡に編入されていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;、東武鉄道[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅]と、それを参考にしたと思われる[https://web.archive.org/web/20220315050052/http://wako-kurashinabi.jp/rekisi.html 和光市くらしナビ-和光市の歴史]のアーカイブを参照している。一方で、「『東武鉄道六十五年史』には、新倉駅（にいぐら）として開業し、後の7月12日に読みを（にいくら）へ改めた旨の記述がある。」との注記も行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Wikipediaの同項の[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 ノート:和光市駅]では、2011年のコメントにおいて、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|東武鉄道のウェブサイトには、「にいくら駅」で開業しその後「新倉駅」に変更したとあります。また、和光市のサイトにも「『にいくら駅』の開設を始め、」といった記述があることから、開業当時の駅名名称は「にいくら駅」であり、そののちに「新倉駅」に改名したのであると十分に言えます。|[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85 ノート:和光市駅]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあり、東武鉄道と和光市のサイトに書かれているから間違いないという1ユーザーの判断をもとに、この情報が15年以上維持されていることがわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに、2026年8月時点の[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅｜東武鉄道公式サイト]では、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|開設当時は「にいくら駅」でしたが、半年後には当時の村名の「新倉駅」に変り、また町名が変更して「大和町駅」に変りました。|[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅｜東武鉄道公式サイト]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と明記されており、また、「和光市歴史の玉手箱」（和光市デジタルミュージアム）でも[https://rekitama-wako.jp/museum/hensen/showa/toujousen-niikuraeki.php 東上線 新倉駅]の項において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|昭和9年に東上線新倉駅（はじめは「にいくら」駅）は開業した。|[https://rekitama-wako.jp/museum/hensen/showa/toujousen-niikuraeki.php 東上線 新倉駅-和光市デジタルミュージアム]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記されており、公式なサイトの記載には確かにその旨の記載は見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:和光市駅｜東武鉄道公式サイト.png]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:和光市歴史の玉手箱 新倉駅.png]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、この記載に基づき、「[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%80%89%E6%9D%91 新倉村 - Wikipedia]」でも&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 1934年（昭和9年）2月1日 - 東上鉄道（現：東武東上線）にいくら駅（現：和光市駅）が開業。&lt;br /&gt;
* 1934年（昭和9年）7月12日 - 駅名を新倉駅に変更。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 信頼できる情報源 ===&lt;br /&gt;
一方で、和光市史や『東武鉄道百年史』などの信頼できる書籍においては、「にいくら駅」であった時期があるという記載はまったく見られない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当サイトでは、東武鉄道社史編纂室『東武鉄道百年史［資料編］』（東武鉄道株式会社、平成10年9月30日）の記載が正しいものとして採用したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:東武鉄道百年史資料編p220.png]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 和光市（わこうし）&lt;br /&gt;
** 昭和9.2.1（新倉（にいぐら））&lt;br /&gt;
** 9.7.12（「にいくら」と改称）&lt;br /&gt;
** 26.10.1（大和町（やまとまち）と改称）&lt;br /&gt;
** 45.12.20（現駅名に改称）&lt;br /&gt;
** 62.8.25（有楽町線接着）＊営団業務を受託&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、新倉・大和町・和光市はいずれもルビとして読み方が記されているが、「にいくら」のみ、カギカッコ付きで記されている。これは、読み方のみを変更したものと読み取れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
{{鉄道}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:過去の駅|にいくら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%89%84%E9%81%93&amp;diff=382</id>
		<title>テンプレート:鉄道</title>
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		<updated>2026-08-10T17:17:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 旧[[新座郡]]エリア付近の[[鉄道路線]]・駅&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]&#039;&#039;&#039;（[[東上鉄道]]）&lt;br /&gt;
**[[柳瀬川駅]] - [[志木駅]] - [[朝霞台駅]] - [[朝霞駅]]（←[[膝折駅]]） - [[和光市駅]]（←[[大和町駅]]←[[新倉駅]]）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;東京メトロ [[有楽町線]]・[[副都心線]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[和光市駅]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;JR[[武蔵野線]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[新座貨物ターミナル駅]] - [[新座駅]] - [[北朝霞駅]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[西武池袋線]]&#039;&#039;&#039;（[[武蔵野鉄道]]）&lt;br /&gt;
** [[清瀬駅]] - 東久留米駅 - [[ひばりヶ丘駅]]（←[[田無町駅]]） - [[保谷駅]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[西武新宿線]]&#039;&#039;&#039;（[[川越鉄道]]・[[西武村山線]]）&lt;br /&gt;
**[[西武柳沢駅]] - [[東伏見駅]]（[[上保谷駅]]）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;JR中央線&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**（武蔵関駅）&lt;br /&gt;
;計画されていた路線&lt;br /&gt;
*[[中武鉄道]] / [[毛武鉄道]] / [[川越鉄道#延長線不許可|川越鉄道延長線]] / [[京越鉄道]]&lt;br /&gt;
*[[村山軽便鉄道]]&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東武高島平線]]&#039;&#039;&#039;（都営地下鉄三田線）&lt;br /&gt;
**大和町駅 - [[新倉駅 (東武高島平線)|新倉駅]] - [[吹上観音駅]] - 三園町駅（西高島平駅）&lt;br /&gt;
;計画線&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;東京メトロ[[大江戸線延伸計画]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
** 東所沢駅 - 清瀬北部駅 - [[新座中央駅]] - [[大泉学園町駅]] - [[大泉町駅]] - 土支田駅&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
* [[日本鉄道史]]（大正十年）&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93%E7%99%BE%E5%B9%B4%E5%8F%B2%E8%B3%87%E6%96%99%E7%B7%A8p220.png&amp;diff=381</id>
		<title>ファイル:東武鉄道百年史資料編p220.png</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93%E7%99%BE%E5%B9%B4%E5%8F%B2%E8%B3%87%E6%96%99%E7%B7%A8p220.png&amp;diff=381"/>
		<updated>2026-08-10T17:00:48Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 『東武鉄道百年史［資料編］』p.220より、旧新座郡エリアの駅についての記載部分をスキャンしたもの。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
『東武鉄道百年史［資料編］』p.220より、旧新座郡エリアの駅についての記載部分をスキャンしたもの。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%8E%89%E6%89%8B%E7%AE%B1_%E6%96%B0%E5%80%89%E9%A7%85.png&amp;diff=380</id>
		<title>ファイル:和光市歴史の玉手箱 新倉駅.png</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%8E%89%E6%89%8B%E7%AE%B1_%E6%96%B0%E5%80%89%E9%A7%85.png&amp;diff=380"/>
		<updated>2026-08-10T16:56:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: [和光市歴史の玉手箱 デジタルミュージアム https://rekitama-wako.jp/museum/hensen/showa/toujousen-niikuraeki.php] 新倉駅のページのスクリーンショット（2026年8月11日）&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[和光市歴史の玉手箱 デジタルミュージアム https://rekitama-wako.jp/museum/hensen/showa/toujousen-niikuraeki.php] 新倉駅のページのスクリーンショット（2026年8月11日）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85%EF%BD%9C%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88.png&amp;diff=379</id>
		<title>ファイル:和光市駅｜東武鉄道公式サイト.png</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%92%8C%E5%85%89%E5%B8%82%E9%A7%85%EF%BD%9C%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88.png&amp;diff=379"/>
		<updated>2026-08-10T16:55:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: [https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅｜東武鉄道公式サイト]のスクリーンショット（2026年8月11日）&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 和光市駅｜東武鉄道公式サイト]のスクリーンショット（2026年8月11日）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E9%89%84%E9%81%93%E8%B7%AF%E7%B7%9A&amp;diff=378</id>
		<title>鉄道路線</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E9%89%84%E9%81%93%E8%B7%AF%E7%B7%9A&amp;diff=378"/>
		<updated>2026-08-10T14:02:32Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 鉄道路線・駅 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]エリア内の鉄道路線および駅は以下のとおりである。以下、旧新座郡内にないが最寄り駅となり得る駅は（　　）で記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==鉄道路線・駅==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東武東上線]]&#039;&#039;&#039;　←　[[東上鉄道]]&lt;br /&gt;
**[[和光市駅]]　←　[[大和町駅]]　←　[[新倉駅]]&lt;br /&gt;
**[[朝霞駅]]　←　[[膝折駅]]&lt;br /&gt;
**[[朝霞台駅]]&lt;br /&gt;
**[[志木駅]]&lt;br /&gt;
**[[柳瀬川駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;東京メトロ [[有楽町線]]・[[副都心線]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[和光市駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;JR[[武蔵野線]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[北朝霞駅]]&lt;br /&gt;
**[[新座駅]]&lt;br /&gt;
**[[新座貨物ターミナル駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[西武池袋線]]&#039;&#039;&#039;　←　[[武蔵野鉄道]]&lt;br /&gt;
**（[[大泉学園駅]]）&lt;br /&gt;
**[[保谷駅]]&lt;br /&gt;
**[[ひばりヶ丘駅]]　←　[[田無町駅]]&lt;br /&gt;
**（[[東久留米駅]]）&lt;br /&gt;
***東久留米駅～清瀬駅間で一部新座市内を通過する。&lt;br /&gt;
**（[[清瀬駅]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[西武新宿線]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[東伏見駅]]　←　[[上保谷駅]]&lt;br /&gt;
**[[西武柳沢駅]]&lt;br /&gt;
**（田無駅）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;JR中央線&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**（武蔵関駅）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==計画線==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東武高島平線]]&#039;&#039;&#039;（都営地下鉄三田線）&lt;br /&gt;
**三園町駅（西高島平駅）&lt;br /&gt;
**[[吹上観音駅]]&lt;br /&gt;
**[[新倉駅 (東武高島平線)|新倉駅]]&lt;br /&gt;
**[[大和町駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;東京メトロ[[大江戸線延伸計画]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**東所沢駅&lt;br /&gt;
**土支田駅&lt;br /&gt;
**[[大泉町駅]]&lt;br /&gt;
**[[大泉学園町駅]]&lt;br /&gt;
**[[新座中央駅]]&lt;br /&gt;
**清瀬北部駅&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:鉄道|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9&amp;diff=377</id>
		<title>カテゴリ:江戸時代の人物</title>
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		<updated>2026-07-28T13:16:01Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「え」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:人物|え]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>安松金右衛門</title>
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		<updated>2026-07-28T13:15:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;安松 金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（やすまつ きんえもん、慶長十六年（1611年） - 貞享三年10月27日（1686年12月11日））は、江戸時代初期の武士、技術者である。川越藩主・松平信綱の家臣（陪臣）であり、玉川上水および野火止用水の設計・建設における真の功労者とされる。  名は吉実（よしざね）。算術の達人として知られ、武蔵野の開発や江戸の給水…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;安松 金右衛門&#039;&#039;&#039;（やすまつ きんえもん、慶長十六年（1611年） - 貞享三年10月27日（1686年12月11日））は、江戸時代初期の武士、技術者である。川越藩主・[[松平信綱]]の家臣（陪臣）であり、[[玉川上水]]および[[野火止用水]]の設計・建設における真の功労者とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名は吉実（よしざね）。算術の達人として知られ、武蔵野の開発や江戸の給水システムの確立に極めて重要な役割を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
===出自===&lt;br /&gt;
本国は河内、生国は播磨とされる。元々の名字は神吉（かんき）氏であり、播磨国神吉城（現在の兵庫県加古川市）の一族であったが、織田信長による中国攻めの中で没落し、東国へ流落したと考えられている。安松家伝来の具足櫃には「神吉氏」の名が記されていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===松平家への出仕===&lt;br /&gt;
正保元年（1644年）、幕府の御勘定方であった能勢四郎右衛門頼安の推薦により、当時川越藩主であった松平信綱に召し抱えられた。当初は蔵米100俵を支給される「元締め」であったが、慶安元年（1648年）には知行100石の「代官」となり、その後、数度の加増を経て200石に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===玉川上水の開削===&lt;br /&gt;
承応二年（1653年）、江戸の深刻な飲料水不足を解消するため玉川上水の開削が始まった。当初は町人の玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が設計・請負にあたったが、第1案（府中八幡下付近）および第2案（福生村熊川付近）ともに地質の不備や測量の誤りから水が地中に染み込む（水喰土）などして失敗し、計画は廃案の危機に瀕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この窮地に対し、総奉行の松平信綱は自らの家臣である安松金右衛門に再設計を命じ、安松は以下の3つの設計案を提示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*第1案：羽村地内尾作から五ノ神村を経て福生村へ至る案。&lt;br /&gt;
*第2案：羽村地内阿蘇宮から堀り込む案。尾作案より優れるが、田地が多く潰れる難点があった。&lt;br /&gt;
*第3案：羽村の丸山裾から堰き入れ、川縁に堤を築いて福生村より堀り入れる案。あわせて狭山の筥が池（箱根ヶ崎）を助水として合同させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第3案が採用され、安松の精緻な測量と設計によって玉川上水は成功裏に完成した。安松はこの際、夜間に提灯の火を用いて高低を測る独自の測量法を用いたと伝えられており、使用された「山道形」の印がついた提灯は、後に信綱の菩提寺である平林寺に納められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===野火止用水と武蔵野開発===&lt;br /&gt;
信綱の悲願であった武蔵野開墾を支えるため、安松は玉川上水の分水である野火止用水の設計・施工も担当した。野火止用水は、飲料水が皆無であった未墾の原野へ水を引くためのものであった。俗説では通水までに3年を要したとされるが、榎本弥左衛門の記録によれば、実際には承応四年（1655年）2月10日の着工からわずか40日余り（3月20日）で竣工・通水させている。この用水の完成により、野火止周辺の新田開発は飛躍的に進み、信綱の領地のみならず幕府直轄領を含めた大規模な農村創設が可能となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===伊呂波樋と新河岸川漕運===&lt;br /&gt;
安松の業績は用水の開削に留まらない。野火止用水の流末を新河岸川を跨いで宗岡村へと送るための巨大な掛樋「伊呂波樋（いろはどい）」を工夫・設計し、水利の悪かった地域を豊かな水田地帯へと変えた。また、川越と江戸を繋ぐ物流の要となった新河岸川の漕運（川越運河）の開発においても、小畑助左衛門と共に中心的な役割を果たしたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神田上水の改修===&lt;br /&gt;
万治から寛文年間にかけて行われた神田上水の改修、特にお茶の水付近の鑿通に伴う小石川掛樋（白堀）の設計にも、幕府からの「お頼み」という形で参画したと伝えられている。陪臣である安松に幕府が直接協力を仰ぐのは極めて異例のことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===晩年と死後===&lt;br /&gt;
寛文二年（1662年）、信綱の嫡男・輝綱が家督を継ぐと川越へ遣わされ、郡代として格式高い「独礼（どくれい）」の待遇を受けた。晩年は老衰のため家督を子の金右衛門に譲り、貞享3年（1686年）に死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安松家はその後、十代にわたって「院殿号」を冠した戒名を与えられた。江戸時代において院殿号は叙任された大名や一部の有力旗本に限られるものであり、一介の陪臣が代々これを許されるのは、その功績が「黄金より尊い」とされた上水の建設に携わったことに対する、破格の待遇であったと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===墓所・供養===&lt;br /&gt;
当初の墓所は江戸の大宗寺（現在の東京都新宿区）にあり、一族の合葬墓として九左衛門（父とされる）以下の法名が刻まれていた。昭和十年（1935年）、安松の業績を顕彰するため、野火止水利組合と松平家の協議により、埼玉県新座市の平林寺にある松平信綱の墓所側近へと改葬された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===評価と伝説===&lt;br /&gt;
三田村鳶魚は、玉川上水の真の設計者は玉川兄弟ではなく安松金右衛門であり、安松がいなければ上水計画は廃案になっていたと断言している。安松自身は、自らの功績を誇ることを潔しとしない「奥ゆかしい武士」であったため、その名は玉川兄弟の陰に隠れがちであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国定教科書や新井白石の『紳書』には、野火止用水の開通を巡って安松が不屈の忍耐を見せる逸話が収録されたが、三田村は「三年水が来なかった」という記述については当時の記録（榎本『万之覚』）と照らし合わせ、歴史的誤謬であると指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
三田村鳶魚&#039;&#039;&#039;『[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]』&#039;&#039;&#039;（1942年、電通出版部）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物|や]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=375</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門</title>
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		<updated>2026-07-28T13:14:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 目次 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚著『&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））は、玉川上水・[[野火止用水]]の建設者である[[安松金右衛門]]の本当の業績を現代に伝えようとした書籍である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著者・三田村鳶魚==&lt;br /&gt;
三田村鳶魚（みたむら えんぎょ）（1870年〜1952年）は、「江戸学の祖」や「生きた江戸の百科事典」と称される時代考証家である。&lt;br /&gt;
* 徹底した考証主義：新聞記者を経て研究に専念し、膨大な文献調査とフィールドワークによって「嘘の江戸」を排除しようとした。&lt;br /&gt;
* 時代小説への厳しい批判: 吉川英治などの大衆作家に対し、史実や風俗の誤りを容赦なく指摘したことで、当時の作家たちからは恐れられる存在だった。&lt;br /&gt;
* 在野の精神: 大学などのアカデミズムに属さず、生涯「町学者」として江戸の武家から市井の生活文化まで幅広く研究し続けた。&lt;br /&gt;
* 膨大な著作は『三田村鳶魚全集』（全28巻）にまとめられており、現在も時代考証の基本文献として重宝されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現代語訳==&lt;br /&gt;
ここでは、全文を現代語訳して掲載する。現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三田村鳶魚著&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
電通出版部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===小引===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　徳川一世（家康）が天正十八年（1590年）8月朔日、初めて江戸城に入って以来、承応二年（1653年）まで60余年の間、江戸に住む限り、市民のみならず諸大名もみなことごとく飲料水に困りました。慶長になりまして、江戸城の修築が成り、市街地の町割りもできて、住民がだんだん増えてまいりましても、土地柄として井戸を掘っても、よい水が得られません。徳川一世は早く神田上水をこしらえさせましたけれども、膨脹が急な新都市のにわかに増加する人々の飲料をいかんともし難い。江戸は慶長五年（1600年）から京都、大阪と並んで三大都市と言われておりましたが、飲料水についての悩みは、日ごとに激しくなるばかりでありました。幕府として新都市の他の計画は着々成功して、江戸を装備し、整頓させましたが、市民生活というよりも、むしろ人間生存の大前提である飲料水の供給に欠けていることは、何よりも先に、何よりも急ぐべきことであるのに、これが欠如していました。それは新都市の成立を危うくするものであり、江戸の発達を望めないことにもなりますので、将軍の威勢、幕府の面目にかけても適当な方策を立てなければならないので、老中以下の役人もいたずらに焦慮するだけで、何分対策が得られませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府は四代がかり、家康・秀忠・家光・家綱、家綱将軍の時に、江戸町奉行・神尾備前守の斡旋によって、玉川庄右衛門・清右衛門の申し立てを得ました。玉川両人は玉川が上水に足りることを知り、羽村から四谷大木戸までの上水路を設計して上申したのです。幕府はすぐに採用し、閣老・[[松平伊豆守信綱]]を総奉行とし、伊奈半右衛門を奉行として、早速工事を起こさせました。玉川両人は工事を請けて提案の通りに開削しましたが、設計が不備であったために堀に水が流れません。そこで再び設計して工事を進めましたが、またしても水が通りません。再度の失敗で玉川上水計画は廃案になりそうでした。そのとき、松平信綱はせっかくの計画であるこの玉川上水案を放棄するのを残念に思われ、また江戸には上水で飲料を供給するよりほかに方法がなく、玉川からであれば豊富な分量も得られて、江戸に住む上下の人々も日頃の苦悩を免れることでもあり、ことに四代がかりの幕府の人生であるから、是非とも上水道開通に成功したいと希望されました。自分の家来に安松金右衛門という水利に達した者がいるので、その安松に命じて新たに玉川上水路の設計をさせ、首尾よく全国無二の長距離、大規模な工事を完成させ、信綱の三大まつりごとの一つに数えられる偉業を残しました。信綱は、また宿願であった武蔵野開墾も実現し、多大な新開拓地を得て、自分の領地だけでなく、幕府の直轄領および他領にも多くの農村を創設することができました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　主人信綱に民政上の手柄を立てさせた玉川上水の設計者・安松金右衛門は、旦那に手柄をさせたのは俺だと吹聴するどころか、そんな心持ちさえ持たない人物。忠義をいたしましたと口へ出すようなら決して忠臣ではありません。宣伝ということも自己宣伝になってしまえば醜態を極めます。信綱も自分の功績を知られないようにする心がけがありましたが、安松も同様な心持ちでありまして、実に奥ゆかしい武士なのでした。それゆえに、我々が朝となく夕となく汲んで飲んでいる玉川上水、承応二年から昭和の今日（※昭和十七年＝1942年）までは310年、江戸をまたいで東京、父祖代々受容しており、現に市民677万8804人の命を救っております。将来いかなる水道ができましても、この玉川上水をしのぐほどのものはありますまい。もしできたとしても玉川上水を除くことはない。過去・現在・未来にわたって、玉川上水の恩恵はまことに東京市民に尽きないものと存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この広大長遠な恩恵を東京市民に受けさせた安松金右衛門。安松がいなければ信綱が何と思われたところで、玉川上水は廃案になるよりほかなかったでしょう。その安松金右衛門の事蹟はもちろん、彼の名をすら知っている人が全市に幾人いるでしょうか。東京も七十余年でできたのではない。今日までどれほどの先人の苦労を積んでこしらえ上げたものでしょうか。自分の身体が祖先の先からの恩恵で育成されたように、古人の積んだ苦労がどれほど多いだろうか。我々は今更ながら、感銘を受けたままに報恩謝徳を心がけなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本書は報恩謝徳の心持ちを持って記述いたしました。筆者の思うほどに書けないのは愚文のゆえであります。十年来の心がけでこの記述をいたしましたが、資料の収集の足らぬため、不十分なのであります。私の報恩謝徳の心持ちは今後も決して衰えません。新資料を得て増補の必要を感じたときには、つとめて決行したいと存じます。特に武蔵野開墾は信綱の大仕事でもあり、今日の大東京を成す究極の事柄でもございますから、及ばずながら微力を尽くしたいと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和十七年立冬前二日（※1942年11月5日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳶魚生　しるす&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===目次===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 小引&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その一　紳書の誤謬]]&#039;&#039;&#039;――国定教科書や新井白石の『紳書』に見られる安松金右衛門に関する記述の誤謬を正し、確かな史料が欠落した背景を解明する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/02|その二　野火止用水路]]&#039;&#039;&#039;――通水に三年を要したという野火止用水の伝説を否定し、実際には四十日ほどで工事が完了・通水した歴史的事実を提示する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]&#039;&#039;&#039;――玉川兄弟の事績に偏った『上水記』などの不備を指摘し、上水設計における安松金右衛門の真の貢献を浮き彫りにする。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟の失敗]]&#039;&#039;&#039;――玉川兄弟による二度の設計失敗を、安松金右衛門が独自の測量法を用いた第三の設計案によって成功に導いた過程を詳述する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/05|その五　畑ばかりの新農村]]&#039;&#039;&#039;――水利に乏しい武蔵野の開墾において、野火止用水が本来は生活に不可欠な「飲料水」として供給された恩恵と役割を明らかにする。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/06|その六　武蔵野開墾の規模]]&#039;&#039;&#039;――武蔵野開墾の成否を分けた玉川上水の分水供給と、野火止用水が私領として異例の規模で許可された歴史的背景を考察する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/07|その七　引又の伊呂波樋]]&#039;&#039;&#039;――野火止用水の末流を新河岸川越しに宗岡村へ送る「伊呂波樋」の構造と、安松金右衛門による巧みな水利設計の功績を辿る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/08|その八　川越運河]]&#039;&#039;&#039;――川越と江戸を繋ぐ物流の要となった新河岸川の漕運開発において、安松金右衛門らが果たした運河整備の足跡を究明する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/09|その九　悲しい水喰土]]&#039;&#039;&#039;――府中「悲しい坂」や福生「水喰土」の遺構と伝承から、玉川兄弟の度重なる設計失敗と安松による工事成功の真実を裏付ける。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/10|その十　金右衛門の経歴]]&#039;&#039;&#039;――算術の達人として出仕した安松金右衛門の経歴を辿り、十代にわたり院殿号を許された異例の待遇と家系の謎に迫る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/11|その十一　宗岡の古図]]&#039;&#039;&#039;――宗岡村の開墾史と伊呂波樋の設計を検証し、安松が神田上水改修への貢献により陪臣として異例の院殿号を許された背景を究明する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/12|その十二　玉川上水の記事]]&#039;&#039;&#039;――羽村の水元から江戸市中の末端配水に至る玉川上水の構造・管理体制の変遷を辿り、その巨大な恩恵と歴史的役割を改めて総括する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/13|その十三　江戸っ子の自慢]]&#039;&#039;&#039;――飲料水が乏しかった江戸で上水が市民の誇りとなった背景を、水を黄金より尊んだ当時の価値観や奢侈を戒める数々の逸話から描く。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/14|その十四　江戸の穿井]]&#039;&#039;&#039;――江戸・武蔵野における井戸掘削の歴史と掘抜技術の変遷を辿り、上水と並んで都市生活を支えた貴重な水資源としての役割と共助の精神を説く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者_安松金右衛門|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/14&amp;diff=374</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/14</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/14&amp;diff=374"/>
		<updated>2026-07-28T13:03:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十四章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ|）  ==その十四　江戸の鑿井==  　近頃、東京の上水は山口の貯水池が出来まして&amp;lt;ref&amp;gt;昭和九年（1934年）、柳瀬川浸食谷を活用して山口貯水池が完成した。現在は狭山湖の別称で…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十四章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十四　江戸の鑿井==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　近頃、東京の上水は山口の貯水池が出来まして&amp;lt;ref&amp;gt;昭和九年（1934年）、[[柳瀬川]]浸食谷を活用して山口貯水池が完成した。現在は狭山湖の別称でも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;、東村山の貯水池&amp;lt;ref&amp;gt;昭和二年（1927年）、村山貯水池が完成した。別称は多摩湖。&amp;lt;/ref&amp;gt;とあいまって大分多い水量を得られるようになりました。まずこれで東京の水切れというものは心配がないことになるのかと思うと、そうではなくて、目の先に近郊八十二か町村を併合する、大東京の計画があるのですから&amp;lt;ref&amp;gt;東京市は明治二十二年（1889年）に東京市が15区で設立された。その後、昭和七年（1932年）に、近隣地域を含めて35区に拡大した。これを大東京と呼ぶ。&amp;lt;/ref&amp;gt;、この上にもまだ水道の拡張計画をしなければならないことになっておりまして、江戸川の水を引き込むとか、利根川の水を引き込むとかいう計画を立てて、調べていたそうでありますが、それでも適当な計画が得られないというので、話はやっぱりあとへ戻って、多摩川の上流、西多摩郡の氷川村、古里村――多摩川の水源地であるそこから水を取る。そうでなければ東村山と山口との両貯水池によって得るところの六～七倍のものを得られるというので、昭和八年度から十か年計画で、多摩川の上流から水を取る計画をしている。これができれば世界最大の水道であるとかいう話を聞いております。&amp;lt;ref&amp;gt;小河内貯水池計画のこと。氷川村・古里村と小河内村は合併して西多摩郡奥多摩町となっている。太平洋戦争のために計画は延期され、戦後、昭和三十二年（1957年）に完成した。別名、奥多摩湖。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　従来、江戸ではいろいろな水道があったこともありますが、多摩川上水が何といっても江戸の給水の大部分をなしていたのであります。近いところで村山の貯水池が出来まして以来、玉川沿岸――これは昔の武蔵野の地帯でありますから、いずれも田畑に対する水の供給というものに乏しいのであります。のみならず飲用水に事欠く場所が多い。現在においてさえ、従来に比べて水が不自由になったということは、沿岸の人々が言っているところであります。もし今よりももっと上流から水を取るようなことになりましたならば、沿岸の水の乏しくなることは、今よりどれほどひどくなりましょうか。ことに、ひでりにでもなるような年柄にでもなりましたならば、沿岸の諸村にどれほどの被害、困惑を生ずるでありましょうか。最近十年来、羽村でアユが取れなくなって、漁民が仕事を失っているくらいの話ではあるまいと思います。新しい計画によって、それで東京市民は水切れの心配がなくなるものといたしましても、多摩川沿岸の人々の水の不足することを考えたならば、東京の者さえ不自由が無ければ、沿岸の者などはどうでもいいというようなことが許されるかどうか。それにはいろいろな例もありますけれども、さしあたって東京の人たちが水に不自由しなければ、沿岸の者はどうでもかまわないという都市の暴虐が許されることか、許されぬことかということを言っておけばいいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その都市の暴虐は問題として残しておいて、沿岸の住民等に迷惑をかけて、それで果して東京市民が水に不自由がなくなるかどうか、現在の東京市だけは、山口・東村山両貯水池によって、供給される水量で足りているとする。実は、これも決して足りているとは言えない。将来の大東京――近く併合する近郊八十二か町村、それも今後どれほど人口が増加するか、その増加した人口に対してまでの水量の保障は、多摩川上流から給水をするという新案でも、とてもできないだろうと思う。これは将来に大きな問題を残しておくことだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そこで江戸時代において、水道がどんな按配であったか、また鑿井&amp;lt;ref&amp;gt;鑿井：地下水や石油などを採取するために井戸を掘ること。&amp;lt;/ref&amp;gt;がどんなであったか、今日は全く鑿井というものを認めずに、もっぱら水道によることになっておりますが、これもまた大いに考えてみなければならぬ事柄であろうと思います。将来この多摩川上流案のみならず、その他に水が得られる考案もありましょうが、いずれにも鑿井を除外して考えることはできますまい。それは人口の増えていくことが何の程度で、どれほどになろうかという見込みがつかない。したがって、それに対する供水量もどれほどであるかわからないのだから、いずれとも条件をつけて鑿井を利用するようなことはしても、まったく鑿井を省くということは、よろしくないようにばかり考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　江戸時代の水道の状況を考えてみると、紀州の医官によって書かれた『江戸自慢』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『江戸自慢』&#039;&#039;&#039;：三田村鳶魚校閲の『未完随筆百種』第十四所収（[https://dl.ndl.go.jp/pid/1809302/1/227 三田村鳶魚 校 ほか『未刊随筆百種』第十四,米山堂,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション]）。その解説を現代語訳すると、「紀州の付家老、水野土佐守の侍医・原田某が、在江戸中の見聞をもって、本国と比較して書いたものであるため、安政（1854年～1860年）以後の江戸のありさまが非常に詳しくわかる。おそらく、耳目に馴染まなかったために、見聞がみな新しく思われ、よく事物に聡明であることを得たのではないだろうか。西沢李叟の『皇都午睡』に比べて簡約・明晰であるところが優れている」。『皇都午睡』（こうとごすい、嘉永三年（1850年））の著者は大坂の戯作者・西沢一鳳（綺語堂李叟）である。&amp;lt;/ref&amp;gt;、これによって安政（1854年～1860年）度の水道の様子が簡単に見える。「江戸中に井戸はあれども飲み水は上水を用いる」というので、ここに玉川上水と神田上水と二つの上水があつて、それからの給水状況が書いてある。そうしてこの上水というものは、飲料水だけに使っておった。我々どもが知っている頃までも、雑水（ぞうみず）と称して、飲料水以外の水は皆鑿井から汲んできて使っていた。鑿井の内でもなかなかいい水の出る分は、もちろん飲料水にしておりました。今日は上水を雑水にも使えば、散水にも使う。飲料水だけでなく何でも使う。そんなことをしているならば、昔はもっと人数が少なかったには少なかったけれども、両水道で供給する水量というものは、統計がないから明白にわかりませんが、今日よりよほど少なかったのですから、とてもどうにもならなかった。ただ飲料水に限って使うという節約が行われていたから、かろうじて用を足してきたのです。その引き続きでありますから、明治十五年（1882年）に書かれた『空おぼへ』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『伝術暗記空おぼへ』&#039;&#039;&#039;：明治十五年（1882年）。国書刊行会 編『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1088295 新燕石十種]』第一（国書刊行会、明治45）に収録されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;などを見ますと、やはり神田・玉川の両上水で、江戸時代のままに踏襲して用いたのであることが知れます。この時まで――これよりずっと後までとおぼえていますが、江戸時代同様な状況で給水されておりました。その給水線路はくわしくここに挙げてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:水筋 小日向より小石川内神田一円、日本橋両国八丁堀橋辺、京橋向は御堀端通り、南へすきや町河岸まで通ずる。元吉原に水道尻というところがある。これが水道の終りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、江戸の上水というものは、神田と玉川との二つではなくて、その他に綾瀬川の水を取り入れた白堀上水、玉川の分水と石神井の三宝寺池の水とを合わせた千川上水、まだもう二つほど上水があったのでありますが、これは享保年間に、幕府が費用を出すのに困って廃してしまった。千川上水の方は、明治になって再興したこともありましたけれども、それもついに廃れたようであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　元来、江戸は水が無いのみならず、ついに井戸を掘っても水が得られない。飲料水にするような河川も近所にない。ただわずかに多摩川があるだけであります。それだから水道と水ということは、江戸っ子が恐ろしく自慢にしたものだ。それが果して自慢すべきものであるか否かは知りませんけれども、水が悪い上に乏しい土地柄でありますから、良い水を多く得られる水道というものは、どれほどうれしいものであったかわからない。江戸っ子は何よりも「金のしゃちほこを睨んで、水道の水で産湯をつかった」ということを得意げにいう。金のしゃちほこの方は、江戸城の天守にあったのですが、明暦の火事で焼けてなくなってしまった。それはなくなってもそれまでの話でありますが、なくてはならぬ水道の方は、享保に幕府が費用の節倹から、上水の数を減じましたけれども、神田・玉川の上水だけは、どうしてもやめることができないのみならず、それが東京にまで持ち越しております。今日でも多摩川の水、それに神田上水の有力な水源地であります井ノ頭の弁天の池の水は、助勢として今日の東京の水道に送水されております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、この大自慢の水道は、承応の時期にできたものでありまして、御普請奉行の上水方でありました石野遠江守の書いた『上水記』に従いますと、明和五年に町奉行から御普請方へ上水工事を受け取りました時分の古い書留に、承応元年までは御城内ならびに城下の町々に上水というものはなくて、下々の者は所々の水溜り・溜池などの水を汲んで、それを樋にかけて使っていたので、水には実に不自由なものだったとある。そこで石野は、赤阪の溜池の水を皆が飲んでいたが、あれなどは溜り水の一つである。それだから井ノ頭なども、やはり溜り水の池であったろう。と書いております。この溜池の方はそのとおり溜り水であったのですが、井ノ頭の方は野水ではありますけれども、湧き出すのであったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そこで武蔵野の時代からの井戸の様子を眺める。戸田茂睡が天和年中に書いた『紫の一本』の中には、井戸が九つ挙げてある。これも井戸が如何に珍重されたか、ということを物語るものと思われます。『江戸名所記』のようなものにも、やはり井戸のことが書いてある。水に困った土地だけに、江戸としては古い名所記などから、井戸には注意していたとみえる。『紫の一本』のは註記が詳しいから、ひとまずここに出しておきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 極楽の井（小石川）&lt;br /&gt;
* （山沼水）蜘の井&lt;br /&gt;
* （山清水）堀兼の井（牛込）&lt;br /&gt;
* 麹町の井（神田）（口は小さく底は広い）&lt;br /&gt;
* 亀の井（同上　口は小さく底は広い）&lt;br /&gt;
* 亀井戸（同上）&lt;br /&gt;
* 油の井（芝）&lt;br /&gt;
* （山清水）策の井（四谷）&lt;br /&gt;
* 野中の清水（谷中）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この九つの中で、清水――ひとりでに湧く水を井戸にしているものが七つまであります。九つに対する七つ、湧水を多く使っていたことが考えられる。このうちにはもう知れなくなってしまったものもありますが、明治の始めまで残っていた。古いのは、小石川の極楽水&amp;lt;ref&amp;gt;小石川の極楽の井のあった場所は、現在、文京区小石川四丁目の小石川パークタワー内の「極楽水」として、弁財天が祭られている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、鮫橋仲之町の旭の井戸&amp;lt;ref&amp;gt;鮫河橋仲町は現在の新宿区南元町、ガーデンヒルズ四ツ谷迎賓の森付近。&amp;lt;/ref&amp;gt;、津守の策の井戸&amp;lt;ref&amp;gt;松平摂津守下屋敷にあった「策（むち）の井」は、現在の西新宿一丁目六番地、新宿エルタワービル付近にあった。現在はモニュメントが作られている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、市谷船河原町の堀兼の井戸&amp;lt;ref&amp;gt;新宿区市谷船河原町九番地で、史跡に指定されている。『紫の一本』の牛込の堀兼の井に該当する。&amp;lt;/ref&amp;gt;などでありました。これはいずれも湧水でありまして、策の井などは猿頬&amp;lt;ref&amp;gt;片手桶&amp;lt;/ref&amp;gt;を投げ込んであって、猿頬で水を汲み出して飲めるというほど、水がたくさん、上の方まで出ておりました。井戸を掘るということの不十分でありました時代には、湧水が珍重されたに違いない。まして江戸居廻りのところでは、掘ってもいい水が得られませんから、どうしても湧水を使う理屈になってくるはずであります。水道がなかった時代には、この湧水がどれほど珍重されたかわからない。もちろん、湧水だけで用が足りるわけではありませんから、井戸は掘らなければならない。その古い井戸はどういう風にして掘ったか、それは文化十二年（1815年）版行になりました『武蔵野話』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『武蔵野話』&#039;&#039;&#039;：斎藤鶴磯による。初編は文化十二年（1815年）、続編は文政十年（1827年）に出版された。&amp;lt;/ref&amp;gt;などにも、古い井戸の絵があります。それに斉藤鶴磯は「二十年前まで、この辺の井戸は「七曲り」といって、今の井戸とはことのほか違っている。今はもうないが、土地の人が頭の上に手桶を載せて下まで下りて行って柄杓で水を汲む」と書いている。これは所沢に近い堀兼村にある堀兼井のことを書いたので、もう文化のころには半分ほど埋めて、釣瓶で汲んでいたということであります。これとほぼほぼ似たようなものが、今日でも羽村の内の五ノ神村青梅の停車場の側のところに、半分埋めてある古井戸がありまして&amp;lt;ref&amp;gt;羽村駅すぐの五ノ神社に、「五ノ神まいまいず井戸」が残っている。地面にすり鉢状の大きな穴を掘り、その底から井戸を掘ったもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;、今は釣瓶で汲むようになっておりますけれども、それによって見ると、螺旋状をなして、ぐるぐる廻りながら下りて行ったものだということがわかる。まだこの他にも、そこここに堀兼井の名が残っているところもあり、その形状は五ノ神村の井戸のように、旧形をよく現しているものばかりではありませんが、ああいう掘り方が武蔵野一般の鑿井方法だったように思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それですから、まだ江戸のうちにも二つ三つ、堀兼井という名だけ残っているわけで「堀兼」というのは、掘りかねるという意味ではもちろんありません。「兼」という字も借物で、私などはこれは曲尺のことを「カネジャク」という、あの曲の字を書いた方が、よく意義が現れると思う。螺旋状をなしているのですから、曲の手にぐるぐる廻って掘り下げてある、それで「堀兼井」というのだと思っています。たまに掘った昔の井戸は、この堀兼井で、それにしたところが大変な手数をかけて、それだけの労苦をして行っても、なかなか良い水を得ることはできない。そうでなければ、山清水の流れ出るのを場所を見つけて、そこから水を取る。さもなければ湧水を待つ。こういうのが古いところの給水方法であります。それですから、昔、井戸を掘るのはなかなか容易なことではない。その容易でない井戸も、掘りさえすれば必ず良水が得られるというわけでありませんから、掘るだけの労苦では決していい水は得られない。それには『雨窓閑話』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『雨窓閑話』&#039;&#039;&#039;：収録されている『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1243658/1/8 日本随筆全集]』第十九巻の解題を現代語訳すると、「著者未詳、嘉永四年（1851年）刊。本書は白河公松平定信の著という伝説があるが、文体から考えても妄説であることは明らかである。『常山紀談』『明良洪範』本集第十五巻に収めた『翁草』などの類書であり、元亀・天正ごろから、下って徳川時代初期の武士の逸話などで満たされている。」&amp;lt;/ref&amp;gt;というものがあって、これに昔の人の水を得る苦心が書いてあります。この随筆は作者も時代も知れません。白川楽翁&amp;lt;ref&amp;gt;白河楽翁。松平定信のこと。&amp;lt;/ref&amp;gt;が書かれたという説がありますけれども、これは確かに間違っている。が、時代はどうもその頃のものだと思われます。それにはこんなことが書いてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ある殿様が御話しなさるのに、私が家督を相続して、領分の村々を巡検した時、ある村のひなびたあたりへ行ったところ、たいそういい水が出るという評判を聞いて、そこへ寄ってその水を飲んで見ると、いかにもいい水であった。その時にかたわらへ六十余の婆さんが来ておじぎをしている。それから、この婆さんを呼んで、この水はたいそう良い水だが、この村方ではこの水を使っているのか、といって聞いた。そうするとその婆さんが申すのに、左様でございます。この辺の民家は二百軒ほどでございますが、皆この水を使っております。それにつきましてお話がございます。この村方と申すのは、まことに水の悪いところでございましたので、私の親父がそれをひどく嘆息いたしまして、どうか村方の者に良い水を与えたい。ということを若い時から心願を立てまして、薬師様に願掛けをして、彼方此方と方々に井戸を掘りました。前後八十か所も捕ったでしょうけれども、何分にも良い水が得られません。その間に年も大分たち、自分もだんだん年をとりまして、身体も衰えて参りましたが、それでもようやくこの井戸を掘って、良い水が出るようになりました。これを最期に親父は亡くなりましたが、親父が最後に掘った井戸から良い水が出たというので、この井戸の名は親父の名をそのままに「五左衛門井戸」とただ今でも申しております。もはや四十年ばかりにもなりましょうか、村方の者が打ち寄って、この婆は井戸を掘った五左衛門の子だというので、扶持をくれてこの井戸の持主ということにしてくれまして、そのために安静に暮らしております。これはまことに父親のおかげと存じます。今日、殿様がここをお通りになって、この井戸をご覧になるということでございましたから、井戸守でございますので、私がここまでまかり出ました。」と申しました。――こういうことが書いてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この土地はどこであるかわかりませんが、いづれにしても武蔵野の中の話で、どの村方においても水が大切にされ、井戸が珍重された、ということが知れます。そうして良い水を掘り当てるということは、それが公益の最大のものと思われていたことがよくわかります。昔は水脈に掘り当てるということを、僥倖のように思っておりました。掘り方が深いからきっといいわけでもない。いい按配に良い水を掘り当てるということは、もっけの幸いということになっていた。そういう風でありましたから、神仏から水をお授け下されたということや、名僧智識が杖の先で掘ったら水が出たという伝説があるのは、人聞業ではないかの如く思われていた証拠だと思います。それゆえ、井戸の数も甚だ少なく、良い水もむろん少ないわけでありますが、綱吉将軍の代になりまして、だんだんと水道が増えて、何々水道、何々水道と五つ位の名称があるようになって参りましたけれども、その当時の江戸にいたしましたところが、やはり水は乏しいので、元禄三年（1690年）版の『枝珊瑚珠』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『枝珊瑚珠』&#039;&#039;&#039;：江戸で著名な座敷咄の名手・鹿野武左衛門と浮世絵師の石川流宣らが集まって作った笑話集。地本問屋・相模屋太兵衛の刊。[https://dl.ndl.go.jp/pid/12456469 『噺本大系』第6巻]に収録。&amp;lt;/ref&amp;gt;という笑話の本に、在所の親仁が江戸へ小僧に出した自分の子供を叱る言葉がある。「お前はまことに花のお江戸へ参って、湯の水風呂に入れる。おれは何年も湯を浴びたことはないのに、お前はしあわせだ」というようなことをいっている。『近世事物考』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『近世事物考』&#039;&#039;&#039;：久松祐之撰。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1088126 『近古文芸温知叢書』第12編]に収録。「水風呂」の項を現代語訳すると、「昔、鎌倉時代より足利ころまでも、貴人を客に招いたときは、必ず風呂をたててもてなした。風呂と言えば海水である。たまたま井戸水を用いるのを水風呂という。行水もこれに同じ。今は据（すえ）風呂などと書く。」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;を見ますと、「風呂といえば海の水である。たまに塩気のない水を汲んで使うのを水風呂という」と書いてある。井戸水で風呂を立てるということは、大都会の江戸でなければできないことだ、ということがこの笑話でわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　もっとも後々までも江戸には湯屋というものが少のうございました。武家屋敷などでも、組屋敷などになりますと、浴室はたいていない。仲間内でもやって、湯を立ててそれに入る。めいめいに湯殿を持っているなんていうことはありませんでした。町家もよほど大きな町人でなければ、湯殿を持っているのはなかった。宝暦以降になりましては、場末の町々まで浴場があるようになりましたが、宝暦以前はそんなわけに行かなかった。これは全く鑿井の関係であります。それでも場所によっては、なかなか湯に遠いところがいくらもあって、場末ばかりが湯に違いわけではありませんでした。宝暦（1751年～1764年）以降に場末の町々まで湯屋があるようになりましても、自分の家に浴室を持っている者ははなはだ稀なので、それは江戸が燃料が高いばかりの理由ではない。第一に専用の井戸を持っていなければ、湯が立てられなかったからであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それには最も面白い話がありまして、埼玉県入間郡、所沢から二里ばかり行ったところに三富村（さんとめむら）というところがある&amp;lt;ref&amp;gt;三富（さんとめ）は、上富・中富・下富で、三富新田があった。現在の川越市、所沢市、狭山市、ふじみ野市、三芳町の五市町にまたがる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは柳沢吉保が開拓した村で、元禄七年に着手して、九年には成就した村であります。この三富村は開拓される前まで「芝行水」ということが行われていた。ここには限りません。関八州は一円の平野であって、水の乏しいところですから、どこでもそうですが、この芝行水というものが残っていたという証拠がありますのは、私の知っているのでは、この三富村だけである。それはどんなことをするのかというと、芝を刈って来て日陰に干して、それで身体から手足をすっかりこすって、脂や汗を取って、それで入浴の代わりにしたのです。『枝珊瑚珠』の親父が「おれはなん年にも湯をあびたことはないが」といったのは、やはり芝行水であったかどうか知りませんが、そういうようなことが行われていたのを、合点させるものだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　享保版の『御伽百物語』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『御伽百物語』&#039;&#039;&#039;：[https://dl.ndl.go.jp/pid/1884057 『珍本全集』下]（博文館、明治36）の解題を現代語訳すると、「白梅園鷺水の作。鷺水、姓は青木、歌仙堂と号する。別号を白梅園、また三省軒という。京都の人で、野々口田圃の門に入った。俳諧をよくし、文章に巧みである。才能は学問に優れ、世情にも通じていたので、その筋の著書がひじょうに多い。享保十八年（1733年）3月26日、病で亡くなった」とのことである。本文では巻之二の「桶町の譲の井」項の内容を要約している、&amp;lt;/ref&amp;gt;を見ますと、桶町一丁目の南側に柳屋善八という者がありまして、その家に譲の井という井戸があった。この井戸は水がいいために、その水が売れまして、柳屋は身代がよくなった。この井戸は子孫に譲る柳屋の宝物だというので、譲の井といったのだ、と書いてあります。それに続いて江戸に名のある井戸が所々にあるといって、その井戸を挙げてある。それには牛込の「堀かね井」、源介橋の「油の井」、神田の「宮の小路町の井」、四谷の「策の井」、須田町の「亀の井」、権田原の「鱏（うなぎ）の井」、湯島の「柳の井」、谷中の「野中の井」、自性院の「蜘蛛の井」、小石川の「極楽井」、亀井戸の「藤の井」、「玉水の井」、「御福の井」、「封の井」、「新の井」等、すべて十八、名井があるといっております。この十八というのは数が足りません。譲の井と合わせても十六しか挙げてありませんが、「江戸の十八井」という言い方は、ここに伝えられてあります。同じ享保にできた『江戸砂子』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『江戸砂子』&#039;&#039;&#039;：俳人・菊岡沾涼の著、享保十七年（1732年）刊行の江戸地誌。『続江戸砂子』は同著者による享保二十年（1735年）の作である。この井戸の記載は、全編にわたる中から数え上げたものと思われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;には、井戸を二十二挙げてある。この『江戸砂子』に当てて『御伽百物語』の方を見ると、その所在もよくわかりますけれども、同名の井戸が多いから、紛れ易くもある。『続江戸砂子』以下にも、名井というので井戸が挙げてありますが、享保度の名井は『江戸砂子』に尽されているように思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『江戸砂子』の二十二井というのは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 「麹町の井」、杉浦出雲守屋敷内。&lt;br /&gt;
* それから神田明神の内横小路があり、西町という。北の奥に井戸がある。これも「小路町の井」で、呼び名の同じ井戸が二つあります。&lt;br /&gt;
* 「野中の井」、またの名を「柏木の井」という。三嶋の内の町屋の裏にこれがある。&lt;br /&gt;
* 「山伏の井」。これは浜町の堀家の裏通にある。&lt;br /&gt;
* 「亀の井」。連雀町の金田丹波守の屋敷にある。&lt;br /&gt;
* 「御水屋敷の井」、立大工町。&lt;br /&gt;
* 「主水の井」、白銀町の大久保主水の屋敷。&lt;br /&gt;
* 「柳の井」、神田冬青（モチ）の木坂　酒井家。&lt;br /&gt;
* 「譲の井」、桶町にあり、その場所は不詳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『古鹿子』に、日本橋より京橋をきっての名水で、夏になると一杯を一文で売った。それで金持ちになって、子孫にその水を譲ったから「護の井」という。このころは掘抜井戸がまことに少ない。ただ、これだけが掘り抜きであった。この井戸は前の柳屋の井戸らしいですが、ここではその所在がわからないとなっている。『古鹿子』というのは、元禄版の『江戸総鹿子』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『江戸総鹿子』&#039;&#039;&#039;：元禄三年『増補江戸惣鹿子名所大全』のことと思われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;のことを申したのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 「姫が井」、またの名を「桜が井」という。山下御門と幸橋の間の土手際にある。&lt;br /&gt;
* 「封の井」、これは桜田内にあるが、その場所はわからない。&lt;br /&gt;
* 同じ名の「柳の井」がまたありまして、これは三浦志摩守の屋敷、虎の門内。&lt;br /&gt;
* 「桜が井」。井伊家の表門の下にあって、車の三つついた釣瓶で汲む。&lt;br /&gt;
* 「若草の井」。同所の辻番の下、御堀の上のところにある。&lt;br /&gt;
* 「策の井」。新宿の追分の西、松井源次郎中屋敷。これは津の守のことです。&lt;br /&gt;
* 「蜘蛛の井」。瘤寺境内。癇寺というのは自性院のことです。&lt;br /&gt;
*　また「封の井」というのがある。青山因幡守の屋敷。&lt;br /&gt;
* 「玉の井」。堀ノ内安法寺の内。&lt;br /&gt;
* 「御福の井」。浅草六角堂地蔵の下にある。&lt;br /&gt;
* また「桜が井」、これは浅草新寺町の東陽寺の内にある。&lt;br /&gt;
* 「堀兼の井」、牛込逢坂下。&lt;br /&gt;
* 「真間の井」、真間弘法寺の内。&lt;br /&gt;
* 「朝比奈の井」、品川松平土佐守下屋敷。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こういう風に書いてある。これで見ますと、水を売ったというのは「譲の井」だけでありますが、だいぶん享保ごろには井戸が増えている。それがみな鑿井ではありますまいが、とにかく井戸は増えております。良い水の出るので名高い井戸がこれだけあるのだから、雑水の出るような井戸は、大分増えたことだろうと思われる。一体、江戸の鑿井の認められるのは、享保以来のことであります。それはいずれもみな掘抜井戸で、前の掘兼式のとは違った方式のものであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　掘抜井戸は上方には古くからあったようでありますが、江戸でも享保以前から掘り抜きがあったことと思われる。現に『続五元集』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『続五元集』&#039;&#039;&#039;：松尾芭蕉の高弟である俳人・榎本其角の発句集。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1876114/1/146 『俳諧文庫』第4編]の解題を現代語訳すると、「『五元集』および『五元集拾遺』は、晋子（＝其角）の没後四十年目の延享四年（1747年）に、百万坊旨原（小栗旨原）がその遺稿を得て、世に出したもの、また『続五元集』は同じく旨原がそれより五年目の宝暦二年（1752年）に刊行したものである。」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;の中に元禄十四（1701年）と書き添えてある附合があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　凉風におもふ矢つほや臗（シリコブタ）&amp;lt;br /&amp;gt;　　手拭を着てしさる掘貫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのですが、これよりもまだ前の、延宝版の『吉原大雑書』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『吉原大雑書』&#039;&#039;&#039;：江戸吉原に関する初期のガイドブック。延宝三年（1675年）刊行、菱川師宣が絵を担当している。&amp;lt;/ref&amp;gt;に、ある遊女を評して「この人に町内のほりぬき井戸ほどふかい人があったとのこと」と書いてある。この当時の新吉原には掘抜井戸はなく、水道尻というところはありましたが、水道も新吉原にはないので、元吉原の方に水道が引き込んであった。水道尻というのは水道の一番おしまいのことで、この名だけが伝わって、新吉原に水道尻というところがありました。が、実際の水道はなかつた。『洞房古鑑』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『洞房古鑑』&#039;&#039;&#039;：新吉原の「天満屋」の抱え主、竹島仁左衛門春延が著した随筆・記録書。宝暦四年（1754年）ごろに成立。&amp;lt;/ref&amp;gt;を見ますと、新吉原の掘井戸の水というものは、皆いけない水であって、砂利場竹門の脇にある井戸の水がよいので、日々そこから汲ませて、水銭としてその井戸の持主に、月々集め銭にして贈っておりました。それが享保年間になって、揚屋町の尾張屋清十郎のところで、はじめて、井戸を掘った。そうするといい按配に水が大変湧き出した。この湧出する水があまり分量が多く、いい水であったので、見物が集まるほどであった。それから廊のうちの町々でも、井戸を捕らせるものがあって、竹門から汲ませることはやめになった。その頃、江戸の町の方でも、方々で井戸を掘らせていたが、前の尾張屋清十郎は、どうぞいい水が得られるようにといって、箕輪の秋葉権現に祈願した。その御利益でいい水が出たんだといって、御礼のために秋葉権現の社地に井戸を一つ掘っております。そこでこの『洞房古鑑』には――後には掘抜井戸といったものですが――「モミヌキ井戸」と書いてある。後の掘り方とどう違うか知れませんが、同じではなかったんだろうと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　吉原の井戸は揚屋町の尾張屋清十郎の井戸がはじまりで、それは享保何年であったかわかりませんが、享保十三年の物揃を見ますと「近年よく成った物、里（さと）の水と葛野九郎兵衛」とある。それから里の水がよくなったというほどですから、大分モミヌキ井戸がたくさんできたということは、『洞房古鑑』の文句と引き合わせて考えられることでありますが、あり合わせた享保十二年（1727年）の細見を見ますと、角町に「井、新井、新井」と三つ井戸が書いてある。京町一丁目のところには「井、新井」と二つある。京町二丁目にも「新井」とあって、「巳五月以来」と書いてある。巳の五月というのは、享保十年のことであります。ちょっとここで見ただけでも、新しく掘った井戸が四つほどある。吉原に井戸のだんだん増えて行く様子は、この十二年の細見だけ見ても考えられる。「巳五月以来」とあるから考えて見ると、前の新井、新井とあるのは、その前であることが知れます。尾張屋のはじめの井戸というのも、当然享保十年（1725年）以前であることが知れます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そこで江戸の掘抜井戸の発明者は誰かというと、神田の白銀町に五郎右衛門という代々の井戸掘がありました。その五郎右衛門が享保八年に、馬場先門内の竹姫様の御用邸内に、新しく井戸を掘った。この竹姫様というのは、綱吉将軍の養女で、享保十四年六月、薩摩の島津へ御輿入れなされた御方です。その御用邸へ井戸を掘りますときに、掘抜ではない、中水の約束でありましたけれど、なかなか水が出ない。それから五郎右衛門は親父に相談してみた。どうして水が出ないか、何かうまい方法はなかろうか、といって相談した。そうすると親父がいうのに、掘って行った底がどんな土であるか、その土質によって竹の管を深くさし込んで見たら、あるいは水脈に届くかも知れない、そうしてみるがいい、ということであった。そこで五郎右衛門は、大きな竹の節を抜いて、そうして今まで掘ってきた井戸に下して、どんどん打ち込んだ。十間ばかり打ち込んだと思うと、いい水が出て来た。これが江戸で掘抜の方法に気がついた最初である、ということになっております。それから三年ほどの間に、五郎右衛門は二十ほどの井戸を掘った。当時の井戸は八両ずつの約束だったが、掘抜の場合には十七両貰うことにした。これからだんだん掘抜井戸というものが流行って来たのですが、これは本当の掘抜井戸ではありません。が、享保八年に五郎右衛門が井戸の新しい掘り方を工夫したということは、江戸の鑿井の上に大きな影響を与えたことだったのであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その五郎右衛門が、こういうことを言っている。「すべて掘抜井戸をこしらえるには、五間ほど堀っていくと、底には青へナという土がある。その青へナを竹で突き通して行くと、その下に岩がある。この岩に突き当たれば手ごたえがある。その手ごたえがあった時に、さし込んで行った竹を抜き取れば、いい水が得られる。けれどもこれはまだ中水（ちゅうみず）の井戸であって、掘抜ということになると、下の岩を突き通してからでないといけない。岩を突き通してしまへば、本当のいい水が出てくるのだ。」――こういうことをいっている。けれどもなかなか竹を突き通しただけで、岩が砕けるはずはない。この竹で青へナを突き破るというやりかたは、今日でもやっております打ち込みというやつで、今は竹じゃありません。大きな鉄の棒の先の尖ったやつ――大きな錐（きり）のようなものです。それを上から下にして打ち込むので、これは大きな鉄の錐ですから、これなら岩も砕けるでしょうが、竹ではとても砕けない。鉄と竹とは違いますが、とにかく上から打ち込んで行くという掘り方、これは五郎右衛門が始めたというのがよさそうであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　五郎右衛門と同時に、南茅場町に八兵衛というものがありまして、これも五郎右衛門と同じ方法で掘抜をこしらえた。それですからずんずんと掘抜井戸がふえて参りまして、享保十九年のころには本所の方まで掘抜井戸ができて、水に不自由しないようになったということです。『洞房古鑑』にある「モミヌキ井戸」というのも、五郎右衛門の竹を青へナの中へ押し込むやつではないかと思います。後のように足場をかけて、万力で大きな鉄錐を上下するのではなく、竹管を揉み込むようにするから「モミヌキ」という言葉が出たんじゃないかと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府は享保十八年（1733年）十二月九日、布令を出して、井戸掘代金は年賦請負にしていい、といって願い出たものがあるから、望の者はそれと相談するがいい、という御触を出している。これは鑿井の奨励で、当時水道を減じて居りますし、防火制度をこしらえておりますから、いずれにしても井戸を多くこしらえる心構えがあったことが見受けられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そういうわけで、享保度には井戸がだんだん増えて参りましたけれども、当代には井戸屋というものはなかったようです。五郎右衛門の家は数代続いた井戸掘りだといいますから、享保以前からあったに違いありませんが、享保度までの書類には、井戸掘りという名称はありません。土方の一部の作業としておったものだろうと思われます。馬文耕が宝暦六年に書いた『宝丙密が秘とつ』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『宝丙密秘登津』&#039;&#039;&#039;：講談師・馬文耕の著。文耕の著書は刊行なく、いずれも写本のみである。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1805635 三田村鳶魚 校『未刊随筆百種』第十]に収録されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;の中に、以下のようなことがあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:上野広小路金沢丹後、願に付き、堀井戸おおせつけられましたこと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:江戸金吹町　金沢丹後という菓子屋、近年ことのほか繁昌して、日本橋にも大きな店を持ち、上野広小路にも出店がある。いずれも女の兄弟で、聟を取ってその家を分けた。みな商売繁栄して、やんごとない有り様である。上野広小路金沢、菓子餅などを製するが、上野あたりは水がはなはだ不自由である。この近辺、御徒組屋敷、神田数馬組、三枚橋きわ、御徒の地借、本何弥阿某の持井戸が、近辺で名水と唱えて、人々がこれを貰い、汲んで使っていた。堀貫井であって、わき出ることは泉である。これによって惜しまず人に汲ませた。人々は相応に謝礼して、これを汲んだ。かの金沢丹後の方からも毎日、本阿弥の井戸から大勢で水を汲ませ、饅頭・餅菓子などを製したために、おびただしい水も入り用で、みなその井戸から汲み取った。そのため、五節句そのほか寒暑の付け届けは莫大で、よろしく例を尽くしていたが、どうしたことか本阿弥と金沢の間が過失となって、金沢の水汲みを門を留めて入れず、水一滴もくれず、金沢は大いに難儀していろいろ詫びたが得心しなかった。これによって丹後の方で何とかして手前で井戸を掘りたいと願ったけれども、手前には土地もなく、私に致し方もないので、いろいろ公辺へ手入れをした。小田原町大和屋助五郎はその次女を仔細あって堀田相模守のところへ奉公に出し置いていたので、この縁をもって内証から金沢井戸を御免下されますようにといろいろと申し上げた。町奉行様へもお聞きあわせがありましたが、その例なきところであるため、願が叶うともみえなかった。しかし、今度、仁王門ができたことにつき願を出し、もし出火した場合に仁王門御防の水がご用心のためにもなりますため、井戸御免下さるべし、と手前入り用をもって掘らせたいことの理由を願い置いていた。ものも願いようによって、成りがたきことでも成就するものである。たちどころに願いのとおりおおせつけられ、即時に道奉行・小長谷喜太郞が見分を相済ませ、五月七日に願いのとおり申しつけられた。その翌八日から数百人をかけて井戸を掘らせようとしたところ、五月八日は上野厳有院様の御霊屋へ公方様が御成につき、その翌九日より井戸堀に大勢がかかって、丹後店先前へ井戸を普請し、今は思うままにできたとかいう。ことしのものがたりの花ともなれば、ここにしるすだけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　享保の時期にずいぶんたくさん井戸ができたようですが、まだなかなか足りない。『宝丙密か秘とつ』が書かれたのは宝暦六年（1756年）のことでありますが、このころでも井戸が少ないから貰い水をする。貰い水のために多分の礼をしたらしいことが書いてあります。この井戸は明治三十六年（1903年）まであった井戸ですが、ちょうどこのころに筋違外の内田屋の井戸ができた。今の松住町のところで、これも電車開通のために、金沢の井戸とともに潰してしまいました。内田屋の井戸については、『無名随筆』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『無名随筆』&#039;&#039;&#039;：詳細不明。&amp;lt;/ref&amp;gt;の中に次のようなことが書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:内田屋の井戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:菅貞明翁の筆記に、昌平橋外内田屋本家の井戸は寛政九巳年、新規掘り立てたもので、たいへんむずかしい井であったが、入用を多くかけ、人々が精力を尽して成就したという。右は本所菊川町の井戸屋伝九郎（でく市という。伝九郎ということである）&lt;br /&gt;
請負で、掘方は同所浅次郎といって、井戸堀の方では名の聞えたものである。この井戸、最初は金高百両のつもりで請負取り掛かったところ、思いのほか水脈が遠くて悪水だけが湧き出すため、毎日おびただしい人数をかけ、いろいろな仕方でおこなって、数月の間掘り立てたが埒が明かず、追々諸入り用が多くかかり、後には人足そのほかへの諸払いも差し支えたため、請負人が難儀し、所詮、先の金高ではこの井戸ができるのは難しいことを内田屋へ相談したところ、主人も眉をひそめ、このことはどうすればいいだろうかと、一同評議に及んだ。支配人なにがしが申すには、「百両の金子は無益になり、以上の始末でありますからこの上どれほど入り用がかかったとしても成就することは覚束ない。大金を費やし、心労することは必要ないため、これ限りでやめるべきである」という。次の番頭某が申すには、「これまでしかかったことをこのままうち捨てることは残念ではないでしょうか。なすべきだけの手段を尽くして、それでも成就しなければ仕方ないですが、金がかかるのをいやがって中途でやめたと言われるのは、家名の恥辱ともなるでしょう。たくさん入り用でありましても、職方はじめ人足たちの潤いにもなりますから、これは施しの筋合いで、無益の損失というわけではありません。なおまた取り掛からせるべきです」と言った。評議はこれで決まって、再度掘りかかった。この番頭は大相模の不動尊に願掛けに行き、請負人伝九郎は成田の不動尊へ参り、断食して心願をこめ、跡は掘り方の浅次郎が引き受け、これも亀戸の妙義権現を祈念して精を出して掘り立てた。すると取り掛かってから六日目にいたって出家が一人来て、井戸をつくづくと見て、「この掘り方ではなかなか成就しないでしょう」という。浅次郎はこれを聞いて、「ではどうすればいいだろうか。ねがわくば教えてください」と言った。その僧が申すには、「長い棒をこしらえ、その先へあほりというものをつけ、高いやぐらの上から突き立て、井の底にある砂をだんだん掻い出すときは成就うたがいない」と教えた。浅次郎は大いに喜び、伝九郎が留守中だがこの道具をこしらえた。あはりは桶で、厚い木で作り、桶底に別に厚い木を用い、これをもって井の底を突き、砂を掻い出すことを試みた。するとたちまちの間に桶がこわれて長く保つのが難しかったので、これではうまくいかないということで、そこから鍛冶屋に誂えて、鉄でその道具をこしらえた。これを用いて試みたところ、至極よろしかったので、だんだん砂をかきだして、事故なく成就した。そのため主人始め一同は喜んで、人の精力により末代までの宝を得たといって、その番頭をはじめ、井戸方のものどもを厚く賞し、にぎやかにお祝いをした。仕上げまでの金高は全部で750両かかったという。はじめのうちはこの井戸は水を吹き上げて、内田屋の方は地面が高いため大道へ流れ出たため、溝を掘って川へ落としていたが、後には水勢もよわくなって、始めのようには吹き上げなくなった。先の浅次郎はこのときのことを絵にかかせて妙義の社へ奉納した。その額は今もあるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは寛政九年に掘った井戸でありまして、本所菊川町の井戸屋伝九郎が諸負って捕つた。百両の約束であつたのが七百五十両かかった、と書いてある。このくらい金をかけた井戸は、江戸にも少なかったらしい。内田屋でも神信心をして、いい水が出るやうに祈ったということが書いてある。この時分は掘り方もだいぶん変わっておりますけれども、それでもいい水を得ることはなかなか容易でない。また、井戸掘りについてもいろいろ工夫したことは、この本文を見ればよくわかりますが、享保から宝暦、宝暦から寛政と、多くの年数を経ても、鑿井の困難だったことは、この記事によって十分伺うことができると思います。内田屋の井戸については、『明寛秘録』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『明寛秘録』&#039;&#039;&#039;：詳細不明。『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1444731/1/617 徳川理財会要 徳川三百年財政経済変遷史]』に収められた「徳川理財会要 引用書目並参考書目」書目第六（p1223）に、佐藤忠三郎蔵書の一つとして「明寛秘録（一三）」と記されているが、それ以外の情報はない。&amp;lt;/ref&amp;gt;の寛政二年のところに、夏から秋までかかって掘った。いい水が出たから、だれもかれもこの水を汲むようにというので、みんなにこれを汲ませた。本来、ここは掘り抜きにはならない場所であったのに、入り用構わず手間をかけて、ついに掘り抜きにしていい水を得たということが書いてあります。『無名随筆』の方と付け合わせると、寛政九年と寛政二年のどちらがいいかわかりませんが、内田屋がたいへん金をかけて井戸を掘ったことは確かであります。内田屋のみならず、商家で井戸をこしらえるときは、いつも店頭に掘る。これは、自分の家だけで使わずに、人にも使わせる意味から、こういう癖がついたので、いい水が少ないから、いい井戸を誰にも使わせるということは、大変な公益でありましたために、わざわざ店先へ掘らせたものであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こういう風にだんだん年を経るに従って、井戸を捕ることが盛んになって来たのでありますが、松浦静山侯の『甲子夜話』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『甲子夜話』&#039;&#039;&#039;：肥前平戸の松浦静山が文政四年（1821年）～天保十二年（1841年）にわたって書き記した随筆集。&amp;lt;/ref&amp;gt;を見ますと、「自分の幼少のころには掘抜井戸が少なかったが、中年より少し前のころから掘抜がはじまり、今では江戸中一般のことになって、どこにも掘抜の無いところはない」ということを書いておられます。静山侯は天保二年（1831年）六月に八十二で逝去されたお方ですから、幼年のころというのは安永・天明（1772～1789）、中年といえば寛政（1789年～1801年）ごろになりましょう。そうすると享保度（1716年～1736年）がなかなか鑿井の盛んな時だったようですが、また寛政度になって、ひとさかり鑿井が盛んになったことが知れます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　文化十一年に書いた『塵塚談』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『塵塚談』&#039;&#039;&#039;：ちりづかだん。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1088100 『近古文芸温知叢書』第9編]に収録されている。その解題を日本語訳すると、「この本は小川顕道が著す。顕道は又右衛門と称し、代々小石川養生所の肝煎で二十口俸を給う。その祖父笙船は小石川に住む町医であったが、享保中に施薬院を設けるべきであると幕府に建言し、それが採用され、小石川に養生所を建てられたため、笙船が肝煎を命ぜられ、それ以降世襲となった。顕道はもと医者であるが、読書を非常に解し、幼いときから閲歴したところ、世事の変遷と風俗の異同を記して伝えた」とある。下巻に「[https://dl.ndl.go.jp/pid/1088100/1/71 掘抜井戸の事]」が記されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;を見ますと、こういうことが書いてある。掘抜井戸というものは先年からあったが、武家には一向にない。掘抜井戸を掘るには二百両もかかることであるから、大きな商人でもなければ捕らせることができない。だからあそこに一つ、ここに一つというほどで、ようやく探しあてるくらいのものだった。ところが、二、三十年前から大阪の井戸掘が来て「あふり」とかいう道具で無造作に井戸を作ることをおぼえてから、堀井戸の入用というものが大変少なくなっている。自分が知っている極楽水――これは小石川です――豆腐屋では、井戸側とも三両二分でできた。その向こうに「みつまた」という湯屋があって、これは最初に掘らせたから二十両ほどもかかった。そのせいであるかも知れないが、近辺で一番いい水になっている。近頃は江戸中で掘抜井戸が多くなって、一町内に三か所も四か所もあるようになったということが書いてある。二百両もかかるのだから武家にはない、大商人でなければない、というのはどうにも情けない話で、武家の資力の乏しかったこともよくわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　寛政頃の大名のことを集めて書きました『近世諸家美談』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『近世諸家美談』&#039;&#039;&#039;：詳細不明。&amp;lt;/ref&amp;gt;というものの中に「大名に有ってよいものは、よい家老、駿馬、渡り小姓、掘ぬき井戸、達者な右筆」ということがあります。昔は二百両も入用がかかるために、欲しいものではあっても、大名でも掘抜井戸を自由に掘らせることはできないから、大きな屋敷でもわずかに三か所、四か所というほどしかない。竹姫様御入輿の時、薩州では水道を邸内に引き込むことを条件にして、幕府の許可を得ている、というようなこともあった。ところが二、三十年といえば天明度のことですが、大阪から井戸掘りが来て以来、大変安くなった。来た当座に二十両ほどであったものが、しばらくたつと井戸側とも三両二分でできる、という風になった。それはどういうことかというと、「あふり」という道具を使うようになったからで、「あふり」のことは内田屋の話の中にも書いてあります。この掘り方は俗に「上方ぼり」といっておりましたが、これがはじまった頃は、なかなか井戸が多くできた。一九の黄表紙にも『時花抜塹新』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『時花抜塹新』&#039;&#039;&#039;：詳細不明&amp;lt;/ref&amp;gt;というのができております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『続青本年表』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『続青本年表』&#039;&#039;&#039;：詳細不明&amp;lt;/ref&amp;gt;には、江戸に掘抜はなかったが、天明の末にこの職人が来て掘りはじめた、と書いてある。一体、機械を使って掘抜をするということは、幕府の御大工棟梁の溝口内匠の考察だといっておりますが、大阪から井戸掘りが来て始めたのだともいわれております。そこで「あふり」というのはどういうものであるかといいますと、その様子は文政七年版の『如月稲荷祭』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『如月稲荷祭』&#039;&#039;&#039;：詳細不明&amp;lt;/ref&amp;gt;の本文に詳しく書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:掘抜をほりますには、最初ワクをいれまして、下へ掘りさげます。そのときは、とかく中水が一夜のうちにたまります。それゆえに朝ごとに玄蕃で水をかえます。そのとき、職人のうちで主だった者が、綱楫ということをいたします。大勢に網をひかせまして、そのもとをおさえておりまして、水をかい出します。下にも人が入っておりまして、水を玄蕃へくみ入れます。右の玄蕃を下へやりますときに、「まーいるは桶よ」と呼びまして、下で玄蕃へ水をいっぱい入れますと、引く人のほうへむかいまして「ひーだーりしよ」と言います。まず、それはさておき、掘抜といいますものは、もうしますものは一ばんしまいに錐を入れまして、岩を抜きます。さようにいたしますと、水を吹き出します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この掘り方は私の幼年のころまであったので、私もよくおぼえております。この掘り方によって井戸を掘った様子は『我衣』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『我衣』&#039;&#039;&#039;：[https://dl.ndl.go.jp/pid/1088110『近古文芸温知叢書』第10編]所収の解題によれば、「この書は曳尾庵の撰である。曳尾庵は文化のころ、府下四谷に住んでいた医師で、傍ら俳諧をたしなみ、号を召水または南竹というと聞くが、その氏名・通称とも詳らかではない。ましてやその事蹟についてはまったくわからない。ただその人が筆記した日記二十巻ばかりある。編者はかつてそのごく一部のみ残っている残部を見たが、上は官令から下は日常家事に至るまで、項目を並べて記載し、その間に自ら見聞したこと、田舎の新しいこと、あるいは古老の昔話、または写本中の異聞などを載せたものであった。おそらく、このままでは速読するのに不便なため、後人がその全書について、都下の風俗人事、事物の相違についての記事を選んで一篇とした。今、世に流布している単冊のものがこれである」とある。ただし、本文に「文化十二年の条」は見当たらない。&amp;lt;/ref&amp;gt;の文化十二年の条にも出ております。松平讃岐守殿の屋敷――これは讃州高松の殿様で、今の松平頼寿伯の御家ですが、この屋敷は御茶ノ水の上の方にありました。そこへ掘抜井戸を掘って、いよいよ今日錐を入れて水が吹き出すということになったとき、その水筋へ突き当てるというと、恐ろしい水勢で、たいそう高く湧出した。皆がびっくりするほどだったと書いてあります。この錐を入れるために足場をこしらえるので、寛政十一年版の『仲街艶談』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『仲街艶談』&#039;&#039;&#039;：[https://dl.ndl.go.jp/pid/1361283/ 『江戸時代文芸資料』第1]の解題によれば、「本書は小春・治兵衛の情事に擬して、深川仲町遊里の光景から、子供と遊客とのたくらみを描いたものである。寛政十一年の版本であるが、著者・戯家山人はだれの匿名か未詳である。」とのこと。本文に引用された部分は、その序文に見える。&amp;lt;/ref&amp;gt;という酒落本に「その高慢のはなは掘抜の足代よりも高く」と書いてある。これはずいぶん高くこしらえるもので、その高いところまで万力で引き上げておいて、下へドンと錐を下す。また引き上げてはドンと下す。この様を書いたものは、文化十二年版の『堀の内奇談馬方蕎麦』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『堀の内奇談馬方蕎麦』&#039;&#039;&#039;：正式名は『堀の内滑稽馬方蕎麦』。著者は瓢箪園一寸法師（西来居／未仏）。葛飾の町人・権兵衛と吉が、3月13日の縁日に合わせ、妙法寺へ参詣する際の珍道中を描いた人情本。&amp;lt;/ref&amp;gt;に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:おりよをほりぬきのやりだとおもふさうだ、&lt;br /&gt;
:「なぜぢやへ」あげたりさげたり。&lt;br /&gt;
::おりよ（という女）を、掘抜の錐だと思っているそうだ。&lt;br /&gt;
::なぜだい？&lt;br /&gt;
::上げたり下げたり（褒めたり、けなしたり）する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあります。これは足代に高くこしらえて、万力で鉄の太い錐を引き上げてはドンと落とし、また引き上げてはドンと落とします。こんなことによって、その状況はよく見えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大阪掘りの入って来たのは天明度のことで、それがひろがって、寛政度には堀抜井戸がたくさんになった。享和元年に書いた『黒甜鎖語』の中に、近ごろ江戸では掘抜井戸というものをこしらえはじめた。先頃まで千両で請負ったといい、五百両でもできると聞いていたが、寛政八年の夏、佐竹の三味線堀の屋敷で掘抜井戸をこしらえたら百両で出来た。浅草の中屋敷に二ところ掘ったのは、五十両ずつでできた。これまで秋田から江戸へ出て勤番をつとめる藩中の者は、どうも腫腸満や痳疾のような病気をおこしたが、それは水の悪いためにおこる病気と見えて、掘抜井戸ができてから、それらの病がなくなった、と書いてある。けれども、殿様に差し上げるには、上野の元光院の水を汲んでくる。この元光院から汲んでくる水と、今度の掘抜の水とを秤にかけて比べてみたところ、掘抜の方は三島茶碗に一杯が二分軽かった。それほど今度の掘抜の方がいい水だ、といってある。この殿様の飲料水ということについては、掘抜がだんだんできるようになっても、なかなか吟味されたものでありまして、お茶の水――この名称の起こりは、聖堂のところに名水がありまして、将軍家のお茶の水に汲用されたからであります。これは慶長九年に元神田からここへ転じてまいりました高林寺の境内の井戸で、この寺は明暦三年の火事の後は駒込へ移りました。渠の名井は万治の神田川堀割の時に、水際へわずかに形跡を残しましたが、享保の河身政修でまったく水底に没してしまいました。その後に、昌平橋外の加賀原にあつた加賀の井、また本願寺の井とも申しました。これはは慶長年間に本願寺があったところだといいます。すなわち神田の旅籠町三丁目の汁粉屋の裏に、御膳水というのがあって、これが江戸中で一番いい水ということであった。維新前は将軍の飲料水はこの井戸から汲んでいた。このかたわらに茗荷屋という家があって、阿部様の小買物をするのを内職にしていましたが、本職はその井戸の番をするので、それで生計を立てていたのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　水の吟味がだんだん詳しくなり、水道よりいい水が鑿井から出てくるので、それを吟味して、将軍のみならず諸大名もそれを飲む。また一般から見ましても、『寛天見聞記』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『寛天見聞記』&#039;&#039;&#039;：[https://dl.ndl.go.jp/pid/991270 『燕石十種』第3]に所収。その解題によれば、「著者名不詳。天保年間、水野越前守の改革に逢った人が、寛政から天保に至るまでの世の中のようすの変遷を目撃し、贅沢が増えていることを嘆いて書簡を記したものである」とのこと。&amp;lt;/ref&amp;gt;にある通り、寛政度には川上不白によって抹茶が広まりましたが、さらに享和ごろから煎茶が大変流行ってまいりまして、お客を呼んでお茶を幾通りも出す。そうしてそのお茶の銘と水の出所――これは玉川、これは隅田川、これはどこの井戸の水、ということを言い当てるのを賞美した。やはり享和時分のことですが、八百善へ茶漬けを食いに行ったら、一日待たせられた。茶漬けの茶を入れるために、多摩川まで水を汲みにやったので、それで手間取ったのだというような話もある。そういう風に水の吟味ということが盛んになって来ました。その時は井戸の掘賃がますます安くなってまいりましたので、化政度になってはいよいよ掘抜井戸が多くなってきた。享保度、寛政度、化政度と幾度かに区切って見れば、そのたびごとに井戸の数が増えてまいりました。しかしながら、江戸の土地柄としては、いつも水が十分とはいえません。水道は無論、神田、玉川の両上水があるのですが、『我衣』の文化十四年五月の条を見ると、十五日頃からひどい暑さになってきて、すっかりひでり模様になった。雨が一粒も降らず、日に日に照りまさってまいりましたから、その月の二十三、四日の頃には、町々が水ぎれになった。下町あたりでは一荷百文から百十二文位で水を買うようになった。この水屋というものは、主に下町におりまして、天秤棒の両端へ網長い桶をつけて、それをかついで一荷いくらというわけで、それを売る。町の小娘などは門に出て、「水屋さん、一杯入れてください」といって呼び込んだものです。そういう風は明治十何年頃までも続いておって、一荷一銭でしたか、二銭でしたか、中には片荷でいいといって、桶一つだけ入れてもらったこともあったようであります。水を売るということは、他の地方には珍しいことですが、江戸では古くからあったことと見えて、享保二十年（1735年）版の『渡世身持談義』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『渡世身持談義』&#039;&#039;&#039;：享保二十年（1735年）刊、江島其磧著。五巻五冊。&amp;lt;/ref&amp;gt;に、「江戸へ下り、しばらく水売りしていたが」と書いてある。享保ごろからあったと見えます。明治になっても町々の間を水屋が歩く。これはいい井戸を見つけて、そこと約束してあって、その水を売ったのですが、本郷本町の水道橋北詰の西側、そこにもとの上水の排水がありましたので、そこにはたいへん水売りが集まっていて、そこから水を取ってかついで売る。私も子供の時分に、その様子を見たことがある。『江戸名所図会』などにも書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは後の話ですが、文政度にこしらえた『京江戸自慢くらべ』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『京江戸自慢くらべ』&#039;&#039;&#039;：『文政雑説集』に記されている。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1807289 『未刊随筆百種』第十九]の解題によれば、「文化二年から文政三年に至る間の落書を集めた。採択にはわずかな志があるようだ。女見立寄魚之句は時の習俗を明らかに露呈させ、京・江戸自慢はいかに得意であったかを示している。また水野出羽守の当時に天明の時期の落書を追記したのは、田沼氏を踏襲したその成績の最後を揶揄したものであろうか。家斉擁立の魂胆もまた面白い。収録は多くはないものの、文章の練り方がよく、一つ一つ興味を引かれるので、よんでも乏しくは思えない。」とある。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1807289/1/128 京江戸自慢くらべ]では「江戸：極楽といふべき国は御江戸也／京：水がきれると眼前のがき」という一節がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;の中にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:江戸：極楽というべき国はお江戸である。&lt;br /&gt;
:京：水がきれると眼前の餓鬼。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてある。これは前に述べた水ぎれの場合に、一荷百文から百十二文もするというような、水の飢饉が来ることを言ったものであります。京都の者はしきりに水の自慢をする。江戸の者は水道の自慢はするけれども、水の自慢はできない。水がいいのもないし、多くもない。だが水道という大裂裂なことがしてある、というのが自慢で、水が乏しくないとか、水がいいとかいうことは、江戸の人は言えなかった。『商人職人懐日記』などどでも、江戸のことを「第一は水がわるくて、土ぼこりがして、女房はすくない。植えこみを見ず、用事所の無双、ほんの一時であっても皮羽織、気がつまってならぬ」といって指摘しています。水の悪いことは、そんなところじゃない、もっと古くからの話で、『慶長見聞集』&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;『慶長見聞集』&#039;&#039;&#039;：三浦浄心 著。北条家に関する事柄や、その当時の見聞を記したものとされる。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも、江戸の町の跡は大名町になってしまった――というのは丸の内のことですが、今の江戸の町場というものは、十二年前、江戸城修築の時に、海を埋めたところにあるので、町は豊かに繁昌するけれども、井戸の水に塩がさして、まことに迷惑すると書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そういうわけでありますから、江戸では鑿井ということが、いろいろな方法によって奨励もされれば研究もされ、井戸を掘るいうことは、公益事業の一つとして行なわれましたが、いつになっても江戸の水は十分でなかった。そこで掘抜でない井戸でも雑水と称して、飲料水以外に便用していた。それは今から見れば、比較にならないほど低率な給水量であったにもかかわらず、江戸の市民は神田・玉川の両上水の給水によって、ともかくもしのげたというのは、掘抜によって飲料水の足し前をして、その他は雑水というのであり、掘り抜かない水でも何でも、あらゆる水を使ったからしのげたのであります。河川の少ないところでありますから、川水を自由に飲料水に足して行くことはむずかしい。両国川のようなのも塩入りでありますから、綾瀬川より向こうでなければ飲料水には使えません。やむを得ず多摩川の水を今日まで使ってきたわけですが、掘抜井戸のある者は、水質についていうと、玉川よりいい水がたしかにあった。その良い水の出る掘抜井戸をつぶし、雑水井戸もつぶして、すべてを上水に求める。東京は益々人口が増え、面積もひろがっていく。一年一年と申したいが、実は一月一月どころではない。一日一日と用水量が加増して行くという時に当たって、はなはだ乏しい上水の水を、洗濯にも使えば、大小便の流し水にも使う、というようなことをして参りましたならば、とても足りっこはない、不足するにきまった話であります。その不足を多摩川に求めて、両岸の農作物や住民の飲料水にまで影響させて、そうしてその水を水道によって東京へ運んで、湯に立てて入るくらいはおろかなこと、庭の噴水にして玩具にしている、というようなことをする。何の心あってそんなことをするのか。昔の人のしたことを考えてみますと、東京になりましても、鑿井ということはどうしても思い捨てることはできない。のみならず、上水を乱暴に消費するということも大いに慎まなければならぬことであると思う。倹約といえば、金銭のことだけしかないようにばかり思うほど、人間というものは考えなしなものであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この鑿井談は昭和六年中に述べたものでありますが、当時思い及ばなかった防空上の必要から、更に鑿井の急な実施を保進したことは、実に目覚しいことと存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*14]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>テンプレート:玉川上水の建設者 安松金右衛門</title>
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		<updated>2026-07-18T16:04:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[玉川上水の建設者_安松金右衛門|玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その一　紳書の誤謬]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/02|その二　野火止用水路]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟の失敗]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/05|その五　畑ばかりの新農村]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/06|その六　武蔵野開墾の規模]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/07|その七　引又の伊呂波樋]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/08|その八　川越運河]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/09|その九　悲しい水喰土]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/10|その十　金右衛門の経歴]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/11|その十一　宗岡の古図]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/12|その十二　玉川上水の記事]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/13|その十三　江戸っ子の自慢]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/14|その十四　江戸の鑿井]]&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/13&amp;diff=372</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/13</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/13&amp;diff=372"/>
		<updated>2026-07-18T16:03:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十三章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十三　江戸っ子の自慢==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　江戸では飲料水が尊かった。要するに、飲料水が乏しく、また得がたくもあったからです。一方では江戸っ子が水道の水を自慢すると、他方では上方者は江戸の水の悪いのに対して、何よりも京の水を誇っておりました。その京自慢はどうにも否定はできません。八百八町に井戸はどれあってもよい水は出ない。明治になっても、雑水と飲料とは整然と分けてありました。水道の水と掘り井でも清冽な水とを飲料に供し、一般の不良水は雑用としてありました。決して混用いたしません。若し飲料水を雑用すれば、誰もがもったいないことをするといい、家の中ではお眼玉をちょうだいする。隣近所からは不道徳な人間だといって指弾されます。それが習慣になっておりましたから、子供でも飲料水をほかのことに消費することはなかったのです。それから、雑水しか出ない井戸でも、井戸を潰すということは厳禁で、井戸を潰せばその家に祟る、その町が寂れると信じられておりました。さすがに欲張った地主であっても、古井戸を潰すのさえ忌み憚ったものです。そうした旧習が破れて、いつからか、盛んに飲料の水道の水が浪費され、しきりと井戸を潰すようになりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　現今は、井戸を掘れという声が聞こえてきました。また、全市の井戸町サヲして、非常給水組織をこしらえるとやら。これは先年の大震災に教えられて出た知恵なのでしょうが、さらに防空施設として井戸ほどのものはあるまい。東京市は百年の計だとして、第一期江戸川、第二期利根川、第三期霞ヶ浦と水道計画を立案したと聞く。水道の規価もだんだん拡大するだろうが、住民の増殖と同道して行けるであろうか。そうした計画は感謝すべきではあるものの、いずれにしても土地に乏しい飲料水なのだから、真っ先に水道の水はもっともっと貴んでもらいたい。雑水の井戸が一つあっても、それだけ飲料を費やすことが減じる勘定です。しかし、水道の水を貴んで、飲料以外に消費しないようにしようという心掛けのない人間には、お話も御苦労様にすぎない。江戸では玉川・神田の両上水があるのに、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:寛文元年（1661年）十月&lt;br /&gt;
:一　町中に井戸はなく、町数多くありますので、今から以後は、一町に井戸五つ、あるいは六つ、掘っておくべきである。&lt;br /&gt;
:同十一月十五日&lt;br /&gt;
:一　町中に井戸のない町は、一町に井戸を五つあるいは六つ掘るべきである。ただし、年内に井戸を掘ることは迷惑とのことで御訴訟申し上げる町は、御定めの外から水溜を多く置くべきである。手桶も右と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　火事の用意が主であったらしいが、こういう布令が出ております。幕府は某海外にもはなはだ深い考慮を巡らしており、市民もまた上水の恩恵を感謝しておりましたので、鑿井&amp;lt;ref&amp;gt;鑿井：地下水や石油などを採取するために井戸を掘ること。&amp;lt;/ref&amp;gt;は非常に困難でもあり、大変な費用を要したにもかかわらず、よくその負担に耐えて、全市に多数の鑿井を見るに至ったのであります。鑿井に上水尊重の意味が合ったことをこの際に見ないようでは、江戸生活を知ることができますまい。上水を貴いものと思っていた証拠を手短に申すならば、児童の教科書であった江戸往来（続江戸往来を江戸往来と呼ぶようになって、先板の江戸往来を自遣往来と改めました）に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:かつては草深く生い茂るばかりだった武蔵野も、今や名に残り、明け方の月がまるで自分の家から出て、また自分の家に入っていくかのように思えるほど人家が密集し、その繁盛ぶりと豊かさは想像を絶するほどである。しかし、この場所は東西に土地が傾いていて湿気が深く、さらに水はたいそう塩辛かった。そのため、愚かな私どものような者は、自ら東西に馳せ、南北に走り回って水を求めたが、わずかな暇さえ得られなかった。家業はおろそかになり、時間を費やし、心を砕く日々であった。そうしたところ、尊き大君（徳川家綱将軍）が、かたじけなくも遥かにお聞き及びになり、「ここから十余里ほど西に行けば玉川がある。その水は清らかに冷たく、味もまた格別である。その水をここに引き、民を安心させよ」と仰せ出された。これによって、山を掘り、岩をうがち、数ヶ月にわたって工事に励んだ。その結果、ついに明暦年間に、少しの障りもなく江戸城下に水が到達したのである。長く流れる水は、幸いにも人々の「楽」となり、病を治し、患いを除き、渇きを癒やした。里の民の快楽は、何事もこれに及ぶものはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と冒頭に書いてあります、それ程に貴んだ上水であるため、「江戸自慢」は安政度に&lt;br /&gt;
書いた新しいものではあるが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:江戸中に井戸はあるが、飲み水は上水を用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。細川越中守綱利といへば、肥後熊本の城主五十四万石の殿様ですが、この殿様が白金の下屋敷へ、玉川上水を引いて滝をこしらえたと聞いて、国家老の長岡帯刀が、熊本から江戸まで海陸二百八十八里を駆けつけて、できたばかりのお庭を取りこわさせて、即刻帰国したといって、元禄度にこの名家老の噂が高かった。また、延享四年の落書に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:御本丸大奥十丈の滝、岩ぐみ龍門の体、暑気の節、特別に大仕掛、御女中様を御慰めする。&lt;br /&gt;
:このこと、表の者は知らぬことである。当夏御普請できたとのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは九代将軍家重の時の話で、表へ知らせずに玉川上水の滝を大奥の庭中へこしらえた。表とは幕閣をはじめ諸役人のこと、秘密にこしらえさせたのです。大諸侯でも熊本の殿様が、江戸の市民の飲料水をおもちゃにすることは、名家老・長岡帯刀のみならず、決して許しません。家重将軍は賢明な聞こえのある人でもないが、側近の者が外聞をはばかり、玉川上水での滝造りの一件はおし隠したのでしょう。天下様の威勢からは何の遠慮もなそうな家重将軍といえども、市民の飲料水を自私の娯楽に費すことは、悪徳な奢侈とされた。悪徳な奢侈、威勢とか、権力とか、そんなことを超越しています。江戸の故老は大御所様（家斉将軍）の栄華を前代の家重将軍に比較して、一般の論難を割引きさせようとした。それは小判の数を多く費やすよりも、水道の水を乱用するのが悪徳だと思っていたからです。それで家重将軍の当時にも、小判でいへば多いとも思われない、大奥の滝造りを隠蔽した心持ちが知れる。公方様さえこうであるから、長岡帯刀が熊本から飛んできたのもただちに頷けましょう。さらにさらに、それほどの上水の水を庶民の分際で、飲料でなく産湯につかったのは、なるほどなるほど、江戸っ子が大いに自慢したのも、実にごもっとも千万な成行でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先年、江戸の鑿井についていささか申し述べたことがございますが、それは鑿井の困難なことと、その必要とを考えたのです。元禄度には江戸に水屋さんなるものが営業しておりました。この水屋さんは、飲料水になる井戸水を汲み、一担二荷の水を細長い桶へ入れてかついで歩きました。水道の桝に遠い家々では、水屋さん一荷入れておくれと叫んでいるのを、私どもの幼いときに聞きました。明治の十何年というころ、一荷一銭であったと思います。水道はあっても、共用栓・自家用栓といった給水施設が行き届いておりませんでしたから、水屋さんが江戸をまたいで東京の始めにも営業をしておったのです。これは鑿井のありがたみですが、その上に水道尊重の意味を加えてご覧いただきたいと思い、ここに付録いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*13]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/07&amp;diff=371</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/07</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/07&amp;diff=371"/>
		<updated>2026-07-18T15:59:34Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第七章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その七　引又の伊呂波樋==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の末流をどのように作用させたかを知るには、[[引又]]（現在の埼玉県入間郡志木町&amp;lt;ref&amp;gt;志木町は入間郡ではなく、この時期には北足立郡に所属している&amp;lt;/ref&amp;gt;)の[[伊呂波樋]]を説明するのが一番よろしい。この樋は千貫樋とも呼ばれて、六十の箱樋を継ぎ合わせて、百二十間の長さがある。多摩那羽村から当所までは九里あります。いうまでもなく玉川上水あっての[[野火止用水]]、野火止用水あつての伊呂波樋です。宗岡村（埼玉県入間郡）誌に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応二年、川越の城主[[松平信綱]]、多摩川上水工事竣功賞として、幕府から水量三分の一を信綱に賜わった。信綱はそこでその分水を、領地武蔵野新田の飲料に供しようとし、家臣・[[安松金右衛門]]に溝を掘らせ、新河岸川に達した。長さ六里余、俗にこれを伊豆殿堀という（諸書に散見されることは少し異なるけれども、古書類によって記す)。寛文二年、上下[[宗岡村]]は幕府の直轄となり、幕臣・岡部忠直がここを支配した。家臣・白井武左衛門は、本村が用水に乏しいことを憂い、多摩川上水の分水末を利用する計画を立てた。幸いにも宗岡新田村は信綱の領地であるため、侯に説いて許可を得、分水末（志木町）から巨大な筧を新河岸川上に架した。長さは百九十七間で、本村の字・精進場に達した。全村は今もその余慶に浴している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この伊呂波樋は野火止用水が引又で新河岸川へ落ちてしまうのを、そこで落とさずに宗岡村へ引くために、新河岸川を跨がせるためのものです。川越史料が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この年（万治二年（1659年））松平伊豆守、岡部佐兵衛に命じて、野火止用水を引股から掛樋により新河岸川上を経て宗岡村に引く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といい、それに『[[新編武蔵風土記稿]]』を一部引用して附記してあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:宗岡村用水、松平伊豆守、岡部佐兵衛が知行だったころ、万治二年玉川上水の分水を新座郡引股から掛樋で新川岸川の上を通し、村内およびこの辺のところどころの水田にそそいだ。その掛樋の継ぎ合わせた数が四十八あるので、伊呂波樋と呼んだ。&lt;br /&gt;
:新座郡（もとは新倉郡、元禄の時代に新座郡となり、現在は入間郡&amp;lt;ref&amp;gt;三田村鳶魚はどうやら当時の新座郡エリアが入間郡に編入されたと勘違いしていたようだが、実際には北足立郡に併合されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;）舘村の伊呂波樋は、新河岸川に架して、対岸宗岡村境の上に至る。引又橋の並びで西の方にある。長さ百二十六間あまり、幅二尺あまり、四方ところどころで継ぎ合わせている。その数が四十八あって、長さ九十六間、幅は筧と同じ。中央に高桝二つを設けている。これは水をたたえて激流とし、高いところにのぼらせる工夫である。この埋樋と筧とを合わせて二百二十二間一尺ある。農時には水をせきかけて、入間都の内の諸村の水田へそそぐ。言い伝えに、松平美濃守（柳沢吉保）が川越の地を領していたとき、領地入間郡宗岡村の辺、諸村の水利が不便であることを憂えて、当村の用水の余流がむなしく新河岸川へおとしいれられることを幸いとして、この樋を作ったという。また、秋元但馬守が領主であったときのことともいう。どちらが正しいかはわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊呂波樋という名前は、後には継ぎ合わせの数が多くなったが、最初は四十八継ぎあったから起ったと言い伝えています。川越史料が伊呂波樋の出来たのを万治二年というのは、『新編武蔵風土記稿』に従ったのでしょうが、仮に万治二年（1659年）としても、柳沢や秋元が河越城主であったときとするのはよろしくない。柳沢が河越城主であったのは、元禄七年（1694年）から宝永元年（1704年）まで11年間、秋元は正徳二年（1712年）から天保十二年（1842年）まで百三十年間です。風土記稿もこのへんはだいぶいい加減なものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　宗岡村地誌のとおり、寛文二年というのがよろしいようです。同地誌に、白井武左衛門のことを書いて、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:白井氏は生まれた地がわからない。正保元年、上下宗岡村は幕府の直轄となり、幕臣岡部忠直が支配した。白井武左衛門はその執事であった。氏が当村に赴任すると、鋭意公共の事業を興し、村民の利益を謀ろうとした。本村は灌漑の利に乏しく、旱魃の災があることを憂えて、寛文年中に松平信綱に説き、多摩川分水の末を引く大工事を行ってその害を除き、また本村宇佃に六百七十余間の長堤を築いて、悪水が溢れ入ることを防ぎ、新田場堤を築き、その堤の外にある荒野を開いて良田としたことなど、その功績は少なくない。その後、村民はその徳を後世に伝えようとし、ここに記念碑を建てて功徳を賞し、今に至るも毎年六月十四日に氏の祭祀を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この岡部佐兵衛忠直は、『寛政重脩諸家譜』で見ますと、延宝三年（1675年）七月に家督相続した人であるため、宗岡築堤のことはその先々代、小次郎吉次のときのことと思われます。この家は武蔵国多摩・人間郡、甲斐国八代、上総国山辺、下総国香取の諸郡で二千石余を領しておりました。吉次は正保四年（1648年）八月に相続した人で、千五百石から二千五百石に加増されております。宗岡村の古図によれば、全村を上中下に三分し、中は川越領（当時の城主・松平信綱)で、上下が岡部氏の領地でした。現在、宗岡新田というと、旧下組の場所の名になっているが&amp;lt;ref&amp;gt;ここでいう宗岡新田は現在の下宗岡四丁目あたりである。&amp;lt;/ref&amp;gt;、岡部氏の領地、白井武右衛門の働きで開けたのは、村の中央にある。古図で見れば紛れもない。新田場堤というのも、現在「新田」と呼ばれる所にあるので、白井武右衛門の開墾した場所とは違う。そのことは同村の石原康治氏が撰んだ『白井氏治水碑』に詳しく書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:禹の九潦は水があることを憂えている。湯の七旱は水がないことに困っている&amp;lt;ref&amp;gt;『荘子』秋水篇「禹之時十年九潦，而水弗為加益。湯之時八年七旱，而崖不為加損。」中国古代の聖王・禹（大禹）のとき、十年に九度の洪水があったが、水の量は増えなかった。殷王朝初代の湯王（成湯）のとき、八年に七度の旱魃があったが、海岸が後退することはなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。どちらもこれは水である。水が多すぎれば害があり、水が絶えれば利益はない。ただ指揮者伝明けが利害を察することができ、水をさえぎって防いだり、通じて用いたりする。治水としてなすことはこれで終わる。わが白井武右衛門民のような人こそ、そういう人であろう。氏は幕府の臣・岡部忠直（※吉次の誤りであることは以前に述べた））の部下である。わが宗岡村はかつて、分けて上中下とした。正保のはじめ、中宗岡は松平信綱が領し、上・下は忠直の采地であった。忠直はそこで氏に統治を命じた。氏は村に来ると、その東南の低い湿地から蒸気が立ち上るのを見て、鋤を使って開き、堤で囲み、肥沃な土壌をいくらか得て新田とした。新田の西は新河岸川に迫り、しばしば水害を被る。そこでまた堤を築き、これを防ぐ。西より北に六百七十間におよぶ。いわゆる佃堤である。本村の稲田はまた以前は灌水の便が乏しく、旱害にしきりにおそわれていた。氏は深くこれを憂えた。これ以前に信綱はその封土のうち、野火止荒原を開墾しようとし、地が乾燥していて水が少ないことに悩み、渠を掘り、玉水を引いた。曲がりくねって東北に流れること六里、わが西の境にいたって、その余水は最後に新河岸川に入る。氏、余水が空しく川に入るのを惜しみ、そこで思ったのは、「これで灌漑の利を開くことができるだろう。しかも、公の領土もまたここにある。喜びと悲しみは一体であるから、水を公に乞うのがいいだろう」と。そこでこれを信綱に請い、許された。そこで川の前岸で水箱を構えた。だいたい六尺ほど、高さはほとんど倍ある。箱の前に別に伏溝を設け、それを南に走らせ、渠の余流を受け、箱に遅らせている。箱の脚に口があり、これを入れる。箱の首のところにまた口を設け、樋ををつないでいる。我が国の俗に木の筧を樋という。樋の幅一尺四寸、深さも同じ。その下図は四十八で、樋をつないでいき、柱を立てて支え、川の上に架して横断させる。遠くこれを埋めると白虹のようである。首から尾までおよそ百九十七間、この通水によってはじめて田をうるおす。里の人はこれを伊呂波樋という。完成したのは実に寛文二年である。堤防で囲み、水害が除かれ、溝樋に水が流れ、水利が開かれたとき、九潦七旱も憂えなくてよい。民がその恩沢を受けてから今まで二百五十年である。まさに功をその時代に加え、徳を子孫に伝える者である。明治中興に至って、あらゆることが革新した。この樋もまた規制を改め、鉄管に代わっている。工事は丁酉（明治三十年）に始まり、癸卯（明治三十六年）に終わった。その利は以前を超えるけれども、旧観は残っていない。そこで年月が久しくなれば引水が氏によって始まったことが知られなくなることを恐れ、最近、村人がともに相談して言うには、今こそこれを石に刻んでずっと伝えようということで、文を私に委嘱した。私はこの里に住み、またその余慶に浴している者であるから、断ることなどできなかった。そこで旧記によってそのあらましを述べる。もし系譜の生没年の詳細は今はもうわからず、惜しいことである（銘を略す。原文は漢文）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊呂波樋が鉄管になって埋設され、地上の姿を失ったときに、この立派な碑が建ったのです。今は『江戸名所図会』に昔のおもかげを忍ぶしかありません。この碑文にもあるとおり、信綱が封内の開墾のために野火止用水を引いて、それが引又（志木村）の市場というところまで来ている。ここに捨樋があって、舘村用水を分けた後は柳瀬川へ落としてしまう。野火止用水は引又の市場までであった。それを見て、岡部氏の陣屋に在勤する白井武右衛門が、灌漑の水に乏しい宗岡村へもらうことを考えた。そこには、岡部氏の領地のみではなく、大きいのはないが小さい地頭はたくさんいた。いずれも武蔵野開発について当時の河越藩へ懇請して引水のことが調いました。そこで引又の市場から柳瀬川をまたいで、宗岡の精進場（下の谷（シタノヤ）)へ引き、それから村内を環流するようにし、内間木村も潤沢になるに至ったのです。白井の働きは佃堤によつて新田を開き、野火止用水の流末を誘って、当村の旱害を不足しないようにしたことにある。村内宇前内手の観音堂は、今は廃寺になっておりますが、そこの墓地には、用水開基と肩書した碑があり、位牌も村内・千光寺に移して祀られております。そのいずれにも忌日がありません。ただ当村では六月十四日（祇園会の翌日）を白井様の日といって、毎年全村休業しております。その人の功績によつて、村人が今日もその恩恵に感謝していることは、まことに美しい思いでもあり、人間はそうでなければならぬものです。それでは、安松金右衛門は誰から感謝され、だれかに忘れられずにいるのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この伊呂波樋の設計は誰がしたのであるか、白井が施設したという記録もないのに、江戸名所図会などはあっさりと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この地（膝折）に用水がある。引又の宿の中を流れて内川（所沢では粂川といい、大和田へ来て柳瀬川といい、引又橋の手前で合流してからを内川といいました。水路改修以前はこの内川が羽根倉の渡しのところで、荒川と落ち合うようになっていたのです）の橋際に至る。そこに枡を設け、川を隔てて宗岡の地へ通じていました。寛永のころ、秋元侯が川越を領せられていたこと（伊呂波樋創設が寛永の時代ではなかったことはすでに述べた）、農耕の助けとして、野火止の用水をここに引かせたのだという。そのころ、白井某という人が、この樋からの水の引き方を工夫して、四十八段にかけたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と申して、白井武左衛門の設計のように書いております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　引又の宿は南北へ長き三町余あって、新宿、本宿、中宿、坂下町といい、新宿の入口から町の真中を幅三尺余、深さ四五尺の大樋が縦貫しており、新宿の方は高く、坂下の方は次第に低くなっていて、そこに大枡がありました。この大枡は玉川上水の四谷大木戸にあつたのと同じもので、桝の効用については『上水記』が解説しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:埋樹は土中にある。水見桝は地上にある。また高桝がある。懸樋がある。分水のところに「わかれ」枡がある。水見桝のふたをあけて水勢を常に調べる。高桝でせき上げる。登り龍樋は上るところにかまえ、下り龍樋は引き落とす。みな、その地の高低にしたがう。しかし、水元より高くはあがらない。ひき落とし、高く上げて水勢を増す。河や堀の水底を潜るところもある。これを潜樋という。橋の下に沿って向う岸にわたるところも、渡り樋または懸樋という。石で流れを通すところを万年樋という。樋がなくて流れるところを白堀という。地方によっては素樋という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　文化の時期に小日向水道町の本法寺敬順の書きました[[十方庵遊歴雑記|十方菴遊歴雑記]]の中に、伊呂波樋の見聞が書いてあります。ただ今では明治三十六年に鉄管埋設に変革いたしましたので、伊呂波樋は二百五十年来の旧観を喪失してしまいました。ここにその本文を抄出するのは、ただ懐古の資料というだけではございません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:愚老がここに逍遙したのは、引股町の千貫樋と大いにいいはやして、評判が高いので、これを見ようとわざわざこの地に至ったものです。埋樋に沿ってつま先下がりにだんだんと北の方へ行くと、坂の下口左側に高桝を掘り埋めてある。高さおよそ五尺あまり、幅およそ三尺四～五寸四方。ここから坂を下りて、川端まで次第に低くなって、一丈あまりも地面を下っただろう。この坂口から土橋までおよそ一里あまり。さて、例の高桝から幅二尺四方の樋を坂口に深く土中に掘り込み、内川の渚に至って、その掘埋めた樋を地上へあらわして、内川の上をわたり樋としている。内川の幅、土橋で調べてみると長さ十七間、水面から渡樋の下面までおよそ一丈四五尺。このわたり樋の長さは二間つつで継ぎ、都合六十継、百二十間という。この引股橋から南は新座郡で松平右京亮領分（宝永二年三月三日、先祖墳墓の地であるということで、野火止領三千石を高崎藩主へ加増)、また、川から北は入間郡で秋元左衛門尉領内、千六百石の田地へ引く用水の樋という。すでに川向こう、入間郡棟岡村の堤の際に至って、水門に至って止まる。ここまでわたり樋の長さ百二十余間、樋の大きさは二尺四方。この用水なかったならば、数か村の農民の一切の仕付ものができないだろう。人間の工夫は賞賛に値する。これを近郷こぞって引股の樋とよび、あれこれとほめそやすことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の流れの末を宗岡村へ誘引することについては、地盤が低下しているので相応に工夫を要したことがわかります。坂下の大樋は水勢を激成する効用のある登り龍の樋でしょう。以上、続けて書きましたのは、この敬順という老僧が妙に江戸っ子を出し、不似合な娑婆っ気から向う見ずに熊さん八さんになっているのは困りものですが、功績のすべてを松平信綱に帰して、大いに感嘆しておりますのを見過ごせません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:ただし、高桝をはじめ、渡樋にいたるまで、木はマツ、モミ、スギの類で作り、板の厚さ二寸、もとより渡樋に家根はない。これは用水のためだろうか。このことからつくづく思う二、東武（＝江戸）四ツ谷御門の外の高桝は左右にあって、南に一本、北に一本、都合三本、地上へ出るところは低くても五尺あまり、高いところは九尺あまり、幅はそれぞれ五尺から六尺四方、木の厚さ三寸、みなヒノキのふしのない板で作り、さらにわたり樋に家根を別に作り、みな節のないヒノキで作成された。しかもまたむかし、承応二癸巳年十一月十五日、四ツ谷大木戸から多摩郡羽村まで道のり十三里のところ、水盛を考え、掘り割りを工夫し、さらに四ツ谷御門外に仰ぎ見るほどの高桝を三つもこしらえ、御城内・御用やしきをはじめ、御城下町の者たち何百万人となく、命根をやしなう費用も簡単なものではなかった。この四ツ谷御門の高桝、渡樋から所々分水されている埋樋、また神田白堀上水、大洗堰の工夫より、水道橋のわたり樋、江戸一円分水の埋樋を、引股近在の井の中の蛙の者たちに見せたいものである。ただし、野火止の分水口は格別の堀割であって、古い話に伊豆殿堀という。これは松平伊豆守信綱、川越在城のとき、野火留辺も領内であったため、玉川から引水を工夫し、野火留近辺に田地もできた。それまではまことのむさし野の平原であったという。そこで信綱はむかし、多摩郡羽村というところから、この引股の駅まで九里の間、長流を引いて近郷を助け、なおまた内川の上から渡樋百二十間を造作し、入間郡棟岡村へ分流させ、若干の田畑の用水とした工夫、高智は感賞すべきものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　変な比較をして気持ちよがっている、どうにも馬鹿らしいところもあるが、「それまではまことの武蔵野の平原」であったといって、玉川上水、野火止用水、宗岡引水を列挙して、その功績を顕揚し、信綱の事業に感歎しておりますのは、刮目すべきものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　松平信綱の武蔵野開発には、地方水利に功みであった小畑助左衛門、安松金右衛門の両人の関与しないものはございません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:建出――新聞の村々(野火止、菅澤、西堀）は井戸を掘っても砂利が崩れ込み、水が出ないので、この分水を幾筋にも引き廻し、百姓の相続や木品盛木の手当てとした。残水の廃れたのを、いろは樋という長さ二間ずつの樋を四十八間かけて、川を越し、樋の下を通船往来できるように安松金右衛門が工夫をし、宗岡村を畑田成とした。元禄年中まで川越在城のため、三代（信綱、輝綱、信輝）が領した。次に柳沢美濃守へ渡り、近来、秋元但馬守殿の領分なので、以前の姿に修理を加え、今も堰があり、別に宮戸村へも一筋懸り、これは小給所であるとのこと。（野火留分水国之訳書）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このように、野火止用水の流末が、宗岡・内間木・宮戸の三村を支持している伊呂波樋の設計も、安松金右衛門によって立てられ、その功績を今日に遣しているのであろうが、これだけでは証拠が足りない。けれども江戸名所図会に対して、確かに一説として見るべきであらう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*07]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/06&amp;diff=370</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/06</title>
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		<updated>2026-07-18T15:59:06Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第六章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その六　武蔵野開墾の規模==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[野火止]]に井戸はあっても、江戸の昔の桝のようなもので、家々で適宜、用水を誘引したものです。なかにはそこが車井戸になっていたり、撥釣瓶（はねつるべ）のもありますが、溜った用水を汲み出すだけのもので、近年まで鑿井しなかったから、そこへ湧き出すのではありません。今日もいまだ幾つも残っておりますのは、庭の先や台所の辺に池の様な体裁で、金魚などを放ってある。これは村内を縦横に用水が流れております。それを自宅の前から勝手のよいところへ誘引し、沈殿させて使用する。釣瓶もポンプもあったものではなく、ちょっと柄杓で汲むのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[野火止用水]]は、[[松平信綱]]が玉川上水の三歩を拝領したということについては、何の文献証拠もなく、ただ事実については伝説を証明するよりほか、致し方ありません。幕府が撰述した『[[新編武蔵風土記稿]]』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:多磨郡羽村分水の下流。同郡小川村の境から分かれて本郡へ入り、数条となってみなぎり流れて、引又町のはてに至る。その間2里に及ぶ。水の色は炊水（米のとぎ汁）のようであり、潺湲（せんかん＝さらさらと水が流れる様子）としている。これは郡中の西の方の諸村の養水となっている。&lt;br /&gt;
:……それから多磨川水道の水7分は江戸へかけられ、3分は川越領新田の養水に賜り、今に至って当地の水利は乏しくなくなったという。（[[新編武蔵風土記稿/巻之129新座郡1#水利|新座郡総説]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水を7:3の割合で賜ったことは、海保青陵&amp;lt;ref&amp;gt;海保青陵（かいほ せいりょう）は、江戸時代後期（18世紀後半から19世紀初め）に活躍した経世家（経済思想家）・儒学者である。当時の武士の常識であった「商売を卑しむ」考えを否定し、「天下の儀は、売り買いの一事なり」という徹底した営利・合理主義を唱えた。&amp;lt;/ref&amp;gt;も書いております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:大猷院（家光）様の時、松平伊豆守信綱という人、世にいう智恵伊豆守である。江戸は下町の分は残らず新築地であって、元来は海であるから、井戸水に塩気があって人の腹によろしくないということで、玉川という水を十里西から取られた。すなわち、川崎の六郷川の上流である。幅三間で、渠を十里掘って、四谷御門まで引いた。そのため、この水気により、その近辺に少しずつしみ渡った。今は少々圃（畑）もできて、綿・大根などもはえている。大猷院様は伊豆守の功を賞せられて、上水の内三分の一をくださった。そこで、その渠から幅一間の渠を三里引いて、野火止という伊豆守殿の采地へ引いた。その水気がまたその近辺へしみ渡って、今は野火止近辺も原の中に圃がある。野火止は江戸より五里西北である。この渠が無ければ、今も原ばかりであっただろう。（『東贐&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;東贐&#039;&#039;&#039;（あずまのはなむけ）』：江戸で生まれ育った青陵が、初めて江戸へ来る知人のために、江戸の風俗、風土、歴史などをガイドブック的にまとめた書。&amp;lt;/ref&amp;gt;』文化十三年（1816年））&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さすがに海保青陵のことはあって、武蔵野開発と野火止用水とを睨んで、この渠がなければ今日までも野原のみであっただろうと言いました。松平信綱が玉川上水の総奉行として、我が国に二つとはない長距離の上水路、当時無二の大工事を董督（とうとく）して、首尾よく成功させました勲労、わけても徳川一世（家康）が江戸入部の直後、天正中に大久保主水に命じて神田上水をこしらえさせ、三代家光が井の頭上水を計画したが成らず、四代家綱に至ってようやく玉川上水が成功したので、江戸の上水計画は徳川氏四代がかり、年数にして六十年ばかりの作業でした。それほどの事業であるため、重く賞与されるのも不審はないものの、それにしても玉川上水総量の三割という、分量があまりに多いのは疑わしい。江戸全市とのバランスが取れません。信綱が拝領して私領へ引用したことを、上水記が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:伊豆守信綱朝臣、川越領地のとき、野火留も領内であって水懸りについて、玉川から引水ができ、初めて野火留領に田地もできた。まことにむさし野であって田作がないこと、今もって野火留のあたりは井水がなく、玉川のかかり水ばかりで、飲み水にも使っているとのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などと言っているのは、御普請奉行上水道方 石野遠江守広通という当職の人の著述とも思えない迂濶なことです。野火止傾ならば、野火止500石、北野20石、西堀50石、菅沢165石、計735石、それへ大和田1500石を加えても2000石には足りません。小島文平の訳書には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:伊豆守殿の実家・大河内金兵衛殿、峡田領・河越領あたりの御代官で、手代の内、小畑助左衛門・安松金右衛門の両人は、地方（村方）なども功みなので、家来に遣わされ、右翼・左翼とし、地方の関係のことは彼らと相談された。川越まで内川に通船し、野方の建出し並木は今も繁茂し、一万石の新開をしたのは、助左衛門が目論見したという。元より賢者なので、諸侯に稀な古今の功者と名をふれられたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と見え、幕府の代官であつた信綱の実父・大河内金兵衛が、部下の小畑・安松の材幹（能力）を知って伊豆守家に推薦し、小畑は主家の領地に一万石新開の計画を立てたというので、その新開諸村は延宝（1673年～1681年）までに着々成功いたしました。『新編武蔵風土記稿』にその村名を挙げてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:上下安松、上下奥富（新田地）、松郷（新田地）、大仙波（新田地）、大仙波新田、大塚、大塚新田、大袋、増形（新地）、堀兼、今福、中福、砂久保、中新田、上下赤坂、上下杉原、亀久保（新開）、南永井、水子、寺井（新開）、府川、宿粒、小久保、上下南畑、南畑新田、竹間沢（新開）、亀谷、福岡、大久保新田、渋井新地、古市場、川崎、砂新田、久下戸、小中居、八島、古谷本郷。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを元禄七年（1694年）二月――伊豆守信輝が下総古河へ国狩した翌月――に提出した『松平伊豆守旧領高覚』と見合わせますとわかります。『旧領高覚』は前文に出しておきました（[[玉川上水の建設者 安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]）。武蔵野開発の規模は、信綱の宿案らしいです。『家譜』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四年（1647年）七月五日、常陸新治、武蔵埼玉の二郡のうちにおいて、一万五千石御加増。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。『藩翰譜』にはこの御加増を一万石としてあります。しかし『徳川実紀』には一万五千石加恩とあり、榎木弥左衛門『万之覚』にはこの御加増を二か所で書いており、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一　松平伊豆守様御知行に川越を御取りになりました。御かぞうは共に七万五千石。ただし、きさい（崎西）、ひたちふちゅう（常陸府中）とともにである。&lt;br /&gt;
:一　寛永十六己卯年（1639年）に、松平伊豆守の御知行は六万石で、河越を御知行に御取りになり、御入部なさった。ただし、きさい（崎西）と共に、その後、いずれかの年に一万五千石御かぞうされた。ただし、ひたちのふちう（常陸の府中）、川越の西小沼高くらちと共に。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　御加増一万五千石ということは、『実記』と『家譜』とが合致している以上は疑問はあるまい。ここで注意しなければならないのは、『高士略伝』という藩中の人物誌の中に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四丁亥年（1648年）七月一日、一万五千石御加増の時、御願にて武蔵野を五千石拝領。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。わざわざ未墾地を望んで拝領したとすれば、石高のない荒野なのですから、五千石といっても、何の収穫もない場所を大概に見積って田畑にしたらという計算で拝領したのでしょう。こういう拝領も御加増も、類例はないでしょう。それゆえに、高のある一万石は、本高え加へて七万石にいたし、高なしの五千石は加えない、加えられないのです。類例のない珍しい御加増だけに、ソロバン上でも奇妙な勘定が出て来たのでしょう。すなわち、本高の内にも、新墾によって増高ができ、全く高のない本高以外の荒地を開いて新高もできたのです。この高のない五千石分の荒地を拝領したのは、まず武蔵野開墾に自分が手本を見せる底意のあったことを黙示したものと思われる。松平伊豆等は七万石の身上を九万四千余石にした。小畑助左衛門の一万石の新開計画などは何のその、信綱の腹案はそんなことではなかった。実に伊豆守家の領土開発は、武蔵野開墾であって、野火止用水がその事業に無二の効用があり、進捗もそれによつて活発になりえたのです。寛文九年（1669年）の武蔵野開墾文書に、武蔵野惣高合　十万九千百八十六石余とある。この開発と玉川上水からの分水は大いに考究しなければならないことで、後には三十三を数えた分水口の内で一番古く、一番大きいのが野火止分水でした。享和三年（1803年）現在の玉川上水分口書付の内、寛文以前創置の分を見ますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:多摩郡&lt;br /&gt;
::一　砂川村&lt;br /&gt;
:::七寸四方　この寸坪四十九坪&lt;br /&gt;
:::三分明　二寸三分余　この寸坪十六坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）新田が出来たときに願い済み、砂川村一か村ニ限リ、水末まで一里余。御料所&lt;br /&gt;
:新座郡小川村地先より引取&lt;br /&gt;
::一　野火留村&lt;br /&gt;
:::六尺四方　この寸坪三千六百坪&lt;br /&gt;
:::三分明の節　土俵をもって積立水懸り分量いたしました。この寸坪千二百坪&lt;br /&gt;
::右は承応年中（1652年～1655年）、上水堀開のときに願い済み、野火留村、西堀村、菅沢村、舘村、引又村、宗岡村、浜崎村、宮戸村に懸っております。水末まで六里ほど。&lt;br /&gt;
:多摩郡&lt;br /&gt;
::一　小川村&lt;br /&gt;
:::一尺四方　この寸坪百坪&lt;br /&gt;
:::三分明　二寸　巾一尺　この寸坪三十三坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）新田が出来たときから寛文九酉年までの内に願い済みとのこと。小川村一か村に限り、水末まで二里ほど。御料所&lt;br /&gt;
:同&lt;br /&gt;
::一　国分寺村&lt;br /&gt;
:::一尺四方　この寸坪百坪&lt;br /&gt;
:::三分明　三寸三分余　この寸坪三坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）願い済みとのこと、国分寺村・貫井村・恋久保村に懸り、水末まで一里半ほど。御料所&lt;br /&gt;
:荏原郡府中領境村地先より引取&lt;br /&gt;
::一　品川領用水&lt;br /&gt;
:::二尺五寸四方　この寸坪六百二十五坪&lt;br /&gt;
:::三分明　八寸三分余　この寸坪二百八坪三合余&lt;br /&gt;
::右は往古は天水場で、寛文九酉年御入用にて出来ました。大井村・上蛇窪村・下蛇窪村・戸越村・桐ヶ谷村・居木橋村・二日市村・南品川宿・北品川宿に懸リ、水末まで七里半ほど。御料所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また設置年代が不明なのは、拝島村、下小金井新田、下小金井村、境村、烏山村、上北沢村、幡ヶ谷村、三田用水などで、いずれも寛文以前とは思えない。分水口の中の古参者五つの内、四つまで幕府直轄地で、ただ野火止一つが私領地です。古い五つの分水だけでなく、後の分水も戸田因幡守、内藤大和守、田安御屋敷を除く外、二十五か所がことごとく幕府直轄地であります。直轄地以外に分水したのは、三十三分水口の中に野火止ただ一つです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　掘鑿しても飲用水を得られない武蔵平野に灌漑用水はなおさら求められません。玉川上水は江戸市民の生命をたすけるだけでなく、この渺茫たる曠原をも救うものです。その分水に恵まれて初めて田畑もでき、村落も安堵されました。さもなければ人間が居着けません。幕府はまず信綱の武蔵野開発案を認め、格外に野火止用水を許し、彼もまた平然として過分な水量の分附を受けてはばからなかったものと思います。信綱の立案の規模は一万石、二万石などというつもりではなかったでしょう。野火止用水ができて、引き続いて分水口が増設され、武蔵野開墾はいや増しに進捗を活発にいたしました。だからこそ、幕府領か私領かというような詮議をしなかったのです。さて、信綱は、供給された野火止分水をどのように作用させたのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*06]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/03&amp;diff=369</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/03</title>
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		<updated>2026-07-18T15:58:05Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第三章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その三　玉川上水の水盛==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　寛政三年に御普請奉行 上水方 石野遠江守広通の書いた『上水記』、それは玉川清左衛門の書上を主としている。それで、当該官庁にも古記録のなかったことわわかるが、石野広通は玉川の書上を本筋としたので、書上にないことで捨てがたく思ったことを、すべて一説として傍記しております。なぜ上水記を書くときに、一概に玉川の書上にのみ依拠したのであろうか。玉川上水について他にまとまった書き物がなかったこともありましょうが、玉川の書上を鵜呑みにしたのはよろしくありません。是非穿鑿して、庄右衛門・清右衛門の書上がどの程度信頼できるものであるかどうかを吟味しなければならなかったのです。これは上水記の過怠だったと思います。それ以来、玉川上水の話をするには、この『上水記』が玉川の書上と並んで無二の典拠になっているのは残念でなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川上水の事。&lt;br /&gt;
:明和五子年（1768年）以前、町奉行持で、町年寄かかりであった。明和五子年、御普請方に町奉行より請取時の古い書き留めにいう。承応元壬辰年（原註：寛政三年まで、およそ140年）までは、御城内ならびに御城下、上水道はなく、下々にては所々の水溜り、溜池などの水を汲み、樋にて仕懸、取り用いて不自由だったので、上水道になるべき水筋を、町奉行 神尾備前守の尋ねにより、玉川庄右衛門・清右衛門という者の父、所々相求める所に、武州羽村という所から、玉川の水を江戸まで、道のり十三里のところ、水盛を相考え、御用水になるべき旨、絵図・書き付けをもって評定所に申し出た。これにより、、御老中 阿部豊後守・松平伊豆守、寺社奉行 安藤右京亮・松平出雲守・神尾備前守、町奉行石谷将監・牧野織部・八木勘十郎、御勘定奉行 曽根源左衛門・伊丹蔵人・伊奈半左衛門（原註：玉川庄右衛門が書付の趣にて記している。御役名等はあえて正していない）等、絵図書き付けを一覧した。そこで見分として牧野織部・八木勘十郎・伊奈半左衛門、上水通り庄右衛門・清右衛門が案内として、道筋六日の逗留にて見分を済ませて江戸に帰参した。同年十一月二十五日、評定所にて、上水道堀普請に取り掛かるよう、両人に申し渡した。翌巳年四月四日より掘り始め、同年十一月十五日まで、四谷大木戸まで掘りわたす。玉川より水を仕掛けるべしとの由にて、羽村大川にて壊を仕立て、水のかかるところ滞りなく、四谷大吐（おおはき）まで水がかかってきた。そこから虎御門まで残らず掘り立てて十分に滞りなく水が来て、その後、追々分水が作られて諸方で上水を取り用いるということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上は上水記の記載ですが、承応元年（1652年）十一月に上水道開鑿が決定し、二年四&lt;br /&gt;
月に起工して、十一月に四谷大木戸までの工事が済みました。玉川上水は江戸城および城下の町々へ給水するのが目的でございますから、四谷大木戸まででは、城下の町々へは及びません。『御府内備考』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;御府内備考&#039;&#039;&#039;（ごふないびこう）：三島政行編、145巻。文政十二年成立。江戸幕府官撰の江戸の地誌。巻之六＝御曲輪内之四に「上水」の章がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;が「『承応記』に三年玉川の流水、日本橋より南へ水道を用いるべきであるとおっしゃったという。……同じ十一月十五日に、四谷大木戸まで、行程十三里あまり掘割、また二千両を下され、翌四月に至って、虎御門外まで掘り割り、水引きが成功した」といい、『東京通志』が「大木戸から虎門外に至るまで陰溝を掘らせて、三年甲午四月に完成した。」というのも、城下の町々へ給水ができて、始めて竣功といえるわけなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　江戸の水道は乃祖家康が、天正年中（1573年～1592年）に大久保主水に命じて、神田上水をはじめてから、三世家光の晩年に多く企画され、家綱の時に至って、ようやく玉川上水が成功しました。実に徳川氏は四代がかりで、この事業を仕上げたのでございます。玉川上水は承応三年四月に成功いたしましたのですから、三年がかりでした。二年目にはやっと四谷大木戸までしか来ておりません。玉川上水の工事に三年かかりましたのが、[[野火止用水|野火止用水路]]の話に混入して、ああいう伝説を生じたのであろうと思います。と申すのも、玉川上水と野火止用水との工事が、時間的に密接しているだけでなく、玉川上水の工事がなければ、野火止用水の工事が起こらない理由があります。そのわけを述べるには、玉川清右衛門・庄右衛門の書上を吟味しなければなりません。それも長い文段でございますから、前に掲げました上水記が依拠したところだけ、すなわち全文の半分を出しておきましょう。さしあたっての入用は、それだけで十分でございますから、残りはここでは省略いたしましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::恐れながら書き付けをもって申し上げます。&lt;br /&gt;
:玉川上水道のこと。六十三年以前、承応元壬辰年（1652年）まで、御城内ならびに御城下、御武家様方とも、上本道がございませんでしたので、下々にては御堀または溜池などの水を樋で仕掛けて取ることになっており、不自由でございました。&lt;br /&gt;
:そこで上水道になりうる水筋がございましたので、見立てを願い上げましたところ、町御奉行 神尾備前守様が以前から私たちの親ども二人に仰せつけられておりました。そして所々吟味いたしましたところ、武州羽村というところから玉川の水を引き入れ、御当地まで道のり十三里程（50kmあまり）のところ、野山ともに日数をかけて水盛（測量）・吟味し、御用水になると申し上げました。委細は絵図・書付で、御評定所まで申し上げました。&lt;br /&gt;
:そのときの御老中様方の御列座、阿部豊後守様・松平伊豆守様、寺社奉行 安藤右京亮様・松平出雲守様・神尾備前守様、町奉行 石谷将監様・牧野織部様・八木勘十郎様、御勘定奉行 曽根源左衛門様・伊丹蔵人様・伊奈半左衛門様がその絵図を御覧あそばされ、御吟味の上、「重宝であり、忠義な進言である」と評価をいただきました。現地の御見分として牧野織部様・八本勘十郎様・伊奈半十郎様、以上三人様にお越しいただきましたので、私もお供いたしまして、上水道の通り道の明細をお見せいたしました。道筋に六日逗留されてご見分を済ませて江戸へお戻りになりました。同年十二月二十五日、御評定の惣御寄合に親どもが呼び出されました。上水道を掘り、普請に早々に取り掛かるよう仰せつけられ、ご入り用金六千両をお渡しいただきました。&lt;br /&gt;
:翌年（承応二年＝1653年）巳四月四日に掘り始め、同年十一月十五日までに、四谷大木戸まで押し渡しましたところ、先に玉川からの水の仕掛けをご覧あそばされたい旨仰せつけられましたので、すなわち羽村の大川（多摩川）にて堰を仕立て、水を仕掛けましたところ、滞りなく、四谷大吐まで満水になりました。&lt;br /&gt;
:しかし、以前にいただきました御入用金6000両は、高井戸あたりまでに払ってしまい、金子は多分に不足しておりました。このことを度々申し上げましたところ、「堀普請ができて、水が滞らずにうまくかかれば、末々悪いようにはしないだろう。まず、この先は自分で費用をもって、虎御門まで掘り立てるように」と仰せつけられたため、ありがたく存じ奉り、自分たちの金千両あまり、ならびに町屋敷三か所、金千両あまりで売却し、以上の金子をもって虎御門まで残らず掘り立てまして水を掛けましたところ、十分に滞りなくまいりましたため、ご満足あそばされました。その後、親どもは召し出され、玉川上水御役を永代にわたって仰せつけられ、すなわち両人ともにそのとき二百石分を金子で下され置き、名字も玉川に改めてくださり、刀御免もあそばされましたために、ありがたく存じ奉っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　不審の多い文言です。この書面は承応元年を六十三年前というので、正徳五年にしたためたものであることがわかります。したがって、その時、玉川の方は三代目になっている。この世代はその家の菩提所・聖徳寺の過去帳によるのですが、的確らしくないようです。いずれにしても、「親ども」とあるのは初代庄右衛門・清右衛門を指して言ったと解せられます。その中に「私もお供いたしまして」というのは、この書面を書いた人のようにも読めて紛らわしいが、これも初代が見分役人のご案内をしたのであり、この書面の筆者ではありません。それをこの書面に盲徒してしまったために、上水記では「玉川庄右衛門、清右衛門という者の父」と書きました。そうであれば玉川上水を見立てましたのは、初代庄右・清右の親であったと言うことになりますけれども、苗字御免になった庄右・清右が玉川上水通鑿を申し立てたのであって、その父ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、初代の庄右・清右を芝口の町人とし、また深川の町人とも書いてありますが、何とも決着がつきません。工事の足し前に町屋敷三箇所を売ったという。それほど地面持ちならば、相応な町人であろうに、在り所も知れないというのは怪しい。それから工事費の下附金も、本文には六千両とありますが、『玉露叢』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;玉露叢&#039;&#039;&#039;（ぎょくろそう）』：著者不詳の雑史。自序は延宝二年（1674年）。豊臣秀吉病気のことから、1681年2月までの編年史である。&amp;lt;/ref&amp;gt;には七千五百両、『御府内備考』には八千両、『武蔵名所絵図』には一万両と書いてございます。この金高はいずれにしても、既に設計して工事を請負ったのに、高井戸までで費用がなくなったという。工事の四分の三ほどで資金がなくなった訳で、全額で二分五厘（25%）の見積り違いになる。どうしてこのような計算違いを生じたものが、だれもこれを疑わないということも不審極まりないように思われます。しかし、費用がなくなったことを度々申立てたとありますから、費用を定めて請け負ったのではないようにも解せられますが、費用を定めずに工事を命ぜられたとすれば、幕府は当事者の諸求があり次第、交付するべきはずであるのに、工事が出来上って水が来さえすれば、末々悪いやうにはしまいと告げて、資金を下附しなかったということがどうしても合点のいかないことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　従来、玉川両家は苗宇帯刀御免となり、玉川上水御普請役を勤めることになって、自分の威福のために都合のいいように、手前勝手なことばかりを書き上げたように思われる。明暦火災の後には古記録が焼亡したために、玉川のみならず諸方の書き上げが、役人にも古記録がないのを見透かして、ずいぶんと甚だしいわがままな申立てをしたらしゅうございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　上水記に「玉川の水を江戸まで道のり十三里の所、水盛相考」えたというところへ、分註して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一説に、松平伊豆守の臣何某が考えたことである。これにより、野火留分水口は格別の掘割で、むかしから伊豆守殿堀という。また、いにしえ、伊豆守の家臣で郡方役人の安松金右衛門が工夫して、主人へ申し立て、吟味のうえ、野火止用水ができたともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあって、玉川上水の水盛は松平信綱の家来の考えであったとし、そのために野火止分水が出来たという。さらに安松金右衛門を描き出しては来ても、野火止用水の方へ強く引付けて書いたから、大体が暖味になつてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　御府内備考も「多摩郡羽村という所からこの水を引いて、江戸まで十三里の間、道の次第を考え、絵図を作って申し上げたところ」というところへ分註して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守のある家人の考えたものともいう。しかし、これは野火留へ引いたことを言うのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といって、玉川上水の水盛りも、野火止用水の設計も、共に松平信綱の家来・安松金右衛門の成案であるのを知らずに、とにかく野火止用水の方へばかり引張ってしまう。それほど、この両工事は設計者が同一であるために、また時日が近かったために、混雑して明白を欠いておりました。安松金右衛門が玉川上水の水盛をしたことは、全く世間に聞こえていないわけでもないのに、野火止用水の工事のために紛れてしまうのです。野火止用水は、当時川越侯であつた松平伊豆守信綱が、自家の領地を開発するだけの規模ではなく、武蔵野開発の計画を立てて、寛文九年武蔵野開墾文書に、「武蔵野惣高合十万九千八十六石余の新拓を得た」とあります。それは『竹橋余筆』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;竹橋余筆&#039;&#039;&#039; (ちっきょうよひつ)：大田南畝編、江戸幕府勘定所記録の抄録集。寛政十二年（1800年）、竹橋門内勘定所倉庫の諸帳面取調べの幕命をうけて整理に着手した。その作業の暇に文書記録を抄出し、同年中『竹橋蠹簡（とかん）』『竹橋余筆』『竹橋余筆別集』が完成した。&amp;lt;/ref&amp;gt;に収録された文書なので、ご覧になれば内訳もわかります。野火止五字、六百八十五石といへば、決して大きな開墾ではないのですけれども、『松平伊豆守旧領高覚』によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一高四万九千六百九十八十八石八斗五升　武州越城付&lt;br /&gt;
::内六千二百三十五石五升二合　新田並検地出高入&lt;br /&gt;
:外一万四千三十八石四斗二升二合　新田検地出高&lt;br /&gt;
:一高二万四千三百一石一斗五升　武州埼西領&lt;br /&gt;
::内四千七百六十四千七百六斗四斗四升八合　新田並検地出高入&lt;br /&gt;
:外九千四百十九石七斗一升　新田検地出高&lt;br /&gt;
::高合七万石　拝領高&lt;br /&gt;
:::内一万千石　新田並検地出高入&lt;br /&gt;
:外二万三千八百五十八石一斗三升二合　新田高検地出高&lt;br /&gt;
::これは今以高外&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあって、七万石の身上である松平伊豆守は、新田開発のために九万四千三百石余になった。自分の身上が三割五分強に膨大したのみならず、幕府の直領にも新拓十万石余を増加させました。その根本をなすものが野火止開発でありまして、その資源は野火止用水路の疏開なのですから、この辺の八石百姓の勘定にいたしますと、十二万石では農家一万五千軒の生命を与奪するものでございます。だからこそ、野火止用水は名高くもあり、世間から非常に注目されるのであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水がこのように名高いものでございましたので、設計者・安松金右衛門の名はこちらの方で鳴り響いております。それがまた、玉川上水についての彼の名を覆うようにもなっていきました。功績から申せば、武蔵野開発十二万石の根元になりました野火止用水疏開にもまして、玉川上水の水盛は今日に至っては、帝国の首都への給水でありますから比較になりませんが、当時にいたしましても三大都市の随一として数えられた江戸水道のことでございますから、大きな手柄に相違ないのことではありますが、あまりにも野火止用水が顕著であるために、彼の功名が隠されたと見えます。それに、玉川上水の方は庄右衛門・清右衛門の子孫が元文の時代（1736年～1741年）まで御普請役を承って、しきりに父祖の功績を宜伝してをりましたので、このためにも安松金右衛門の玉川上水についての功績は覆われたものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　一体、玉川上水は左右衛門・清右衛門が設計いたして、幕府の採択を得たものであるのに、どうして安松金右衛門が設計したのか。庄右衛門の書上には、水は滞りなく四谷大木戸まで来たとあるけれども、両人の設計は不良であって、工事は失敗した。それゆえに、安松金右衛門が改めて設計して、新しい水盛によって玉川上水の工事は成功したのであります。このことは、享和三年（1803年）九月、水道奉行・佐橋長門守が、時の老中・松平伊豆守の諮問に対して提出した『玉川上水堀之起発並野火留村引取口訳書』によって明らかにわかることです。この時、伊豆守家は信明といって、三州（三河）吉田、ただ今の豊橋の殿様でありました。前にも申した通り、同家には古記録がないのですから、佐橋長門守に調査させて公私のためにしたのでしょう。この書類は現に大河内子爵家に原本があり、その写しは日比谷図書館の『玉川上水雑書』の中に採収してございます。これによって、庄右・清右の設計が失敗に帰し、工事が頓挫したことを知れば、彼らの書き上げについての不審も一部は減ることにもなり、安松金右衛門の功績もよくわかるようになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*03]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/02&amp;diff=368</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/02</title>
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		<updated>2026-07-18T15:56:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第二章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その二　[[野火止用水|野火止用水路]]==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『幼学綱要』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;幼学綱要&#039;&#039;&#039;（ようがくこうよう）』：明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学者の元田永孚（もとだ ながざね）が中心となって編纂し、明治十五年（1882年）に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例（逸話）を引用して解説している。&amp;lt;/ref&amp;gt;(巻五、忍耐第十二)の記載は、何によって書かれたものか知れませんが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[松平伊豆守信綱|松平信綱]]、武蔵国川越を領する。領内に邑があり、[[野火止]]という。土痩せて水とぼしく、田里は物寂しい。代官・[[安松金右衛門]]が建議していうには、「新しい渠（水路）を掘って、玉河（多摩川）の水を引くべきです。そうすれば稲田を開くこともできるでしょう」と。信綱はその費用を聞いた。すると「三千金である」という。信綱は、「願ふに私はここに久しくいるものではない。しかし、三千金をもって後人を利すのは、それこそわたしの仕事である」と。そこで命じて、そのことを監督させた。こうして金右衛門、役夫数百人を集め、渠を掘ること十六里、小川村から新河岸に達した。すでに完成したが水は至らない。渠の中はただ沮洳（ジメジメ）しているだけであった。信綱はこのことを詰問した。金右衛門が言うには、「私もまたその理由がわかりません。願わくばさらに来年を待っていただきたい」と。翌年になって、水はなお至らない。信綱はまた金右衛門を責めて言った。「お前は特に地勢の高低を察しなかっただけではないのか」。金右衛門は「そうではありません。私は今、悟ったことがあります。いにしえの言葉に、河潤九里（河が九里の幅まで潤す）といいます。今、この地、武蔵野は広漠の中にあります。土は乾燥して風は多く、塵を吹いて座に満ち、客が来るたびに席を掃いています。ところが、今年だけは違います。諸菜の繁滋すること、以前とは違います。これは河潤、新渠によって地に深く入っているためである。水は今、必ず至るでしょう」と。その翌年、ある夕、大いに雨が降り、雷のような音があり、にわかに奔流が突き破って、十六里の間、一時であふれ、新河岸に達した。信綱は喜んで、「金右衛門、三年の久しきをへて、その志をくじけなかった。まさに感賞すべきことである」と言った。命じて、その禄を増した。後、ついに顕職に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを『紳書』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;紳書&#039;&#039;&#039;（しんしょ）』：江戸中期の儒学者、新井白石（あらい はくせき）が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と比べて読みますと、文体が違ってはいるものの、基づくところは知れるように思われる。また『紳書』よりも大変簡約に書いてある。紳書は大いに誤りを正すところがあったが、この短い『幼学綱要』の記載も、『紳書』を鵜呑みにして書いたらしい。しかし、稲田を開くために玉川上水を分水したやうに言ってあるのは、『紳書』にも書いていないことである。他の訂正を要する件は『紳書』に関して述べた方がよろしいけれども、この「稲田を開くための分水だ」ということは、今日も野火止に水田のないのでも明白であるから、『幼学綱要』の誤りとして、ここに記しておかなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『幼学綱要』に安松金右衛門の話を採録されたのは、その主題にも示すとおり、忍耐ということについてであります。それは野火止用水路開鑿後三年にして始めて疏通したというところが押さえどころであつて、『紳書』もそのために彼の話を書き、『幼学綱要』も同じ心持ちで扱ったものと思われますが、それが大間違いなのは実にけしからんことでございます。これらのことは『幼学綱要』編纂の命を受けた人が、十分に吟味すべきことであろうと思われますが、そうではなかったことは、いかにも残念だと存じます。しかし、国定読本が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東京の西北数里、野火止というところがある。今は埼玉県北足立郡大和田町に属しているが、見渡す限り、うち続く畠の間には森あり、丘あり、家あり、流れあり、春は菜の花、麦の緑、秋はすすきの波、雑木の紅葉、武蔵野の面影が今に残って見るからに野趣に満ちた眺めである。&lt;br /&gt;
: 昔この附近一体は、かの智恵伊豆といわれた松平信綱の領地で、その菩提寺の平林寺もこの野火止にある。平林寺の門をくぐって薄暗いほど茂ったカエデの下を進むこと約二町、本堂について右折すれば、スギやヒノキの生い茂っている林の奥に、信綱の霊は静かに眠っている。敷石の苔をふんで、ここに詣でる者は、あたりの静けさを破って、玉のような水が勢いよく流れてるのを見るであろう。&lt;br /&gt;
: 有名な野火止の用水というのがすなわちこれで、この水を引くについては面白い話が今に伝えられている。元来、野火止一帯は、土地高く、水利に欠ける。土やせて、見るからに貧しい村であった。信綱が川越城主としてこの地を領していたとき、代官・安松金右衛門は、新たに堀を掘って、玉川の水を引けば、必ず田畑ができると申し出た。そこで信綱がその費用の見積りを尋ねると、三千両あればよいという。当時の三千両は非常な大金であるが、信綱はこのために、後々の人まで利益をうけることができるのであれば幸いであると、直ちに堀を掘ることを安松に命じた。安松は命を奉じて数百人の人夫に命じた。いよいよ工事に着手した。そうして今の中央線立川駅の北方一里のところから、この野火止を過ぎ、志木町の新河岸川まで、六里の間に堀を通じて、玉川の水を引くことにした。工事はやがて見事に落成したが、しかし、意外にも一滴の水も流れて来ない。信綱はこれを見て、安松をなじると、安松はとにかく来年まで猶予を願い出た。だが、翌年になっても水がやはり来ない。ここに至って、信綱は安松が地勢の高低を考えずに工事を進めたものとして、その手落ちを責めたが、安松はなお自分を信じて疑わない。元来、この附近は、土地が乾き、風が烈しいために、これまで非常に土ぼこりが多く、客のある場合には、必ず座敷を掃いて入れなければならなかった。しかし、今年は、そんなことが全くない。のみならず、野菜の出来がいいのも、例年と異なっている。これは水分が地をうるおしているためで、たしかにその堀のおかげに違いない。何とぞさらに一年の猶予を、と願い出た。すると翌年の夏、一夜大雨が降ると、奔流が水音高く進み来って、たちまち六里の堀にみなぎった。信綱ははじめて、安松が自ら信じることの強いことを感歎し、厚くその功を賞したという。草ひいで、木茂り、見渡す限り豊かな田畑の間を過ぎて、平林寺に詣でる者は、ただ春の花や秋の紅葉を賞するだけでなく、今なお流れて盡きない用水に対して、当年の苦心をしのび、功績のあった人々に深い感謝を捧げなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いて、何の穿鑿もせずに昔ながらの三年、水が来なかった話を繰り返すのみならず、野火止が新墾地であることも、用水が玉川上水を分けたものであることもいわないほどに麁陋（お粗末）なのは心外千万に存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水路は約四十日ほどで竣工し疏通した。それは前にも引証した榎本弥左衛門&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;榎本弥左衛門忠重&#039;&#039;&#039;：武蔵国川越の商人である｡寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『万之覚』に、判然と、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応四年（明暦改元）三月二十日時分、野火止へ水流れ初り申候。ほり初は二月十日時分より初り申候。堀長さは四里程であるべく候。水上より野火止まで30間程ひがし、水上は江戸の水道にわりきり也。堀の口は深みになお不定、しきは三尺に極まり申候。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあるので疑いないことであります。この『万之覚』は前にも申してある通り、当時の記録なので、筆者が親しく見聞したままを書き付けておいたものであります。これほどたしかなものがあるのに、今日まで三年、水が来なかつたという誤った説が是正されなかったのは、かえってそれが訝しくはありませんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大河内（正敏)子爵家に『本藩高志略伝』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;本藩高志略伝&#039;&#039;&#039;（ほんぱんこうしりゃくでん）』：江戸時代に編纂された、川越藩（松平信綱の系統）の藩士たちの伝記集。大河内松平家に仕えた歴代の「高志（志の高い優れた家臣）」たちの略伝を収めている。&amp;lt;/ref&amp;gt;という写本が三冊ありますが、その第一冊に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;安松金右衛門　水道を発すること&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[安松金右衛門]]吉実は、本国河内、生国播磨で、算術の達人である。正保元甲申年（1644年）、御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎で、松林公（信綱の法諡）に奉仕した。現米を百俵賜り、後に百石になり、三十石、七十石、両度の加禄にて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。そのころは野火止は武蔵野にあって、井戸もなく、泉水が湧出する所もなかった。正保四丁亥年（1647年）七月一日、（松林公が）一万五千石に御増加のとき、願いでて武蔵野を五千石拝領した。同州岩槻にあった平林寺を、今の野火止に移された。よって金右衛門に、玉川から水を引かせて、そのうち行程七里、高低曲直、岩石林木、金右衛門はこれを数え、計って、ついに水を引けることがわかり、水道を掘割らせた。そして「ここに水道を作ることができる。道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千載不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。金右衛門が水道を敷いたとき計画したよりも半時ほど水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、私の間違いである。水は七里を来る。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と。水道が成就した後、井を掘れば水が湧き、地を掘れば水が溢れる。人家も追々に造られ、新田・新畑を開発し、野火止の人民はその恩沢をこうむったために、金右衛門の名は高い。公儀の御帳にもその名がある。野火止五千石は高崎御分知である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてありますが、この中に「玉川から七里」というのは野火止用水のことであり、また、水道の路線に二筋あり、その一つを受け継いだというのは玉川上水のことで、そのことは後文に述べますが、野火止川水路は二線の中の一線を選んだのではありません。これを見ても玉川、野火止の二つの工事のことが紛れて、当の藩中にさえ伝えられていたことがわかるだろう。この写本は、水道ができて今百六十余年の星霜を経て、というのも玉川上水のことであり、「既に幾分の欠落を生じている」と書いてあることからもますます確かめられます。したがって、百六十余年というのも、明暦元年（1655年）玉川上水完成から数えるのだと思います。それなら、本藩高士略伝は文化・文政のころに書いたものと思われます。文化・文政のころならば、筆者も『紳書』や『遺老物語』を見て、水が三年来なかったという説も承知しておりさうなものであるのに、それは何とも言わずに「金右衛門、水道を敷いたとき、計画したよりは、半時ばかり水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、これは私の誤りである。水は七里を来ている。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と言っております。筆者は玉川上水工事と野火止用水工事と、ゴッチャに書いているので、大体話が混雑していますが、ここでは「水が七里を来る」と断ってもいるので、野止用水路のことなのが知れます。玉川上水ならば十三里とあるはずです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『本藩高土略伝』の筆者も、前に書いたとおり、藩祖・伊豆守信綱遺旨によって、古い書付はなくしているし、火事で焼失もしており、たとえあったところで誰にも見せないのですから、事実を考証する資料はないのでございます。しかるに、金右衛門が、野火止用水路開鑿に当って、考えていたよりも水の来るのが半時、ただ今の時計にいたすと一時間遅かったというのは、何によって書いたのだろうか。おそらくは藩中の人々の云ひ伝えででもあっただろうと思われる。だが半時では信綱が監督・叱責する時間もあるまい。また、武蔵野の野菜の出来がいいとか、ほこりが立たなくなったとかいう話も出る間がない。まったく、三年という日数であればこそ、いろいろと話すことにもなろうというものです。現に野火止用水路の村々には「二年たっても水が来ないで、金右衛門は申し訳に切腹した。その翌年に水が来たら、どこやらに金右衛門を水神様に祀って祠を建てた」などという、飛んでもないことを話す者さえあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　半時遅かったということは、金右衛門が水利に巧みな者であるのを称賛した言葉と思われる。水利設計にほとんど計算間違いのないほど、優秀な技術者であることを逆に言い表したのであろう。ですから、半時説は吟味せずともよろしい。ただ、三年説は、『万之覚』の記録するように、約四十日にして疎通しているのに、どうして発生したのであろうか。ここで注意すべきは、玉川上水が承応二年に起工して、明暦元年に完成していることで、足掛け三年目に出来上っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*02]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/13&amp;diff=367</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/13</title>
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		<updated>2026-07-11T15:31:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十三章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ|）  ==その十三　江戸っ子の自慢==  　江戸では飲料水が尊かった。要するに、飲料水が乏しく、また得がたくもあったからです。一方では江戸っ子が水道の水を自慢すると、他方で…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十三章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十三　江戸っ子の自慢==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　江戸では飲料水が尊かった。要するに、飲料水が乏しく、また得がたくもあったからです。一方では江戸っ子が水道の水を自慢すると、他方では上方者は江戸の水の悪いのに対して、何よりも京の水を誇っておりました。その京自慢はどうにも否定はできません。八百八町に井戸はどれあってもよい水は出ない。明治になっても、雑水と飲料とは整然と分けてありました。水道の水と掘り井でも清冽な水とを飲料に供し、一般の不良水は雑用としてありました。決して混用いたしません。若し飲料水を雑用すれば、誰もがもったいないことをするといい、家の中ではお眼玉をちょうだいする。隣近所からは不道徳な人間だといって指弾されます。それが習慣になっておりましたから、子供でも飲料水をほかのことに消費することはなかったのです。それから、雑水しか出ない井戸でも、井戸を潰すということは厳禁で、井戸を潰せばその家に祟る、その町が寂れると信じられておりました。さすがに欲張った地主であっても、古井戸を潰すのさえ忌み憚ったものです。そうした旧習が破れて、いつからか、盛んに飲料の水道の水が浪費され、しきりと井戸を潰すようになりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　現今は、井戸を掘れという声が聞こえてきました。また、全市の井戸町サヲして、非常給水組織をこしらえるとやら。これは先年の大震災に教えられて出た知恵なのでしょうが、さらに防空施設として井戸ほどのものはあるまい。東京市は百年の計だとして、第一期江戸川、第二期利根川、第三期霞ヶ浦と水道計画を立案したと聞く。水道の規価もだんだん拡大するだろうが、住民の増殖と同道して行けるであろうか。そうした計画は感謝すべきではあるものの、いずれにしても土地に乏しい飲料水なのだから、真っ先に水道の水はもっともっと貴んでもらいたい。雑水の井戸が一つあっても、それだけ飲料を費やすことが減じる勘定です。しかし、水道の水を貴んで、飲料以外に消費しないようにしようという心掛けのない人間には、お話も御苦労様にすぎない。江戸では玉川・神田の両上水があるのに、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:寛文元年（1661年）十月&lt;br /&gt;
:一　町中に井戸はなく、町数多くありますので、今から以後は、一町に井戸五つ、あるいは六つ、掘っておくべきである。&lt;br /&gt;
:同十一月十五日&lt;br /&gt;
:一　町中に井戸のない町は、一町に井戸を五つあるいは六つ掘るべきである。ただし、年内に井戸を掘ることは迷惑とのことで御訴訟申し上げる町は、御定めの外から水溜を多く置くべきである。手桶も右と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　火事の用意が主であったらしいが、こういう布令が出ております。幕府は某海外にもはなはだ深い考慮を巡らしており、市民もまた上水の恩恵を感謝しておりましたので、鑿井は非常に困難でもあり、大変な費用を要したにもかかわらず、よくその負担に耐えて、全市に多数の鑿井を見るに至ったのであります。鑿井に上水尊重の意味が合ったことをこの際に見ないようでは、江戸生活を知ることができますまい。上水を貴いものと思っていた証拠を手短に申すならば、児童の教科書であった江戸往来（続江戸往来を江戸往来と呼ぶようになって、先板の江戸往来を自遣往来と改めました）に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:かつては草深く生い茂るばかりだった武蔵野も、今や名に残り、明け方の月がまるで自分の家から出て、また自分の家に入っていくかのように思えるほど人家が密集し、その繁盛ぶりと豊かさは想像を絶するほどである。しかし、この場所は東西に土地が傾いていて湿気が深く、さらに水はたいそう塩辛かった。そのため、愚かな私どものような者は、自ら東西に馳せ、南北に走り回って水を求めたが、わずかな暇さえ得られなかった。家業はおろそかになり、時間を費やし、心を砕く日々であった。そうしたところ、尊き大君（徳川家綱将軍）が、かたじけなくも遥かにお聞き及びになり、「ここから十余里ほど西に行けば玉川がある。その水は清らかに冷たく、味もまた格別である。その水をここに引き、民を安心させよ」と仰せ出された。これによって、山を掘り、岩をうがち、数ヶ月にわたって工事に励んだ。その結果、ついに明暦年間に、少しの障りもなく江戸城下に水が到達したのである。長く流れる水は、幸いにも人々の「楽」となり、病を治し、患いを除き、渇きを癒やした。里の民の快楽は、何事もこれに及ぶものはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と冒頭に書いてあります、それ程に貴んだ上水であるため、「江戸自慢」は安政度に&lt;br /&gt;
書いた新しいものではあるが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:江戸中に井戸はあるが、飲み水は上水を用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。細川越中守綱利といへば、肥後熊本の城主五十四万石の殿様ですが、この殿様が白金の下屋敷へ、玉川上水を引いて滝をこしらえたと聞いて、国家老の長岡帯刀が、熊本から江戸まで海陸二百八十八里を駆けつけて、できたばかりのお庭を取りこわさせて、即刻帰国したといって、元禄度にこの名家老の噂が高かった。また、延享四年の落書に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:御本丸大奥十丈の滝、岩ぐみ龍門の体、暑気の節、特別に大仕掛、御女中様を御慰めする。&lt;br /&gt;
:このこと、表の者は知らぬことである。当夏御普請できたとのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは九代将軍家重の時の話で、表へ知らせずに玉川上水の滝を大奥の庭中へこしらえた。表とは幕閣をはじめ諸役人のこと、秘密にこしらえさせたのです。大諸侯でも熊本の殿様が、江戸の市民の飲料水をおもちゃにすることは、名家老・長岡帯刀のみならず、決して許しません。家重将軍は賢明な聞こえのある人でもないが、側近の者が外聞をはばかり、玉川上水での滝造りの一件はおし隠したのでしょう。天下様の威勢からは何の遠慮もなそうな家重将軍といえども、市民の飲料水を自私の娯楽に費すことは、悪徳な奢侈とされた。悪徳な奢侈、威勢とか、権力とか、そんなことを超越しています。江戸の故老は大御所様（家斉将軍）の栄華を前代の家重将軍に比較して、一般の論難を割引きさせようとした。それは小判の数を多く費やすよりも、水道の水を乱用するのが悪徳だと思っていたからです。それで家重将軍の当時にも、小判でいへば多いとも思われない、大奥の滝造りを隠蔽した心持ちが知れる。公方様さえこうであるから、長岡帯刀が熊本から飛んできたのもただちに頷けましょう。さらにさらに、それほどの上水の水を庶民の分際で、飲料でなく産湯につかったのは、なるほどなるほど、江戸っ子が大いに自慢したのも、実にごもっとも千万な成行でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先年、江戸の鑿井についていささか申し述べたことがございますが、それは鑿井の困難なことと、その必要とを考えたのです。元禄度には江戸に水屋さんなるものが営業しておりました。この水屋さんは、飲料水になる井戸水を汲み、一担二荷の水を細長い桶へ入れてかついで歩きました。水道の桝に遠い家々では、水屋さん一荷入れておくれと叫んでいるのを、私どもの幼いときに聞きました。明治の十何年というころ、一荷一銭であったと思います。水道はあっても、共用栓・自家用栓といった給水施設が行き届いておりませんでしたから、水屋さんが江戸をまたいで東京の始めにも営業をしておったのです。これは鑿井のありがたみですが、その上に水道尊重の意味を加えてご覧いただきたいと思い、ここに付録いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*13]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/12&amp;diff=366</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/12</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/12&amp;diff=366"/>
		<updated>2026-07-11T12:52:53Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十二章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ|）  ==その十二　玉川上水の記事==  玉川上水についての記述は、いろいろあるようですが、江戸会誌第二冊第十一号（明治二十四年十一月二十六日発行)の「上水渠鑿通」記事がい…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十二章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十二　玉川上水の記事==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
玉川上水についての記述は、いろいろあるようですが、江戸会誌第二冊第十一号（明治二十四年十一月二十六日発行)の「上水渠鑿通」記事がいずれよりも簡明でよろしいと思います。よってここへ付載して、本文とともにご覧を願うことにしたい。&amp;lt;ref&amp;gt;この引用もすべて現代語訳している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川上水は府下三上水の第一である。その源水は多摩郡羽村に於いて多摩川をせき止め、&lt;br /&gt;
::『上水在絶略記』（『御府内上水在絶略記』）にいう。水元・羽村の川幅は6町あまり。一円の井堰をもって江戸の方へ水を堰く。これを羽衣の堰といい、また時雨の堰ともいう。『上水記』を考えると、水神川の下に一つの水閘を設け、石籠（じゃかご）で多摩川の全流を堰き止めて水門に流れ入る。これを大堰通という。大小の投渡&amp;lt;ref&amp;gt;投渡（なげわたし）：洪水時にあえて構造物の一部を川に流すことで、水圧による決壊や周辺地域の浸水被害を防ぐ伝統的な土木工法。&amp;lt;/ref&amp;gt;および筏通場がある。水門が二つある。一つの水門内は請枠（うけわく）を据え、大小の吐口がある。二つめの水門はその水量を調べる。玉川と上水渠との間に堤防を築き、委蛇（曲がりくねって）福生村に達する。これを堤通という。春秋の水漲の際は、一、二の水門を閉鎖し、大小の投渡を払い去り、水路を開放して漲勢をそぐ。その堰上は常に沙・礫を払い、水流を渠口に導くようにし、堰の下は一、二の出し籠および棒類を置いて、堤防の水害に備える。詳しいことは図を見ること（図は省略)。&lt;br /&gt;
::また考えるに、玉川の本源は『上水記』・『多摩川考』・『調布玉川総図』（『調布玉川惣図』）などに見えるが、去る明治十一年（1878年）八月、東京府において土木課の吏員・山城祐之を派遣し、その本源を採究させたところ、甲州山梨郡神金村に一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬の流れがある。その一ノ瀬と称するものは、水源が最も遠く、流域が特に広いので、これがその水源であることは疑いようもない。しかしなお、その本源を究めれば、一ノ瀬から西北五十町ばかりのところに、角力取という一つの高山がある。その山間、字水干&amp;lt;ref&amp;gt;山梨県甲州市塩山の笠取山の山頂直下の水干（みずひ）が多摩川の源流とされている。&amp;lt;/ref&amp;gt;というところに大きな花崗石があって、その下から一つの泉が湧出しているものがある。これを玉川の最も正しい本源とする。清冽さは比べようもなく、冷たさは氷のようである。その地は東に御岳山を望み、南に富士山・大菩薩峠を望む。羽村からここに至って、まとめると20余里あるという。詳しいことは『玉川水源巡検記』（『武蔵国玉川泉源巡検記』）一巻がある。&lt;br /&gt;
:その水を分派して、これを導くこと10里30町46間（当時は13里と言った）にして、四谷区の西辺に達する。&lt;br /&gt;
::昔は羽村より東北一里ばかり、箱根ヶ崎村、狭山の池から出る一条の助水があったが、元禄のころから水が涸れて流れなくなった。しかし、秋漲に際し、羽村の水門を閉鎖するに当たっては、この川に集まり落ちる水潦が上水に入って一路の助水となるとのこと。&lt;br /&gt;
:そして大木戸の左にある水門から鉄管に入り、大路を経て麹町十二丁目に至り、二つの支管を分けて、麹町区に入り、東は皇城から大手町まで、北は番町・富士見町・飯田町、南は平河町・永田町の辺に及ぶ。その本管は四谷伝馬町一丁目から、南に転じて紀伊国坂を下り、赤坂表町の北から、溜池の東を過ぎ、虎ノ門に至る。これからいよいよ分かれていよいよ遠く、その末は千条万派して、南は西の久保、芝公園、金杉以北。東は築地、霊岸島、南新堀以西、八町堀、楓川を限り、北は京橋川以南、西は内桜田、永楽町以南、どの町も通流しないところはなく、どの家も日常の飲料はもちろん、その余りは池泉となり、跳水となり、防火の井となるなど、利用は極めて広い。水質もまた清冷で、いささかも混雑物が見えないという。近ごろ、麻布水道を設けて、大木戸の内から分派し、千駄ヶ谷・青山を経て、赤坂・麻布に通じる。去る（明治）十三年（1880年）の新設である。これまた府下、上水の内に合併された。今、樋管の延長を総計すれば、およそ4万9952間（呼樋（よびどい）はこの外である。ただし、二十一年（1888年）の調査による。以下同じ）。井の数は3000ある。右、上水の支配、設立のころはわからない。万治のころ（1658年～1661年）は上水奉行を置かれた。寛文十年（1660年）に町年寄 奈良屋・喜多村両人の支配となった（玉川庄右衛門・清右衛門は町年寄に差添支配される）。元禄六年（1693年）には上水改となって、道中奉行から兼ねた。元文四年（1739年）には町奉行に属する。&lt;br /&gt;
::この年、玉川庄右衛門、水役取り放し、再度町年寄取扱となる。ただし水源はそれ以前から代官支配であった。&lt;br /&gt;
:明和五年（1768年）以降は普請奉行に属した（はじめは目付・勘定吟味役が立ち合ったが、文化八年（1811年）に立ち会いを停められた）。文久二年（1862年）には作事奉行に帰す。維新（1868年）の後は一旦東京府所管となった。二年（1869年）3月に会計官・民部省を経て、四年（1871年）5月以降はまた東京府に属した。その経費は、幕府の時のいわゆる高割をもって水銀を課出した。&lt;br /&gt;
::古来の定例で武家は百万石あたりをもって計算し、町方は小間2間を100石と計算する。元文四年（1739年）は玉川のみおよそ金467両あまり。寛政二年（1790年）は玉川・神田を合わせて、武家の分、銀5貫497匁あまり、町方の分、銀2貫413匁あまり。ただし毎年多少の増減あり。（享保撰要録、上水記）&lt;br /&gt;
:維新の後は一時官費をもって支弁し、五年（1872年）8月からは旧町会所金（今の区部共有金、およそ10万4473円を支出する）をもって支弁したが、六年（1873年）には水賦金の法を設けて、聞小間（ききこま）に割合課出し、八年（1875年）以降はこれを改めて引取井の数に賦課した。去る明治二十一年（1887年）の賦額はおよそ2万3527円あまりである。これはその概略である。（『上水記』、『東京水道史』、二十一年『東京府統計書』）&lt;br /&gt;
:そもそも、この上水の起立について『上水記』にこうある。明和五子年（1768年）御普請方へ町奉行から請取るときの古い書留によれば、承応元壬辰年（1652年）までは、御城内ならびに御城下、上下水なく、下々では所々の水溜まり・溜池などの水をくみ、樋で仕掛け、取用いて不自由であったので（私見では、赤坂溜池に限らず、ただ水溜まりの池もあっただろう。そうすれば井の頭の池もこの文明にわたるであろうか）、上水道になるべき道筋について、町奉行神尾備前守のお尋ねによって、玉川庄右衛門・清右衛門というもの、両人の父がところどころ求めたところ、武州羽村というところから玉川の水を江戸間で道のり13里を考えた。&lt;br /&gt;
::一説に松平伊豆守の臣なにがしが考えたところである。これによって野火留分水口は格別の堀割であって、古い言い方で伊豆殿堀という。いにしえ伊豆守の家、郡方役人・安松金右衛門の工夫で主人へ申し立て、吟味の上、野火留上水ができた云々という。考えるに、このことは、詳しく明良洪範『老談一言記』などに見える。野火留の水口千二百坪（今は641坪）を引き取ったのを見れば、同所から上流は豆州の開鑿なのかもしれない。&lt;br /&gt;
:御用水になるべき旨、絵図書付をもって評定所に申し出たことにより、御老中 阿部豊後守・松平伊豆守、寺社奉行 安藤右京亮・松平出雲守・神尾備前守、町奉行 石谷将監・牧野織部・八木勘十郎、御勘定奉行 曽根源右衛門・伊丹蔵人・伊奈半右衛門など（庄右衛門・清右衛門書付の趣旨にて記した。御役名などはあえて正さずにおいている）絵図書付の書面これを一覧し、すなわち見分として牧野織部・八木勘十郎・伊奈半十郎、上水道通り、庄右衛門・清右衛門を案内として道筋6日の東流にて見分を済ませ、江戸へ帰参した。&lt;br /&gt;
::考えるに、拝島村農孫右衛門蔵文書に、「玉川から江戸へ取っております水道の両脇を見分して御用となし、伊奈半左・野村彦太・今井九右の手代一人ずつ、ならびに江戸町の年寄を一人、彼の地へ差し向けることにいたしました。そこで、その方も手付を一人出すよう申し出てください。日限につきましては、来月五日の四ツ前に高井土まで集まり、相談なさいますよう申しつけてください。委細は伊奈半左の手代が申します。自然の大雨が降りましたら延期、翌日にまかり出るのがもっともです。以上。二月二十五日　菅源左衛門、石将監、神備前守、松出雲守、設楽権兵衛様」とある。年号はないが、当時の文書であろう。設楽は正保以来の代官である。&lt;br /&gt;
:同年十一月二十五日、評定所で上水道場普請に取り掛かること、両人へ申し渡し、翌巳年四月から堀り初め、同年十一月十五日まで、四谷大木戸まで堀り渡す。玉川から水を仕掛けるべしとの指示で、羽村大川にて堰を仕立て、水を仕懸けるところ、滞りなく四谷大吐まで水仕懸けてきた。それから虎御門前まで、残らず掘り立て、十分に水が来て、その後は追々分水があって、諸方上水を取り用いるということである。&lt;br /&gt;
::考えるに、本文はまったく庄右衛門などの書上によるものである。嚴有院殿実紀には「承応二年正月十三日、麹町区芝口の市人ら、八王子玉川の水を府内に引くことをはかって訴え出たのを許され、費用として金7500両を給う」とあって、少し異なっている。&lt;br /&gt;
:御府内備考にいう。承応記に、三年（1654年）、玉川の流水、日本橋から南は水道を用いるべしと仰せ出されたという。また、寛文年録を引用していう。十年庚戌（1670年）5月25日、玉川水道は狭いため、三間広くいたし、両方の土手に植木を仕るべき旨、御歩行目付 藤井善右衛門・江守伝左衛門、両人を奉行として仰せつけられるとの旨、老中これを伝達し、水道は今後町年寄支配を仕るべき旨、老中がこれを伝達すると。その後、元文五年（1740年）に福生村へ水路310間を掘り替えたとのこと、享保撰要集に載っている。&lt;br /&gt;
::考えるに、竹橋余筆に載っている寛文九年（1669年）の文書に、拝島というところに逗留仕り、玉川から用水分け口、方々見立て、両所の水盛仕りましたところ、小作（考えるに、羽村の小字に「ヲサク」というところがある）と申すところから水盛りが出て、一里半ほど下で、野地から二尺ほど水高くまいりますつもりでございます。ここへ新堀仕ることができましたら、おおかた野中へ残らず用水掛り申すべしと存じ奉ります。またいいます。上水分け口と、このたび、見立て申しました水分け口、高下水盛いたしましたところに、四丈ほど水高いところにて分けますつもりで堀筋の杭を打たせます。上水から四丈ほど水高くまいりますので、どちらへどのように水を取るといいましても自由であると存じ奉ります」とある。すなわち、本文年録に見えるのと同時のことであって、そのころ盛んに武蔵野開墾があった。&lt;br /&gt;
:維新の後も堤防以下、改修を加えたものも少なくない。その最大であるものは第二の水門を石造とし、羽村の官舎（旧時は陣屋があって、作事方の小吏が在留していた。維新の後は東京府の吏員の出張がある）から八王子電信分局へ伝話器を通じて、日々推量の進退を報じ、府内にある樋管は3880余間を展長し（十四年の調）、また伏管は潜樋（川底を通ずるもの）を鉄管に改修し、呼樋も引用者の申請によって、鉄管を用いられる、などである。&lt;br /&gt;
::考えるに、玉川庄右衛門・清右衛門の事蹟を考えるに、おそらくは多摩川の近辺の農人である。『御府内備考』に、承応元年壬辰（1652年）、神尾備前守に命ぜられ、多摩川の百姓らを召して（原註に、庄右衛門・清右衛門という）とある。庄右衛門あるいは正右衛門に作るのは訛りである。また、両人を兄弟としたり、従兄弟としたりするものがあるが、ともに明らかな根拠はない。&lt;br /&gt;
:承応元年（1652年）に町奉行 神尾元勝（備前守）の指図を得て、玉川上水を府内に引いたとき、その費用6000両を賜ったが、右は高井戸の辺で払い尽くしたため、これに継ぐに私費3000余両をもってし、&lt;br /&gt;
::『上水在絶略記』には、はじめ6000両を給わり、自分の入り用1000両を出して、四谷大木戸まで堀割りしたとき、また2000両を給わるとある。御実紀のことはすでに上に註記した。&lt;br /&gt;
::「文」第二冊第四号に、阿部弘蔵氏の「玉川上水の工事」と題した一篇を載せている&amp;lt;ref&amp;gt;「玉川上水の工事」の内容については、本書[[玉川上水の建設者 安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟の失敗]]に詳細がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その中にいう、このころは測量の術がいまだ開けず、量地の器などなかったため、清右衛門兄弟がこの水路の高低を量るには、もっぱら夜に作業をした。役夫に、ほど近いところには線香の火を持たせ、遠いところには提灯を持たせて、かなたへ行かせ、その火の光の見えない場所まで、前に測った場所を基準として尺を当て、ここはあそこから何尺何寸何分高く、このところはあそこから何尺何分低く、この地はあの地より何十尺、左の方により、あのところは何百尺、右の方に傾いている、ということを明らかにし、再三測り、試みて、始めて水路となすべき一つの線を見出し、これを上水の渠と定めたという。とある。実に異聞であるため、ここに付録する。&lt;br /&gt;
:翌年に至って、虎ノ門外まで、水道が完全に開通したので、すなわちその功を賞して、玉川をその姓とし、かつ切米二百石分を金子にて給わって、上水役を命ぜられたが、その後、給知は水役銀に改められたとのこと（享保撰要集、庄右衛門・清右衛門書上。書上そのほかにも、虎ノ門外までのことが見えて、町々へ引き用いた工費のことは絶えて見えない。ゆえに、ある人がいう、これはおそらくは、それ以前に溜池の水を引いていた古い樋があって、これを用いたのであろうと。あるいはこういうこともあろう）。ある人がいうには、庄右衛門らの開鑿はもっぱら上水の用のみならず、かたわら武蔵野を開墾してその灌漑に供すべきためであったのだろう。開墾人の内に玉川次左衛門というものがいる。すなわちその同族の者であろう。&lt;br /&gt;
::『竹橋余筆』に、寛文九年（1669年）、武蔵野開墾の時の文書を載せている。いわく、武蔵野総高合10万9186石余、内5万5000石余、玉川次左衛門ほうじの笹を指切ました分、云々と。下にも往々同人の名が出ているが略する。この次左衛門という者は、もしかして庄右衛門の同族ではないだろうか。もし、やはり同族であるときは、書上に玉川姓を賜ったというのもどうであろうか。それはともかくも、今、多摩川を引き、途中の地形を検査するに、水路はすべて高いところに設け、もっぱら引き取りの便を計った者であることは、すでに上に言ったとおりである。&lt;br /&gt;
:しかし、ほかに明らかな証拠もないので、にわかには臆断できない。庄右衛門は元禄八年（1695年）六月八日に没し、浅草聖徳寺に葬る。法名を隆宗院正誉居士という。&lt;br /&gt;
::浅草松葉町裏町聖徳寺は庄右衛門中興開基の檀那である。墓石二基あるが、一基は台石だけがあって碑石はない。位牌が一座ある。戸主とおぼしきもの、法名四つを題している。その首に本文の法名がある。よって過去帳を閲覧するに、元禄十一年（1698年）以上は佚して存在しないが、その後に没した者の位牌に見えた年月を参照して、庄右衛門の法名であることがわかる。また、これを初代、すなわち上水起立の人と定めたのは正徳五年（1715年）の書上に、「拙者ども親両人」とあるのによって推考される。元禄八年（1695年）は上、承応元年（1652年）からへだたることおよそ44年なので、仮に庄右衛門40歳以下、30歳以上のころ、上水を創開したものと見れば、没年はおよそ70～80歳であろう。ただし、清右衛門のことはすべて考えるところがない。&lt;br /&gt;
:二代庄右衛門、名を知英という。&lt;br /&gt;
::聖徳寺石地蔵の背銘に、尊躯檀主玉川庄右衛門知英とある。この地蔵は元禄十四年（1701年）に土中より首を得たが、宝永八年（1711年）に知英がその身体を補修したものである。この庄右衛門は享保中に没した。ただし、普請役に列したというのはこの人の代であろうか。『新編武蔵風土記』に、初代庄右衛門が直ちに普請役に挙げられたように記しているのは誤りである。普請役は元禄十四年（1701年）に始めて置かれた職名である。&lt;br /&gt;
:三代庄右衛門のとき、元文四年（1739年）八月、本務をおろそかにした罪で、両人とも上水役を免ぜられた。&lt;br /&gt;
::享保撰要集に、両人の罪を得たゆえんを詳しく記している。両人とも、50日戸じめの上に、庄右衛門は江戸払い、清右衛門は水役取り放ちとなった。&lt;br /&gt;
:両家ともはじめは赤坂一ツ木にいたが、その後、芝へ移住し、子孫もいたが、文化・文政間（1804年～1830年）に家が絶えたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この記事では江戸水道の大概を知るに止める。安松吉実の事蹟を考えるたすけにはならないと思うので、その後の記録を採用しない。また、玉川庄右衛門についても、この記事につけていうべきことはあるが、安松のことにかかわらないので、さておく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*12]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/11</title>
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		<updated>2026-07-04T13:37:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十一章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ|）  ==その十一　宗岡の古図==  先年、宗岡・内間木の両村を訪れ、若干の文書絵図も見、古老の昔話も聞きました。宗岡3000石と言っておりますが、正徳二年（1712年）の記録には1600…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十一章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十一　宗岡の古図==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先年、宗岡・内間木の両村を訪れ、若干の文書絵図も見、古老の昔話も聞きました。宗岡3000石と言っておりますが、正徳二年（1712年）の記録には1600石とあります。承応二年（1653年）年貢割付には、高523石2斗3升、寛文四年（1664年）には606石6斗7升になっております。宗岡新田の旧家・市之瀬幸太郎という人が持っている古図では、全村を上中下に三分し、宗岡新田は村の中央にあって中組の場所である。これは白井武右衛門の開墾による、と言い伝えている。伊呂波樋の末端は精進場（本名・下ノ谷）に達する。樋の所在からいえば全く川越領（信綱の采地)で、上宗岡へ灌漑した余りを白井が岡部領へもらったもののようである。白井の新田開発と伊呂波樋の流末を貰ったことは別のことである。とすれば、白井が河越領の用水工事に手を出すはずはなく、またその費用についても2000石の岡部氏に出せる者ではないはずだ。信綱の采地だからこそ、まさに訳書のとおり、安松が伊呂波樋も工夫し、武蔵野開発の規模に沿って働きそうな話であります。東京市史稿は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:白井武右衛門と称する者は岡部忠直の臣である。正保元年甲申（1644年）宗岡村を忠直に賜って采地とした。当時、同村は灌漑の利がなく、水害が多いことを患っていた。この者にそのことを管理させたところ、この者は心を民益に尽くし、堤を築くこと675間、字して佃堤という。もって悪水が侵入したり溢れたりするのを防ぎ、中に新田を開いた。寛文二年壬寅（1662年）、この者はまた松平信綱に請い、多摩川支渠の余水を分けて宗岡村をうるおすことを謀り、巨大な筧を架してこれを通じた。これがすなわち伊呂波樋である。その後、痩せた土地が変じて豊かな地となり、村民は皆その恩沢に潤った。後にこの者が没したとき、民はその功徳を思い、忘れず、文化十年癸酉（1813年）正月、旧観音堂の住僧である浄意が議を発して募縁し、その記念碑を寺の中に建てた。明治三年（1870年）庚午に寺は廃したけれども、五層の石塔はいまもなお存在し、村民は毎年6月14日にその者を祭り、今もなお廃しないという。（武蔵通志）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と付記しただけで、何の弁論も加えていません。これでは伊呂波樋は白井武右衛門が計画し実施したように見えてしまいます。この中で思い当たるのは、岡部氏が正保元年に宗岡村の采地を得たということ。そのほかは、宗岡新田というところと、本村にあるところでは場所が合わない。それを落着させるだけの資料もありませんが、岡部小次郎吉次は正保四年（1647年）8月、1500石の遺跡を相続するときに、部屋住みから召し出されて、すでに500石拝領しておりました。それを合わせて2000石になったのであり、その采地は武蔵の多摩・入間・都筑、甲斐の八代、上総の山辺、下総の香取など六郡の内にあったと申します。白井武右衛門が働きましたのは、前にも申しましました通り、この吉次が家督相続して以後のことと思われます。宗岡新田を開いたのも慶安・承応（1648年～1655年）のときと思われ、まさに野火止用水ができたのを見て、白井が伊豆守家に願い出て伊呂波樋を促成し、その余流をもらったのでしょう。それは自分の計画した宗岡新田が一段落した後でありましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安松吉実の院殿号を解説する事柄は、吉田藩士長坂氏が書いた『自他随筆」に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:久松筑前守御目付の時の公儀日記に、神田上水が出来したとき、安松を公儀よりお頼みのよし、留めてこれがあるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と見え、高士略伝にも「公儀の御帳にもその名がある」と見える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この神田上水については、江戸会誌（第2冊第12号）の上水渠鑿通記事が簡明に大概を尽くしております。寛文政修のことを述べるのに先立って、その要点を抜き書きいたしましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:神田上水は府下三上水（玉川、神田、千川）の第二である。水源は多摩郡吉祥寺村にある井の頭の池（本村と牟礼村の境にある。「井の頭」は「猪の頭」とも書く。これを本流とする）。また同郡上井草善福寺の池から流れ出るものが一条あり、和田村で本流と合する。下井草村妙正寺の池から流れ出る井草川があり、落合村に至って本流へ合する。および、玉川上水を代々木村から分流するものが角筈村の淀橋の下で本流に入る。以上三派はともにその助水である。&lt;br /&gt;
:この水は、高田を経て関口（ここまでは旧来の川筋で、白堀から以下はアラタに開鑿したものである）に至り、分れて2派となる。一つは大洗堰を下りて江戸川となり、一つは水門から目白台下にある白堀に入ってすなわち上水となる。水源からここ（花水橋以上）に至っておよそ5里26町15間とする。これより小日向・小石川の台下を経て（むかしは花水橋から工廠構外までは白堀だったが、明治十年に巻石蓋を設けられた。およそ859間3尺である）、砲兵工廠の内を通じ&amp;lt;ref&amp;gt;現在の小石川後楽園&amp;lt;/ref&amp;gt;、はじめて伏管に入り、水道橋の東において懸樋で神田川を横断する。ここから東はすべて伏管であって、縦横に通流するものが百千条に分かれる。南は京橋川以北、東は永代橋から大川以西、北は神田川を限り、西は大手町から一ツ橋の外に至るまで、すべての町で流通しないところはなく、引用していない家はない（上水記、上水在絶略記）&lt;br /&gt;
:樋管の延長はおよそ3万6452間（呼樋はここに含まない）。井の数はおよそ3663であり、そのほかはすべて玉川上水と異ならない。考えるに、この上水ができたのはその年代が明らかではない。東照宮（家康）が吉祥寺の池水を茶の湯に使われたがゆえにお茶の水と言う、ともいう。また、台徳公（秀忠）が上水開発を命ぜられたとき、大僧正天海に修法させたところ、清水が七か所から湧き出たので七の井と名付け、府内へ引いた後は「七の井は神田の井の頭である」という命があって井の頭と称すともいう（上水記、上水在絶略記、四神地名録、水元役茂十郎書上、また一説に古名「御矢の水」というともいうが出所は不明）。&lt;br /&gt;
:また、大猷公（家光）のとき、堀割したとも、寛永六年になったとも、寛永六年に始まったともあって（事蹟合考、江戸砂子、府内備考）、みな一定しない。&lt;br /&gt;
:今考えるに、諸説はたいてい土地の人の伝説、または後人の付会などに出て、一つも信頼できるものはない。&lt;br /&gt;
:そこで他書を検索すると、『大猷公実記』寛永元年四月五日の条に、松平下野守忠郷の邸（今の永楽町二丁目一番地)&amp;lt;ref&amp;gt;松平下野守忠郷は蒲生忠郷。麹町区永楽町二丁目一番地は現在の千代田区大手町一丁目と丸の内一丁目の境界付近に当たる。&amp;lt;/ref&amp;gt;にはじめて臨駕があった云々。池には樋で玉川の水をせき入れていたため、波が広くて大河かと疑ったという。ここでいう「玉川」は神田上水の誤りであって、後世、玉川上水の開鑿があったために混じってしまったものである。しかし、これによって、この上水ができたのは寛永以前であることがわかる。&lt;br /&gt;
:また、寛永二年に大猷公が佐々与右衛門実時に賜った米印状に、武州豊島郡関口村30石8斗、潮川村24石2斗云々とある。関口村は今の関口町&amp;lt;ref&amp;gt;文京区関口&amp;lt;/ref&amp;gt;のあたりであって、その昔、堰を設けて上水をせき上げたことからこの名が起こったものであるが、寛永の初めにすでにこれを村名に付けていたことから、上水ができたのは寛永よりはるか以前であることがわかる。&lt;br /&gt;
:とすれば、さらにいつの経営であるかということになるが、これはおそらく徳川家東遷の初期にできたものであろう。そのことは菓子司大久保主水由緒書に、先祖藤五郎忠行、入国の時に、江戸において水の手を見立てるべき旨の東照宮の命を受け、小石川の水道を見立てたことにより、その賞として名を主水とたまわり、さらに水は濁りを嫌うものであるため、主水（もんど）を澄んでモムト（もんと）とよぶように命があったため、歴代もんとと称しているということが見える。この小石川水道はすなわち今日の神田上水であることは疑いようがない。（町年寄旧記に、神田上水のことは御入国以来、猪の頭の池水を御公儀御入用をもって水道に仰せつけられ、町奉行御支配であって、その御用向きは拙者どもへ仰付られた。上関口・小日向・金杉の三か村、拙者ども三人の御代官に仰せつけられ、御年貢取り立て御勘定申し上げます云々とある。これは正徳四年八月の書上である。ただし、この上水を大久保の開鑿であろうと言うのは、江戸図解集覧をはじめとして数書に見えるもので、もとより私が言い出した説ではない）&lt;br /&gt;
:しかし、府内で、この水道はついに成功しなかったのだろうというのはまちがいである。もし成功していなければ、何をもって東照公は、主水の名を賜ってこれを賞せられたのであろうか（鉄砲師宗八郎に胝（あかがり）氏を賜った例などから推して知るべきである）。また『慶長見聞集』「江戸町水道の事」の条に、「町ゆたかに栄えるといえども、井の水へ塩が入り、万民これを嘆く。君はこれを聞かれて民を憐れみ、神田山岸の水を北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、この二水を江戸町へあまねく与えられた」とあることをもってそれ以前に水道がなかった証拠とする者もいるが、これはまったくそうではない。この神田山岸の水はすなわち神田上水の委流であるはずだが、年月が経っているため、三浦浄心がたまたまその伝を失って、神田山から湧き出た一脈の水泉と誤認したものであろう。ゆえに私は図解集説などの説に賛同し、この上水はすなわち大久保が開通したものであって、天正年中にできあがったものであると断定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この考証によって、神田上水は天正年中に開鑿したもので、江戸の最初の水道であることがわかります。すなわち、天正日記に、「十八年七月十二日、藤五郎まいられた。江戸水道のことを承る」とある。その神田上水は、武蔵野地名考に「その後、万治のころ、江戸川堀割ができて、小石川に掛樋以来、広大な用水となったとある。それはお茶の水の鑿通によって神田川・江戸川の流域が変更したときに、神田上水の小石川掛樋ができたのです。お茶の水鑿通は伊達陸奥守綱宗が、幕命を受けて、万治三年二月から寛文元年四月まで、14か月がかりで竣功いたしましたから、神田上水改修は寛文元年のことです。この改修は井の頭ほか二か所の水を玉川上水の補水にしたので、牟礼村から小石川まで、樋がなくて流れる。これを白堀（しらほり）と申しました。訳書にこの白堀の計画を安松が立てたと言っております。自他隨筆に幕府から安松をお頼みになつたというのは、この事を指したのでしょう。幕府が諸藩の家来に直命することは、はなはだないことですが、誰もが知っている例は、吉宗将軍が郡山藩（柳沢）の儒学者である荻生惣右衛門に命じて、六諭衍義の和解をさせ、また、諮問に答申させたことがあります。こういうような場合に、藩中では格別な扱いをいたします。その別扱いが死後にまで及んで、院殿号などということもあるのです。そのことごとくがそうなるわけではありませんが、若干の例はございます。江戸時代には寺院の方でも、なかなか厳重でしたし、ことに藩中が格別なことを傍観しておりません。何の理由もなく院殿号などをつけたら、ただちにその家は処分されます。しかし、金右衛門吉実に院殿號をつけたことについて、つけてよい理由があっても、ただいまその証拠とすべきものは何もないのです。誠に残念でなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛文二年、信綱の嗣子輝綱が家督をつがれたとき、川越へ遣わされて、郡代にされたといえば、彼が隠居退職した年次はわかりませんが、伊呂波樋などの工作が最後の御奉公であったのかもしれません。彼は貞享三年十月二十四日に没しましたが、年齢は知れません。正保以来、二代の主君に仕え、前後四十余年の御奉公を全うしたのであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十年前から、野火止開発の調査に着手いたしましたが、何分にも当村の資料が得られません。今日においても探索を怠ってはいないつもりでありますが、いかんともし難いことになっております。金右衛門吉実の事功は野火止用水については確認されます。伊呂波樋になるともう十分でなく、玉川上水については根本資料がないといわれ、寛政三年に御普請奉行上水方石野遠江守広通の上水記には一説として書いてあり、その後享和三年に御普請奉行水道方佐橋長門守佳如が肯定した小島文平の玉川御上水之起原並野火留分水之訳書には、金右衛門吉実が三度目の設計によつて、ようやく玉川上水工事が成功したことが明白に記述してあります。石野、佐橋は当職の役人で、うろんなはずもないと思いますが、川越運河の方は全く歯を没して語る者なしという有り様で、私は今後も安松氏の功績に対して、報恩謝徳のためにも、ぜひその事跡の鮮明に勉めようと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*11]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/10&amp;diff=364</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/10</title>
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		<updated>2026-07-04T10:46:34Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十　金右衛門の経歴==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　安松金右衛門は六万石の川越藩に出仕したのですが、そのときはまだ信綱が武蔵野開発の腹案を実現しようとして、高のない原野を五千石のつもりで拝領いたしたという正保四年（1648年）の御加増以前であります。伊豆守家の分限帳に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松林院様（信綱の法諱）御代&lt;br /&gt;
::本国・河内　生国・播磨　安松金右衛門吉実&lt;br /&gt;
::正保元庚申年（1644年）　月日不明、御代官・能勢四郎右衛門殿の御肝煎にて召し出され、御蔵米百俵を下されました&lt;br /&gt;
::慶安元戊子年（1648年）　月日不明、知行百石の高にお直し下されました&lt;br /&gt;
::年月日不明（万治元年（1658年）十一月）上野御修復御用をおつとめになられたとき、元締め役を仰せつけられました&lt;br /&gt;
::年月日不明、御加増三十石と七十石、二度下されて、都合二百石の高石に成し下されました&lt;br /&gt;
:智光院様（二世輝綱の法諱）御代&lt;br /&gt;
::年月不明、御家督のとき（寛文二年（1662年））川越へ遣わされ、郡代を仰せつけられ、御徒格の手代一人お預けになり、格式は独礼の格に仰せ渡されました&lt;br /&gt;
::年月不明、極めて老いられたため、御役のことを差し上げ、悴・金右衛門を代番に差出したく願い奉りましたところ、御役御免となり、悴・金右衛門に代番を仰せつけられました&lt;br /&gt;
::貞享三丙寅年（1686年）十月二十七日　病死なさいました&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。しかし、万治元年の松林院様御分限帳も同文の記載ながら、本国・河内、生国・摂津とある。本藩（三河吉田）高士略伝にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:安松金右衛門吉実は、本国・河内、生国・播磨にて、算術の達人である。正保元年甲申年（1644年）御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎によって、松林公に奉仕した。現米百俵賜り、後に百石になり、三十石・七十石、二度加増されて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。高士略伝は古くない書き物ですが、後々までも安松の生国を播磨としていたことがわかります。最初は代官に従属する元締めとして任用されたのでしょう。安松を推薦した能勢四郎右衛門は島原の陣（島原の乱）の糧食方を承った御勘定方で、信綱の出征に従った人です。この四郎右衛門は頼安と申して、正保元年（1645年）十二月二十五日に退職し、翌年十二月二十七日に死にました。その引退のときに配下の安松を伊豆守家へ推薦したとみえます。しかし、訳書には大河内金兵衛の配下の小畑・安松を推薦したと申してあります。この金兵衛は久綱といって、父金兵衛秀綱の職を継いで、永く代官を勧め、寛永十五年（1638年）十二月五日に士官をやめ、正保三年（1647年）四月三日に七十七歳で没しました。この金兵衛久綱が伊豆守信綱の実父であります。『埼玉史談』が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽生領代官として大河内金兵衛が赴任された時代、すなわち文禄三年（1595年）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのも、また、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:金兵衛様より二合半領の内、新田開発、弾左衛門（酒巻）へ仰せつけられ、首尾よく成就。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのも、伊豆守信綱の父・金兵衛久綱のことです。訳書がいう、金兵衛久綱が峡田領・川越領の代官であったという証拠は見られません。また、その時に遣わした手代のうちの才能ある両人を推薦したという。両人はたしかに信綱の武蔵野間発を補佐したのに相違ありませんが、両人は同時に推挙されていません。伊豆守家の分限帳には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::本国・丹波　生国不明　小畠助左衛門正盛（初名　助十郎）&lt;br /&gt;
:松林院様&amp;lt;ref&amp;gt;松平信綱。院殿号は松林院殿乾徳全梁大居士。家督は1628年～1662年&amp;lt;/ref&amp;gt;御代&lt;br /&gt;
:*寛永八辛未年（1631年）、月日不明、小島六太夫が申し上げ、御近習へ召し出され、御宛行二百目、二人扶持、四度御仕着（衣服の支給）を下されました&lt;br /&gt;
:*同十四丁丑年（1637年）12月、島原御陣への御供を仰せつけられ、御帰陣以後、御納戸役を仰せつけられ、新知百五十石を下されました&lt;br /&gt;
:*年月不明、御徒大頭を仰せつけられ、御加増百五十石、合計三百石下されました&lt;br /&gt;
:*年月不明、御奏者番を仰せつけられ、御加増百石下されました&lt;br /&gt;
:*年月不明、御家老を仰せつけられ、御加増二百石、合計六百石下されました&lt;br /&gt;
:神龍院様&amp;lt;ref&amp;gt;松平信輝。院殿号は神龍院殿天遊宗見大居士。家督は1672年～1709年。&amp;lt;/ref&amp;gt;御代&lt;br /&gt;
:*延宝八庚申年（1680年）閏8月6日、川越の勝手（経営）を仰せつけられました。&lt;br /&gt;
:*天和三癸亥年（1683年）10月25日、お役目の御免（引退）を願い出ておりましたところ、隠居を仰せつけられ、せがれ助左衛門に家督を滞りなく下しおかれました。また、隠居料として百石を下し置かれ、楽幽と名を改め申しました。&lt;br /&gt;
:*元禄十乙亥年（1697年）9月3日、病死いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　はっきりと小島六大夫の推挙とある。分限帳に従って、安松は能勢、小畠は小島の推挙とすべきであろう。助左衛門の出仕は早く寛永八年にあって、金右衛門とは十四年のへだたりがあります。旦那の信綱も1万5000石の身上で、助左衛門が出仕した後、三年月目に忍の城主になりました。それゆえに助左衛門も側小姓として出身したので、誰の彼のと物々しい推挙を待つほどの事ではない。寛永八年から天和三年に隠居するまで、53年間の長い奉公をしたのです。金右衛門も年齢がわかりませんが、この人も年齢がわかりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　金右衛門は5年奉公して、慶安元年（1648年）に百俵を知行百石に改められました。川越の運河、あの内川改修が正保元年とすれば、安松金右衛門の奉公の初めに当たる。&lt;br /&gt;
それをたしかめる証拠が出てまいりませんが、百俵から百石に転じ、蔵米取りか知行取りになったことは見逃しがたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　弟の金太夫が召し出されたのは、金右衛門が知行取りになった翌々年です。分限帳に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::（本国河内・生国播磨）安松金太夫吉茂&lt;br /&gt;
:松林院様御代&lt;br /&gt;
:*慶安三庚寅年（1650年）月日不明、召し出され、御代官を仰せつけられ、知行70石下し置かれました。&lt;br /&gt;
:*寛文八戊申年（1668年）4月19日、病死いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、藩臣家状にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:安松&lt;br /&gt;
::慶安三年庚寅（1650年）月日不明　奉仕&lt;br /&gt;
::天明二年壬寅（1783年）まで133年&lt;br /&gt;
::金太夫吉茂、その子・八郎右衛門吉房、その子・金太夫安茂、その子・金助安一（60石　近習目付兼小納戸馬廻格）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある家です。この家は今日も豊橋にあつて、同所の全久院が菩提所だと聞いて往訪したが、古い碑石はない。それもそのはず、伊豆守家は川越から下総古河へ、古河から吉田（豊橋）へと転封し、藩中も従って転じたので、当所には正徳三年（1713年）7月、吉田へ就封以後の墳墓があるはずもない。全久院の過去帳に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:聖徳院緑靄宗竹居士　寛文八年（1668年）4月15日&lt;br /&gt;
:玉容院芳衣妙珍大姉　万治四年（1661年）5月10日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは忌日が分限帳と合っていないものの、初代金太夫夫婦であろう。もちろん、碑石なし。その家にも記録がない。ただ開くことができたのは、安松の本来の在名は神吉氏であって、古い具足櫃などには神吉氏と書いてあったという。総見記や太閤記で知られるようになった播州三木城主・別所長治、華々しい中国攻略のときに信長は神吉・志方の表へ押し寄せ、両城を攻め破り、その上で三木城へ取り詰めて、適切にせよと命令した。神吉城はついに天正六年（1578年）5月16日に落ちましたが、守将・神吉民部少輔はよく戦ったものの、伯父神吉藤太夫に謀られて討たれたという話があります。神吉と書いてカンキとよむ。金右衛門はこの一族だったのでしょう。それゆえに民間に流落したばかりか、旧里を出て東国へまで彷徨するようになったのでしょう。安松の生国が播州、もとの苗字が神吉ならば、別に詮索せずともわかることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　弟の金太夫の方はそれまでにして、兄の金右衛門の世代を尋ねてみる。これは新宿の大宗寺が菩提所で、当主は安松勝二、金右衛門から11台目、現在は横浜に住居。過去帳には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四年（1648年）6月14日　光岳院頓譽相得居士&lt;br /&gt;
::安松九左衛門&lt;br /&gt;
:貞享三年（1686年）10月27日　玄洞院殿欣譽浄秀居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門吉実&lt;br /&gt;
:享保二年（1717年）6月16日　喚迎院遣譽容玄居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門吉政&lt;br /&gt;
:元文三年（1738年）2月9日　豈方院西譽遣立居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安之&lt;br /&gt;
:文化三年（1806年）12月1日　転心院輪譽法山居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安寛　88歳&lt;br /&gt;
:文化十三年（1816年）9月2日　速了院宝譽巍冠居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安政　68歳&lt;br /&gt;
:文政十一年（1828年）7月1日　光円院大譽即相居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安邦&lt;br /&gt;
:明治十九年（1886年）5月1日　豊徳院仁譽安民居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安民　77歳&lt;br /&gt;
:同三十七年6月14日（1904年）　大智院叟譽知新居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門新（アラタ）　78歳&lt;br /&gt;
:大正十三年（1924年）10月8日　安寿院楽茲心光居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門事（ツコウ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。九左衛門は金右衛門の父であろう。この父は金右衛門が主取りして、4年目に没したとみえる。この初代金右衛門以来、その前にも院殿をつけた法号はありません。江戸時代には旗本衆でも、叙任した者に限っていました。大名衆は皆従五位下朝散大夫ですから院殿号でしたけれども、御家人衆はもちろん、旗本衆でも何の守とかいわない運中には、院殿号はありません。まして諸大名の家来は、陪臣といって禄高にこだわらず、幕府直参の者よりも一段格の下ったものに扱っていました。ただし、加州とか薩州とかいった大大名の家老には、任官する者が若干在って、何の守になっているのがある。それは別段のこと。伊豆守家は7万石、大諸侯ではありませんから、家老にも何の守はない。金右衛門はわずか200石、陪臣でなくても院殿号などはもってのほかの話。その彼がただ一人、十代にわたって院殿号をつけている。伊豆守家7万石の藩中にも、彼のほかに院殿号をつけている者ははに。これについては大いに話があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて大宗寺の墓を見ると、一塔は九右衛門以下の法名が彫りつけてあって、倶会というのです。分限帳の記載によれば金右衛門吉実は、川越へ退老したので、同地で没しているはずです。しかし、川越には安松家の墓所がありません。主家が再三転封しているので、そのたびに墓所を移すこともできなかったのではあるまいかとも思われる。何にせよ、誰も安松金右衛門の墓が大宗寺にあるのを知りません。あるいは埋没しないともいえない。そこで野火止水利組合へ通知し、伊豆守家の菩提所である平林寺へ協議し、両方の力を借りて、昭和十年（1935年）の初夏に、大河内子爵家の許諾を得て、同家の塋域（墓地）の側近に彼の墓を移し、永久に野火止水利組合が供養をすることに定めました。古い碑石を新宿大宗寺から移すのですから、同寺の了解を求め、当主・勝二氏と一族の同意を得て、新しい碑石をこしらえ、大宗寺の旧位置へ樹立いたしました。お話は玉川上水へ戻ります。例の上水記を改めて読みますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:ふるい書留にいう。承応元壬辰年（1652年。原註：寛政三年までおよそ140年）までは、御城内ならびに御城下、上水道がございませんでしたので、下々にてはところどころの水たまり、溜池などの水をくみ、樋で仕掛けて取ることになっており、不自由でございました。そこで上水道になりうる水筋について、町奉行 神尾備前守様のお尋ねにより、玉川庄右衛門、清右衛門という者、両人の父（東京市史稿は、二代庄右衛門・幼名三十郎、三代庄右衛門・幼名長六、ともに初代の子であって兄弟である。正徳五年の書き上げは三代庄右衛門の提出した者であろう。そうであればここに父というのは初代庄右衛門を言っているのであろう）ところどころ求めていたところ、武州羽村というところから、玉川の水を江戸まで道のり13里、水盛を考えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここの原註は大いに留意すべきものでありますから、煩わしいようですが、特筆しておきましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一説に、松平伊豆守の臣何某が考えるところである。これによって野火留分水口は格別の堀割であり、古い言い方で伊豆守殿堀という。また言われているのが、いにしえ伊豆守の家、郡方役人・安松金右衛門が工夫して主人へ申し立て、吟味のうえ野火留上水が出来たという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「松平伊豆守の臣何某が考るところである」で文が切れています。すなわち、玉川上水の水盛は伊豆守の家来が考えたというふうに読めます。次いで、「これによって」というのですから、「玉川上水の水盛をしたことによって」ということになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この一説に付随して起こってくるのは「野火止用水工事同時説」でございます。川越史料には「承応二年（1653年）から」とあり、埼玉県志には同三年（1654年）からと書かれていますが、野火止宿開発根本之覚書には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応三未年（1654年）、今から49年前、小河村の西の方から江戸御用水を分けくだし置かれました。川道は野火止宿まで四里でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあります。しかし当時の見聞を書きつけました榎木弥左衛門『万之覚』には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:明暦元年（1655年）二月十日ごろより野火留用水開鑿。三月二十日に至り、水道を通す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と明記してあります。こちらが正しいと思われる。承応四年は改元して明暦元年ですから、承応三年六月二十日に玉川上水が成功いたしまして、翌年の三月に野火止用水が落成しました。その間が八か月あります。決して同時ではありません。その間違いは玉川上水路踏査と野火止開発とが、ともに承応元年であったから起こったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武州新倉郡野火止宿開発、承応元年巳歳（1652年）に始まる。今年・酉の年まで52年になります（開発根本之覚）　この年（承応二＝1653年）春から八月中まで、野火止新田に54戸移住する。（榎本万之覚）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などによって紛れたのであろうと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから、安松が万治元年（1658年）に幕府から拝領物をいたしたこと、江戸時代には陪臣が幕府から拝領物をするなどというのは希有なことでもあり、容易ならぬことでもありました。それは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:万治元年十二月二十日、東叡山大猷廟慈眼塔修補の御手伝い、輝綱がこれを監し、そのことにかかわった家臣らにものを賜った。（家譜）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「家臣ら」の中に安松が加わっていたことは、分限帳の記載でわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:年月は不明。上野御修覆をお勤めなさったとき、本締役を仰せつけられました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるので、金右衛門がそのことにかかわった川越侯の家来の一人だったことを証拠立てます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*10]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/09&amp;diff=363</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/09</title>
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		<updated>2026-07-04T10:45:40Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第九章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その九　悲しい水喰土==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小島文平が享和三年九月、御普請奉行（水道方）佐橋長門守佳如へ提出した『玉川上水堀割之起発並野火留村引取分水口訳書』は、新しいものでもあり、その家の申し伝えと土地の口碑にあることを取りまとめたものであって、安全な資料ではないという人もあります。私は、[[松平信綱]]を玉川上水工事の総奉行であったという記載について、宮崎成身の『国字分類雑記』、植田孟縉の『武蔵名勝図会』を傍証として、肯定いたしましてから、訳書が指定をしております玉川兄弟の蹉跌（失敗）の証拠、再度の設計失敗の跡を踏査して、安松の玉川上水についての事功を顕揚しようと思い立ちました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川兄弟の最初の計画は、多摩郡国分寺村真姿の流（川越線細田の真姿弁天を祀っている祠の下の池）を取り入れるつもりで、日野の渡（現在は日野橋）の下から府中八幡下へ引き込み、狭山の筥が池の流れも谷保村地先で合流させて、四谷大木戸へ向って水盛を渡したところ、八幡下の御滝で流筋低く、誘導してきた水はそこから涸れ、字金泥（府中町谷戸の南端)へ落ちてしまう。地字は金尻であるけれども、地元では「カナシイ」と呼び、同所の坂道を「悲しい坂」と言っております。今も日野橋の下から、府中の入口、堰屋塚まで二十余町の堀敷が、途切れ途切れではありますが残っております。玉川兄弟第一計画失敗の証跡として残っている古堀敷を、土地では新堀（しんぼり）または空堀（からぼり）と言っております。土地の言い伝えでは、承応の頃、神代村の瀧坂の辺まで掘り、試みに水を引き入れたところ、現在「悲しい」と称するところへ来て、幾度も堤塘が崩壊して、不成功に終わり、そのために役人がその責任として処刑されたと伝えております。それゆえ、この「カナシイ」の地名が起ったと言います。今でも祝儀の際などはこの道を通らないと、府中史談会長・猿渡盛厚氏から聞きました。土地の伝説と小島の『訳書』と、廃渠とをもって、十分に証拠となっております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府がこの工事の着手を命じたのは、承応元年十一月十五日で、翌二年二月十日に（『徳川実紀』）伊奈半左衛門が上水道奉行を仰付けられました。あるいは（『徳川実紀』）伊奈半十郎を水道奉行にした、ともあります。『上水記』でも評定所の連名に伊奈半左衛門があり、見分に出かけた内に伊奈半十郎があります。半十郎忠治は伊奈備前守忠次の次男で、承応二年六月二十七日没、半左衛門忠克は半十郎忠治の惣領、正保二年八月十日から御代官を勤めております。忠克は承応二年十二月二十二日に遺跡相続し、父に代ってその職を嗣いだ、と書かれています。承応二年二月十一日に水道奉行になつたのは親父の半十郎忠治で、見分に出掛けたのは息子の半左衛門忠克です、水道奉行の半十郎忠治は四月四日に起工して、六月二十七日には死んでおります。息子の半左衛門忠克がその父の職を嗣いだ十二月まで水道奉行が欠けており、見ようによっては水道奉行が二人あったかとも疑われます。この半十郎忠治の死が「悲しい」の伝説に上（かみ）役人が一人切腹したというのに関係ありそうです。また、羽村の水神祠にも、工事に関係して切腹した人を祭ったという地元の話がある。半十郎忠治は六十二歳で没したので、普通の老衰と思われる。上水工事失敗は必ずしも水道奉行である彼が責めを負わなければならないということもないでしょうが、結局、工事の失敗がなければ、そうした俚談俗説も出ては来ないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、第二の計画は、さかのぼって福生村地先から引き入れて、四谷大木戸へ水盛して、堀割も済み、いよいよ水を仕掛けて見ると、熊川村地内で引いて来た水がことごとく地中にしみこみ、流れるどころでない。その場所を、今日でも「水喰土」と書いて「ミヅクラヒド」と読む一つの地字を残した。旧知の八王子史談会長天野佐一郎氏に頼んで、福生村の宇新堀、廃渠のあるのは同村の南北隅、羽村から川崎へ寄ったところ。幅五間ほどの古堀敷が、長さ四町ほど残っています。水喰土は拝島駅から西北へ五町ほど距てて、左側が低く右側が高い土手が大凡五間ぐらい残ってをります。堤上から南望すれば、畑地は古堀敷よりもはなはだ低く、高く築いた土手からは十間も差があるように見える。さうして現在の玉川上水は水喰土から二町足らずのところ、熊川村の地元、八高線を隔てて北を一秒三尺の水勢で流れているのを見分させてもらいました。『武蔵名勝図会』にいうところの、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:福生村の西、多摩川畔に上水口址と称する堰の跡がある。地元の話では、はじめこの地から流通させようと定めたが、不便なことから今の地に改鑿したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これです。この記載は、面倒なことを避けて、暴露はありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これで、玉川兄弟の設計は、二度とも失敗したことは疑いない。小島文平の訳書は新しいものでもあり、口碑伝説を集めたものに過ぎないといわれても、祖先信綱の遺風で、旧吉田高崎両藩主の家に何も残されていないとすれば、根本史料などというものは、将来にも出て来そうもない。口碑伝説だからだめともいえまい。後に書いたものだからだめともいえまい。我が国には古事記があるではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の施設については、安松金右衛門の事功を疑う者はない。玉川上水は清右・庄右兄弟が水脈を見立てた功はないとはいえないが、工事設計は二度までも失敗している。このとき、金右衛門が川越侯の命を受けて、三度目の設計をしたという、端的な証拠がないという。そこで安松の身上について、多少の考察を試みましたところが、これもまたわからないことだらけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*09]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/08&amp;diff=362</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/08</title>
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		<updated>2026-07-04T10:44:42Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第八章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その八　川越運河==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　川越と江戸とをつなぐ[[新河岸川]]の漕運。奥州道中・木曽道中から外れたこの都会は、江戸へ水上二十里の漕運が開けていたために、中武蔵・奥武蔵への物資が、ここから出入するので、商売も繁昌し、土地も賑やかでありました。それは新河岸川の恩恵であります。この新河岸川について、川越史科は大体を『[[新編武蔵風土記稿]]』にしたがって、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保元年、この年のころ、新河岸川舟を通じる&lt;br /&gt;
:〔風土記〕入間川総説。新河岸川。（上略）この漕運の便宜は、いにしえの川越領主伊豆守信綱の時から始まった。その年代は正保元年（1644年）とも、また寛文二年（1662年）であるともいう。考えるに、榎本『万之覚』に三年すでに舟便云々と記されている。今、正保元年説に従う。&lt;br /&gt;
:〔同〕上新河岸。この村名は正保ノ改には見えない。元禄に至って始めて見えるので、その間に開けたのだろう。これ以前、御打入の後、ようやく土地が開け、川越城近郷の運送の便をよくするため、これを舟着き場とし、新たに河岸場を開いたため、新河岸と名を記すという。村名を上下に分けたのは、新河岸川水流によって分けたものである。寛文二年四月二十四日に造られた石地蔵の後光に沢田甚右衛門尉が始めてこの河岸を開いたことが彫られている。&lt;br /&gt;
:〔同〕下新河岸。慶安の水帳に新河岸と記され、元禄六年の水帳には下新河岸と記されているので、これ以前に上下の名が分れたのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と言っておりますが、榎本弥左衛門『万之覚』には慶安五年（承応改元、1652年）に、川越の家老・深井藤右衛門が、建築材料を舟廻しにしたことはあるが、まだ新河岸という名前はない。新河岸という名は承応二年（1653年）以後になって書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新河岸川と呼んでいるこの川は、川越市の東方、芳野村の伊佐沼（旧四十一町歩、埋め立て十三町歩、現在二十八町歩）から、市の南を流れ、仙波を経て新河岸に達する。この間一里五町、これを九十（ぐじゅう）川という。ここから[[新倉]]で荒川へ合流する。新河岸～新倉の間は四里半、川勢は屈曲、まがりくねって俗に九十九曲りと呼ばれる。昭和六年三月、新河岸川改修工事が成って、九十九曲はもう見られない。屈曲を除いて水流をまっすぐにし、旧航程の半ばを短縮した。そのため、今日は舟楫を通じることができなくなった。寛永十六年、松平信綱が川越城主となるや、まず当所の水利を考え、早く運河の計画を定め、この河川の改修工事を成したようである。船着の便宜を考えて、発着に利があるようにと新河岸を開いたため、運河ができてから数年の後にできたのだろう。運河峻成当時は、おそらく新河岸はなかったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この運河の工事はだれによって成功したのか、ほとんど話にも出ないありさまですが、誰かこの仕事に当たった人がいなければなりません。しかし私はただいま、前にも引用いたしました小島文平の訳書にある、小畑・安松の両人が川越まで内川の通船に成功したという、その記載を繰返すより外に、何も持っておりません。伊佐沼～新河岸間を流れていた九十川を改修し、さらに新河岸から新倉で荒川へ合流させる内川水路を治定した功績は、伊呂波樋の巧妙な施設と共に、だれの手腕によったかを究明して、その報恩・謝徳を怠ってはならないでしょう。しかし信綱の流儀で、文書等を遺しておりませんから、この運河の膨大な恩徳は、当該地方だけでなく広くこうむっておりますのに、誰が働いて工事を成しとげたのか全くわかりません。もし詳しく調べたら、安松金右衛門が民政に寄与した功績がほかにも多くあるのではなかろうかと思います。この穿鑿は、今後長く、川越市がやるべきことでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新井白石の『紳書』に、「信綱が金右衛門に命じて、多摩川の水を十六里引かせて新河岸に達せさせようとした」というのは、玉川上水を分けて[[野火止用水]]、その野火止用水の流末を[[宗岡村]]へ[[伊呂波樋]]で誘い、遂に新河岸川へ落ちることからの間違いで、玉川上水は玉川上水、野火止用水は野火止用水、伊呂波樋は伊呂波樋、川越運河は川越連河で、それぞれ別々のもので、最初から玉川上水の末を荒川へ落とすように計画したのではありません。決していちどに十六里引水したのではありません。この際、まさにこの事を論じておきましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*08]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/07&amp;diff=361</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/07</title>
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		<updated>2026-07-04T10:44:29Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第七章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その七　引又の伊呂波樋==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の末流をどのように作用させたかを知るには、[[引又]]（現在の埼玉県入間郡志木町&amp;lt;ref&amp;gt;志木町は入間郡ではなく、この時期には北足立郡に所属している&amp;lt;/ref&amp;gt;)の[[伊呂波樋]]を説明するのが一番よろしい。この樋は千貫樋とも呼ばれて、六十の箱樋を継ぎ合わせて、百二十間の長さがある。多摩那羽村から当所までは九里あります。いうまでもなく玉川上水あっての[[野火止用水]]、野火止用水あつての伊呂波樋です。宗岡村（埼玉県入間郡）誌に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応二年、川越の城主[[松平信綱]]、多摩川上水工事竣功賞として、幕府から水量三分の一を信綱に賜わった。信綱はそこでその分水を、領地武蔵野新田の飲料に供しようとし、家臣・[[安松金右衛門]]に溝を掘らせ、新河岸川に達した。長さ六里余、俗にこれを伊豆殿堀という（諸書に散見されることは少し異なるけれども、古書類によって記す)。寛文二年、上下[[宗岡村]]は幕府の直轄となり、幕臣・岡部忠直がここを支配した。家臣・白井武左衛門は、本村が用水に乏しいことを憂い、多摩川上水の分水末を利用する計画を立てた。幸いにも宗岡新田村は信綱の領地であるため、侯に説いて許可を得、分水末（志木町）から巨大な筧を新河岸川上に架した。長さは百九十七間で、本村の字・精進場に達した。全村は今もその余慶に浴している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この伊呂波樋は野火止用水が引又で新河岸川へ落ちてしまうのを、そこで落とさずに宗岡村へ引くために、新河岸川を跨がせるためのものです。川越史料が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この年（万治二年（1659年））松平伊豆守、岡部佐兵衛に命じて、野火止用水を引股から掛樋により新河岸川上を経て宗岡村に引く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といい、それに『[[新編武蔵風土記稿]]』を一部引用して附記してあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:宗岡村用水、松平伊豆守、岡部佐兵衛が知行だったころ、万治二年玉川上水の分水を新座郡引股から掛樋で新川岸川の上を通し、村内およびこの辺のところどころの水田にそそいだ。その掛樋の継ぎ合わせた数が四十八あるので、伊呂波樋と呼んだ。&lt;br /&gt;
:新座郡（もとは新倉郡、元禄の時代に新座郡となり、現在は入間郡&amp;lt;ref&amp;gt;三田村鳶魚はどうやら当時の新座郡エリアが入間郡に編入されたと勘違いしていたようだが、実際には北足立郡に併合されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;）舘村の伊呂波樋は、新河岸川に架して、対岸宗岡村境の上に至る。引又橋の並びで西の方にある。長さ百二十六間あまり、幅二尺あまり、四方ところどころで継ぎ合わせている。その数が四十八あって、長さ九十六間、幅は筧と同じ。中央に高桝二つを設けている。これは水をたたえて激流とし、高いところにのぼらせる工夫である。この埋樋と筧とを合わせて二百二十二間一尺ある。農時には水をせきかけて、入間都の内の諸村の水田へそそぐ。言い伝えに、松平美濃守（柳沢吉保）が川越の地を領していたとき、領地入間郡宗岡村の辺、諸村の水利が不便であることを憂えて、当村の用水の余流がむなしく新河岸川へおとしいれられることを幸いとして、この樋を作ったという。また、秋元但馬守が領主であったときのことともいう。どちらが正しいかはわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊呂波樋という名前は、後には継ぎ合わせの数が多くなったが、最初は四十八継ぎあったから起ったと言い伝えています。川越史料が伊呂波樋の出来たのを万治二年というのは、『新編武蔵風土記稿』に従ったのでしょうが、仮に万治二年（1659年）としても、柳沢や秋元が河越城主であったときとするのはよろしくない。柳沢が河越城主であったのは、元禄七年（1694年）から宝永元年（1704年）まで11年間、秋元は正徳二年（1712年）から天保十二年（1842年）まで百三十年間です。風土記稿もこのへんはだいぶいい加減なものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　宗岡村地誌のとおり、寛文二年というのがよろしいようです。同地誌に、白井武左衛門のことを書いて、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:白井氏は生まれた地がわからない。正保元年、上下宗岡村は幕府の直轄となり、幕臣岡部忠直が支配した。白井武左衛門はその執事であった。氏が当村に赴任すると、鋭意公共の事業を興し、村民の利益を謀ろうとした。本村は灌漑の利に乏しく、旱魃の災があることを憂えて、寛文年中に松平信綱に説き、多摩川分水の末を引く大工事を行ってその害を除き、また本村宇佃に六百七十余間の長堤を築いて、悪水が溢れ入ることを防ぎ、新田場堤を築き、その堤の外にある荒野を開いて良田としたことなど、その功績は少なくない。その後、村民はその徳を後世に伝えようとし、ここに記念碑を建てて功徳を賞し、今に至るも毎年六月十四日に氏の祭祀を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この岡部佐兵衛忠直は、『寛政重脩諸家譜』で見ますと、延宝三年（1675年）七月に家督相続した人であるため、宗岡築堤のことはその先々代、小次郎吉次のときのことと思われます。この家は武蔵国多摩・人間郡、甲斐国八代、上総国山辺、下総国香取の諸郡で二千石余を領しておりました。吉次は正保四年（1648年）八月に相続した人で、千五百石から二千五百石に加増されております。宗岡村の古図によれば、全村を上中下に三分し、中は川越領（当時の城主・松平信綱)で、上下が岡部氏の領地でした。現在、宗岡新田というと、旧下組の場所の名になっているが&amp;lt;ref&amp;gt;ここでいう宗岡新田は現在の下宗岡四丁目あたりである。&amp;lt;/ref&amp;gt;、岡部氏の領地、白井武右衛門の働きで開けたのは、村の中央にある。古図で見れば紛れもない。新田場堤というのも、現在「新田」と呼ばれる所にあるので、白井武右衛門の開墾した場所とは違う。そのことは同村の石原康治氏が撰んだ『白井氏治水碑』に詳しく書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:禹の九潦は水があることを憂えている。湯の七旱は水がないことに困っている&amp;lt;ref&amp;gt;『荘子』秋水篇「禹之時十年九潦，而水弗為加益。湯之時八年七旱，而崖不為加損。」中国古代の聖王・禹（大禹）のとき、十年に九度の洪水があったが、水の量は増えなかった。殷王朝初代の湯王（成湯）のとき、八年に七度の旱魃があったが、海岸が後退することはなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。どちらもこれは水である。水が多すぎれば害があり、水が絶えれば利益はない。ただ指揮者伝明けが利害を察することができ、水をさえぎって防いだり、通じて用いたりする。治水としてなすことはこれで終わる。わが白井武右衛門民のような人こそ、そういう人であろう。氏は幕府の臣・岡部忠直（※吉次の誤りであることは以前に述べた））の部下である。わが宗岡村はかつて、分けて上中下とした。正保のはじめ、中宗岡は松平信綱が領し、上・下は忠直の采地であった。忠直はそこで氏に統治を命じた。氏は村に来ると、その東南の低い湿地から蒸気が立ち上るのを見て、鋤を使って開き、堤で囲み、肥沃な土壌をいくらか得て新田とした。新田の西は新河岸川に迫り、しばしば水害を被る。そこでまた堤を築き、これを防ぐ。西より北に六百七十間におよぶ。いわゆる佃堤である。本村の稲田はまた以前は灌水の便が乏しく、旱害にしきりにおそわれていた。氏は深くこれを憂えた。これ以前に信綱はその封土のうち、野火止荒原を開墾しようとし、地が乾燥していて水が少ないことに悩み、渠を掘り、玉水を引いた。曲がりくねって東北に流れること六里、わが西の境にいたって、その余水は最後に新河岸川に入る。氏、余水が空しく川に入るのを惜しみ、そこで思ったのは、「これで灌漑の利を開くことができるだろう。しかも、公の領土もまたここにある。喜びと悲しみは一体であるから、水を公に乞うのがいいだろう」と。そこでこれを信綱に請い、許された。そこで川の前岸で水箱を構えた。だいたい六尺ほど、高さはほとんど倍ある。箱の前に別に伏溝を設け、それを南に走らせ、渠の余流を受け、箱に遅らせている。箱の脚に口があり、これを入れる。箱の首のところにまた口を設け、樋ををつないでいる。我が国の俗に木の筧を樋という。樋の幅一尺四寸、深さも同じ。その下図は四十八で、樋をつないでいき、柱を立てて支え、川の上に架して横断させる。遠くこれを埋めると白虹のようである。首から尾までおよそ百九十七間、この通水によってはじめて田をうるおす。里の人はこれを伊呂波樋という。完成したのは実に寛文二年である。堤防で囲み、水害が除かれ、溝樋に水が流れ、水利が開かれたとき、九潦七旱も憂えなくてよい。民がその恩沢を受けてから今まで二百五十年である。まさに功をその時代に加え、徳を子孫に伝える者である。明治中興に至って、あらゆることが革新した。この樋もまた規制を改め、鉄管に代わっている。工事は丁酉（明治三十年）に始まり、癸卯（明治三十六年）に終わった。その利は以前を超えるけれども、旧観は残っていない。そこで年月が久しくなれば引水が氏によって始まったことが知られなくなることを恐れ、最近、村人がともに相談して言うには、今こそこれを石に刻んでずっと伝えようということで、文を私に委嘱した。私はこの里に住み、またその余慶に浴している者であるから、断ることなどできなかった。そこで旧記によってそのあらましを述べる。もし系譜の生没年の詳細は今はもうわからず、惜しいことである（銘を略す。原文は漢文）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊呂波樋が鉄管になって埋設され、地上の姿を失ったときに、この立派な碑が建ったのです。今は『江戸名所図会』に昔のおもかげを忍ぶしかありません。この碑文にもあるとおり、信綱が封内の開墾のために野火止用水を引いて、それが引又（志木村）の市場というところまで来ている。ここに捨樋があって、舘村用水を分けた後は柳瀬川へ落としてしまう。野火止用水は引又の市場までであった。それを見て、岡部氏の陣屋に在勤する白井武右衛門が、灌漑の水に乏しい宗岡村へもらうことを考えた。そこには、岡部氏の領地のみではなく、大きいのはないが小さい地頭はたくさんいた。いずれも武蔵野開発について当時の河越藩へ懇請して引水のことが調いました。そこで引又の市場から柳瀬川をまたいで、宗岡の精進場（下の谷（シタノヤ）)へ引き、それから村内を環流するようにし、内間木村も潤沢になるに至ったのです。白井の働きは佃堤によつて新田を開き、野火止用水の流末を誘って、当村の旱害を不足しないようにしたことにある。村内宇前内手の観音堂は、今は廃寺になっておりますが、そこの墓地には、用水開基と肩書した碑があり、位牌も村内・千光寺に移して祀られております。そのいずれにも忌日がありません。ただ当村では六月十四日（祇園会の翌日）を白井様の日といって、毎年全村休業しております。その人の功績によつて、村人が今日もその恩恵に感謝していることは、まことに美しい思いでもあり、人間はそうでなければならぬものです。それでは、安松金右衛門は誰から感謝され、だれかに忘れられずにいるのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この伊呂波樋の設計は誰がしたのであるか、白井が施設したという記録もないのに、江戸名所図会などはあっさりと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この地（膝折）に用水がある。引又の宿の中を流れて内川（所沢では粂川といい、大和田へ来て柳瀬川といい、引又橋の手前で合流してからを内川といいました。水路改修以前はこの内川が羽根倉の渡しのところで、荒川と落ち合うようになっていたのです）の橋際に至る。そこに枡を設け、川を隔てて宗岡の地へ通じていました。寛永のころ、秋元侯が川越を領せられていたこと（伊呂波樋創設が寛永の時代ではなかったことはすでに述べた）、農耕の助けとして、野火止の用水をここに引かせたのだという。そのころ、白井某という人が、この樋からの水の引き方を工夫して、四十八段にかけたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と申して、白井武左衛門の設計のように書いております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　引又の宿は南北へ長き三町余あって、新宿、本宿、中宿、坂下町といい、新宿の入口から町の真中を幅三尺余、深さ四五尺の大樋が縦貫しており、新宿の方は高く、坂下の方は次第に低くなっていて、そこに大枡がありました。この大枡は玉川上水の四谷大木戸にあつたのと同じもので、桝の効用については『上水記』が解説しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:埋樹は土中にある。水見桝は地上にある。また高桝がある。懸樋がある。分水のところに「わかれ」枡がある。水見桝のふたをあけて水勢を常に調べる。高桝でせき上げる。登り龍樋は上るところにかまえ、下り龍樋は引き落とす。みな、その地の高低にしたがう。しかし、水元より高くはあがらない。ひき落とし、高く上げて水勢を増す。河や堀の水底を潜るところもある。これを潜樋という。橋の下に沿って向う岸にわたるところも、渡り樋または懸樋という。石で流れを通すところを万年樋という。樋がなくて流れるところを白堀という。地方によっては素樋という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　文化の時期に小日向水道町の本法寺敬順の書きました[[十方庵遊歴雑記|十方菴遊歴雑記]]の中に、伊呂波樋の見聞が書いてあります。ただ今では明治三十六年に鉄管埋設に変革いたしましたので、伊呂波樋は二百五十年来の旧観を喪失してしまいました。ここにその本文を抄出するのは、ただ懐古の資料というだけではございません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:愚老がここに逍遙したのは、引股町の千貫樋と大いにいいはやして、評判が高いので、これを見ようとわざわざこの地に至ったものです。埋樋に沿ってつま先下がりにだんだんと北の方へ行くと、坂の下口左側に高桝を掘り埋めてある。高さおよそ五尺あまり、幅およそ三尺四～五寸四方。ここから坂を下りて、川端まで次第に低くなって、一丈あまりも地面を下っただろう。この坂口から土橋までおよそ一里あまり。さて、例の高桝から幅二尺四方の樋を坂口に深く土中に掘り込み、内川の渚に至って、その掘埋めた樋を地上へあらわして、内川の上をわたり樋としている。内川の幅、土橋で調べてみると長さ十七間、水面から渡樋の下面までおよそ一丈四五尺。このわたり樋の長さは二間つつで継ぎ、都合六十継、百二十間という。この引股橋から南は新座郡で松平右京亮領分（宝永二年三月三日、先祖墳墓の地であるということで、野火止領三千石を高崎藩主へ加増)、また、川から北は入間郡で秋元左衛門尉領内、千六百石の田地へ引く用水の樋という。すでに川向こう、入間郡棟岡村の堤の際に至って、水門に至って止まる。ここまでわたり樋の長さ百二十余間、樋の大きさは二尺四方。この用水なかったならば、数か村の農民の一切の仕付ものができないだろう。人間の工夫は賞賛に値する。これを近郷こぞって引股の樋とよび、あれこれとほめそやすことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の流れの末を宗岡村へ誘引することについては、地盤が低下しているので相応に工夫を要したことがわかります。坂下の大樋は水勢を激成する効用のある登り龍の樋でしょう。以上、続けて書きましたのは、この敬順といふ老僧が妙に江戸っ子を出し、不似合な娑婆っ気から向う見ずに熊さん八さんになっているのは困りものですが、功績のすべてを松平信綱に帰して、大いに感嘆しておりますのを見過ごせません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:ただし、高桝をはじめ、渡樋にいたるまで、木はマツ、モミ、スギの類で作り、板の厚さ二寸、もとより渡樋に家根はない。これは用水のためだろうか。このことからつくづく思う二、東武（＝江戸）四ツ谷御門の外の高桝は左右にあって、南に一本、北に一本、都合三本、地上へ出るところは低くても五尺あまり、高いところは九尺あまり、幅はそれぞれ五尺から六尺四方、木の厚さ三寸、みなヒノキのふしのない板で作り、さらにわたり樋に家根を別に作り、みな節のないヒノキで作成された。しかもまたむかし、承応二癸巳年十一月十五日、四ツ谷大木戸から多摩郡羽村まで道のり十三里のところ、水盛を考え、掘り割りを工夫し、さらに四ツ谷御門外に仰ぎ見るほどの高桝を三つもこしらえ、御城内・御用やしきをはじめ、御城下町の者たち何百万人となく、命根をやしなう費用も簡単なものではなかった。この四ツ谷御門の高桝、渡樋から所々分水されている埋樋、また神田白堀上水、大洗堰の工夫より、水道橋のわたり樋、江戸一円分水の埋樋を、引股近在の井の中の蛙の者たちに見せたいものである。ただし、野火止の分水口は格別の堀割であって、古い話に伊豆殿堀という。これは松平伊豆守信綱、川越在城のとき、野火留辺も領内であったため、玉川から引水を工夫し、野火留近辺に田地もできた。それまではまことのむさし野の平原であったという。そこで信綱はむかし、多摩郡羽村というところから、この引股の駅まで九里の間、長流を引いて近郷を助け、なおまた内川の上から渡樋百二十間を造作し、入間郡棟岡村へ分流させ、若干の田畑の用水とした工夫、高智は感賞すべきものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　変な比較をして気持ちよがっている、どうにも馬鹿らしいところもあるが、「それまではまことの武蔵野の平原」であったといって、玉川上水、野火止用水、宗岡引水を列挙して、その功績を顕揚し、信綱の事業に感歎しておりますのは、刮目すべきものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　松平信綱の武蔵野開発には、地方水利に功みであった小畑助左衛門、安松金右衛門の両人の関与しないものはございません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:建出――新聞の村々(野火止、菅澤、西堀）は井戸を掘っても砂利が崩れ込み、水が出ないので、この分水を幾筋にも引き廻し、百姓の相続や木品盛木の手当てとした。残水の廃れたのを、いろは樋という長さ二間ずつの樋を四十八間かけて、川を越し、樋の下を通船往来できるように安松金右衛門が工夫をし、宗岡村を畑田成とした。元禄年中まで川越在城のため、三代（信綱、輝綱、信輝）が領した。次に柳沢美濃守へ渡り、近来、秋元但馬守殿の領分なので、以前の姿に修理を加え、今も堰があり、別に宮戸村へも一筋懸り、これは小給所であるとのこと。（野火留分水国之訳書）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このように、野火止用水の流末が、宗岡・内間木・宮戸の三村を支持している伊呂波樋の設計も、安松金右衛門によって立てられ、その功績を今日に遣しているのであろうが、これだけでは証拠が足りない。けれども江戸名所図会に対して、確かに一説として見るべきであらう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*07]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=360</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門</title>
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		<updated>2026-07-04T10:41:50Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 目次 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚著『&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））は、玉川上水・[[野火止用水]]の建設者である[[安松金右衛門]]の本当の業績を現代に伝えようとした書籍である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著者・三田村鳶魚==&lt;br /&gt;
三田村鳶魚（みたむら えんぎょ）（1870年〜1952年）は、「江戸学の祖」や「生きた江戸の百科事典」と称される時代考証家である。&lt;br /&gt;
* 徹底した考証主義：新聞記者を経て研究に専念し、膨大な文献調査とフィールドワークによって「嘘の江戸」を排除しようとした。&lt;br /&gt;
* 時代小説への厳しい批判: 吉川英治などの大衆作家に対し、史実や風俗の誤りを容赦なく指摘したことで、当時の作家たちからは恐れられる存在だった。&lt;br /&gt;
* 在野の精神: 大学などのアカデミズムに属さず、生涯「町学者」として江戸の武家から市井の生活文化まで幅広く研究し続けた。&lt;br /&gt;
* 膨大な著作は『三田村鳶魚全集』（全28巻）にまとめられており、現在も時代考証の基本文献として重宝されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現代語訳==&lt;br /&gt;
ここでは、全文を現代語訳して掲載する。現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三田村鳶魚著&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
電通出版部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===小引===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　徳川一世（家康）が天正十八年（1590年）8月朔日、初めて江戸城に入って以来、承応二年（1653年）まで60余年の間、江戸に住む限り、市民のみならず諸大名もみなことごとく飲料水に困りました。慶長になりまして、江戸城の修築が成り、市街地の町割りもできて、住民がだんだん増えてまいりましても、土地柄として井戸を掘っても、よい水が得られません。徳川一世は早く神田上水をこしらえさせましたけれども、膨脹が急な新都市のにわかに増加する人々の飲料をいかんともし難い。江戸は慶長五年（1600年）から京都、大阪と並んで三大都市と言われておりましたが、飲料水についての悩みは、日ごとに激しくなるばかりでありました。幕府として新都市の他の計画は着々成功して、江戸を装備し、整頓させましたが、市民生活というよりも、むしろ人間生存の大前提である飲料水の供給に欠けていることは、何よりも先に、何よりも急ぐべきことであるのに、これが欠如していました。それは新都市の成立を危うくするものであり、江戸の発達を望めないことにもなりますので、将軍の威勢、幕府の面目にかけても適当な方策を立てなければならないので、老中以下の役人もいたずらに焦慮するだけで、何分対策が得られませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府は四代がかり、家康・秀忠・家光・家綱、家綱将軍の時に、江戸町奉行・神尾備前守の斡旋によって、玉川庄右衛門・清右衛門の申し立てを得ました。玉川両人は玉川が上水に足りることを知り、羽村から四谷大木戸までの上水路を設計して上申したのです。幕府はすぐに採用し、閣老・[[松平伊豆守信綱]]を総奉行とし、伊奈半右衛門を奉行として、早速工事を起こさせました。玉川両人は工事を請けて提案の通りに開削しましたが、設計が不備であったために堀に水が流れません。そこで再び設計して工事を進めましたが、またしても水が通りません。再度の失敗で玉川上水計画は廃案になりそうでした。そのとき、松平信綱はせっかくの計画であるこの玉川上水案を放棄するのを残念に思われ、また江戸には上水で飲料を供給するよりほかに方法がなく、玉川からであれば豊富な分量も得られて、江戸に住む上下の人々も日頃の苦悩を免れることでもあり、ことに四代がかりの幕府の人生であるから、是非とも上水道開通に成功したいと希望されました。自分の家来に安松金右衛門という水利に達した者がいるので、その安松に命じて新たに玉川上水路の設計をさせ、首尾よく全国無二の長距離、大規模な工事を完成させ、信綱の三大まつりごとの一つに数えられる偉業を残しました。信綱は、また宿願であった武蔵野開墾も実現し、多大な新開拓地を得て、自分の領地だけでなく、幕府の直轄領および他領にも多くの農村を創設することができました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　主人信綱に民政上の手柄を立てさせた玉川上水の設計者・安松金右衛門は、旦那に手柄をさせたのは俺だと吹聴するどころか、そんな心持ちさえ持たない人物。忠義をいたしましたと口へ出すようなら決して忠臣ではありません。宣伝ということも自己宣伝になってしまえば醜態を極めます。信綱も自分の功績を知られないようにする心がけがありましたが、安松も同様な心持ちでありまして、実に奥ゆかしい武士なのでした。それゆえに、我々が朝となく夕となく汲んで飲んでいる玉川上水、承応二年から昭和の今日（※昭和十七年＝1942年）までは310年、江戸をまたいで東京、父祖代々受容しており、現に市民677万8804人の命を救っております。将来いかなる水道ができましても、この玉川上水をしのぐほどのものはありますまい。もしできたとしても玉川上水を除くことはない。過去・現在・未来にわたって、玉川上水の恩恵はまことに東京市民に尽きないものと存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この広大長遠な恩恵を東京市民に受けさせた安松金右衛門。安松がいなければ信綱が何と思われたところで、玉川上水は廃案になるよりほかなかったでしょう。その安松金右衛門の事蹟はもちろん、彼の名をすら知っている人が全市に幾人いるでしょうか。東京も七十余年でできたのではない。今日までどれほどの先人の苦労を積んでこしらえ上げたものでしょうか。自分の身体が祖先の先からの恩恵で育成されたように、古人の積んだ苦労がどれほど多いだろうか。我々は今更ながら、感銘を受けたままに報恩謝徳を心がけなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本書は報恩謝徳の心持ちを持って記述いたしました。筆者の思うほどに書けないのは愚文のゆえであります。十年来の心がけでこの記述をいたしましたが、資料の収集の足らぬため、不十分なのであります。私の報恩謝徳の心持ちは今後も決して衰えません。新資料を得て増補の必要を感じたときには、つとめて決行したいと存じます。特に武蔵野開墾は信綱の大仕事でもあり、今日の大東京を成す究極の事柄でもございますから、及ばずながら微力を尽くしたいと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和十七年立冬前二日（※1942年11月5日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳶魚生　しるす&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===目次===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 小引&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その一　紳書の誤謬]]&#039;&#039;&#039;――国定教科書や新井白石の『紳書』に見られる安松金右衛門に関する記述の誤謬を正し、確かな史料が欠落した背景を解明する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/02|その二　野火止用水路]]&#039;&#039;&#039;――通水に三年を要したという野火止用水の伝説を否定し、実際には四十日ほどで工事が完了・通水した歴史的事実を提示する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]&#039;&#039;&#039;――玉川兄弟の事績に偏った『上水記』などの不備を指摘し、上水設計における安松金右衛門の真の貢献を浮き彫りにする。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟の失敗]]&#039;&#039;&#039;――玉川兄弟による二度の設計失敗を、安松金右衛門が独自の測量法を用いた第三の設計案によって成功に導いた過程を詳述する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/05|その五　畑ばかりの新農村]]&#039;&#039;&#039;――水利に乏しい武蔵野の開墾において、野火止用水が本来は生活に不可欠な「飲料水」として供給された恩恵と役割を明らかにする。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/06|その六　武蔵野開墾の規模]]&#039;&#039;&#039;――武蔵野開墾の成否を分けた玉川上水の分水供給と、野火止用水が私領として異例の規模で許可された歴史的背景を考察する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/07|その七　引又の伊呂波樋]]&#039;&#039;&#039;――野火止用水の末流を新河岸川越しに宗岡村へ送る「伊呂波樋」の構造と、安松金右衛門による巧みな水利設計の功績を辿る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/08|その八　川越運河]]&#039;&#039;&#039;――川越と江戸を繋ぐ物流の要となった新河岸川の漕運開発において、安松金右衛門らが果たした運河整備の足跡を究明する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/09|その九　悲しい水喰土]]&#039;&#039;&#039;――府中「悲しい坂」や福生「水喰土」の遺構と伝承から、玉川兄弟の度重なる設計失敗と安松による工事成功の真実を裏付ける。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/10|その十　金右衛門の経歴]]&#039;&#039;&#039;――算術の達人として出仕した安松金右衛門の経歴を辿り、十代にわたり院殿号を許された異例の待遇と家系の謎に迫る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/11|その十一　宗岡の古図]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/12|その十二　玉川上水の記事]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/13|その十三　江戸っ子の自慢]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/14|その十四　江戸の穿井]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者_安松金右衛門|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/06&amp;diff=359</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/06</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/06&amp;diff=359"/>
		<updated>2026-07-04T10:36:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第六章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その六　武蔵野開墾の規模==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[野火止]]に井戸はあっても、江戸の昔の桝のようなもので、家々で適宜、用水を誘引したものです。なかにはそこが車井戸になっていたり、撥釣瓶（はねつるべ）のもありますが、溜った用水を汲み出すだけのもので、近年まで鑿井しなかったから、そこへ湧き出すのではありません。今日もいまだ幾つも残っておりますのは、庭の先や台所の辺に池の様な体裁で、金魚などを放ってある。これは村内を縦横に用水が流れております。それを自宅の前から勝手のよいところへ誘引し、沈殿させて使用する。釣瓶もポンプもあったものではなく、ちょっと柄杓で汲むのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[野火止用水]]は、[[松平信綱]]が玉川上水の三歩を拝領したということについては、何の文献証拠もなく、ただ事実については伝説を証明するよりほか、致し方ありません。幕府が撰述した『[[新編武蔵風土記稿]]』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:多磨郡羽村分水の下流。同郡小川村の境から分かれて本郡へ入り、数条となってみなぎり流れて、引又町のはてに至る。その間2里に及ぶ。水の色は炊水（米のとぎ汁）のようであり、潺湲（せんかん＝さらさらと水が流れる様子）としている。これは郡中の西の方の諸村の養水となっている。&lt;br /&gt;
:……それから多磨川水道の水7分は江戸へかけられ、3分は川越領新田の養水に賜り、今に至って当地の水利は乏しくなくなったという。（[[新編武蔵風土記稿/巻之129新座郡1#水利|新座郡総説]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水を7:3の割合で賜ったことは、海保青陵&amp;lt;ref&amp;gt;海保青陵（かいほ せいりょう）は、江戸時代後期（18世紀後半から19世紀初め）に活躍した経世家（経済思想家）・儒学者である。当時の武士の常識であった「商売を卑しむ」考えを否定し、「天下の儀は、売り買いの一事なり」という徹底した営利・合理主義を唱えた。&amp;lt;/ref&amp;gt;も書いております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:大猷院（家光）様の時、松平伊豆守信綱という人、世にいう智恵伊豆守である。江戸は下町の分は残らず新築地であって、元来は海であるから、井戸水に塩気があって人の腹によろしくないということで、玉川という水を十里西から取られた。すなわち、川崎の六郷川の上流である。幅三間で、渠を十里掘って、四谷御門まで引いた。そのため、この水気により、その近辺に少しずつしみ渡った。今は少々圃（畑）もできて、綿・大根などもはえている。大猷院様は伊豆守の功を賞せられて、上水の内三分の一をくださった。そこで、その渠から幅一間の渠を三里引いて、野火止という伊豆守殿の采地へ引いた。その水気がまたその近辺へしみ渡って、今は野火止近辺も原の中に圃がある。野火止は江戸より五里西北である。この渠が無ければ、今も原ばかりであっただろう。（『東贐&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;東贐&#039;&#039;&#039;（あずまのはなむけ）』：江戸で生まれ育った青陵が、初めて江戸へ来る知人のために、江戸の風俗、風土、歴史などをガイドブック的にまとめた書。&amp;lt;/ref&amp;gt;』文化十三年（1816年））&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さすがに海保青陵のことはあって、武蔵野開発と野火止用水とを睨んで、この渠がなければ今日までも野原のみであっただろうと言いました。松平信綱が玉川上水の総奉行として、我が国に二つとはない長距離の上水路、当時無二の大工事を董督（とうとく）して、首尾よく成功させました勲労、わけても徳川一世（家康）が江戸入部の直後、天正中に大久保主水に命じて神田上水をこしらえさせ、三代家光が井の頭上水を計画したが成らず、四代家綱に至ってようやく玉川上水が成功したので、江戸の上水計画は徳川氏四代がかり、年数にして六十年ばかりの作業でした。それほどの事業であるため、重く賞与されるのも不審はないものの、それにしても玉川上水総量の三割という、分量があまりに多いのは疑わしい。江戸全市とのバランスが取れません。信綱が拝領して私領へ引用したことを、上水記が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:伊豆守信綱朝臣、川越領地のとき、野火留も領内であって水懸りについて、玉川から引水ができ、初めて野火留領に田地もできた。まことにむさし野であって田作がないこと、今もって野火留のあたりは井水がなく、玉川のかかり水ばかりで、飲み水にも使っているとのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などと言っているのは、御普請奉行上水道方 石野遠江守広通という当職の人の著述とも思えない迂濶なことです。野火止傾ならば、野火止500石、北野20石、西堀50石、菅沢165石、計735石、それへ大和田1500石を加えても2000石には足りません。小島文平の訳書には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:伊豆守殿の実家・大河内金兵衛殿、峡田領・河越領あたりの御代官で、手代の内、小畑助左衛門・安松金右衛門の両人は、地方（村方）なども功みなので、家来に遣わされ、右翼・左翼とし、地方の関係のことは彼らと相談された。川越まで内川に通船し、野方の建出し並木は今も繁茂し、一万石の新開をしたのは、助左衛門が目論見したという。元より賢者なので、諸侯に稀な古今の功者と名をふれられたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と見え、幕府の代官であつた信綱の実父・大河内金兵衛が、部下の小畑・安松の材幹（能力）を知って伊豆守家に推薦し、小畑は主家の領地に一万石新開の計画を立てたというので、その新開諸村は延宝（1673年～1681年）までに着々成功いたしました。『新編武蔵風土記稿』にその村名を挙げてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:上下安松、上下奥富（新田地）、松郷（新田地）、大仙波（新田地）、大仙波新田、大塚、大塚新田、大袋、増形（新地）、堀兼、今福、中福、砂久保、中新田、上下赤坂、上下杉原、亀久保（新開）、南永井、水子、寺井（新開）、府川、宿粒、小久保、上下南畑、南畑新田、竹間沢（新開）、亀谷、福岡、大久保新田、渋井新地、古市場、川崎、砂新田、久下戸、小中居、八島、古谷本郷。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを元禄七年（1694年）二月――伊豆守信輝が下総古河へ国狩した翌月――に提出した『松平伊豆守旧領高覚』と見合わせますとわかります。『旧領高覚』は前文に出しておきました（[[玉川上水の建設者 安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]）。武蔵野開発の規模は、信綱の宿案らしいです。『家譜』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四年（1647年）七月五日、常陸新治、武蔵埼玉の二郡のうちにおいて、一万五千石御加増。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。『藩翰譜』にはこの御加増を一万石としてあります。しかし『徳川実紀』には一万五千石加恩とあり、榎木弥左衛門『万之覚』にはこの御加増を二か所で書いており、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一　松平伊豆守様御知行に川越を御取りになりました。御かぞうは共に七万五千石。ただし、きさい（崎西）、ひたちふちゅう（常陸府中）とともにである。&lt;br /&gt;
:一　寛永十六己卯年（1639年）に、松平伊豆守の御知行は六万石で、河越を御知行に御取りになり、御入部なさった。ただし、きさい（崎西）と共に、その後、いずれかの年に一万五千石御かぞうされた。ただし、ひたちのふちう（常陸の府中）、川越の西小沼高くらちと共に。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　御加増一万五千石といふことは、『実記』と『家譜』とが合致している以上は疑問はあるまい。ここで注意しなければならないのは、『高士略伝』という藩中の人物誌の中に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四丁亥年（1648年）七月一日、一万五千石御加増の時、御願にて武蔵野を五千石拝領。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。わざわざ未墾地を望んで拝領したとすれば、石高のない荒野なのですから、五千石といっても、何の収穫もない場所を大概に見積って田畑にしたらといふ計算で拝領したのでしょう。こういふ拝領も御加増も、類例はないでしょう。それゆえに、高のある一万石は、本高え加へて七万石にいたし、高なしの五千石は加えない、加えられないのです。類例のない珍しい御加増だけに、ソロバン上でも奇妙な勘定が出て来たのでしょう。すなわち、本高の内にも、新墾によって増高ができ、全く高のない本高以外の荒地を開いて新高もできたのです。この高のない五千石分の荒地を拝領したのは、まず武蔵野開墾に自分が手本を見せる底意のあったことを黙示したものと思われる。松平伊豆等は七万石の身上を九万四千余石にした。小畑助左衛門の一万石の新開計画などは何のその、信綱の腹案はそんなことではなかった。実に伊豆守家の領土開発は、武蔵野開墾であって、野火止用水がその事業に無二の効用があり、進捗もそれによつて活発になりえたのです。寛文九年（1669年）の武蔵野開墾文書に、武蔵野惣高合　十万九千百八十六石余とある。この開発と玉川上水からの分水は大いに考究しなければならないことで、後には三十三を数えた分水口の内で一番古く、一番大きいのが野火止分水でした。享和三年（1803年）現在の玉川上水分口書付の内、寛文以前創置の分を見ますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:多摩郡&lt;br /&gt;
::一　砂川村&lt;br /&gt;
:::七寸四方　この寸坪四十九坪&lt;br /&gt;
:::三分明　二寸三分余　この寸坪十六坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）新田が出来たときに願い済み、砂川村一か村ニ限リ、水末まで一里余。御料所&lt;br /&gt;
:新座郡小川村地先より引取&lt;br /&gt;
::一　野火留村&lt;br /&gt;
:::六尺四方　この寸坪三千六百坪&lt;br /&gt;
:::三分明の節　土俵をもって積立水懸り分量いたしました。この寸坪千二百坪&lt;br /&gt;
::右は承応年中（1652年～1655年）、上水堀開のときに願い済み、野火留村、西堀村、菅沢村、舘村、引又村、宗岡村、浜崎村、宮戸村に懸っております。水末まで六里ほど。&lt;br /&gt;
:多摩郡&lt;br /&gt;
::一　小川村&lt;br /&gt;
:::一尺四方　この寸坪百坪&lt;br /&gt;
:::三分明　二寸　巾一尺　この寸坪三十三坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）新田が出来たときから寛文九酉年までの内に願い済みとのこと。小川村一か村に限り、水末まで二里ほど。御料所&lt;br /&gt;
:同&lt;br /&gt;
::一　国分寺村&lt;br /&gt;
:::一尺四方　この寸坪百坪&lt;br /&gt;
:::三分明　三寸三分余　この寸坪三坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）願い済みとのこと、国分寺村・貫井村・恋久保村に懸り、水末まで一里半ほど。御料所&lt;br /&gt;
:荏原郡府中領境村地先より引取&lt;br /&gt;
::一　品川領用水&lt;br /&gt;
:::二尺五寸四方　この寸坪六百二十五坪&lt;br /&gt;
:::三分明　八寸三分余　この寸坪二百八坪三合余&lt;br /&gt;
::右は往古は天水場で、寛文九酉年御入用にて出来ました。大井村・上蛇窪村・下蛇窪村・戸越村・桐ヶ谷村・居木橋村・二日市村・南品川宿・北品川宿に懸リ、水末まで七里半ほど。御料所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また設置年代が不明なのは、拝島村、下小金井新田、下小金井村、境村、烏山村、上北沢村、幡ヶ谷村、三田用水などで、いずれも寛文以前とは思えない。分水口の中の古参者五つの内、四つまで幕府直轄地で、ただ野火止一つが私領地です。古い五つの分水だけでなく、後の分水も戸田因幡守、内藤大和守、田安御屋敷を除く外、二十五か所がことごとく幕府直轄地であります。直轄地以外に分水したのは、三十三分水口の中に野火止ただ一つです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　掘鑿しても飲用水を得られない武蔵平野に灌漑用水はなおさら求められません。玉川上水は江戸市民の生命をたすけるだけでなく、この渺茫たる曠原をも救うものです。その分水に恵まれて初めて田畑もでき、村落も安堵されました。さもなければ人間が居着けません。幕府はまず信綱の武蔵野開発案を認め、格外に野火止用水を許し、彼もまた平然として過分な水量の分附を受けてはばからなかったものと思います。信綱の立案の規模は一万石、二万石などといふつもりではなかったでしょう。野火止用水ができて、引き続いて分水口が増設され、武蔵野開墾はいや増しに進捗を活発にいたしました。だからこそ、幕府領か私領かというような詮議をしなかったのです。さて、信綱は、供給された野火止分水をどのように作用させたのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*06]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/05&amp;diff=358</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/05</title>
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		<updated>2026-07-04T10:36:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第五章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その五　畑ばかりの新農村==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[大和田]]は[[柳瀬川]]の水で灌漑に足ります。井戸もあって飲料に困りませんが、[[野火止]]は惣反別五百三十一丁七反七畝二十一歩と明細帳にございますけれども、これがみな畑であって、一筆でも田はありません。農村といたしましては、水田のないことは容易ならぬことで、まして新開の場合には成り立ちにくい状況であろうと思います。しかし、[[武蔵野]]開墾を思い立ちましても、十分な水利が望まれません。となれば畑ばかりの農村を成立させるしか仕方がないでしょう。それははなはだしく困難なことであります。この困難に耐えて、野火止村を成立させ、武蔵野開墾の第一着をなし遂げました領主[[松平信綱]]の意図、もし武蔵財野開墾が承応の時代（1652年～1655年）に出来なかったならば、寛文の時代（1661年～1673年）に拡大することもなく、今日見る近郊の状態に至れなかったに違いありません。信綱が困難な武蔵野開墾を決意し、敢行した気持ちは言うまでもないでしょう。安松金右衛門がその計画を立て、畑ばかりの新農村を成立させる方法を考え、その実施に成功した事蹟は大いに称賛すべきものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　灌漑用水がないために畑ばかりの農村をこしらえ、それの立ち行くだけの経済方策を回しても、どうしようもないのは飲料水でございます。これは代案のないものです。もし玉川上水から分水が得られなかったなら、信綱の武蔵野開墾はあやういものになったでしょう。しかし、野火止では村内の[[平林寺]]の井戸が最初に掘った井戸だといっております。『野火止宿開発根本覚書』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:平林寺は寅卯（寛文二壬寅、三癸卯＝1662年・1663年）の両年に御建立された。酉（宝永二乙酉＝1705年）の年まで四十二年になります。和尚様（石院和尚）岩槻（武州足立郡金重村）に従い、お引っ越しされ、御寺がまだできないうちは、名主庄右衛門のところに御座になられ、御普請ができてからは、御移り渡りあそばされました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあります。平林寺が出来たのは、川越城主の二代目、信綱の嫡・輝綱のときであって、これが村内唯一の井戸なのですが、武蔵野所在の井戸のように螺旋型に掘り下げたのでなく、まっすぐに掘ってあります。この井戸がいい水で、たくさん出ます。だいたい、この辺では浅くてはいけませんが、深くさえ掘れば水が得られるというのでもなく、何分にも水が出ない。出ても悪い。飲料水の得がたいところなのです。野火止でも平林寺の井戸の他には、適当な井戸がなかった。新しい住民は十年余も井戸がなくておりました。それでも過ごせたのは、分水があったからであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:およそ東西三～四里の間、昔はみな渺茫とした平原であったが、公の御仁恵深く、この辺へ玉川の水を引きはじめてから、今は皆、居村となった。それぞれ「新田」と号するのはこのためである。&lt;br /&gt;
:小金井と名づけたのは、当所からはるか南の方に入見山というところがある。この山から清潔な水が湧出して、一村の人三十戸戸を養っている。元来、このあたりおよそ三～四里あまりの間、昔はさらに清水がなかった。土中に鉄気や塩気があったり、赤かったり白かったり、さらには渋みがあったりして、濁水で飲みにくく、人の住居になりがたかったが、天の助けによって自然と清水を得たのは、黄金を拾うことができたようにあものだ。ゆえに居村と成ってから小金井と名付けた。（『[[十方庵遊歴雑記]]』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　桜で知られた小金井のことを書いたところにこういう記載がありました。ここで野火止の玉川上水の分水による恩恵がわかります。小金井はそれより前に村落をなしたのも、人見山の傍らに湧泉があったためだとわかります。武蔵野の中では飲料水が特に尊重されます。ところどころにある堀兼井が名所として扱われるのも、古い井戸だからではないので、土地柄として得がたい飲料水が供給されますから、自然と住民が大切にする。それが顕著なものにしたのだと思います。武蔵野がいつまでも荒蕪の（荒れ果てた）ままに置かれたのは、飲料水のないためであったようです。玉川上水鑿通後、級に開発されました。その証拠はみな新田と呼ばれているのでもわかります。その新田には必ず上水の分水口がある。玉川上水の恩恵の大きな事は実に驚嘆すべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水は灌漑のために玉川上水から分かたれたものといわれておりますが、それは寛文の時期（1661年～1673年）に伊呂波樋ができて以後のことで、本来、飲料水として分けられたのでございます。伊呂波樋のことは後で申しましょう。末水が灌漑用水になりましても、本来が飲料水なのですから、後々までも野火止村民としては依然として飲料で、実際に最初の事態から変わっておりません。いろいろ書類もございますが、天明七年（1787年）六月、野火止の名主常右衛門が、その筋へ提出した書付がわかりやすく申し立てております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川御用水、小川村より分水口数十か所のうち、武州[[新座郡|新坐郡]]野火止堀のこと、明暦元年（1655年）松平伊豆守様が同国川越の御領主であったとき、御一領にて、この野火留宿新田を御取立あそばされましたとき、百姓は相続のため、飲み水御拝領遊ばされましたとのことです。先年より申し伝えて先年より申し伝え、これ存じ奉っております。&lt;br /&gt;
:上記につき、小川村分水口、数十か所のうち、野火止掘ばかり、左右切石で幅六尺にお定めがありました。そのほか、分水口残らず箱でございます。用水元まで道のり四～五里ございますが、野火止水下五か村の飲み水に下され置かれました。上記の末水、その節は川越領の当村（[[野火止村]]）、野火止領の[[館村]]、御他領の[[宗岡村]]・[[宮戸村]]、三ヶ村の田方用水に先年から下され置かれましたところ、たとえみな止められるときであっても、野火止堀分水口だけは飲み水程度だけ懸けられております。&lt;br /&gt;
:しかしながら、近年は小川村分水がたびたび皆留めを仰せつけられ、野火止堀も皆留と同様に留切となりました。特に今春三月二十七日より久しく皆留を仰せつけられ、今の時点で洩水等もないよう厳しく定められたため、右の村々は誠に飲み水がなく、一同大いに難儀が極まっております。&lt;br /&gt;
:以上申し上げたことにより、先年より村々で堀井等を所持していた者があれば、大小の百姓共、遠方より朝夕に水を汲み上げて運ぶこととなり、農業に支障を来し、ことごとく困難が極まっております。末水懸りの村々は、今回の節まで用水をながらく相懸ることができず、はなはだしく不作となり、これまた難儀はなはだしいものでございます。&lt;br /&gt;
:さらに野火止堀の懸り分水口の儀は、昨年より野火止名主が世話をして来たので、小川村名主彌次郎方にも、これまで用水の懸りなどのことを相談して参りました。&lt;br /&gt;
:つきましては私こと、はなはだ恐れ入りますが、以上の村々の総代として訴訟を申し上げます。何とぞお慈悲をもって、野火止堀用水懸りのこと、従来同様、分水口の皆留を仰せつけられましたとしても、飲み水程度は下され置かれますならば、村々大小の百姓どもが続けてつかまつり、一同助け合いいたしますので、この上もなくありがたき幸せに存じ奉ります。以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水の水量の増減によって、各分水の量を制限することになっており、三分止め、七分止めなどというのがあり、全く分水しないで溝口をふさいでしまうのを皆留と申しました。天明七年（1787年）の盛夏に水涸れが強かったと見えて、皆留になりました。その時に野火止の名主が各村々の総代になって差出したのが、この書付でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　農村では耕作が第一でありますから、灌漑用水ほど大切なものはございません。しかし、飲料水は、それよりも必要なものです。当所開墾の際に領主・松平信網は、新拓百姓の飲料に玉川分水を頂戴したと言い伝えています。その証拠とも見られるべきことですが、数多い分水路と野火止用水路とは構造も違っている。灌漑用水とは別のものに見えます。末水が灌漑用になっておりましても、本来飲料水なのでございますから、どのような減水にも、五ヶ村の給水だけは与えられて、野火止用水には皆留ということはかつてなかったのでございます。しかし、近年は他の灌漑用水同様の御沙汰で皆留になりますが、野火止には堀井のある農家はございませんので、皆留をされれば百姓どもの呑み水がなくなります。こうした申し立ては度々ありますが、いつも野火止用水は多少とも給水されることになっておりました。何より、村内に平林寺の井戸の他に井戸がないのですから、給水しないわけにはいかなかったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応三年間設以来、御上水三分の一の割をもって六尺口のところ、明治三年四月御改正となり、伏樋立一尺三寸、横一尺五寸四分、寸積二百坪、水賦金永三貫四百四十五文、&lt;br /&gt;
::ただし、水銀高永百文に付、五坪四合八勺六九九、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは[[大和田町]]役場現存の文書です。この六尺口というのは分水口の寸法で、それには沿革もございますが、水賦金は明治になって始めて村掛りになったもので、その前は一文半銭たりとも、用水の負担はなかつたのでございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:明治四年民部省土木司へ請書&lt;br /&gt;
::水積　一寸四方　寸坪二百坪&lt;br /&gt;
:::水積寸坪六十四坪九合二勺、飲用水&amp;lt;br /&amp;gt;人員千百六十四人、但百人につき、寸坪三坪割合&amp;lt;br /&amp;gt;引テ&lt;br /&gt;
::水積寸坪百三十五坪、田用水&lt;br /&gt;
:::田反別百二十一町一反四畝二歩、ただし一町につき一坪一合一勺五○七&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大体の受用について飲用、田用の二種に分け、さらに内訳が書いてございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[野火止村]]百三十戸、人員七百七十五人、寸坪二十二坪七合七勺&lt;br /&gt;
::百二十七人、菅沢堀、三坪八合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;三百十九人、上（うわ）堀、九坪五合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;二百七十人、下（した）堀、八坪一合&amp;lt;br /&amp;gt;四十一人、北野堀、一坪二合二勺&lt;br /&gt;
:[[北野村]]二十戸、人員百五人、寸坪三坪一合五勺&lt;br /&gt;
::人員五十九人、本村分、一坪七合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;同四十六人、野火止村分、一坪三合八勺&lt;br /&gt;
:[[菅沢村]]四十軒、人員二百七十一人、寸坪八坪一合三勺&lt;br /&gt;
:[[西堀村]]五十六軒、人員三百二十九人、寸坪九坪八合七勺&lt;br /&gt;
::百五十四人、本村分、七坪六合二勺&amp;lt;br /&amp;gt;七十五人、下堀分、二坪二合五勺&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[館村]]、[[引又町]]、[[宗岡村]]、[[宮戸村]]は、各田地の面積を挙げ、その使用量を割り出してあります。水路図で見ないとわかりにくいのですが、野火止用水は三条の流れになって、野火止、菅沢、西堀の三部落を通っております。この流れの末が志木に入り、それから田用水になるので、志木より手前では飲用なのです。国定教科書が野火止用水を灌漑用と書いているのは、よろしくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今日においても、野火止には井戸がはなはだ少ない。井戸はあっても飲み水にならないのが多い。天明の時期に井戸のある農家がないといったのは事実であろう。それだけ、この用水の恩恵が大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*05]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/04&amp;diff=357</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/04</title>
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		<updated>2026-07-04T10:35:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第四章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その四　玉川兄弟の失敗==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水は今日でも分水口が十六箇所ございますが、享和の頃は三十三箇所ございました&amp;lt;ref&amp;gt;『上水記』三には、分水口として以下の33か所が記されている。拝島村、殿ヶ谷新田、柴崎村、砂川村、中藤新田、&#039;&#039;&#039;野火留村&#039;&#039;&#039;、平兵衛新田、小川村、榎戸新田、鈴木新田、国分寺村、大沼田新田、野中新田、田無村、鈴木村、関野新田、下小金井新田、下小金井村、梶野新田、千川口、境村、品川用水、無礼村、烏山村、上北沢村、下高井戸村、幡ヶ谷村、三田用水、淀橋の水車、原宿村、千駄ヶ谷：戸田因幡守抱屋敷へ引取候上分水口、四谷内藤宿：内藤大和守下屋敷へ引取候上分水口、四谷内藤宿　田安御下屋敷水口。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この分水口について、いつも色々と問題が起こりますので、郡代からも御普請奉行からも、常に吏員を出して実地を踏査させております。誰もが知っている大田南畝の『調布日記』&amp;lt;ref&amp;gt;大田南畝『調布日記』は全三巻。&amp;lt;/ref&amp;gt;は、文化五年の十二月から翌六年の四月まで、当該地方を巡回した記録であります。南畝はそのほかに『向岡閑語』と『玉川砂利』&amp;lt;ref&amp;gt;『玉川披砂』二巻は社寺などの記録。『玉川砂利』一巻および『向丘閑話』二巻は随筆である。&amp;lt;/ref&amp;gt;を書きました。ああいうものは南畝以外にもいくつかあってもおかしくないのに、一向に伝わっておりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　佐橋長門守は職掌の上からも、知っていないはずはありません。また、幕閣としても、どんな地方問題が起ってくるかもしれないため、『玉川上水堀之起発並野火留村引取分水口訳書』のような調査が必要なので、老中松平伊豆守が調査を命令いたしましたのも、自分の領地に関するだけの意味ではありますまい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　命を受けた佐橋長門守は附紙をして「玉川上水堀割之規発並野火留村引取分水口訳書帳面、ご覧に入れますことにつき、申し上げました書き付け」と書いて、本書の来由と信頼できる理由を述べています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:千人頭・原半左衛門の組で与頭（くみがしら）を務める小島文平は、その土地の生まれ育ちでございますので、玉川上水の掘り割りの始まりや、野火止村への分水口が作られた訳について、先祖より申し伝えたこと、地元の伝承をよく心得ているとのことでした。そこで、文平が江戸へ出て参りました折に呼び寄せて詳しく尋ねてみたところ、玉川上水の掘り割りの成り立ちについては、役所の書留（公式記録）とも一致する点が多くございました。その上、野火止村への分水の訳についても、以前お下げ渡しいただいた御留書（控えの文書）の内容を念頭に置いて聞き取りましたところ、事実として合致する点が多々見受けられました。これは有力な参考資料になるのではないかと考え、彼が話した内容を書面にして提出するよう命じましたところ、このたび別帳（報告書）を差し出して参りました。つきましては、内容をご高覧いただきたく、ここに差し出します。以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:亥の年九月&lt;br /&gt;
::佐橋長門守&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この亥年というのは享和三年（1803年）であります。それは大河内家文書の中に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:享和元酉年&lt;br /&gt;
:一　当時水道御奉行佐橋長門守様の由、野火止名主申聞之&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるだけでなく、累代武鑑御普請奉行のところに、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:享和元酉十一月十二日　御目付より&lt;br /&gt;
:文化五辰十一月廿六日　京都町奉行&lt;br /&gt;
::佐橋長門守佳如（ヨシユキ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と見えますのでわかります。ただ残念なことには、松平伊豆守信明から佐橋長門守へ交附した留書というのが、大河内家にその控えがあるはずなのに残っておりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小島文平は当時千人同心で、八王子千人町におりましたが、その先代・善兵衛は小川村に住み、大庄屋を勤め、村内の人足を引き連れて玉川上水工事に参加した。それゆえ野火止分水堀割にも立合ったので、詳しい申し伝えもある。佐橋は文平の申立を聞取り、勉めて証拠を求め、是認すべきことを知り、さらに書面にさせて、分水口の現状記録とともに幕閣へ答申したのでございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小島文平の書面に従えば、庄右衛門・清右衛門の設計は二度も失敗している。その失敗の証拠は古堀敷を残しておりますから、動かせない事実と思います。古堀敷の踏査は別に書きますが、まず第一の失敗は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川は水元が甲州都留郡　小菅山・多波山、武州多摩郡　日原山の渓間から流れ出、三流合同し、厳に争い流れ下るため、水は非常に軽い。長流水なので仙薬に等しいため、御本丸かかりになり、その残水を御城下へ下されたので、これに勝る御救があるだろうかちうことで、武州多摩郡国分寺村の真姿の流れを、合水に引入れるのがよい、と目論んだ。多摩郡日野の渡の側にある青柳村の下、今の府中領田用水口から引き入れ、府中八幡下から往還の方へ堀曲げ、梁谷村の裏通を掘り、合水としたならば、出水のとき、堰を押し流しても、狭山にある筥が池も、武蔵野を流れ流れて谷保村にて合水になり、南池とも水流れ流れるだろう。三筋合同すればひでり水の災いはない。そこで四ツ谷大木戸へむけて盛り渡した。すると、八幡下は井筋が低く、水入かねた古堀敷が甲州海道堰屋塚前にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ということで、失敗の証拠は府中八幡下にある。享和三年に小島文平の書いたものは、玉川上水工事のあと百五十年過ぎた後年の記録ではあるが、ただ後年のものだというだけで放棄していいというわけではない。当時のものだからといっても吟味せずに鵜呑みにする訳には行かないのと同様でこざいます。文平の書き上げにしても相当な取捨選択が必要でありますが、玉川兄弟の設計の第一の失敗は、八幡下の古堀敷を証拠として、前掲の記載を採用いたしたい。それから設計を新たにして、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:それから六、七里、川上へ登り、福生村地口から引き入れ、四ツ谷までの水盛も済み、関東御代官・伊奈半十郎殿、承応二年よりなお伊奈半左衛門殿かかりで、家来差出、御扶持方を給わり、人足は村々より差出し賃銀をくだされて、堀渡しを行った。大猷院様（家光の諡号）の思し召しを継がせられ、厳有院様（家綱の諡号）にもご賢慮を御いたわしあそばされ、どれほど堀割ができたか見分してきなさい、と惣奉行・松平伊豆守（信綱）殿へ上意があった。その日帰りで時々ご見分したところ、御城より直に御一人乗切で、御越しなさって、堀割の始末について言上があったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊奈半十郎（忠治）は承暦二月十一日、玉川水道奉行になったのであります。この人は庄右衛門・清右衛門の案内で、第一設計の踏査をしております。伊奈半右衛門（忠克）&amp;lt;ref&amp;gt;「伊奈半&#039;&#039;&#039;左&#039;&#039;&#039;衛門」が正しい&amp;lt;/ref&amp;gt;は半十郎の嫡男で、父が承応二年六月二十七日逝去いたしましたから、代わって水道工事の係になったと見えます。ここは文平の書き上げの書き方がよろしくないので、わかりにくい。伊奈の系図で見ますと明白です。家綱将軍が二度日の設計によって始めた工事を心配されたというのは、いかにもありえることと思われます。しかし、松平信綱は、庄右・清右が上水の設計を申し立てたときから阿部豊後守とともに関係しておりますが、この工事の惣奉行になったというのははっきりとしません。いろいろ探して見ますと、宮崎成身の『国字分類雑記』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;国字分類雑記&#039;&#039;&#039;』：宮崎成身撰、全39巻（本編35巻、付録4巻）の随筆・考証資料集。&amp;lt;/ref&amp;gt;玉川上水の項に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応二癸巳年正月十六日、松平伊豆守を奉行として、玉川上水を江戸へ引くための水道を穿たせた(山本筆記)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのを見つけました。だが、『山本筆記』は見ておりません。植田孟縉の『武蔵名勝図会』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;武蔵名勝図会&#039;&#039;&#039;（むさしめいしようずえ）』：12巻12冊。別名『武蔵国名勝図会』。多摩郡の地誌である。著者、植田孟縉は、八王子市千人同心組頭の植田家の養子で、『新編武蔵風土記稿』の編纂にも携わり、多摩・高麗・秩父三郡の廻村調査を行った。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも、信綱が総奉行であったと書いております。前にも述べましたとおり、松平信綱に関する資料は稀少なのでありますから、宮崎氏に感謝しなければなりません。こうして、小島文平の臆測の説ではないことがわかりました。もちろん、他に傍証もございます。さて二度目の設計で工事を進めていきますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:さて、堀渡も済み、江戸表へ水懸りは間違いないということを申し立て、水を仕懸けたところ、今、字に水喰土と唱えるところ、熊川村地内で水は残らず地中に引きしみてしまい、流れなかったので、詮方（せんかた）も尽きた。伊豆守殿の家来・安松金右衛門に再び水盛するように伺いがあり、仰せつけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今度は熊川村で水が止まってしまいました。これも古堀敷が残っており、今日も水喰土と書いてミヅクラヒド（みずくらいど）と字（あざ）の名を呼んでおります&amp;lt;ref&amp;gt;水喰土:&lt;br /&gt;
福生市大字熊川1359-1「みずくらいど公園」として玉川上水開削工事跡が保存されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。『武蔵名勝図絵』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;上水口跡&#039;&#039;&#039;　福生村の西寄り。ここに玉川上水口の堰所がある。そのいわれを知る者はいないが、堰の跡があって、今は水も入らない。伝へに言うには、玉川の最初の引入口に堀ったが、水道が便利ではないために工事がとまり、今の羽村の地へ掘り替えた古堰であるという。傍に関上明神の小社がある。これは初めに堰口に水神を祀った小祠である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのが、それだと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第一の青柳村線、第二の福生村線、どちらも失敗に帰しましたから、松平信綱は自分の家来の安松金右衛門に設計させた別の案で幕閣の指揮を求めたというのであります。そこで別案によって工事を進捗させることになり、安松は全部で三種の設計をいたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽村地内尾作から五ノ神村に懸り、川崎村へ堀込み、福生村にて出合う積りで水盛りを渡し、堤なく、堰も洗堰で、万代不朽の御場所であることを申し上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが第一案で、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽村地内阿蘇宮から堀り込み、川崎村へ懸り、福生村へ落ち合うべき積りで水盛をし、尾作同様の御場所、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが第二案で、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:とりわけ阿蘇宮の方が勝っている訳は、尾作は水突き当っているため、水門の保ちがどうであろうか。その上、御田地が多くつぶれ、阿蘇宮も少しは御田地が潰れるので、なお場所を見立てるべきであるという御評議があり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安松はさらに第三案を提起いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽村前、丸山裾から水を反させ、今、水神の社を祀っているところに堰入、川縁通り堤を築き立て、井筋とし、福生村より堀入、熊川村地内から拝島村裏まで、水喰土の前後は捨塀にし、堀筋を替え、水仕替け、狭山にある筥が池の流れも、今の砂川村裏で御上水に跨るので助水合同し、江戸へ十分に水懸り、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第三案が採用されて、玉川上水工事は成功いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:御上水堀渡のことは、信綱朝臣の善政が多い中、三大政のひとつである。これにより御上水懸り高三歩倒褒美として下されたということで、（伊奈）半右衛門殿家来、堀割を取扱われた出役の者も、それぞれに御褒美も下されたという。また、庄右衛門・清右衛門は玉川と名乗るべき旨、苗字御免があった。明暦三年、銀九貫七百五十匁下され、羽村水元の御普請、江戸内の樋耕伏替え、水銀を取集めることを仰せつけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といい、なお、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:安松金右衛門の水盛、堀割は御郡代の懸りであって、最寄の村々から人足を出し、願人は庄右衛門・清右衛門、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といってあります。安松の設計によつて伊奈の手で工事をなし、玉川両人は発見者として記録されたというのです。玉川両人の書き上げにも賞与を受けた日時が見えません。したがって、『上水記』を初めとして、玉川両人の書き上げによって書いたものには、いずれも受賞の時日がないのでございますが、『徳川実紀』には「承応三年六月廿日、この日、去年命ぜられた玉川上水が成功したため、そのことを奉った町人へ報金三百両を下された。」と書いてあります。褒美の金だけ頂戴しているのですから、苗字帯刀を許されたことが疑わしくなり、『府内備考』などは、武蔵野開墾人の中に玉川次左衛門という者があるのを挙げて、「書上にいうように、玉川姓を賜わったというのもいかがであろうか。」と言っているのが目につくようにもなります。もちろん、庄右・清右が玉川を上水によろしいと見立てた。その発見は確かに彼らの功績に相違ありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川両人は再度失敗しておりますが、その設計には実測しないはずがない。どのような方法を執ったか、それについて阿部弘蔵氏の発表されました『玉川上水ノ工事』&amp;lt;ref&amp;gt;阿部弘蔵「玉川上水ノ工事」『文』第2巻4号（金港堂）&amp;lt;/ref&amp;gt;がございます。これがすこぶる面白く思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この頃は測量の術もいまだ開けておらず、量地の品などもなかったため、清右衛門兄弟がこの水路の高低を量るには、ひたすら夜に業をなした。役夫らに、程近い所には線香の火を持たせ、程遠い所には提灯を持たせて、かなたへと行かせ、その火の光りが見えないのを度とし、前に量った場所を準として尺をあて、ここはあそこから何尺何寸何分高く、この場所はあそこから何尺何寸何分低く、この地はあの地から何十尺、左の方に寄り、あの場所は何百尺、右の方に傾いている、ということを明らかにし、再三測り、試みて、始めて水路となすべき一つの線を見出し、これを上水の渠と定めたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　阿部氏は何によって書いたのか、出所を述べていない。しかし、こういう測量の方法は、以前から行われていたので、『常山紀談』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;常山紀談&#039;&#039;&#039;（じょうざんきだん）』：江戸中期の随筆、歴史書。正編25巻、拾遺4巻、付録『雨夜灯』1巻の全30冊。湯浅常山著。自序は元文四年（1739年）。戦国時代から江戸時代初頭の武士の逸話や言行を集大成したもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:朝鮮の平安川は深さ八～九尋、四～五百石積の船の往来があって、日本では見ない大川なので、川の広さを諸家の士が、七～八町、十町、あるいは十二～三町あるだろうなどと言うが、明らかではなかった。恩田長政の士、吉田六郎太夫・又助の父子に見積りをせよと下知された。そのようなことに慣れていないため、覚束ないと辞退したが、父子の組に功みな者も有あるだろうと言われた。翌朝、又助は組の士を引きつれ、川岸に出、川の向こうに朝鮮人が三人見えた。又助、「小柳権七は身長が高い。あの向いの人が退かないうちに、急いで堤の上を行け。指物を振った時、踏み留まれ」と言い含めた。権七は走って行き、その身長が向いの人と同じに見えるとき、指物を振ると立ち止まった。そこでその間を打ってみると、八町五段である。長政はこれを聞いて「又助二十一歳、老功の者にも劣らない」と称美された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあって同じ方法なのです。この方法によって玉川両人が測量したというのだが、小島文平は野火止分水の話にして、こういっております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:野火留用水口のこと、堀割の始末に種々の雑説があるが、伊豆守殿が拝領したという話が里語（地元の伝承）と符合している訳は以下のとおり。堀筋は上口が一間半、敷（底）が一間、左右の土手が一間、分水口から四里の間は除地（年貢免除の地）とされた。これは、御褒美としてくだされたものではなく、私領の免直り（めんなおり＝年貢率の調整）ぐらいであったが、御料所の地所を潰し、特に堀筋を往来自由にさせるためであった。そのため、道敷まで領地として下されるというはずもなく、この点をもって推測しても明らかである。拝領があってからは、昼夜を問わず、水盛・掘割をおこない、灯燈の腰に黒く筋を書いて目印・目当にした。後に金右衛門はこれを平林寺へ納め、その功績を永く伝えようということで、今もこの寺では、その合印（マーク）の灯燈を用いているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　信綱が玉川上水の三歩を拝領して、野火止用水を疎開したことは、全く伝説だけであって、文献の証拠となるものはありません。また、野火止用水のように、大名が自分の領地のために、幕府の施設物を頒与され、土地をも使用させた例もないのです。それはまず差し置きまして、安松金右衛門が野火止用水設計の際、測量に使用した提灯を、信綱の菩提所である野火止平林寺へ納めたということですが、現在平林寺では山道のついた提灯を使用しております。吉田藩士・長坂氏の『自他隨筆』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:平林寺の燈灯の印は山道形である。御屋敷下目付の燈灯印も同じことである。竹の尺を定め、燈灯をともし、高下を見たのである。&lt;br /&gt;
:所は堀わりはしない。二つ三つ探っておけば、水勢が強いため、三～四日に自然と水道がつくという。&lt;br /&gt;
:山道形&lt;br /&gt;
:――高いところは掘けずれ、と。&lt;br /&gt;
:――低いところは土手をきずけ、と。&lt;br /&gt;
:水利のときの燈灯の印である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　山道の提燈は安松が水利工作の時に便用したものであることがわかる。また、長坂氏によって、小島文平が平林寺へ納めたというのも確かだとわかります。阿部氏が出所をいわずに、玉川上水の測量に便用した提灯の話の根拠も分かってきました。山道の提灯を玉川両人が測量に使用したことは旁証がなく、安松が使用したことは後々のものにもせよ書体があり、平林寺では現在も便用しております。阿部氏のは伝説の聞き書きと思われますが、それさえ安松が例の提灯を使用して、玉川上水工事の測量をいたしましたから、当該地方にも伝説が伝わっているのではないかとさえ思はれます。もちろん、玉川両人が使用したものならば、松平家（今日の大河内子爵家)で襲用されるはずのないものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『高士略伝』に、安松が野火止用水について、二様の設計を立てたことが見えます。これも、玉川上水について最初に二つの案を提出したことの誤伝らしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「ここに水道を作ることができる道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千年も不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　いずれも伝説であつて、考証が困難なのは誠に残念に思います。しかし、玉川両人の設計が二度も失敗していることは、実在する古堀敷によって明確であり、野火止用水が三年がかりで疏通したのでないことは、玉川上水の話と聞違ったということはわかります。また阿部氏の記述をひもといてみると、山道の提灯は安松の使用したものとわかり、そうすると彼が玉川上水工事の実測を行ったと考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水が出来上がりましたのは、明暦元年（承応四年改元）三月でありまして、玉川上水の成功（承応三年六月）した翌年翌年なのでございます。これは川越城主松平伊豆守信綱の家来・小畑助右衛門、安松金右衛門の両人が、一万石開墾の計画を立てまして、まさに玉川上水起工の際から着手いたしました。それは榎本『万之覚』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武蔵野火留新田、同巳（承応二癸巳）の春中から、同八月中まで、五十四～五間（間の字は軒の仮用）家出来ました。家一軒に金二両、米一俵ずつ御貸しをなさったと承っております。但、伊豆守様より。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてございます。大和田町沿革に従えば、信綱はこの新墾に当って、一夫に一町の地を授け、七間半に四百八十間の地形と定め、その半を林とし、他を宅地と畑とし、全体の八分の一を年貢地と定めましたから、住民は地が肥えているか痩せているか、年の豊作・凶作に拘らず、税金に苦しむ者がなかったといいますが、この計算は不安なもので、吟味の限りではない。ただ伝説として大概をいうのに止めたい。正確な領地高は当村の文書が出て来ないので、残急ながらわからないのであります。新農村には御年貢の心配は無かったとしても、『高士略伝』にございますとおり、「その頃、野火留は武蔵野で、井戸もなく、泉水が湧出する所もない」ので、井戸を掘っても三十尺以上の深さになって、ようやく水が得られるほどであったといいます。それは当所のみのことでなく、武蔵野一帯の有様で、元禄の頃までも柴行水（しばぎょうずい）が行われていたところがございます。茅を刈りまして、日陰で乾燥させて、それで身体も手足も拭つて、入浴に代えるのが柴行水であります。入浴はそれでも済むでしょうが、飲料水は猶予のならないものでございますから、飲用水のないところには住居は出来ません。つまり、野火止用水は灌漑のために出来たのでなく、飲料のために作られたのであります。&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*04]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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