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	<title>シラキのコホリ - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-07-16T22:04:41Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/13</title>
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		<updated>2026-07-11T15:31:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十三章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ|）  ==その十三　江戸っ子の自慢==  　江戸では飲料水が尊かった。要するに、飲料水が乏しく、また得がたくもあったからです。一方では江戸っ子が水道の水を自慢すると、他方で…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十三章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十三　江戸っ子の自慢==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　江戸では飲料水が尊かった。要するに、飲料水が乏しく、また得がたくもあったからです。一方では江戸っ子が水道の水を自慢すると、他方では上方者は江戸の水の悪いのに対して、何よりも京の水を誇っておりました。その京自慢はどうにも否定はできません。八百八町に井戸はどれあってもよい水は出ない。明治になっても、雑水と飲料とは整然と分けてありました。水道の水と掘り井でも清冽な水とを飲料に供し、一般の不良水は雑用としてありました。決して混用いたしません。若し飲料水を雑用すれば、誰もがもったいないことをするといい、家の中ではお眼玉をちょうだいする。隣近所からは不道徳な人間だといって指弾されます。それが習慣になっておりましたから、子供でも飲料水をほかのことに消費することはなかったのです。それから、雑水しか出ない井戸でも、井戸を潰すということは厳禁で、井戸を潰せばその家に祟る、その町が寂れると信じられておりました。さすがに欲張った地主であっても、古井戸を潰すのさえ忌み憚ったものです。そうした旧習が破れて、いつからか、盛んに飲料の水道の水が浪費され、しきりと井戸を潰すようになりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　現今は、井戸を掘れという声が聞こえてきました。また、全市の井戸町サヲして、非常給水組織をこしらえるとやら。これは先年の大震災に教えられて出た知恵なのでしょうが、さらに防空施設として井戸ほどのものはあるまい。東京市は百年の計だとして、第一期江戸川、第二期利根川、第三期霞ヶ浦と水道計画を立案したと聞く。水道の規価もだんだん拡大するだろうが、住民の増殖と同道して行けるであろうか。そうした計画は感謝すべきではあるものの、いずれにしても土地に乏しい飲料水なのだから、真っ先に水道の水はもっともっと貴んでもらいたい。雑水の井戸が一つあっても、それだけ飲料を費やすことが減じる勘定です。しかし、水道の水を貴んで、飲料以外に消費しないようにしようという心掛けのない人間には、お話も御苦労様にすぎない。江戸では玉川・神田の両上水があるのに、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:寛文元年（1661年）十月&lt;br /&gt;
:一　町中に井戸はなく、町数多くありますので、今から以後は、一町に井戸五つ、あるいは六つ、掘っておくべきである。&lt;br /&gt;
:同十一月十五日&lt;br /&gt;
:一　町中に井戸のない町は、一町に井戸を五つあるいは六つ掘るべきである。ただし、年内に井戸を掘ることは迷惑とのことで御訴訟申し上げる町は、御定めの外から水溜を多く置くべきである。手桶も右と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　火事の用意が主であったらしいが、こういう布令が出ております。幕府は某海外にもはなはだ深い考慮を巡らしており、市民もまた上水の恩恵を感謝しておりましたので、鑿井は非常に困難でもあり、大変な費用を要したにもかかわらず、よくその負担に耐えて、全市に多数の鑿井を見るに至ったのであります。鑿井に上水尊重の意味が合ったことをこの際に見ないようでは、江戸生活を知ることができますまい。上水を貴いものと思っていた証拠を手短に申すならば、児童の教科書であった江戸往来（続江戸往来を江戸往来と呼ぶようになって、先板の江戸往来を自遣往来と改めました）に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:かつては草深く生い茂るばかりだった武蔵野も、今や名に残り、明け方の月がまるで自分の家から出て、また自分の家に入っていくかのように思えるほど人家が密集し、その繁盛ぶりと豊かさは想像を絶するほどである。しかし、この場所は東西に土地が傾いていて湿気が深く、さらに水はたいそう塩辛かった。そのため、愚かな私どものような者は、自ら東西に馳せ、南北に走り回って水を求めたが、わずかな暇さえ得られなかった。家業はおろそかになり、時間を費やし、心を砕く日々であった。そうしたところ、尊き大君（徳川家綱将軍）が、かたじけなくも遥かにお聞き及びになり、「ここから十余里ほど西に行けば玉川がある。その水は清らかに冷たく、味もまた格別である。その水をここに引き、民を安心させよ」と仰せ出された。これによって、山を掘り、岩をうがち、数ヶ月にわたって工事に励んだ。その結果、ついに明暦年間に、少しの障りもなく江戸城下に水が到達したのである。長く流れる水は、幸いにも人々の「楽」となり、病を治し、患いを除き、渇きを癒やした。里の民の快楽は、何事もこれに及ぶものはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と冒頭に書いてあります、それ程に貴んだ上水であるため、「江戸自慢」は安政度に&lt;br /&gt;
書いた新しいものではあるが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:江戸中に井戸はあるが、飲み水は上水を用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。細川越中守綱利といへば、肥後熊本の城主五十四万石の殿様ですが、この殿様が白金の下屋敷へ、玉川上水を引いて滝をこしらえたと聞いて、国家老の長岡帯刀が、熊本から江戸まで海陸二百八十八里を駆けつけて、できたばかりのお庭を取りこわさせて、即刻帰国したといって、元禄度にこの名家老の噂が高かった。また、延享四年の落書に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:御本丸大奥十丈の滝、岩ぐみ龍門の体、暑気の節、特別に大仕掛、御女中様を御慰めする。&lt;br /&gt;
:このこと、表の者は知らぬことである。当夏御普請できたとのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは九代将軍家重の時の話で、表へ知らせずに玉川上水の滝を大奥の庭中へこしらえた。表とは幕閣をはじめ諸役人のこと、秘密にこしらえさせたのです。大諸侯でも熊本の殿様が、江戸の市民の飲料水をおもちゃにすることは、名家老・長岡帯刀のみならず、決して許しません。家重将軍は賢明な聞こえのある人でもないが、側近の者が外聞をはばかり、玉川上水での滝造りの一件はおし隠したのでしょう。天下様の威勢からは何の遠慮もなそうな家重将軍といえども、市民の飲料水を自私の娯楽に費すことは、悪徳な奢侈とされた。悪徳な奢侈、威勢とか、権力とか、そんなことを超越しています。江戸の故老は大御所様（家斉将軍）の栄華を前代の家重将軍に比較して、一般の論難を割引きさせようとした。それは小判の数を多く費やすよりも、水道の水を乱用するのが悪徳だと思っていたからです。それで家重将軍の当時にも、小判でいへば多いとも思われない、大奥の滝造りを隠蔽した心持ちが知れる。公方様さえこうであるから、長岡帯刀が熊本から飛んできたのもただちに頷けましょう。さらにさらに、それほどの上水の水を庶民の分際で、飲料でなく産湯につかったのは、なるほどなるほど、江戸っ子が大いに自慢したのも、実にごもっとも千万な成行でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先年、江戸の鑿井についていささか申し述べたことがございますが、それは鑿井の困難なことと、その必要とを考えたのです。元禄度には江戸に水屋さんなるものが営業しておりました。この水屋さんは、飲料水になる井戸水を汲み、一担二荷の水を細長い桶へ入れてかついで歩きました。水道の桝に遠い家々では、水屋さん一荷入れておくれと叫んでいるのを、私どもの幼いときに聞きました。明治の十何年というころ、一荷一銭であったと思います。水道はあっても、共用栓・自家用栓といった給水施設が行き届いておりませんでしたから、水屋さんが江戸をまたいで東京の始めにも営業をしておったのです。これは鑿井のありがたみですが、その上に水道尊重の意味を加えてご覧いただきたいと思い、ここに付録いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*13]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/12&amp;diff=366</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/12</title>
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		<updated>2026-07-11T12:52:53Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十二章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ|）  ==その十二　玉川上水の記事==  玉川上水についての記述は、いろいろあるようですが、江戸会誌第二冊第十一号（明治二十四年十一月二十六日発行)の「上水渠鑿通」記事がい…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十二章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十二　玉川上水の記事==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
玉川上水についての記述は、いろいろあるようですが、江戸会誌第二冊第十一号（明治二十四年十一月二十六日発行)の「上水渠鑿通」記事がいずれよりも簡明でよろしいと思います。よってここへ付載して、本文とともにご覧を願うことにしたい。&amp;lt;ref&amp;gt;この引用もすべて現代語訳している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川上水は府下三上水の第一である。その源水は多摩郡羽村に於いて多摩川をせき止め、&lt;br /&gt;
::『上水在絶略記』（『御府内上水在絶略記』）にいう。水元・羽村の川幅は6町あまり。一円の井堰をもって江戸の方へ水を堰く。これを羽衣の堰といい、また時雨の堰ともいう。『上水記』を考えると、水神川の下に一つの水閘を設け、石籠（じゃかご）で多摩川の全流を堰き止めて水門に流れ入る。これを大堰通という。大小の投渡&amp;lt;ref&amp;gt;投渡（なげわたし）：洪水時にあえて構造物の一部を川に流すことで、水圧による決壊や周辺地域の浸水被害を防ぐ伝統的な土木工法。&amp;lt;/ref&amp;gt;および筏通場がある。水門が二つある。一つの水門内は請枠（うけわく）を据え、大小の吐口がある。二つめの水門はその水量を調べる。玉川と上水渠との間に堤防を築き、委蛇（曲がりくねって）福生村に達する。これを堤通という。春秋の水漲の際は、一、二の水門を閉鎖し、大小の投渡を払い去り、水路を開放して漲勢をそぐ。その堰上は常に沙・礫を払い、水流を渠口に導くようにし、堰の下は一、二の出し籠および棒類を置いて、堤防の水害に備える。詳しいことは図を見ること（図は省略)。&lt;br /&gt;
::また考えるに、玉川の本源は『上水記』・『多摩川考』・『調布玉川総図』（『調布玉川惣図』）などに見えるが、去る明治十一年（1878年）八月、東京府において土木課の吏員・山城祐之を派遣し、その本源を採究させたところ、甲州山梨郡神金村に一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬の流れがある。その一ノ瀬と称するものは、水源が最も遠く、流域が特に広いので、これがその水源であることは疑いようもない。しかしなお、その本源を究めれば、一ノ瀬から西北五十町ばかりのところに、角力取という一つの高山がある。その山間、字水干&amp;lt;ref&amp;gt;山梨県甲州市塩山の笠取山の山頂直下の水干（みずひ）が多摩川の源流とされている。&amp;lt;/ref&amp;gt;というところに大きな花崗石があって、その下から一つの泉が湧出しているものがある。これを玉川の最も正しい本源とする。清冽さは比べようもなく、冷たさは氷のようである。その地は東に御岳山を望み、南に富士山・大菩薩峠を望む。羽村からここに至って、まとめると20余里あるという。詳しいことは『玉川水源巡検記』（『武蔵国玉川泉源巡検記』）一巻がある。&lt;br /&gt;
:その水を分派して、これを導くこと10里30町46間（当時は13里と言った）にして、四谷区の西辺に達する。&lt;br /&gt;
::昔は羽村より東北一里ばかり、箱根ヶ崎村、狭山の池から出る一条の助水があったが、元禄のころから水が涸れて流れなくなった。しかし、秋漲に際し、羽村の水門を閉鎖するに当たっては、この川に集まり落ちる水潦が上水に入って一路の助水となるとのこと。&lt;br /&gt;
:そして大木戸の左にある水門から鉄管に入り、大路を経て麹町十二丁目に至り、二つの支管を分けて、麹町区に入り、東は皇城から大手町まで、北は番町・富士見町・飯田町、南は平河町・永田町の辺に及ぶ。その本管は四谷伝馬町一丁目から、南に転じて紀伊国坂を下り、赤坂表町の北から、溜池の東を過ぎ、虎ノ門に至る。これからいよいよ分かれていよいよ遠く、その末は千条万派して、南は西の久保、芝公園、金杉以北。東は築地、霊岸島、南新堀以西、八町堀、楓川を限り、北は京橋川以南、西は内桜田、永楽町以南、どの町も通流しないところはなく、どの家も日常の飲料はもちろん、その余りは池泉となり、跳水となり、防火の井となるなど、利用は極めて広い。水質もまた清冷で、いささかも混雑物が見えないという。近ごろ、麻布水道を設けて、大木戸の内から分派し、千駄ヶ谷・青山を経て、赤坂・麻布に通じる。去る（明治）十三年（1880年）の新設である。これまた府下、上水の内に合併された。今、樋管の延長を総計すれば、およそ4万9952間（呼樋（よびどい）はこの外である。ただし、二十一年（1888年）の調査による。以下同じ）。井の数は3000ある。右、上水の支配、設立のころはわからない。万治のころ（1658年～1661年）は上水奉行を置かれた。寛文十年（1660年）に町年寄 奈良屋・喜多村両人の支配となった（玉川庄右衛門・清右衛門は町年寄に差添支配される）。元禄六年（1693年）には上水改となって、道中奉行から兼ねた。元文四年（1739年）には町奉行に属する。&lt;br /&gt;
::この年、玉川庄右衛門、水役取り放し、再度町年寄取扱となる。ただし水源はそれ以前から代官支配であった。&lt;br /&gt;
:明和五年（1768年）以降は普請奉行に属した（はじめは目付・勘定吟味役が立ち合ったが、文化八年（1811年）に立ち会いを停められた）。文久二年（1862年）には作事奉行に帰す。維新（1868年）の後は一旦東京府所管となった。二年（1869年）3月に会計官・民部省を経て、四年（1871年）5月以降はまた東京府に属した。その経費は、幕府の時のいわゆる高割をもって水銀を課出した。&lt;br /&gt;
::古来の定例で武家は百万石あたりをもって計算し、町方は小間2間を100石と計算する。元文四年（1739年）は玉川のみおよそ金467両あまり。寛政二年（1790年）は玉川・神田を合わせて、武家の分、銀5貫497匁あまり、町方の分、銀2貫413匁あまり。ただし毎年多少の増減あり。（享保撰要録、上水記）&lt;br /&gt;
:維新の後は一時官費をもって支弁し、五年（1872年）8月からは旧町会所金（今の区部共有金、およそ10万4473円を支出する）をもって支弁したが、六年（1873年）には水賦金の法を設けて、聞小間（ききこま）に割合課出し、八年（1875年）以降はこれを改めて引取井の数に賦課した。去る明治二十一年（1887年）の賦額はおよそ2万3527円あまりである。これはその概略である。（『上水記』、『東京水道史』、二十一年『東京府統計書』）&lt;br /&gt;
:そもそも、この上水の起立について『上水記』にこうある。明和五子年（1768年）御普請方へ町奉行から請取るときの古い書留によれば、承応元壬辰年（1652年）までは、御城内ならびに御城下、上下水なく、下々では所々の水溜まり・溜池などの水をくみ、樋で仕掛け、取用いて不自由であったので（私見では、赤坂溜池に限らず、ただ水溜まりの池もあっただろう。そうすれば井の頭の池もこの文明にわたるであろうか）、上水道になるべき道筋について、町奉行神尾備前守のお尋ねによって、玉川庄右衛門・清右衛門というもの、両人の父がところどころ求めたところ、武州羽村というところから玉川の水を江戸間で道のり13里を考えた。&lt;br /&gt;
::一説に松平伊豆守の臣なにがしが考えたところである。これによって野火留分水口は格別の堀割であって、古い言い方で伊豆殿堀という。いにしえ伊豆守の家、郡方役人・安松金右衛門の工夫で主人へ申し立て、吟味の上、野火留上水ができた云々という。考えるに、このことは、詳しく明良洪範『老談一言記』などに見える。野火留の水口千二百坪（今は641坪）を引き取ったのを見れば、同所から上流は豆州の開鑿なのかもしれない。&lt;br /&gt;
:御用水になるべき旨、絵図書付をもって評定所に申し出たことにより、御老中 阿部豊後守・松平伊豆守、寺社奉行 安藤右京亮・松平出雲守・神尾備前守、町奉行 石谷将監・牧野織部・八木勘十郎、御勘定奉行 曽根源右衛門・伊丹蔵人・伊奈半右衛門など（庄右衛門・清右衛門書付の趣旨にて記した。御役名などはあえて正さずにおいている）絵図書付の書面これを一覧し、すなわち見分として牧野織部・八木勘十郎・伊奈半十郎、上水道通り、庄右衛門・清右衛門を案内として道筋6日の東流にて見分を済ませ、江戸へ帰参した。&lt;br /&gt;
::考えるに、拝島村農孫右衛門蔵文書に、「玉川から江戸へ取っております水道の両脇を見分して御用となし、伊奈半左・野村彦太・今井九右の手代一人ずつ、ならびに江戸町の年寄を一人、彼の地へ差し向けることにいたしました。そこで、その方も手付を一人出すよう申し出てください。日限につきましては、来月五日の四ツ前に高井土まで集まり、相談なさいますよう申しつけてください。委細は伊奈半左の手代が申します。自然の大雨が降りましたら延期、翌日にまかり出るのがもっともです。以上。二月二十五日　菅源左衛門、石将監、神備前守、松出雲守、設楽権兵衛様」とある。年号はないが、当時の文書であろう。設楽は正保以来の代官である。&lt;br /&gt;
:同年十一月二十五日、評定所で上水道場普請に取り掛かること、両人へ申し渡し、翌巳年四月から堀り初め、同年十一月十五日まで、四谷大木戸まで堀り渡す。玉川から水を仕掛けるべしとの指示で、羽村大川にて堰を仕立て、水を仕懸けるところ、滞りなく四谷大吐まで水仕懸けてきた。それから虎御門前まで、残らず掘り立て、十分に水が来て、その後は追々分水があって、諸方上水を取り用いるということである。&lt;br /&gt;
::考えるに、本文はまったく庄右衛門などの書上によるものである。嚴有院殿実紀には「承応二年正月十三日、麹町区芝口の市人ら、八王子玉川の水を府内に引くことをはかって訴え出たのを許され、費用として金7500両を給う」とあって、少し異なっている。&lt;br /&gt;
:御府内備考にいう。承応記に、三年（1654年）、玉川の流水、日本橋から南は水道を用いるべしと仰せ出されたという。また、寛文年録を引用していう。十年庚戌（1670年）5月25日、玉川水道は狭いため、三間広くいたし、両方の土手に植木を仕るべき旨、御歩行目付 藤井善右衛門・江守伝左衛門、両人を奉行として仰せつけられるとの旨、老中これを伝達し、水道は今後町年寄支配を仕るべき旨、老中がこれを伝達すると。その後、元文五年（1740年）に福生村へ水路310間を掘り替えたとのこと、享保撰要集に載っている。&lt;br /&gt;
::考えるに、竹橋余筆に載っている寛文九年（1669年）の文書に、拝島というところに逗留仕り、玉川から用水分け口、方々見立て、両所の水盛仕りましたところ、小作（考えるに、羽村の小字に「ヲサク」というところがある）と申すところから水盛りが出て、一里半ほど下で、野地から二尺ほど水高くまいりますつもりでございます。ここへ新堀仕ることができましたら、おおかた野中へ残らず用水掛り申すべしと存じ奉ります。またいいます。上水分け口と、このたび、見立て申しました水分け口、高下水盛いたしましたところに、四丈ほど水高いところにて分けますつもりで堀筋の杭を打たせます。上水から四丈ほど水高くまいりますので、どちらへどのように水を取るといいましても自由であると存じ奉ります」とある。すなわち、本文年録に見えるのと同時のことであって、そのころ盛んに武蔵野開墾があった。&lt;br /&gt;
:維新の後も堤防以下、改修を加えたものも少なくない。その最大であるものは第二の水門を石造とし、羽村の官舎（旧時は陣屋があって、作事方の小吏が在留していた。維新の後は東京府の吏員の出張がある）から八王子電信分局へ伝話器を通じて、日々推量の進退を報じ、府内にある樋管は3880余間を展長し（十四年の調）、また伏管は潜樋（川底を通ずるもの）を鉄管に改修し、呼樋も引用者の申請によって、鉄管を用いられる、などである。&lt;br /&gt;
::考えるに、玉川庄右衛門・清右衛門の事蹟を考えるに、おそらくは多摩川の近辺の農人である。『御府内備考』に、承応元年壬辰（1652年）、神尾備前守に命ぜられ、多摩川の百姓らを召して（原註に、庄右衛門・清右衛門という）とある。庄右衛門あるいは正右衛門に作るのは訛りである。また、両人を兄弟としたり、従兄弟としたりするものがあるが、ともに明らかな根拠はない。&lt;br /&gt;
:承応元年（1652年）に町奉行 神尾元勝（備前守）の指図を得て、玉川上水を府内に引いたとき、その費用6000両を賜ったが、右は高井戸の辺で払い尽くしたため、これに継ぐに私費3000余両をもってし、&lt;br /&gt;
::『上水在絶略記』には、はじめ6000両を給わり、自分の入り用1000両を出して、四谷大木戸まで堀割りしたとき、また2000両を給わるとある。御実紀のことはすでに上に註記した。&lt;br /&gt;
::「文」第二冊第四号に、阿部弘蔵氏の「玉川上水の工事」と題した一篇を載せている&amp;lt;ref&amp;gt;「玉川上水の工事」の内容については、本書[[玉川上水の建設者 安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟の失敗]]に詳細がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その中にいう、このころは測量の術がいまだ開けず、量地の器などなかったため、清右衛門兄弟がこの水路の高低を量るには、もっぱら夜に作業をした。役夫に、ほど近いところには線香の火を持たせ、遠いところには提灯を持たせて、かなたへ行かせ、その火の光の見えない場所まで、前に測った場所を基準として尺を当て、ここはあそこから何尺何寸何分高く、このところはあそこから何尺何分低く、この地はあの地より何十尺、左の方により、あのところは何百尺、右の方に傾いている、ということを明らかにし、再三測り、試みて、始めて水路となすべき一つの線を見出し、これを上水の渠と定めたという。とある。実に異聞であるため、ここに付録する。&lt;br /&gt;
:翌年に至って、虎ノ門外まで、水道が完全に開通したので、すなわちその功を賞して、玉川をその姓とし、かつ切米二百石分を金子にて給わって、上水役を命ぜられたが、その後、給知は水役銀に改められたとのこと（享保撰要集、庄右衛門・清右衛門書上。書上そのほかにも、虎ノ門外までのことが見えて、町々へ引き用いた工費のことは絶えて見えない。ゆえに、ある人がいう、これはおそらくは、それ以前に溜池の水を引いていた古い樋があって、これを用いたのであろうと。あるいはこういうこともあろう）。ある人がいうには、庄右衛門らの開鑿はもっぱら上水の用のみならず、かたわら武蔵野を開墾してその灌漑に供すべきためであったのだろう。開墾人の内に玉川次左衛門というものがいる。すなわちその同族の者であろう。&lt;br /&gt;
::『竹橋余筆』に、寛文九年（1669年）、武蔵野開墾の時の文書を載せている。いわく、武蔵野総高合10万9186石余、内5万5000石余、玉川次左衛門ほうじの笹を指切ました分、云々と。下にも往々同人の名が出ているが略する。この次左衛門という者は、もしかして庄右衛門の同族ではないだろうか。もし、やはり同族であるときは、書上に玉川姓を賜ったというのもどうであろうか。それはともかくも、今、多摩川を引き、途中の地形を検査するに、水路はすべて高いところに設け、もっぱら引き取りの便を計った者であることは、すでに上に言ったとおりである。&lt;br /&gt;
:しかし、ほかに明らかな証拠もないので、にわかには臆断できない。庄右衛門は元禄八年（1695年）六月八日に没し、浅草聖徳寺に葬る。法名を隆宗院正誉居士という。&lt;br /&gt;
::浅草松葉町裏町聖徳寺は庄右衛門中興開基の檀那である。墓石二基あるが、一基は台石だけがあって碑石はない。位牌が一座ある。戸主とおぼしきもの、法名四つを題している。その首に本文の法名がある。よって過去帳を閲覧するに、元禄十一年（1698年）以上は佚して存在しないが、その後に没した者の位牌に見えた年月を参照して、庄右衛門の法名であることがわかる。また、これを初代、すなわち上水起立の人と定めたのは正徳五年（1715年）の書上に、「拙者ども親両人」とあるのによって推考される。元禄八年（1695年）は上、承応元年（1652年）からへだたることおよそ44年なので、仮に庄右衛門40歳以下、30歳以上のころ、上水を創開したものと見れば、没年はおよそ70～80歳であろう。ただし、清右衛門のことはすべて考えるところがない。&lt;br /&gt;
:二代庄右衛門、名を知英という。&lt;br /&gt;
::聖徳寺石地蔵の背銘に、尊躯檀主玉川庄右衛門知英とある。この地蔵は元禄十四年（1701年）に土中より首を得たが、宝永八年（1711年）に知英がその身体を補修したものである。この庄右衛門は享保中に没した。ただし、普請役に列したというのはこの人の代であろうか。『新編武蔵風土記』に、初代庄右衛門が直ちに普請役に挙げられたように記しているのは誤りである。普請役は元禄十四年（1701年）に始めて置かれた職名である。&lt;br /&gt;
:三代庄右衛門のとき、元文四年（1739年）八月、本務をおろそかにした罪で、両人とも上水役を免ぜられた。&lt;br /&gt;
::享保撰要集に、両人の罪を得たゆえんを詳しく記している。両人とも、50日戸じめの上に、庄右衛門は江戸払い、清右衛門は水役取り放ちとなった。&lt;br /&gt;
:両家ともはじめは赤坂一ツ木にいたが、その後、芝へ移住し、子孫もいたが、文化・文政間（1804年～1830年）に家が絶えたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この記事では江戸水道の大概を知るに止める。安松吉実の事蹟を考えるたすけにはならないと思うので、その後の記録を採用しない。また、玉川庄右衛門についても、この記事につけていうべきことはあるが、安松のことにかかわらないので、さておく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*12]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/11&amp;diff=365</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/11</title>
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		<updated>2026-07-04T13:37:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十一章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ|）  ==その十一　宗岡の古図==  先年、宗岡・内間木の両村を訪れ、若干の文書絵図も見、古老の昔話も聞きました。宗岡3000石と言っておりますが、正徳二年（1712年）の記録には1600…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十一章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十一　宗岡の古図==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先年、宗岡・内間木の両村を訪れ、若干の文書絵図も見、古老の昔話も聞きました。宗岡3000石と言っておりますが、正徳二年（1712年）の記録には1600石とあります。承応二年（1653年）年貢割付には、高523石2斗3升、寛文四年（1664年）には606石6斗7升になっております。宗岡新田の旧家・市之瀬幸太郎という人が持っている古図では、全村を上中下に三分し、宗岡新田は村の中央にあって中組の場所である。これは白井武右衛門の開墾による、と言い伝えている。伊呂波樋の末端は精進場（本名・下ノ谷）に達する。樋の所在からいえば全く川越領（信綱の采地)で、上宗岡へ灌漑した余りを白井が岡部領へもらったもののようである。白井の新田開発と伊呂波樋の流末を貰ったことは別のことである。とすれば、白井が河越領の用水工事に手を出すはずはなく、またその費用についても2000石の岡部氏に出せる者ではないはずだ。信綱の采地だからこそ、まさに訳書のとおり、安松が伊呂波樋も工夫し、武蔵野開発の規模に沿って働きそうな話であります。東京市史稿は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:白井武右衛門と称する者は岡部忠直の臣である。正保元年甲申（1644年）宗岡村を忠直に賜って采地とした。当時、同村は灌漑の利がなく、水害が多いことを患っていた。この者にそのことを管理させたところ、この者は心を民益に尽くし、堤を築くこと675間、字して佃堤という。もって悪水が侵入したり溢れたりするのを防ぎ、中に新田を開いた。寛文二年壬寅（1662年）、この者はまた松平信綱に請い、多摩川支渠の余水を分けて宗岡村をうるおすことを謀り、巨大な筧を架してこれを通じた。これがすなわち伊呂波樋である。その後、痩せた土地が変じて豊かな地となり、村民は皆その恩沢に潤った。後にこの者が没したとき、民はその功徳を思い、忘れず、文化十年癸酉（1813年）正月、旧観音堂の住僧である浄意が議を発して募縁し、その記念碑を寺の中に建てた。明治三年（1870年）庚午に寺は廃したけれども、五層の石塔はいまもなお存在し、村民は毎年6月14日にその者を祭り、今もなお廃しないという。（武蔵通志）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と付記しただけで、何の弁論も加えていません。これでは伊呂波樋は白井武右衛門が計画し実施したように見えてしまいます。この中で思い当たるのは、岡部氏が正保元年に宗岡村の采地を得たということ。そのほかは、宗岡新田というところと、本村にあるところでは場所が合わない。それを落着させるだけの資料もありませんが、岡部小次郎吉次は正保四年（1647年）8月、1500石の遺跡を相続するときに、部屋住みから召し出されて、すでに500石拝領しておりました。それを合わせて2000石になったのであり、その采地は武蔵の多摩・入間・都筑、甲斐の八代、上総の山辺、下総の香取など六郡の内にあったと申します。白井武右衛門が働きましたのは、前にも申しましました通り、この吉次が家督相続して以後のことと思われます。宗岡新田を開いたのも慶安・承応（1648年～1655年）のときと思われ、まさに野火止用水ができたのを見て、白井が伊豆守家に願い出て伊呂波樋を促成し、その余流をもらったのでしょう。それは自分の計画した宗岡新田が一段落した後でありましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安松吉実の院殿号を解説する事柄は、吉田藩士長坂氏が書いた『自他随筆」に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:久松筑前守御目付の時の公儀日記に、神田上水が出来したとき、安松を公儀よりお頼みのよし、留めてこれがあるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と見え、高士略伝にも「公儀の御帳にもその名がある」と見える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この神田上水については、江戸会誌（第2冊第12号）の上水渠鑿通記事が簡明に大概を尽くしております。寛文政修のことを述べるのに先立って、その要点を抜き書きいたしましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:神田上水は府下三上水（玉川、神田、千川）の第二である。水源は多摩郡吉祥寺村にある井の頭の池（本村と牟礼村の境にある。「井の頭」は「猪の頭」とも書く。これを本流とする）。また同郡上井草善福寺の池から流れ出るものが一条あり、和田村で本流と合する。下井草村妙正寺の池から流れ出る井草川があり、落合村に至って本流へ合する。および、玉川上水を代々木村から分流するものが角筈村の淀橋の下で本流に入る。以上三派はともにその助水である。&lt;br /&gt;
:この水は、高田を経て関口（ここまでは旧来の川筋で、白堀から以下はアラタに開鑿したものである）に至り、分れて2派となる。一つは大洗堰を下りて江戸川となり、一つは水門から目白台下にある白堀に入ってすなわち上水となる。水源からここ（花水橋以上）に至っておよそ5里26町15間とする。これより小日向・小石川の台下を経て（むかしは花水橋から工廠構外までは白堀だったが、明治十年に巻石蓋を設けられた。およそ859間3尺である）、砲兵工廠の内を通じ&amp;lt;ref&amp;gt;現在の小石川後楽園&amp;lt;/ref&amp;gt;、はじめて伏管に入り、水道橋の東において懸樋で神田川を横断する。ここから東はすべて伏管であって、縦横に通流するものが百千条に分かれる。南は京橋川以北、東は永代橋から大川以西、北は神田川を限り、西は大手町から一ツ橋の外に至るまで、すべての町で流通しないところはなく、引用していない家はない（上水記、上水在絶略記）&lt;br /&gt;
:樋管の延長はおよそ3万6452間（呼樋はここに含まない）。井の数はおよそ3663であり、そのほかはすべて玉川上水と異ならない。考えるに、この上水ができたのはその年代が明らかではない。東照宮（家康）が吉祥寺の池水を茶の湯に使われたがゆえにお茶の水と言う、ともいう。また、台徳公（秀忠）が上水開発を命ぜられたとき、大僧正天海に修法させたところ、清水が七か所から湧き出たので七の井と名付け、府内へ引いた後は「七の井は神田の井の頭である」という命があって井の頭と称すともいう（上水記、上水在絶略記、四神地名録、水元役茂十郎書上、また一説に古名「御矢の水」というともいうが出所は不明）。&lt;br /&gt;
:また、大猷公（家光）のとき、堀割したとも、寛永六年になったとも、寛永六年に始まったともあって（事蹟合考、江戸砂子、府内備考）、みな一定しない。&lt;br /&gt;
:今考えるに、諸説はたいてい土地の人の伝説、または後人の付会などに出て、一つも信頼できるものはない。&lt;br /&gt;
:そこで他書を検索すると、『大猷公実記』寛永元年四月五日の条に、松平下野守忠郷の邸（今の永楽町二丁目一番地)&amp;lt;ref&amp;gt;松平下野守忠郷は蒲生忠郷。麹町区永楽町二丁目一番地は現在の千代田区大手町一丁目と丸の内一丁目の境界付近に当たる。&amp;lt;/ref&amp;gt;にはじめて臨駕があった云々。池には樋で玉川の水をせき入れていたため、波が広くて大河かと疑ったという。ここでいう「玉川」は神田上水の誤りであって、後世、玉川上水の開鑿があったために混じってしまったものである。しかし、これによって、この上水ができたのは寛永以前であることがわかる。&lt;br /&gt;
:また、寛永二年に大猷公が佐々与右衛門実時に賜った米印状に、武州豊島郡関口村30石8斗、潮川村24石2斗云々とある。関口村は今の関口町&amp;lt;ref&amp;gt;文京区関口&amp;lt;/ref&amp;gt;のあたりであって、その昔、堰を設けて上水をせき上げたことからこの名が起こったものであるが、寛永の初めにすでにこれを村名に付けていたことから、上水ができたのは寛永よりはるか以前であることがわかる。&lt;br /&gt;
:とすれば、さらにいつの経営であるかということになるが、これはおそらく徳川家東遷の初期にできたものであろう。そのことは菓子司大久保主水由緒書に、先祖藤五郎忠行、入国の時に、江戸において水の手を見立てるべき旨の東照宮の命を受け、小石川の水道を見立てたことにより、その賞として名を主水とたまわり、さらに水は濁りを嫌うものであるため、主水（もんど）を澄んでモムト（もんと）とよぶように命があったため、歴代もんとと称しているということが見える。この小石川水道はすなわち今日の神田上水であることは疑いようがない。（町年寄旧記に、神田上水のことは御入国以来、猪の頭の池水を御公儀御入用をもって水道に仰せつけられ、町奉行御支配であって、その御用向きは拙者どもへ仰付られた。上関口・小日向・金杉の三か村、拙者ども三人の御代官に仰せつけられ、御年貢取り立て御勘定申し上げます云々とある。これは正徳四年八月の書上である。ただし、この上水を大久保の開鑿であろうと言うのは、江戸図解集覧をはじめとして数書に見えるもので、もとより私が言い出した説ではない）&lt;br /&gt;
:しかし、府内で、この水道はついに成功しなかったのだろうというのはまちがいである。もし成功していなければ、何をもって東照公は、主水の名を賜ってこれを賞せられたのであろうか（鉄砲師宗八郎に胝（あかがり）氏を賜った例などから推して知るべきである）。また『慶長見聞集』「江戸町水道の事」の条に、「町ゆたかに栄えるといえども、井の水へ塩が入り、万民これを嘆く。君はこれを聞かれて民を憐れみ、神田山岸の水を北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、この二水を江戸町へあまねく与えられた」とあることをもってそれ以前に水道がなかった証拠とする者もいるが、これはまったくそうではない。この神田山岸の水はすなわち神田上水の委流であるはずだが、年月が経っているため、三浦浄心がたまたまその伝を失って、神田山から湧き出た一脈の水泉と誤認したものであろう。ゆえに私は図解集説などの説に賛同し、この上水はすなわち大久保が開通したものであって、天正年中にできあがったものであると断定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この考証によって、神田上水は天正年中に開鑿したもので、江戸の最初の水道であることがわかります。すなわち、天正日記に、「十八年七月十二日、藤五郎まいられた。江戸水道のことを承る」とある。その神田上水は、武蔵野地名考に「その後、万治のころ、江戸川堀割ができて、小石川に掛樋以来、広大な用水となったとある。それはお茶の水の鑿通によって神田川・江戸川の流域が変更したときに、神田上水の小石川掛樋ができたのです。お茶の水鑿通は伊達陸奥守綱宗が、幕命を受けて、万治三年二月から寛文元年四月まで、14か月がかりで竣功いたしましたから、神田上水改修は寛文元年のことです。この改修は井の頭ほか二か所の水を玉川上水の補水にしたので、牟礼村から小石川まで、樋がなくて流れる。これを白堀（しらほり）と申しました。訳書にこの白堀の計画を安松が立てたと言っております。自他隨筆に幕府から安松をお頼みになつたというのは、この事を指したのでしょう。幕府が諸藩の家来に直命することは、はなはだないことですが、誰もが知っている例は、吉宗将軍が郡山藩（柳沢）の儒学者である荻生惣右衛門に命じて、六諭衍義の和解をさせ、また、諮問に答申させたことがあります。こういうような場合に、藩中では格別な扱いをいたします。その別扱いが死後にまで及んで、院殿号などということもあるのです。そのことごとくがそうなるわけではありませんが、若干の例はございます。江戸時代には寺院の方でも、なかなか厳重でしたし、ことに藩中が格別なことを傍観しておりません。何の理由もなく院殿号などをつけたら、ただちにその家は処分されます。しかし、金右衛門吉実に院殿號をつけたことについて、つけてよい理由があっても、ただいまその証拠とすべきものは何もないのです。誠に残念でなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛文二年、信綱の嗣子輝綱が家督をつがれたとき、川越へ遣わされて、郡代にされたといえば、彼が隠居退職した年次はわかりませんが、伊呂波樋などの工作が最後の御奉公であったのかもしれません。彼は貞享三年十月二十四日に没しましたが、年齢は知れません。正保以来、二代の主君に仕え、前後四十余年の御奉公を全うしたのであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十年前から、野火止開発の調査に着手いたしましたが、何分にも当村の資料が得られません。今日においても探索を怠ってはいないつもりでありますが、いかんともし難いことになっております。金右衛門吉実の事功は野火止用水については確認されます。伊呂波樋になるともう十分でなく、玉川上水については根本資料がないといわれ、寛政三年に御普請奉行上水方石野遠江守広通の上水記には一説として書いてあり、その後享和三年に御普請奉行水道方佐橋長門守佳如が肯定した小島文平の玉川御上水之起原並野火留分水之訳書には、金右衛門吉実が三度目の設計によつて、ようやく玉川上水工事が成功したことが明白に記述してあります。石野、佐橋は当職の役人で、うろんなはずもないと思いますが、川越運河の方は全く歯を没して語る者なしという有り様で、私は今後も安松氏の功績に対して、報恩謝徳のためにも、ぜひその事跡の鮮明に勉めようと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*11]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/10&amp;diff=364</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/10</title>
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		<updated>2026-07-04T10:46:34Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第十章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十　金右衛門の経歴==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　安松金右衛門は六万石の川越藩に出仕したのですが、そのときはまだ信綱が武蔵野開発の腹案を実現しようとして、高のない原野を五千石のつもりで拝領いたしたという正保四年（1648年）の御加増以前であります。伊豆守家の分限帳に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松林院様（信綱の法諱）御代&lt;br /&gt;
::本国・河内　生国・播磨　安松金右衛門吉実&lt;br /&gt;
::正保元庚申年（1644年）　月日不明、御代官・能勢四郎右衛門殿の御肝煎にて召し出され、御蔵米百俵を下されました&lt;br /&gt;
::慶安元戊子年（1648年）　月日不明、知行百石の高にお直し下されました&lt;br /&gt;
::年月日不明（万治元年（1658年）十一月）上野御修復御用をおつとめになられたとき、元締め役を仰せつけられました&lt;br /&gt;
::年月日不明、御加増三十石と七十石、二度下されて、都合二百石の高石に成し下されました&lt;br /&gt;
:智光院様（二世輝綱の法諱）御代&lt;br /&gt;
::年月不明、御家督のとき（寛文二年（1662年））川越へ遣わされ、郡代を仰せつけられ、御徒格の手代一人お預けになり、格式は独礼の格に仰せ渡されました&lt;br /&gt;
::年月不明、極めて老いられたため、御役のことを差し上げ、悴・金右衛門を代番に差出したく願い奉りましたところ、御役御免となり、悴・金右衛門に代番を仰せつけられました&lt;br /&gt;
::貞享三丙寅年（1686年）十月二十七日　病死なさいました&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。しかし、万治元年の松林院様御分限帳も同文の記載ながら、本国・河内、生国・摂津とある。本藩（三河吉田）高士略伝にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:安松金右衛門吉実は、本国・河内、生国・播磨にて、算術の達人である。正保元年甲申年（1644年）御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎によって、松林公に奉仕した。現米百俵賜り、後に百石になり、三十石・七十石、二度加増されて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。高士略伝は古くない書き物ですが、後々までも安松の生国を播磨としていたことがわかります。最初は代官に従属する元締めとして任用されたのでしょう。安松を推薦した能勢四郎右衛門は島原の陣（島原の乱）の糧食方を承った御勘定方で、信綱の出征に従った人です。この四郎右衛門は頼安と申して、正保元年（1645年）十二月二十五日に退職し、翌年十二月二十七日に死にました。その引退のときに配下の安松を伊豆守家へ推薦したとみえます。しかし、訳書には大河内金兵衛の配下の小畑・安松を推薦したと申してあります。この金兵衛は久綱といって、父金兵衛秀綱の職を継いで、永く代官を勧め、寛永十五年（1638年）十二月五日に士官をやめ、正保三年（1647年）四月三日に七十七歳で没しました。この金兵衛久綱が伊豆守信綱の実父であります。『埼玉史談』が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽生領代官として大河内金兵衛が赴任された時代、すなわち文禄三年（1595年）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのも、また、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:金兵衛様より二合半領の内、新田開発、弾左衛門（酒巻）へ仰せつけられ、首尾よく成就。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのも、伊豆守信綱の父・金兵衛久綱のことです。訳書がいう、金兵衛久綱が峡田領・川越領の代官であったという証拠は見られません。また、その時に遣わした手代のうちの才能ある両人を推薦したという。両人はたしかに信綱の武蔵野間発を補佐したのに相違ありませんが、両人は同時に推挙されていません。伊豆守家の分限帳には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::本国・丹波　生国不明　小畠助左衛門正盛（初名　助十郎）&lt;br /&gt;
:松林院様&amp;lt;ref&amp;gt;松平信綱。院殿号は松林院殿乾徳全梁大居士。家督は1628年～1662年&amp;lt;/ref&amp;gt;御代&lt;br /&gt;
:*寛永八辛未年（1631年）、月日不明、小島六太夫が申し上げ、御近習へ召し出され、御宛行二百目、二人扶持、四度御仕着（衣服の支給）を下されました&lt;br /&gt;
:*同十四丁丑年（1637年）12月、島原御陣への御供を仰せつけられ、御帰陣以後、御納戸役を仰せつけられ、新知百五十石を下されました&lt;br /&gt;
:*年月不明、御徒大頭を仰せつけられ、御加増百五十石、合計三百石下されました&lt;br /&gt;
:*年月不明、御奏者番を仰せつけられ、御加増百石下されました&lt;br /&gt;
:*年月不明、御家老を仰せつけられ、御加増二百石、合計六百石下されました&lt;br /&gt;
:神龍院様&amp;lt;ref&amp;gt;松平信輝。院殿号は神龍院殿天遊宗見大居士。家督は1672年～1709年。&amp;lt;/ref&amp;gt;御代&lt;br /&gt;
:*延宝八庚申年（1680年）閏8月6日、川越の勝手（経営）を仰せつけられました。&lt;br /&gt;
:*天和三癸亥年（1683年）10月25日、お役目の御免（引退）を願い出ておりましたところ、隠居を仰せつけられ、せがれ助左衛門に家督を滞りなく下しおかれました。また、隠居料として百石を下し置かれ、楽幽と名を改め申しました。&lt;br /&gt;
:*元禄十乙亥年（1697年）9月3日、病死いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　はっきりと小島六大夫の推挙とある。分限帳に従って、安松は能勢、小畠は小島の推挙とすべきであろう。助左衛門の出仕は早く寛永八年にあって、金右衛門とは十四年のへだたりがあります。旦那の信綱も1万5000石の身上で、助左衛門が出仕した後、三年月目に忍の城主になりました。それゆえに助左衛門も側小姓として出身したので、誰の彼のと物々しい推挙を待つほどの事ではない。寛永八年から天和三年に隠居するまで、53年間の長い奉公をしたのです。金右衛門も年齢がわかりませんが、この人も年齢がわかりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　金右衛門は5年奉公して、慶安元年（1648年）に百俵を知行百石に改められました。川越の運河、あの内川改修が正保元年とすれば、安松金右衛門の奉公の初めに当たる。&lt;br /&gt;
それをたしかめる証拠が出てまいりませんが、百俵から百石に転じ、蔵米取りか知行取りになったことは見逃しがたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　弟の金太夫が召し出されたのは、金右衛門が知行取りになった翌々年です。分限帳に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::（本国河内・生国播磨）安松金太夫吉茂&lt;br /&gt;
:松林院様御代&lt;br /&gt;
:*慶安三庚寅年（1650年）月日不明、召し出され、御代官を仰せつけられ、知行70石下し置かれました。&lt;br /&gt;
:*寛文八戊申年（1668年）4月19日、病死いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、藩臣家状にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:安松&lt;br /&gt;
::慶安三年庚寅（1650年）月日不明　奉仕&lt;br /&gt;
::天明二年壬寅（1783年）まで133年&lt;br /&gt;
::金太夫吉茂、その子・八郎右衛門吉房、その子・金太夫安茂、その子・金助安一（60石　近習目付兼小納戸馬廻格）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある家です。この家は今日も豊橋にあつて、同所の全久院が菩提所だと聞いて往訪したが、古い碑石はない。それもそのはず、伊豆守家は川越から下総古河へ、古河から吉田（豊橋）へと転封し、藩中も従って転じたので、当所には正徳三年（1713年）7月、吉田へ就封以後の墳墓があるはずもない。全久院の過去帳に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:聖徳院緑靄宗竹居士　寛文八年（1668年）4月15日&lt;br /&gt;
:玉容院芳衣妙珍大姉　万治四年（1661年）5月10日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは忌日が分限帳と合っていないものの、初代金太夫夫婦であろう。もちろん、碑石なし。その家にも記録がない。ただ開くことができたのは、安松の本来の在名は神吉氏であって、古い具足櫃などには神吉氏と書いてあったという。総見記や太閤記で知られるようになった播州三木城主・別所長治、華々しい中国攻略のときに信長は神吉・志方の表へ押し寄せ、両城を攻め破り、その上で三木城へ取り詰めて、適切にせよと命令した。神吉城はついに天正六年（1578年）5月16日に落ちましたが、守将・神吉民部少輔はよく戦ったものの、伯父神吉藤太夫に謀られて討たれたという話があります。神吉と書いてカンキとよむ。金右衛門はこの一族だったのでしょう。それゆえに民間に流落したばかりか、旧里を出て東国へまで彷徨するようになったのでしょう。安松の生国が播州、もとの苗字が神吉ならば、別に詮索せずともわかることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　弟の金太夫の方はそれまでにして、兄の金右衛門の世代を尋ねてみる。これは新宿の大宗寺が菩提所で、当主は安松勝二、金右衛門から11台目、現在は横浜に住居。過去帳には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四年（1648年）6月14日　光岳院頓譽相得居士&lt;br /&gt;
::安松九左衛門&lt;br /&gt;
:貞享三年（1686年）10月27日　玄洞院殿欣譽浄秀居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門吉実&lt;br /&gt;
:享保二年（1717年）6月16日　喚迎院遣譽容玄居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門吉政&lt;br /&gt;
:元文三年（1738年）2月9日　豈方院西譽遣立居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安之&lt;br /&gt;
:文化三年（1806年）12月1日　転心院輪譽法山居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安寛　88歳&lt;br /&gt;
:文化十三年（1816年）9月2日　速了院宝譽巍冠居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安政　68歳&lt;br /&gt;
:文政十一年（1828年）7月1日　光円院大譽即相居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安邦&lt;br /&gt;
:明治十九年（1886年）5月1日　豊徳院仁譽安民居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安民　77歳&lt;br /&gt;
:同三十七年6月14日（1904年）　大智院叟譽知新居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門新（アラタ）　78歳&lt;br /&gt;
:大正十三年（1924年）10月8日　安寿院楽茲心光居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門事（ツコウ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。九左衛門は金右衛門の父であろう。この父は金右衛門が主取りして、4年目に没したとみえる。この初代金右衛門以来、その前にも院殿をつけた法号はありません。江戸時代には旗本衆でも、叙任した者に限っていました。大名衆は皆従五位下朝散大夫ですから院殿号でしたけれども、御家人衆はもちろん、旗本衆でも何の守とかいわない運中には、院殿号はありません。まして諸大名の家来は、陪臣といって禄高にこだわらず、幕府直参の者よりも一段格の下ったものに扱っていました。ただし、加州とか薩州とかいった大大名の家老には、任官する者が若干在って、何の守になっているのがある。それは別段のこと。伊豆守家は7万石、大諸侯ではありませんから、家老にも何の守はない。金右衛門はわずか200石、陪臣でなくても院殿号などはもってのほかの話。その彼がただ一人、十代にわたって院殿号をつけている。伊豆守家7万石の藩中にも、彼のほかに院殿号をつけている者ははに。これについては大いに話があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて大宗寺の墓を見ると、一塔は九右衛門以下の法名が彫りつけてあって、倶会というのです。分限帳の記載によれば金右衛門吉実は、川越へ退老したので、同地で没しているはずです。しかし、川越には安松家の墓所がありません。主家が再三転封しているので、そのたびに墓所を移すこともできなかったのではあるまいかとも思われる。何にせよ、誰も安松金右衛門の墓が大宗寺にあるのを知りません。あるいは埋没しないともいえない。そこで野火止水利組合へ通知し、伊豆守家の菩提所である平林寺へ協議し、両方の力を借りて、昭和十年（1935年）の初夏に、大河内子爵家の許諾を得て、同家の塋域（墓地）の側近に彼の墓を移し、永久に野火止水利組合が供養をすることに定めました。古い碑石を新宿大宗寺から移すのですから、同寺の了解を求め、当主・勝二氏と一族の同意を得て、新しい碑石をこしらえ、大宗寺の旧位置へ樹立いたしました。お話は玉川上水へ戻ります。例の上水記を改めて読みますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:ふるい書留にいう。承応元壬辰年（1652年。原註：寛政三年までおよそ140年）までは、御城内ならびに御城下、上水道がございませんでしたので、下々にてはところどころの水たまり、溜池などの水をくみ、樋で仕掛けて取ることになっており、不自由でございました。そこで上水道になりうる水筋について、町奉行 神尾備前守様のお尋ねにより、玉川庄右衛門、清右衛門という者、両人の父（東京市史稿は、二代庄右衛門・幼名三十郎、三代庄右衛門・幼名長六、ともに初代の子であって兄弟である。正徳五年の書き上げは三代庄右衛門の提出した者であろう。そうであればここに父というのは初代庄右衛門を言っているのであろう）ところどころ求めていたところ、武州羽村というところから、玉川の水を江戸まで道のり13里、水盛を考えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここの原註は大いに留意すべきものでありますから、煩わしいようですが、特筆しておきましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一説に、松平伊豆守の臣何某が考えるところである。これによって野火留分水口は格別の堀割であり、古い言い方で伊豆守殿堀という。また言われているのが、いにしえ伊豆守の家、郡方役人・安松金右衛門が工夫して主人へ申し立て、吟味のうえ野火留上水が出来たという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「松平伊豆守の臣何某が考るところである」で文が切れています。すなわち、玉川上水の水盛は伊豆守の家来が考えたというふうに読めます。次いで、「これによって」というのですから、「玉川上水の水盛をしたことによって」ということになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この一説に付随して起こってくるのは「野火止用水工事同時説」でございます。川越史料には「承応二年（1653年）から」とあり、埼玉県志には同三年（1654年）からと書かれていますが、野火止宿開発根本之覚書には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応三未年（1654年）、今から49年前、小河村の西の方から江戸御用水を分けくだし置かれました。川道は野火止宿まで四里でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあります。しかし当時の見聞を書きつけました榎木弥左衛門『万之覚』には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:明暦元年（1655年）二月十日ごろより野火留用水開鑿。三月二十日に至り、水道を通す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と明記してあります。こちらが正しいと思われる。承応四年は改元して明暦元年ですから、承応三年六月二十日に玉川上水が成功いたしまして、翌年の三月に野火止用水が落成しました。その間が八か月あります。決して同時ではありません。その間違いは玉川上水路踏査と野火止開発とが、ともに承応元年であったから起こったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武州新倉郡野火止宿開発、承応元年巳歳（1652年）に始まる。今年・酉の年まで52年になります（開発根本之覚）　この年（承応二＝1653年）春から八月中まで、野火止新田に54戸移住する。（榎本万之覚）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などによって紛れたのであろうと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから、安松が万治元年（1658年）に幕府から拝領物をいたしたこと、江戸時代には陪臣が幕府から拝領物をするなどというのは希有なことでもあり、容易ならぬことでもありました。それは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:万治元年十二月二十日、東叡山大猷廟慈眼塔修補の御手伝い、輝綱がこれを監し、そのことにかかわった家臣らにものを賜った。（家譜）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「家臣ら」の中に安松が加わっていたことは、分限帳の記載でわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:年月は不明。上野御修覆をお勤めなさったとき、本締役を仰せつけられました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるので、金右衛門がそのことにかかわった川越侯の家来の一人だったことを証拠立てます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*10]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/09&amp;diff=363</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/09</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/09&amp;diff=363"/>
		<updated>2026-07-04T10:45:40Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第九章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その九　悲しい水喰土==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小島文平が享和三年九月、御普請奉行（水道方）佐橋長門守佳如へ提出した『玉川上水堀割之起発並野火留村引取分水口訳書』は、新しいものでもあり、その家の申し伝えと土地の口碑にあることを取りまとめたものであって、安全な資料ではないという人もあります。私は、[[松平信綱]]を玉川上水工事の総奉行であったという記載について、宮崎成身の『国字分類雑記』、植田孟縉の『武蔵名勝図会』を傍証として、肯定いたしましてから、訳書が指定をしております玉川兄弟の蹉跌（失敗）の証拠、再度の設計失敗の跡を踏査して、安松の玉川上水についての事功を顕揚しようと思い立ちました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川兄弟の最初の計画は、多摩郡国分寺村真姿の流（川越線細田の真姿弁天を祀っている祠の下の池）を取り入れるつもりで、日野の渡（現在は日野橋）の下から府中八幡下へ引き込み、狭山の筥が池の流れも谷保村地先で合流させて、四谷大木戸へ向って水盛を渡したところ、八幡下の御滝で流筋低く、誘導してきた水はそこから涸れ、字金泥（府中町谷戸の南端)へ落ちてしまう。地字は金尻であるけれども、地元では「カナシイ」と呼び、同所の坂道を「悲しい坂」と言っております。今も日野橋の下から、府中の入口、堰屋塚まで二十余町の堀敷が、途切れ途切れではありますが残っております。玉川兄弟第一計画失敗の証跡として残っている古堀敷を、土地では新堀（しんぼり）または空堀（からぼり）と言っております。土地の言い伝えでは、承応の頃、神代村の瀧坂の辺まで掘り、試みに水を引き入れたところ、現在「悲しい」と称するところへ来て、幾度も堤塘が崩壊して、不成功に終わり、そのために役人がその責任として処刑されたと伝えております。それゆえ、この「カナシイ」の地名が起ったと言います。今でも祝儀の際などはこの道を通らないと、府中史談会長・猿渡盛厚氏から聞きました。土地の伝説と小島の『訳書』と、廃渠とをもって、十分に証拠となっております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府がこの工事の着手を命じたのは、承応元年十一月十五日で、翌二年二月十日に（『徳川実紀』）伊奈半左衛門が上水道奉行を仰付けられました。あるいは（『徳川実紀』）伊奈半十郎を水道奉行にした、ともあります。『上水記』でも評定所の連名に伊奈半左衛門があり、見分に出かけた内に伊奈半十郎があります。半十郎忠治は伊奈備前守忠次の次男で、承応二年六月二十七日没、半左衛門忠克は半十郎忠治の惣領、正保二年八月十日から御代官を勤めております。忠克は承応二年十二月二十二日に遺跡相続し、父に代ってその職を嗣いだ、と書かれています。承応二年二月十一日に水道奉行になつたのは親父の半十郎忠治で、見分に出掛けたのは息子の半左衛門忠克です、水道奉行の半十郎忠治は四月四日に起工して、六月二十七日には死んでおります。息子の半左衛門忠克がその父の職を嗣いだ十二月まで水道奉行が欠けており、見ようによっては水道奉行が二人あったかとも疑われます。この半十郎忠治の死が「悲しい」の伝説に上（かみ）役人が一人切腹したというのに関係ありそうです。また、羽村の水神祠にも、工事に関係して切腹した人を祭ったという地元の話がある。半十郎忠治は六十二歳で没したので、普通の老衰と思われる。上水工事失敗は必ずしも水道奉行である彼が責めを負わなければならないということもないでしょうが、結局、工事の失敗がなければ、そうした俚談俗説も出ては来ないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、第二の計画は、さかのぼって福生村地先から引き入れて、四谷大木戸へ水盛して、堀割も済み、いよいよ水を仕掛けて見ると、熊川村地内で引いて来た水がことごとく地中にしみこみ、流れるどころでない。その場所を、今日でも「水喰土」と書いて「ミヅクラヒド」と読む一つの地字を残した。旧知の八王子史談会長天野佐一郎氏に頼んで、福生村の宇新堀、廃渠のあるのは同村の南北隅、羽村から川崎へ寄ったところ。幅五間ほどの古堀敷が、長さ四町ほど残っています。水喰土は拝島駅から西北へ五町ほど距てて、左側が低く右側が高い土手が大凡五間ぐらい残ってをります。堤上から南望すれば、畑地は古堀敷よりもはなはだ低く、高く築いた土手からは十間も差があるように見える。さうして現在の玉川上水は水喰土から二町足らずのところ、熊川村の地元、八高線を隔てて北を一秒三尺の水勢で流れているのを見分させてもらいました。『武蔵名勝図会』にいうところの、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:福生村の西、多摩川畔に上水口址と称する堰の跡がある。地元の話では、はじめこの地から流通させようと定めたが、不便なことから今の地に改鑿したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これです。この記載は、面倒なことを避けて、暴露はありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これで、玉川兄弟の設計は、二度とも失敗したことは疑いない。小島文平の訳書は新しいものでもあり、口碑伝説を集めたものに過ぎないといわれても、祖先信綱の遺風で、旧吉田高崎両藩主の家に何も残されていないとすれば、根本史料などというものは、将来にも出て来そうもない。口碑伝説だからだめともいえまい。後に書いたものだからだめともいえまい。我が国には古事記があるではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の施設については、安松金右衛門の事功を疑う者はない。玉川上水は清右・庄右兄弟が水脈を見立てた功はないとはいえないが、工事設計は二度までも失敗している。このとき、金右衛門が川越侯の命を受けて、三度目の設計をしたという、端的な証拠がないという。そこで安松の身上について、多少の考察を試みましたところが、これもまたわからないことだらけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*09]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/08&amp;diff=362</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/08</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/08&amp;diff=362"/>
		<updated>2026-07-04T10:44:42Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第八章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その八　川越運河==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　川越と江戸とをつなぐ[[新河岸川]]の漕運。奥州道中・木曽道中から外れたこの都会は、江戸へ水上二十里の漕運が開けていたために、中武蔵・奥武蔵への物資が、ここから出入するので、商売も繁昌し、土地も賑やかでありました。それは新河岸川の恩恵であります。この新河岸川について、川越史科は大体を『[[新編武蔵風土記稿]]』にしたがって、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保元年、この年のころ、新河岸川舟を通じる&lt;br /&gt;
:〔風土記〕入間川総説。新河岸川。（上略）この漕運の便宜は、いにしえの川越領主伊豆守信綱の時から始まった。その年代は正保元年（1644年）とも、また寛文二年（1662年）であるともいう。考えるに、榎本『万之覚』に三年すでに舟便云々と記されている。今、正保元年説に従う。&lt;br /&gt;
:〔同〕上新河岸。この村名は正保ノ改には見えない。元禄に至って始めて見えるので、その間に開けたのだろう。これ以前、御打入の後、ようやく土地が開け、川越城近郷の運送の便をよくするため、これを舟着き場とし、新たに河岸場を開いたため、新河岸と名を記すという。村名を上下に分けたのは、新河岸川水流によって分けたものである。寛文二年四月二十四日に造られた石地蔵の後光に沢田甚右衛門尉が始めてこの河岸を開いたことが彫られている。&lt;br /&gt;
:〔同〕下新河岸。慶安の水帳に新河岸と記され、元禄六年の水帳には下新河岸と記されているので、これ以前に上下の名が分れたのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と言っておりますが、榎本弥左衛門『万之覚』には慶安五年（承応改元、1652年）に、川越の家老・深井藤右衛門が、建築材料を舟廻しにしたことはあるが、まだ新河岸という名前はない。新河岸という名は承応二年（1653年）以後になって書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新河岸川と呼んでいるこの川は、川越市の東方、芳野村の伊佐沼（旧四十一町歩、埋め立て十三町歩、現在二十八町歩）から、市の南を流れ、仙波を経て新河岸に達する。この間一里五町、これを九十（ぐじゅう）川という。ここから[[新倉]]で荒川へ合流する。新河岸～新倉の間は四里半、川勢は屈曲、まがりくねって俗に九十九曲りと呼ばれる。昭和六年三月、新河岸川改修工事が成って、九十九曲はもう見られない。屈曲を除いて水流をまっすぐにし、旧航程の半ばを短縮した。そのため、今日は舟楫を通じることができなくなった。寛永十六年、松平信綱が川越城主となるや、まず当所の水利を考え、早く運河の計画を定め、この河川の改修工事を成したようである。船着の便宜を考えて、発着に利があるようにと新河岸を開いたため、運河ができてから数年の後にできたのだろう。運河峻成当時は、おそらく新河岸はなかったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この運河の工事はだれによって成功したのか、ほとんど話にも出ないありさまですが、誰かこの仕事に当たった人がいなければなりません。しかし私はただいま、前にも引用いたしました小島文平の訳書にある、小畑・安松の両人が川越まで内川の通船に成功したという、その記載を繰返すより外に、何も持っておりません。伊佐沼～新河岸間を流れていた九十川を改修し、さらに新河岸から新倉で荒川へ合流させる内川水路を治定した功績は、伊呂波樋の巧妙な施設と共に、だれの手腕によったかを究明して、その報恩・謝徳を怠ってはならないでしょう。しかし信綱の流儀で、文書等を遺しておりませんから、この運河の膨大な恩徳は、当該地方だけでなく広くこうむっておりますのに、誰が働いて工事を成しとげたのか全くわかりません。もし詳しく調べたら、安松金右衛門が民政に寄与した功績がほかにも多くあるのではなかろうかと思います。この穿鑿は、今後長く、川越市がやるべきことでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新井白石の『紳書』に、「信綱が金右衛門に命じて、多摩川の水を十六里引かせて新河岸に達せさせようとした」というのは、玉川上水を分けて[[野火止用水]]、その野火止用水の流末を[[宗岡村]]へ[[伊呂波樋]]で誘い、遂に新河岸川へ落ちることからの間違いで、玉川上水は玉川上水、野火止用水は野火止用水、伊呂波樋は伊呂波樋、川越運河は川越連河で、それぞれ別々のもので、最初から玉川上水の末を荒川へ落とすように計画したのではありません。決していちどに十六里引水したのではありません。この際、まさにこの事を論じておきましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*08]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/07&amp;diff=361</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/07</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/07&amp;diff=361"/>
		<updated>2026-07-04T10:44:29Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第七章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その七　引又の伊呂波樋==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の末流をどのように作用させたかを知るには、[[引又]]（現在の埼玉県入間郡志木町&amp;lt;ref&amp;gt;志木町は入間郡ではなく、この時期には北足立郡に所属している&amp;lt;/ref&amp;gt;)の[[伊呂波樋]]を説明するのが一番よろしい。この樋は千貫樋とも呼ばれて、六十の箱樋を継ぎ合わせて、百二十間の長さがある。多摩那羽村から当所までは九里あります。いうまでもなく玉川上水あっての[[野火止用水]]、野火止用水あつての伊呂波樋です。宗岡村（埼玉県入間郡）誌に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応二年、川越の城主[[松平信綱]]、多摩川上水工事竣功賞として、幕府から水量三分の一を信綱に賜わった。信綱はそこでその分水を、領地武蔵野新田の飲料に供しようとし、家臣・[[安松金右衛門]]に溝を掘らせ、新河岸川に達した。長さ六里余、俗にこれを伊豆殿堀という（諸書に散見されることは少し異なるけれども、古書類によって記す)。寛文二年、上下[[宗岡村]]は幕府の直轄となり、幕臣・岡部忠直がここを支配した。家臣・白井武左衛門は、本村が用水に乏しいことを憂い、多摩川上水の分水末を利用する計画を立てた。幸いにも宗岡新田村は信綱の領地であるため、侯に説いて許可を得、分水末（志木町）から巨大な筧を新河岸川上に架した。長さは百九十七間で、本村の字・精進場に達した。全村は今もその余慶に浴している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この伊呂波樋は野火止用水が引又で新河岸川へ落ちてしまうのを、そこで落とさずに宗岡村へ引くために、新河岸川を跨がせるためのものです。川越史料が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この年（万治二年（1659年））松平伊豆守、岡部佐兵衛に命じて、野火止用水を引股から掛樋により新河岸川上を経て宗岡村に引く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といい、それに『[[新編武蔵風土記稿]]』を一部引用して附記してあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:宗岡村用水、松平伊豆守、岡部佐兵衛が知行だったころ、万治二年玉川上水の分水を新座郡引股から掛樋で新川岸川の上を通し、村内およびこの辺のところどころの水田にそそいだ。その掛樋の継ぎ合わせた数が四十八あるので、伊呂波樋と呼んだ。&lt;br /&gt;
:新座郡（もとは新倉郡、元禄の時代に新座郡となり、現在は入間郡&amp;lt;ref&amp;gt;三田村鳶魚はどうやら当時の新座郡エリアが入間郡に編入されたと勘違いしていたようだが、実際には北足立郡に併合されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;）舘村の伊呂波樋は、新河岸川に架して、対岸宗岡村境の上に至る。引又橋の並びで西の方にある。長さ百二十六間あまり、幅二尺あまり、四方ところどころで継ぎ合わせている。その数が四十八あって、長さ九十六間、幅は筧と同じ。中央に高桝二つを設けている。これは水をたたえて激流とし、高いところにのぼらせる工夫である。この埋樋と筧とを合わせて二百二十二間一尺ある。農時には水をせきかけて、入間都の内の諸村の水田へそそぐ。言い伝えに、松平美濃守（柳沢吉保）が川越の地を領していたとき、領地入間郡宗岡村の辺、諸村の水利が不便であることを憂えて、当村の用水の余流がむなしく新河岸川へおとしいれられることを幸いとして、この樋を作ったという。また、秋元但馬守が領主であったときのことともいう。どちらが正しいかはわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊呂波樋という名前は、後には継ぎ合わせの数が多くなったが、最初は四十八継ぎあったから起ったと言い伝えています。川越史料が伊呂波樋の出来たのを万治二年というのは、『新編武蔵風土記稿』に従ったのでしょうが、仮に万治二年（1659年）としても、柳沢や秋元が河越城主であったときとするのはよろしくない。柳沢が河越城主であったのは、元禄七年（1694年）から宝永元年（1704年）まで11年間、秋元は正徳二年（1712年）から天保十二年（1842年）まで百三十年間です。風土記稿もこのへんはだいぶいい加減なものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　宗岡村地誌のとおり、寛文二年というのがよろしいようです。同地誌に、白井武左衛門のことを書いて、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:白井氏は生まれた地がわからない。正保元年、上下宗岡村は幕府の直轄となり、幕臣岡部忠直が支配した。白井武左衛門はその執事であった。氏が当村に赴任すると、鋭意公共の事業を興し、村民の利益を謀ろうとした。本村は灌漑の利に乏しく、旱魃の災があることを憂えて、寛文年中に松平信綱に説き、多摩川分水の末を引く大工事を行ってその害を除き、また本村宇佃に六百七十余間の長堤を築いて、悪水が溢れ入ることを防ぎ、新田場堤を築き、その堤の外にある荒野を開いて良田としたことなど、その功績は少なくない。その後、村民はその徳を後世に伝えようとし、ここに記念碑を建てて功徳を賞し、今に至るも毎年六月十四日に氏の祭祀を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この岡部佐兵衛忠直は、『寛政重脩諸家譜』で見ますと、延宝三年（1675年）七月に家督相続した人であるため、宗岡築堤のことはその先々代、小次郎吉次のときのことと思われます。この家は武蔵国多摩・人間郡、甲斐国八代、上総国山辺、下総国香取の諸郡で二千石余を領しておりました。吉次は正保四年（1648年）八月に相続した人で、千五百石から二千五百石に加増されております。宗岡村の古図によれば、全村を上中下に三分し、中は川越領（当時の城主・松平信綱)で、上下が岡部氏の領地でした。現在、宗岡新田というと、旧下組の場所の名になっているが&amp;lt;ref&amp;gt;ここでいう宗岡新田は現在の下宗岡四丁目あたりである。&amp;lt;/ref&amp;gt;、岡部氏の領地、白井武右衛門の働きで開けたのは、村の中央にある。古図で見れば紛れもない。新田場堤というのも、現在「新田」と呼ばれる所にあるので、白井武右衛門の開墾した場所とは違う。そのことは同村の石原康治氏が撰んだ『白井氏治水碑』に詳しく書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:禹の九潦は水があることを憂えている。湯の七旱は水がないことに困っている&amp;lt;ref&amp;gt;『荘子』秋水篇「禹之時十年九潦，而水弗為加益。湯之時八年七旱，而崖不為加損。」中国古代の聖王・禹（大禹）のとき、十年に九度の洪水があったが、水の量は増えなかった。殷王朝初代の湯王（成湯）のとき、八年に七度の旱魃があったが、海岸が後退することはなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。どちらもこれは水である。水が多すぎれば害があり、水が絶えれば利益はない。ただ指揮者伝明けが利害を察することができ、水をさえぎって防いだり、通じて用いたりする。治水としてなすことはこれで終わる。わが白井武右衛門民のような人こそ、そういう人であろう。氏は幕府の臣・岡部忠直（※吉次の誤りであることは以前に述べた））の部下である。わが宗岡村はかつて、分けて上中下とした。正保のはじめ、中宗岡は松平信綱が領し、上・下は忠直の采地であった。忠直はそこで氏に統治を命じた。氏は村に来ると、その東南の低い湿地から蒸気が立ち上るのを見て、鋤を使って開き、堤で囲み、肥沃な土壌をいくらか得て新田とした。新田の西は新河岸川に迫り、しばしば水害を被る。そこでまた堤を築き、これを防ぐ。西より北に六百七十間におよぶ。いわゆる佃堤である。本村の稲田はまた以前は灌水の便が乏しく、旱害にしきりにおそわれていた。氏は深くこれを憂えた。これ以前に信綱はその封土のうち、野火止荒原を開墾しようとし、地が乾燥していて水が少ないことに悩み、渠を掘り、玉水を引いた。曲がりくねって東北に流れること六里、わが西の境にいたって、その余水は最後に新河岸川に入る。氏、余水が空しく川に入るのを惜しみ、そこで思ったのは、「これで灌漑の利を開くことができるだろう。しかも、公の領土もまたここにある。喜びと悲しみは一体であるから、水を公に乞うのがいいだろう」と。そこでこれを信綱に請い、許された。そこで川の前岸で水箱を構えた。だいたい六尺ほど、高さはほとんど倍ある。箱の前に別に伏溝を設け、それを南に走らせ、渠の余流を受け、箱に遅らせている。箱の脚に口があり、これを入れる。箱の首のところにまた口を設け、樋ををつないでいる。我が国の俗に木の筧を樋という。樋の幅一尺四寸、深さも同じ。その下図は四十八で、樋をつないでいき、柱を立てて支え、川の上に架して横断させる。遠くこれを埋めると白虹のようである。首から尾までおよそ百九十七間、この通水によってはじめて田をうるおす。里の人はこれを伊呂波樋という。完成したのは実に寛文二年である。堤防で囲み、水害が除かれ、溝樋に水が流れ、水利が開かれたとき、九潦七旱も憂えなくてよい。民がその恩沢を受けてから今まで二百五十年である。まさに功をその時代に加え、徳を子孫に伝える者である。明治中興に至って、あらゆることが革新した。この樋もまた規制を改め、鉄管に代わっている。工事は丁酉（明治三十年）に始まり、癸卯（明治三十六年）に終わった。その利は以前を超えるけれども、旧観は残っていない。そこで年月が久しくなれば引水が氏によって始まったことが知られなくなることを恐れ、最近、村人がともに相談して言うには、今こそこれを石に刻んでずっと伝えようということで、文を私に委嘱した。私はこの里に住み、またその余慶に浴している者であるから、断ることなどできなかった。そこで旧記によってそのあらましを述べる。もし系譜の生没年の詳細は今はもうわからず、惜しいことである（銘を略す。原文は漢文）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊呂波樋が鉄管になって埋設され、地上の姿を失ったときに、この立派な碑が建ったのです。今は『江戸名所図会』に昔のおもかげを忍ぶしかありません。この碑文にもあるとおり、信綱が封内の開墾のために野火止用水を引いて、それが引又（志木村）の市場というところまで来ている。ここに捨樋があって、舘村用水を分けた後は柳瀬川へ落としてしまう。野火止用水は引又の市場までであった。それを見て、岡部氏の陣屋に在勤する白井武右衛門が、灌漑の水に乏しい宗岡村へもらうことを考えた。そこには、岡部氏の領地のみではなく、大きいのはないが小さい地頭はたくさんいた。いずれも武蔵野開発について当時の河越藩へ懇請して引水のことが調いました。そこで引又の市場から柳瀬川をまたいで、宗岡の精進場（下の谷（シタノヤ）)へ引き、それから村内を環流するようにし、内間木村も潤沢になるに至ったのです。白井の働きは佃堤によつて新田を開き、野火止用水の流末を誘って、当村の旱害を不足しないようにしたことにある。村内宇前内手の観音堂は、今は廃寺になっておりますが、そこの墓地には、用水開基と肩書した碑があり、位牌も村内・千光寺に移して祀られております。そのいずれにも忌日がありません。ただ当村では六月十四日（祇園会の翌日）を白井様の日といって、毎年全村休業しております。その人の功績によつて、村人が今日もその恩恵に感謝していることは、まことに美しい思いでもあり、人間はそうでなければならぬものです。それでは、安松金右衛門は誰から感謝され、だれかに忘れられずにいるのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この伊呂波樋の設計は誰がしたのであるか、白井が施設したという記録もないのに、江戸名所図会などはあっさりと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この地（膝折）に用水がある。引又の宿の中を流れて内川（所沢では粂川といい、大和田へ来て柳瀬川といい、引又橋の手前で合流してからを内川といいました。水路改修以前はこの内川が羽根倉の渡しのところで、荒川と落ち合うようになっていたのです）の橋際に至る。そこに枡を設け、川を隔てて宗岡の地へ通じていました。寛永のころ、秋元侯が川越を領せられていたこと（伊呂波樋創設が寛永の時代ではなかったことはすでに述べた）、農耕の助けとして、野火止の用水をここに引かせたのだという。そのころ、白井某という人が、この樋からの水の引き方を工夫して、四十八段にかけたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と申して、白井武左衛門の設計のように書いております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　引又の宿は南北へ長き三町余あって、新宿、本宿、中宿、坂下町といい、新宿の入口から町の真中を幅三尺余、深さ四五尺の大樋が縦貫しており、新宿の方は高く、坂下の方は次第に低くなっていて、そこに大枡がありました。この大枡は玉川上水の四谷大木戸にあつたのと同じもので、桝の効用については『上水記』が解説しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:埋樹は土中にある。水見桝は地上にある。また高桝がある。懸樋がある。分水のところに「わかれ」枡がある。水見桝のふたをあけて水勢を常に調べる。高桝でせき上げる。登り龍樋は上るところにかまえ、下り龍樋は引き落とす。みな、その地の高低にしたがう。しかし、水元より高くはあがらない。ひき落とし、高く上げて水勢を増す。河や堀の水底を潜るところもある。これを潜樋という。橋の下に沿って向う岸にわたるところも、渡り樋または懸樋という。石で流れを通すところを万年樋という。樋がなくて流れるところを白堀という。地方によっては素樋という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　文化の時期に小日向水道町の本法寺敬順の書きました[[十方庵遊歴雑記|十方菴遊歴雑記]]の中に、伊呂波樋の見聞が書いてあります。ただ今では明治三十六年に鉄管埋設に変革いたしましたので、伊呂波樋は二百五十年来の旧観を喪失してしまいました。ここにその本文を抄出するのは、ただ懐古の資料というだけではございません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:愚老がここに逍遙したのは、引股町の千貫樋と大いにいいはやして、評判が高いので、これを見ようとわざわざこの地に至ったものです。埋樋に沿ってつま先下がりにだんだんと北の方へ行くと、坂の下口左側に高桝を掘り埋めてある。高さおよそ五尺あまり、幅およそ三尺四～五寸四方。ここから坂を下りて、川端まで次第に低くなって、一丈あまりも地面を下っただろう。この坂口から土橋までおよそ一里あまり。さて、例の高桝から幅二尺四方の樋を坂口に深く土中に掘り込み、内川の渚に至って、その掘埋めた樋を地上へあらわして、内川の上をわたり樋としている。内川の幅、土橋で調べてみると長さ十七間、水面から渡樋の下面までおよそ一丈四五尺。このわたり樋の長さは二間つつで継ぎ、都合六十継、百二十間という。この引股橋から南は新座郡で松平右京亮領分（宝永二年三月三日、先祖墳墓の地であるということで、野火止領三千石を高崎藩主へ加増)、また、川から北は入間郡で秋元左衛門尉領内、千六百石の田地へ引く用水の樋という。すでに川向こう、入間郡棟岡村の堤の際に至って、水門に至って止まる。ここまでわたり樋の長さ百二十余間、樋の大きさは二尺四方。この用水なかったならば、数か村の農民の一切の仕付ものができないだろう。人間の工夫は賞賛に値する。これを近郷こぞって引股の樋とよび、あれこれとほめそやすことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の流れの末を宗岡村へ誘引することについては、地盤が低下しているので相応に工夫を要したことがわかります。坂下の大樋は水勢を激成する効用のある登り龍の樋でしょう。以上、続けて書きましたのは、この敬順といふ老僧が妙に江戸っ子を出し、不似合な娑婆っ気から向う見ずに熊さん八さんになっているのは困りものですが、功績のすべてを松平信綱に帰して、大いに感嘆しておりますのを見過ごせません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:ただし、高桝をはじめ、渡樋にいたるまで、木はマツ、モミ、スギの類で作り、板の厚さ二寸、もとより渡樋に家根はない。これは用水のためだろうか。このことからつくづく思う二、東武（＝江戸）四ツ谷御門の外の高桝は左右にあって、南に一本、北に一本、都合三本、地上へ出るところは低くても五尺あまり、高いところは九尺あまり、幅はそれぞれ五尺から六尺四方、木の厚さ三寸、みなヒノキのふしのない板で作り、さらにわたり樋に家根を別に作り、みな節のないヒノキで作成された。しかもまたむかし、承応二癸巳年十一月十五日、四ツ谷大木戸から多摩郡羽村まで道のり十三里のところ、水盛を考え、掘り割りを工夫し、さらに四ツ谷御門外に仰ぎ見るほどの高桝を三つもこしらえ、御城内・御用やしきをはじめ、御城下町の者たち何百万人となく、命根をやしなう費用も簡単なものではなかった。この四ツ谷御門の高桝、渡樋から所々分水されている埋樋、また神田白堀上水、大洗堰の工夫より、水道橋のわたり樋、江戸一円分水の埋樋を、引股近在の井の中の蛙の者たちに見せたいものである。ただし、野火止の分水口は格別の堀割であって、古い話に伊豆殿堀という。これは松平伊豆守信綱、川越在城のとき、野火留辺も領内であったため、玉川から引水を工夫し、野火留近辺に田地もできた。それまではまことのむさし野の平原であったという。そこで信綱はむかし、多摩郡羽村というところから、この引股の駅まで九里の間、長流を引いて近郷を助け、なおまた内川の上から渡樋百二十間を造作し、入間郡棟岡村へ分流させ、若干の田畑の用水とした工夫、高智は感賞すべきものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　変な比較をして気持ちよがっている、どうにも馬鹿らしいところもあるが、「それまではまことの武蔵野の平原」であったといって、玉川上水、野火止用水、宗岡引水を列挙して、その功績を顕揚し、信綱の事業に感歎しておりますのは、刮目すべきものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　松平信綱の武蔵野開発には、地方水利に功みであった小畑助左衛門、安松金右衛門の両人の関与しないものはございません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:建出――新聞の村々(野火止、菅澤、西堀）は井戸を掘っても砂利が崩れ込み、水が出ないので、この分水を幾筋にも引き廻し、百姓の相続や木品盛木の手当てとした。残水の廃れたのを、いろは樋という長さ二間ずつの樋を四十八間かけて、川を越し、樋の下を通船往来できるように安松金右衛門が工夫をし、宗岡村を畑田成とした。元禄年中まで川越在城のため、三代（信綱、輝綱、信輝）が領した。次に柳沢美濃守へ渡り、近来、秋元但馬守殿の領分なので、以前の姿に修理を加え、今も堰があり、別に宮戸村へも一筋懸り、これは小給所であるとのこと。（野火留分水国之訳書）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このように、野火止用水の流末が、宗岡・内間木・宮戸の三村を支持している伊呂波樋の設計も、安松金右衛門によって立てられ、その功績を今日に遣しているのであろうが、これだけでは証拠が足りない。けれども江戸名所図会に対して、確かに一説として見るべきであらう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*07]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=360</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=360"/>
		<updated>2026-07-04T10:41:50Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 目次 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚著『&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））は、玉川上水・[[野火止用水]]の建設者である[[安松金右衛門]]の本当の業績を現代に伝えようとした書籍である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著者・三田村鳶魚==&lt;br /&gt;
三田村鳶魚（みたむら えんぎょ）（1870年〜1952年）は、「江戸学の祖」や「生きた江戸の百科事典」と称される時代考証家である。&lt;br /&gt;
* 徹底した考証主義：新聞記者を経て研究に専念し、膨大な文献調査とフィールドワークによって「嘘の江戸」を排除しようとした。&lt;br /&gt;
* 時代小説への厳しい批判: 吉川英治などの大衆作家に対し、史実や風俗の誤りを容赦なく指摘したことで、当時の作家たちからは恐れられる存在だった。&lt;br /&gt;
* 在野の精神: 大学などのアカデミズムに属さず、生涯「町学者」として江戸の武家から市井の生活文化まで幅広く研究し続けた。&lt;br /&gt;
* 膨大な著作は『三田村鳶魚全集』（全28巻）にまとめられており、現在も時代考証の基本文献として重宝されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現代語訳==&lt;br /&gt;
ここでは、全文を現代語訳して掲載する。現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三田村鳶魚著&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
電通出版部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===小引===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　徳川一世（家康）が天正十八年（1590年）8月朔日、初めて江戸城に入って以来、承応二年（1653年）まで60余年の間、江戸に住む限り、市民のみならず諸大名もみなことごとく飲料水に困りました。慶長になりまして、江戸城の修築が成り、市街地の町割りもできて、住民がだんだん増えてまいりましても、土地柄として井戸を掘っても、よい水が得られません。徳川一世は早く神田上水をこしらえさせましたけれども、膨脹が急な新都市のにわかに増加する人々の飲料をいかんともし難い。江戸は慶長五年（1600年）から京都、大阪と並んで三大都市と言われておりましたが、飲料水についての悩みは、日ごとに激しくなるばかりでありました。幕府として新都市の他の計画は着々成功して、江戸を装備し、整頓させましたが、市民生活というよりも、むしろ人間生存の大前提である飲料水の供給に欠けていることは、何よりも先に、何よりも急ぐべきことであるのに、これが欠如していました。それは新都市の成立を危うくするものであり、江戸の発達を望めないことにもなりますので、将軍の威勢、幕府の面目にかけても適当な方策を立てなければならないので、老中以下の役人もいたずらに焦慮するだけで、何分対策が得られませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府は四代がかり、家康・秀忠・家光・家綱、家綱将軍の時に、江戸町奉行・神尾備前守の斡旋によって、玉川庄右衛門・清右衛門の申し立てを得ました。玉川両人は玉川が上水に足りることを知り、羽村から四谷大木戸までの上水路を設計して上申したのです。幕府はすぐに採用し、閣老・[[松平伊豆守信綱]]を総奉行とし、伊奈半右衛門を奉行として、早速工事を起こさせました。玉川両人は工事を請けて提案の通りに開削しましたが、設計が不備であったために堀に水が流れません。そこで再び設計して工事を進めましたが、またしても水が通りません。再度の失敗で玉川上水計画は廃案になりそうでした。そのとき、松平信綱はせっかくの計画であるこの玉川上水案を放棄するのを残念に思われ、また江戸には上水で飲料を供給するよりほかに方法がなく、玉川からであれば豊富な分量も得られて、江戸に住む上下の人々も日頃の苦悩を免れることでもあり、ことに四代がかりの幕府の人生であるから、是非とも上水道開通に成功したいと希望されました。自分の家来に安松金右衛門という水利に達した者がいるので、その安松に命じて新たに玉川上水路の設計をさせ、首尾よく全国無二の長距離、大規模な工事を完成させ、信綱の三大まつりごとの一つに数えられる偉業を残しました。信綱は、また宿願であった武蔵野開墾も実現し、多大な新開拓地を得て、自分の領地だけでなく、幕府の直轄領および他領にも多くの農村を創設することができました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　主人信綱に民政上の手柄を立てさせた玉川上水の設計者・安松金右衛門は、旦那に手柄をさせたのは俺だと吹聴するどころか、そんな心持ちさえ持たない人物。忠義をいたしましたと口へ出すようなら決して忠臣ではありません。宣伝ということも自己宣伝になってしまえば醜態を極めます。信綱も自分の功績を知られないようにする心がけがありましたが、安松も同様な心持ちでありまして、実に奥ゆかしい武士なのでした。それゆえに、我々が朝となく夕となく汲んで飲んでいる玉川上水、承応二年から昭和の今日（※昭和十七年＝1942年）までは310年、江戸をまたいで東京、父祖代々受容しており、現に市民677万8804人の命を救っております。将来いかなる水道ができましても、この玉川上水をしのぐほどのものはありますまい。もしできたとしても玉川上水を除くことはない。過去・現在・未来にわたって、玉川上水の恩恵はまことに東京市民に尽きないものと存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この広大長遠な恩恵を東京市民に受けさせた安松金右衛門。安松がいなければ信綱が何と思われたところで、玉川上水は廃案になるよりほかなかったでしょう。その安松金右衛門の事蹟はもちろん、彼の名をすら知っている人が全市に幾人いるでしょうか。東京も七十余年でできたのではない。今日までどれほどの先人の苦労を積んでこしらえ上げたものでしょうか。自分の身体が祖先の先からの恩恵で育成されたように、古人の積んだ苦労がどれほど多いだろうか。我々は今更ながら、感銘を受けたままに報恩謝徳を心がけなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本書は報恩謝徳の心持ちを持って記述いたしました。筆者の思うほどに書けないのは愚文のゆえであります。十年来の心がけでこの記述をいたしましたが、資料の収集の足らぬため、不十分なのであります。私の報恩謝徳の心持ちは今後も決して衰えません。新資料を得て増補の必要を感じたときには、つとめて決行したいと存じます。特に武蔵野開墾は信綱の大仕事でもあり、今日の大東京を成す究極の事柄でもございますから、及ばずながら微力を尽くしたいと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和十七年立冬前二日（※1942年11月5日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳶魚生　しるす&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===目次===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 小引&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その一　紳書の誤謬]]&#039;&#039;&#039;――国定教科書や新井白石の『紳書』に見られる安松金右衛門に関する記述の誤謬を正し、確かな史料が欠落した背景を解明する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/02|その二　野火止用水路]]&#039;&#039;&#039;――通水に三年を要したという野火止用水の伝説を否定し、実際には四十日ほどで工事が完了・通水した歴史的事実を提示する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]&#039;&#039;&#039;――玉川兄弟の事績に偏った『上水記』などの不備を指摘し、上水設計における安松金右衛門の真の貢献を浮き彫りにする。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟の失敗]]&#039;&#039;&#039;――玉川兄弟による二度の設計失敗を、安松金右衛門が独自の測量法を用いた第三の設計案によって成功に導いた過程を詳述する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/05|その五　畑ばかりの新農村]]&#039;&#039;&#039;――水利に乏しい武蔵野の開墾において、野火止用水が本来は生活に不可欠な「飲料水」として供給された恩恵と役割を明らかにする。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/06|その六　武蔵野開墾の規模]]&#039;&#039;&#039;――武蔵野開墾の成否を分けた玉川上水の分水供給と、野火止用水が私領として異例の規模で許可された歴史的背景を考察する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/07|その七　引又の伊呂波樋]]&#039;&#039;&#039;――野火止用水の末流を新河岸川越しに宗岡村へ送る「伊呂波樋」の構造と、安松金右衛門による巧みな水利設計の功績を辿る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/08|その八　川越運河]]&#039;&#039;&#039;――川越と江戸を繋ぐ物流の要となった新河岸川の漕運開発において、安松金右衛門らが果たした運河整備の足跡を究明する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/09|その九　悲しい水喰土]]&#039;&#039;&#039;――府中「悲しい坂」や福生「水喰土」の遺構と伝承から、玉川兄弟の度重なる設計失敗と安松による工事成功の真実を裏付ける。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/10|その十　金右衛門の経歴]]&#039;&#039;&#039;――算術の達人として出仕した安松金右衛門の経歴を辿り、十代にわたり院殿号を許された異例の待遇と家系の謎に迫る。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/11|その十一　宗岡の古図]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/12|その十二　玉川上水の記事]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/13|その十三　江戸っ子の自慢]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/14|その十四　江戸の穿井]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者_安松金右衛門|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/06&amp;diff=359</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/06</title>
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		<updated>2026-07-04T10:36:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第六章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その六　武蔵野開墾の規模==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[野火止]]に井戸はあっても、江戸の昔の桝のようなもので、家々で適宜、用水を誘引したものです。なかにはそこが車井戸になっていたり、撥釣瓶（はねつるべ）のもありますが、溜った用水を汲み出すだけのもので、近年まで鑿井しなかったから、そこへ湧き出すのではありません。今日もいまだ幾つも残っておりますのは、庭の先や台所の辺に池の様な体裁で、金魚などを放ってある。これは村内を縦横に用水が流れております。それを自宅の前から勝手のよいところへ誘引し、沈殿させて使用する。釣瓶もポンプもあったものではなく、ちょっと柄杓で汲むのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[野火止用水]]は、[[松平信綱]]が玉川上水の三歩を拝領したということについては、何の文献証拠もなく、ただ事実については伝説を証明するよりほか、致し方ありません。幕府が撰述した『[[新編武蔵風土記稿]]』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:多磨郡羽村分水の下流。同郡小川村の境から分かれて本郡へ入り、数条となってみなぎり流れて、引又町のはてに至る。その間2里に及ぶ。水の色は炊水（米のとぎ汁）のようであり、潺湲（せんかん＝さらさらと水が流れる様子）としている。これは郡中の西の方の諸村の養水となっている。&lt;br /&gt;
:……それから多磨川水道の水7分は江戸へかけられ、3分は川越領新田の養水に賜り、今に至って当地の水利は乏しくなくなったという。（[[新編武蔵風土記稿/巻之129新座郡1#水利|新座郡総説]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水を7:3の割合で賜ったことは、海保青陵&amp;lt;ref&amp;gt;海保青陵（かいほ せいりょう）は、江戸時代後期（18世紀後半から19世紀初め）に活躍した経世家（経済思想家）・儒学者である。当時の武士の常識であった「商売を卑しむ」考えを否定し、「天下の儀は、売り買いの一事なり」という徹底した営利・合理主義を唱えた。&amp;lt;/ref&amp;gt;も書いております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:大猷院（家光）様の時、松平伊豆守信綱という人、世にいう智恵伊豆守である。江戸は下町の分は残らず新築地であって、元来は海であるから、井戸水に塩気があって人の腹によろしくないということで、玉川という水を十里西から取られた。すなわち、川崎の六郷川の上流である。幅三間で、渠を十里掘って、四谷御門まで引いた。そのため、この水気により、その近辺に少しずつしみ渡った。今は少々圃（畑）もできて、綿・大根などもはえている。大猷院様は伊豆守の功を賞せられて、上水の内三分の一をくださった。そこで、その渠から幅一間の渠を三里引いて、野火止という伊豆守殿の采地へ引いた。その水気がまたその近辺へしみ渡って、今は野火止近辺も原の中に圃がある。野火止は江戸より五里西北である。この渠が無ければ、今も原ばかりであっただろう。（『東贐&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;東贐&#039;&#039;&#039;（あずまのはなむけ）』：江戸で生まれ育った青陵が、初めて江戸へ来る知人のために、江戸の風俗、風土、歴史などをガイドブック的にまとめた書。&amp;lt;/ref&amp;gt;』文化十三年（1816年））&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さすがに海保青陵のことはあって、武蔵野開発と野火止用水とを睨んで、この渠がなければ今日までも野原のみであっただろうと言いました。松平信綱が玉川上水の総奉行として、我が国に二つとはない長距離の上水路、当時無二の大工事を董督（とうとく）して、首尾よく成功させました勲労、わけても徳川一世（家康）が江戸入部の直後、天正中に大久保主水に命じて神田上水をこしらえさせ、三代家光が井の頭上水を計画したが成らず、四代家綱に至ってようやく玉川上水が成功したので、江戸の上水計画は徳川氏四代がかり、年数にして六十年ばかりの作業でした。それほどの事業であるため、重く賞与されるのも不審はないものの、それにしても玉川上水総量の三割という、分量があまりに多いのは疑わしい。江戸全市とのバランスが取れません。信綱が拝領して私領へ引用したことを、上水記が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:伊豆守信綱朝臣、川越領地のとき、野火留も領内であって水懸りについて、玉川から引水ができ、初めて野火留領に田地もできた。まことにむさし野であって田作がないこと、今もって野火留のあたりは井水がなく、玉川のかかり水ばかりで、飲み水にも使っているとのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などと言っているのは、御普請奉行上水道方 石野遠江守広通という当職の人の著述とも思えない迂濶なことです。野火止傾ならば、野火止500石、北野20石、西堀50石、菅沢165石、計735石、それへ大和田1500石を加えても2000石には足りません。小島文平の訳書には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:伊豆守殿の実家・大河内金兵衛殿、峡田領・河越領あたりの御代官で、手代の内、小畑助左衛門・安松金右衛門の両人は、地方（村方）なども功みなので、家来に遣わされ、右翼・左翼とし、地方の関係のことは彼らと相談された。川越まで内川に通船し、野方の建出し並木は今も繁茂し、一万石の新開をしたのは、助左衛門が目論見したという。元より賢者なので、諸侯に稀な古今の功者と名をふれられたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と見え、幕府の代官であつた信綱の実父・大河内金兵衛が、部下の小畑・安松の材幹（能力）を知って伊豆守家に推薦し、小畑は主家の領地に一万石新開の計画を立てたというので、その新開諸村は延宝（1673年～1681年）までに着々成功いたしました。『新編武蔵風土記稿』にその村名を挙げてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:上下安松、上下奥富（新田地）、松郷（新田地）、大仙波（新田地）、大仙波新田、大塚、大塚新田、大袋、増形（新地）、堀兼、今福、中福、砂久保、中新田、上下赤坂、上下杉原、亀久保（新開）、南永井、水子、寺井（新開）、府川、宿粒、小久保、上下南畑、南畑新田、竹間沢（新開）、亀谷、福岡、大久保新田、渋井新地、古市場、川崎、砂新田、久下戸、小中居、八島、古谷本郷。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを元禄七年（1694年）二月――伊豆守信輝が下総古河へ国狩した翌月――に提出した『松平伊豆守旧領高覚』と見合わせますとわかります。『旧領高覚』は前文に出しておきました（[[玉川上水の建設者 安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]）。武蔵野開発の規模は、信綱の宿案らしいです。『家譜』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四年（1647年）七月五日、常陸新治、武蔵埼玉の二郡のうちにおいて、一万五千石御加増。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。『藩翰譜』にはこの御加増を一万石としてあります。しかし『徳川実紀』には一万五千石加恩とあり、榎木弥左衛門『万之覚』にはこの御加増を二か所で書いており、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一　松平伊豆守様御知行に川越を御取りになりました。御かぞうは共に七万五千石。ただし、きさい（崎西）、ひたちふちゅう（常陸府中）とともにである。&lt;br /&gt;
:一　寛永十六己卯年（1639年）に、松平伊豆守の御知行は六万石で、河越を御知行に御取りになり、御入部なさった。ただし、きさい（崎西）と共に、その後、いずれかの年に一万五千石御かぞうされた。ただし、ひたちのふちう（常陸の府中）、川越の西小沼高くらちと共に。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　御加増一万五千石といふことは、『実記』と『家譜』とが合致している以上は疑問はあるまい。ここで注意しなければならないのは、『高士略伝』という藩中の人物誌の中に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四丁亥年（1648年）七月一日、一万五千石御加増の時、御願にて武蔵野を五千石拝領。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。わざわざ未墾地を望んで拝領したとすれば、石高のない荒野なのですから、五千石といっても、何の収穫もない場所を大概に見積って田畑にしたらといふ計算で拝領したのでしょう。こういふ拝領も御加増も、類例はないでしょう。それゆえに、高のある一万石は、本高え加へて七万石にいたし、高なしの五千石は加えない、加えられないのです。類例のない珍しい御加増だけに、ソロバン上でも奇妙な勘定が出て来たのでしょう。すなわち、本高の内にも、新墾によって増高ができ、全く高のない本高以外の荒地を開いて新高もできたのです。この高のない五千石分の荒地を拝領したのは、まず武蔵野開墾に自分が手本を見せる底意のあったことを黙示したものと思われる。松平伊豆等は七万石の身上を九万四千余石にした。小畑助左衛門の一万石の新開計画などは何のその、信綱の腹案はそんなことではなかった。実に伊豆守家の領土開発は、武蔵野開墾であって、野火止用水がその事業に無二の効用があり、進捗もそれによつて活発になりえたのです。寛文九年（1669年）の武蔵野開墾文書に、武蔵野惣高合　十万九千百八十六石余とある。この開発と玉川上水からの分水は大いに考究しなければならないことで、後には三十三を数えた分水口の内で一番古く、一番大きいのが野火止分水でした。享和三年（1803年）現在の玉川上水分口書付の内、寛文以前創置の分を見ますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:多摩郡&lt;br /&gt;
::一　砂川村&lt;br /&gt;
:::七寸四方　この寸坪四十九坪&lt;br /&gt;
:::三分明　二寸三分余　この寸坪十六坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）新田が出来たときに願い済み、砂川村一か村ニ限リ、水末まで一里余。御料所&lt;br /&gt;
:新座郡小川村地先より引取&lt;br /&gt;
::一　野火留村&lt;br /&gt;
:::六尺四方　この寸坪三千六百坪&lt;br /&gt;
:::三分明の節　土俵をもって積立水懸り分量いたしました。この寸坪千二百坪&lt;br /&gt;
::右は承応年中（1652年～1655年）、上水堀開のときに願い済み、野火留村、西堀村、菅沢村、舘村、引又村、宗岡村、浜崎村、宮戸村に懸っております。水末まで六里ほど。&lt;br /&gt;
:多摩郡&lt;br /&gt;
::一　小川村&lt;br /&gt;
:::一尺四方　この寸坪百坪&lt;br /&gt;
:::三分明　二寸　巾一尺　この寸坪三十三坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）新田が出来たときから寛文九酉年までの内に願い済みとのこと。小川村一か村に限り、水末まで二里ほど。御料所&lt;br /&gt;
:同&lt;br /&gt;
::一　国分寺村&lt;br /&gt;
:::一尺四方　この寸坪百坪&lt;br /&gt;
:::三分明　三寸三分余　この寸坪三坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）願い済みとのこと、国分寺村・貫井村・恋久保村に懸り、水末まで一里半ほど。御料所&lt;br /&gt;
:荏原郡府中領境村地先より引取&lt;br /&gt;
::一　品川領用水&lt;br /&gt;
:::二尺五寸四方　この寸坪六百二十五坪&lt;br /&gt;
:::三分明　八寸三分余　この寸坪二百八坪三合余&lt;br /&gt;
::右は往古は天水場で、寛文九酉年御入用にて出来ました。大井村・上蛇窪村・下蛇窪村・戸越村・桐ヶ谷村・居木橋村・二日市村・南品川宿・北品川宿に懸リ、水末まで七里半ほど。御料所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また設置年代が不明なのは、拝島村、下小金井新田、下小金井村、境村、烏山村、上北沢村、幡ヶ谷村、三田用水などで、いずれも寛文以前とは思えない。分水口の中の古参者五つの内、四つまで幕府直轄地で、ただ野火止一つが私領地です。古い五つの分水だけでなく、後の分水も戸田因幡守、内藤大和守、田安御屋敷を除く外、二十五か所がことごとく幕府直轄地であります。直轄地以外に分水したのは、三十三分水口の中に野火止ただ一つです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　掘鑿しても飲用水を得られない武蔵平野に灌漑用水はなおさら求められません。玉川上水は江戸市民の生命をたすけるだけでなく、この渺茫たる曠原をも救うものです。その分水に恵まれて初めて田畑もでき、村落も安堵されました。さもなければ人間が居着けません。幕府はまず信綱の武蔵野開発案を認め、格外に野火止用水を許し、彼もまた平然として過分な水量の分附を受けてはばからなかったものと思います。信綱の立案の規模は一万石、二万石などといふつもりではなかったでしょう。野火止用水ができて、引き続いて分水口が増設され、武蔵野開墾はいや増しに進捗を活発にいたしました。だからこそ、幕府領か私領かというような詮議をしなかったのです。さて、信綱は、供給された野火止分水をどのように作用させたのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*06]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/05&amp;diff=358</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/05</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/05&amp;diff=358"/>
		<updated>2026-07-04T10:36:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第五章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その五　畑ばかりの新農村==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[大和田]]は[[柳瀬川]]の水で灌漑に足ります。井戸もあって飲料に困りませんが、[[野火止]]は惣反別五百三十一丁七反七畝二十一歩と明細帳にございますけれども、これがみな畑であって、一筆でも田はありません。農村といたしましては、水田のないことは容易ならぬことで、まして新開の場合には成り立ちにくい状況であろうと思います。しかし、[[武蔵野]]開墾を思い立ちましても、十分な水利が望まれません。となれば畑ばかりの農村を成立させるしか仕方がないでしょう。それははなはだしく困難なことであります。この困難に耐えて、野火止村を成立させ、武蔵野開墾の第一着をなし遂げました領主[[松平信綱]]の意図、もし武蔵財野開墾が承応の時代（1652年～1655年）に出来なかったならば、寛文の時代（1661年～1673年）に拡大することもなく、今日見る近郊の状態に至れなかったに違いありません。信綱が困難な武蔵野開墾を決意し、敢行した気持ちは言うまでもないでしょう。安松金右衛門がその計画を立て、畑ばかりの新農村を成立させる方法を考え、その実施に成功した事蹟は大いに称賛すべきものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　灌漑用水がないために畑ばかりの農村をこしらえ、それの立ち行くだけの経済方策を回しても、どうしようもないのは飲料水でございます。これは代案のないものです。もし玉川上水から分水が得られなかったなら、信綱の武蔵野開墾はあやういものになったでしょう。しかし、野火止では村内の[[平林寺]]の井戸が最初に掘った井戸だといっております。『野火止宿開発根本覚書』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:平林寺は寅卯（寛文二壬寅、三癸卯＝1662年・1663年）の両年に御建立された。酉（宝永二乙酉＝1705年）の年まで四十二年になります。和尚様（石院和尚）岩槻（武州足立郡金重村）に従い、お引っ越しされ、御寺がまだできないうちは、名主庄右衛門のところに御座になられ、御普請ができてからは、御移り渡りあそばされました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあります。平林寺が出来たのは、川越城主の二代目、信綱の嫡・輝綱のときであって、これが村内唯一の井戸なのですが、武蔵野所在の井戸のように螺旋型に掘り下げたのでなく、まっすぐに掘ってあります。この井戸がいい水で、たくさん出ます。だいたい、この辺では浅くてはいけませんが、深くさえ掘れば水が得られるというのでもなく、何分にも水が出ない。出ても悪い。飲料水の得がたいところなのです。野火止でも平林寺の井戸の他には、適当な井戸がなかった。新しい住民は十年余も井戸がなくておりました。それでも過ごせたのは、分水があったからであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:およそ東西三～四里の間、昔はみな渺茫とした平原であったが、公の御仁恵深く、この辺へ玉川の水を引きはじめてから、今は皆、居村となった。それぞれ「新田」と号するのはこのためである。&lt;br /&gt;
:小金井と名づけたのは、当所からはるか南の方に入見山というところがある。この山から清潔な水が湧出して、一村の人三十戸戸を養っている。元来、このあたりおよそ三～四里あまりの間、昔はさらに清水がなかった。土中に鉄気や塩気があったり、赤かったり白かったり、さらには渋みがあったりして、濁水で飲みにくく、人の住居になりがたかったが、天の助けによって自然と清水を得たのは、黄金を拾うことができたようにあものだ。ゆえに居村と成ってから小金井と名付けた。（『[[十方庵遊歴雑記]]』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　桜で知られた小金井のことを書いたところにこういう記載がありました。ここで野火止の玉川上水の分水による恩恵がわかります。小金井はそれより前に村落をなしたのも、人見山の傍らに湧泉があったためだとわかります。武蔵野の中では飲料水が特に尊重されます。ところどころにある堀兼井が名所として扱われるのも、古い井戸だからではないので、土地柄として得がたい飲料水が供給されますから、自然と住民が大切にする。それが顕著なものにしたのだと思います。武蔵野がいつまでも荒蕪の（荒れ果てた）ままに置かれたのは、飲料水のないためであったようです。玉川上水鑿通後、級に開発されました。その証拠はみな新田と呼ばれているのでもわかります。その新田には必ず上水の分水口がある。玉川上水の恩恵の大きな事は実に驚嘆すべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水は灌漑のために玉川上水から分かたれたものといわれておりますが、それは寛文の時期（1661年～1673年）に伊呂波樋ができて以後のことで、本来、飲料水として分けられたのでございます。伊呂波樋のことは後で申しましょう。末水が灌漑用水になりましても、本来が飲料水なのですから、後々までも野火止村民としては依然として飲料で、実際に最初の事態から変わっておりません。いろいろ書類もございますが、天明七年（1787年）六月、野火止の名主常右衛門が、その筋へ提出した書付がわかりやすく申し立てております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川御用水、小川村より分水口数十か所のうち、武州[[新座郡|新坐郡]]野火止堀のこと、明暦元年（1655年）松平伊豆守様が同国川越の御領主であったとき、御一領にて、この野火留宿新田を御取立あそばされましたとき、百姓は相続のため、飲み水御拝領遊ばされましたとのことです。先年より申し伝えて先年より申し伝え、これ存じ奉っております。&lt;br /&gt;
:上記につき、小川村分水口、数十か所のうち、野火止掘ばかり、左右切石で幅六尺にお定めがありました。そのほか、分水口残らず箱でございます。用水元まで道のり四～五里ございますが、野火止水下五か村の飲み水に下され置かれました。上記の末水、その節は川越領の当村（[[野火止村]]）、野火止領の[[館村]]、御他領の[[宗岡村]]・[[宮戸村]]、三ヶ村の田方用水に先年から下され置かれましたところ、たとえみな止められるときであっても、野火止堀分水口だけは飲み水程度だけ懸けられております。&lt;br /&gt;
:しかしながら、近年は小川村分水がたびたび皆留めを仰せつけられ、野火止堀も皆留と同様に留切となりました。特に今春三月二十七日より久しく皆留を仰せつけられ、今の時点で洩水等もないよう厳しく定められたため、右の村々は誠に飲み水がなく、一同大いに難儀が極まっております。&lt;br /&gt;
:以上申し上げたことにより、先年より村々で堀井等を所持していた者があれば、大小の百姓共、遠方より朝夕に水を汲み上げて運ぶこととなり、農業に支障を来し、ことごとく困難が極まっております。末水懸りの村々は、今回の節まで用水をながらく相懸ることができず、はなはだしく不作となり、これまた難儀はなはだしいものでございます。&lt;br /&gt;
:さらに野火止堀の懸り分水口の儀は、昨年より野火止名主が世話をして来たので、小川村名主彌次郎方にも、これまで用水の懸りなどのことを相談して参りました。&lt;br /&gt;
:つきましては私こと、はなはだ恐れ入りますが、以上の村々の総代として訴訟を申し上げます。何とぞお慈悲をもって、野火止堀用水懸りのこと、従来同様、分水口の皆留を仰せつけられましたとしても、飲み水程度は下され置かれますならば、村々大小の百姓どもが続けてつかまつり、一同助け合いいたしますので、この上もなくありがたき幸せに存じ奉ります。以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水の水量の増減によって、各分水の量を制限することになっており、三分止め、七分止めなどというのがあり、全く分水しないで溝口をふさいでしまうのを皆留と申しました。天明七年（1787年）の盛夏に水涸れが強かったと見えて、皆留になりました。その時に野火止の名主が各村々の総代になって差出したのが、この書付でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　農村では耕作が第一でありますから、灌漑用水ほど大切なものはございません。しかし、飲料水は、それよりも必要なものです。当所開墾の際に領主・松平信網は、新拓百姓の飲料に玉川分水を頂戴したと言い伝えています。その証拠とも見られるべきことですが、数多い分水路と野火止用水路とは構造も違っている。灌漑用水とは別のものに見えます。末水が灌漑用になっておりましても、本来飲料水なのでございますから、どのような減水にも、五ヶ村の給水だけは与えられて、野火止用水には皆留ということはかつてなかったのでございます。しかし、近年は他の灌漑用水同様の御沙汰で皆留になりますが、野火止には堀井のある農家はございませんので、皆留をされれば百姓どもの呑み水がなくなります。こうした申し立ては度々ありますが、いつも野火止用水は多少とも給水されることになっておりました。何より、村内に平林寺の井戸の他に井戸がないのですから、給水しないわけにはいかなかったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応三年間設以来、御上水三分の一の割をもって六尺口のところ、明治三年四月御改正となり、伏樋立一尺三寸、横一尺五寸四分、寸積二百坪、水賦金永三貫四百四十五文、&lt;br /&gt;
::ただし、水銀高永百文に付、五坪四合八勺六九九、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは[[大和田町]]役場現存の文書です。この六尺口というのは分水口の寸法で、それには沿革もございますが、水賦金は明治になって始めて村掛りになったもので、その前は一文半銭たりとも、用水の負担はなかつたのでございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:明治四年民部省土木司へ請書&lt;br /&gt;
::水積　一寸四方　寸坪二百坪&lt;br /&gt;
:::水積寸坪六十四坪九合二勺、飲用水&amp;lt;br /&amp;gt;人員千百六十四人、但百人につき、寸坪三坪割合&amp;lt;br /&amp;gt;引テ&lt;br /&gt;
::水積寸坪百三十五坪、田用水&lt;br /&gt;
:::田反別百二十一町一反四畝二歩、ただし一町につき一坪一合一勺五○七&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大体の受用について飲用、田用の二種に分け、さらに内訳が書いてございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[野火止村]]百三十戸、人員七百七十五人、寸坪二十二坪七合七勺&lt;br /&gt;
::百二十七人、菅沢堀、三坪八合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;三百十九人、上（うわ）堀、九坪五合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;二百七十人、下（した）堀、八坪一合&amp;lt;br /&amp;gt;四十一人、北野堀、一坪二合二勺&lt;br /&gt;
:[[北野村]]二十戸、人員百五人、寸坪三坪一合五勺&lt;br /&gt;
::人員五十九人、本村分、一坪七合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;同四十六人、野火止村分、一坪三合八勺&lt;br /&gt;
:[[菅沢村]]四十軒、人員二百七十一人、寸坪八坪一合三勺&lt;br /&gt;
:[[西堀村]]五十六軒、人員三百二十九人、寸坪九坪八合七勺&lt;br /&gt;
::百五十四人、本村分、七坪六合二勺&amp;lt;br /&amp;gt;七十五人、下堀分、二坪二合五勺&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[館村]]、[[引又町]]、[[宗岡村]]、[[宮戸村]]は、各田地の面積を挙げ、その使用量を割り出してあります。水路図で見ないとわかりにくいのですが、野火止用水は三条の流れになって、野火止、菅沢、西堀の三部落を通っております。この流れの末が志木に入り、それから田用水になるので、志木より手前では飲用なのです。国定教科書が野火止用水を灌漑用と書いているのは、よろしくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今日においても、野火止には井戸がはなはだ少ない。井戸はあっても飲み水にならないのが多い。天明の時期に井戸のある農家がないといったのは事実であろう。それだけ、この用水の恩恵が大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*05]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/04&amp;diff=357</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/04</title>
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		<updated>2026-07-04T10:35:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第四章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その四　玉川兄弟の失敗==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水は今日でも分水口が十六箇所ございますが、享和の頃は三十三箇所ございました&amp;lt;ref&amp;gt;『上水記』三には、分水口として以下の33か所が記されている。拝島村、殿ヶ谷新田、柴崎村、砂川村、中藤新田、&#039;&#039;&#039;野火留村&#039;&#039;&#039;、平兵衛新田、小川村、榎戸新田、鈴木新田、国分寺村、大沼田新田、野中新田、田無村、鈴木村、関野新田、下小金井新田、下小金井村、梶野新田、千川口、境村、品川用水、無礼村、烏山村、上北沢村、下高井戸村、幡ヶ谷村、三田用水、淀橋の水車、原宿村、千駄ヶ谷：戸田因幡守抱屋敷へ引取候上分水口、四谷内藤宿：内藤大和守下屋敷へ引取候上分水口、四谷内藤宿　田安御下屋敷水口。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この分水口について、いつも色々と問題が起こりますので、郡代からも御普請奉行からも、常に吏員を出して実地を踏査させております。誰もが知っている大田南畝の『調布日記』&amp;lt;ref&amp;gt;大田南畝『調布日記』は全三巻。&amp;lt;/ref&amp;gt;は、文化五年の十二月から翌六年の四月まで、当該地方を巡回した記録であります。南畝はそのほかに『向岡閑語』と『玉川砂利』&amp;lt;ref&amp;gt;『玉川披砂』二巻は社寺などの記録。『玉川砂利』一巻および『向丘閑話』二巻は随筆である。&amp;lt;/ref&amp;gt;を書きました。ああいうものは南畝以外にもいくつかあってもおかしくないのに、一向に伝わっておりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　佐橋長門守は職掌の上からも、知っていないはずはありません。また、幕閣としても、どんな地方問題が起ってくるかもしれないため、『玉川上水堀之起発並野火留村引取分水口訳書』のような調査が必要なので、老中松平伊豆守が調査を命令いたしましたのも、自分の領地に関するだけの意味ではありますまい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　命を受けた佐橋長門守は附紙をして「玉川上水堀割之規発並野火留村引取分水口訳書帳面、ご覧に入れますことにつき、申し上げました書き付け」と書いて、本書の来由と信頼できる理由を述べています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:千人頭・原半左衛門の組で与頭（くみがしら）を務める小島文平は、その土地の生まれ育ちでございますので、玉川上水の掘り割りの始まりや、野火止村への分水口が作られた訳について、先祖より申し伝えたこと、地元の伝承をよく心得ているとのことでした。そこで、文平が江戸へ出て参りました折に呼び寄せて詳しく尋ねてみたところ、玉川上水の掘り割りの成り立ちについては、役所の書留（公式記録）とも一致する点が多くございました。その上、野火止村への分水の訳についても、以前お下げ渡しいただいた御留書（控えの文書）の内容を念頭に置いて聞き取りましたところ、事実として合致する点が多々見受けられました。これは有力な参考資料になるのではないかと考え、彼が話した内容を書面にして提出するよう命じましたところ、このたび別帳（報告書）を差し出して参りました。つきましては、内容をご高覧いただきたく、ここに差し出します。以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:亥の年九月&lt;br /&gt;
::佐橋長門守&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この亥年というのは享和三年（1803年）であります。それは大河内家文書の中に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:享和元酉年&lt;br /&gt;
:一　当時水道御奉行佐橋長門守様の由、野火止名主申聞之&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるだけでなく、累代武鑑御普請奉行のところに、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:享和元酉十一月十二日　御目付より&lt;br /&gt;
:文化五辰十一月廿六日　京都町奉行&lt;br /&gt;
::佐橋長門守佳如（ヨシユキ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と見えますのでわかります。ただ残念なことには、松平伊豆守信明から佐橋長門守へ交附した留書というのが、大河内家にその控えがあるはずなのに残っておりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小島文平は当時千人同心で、八王子千人町におりましたが、その先代・善兵衛は小川村に住み、大庄屋を勤め、村内の人足を引き連れて玉川上水工事に参加した。それゆえ野火止分水堀割にも立合ったので、詳しい申し伝えもある。佐橋は文平の申立を聞取り、勉めて証拠を求め、是認すべきことを知り、さらに書面にさせて、分水口の現状記録とともに幕閣へ答申したのでございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小島文平の書面に従えば、庄右衛門・清右衛門の設計は二度も失敗している。その失敗の証拠は古堀敷を残しておりますから、動かせない事実と思います。古堀敷の踏査は別に書きますが、まず第一の失敗は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川は水元が甲州都留郡　小菅山・多波山、武州多摩郡　日原山の渓間から流れ出、三流合同し、厳に争い流れ下るため、水は非常に軽い。長流水なので仙薬に等しいため、御本丸かかりになり、その残水を御城下へ下されたので、これに勝る御救があるだろうかちうことで、武州多摩郡国分寺村の真姿の流れを、合水に引入れるのがよい、と目論んだ。多摩郡日野の渡の側にある青柳村の下、今の府中領田用水口から引き入れ、府中八幡下から往還の方へ堀曲げ、梁谷村の裏通を掘り、合水としたならば、出水のとき、堰を押し流しても、狭山にある筥が池も、武蔵野を流れ流れて谷保村にて合水になり、南池とも水流れ流れるだろう。三筋合同すればひでり水の災いはない。そこで四ツ谷大木戸へむけて盛り渡した。すると、八幡下は井筋が低く、水入かねた古堀敷が甲州海道堰屋塚前にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ということで、失敗の証拠は府中八幡下にある。享和三年に小島文平の書いたものは、玉川上水工事のあと百五十年過ぎた後年の記録ではあるが、ただ後年のものだというだけで放棄していいというわけではない。当時のものだからといっても吟味せずに鵜呑みにする訳には行かないのと同様でこざいます。文平の書き上げにしても相当な取捨選択が必要でありますが、玉川兄弟の設計の第一の失敗は、八幡下の古堀敷を証拠として、前掲の記載を採用いたしたい。それから設計を新たにして、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:それから六、七里、川上へ登り、福生村地口から引き入れ、四ツ谷までの水盛も済み、関東御代官・伊奈半十郎殿、承応二年よりなお伊奈半左衛門殿かかりで、家来差出、御扶持方を給わり、人足は村々より差出し賃銀をくだされて、堀渡しを行った。大猷院様（家光の諡号）の思し召しを継がせられ、厳有院様（家綱の諡号）にもご賢慮を御いたわしあそばされ、どれほど堀割ができたか見分してきなさい、と惣奉行・松平伊豆守（信綱）殿へ上意があった。その日帰りで時々ご見分したところ、御城より直に御一人乗切で、御越しなさって、堀割の始末について言上があったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊奈半十郎（忠治）は承暦二月十一日、玉川水道奉行になったのであります。この人は庄右衛門・清右衛門の案内で、第一設計の踏査をしております。伊奈半右衛門（忠克）&amp;lt;ref&amp;gt;「伊奈半&#039;&#039;&#039;左&#039;&#039;&#039;衛門」が正しい&amp;lt;/ref&amp;gt;は半十郎の嫡男で、父が承応二年六月二十七日逝去いたしましたから、代わって水道工事の係になったと見えます。ここは文平の書き上げの書き方がよろしくないので、わかりにくい。伊奈の系図で見ますと明白です。家綱将軍が二度日の設計によって始めた工事を心配されたというのは、いかにもありえることと思われます。しかし、松平信綱は、庄右・清右が上水の設計を申し立てたときから阿部豊後守とともに関係しておりますが、この工事の惣奉行になったというのははっきりとしません。いろいろ探して見ますと、宮崎成身の『国字分類雑記』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;国字分類雑記&#039;&#039;&#039;』：宮崎成身撰、全39巻（本編35巻、付録4巻）の随筆・考証資料集。&amp;lt;/ref&amp;gt;玉川上水の項に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応二癸巳年正月十六日、松平伊豆守を奉行として、玉川上水を江戸へ引くための水道を穿たせた(山本筆記)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのを見つけました。だが、『山本筆記』は見ておりません。植田孟縉の『武蔵名勝図会』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;武蔵名勝図会&#039;&#039;&#039;（むさしめいしようずえ）』：12巻12冊。別名『武蔵国名勝図会』。多摩郡の地誌である。著者、植田孟縉は、八王子市千人同心組頭の植田家の養子で、『新編武蔵風土記稿』の編纂にも携わり、多摩・高麗・秩父三郡の廻村調査を行った。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも、信綱が総奉行であったと書いております。前にも述べましたとおり、松平信綱に関する資料は稀少なのでありますから、宮崎氏に感謝しなければなりません。こうして、小島文平の臆測の説ではないことがわかりました。もちろん、他に傍証もございます。さて二度目の設計で工事を進めていきますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:さて、堀渡も済み、江戸表へ水懸りは間違いないということを申し立て、水を仕懸けたところ、今、字に水喰土と唱えるところ、熊川村地内で水は残らず地中に引きしみてしまい、流れなかったので、詮方（せんかた）も尽きた。伊豆守殿の家来・安松金右衛門に再び水盛するように伺いがあり、仰せつけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今度は熊川村で水が止まってしまいました。これも古堀敷が残っており、今日も水喰土と書いてミヅクラヒド（みずくらいど）と字（あざ）の名を呼んでおります&amp;lt;ref&amp;gt;水喰土:&lt;br /&gt;
福生市大字熊川1359-1「みずくらいど公園」として玉川上水開削工事跡が保存されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。『武蔵名勝図絵』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;上水口跡&#039;&#039;&#039;　福生村の西寄り。ここに玉川上水口の堰所がある。そのいわれを知る者はいないが、堰の跡があって、今は水も入らない。伝へに言うには、玉川の最初の引入口に堀ったが、水道が便利ではないために工事がとまり、今の羽村の地へ掘り替えた古堰であるという。傍に関上明神の小社がある。これは初めに堰口に水神を祀った小祠である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのが、それだと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第一の青柳村線、第二の福生村線、どちらも失敗に帰しましたから、松平信綱は自分の家来の安松金右衛門に設計させた別の案で幕閣の指揮を求めたというのであります。そこで別案によって工事を進捗させることになり、安松は全部で三種の設計をいたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽村地内尾作から五ノ神村に懸り、川崎村へ堀込み、福生村にて出合う積りで水盛りを渡し、堤なく、堰も洗堰で、万代不朽の御場所であることを申し上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが第一案で、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽村地内阿蘇宮から堀り込み、川崎村へ懸り、福生村へ落ち合うべき積りで水盛をし、尾作同様の御場所、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが第二案で、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:とりわけ阿蘇宮の方が勝っている訳は、尾作は水突き当っているため、水門の保ちがどうであろうか。その上、御田地が多くつぶれ、阿蘇宮も少しは御田地が潰れるので、なお場所を見立てるべきであるという御評議があり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安松はさらに第三案を提起いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽村前、丸山裾から水を反させ、今、水神の社を祀っているところに堰入、川縁通り堤を築き立て、井筋とし、福生村より堀入、熊川村地内から拝島村裏まで、水喰土の前後は捨塀にし、堀筋を替え、水仕替け、狭山にある筥が池の流れも、今の砂川村裏で御上水に跨るので助水合同し、江戸へ十分に水懸り、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第三案が採用されて、玉川上水工事は成功いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:御上水堀渡のことは、信綱朝臣の善政が多い中、三大政のひとつである。これにより御上水懸り高三歩倒褒美として下されたということで、（伊奈）半右衛門殿家来、堀割を取扱われた出役の者も、それぞれに御褒美も下されたという。また、庄右衛門・清右衛門は玉川と名乗るべき旨、苗字御免があった。明暦三年、銀九貫七百五十匁下され、羽村水元の御普請、江戸内の樋耕伏替え、水銀を取集めることを仰せつけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といい、なお、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:安松金右衛門の水盛、堀割は御郡代の懸りであって、最寄の村々から人足を出し、願人は庄右衛門・清右衛門、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といってあります。安松の設計によつて伊奈の手で工事をなし、玉川両人は発見者として記録されたというのです。玉川両人の書き上げにも賞与を受けた日時が見えません。したがって、『上水記』を初めとして、玉川両人の書き上げによって書いたものには、いずれも受賞の時日がないのでございますが、『徳川実紀』には「承応三年六月廿日、この日、去年命ぜられた玉川上水が成功したため、そのことを奉った町人へ報金三百両を下された。」と書いてあります。褒美の金だけ頂戴しているのですから、苗字帯刀を許されたことが疑わしくなり、『府内備考』などは、武蔵野開墾人の中に玉川次左衛門という者があるのを挙げて、「書上にいうように、玉川姓を賜わったというのもいかがであろうか。」と言っているのが目につくようにもなります。もちろん、庄右・清右が玉川を上水によろしいと見立てた。その発見は確かに彼らの功績に相違ありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川両人は再度失敗しておりますが、その設計には実測しないはずがない。どのような方法を執ったか、それについて阿部弘蔵氏の発表されました『玉川上水ノ工事』&amp;lt;ref&amp;gt;阿部弘蔵「玉川上水ノ工事」『文』第2巻4号（金港堂）&amp;lt;/ref&amp;gt;がございます。これがすこぶる面白く思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この頃は測量の術もいまだ開けておらず、量地の品などもなかったため、清右衛門兄弟がこの水路の高低を量るには、ひたすら夜に業をなした。役夫らに、程近い所には線香の火を持たせ、程遠い所には提灯を持たせて、かなたへと行かせ、その火の光りが見えないのを度とし、前に量った場所を準として尺をあて、ここはあそこから何尺何寸何分高く、この場所はあそこから何尺何寸何分低く、この地はあの地から何十尺、左の方に寄り、あの場所は何百尺、右の方に傾いている、ということを明らかにし、再三測り、試みて、始めて水路となすべき一つの線を見出し、これを上水の渠と定めたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　阿部氏は何によって書いたのか、出所を述べていない。しかし、こういう測量の方法は、以前から行われていたので、『常山紀談』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;常山紀談&#039;&#039;&#039;（じょうざんきだん）』：江戸中期の随筆、歴史書。正編25巻、拾遺4巻、付録『雨夜灯』1巻の全30冊。湯浅常山著。自序は元文四年（1739年）。戦国時代から江戸時代初頭の武士の逸話や言行を集大成したもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:朝鮮の平安川は深さ八～九尋、四～五百石積の船の往来があって、日本では見ない大川なので、川の広さを諸家の士が、七～八町、十町、あるいは十二～三町あるだろうなどと言うが、明らかではなかった。恩田長政の士、吉田六郎太夫・又助の父子に見積りをせよと下知された。そのようなことに慣れていないため、覚束ないと辞退したが、父子の組に功みな者も有あるだろうと言われた。翌朝、又助は組の士を引きつれ、川岸に出、川の向こうに朝鮮人が三人見えた。又助、「小柳権七は身長が高い。あの向いの人が退かないうちに、急いで堤の上を行け。指物を振った時、踏み留まれ」と言い含めた。権七は走って行き、その身長が向いの人と同じに見えるとき、指物を振ると立ち止まった。そこでその間を打ってみると、八町五段である。長政はこれを聞いて「又助二十一歳、老功の者にも劣らない」と称美された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあって同じ方法なのです。この方法によって玉川両人が測量したというのだが、小島文平は野火止分水の話にして、こういっております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:野火留用水口のこと、堀割の始末に種々の雑説があるが、伊豆守殿が拝領したという話が里語（地元の伝承）と符合している訳は以下のとおり。堀筋は上口が一間半、敷（底）が一間、左右の土手が一間、分水口から四里の間は除地（年貢免除の地）とされた。これは、御褒美としてくだされたものではなく、私領の免直り（めんなおり＝年貢率の調整）ぐらいであったが、御料所の地所を潰し、特に堀筋を往来自由にさせるためであった。そのため、道敷まで領地として下されるというはずもなく、この点をもって推測しても明らかである。拝領があってからは、昼夜を問わず、水盛・掘割をおこない、灯燈の腰に黒く筋を書いて目印・目当にした。後に金右衛門はこれを平林寺へ納め、その功績を永く伝えようということで、今もこの寺では、その合印（マーク）の灯燈を用いているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　信綱が玉川上水の三歩を拝領して、野火止用水を疎開したことは、全く伝説だけであって、文献の証拠となるものはありません。また、野火止用水のように、大名が自分の領地のために、幕府の施設物を頒与され、土地をも使用させた例もないのです。それはまず差し置きまして、安松金右衛門が野火止用水設計の際、測量に使用した提灯を、信綱の菩提所である野火止平林寺へ納めたということですが、現在平林寺では山道のついた提灯を使用しております。吉田藩士・長坂氏の『自他隨筆』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:平林寺の燈灯の印は山道形である。御屋敷下目付の燈灯印も同じことである。竹の尺を定め、燈灯をともし、高下を見たのである。&lt;br /&gt;
:所は堀わりはしない。二つ三つ探っておけば、水勢が強いため、三～四日に自然と水道がつくという。&lt;br /&gt;
:山道形&lt;br /&gt;
:――高いところは掘けずれ、と。&lt;br /&gt;
:――低いところは土手をきずけ、と。&lt;br /&gt;
:水利のときの燈灯の印である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　山道の提燈は安松が水利工作の時に便用したものであることがわかる。また、長坂氏によって、小島文平が平林寺へ納めたというのも確かだとわかります。阿部氏が出所をいわずに、玉川上水の測量に便用した提灯の話の根拠も分かってきました。山道の提灯を玉川両人が測量に使用したことは旁証がなく、安松が使用したことは後々のものにもせよ書体があり、平林寺では現在も便用しております。阿部氏のは伝説の聞き書きと思われますが、それさえ安松が例の提灯を使用して、玉川上水工事の測量をいたしましたから、当該地方にも伝説が伝わっているのではないかとさえ思はれます。もちろん、玉川両人が使用したものならば、松平家（今日の大河内子爵家)で襲用されるはずのないものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『高士略伝』に、安松が野火止用水について、二様の設計を立てたことが見えます。これも、玉川上水について最初に二つの案を提出したことの誤伝らしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「ここに水道を作ることができる道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千年も不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　いずれも伝説であつて、考証が困難なのは誠に残念に思います。しかし、玉川両人の設計が二度も失敗していることは、実在する古堀敷によって明確であり、野火止用水が三年がかりで疏通したのでないことは、玉川上水の話と聞違ったということはわかります。また阿部氏の記述をひもといてみると、山道の提灯は安松の使用したものとわかり、そうすると彼が玉川上水工事の実測を行ったと考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水が出来上がりましたのは、明暦元年（承応四年改元）三月でありまして、玉川上水の成功（承応三年六月）した翌年翌年なのでございます。これは川越城主松平伊豆守信綱の家来・小畑助右衛門、安松金右衛門の両人が、一万石開墾の計画を立てまして、まさに玉川上水起工の際から着手いたしました。それは榎本『万之覚』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武蔵野火留新田、同巳（承応二癸巳）の春中から、同八月中まで、五十四～五間（間の字は軒の仮用）家出来ました。家一軒に金二両、米一俵ずつ御貸しをなさったと承っております。但、伊豆守様より。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてございます。大和田町沿革に従えば、信綱はこの新墾に当って、一夫に一町の地を授け、七間半に四百八十間の地形と定め、その半を林とし、他を宅地と畑とし、全体の八分の一を年貢地と定めましたから、住民は地が肥えているか痩せているか、年の豊作・凶作に拘らず、税金に苦しむ者がなかったといいますが、この計算は不安なもので、吟味の限りではない。ただ伝説として大概をいうのに止めたい。正確な領地高は当村の文書が出て来ないので、残急ながらわからないのであります。新農村には御年貢の心配は無かったとしても、『高士略伝』にございますとおり、「その頃、野火留は武蔵野で、井戸もなく、泉水が湧出する所もない」ので、井戸を掘っても三十尺以上の深さになって、ようやく水が得られるほどであったといいます。それは当所のみのことでなく、武蔵野一帯の有様で、元禄の頃までも柴行水（しばぎょうずい）が行われていたところがございます。茅を刈りまして、日陰で乾燥させて、それで身体も手足も拭つて、入浴に代えるのが柴行水であります。入浴はそれでも済むでしょうが、飲料水は猶予のならないものでございますから、飲用水のないところには住居は出来ません。つまり、野火止用水は灌漑のために出来たのでなく、飲料のために作られたのであります。&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*04]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/03&amp;diff=356</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/03</title>
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		<updated>2026-07-04T10:34:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第三章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その三　玉川上水の水盛==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　寛政三年に御普請奉行 上水方 石野遠江守広通の書いた『上水記』、それは玉川清左衛門の書上を主としている。それで、当該官庁にも古記録のなかったことわわかるが、石野広通は玉川の書上を本筋としたので、書上にないことで捨てがたく思ったことを、すべて一説として傍記しております。なぜ上水記を書くときに、一概に玉川の書上にのみ依拠したのであろうか。玉川上水について他にまとまった書き物がなかったこともありましょうが、玉川の書上を鵜呑みにしたのはよろしくありません。是非穿鑿して、庄右衛門・清右衛門の書上がどの程度信頼できるものであるかどうかを吟味しなければならなかったのです。これは上水記の過怠だったと思います。それ以来、玉川上水の話をするには、この『上水記』が玉川の書上と並んで無二の典拠になっているのは残念でなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川上水の事。&lt;br /&gt;
:明和五子年（1768年）以前、町奉行持で、町年寄かかりであった。明和五子年、御普請方に町奉行より請取時の古い書き留めにいう。承応元壬辰年（原註：寛政三年まで、およそ140年）までは、御城内ならびに御城下、上水道はなく、下々にては所々の水溜り、溜池などの水を汲み、樋にて仕懸、取り用いて不自由だったので、上水道になるべき水筋を、町奉行 神尾備前守の尋ねにより、玉川庄右衛門・清右衛門という者の父、所々相求める所に、武州羽村という所から、玉川の水を江戸まで、道のり十三里のところ、水盛を相考え、御用水になるべき旨、絵図・書き付けをもって評定所に申し出た。これにより、、御老中 阿部豊後守・松平伊豆守、寺社奉行 安藤右京亮・松平出雲守・神尾備前守、町奉行石谷将監・牧野織部・八木勘十郎、御勘定奉行 曽根源左衛門・伊丹蔵人・伊奈半左衛門（原註：玉川庄右衛門が書付の趣にて記している。御役名等はあえて正していない）等、絵図書き付けを一覧した。そこで見分として牧野織部・八木勘十郎・伊奈半左衛門、上水通り庄右衛門・清右衛門が案内として、道筋六日の逗留にて見分を済ませて江戸に帰参した。同年十一月二十五日、評定所にて、上水道堀普請に取り掛かるよう、両人に申し渡した。翌巳年四月四日より掘り始め、同年十一月十五日まで、四谷大木戸まで掘りわたす。玉川より水を仕掛けるべしとの由にて、羽村大川にて壊を仕立て、水のかかるところ滞りなく、四谷大吐（おおはき）まで水がかかってきた。そこから虎御門まで残らず掘り立てて十分に滞りなく水が来て、その後、追々分水が作られて諸方で上水を取り用いるということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上は上水記の記載ですが、承応元年（1652年）十一月に上水道開鑿が決定し、二年四&lt;br /&gt;
月に起工して、十一月に四谷大木戸までの工事が済みました。玉川上水は江戸城および城下の町々へ給水するのが目的でございますから、四谷大木戸まででは、城下の町々へは及びません。『御府内備考』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;御府内備考&#039;&#039;&#039;（ごふないびこう）：三島政行編、145巻。文政十二年成立。江戸幕府官撰の江戸の地誌。巻之六＝御曲輪内之四に「上水」の章がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;が「『承応記』に三年玉川の流水、日本橋より南へ水道を用いるべきであるとおっしゃったという。……同じ十一月十五日に、四谷大木戸まで、行程十三里あまり掘割、また二千両を下され、翌四月に至って、虎御門外まで掘り割り、水引きが成功した」といい、『東京通志』が「大木戸から虎門外に至るまで陰溝を掘らせて、三年甲午四月に完成した。」というのも、城下の町々へ給水ができて、始めて竣功といえるわけなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　江戸の水道は乃祖家康が、天正年中（1573年～1592年）に大久保主水に命じて、神田上水をはじめてから、三世家光の晩年に多く企画され、家綱の時に至って、ようやく玉川上水が成功しました。実に徳川氏は四代がかりで、この事業を仕上げたのでございます。玉川上水は承応三年四月に成功いたしましたのですから、三年がかりでした。二年目にはやっと四谷大木戸までしか来ておりません。玉川上水の工事に三年かかりましたのが、[[野火止用水|野火止用水路]]の話に混入して、ああいう伝説を生じたのであろうと思います。と申すのも、玉川上水と野火止用水との工事が、時間的に密接しているだけでなく、玉川上水の工事がなければ、野火止用水の工事が起こらない理由があります。そのわけを述べるには、玉川清右衛門・庄右衛門の書上を吟味しなければなりません。それも長い文段でございますから、前に掲げました上水記が依拠したところだけ、すなわち全文の半分を出しておきましょう。さしあたっての入用は、それだけで十分でございますから、残りはここでは省略いたしましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::恐れながら書き付けをもって申し上げます。&lt;br /&gt;
:玉川上水道のこと。六十三年以前、承応元壬辰年（1652年）まで、御城内ならびに御城下、御武家様方とも、上本道がございませんでしたので、下々にては御堀または溜池などの水を樋で仕掛けて取ることになっており、不自由でございました。&lt;br /&gt;
:そこで上水道になりうる水筋がございましたので、見立てを願い上げましたところ、町御奉行 神尾備前守様が以前から私たちの親ども二人に仰せつけられておりました。そして所々吟味いたしましたところ、武州羽村というところから玉川の水を引き入れ、御当地まで道のり十三里程（50kmあまり）のところ、野山ともに日数をかけて水盛（測量）・吟味し、御用水になると申し上げました。委細は絵図・書付で、御評定所まで申し上げました。&lt;br /&gt;
:そのときの御老中様方の御列座、阿部豊後守様・松平伊豆守様、寺社奉行 安藤右京亮様・松平出雲守様・神尾備前守様、町奉行 石谷将監様・牧野織部様・八木勘十郎様、御勘定奉行 曽根源左衛門様・伊丹蔵人様・伊奈半左衛門様がその絵図を御覧あそばされ、御吟味の上、「重宝であり、忠義な進言である」と評価をいただきました。現地の御見分として牧野織部様・八本勘十郎様・伊奈半十郎様、以上三人様にお越しいただきましたので、私もお供いたしまして、上水道の通り道の明細をお見せいたしました。道筋に六日逗留されてご見分を済ませて江戸へお戻りになりました。同年十二月二十五日、御評定の惣御寄合に親どもが呼び出されました。上水道を掘り、普請に早々に取り掛かるよう仰せつけられ、ご入り用金六千両をお渡しいただきました。&lt;br /&gt;
:翌年（承応二年＝1653年）巳四月四日に掘り始め、同年十一月十五日までに、四谷大木戸まで押し渡しましたところ、先に玉川からの水の仕掛けをご覧あそばされたい旨仰せつけられましたので、すなわち羽村の大川（多摩川）にて堰を仕立て、水を仕掛けましたところ、滞りなく、四谷大吐まで満水になりました。&lt;br /&gt;
:しかし、以前にいただきました御入用金6000両は、高井戸あたりまでに払ってしまい、金子は多分に不足しておりました。このことを度々申し上げましたところ、「堀普請ができて、水が滞らずにうまくかかれば、末々悪いようにはしないだろう。まず、この先は自分で費用をもって、虎御門まで掘り立てるように」と仰せつけられたため、ありがたく存じ奉り、自分たちの金千両あまり、ならびに町屋敷三か所、金千両あまりで売却し、以上の金子をもって虎御門まで残らず掘り立てまして水を掛けましたところ、十分に滞りなくまいりましたため、ご満足あそばされました。その後、親どもは召し出され、玉川上水御役を永代にわたって仰せつけられ、すなわち両人ともにそのとき二百石分を金子で下され置き、名字も玉川に改めてくださり、刀御免もあそばされましたために、ありがたく存じ奉っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　不審の多い文言です。この書面は承応元年を六十三年前というので、正徳五年にしたためたものであることがわかります。したがって、その時、玉川の方は三代目になっている。この世代はその家の菩提所・聖徳寺の過去帳によるのですが、的確らしくないようです。いずれにしても、「親ども」とあるのは初代庄右衛門・清右衛門を指して言ったと解せられます。その中に「私もお供いたしまして」というのは、この書面を書いた人のようにも読めて紛らわしいが、これも初代が見分役人のご案内をしたのであり、この書面の筆者ではありません。それをこの書面に盲徒してしまったために、上水記では「玉川庄右衛門、清右衛門という者の父」と書きました。そうであれば玉川上水を見立てましたのは、初代庄右・清右の親であったと言うことになりますけれども、苗字御免になった庄右・清右が玉川上水通鑿を申し立てたのであって、その父ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、初代の庄右・清右を芝口の町人とし、また深川の町人とも書いてありますが、何とも決着がつきません。工事の足し前に町屋敷三箇所を売ったという。それほど地面持ちならば、相応な町人であろうに、在り所も知れないといふのは怪しい。それから工事費の下附金も、本文には六千両とありますが、『玉露叢』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;玉露叢&#039;&#039;&#039;（ぎょくろそう）』：著者不詳の雑史。自序は延宝二年（1674年）。豊臣秀吉病気のことから、1681年2月までの編年史である。&amp;lt;/ref&amp;gt;には七千五百両、『御府内備考』には八千両、『武蔵名所絵図』には一万両と書いてございます。この金高はいずれにしても、既に設計して工事を請負ったのに、高井戸までで費用がなくなったという。工事の四分の三ほどで資金がなくなった訳で、全額で二分五厘（25%）の見積り違いになる。どうしてこのような計算違いを生じたものが、だれもこれを疑わないということも不審極まりないように思われます。しかし、費用がなくなったことを度々申立てたとありますから、費用を定めて請け負ったのではないようにも解せられますが、費用を定めずに工事を命ぜられたとすれば、幕府は当事者の諸求があり次第、交付するべきはずであるのに、工事が出来上って水が来さえすれば、末々悪いやうにはしまいと告げて、資金を下附しなかったといふことがどうしても合点のいかないことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　従来、玉川両家は苗宇帯刀御免となり、玉川上水御普請役を勤めることになって、自分の威福のために都合のいいように、手前勝手なことばかりを書き上げたように思われる。明暦火災の後には古記録が焼亡したために、玉川のみならず諸方の書き上げが、役人にも古記録がないのを見透かして、ずいぶんと甚だしいわがままな申立てをしたらしゅうございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　上水記に「玉川の水を江戸まで道のり十三里の所、水盛相考」えたというところへ、分註して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一説に、松平伊豆守の臣何某が考えたことである。これにより、野火留分水口は格別の掘割で、むかしから伊豆守殿堀という。また、いにしえ、伊豆守の家臣で郡方役人の安松金右衛門が工夫して、主人へ申し立て、吟味のうえ、野火止用水ができたともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあって、玉川上水の水盛は松平信綱の家来の考えであったとし、そのために野火止分水が出来たという。さらに安松金右衛門を描き出しては来ても、野火止用水の方へ強く引付けて書いたから、大体が暖味になつてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　御府内備考も「多摩郡羽村という所からこの水を引いて、江戸まで十三里の間、道の次第を考え、絵図を作って申し上げたところ」といふところへ分註して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守のある家人の考えたものともいう。しかし、これは野火留へ引いたことを言うのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といって、玉川上水の水盛りも、野火止用水の設計も、共に松平信綱の家来・安松金右衛門の成案であるのを知らずに、とにかく野火止用水の方へばかり引張ってしまう。それほど、この両工事は設計者が同一であるために、また時日が近かったために、混雑して明白を欠いておりました。安松金右衛門が玉川上水の水盛をしたことは、全く世間に聞こえていないわけでもないのに、野火止用水の工事のために紛れてしまうのです。野火止用水は、当時川越侯であつた松平伊豆守信綱が、自家の領地を開発するだけの規模ではなく、武蔵野開発の計画を立てて、寛文九年武蔵野開墾文書に、「武蔵野惣高合十万九千八十六石余の新拓を得た」とあります。それは『竹橋余筆』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;竹橋余筆&#039;&#039;&#039; (ちっきょうよひつ)：大田南畝編、江戸幕府勘定所記録の抄録集。寛政十二年（1800年）、竹橋門内勘定所倉庫の諸帳面取調べの幕命をうけて整理に着手した。その作業の暇に文書記録を抄出し、同年中『竹橋蠹簡（とかん）』『竹橋余筆』『竹橋余筆別集』が完成した。&amp;lt;/ref&amp;gt;に収録された文書なので、ご覧になれば内訳もわかります。野火止五字、六百八十五石といへば、決して大きな開墾ではないのですけれども、『松平伊豆守旧領高覚』によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一高四万九千六百九十八十八石八斗五升　武州越城付&lt;br /&gt;
::内六千二百三十五石五升二合　新田並検地出高入&lt;br /&gt;
:外一万四千三十八石四斗二升二合　新田検地出高&lt;br /&gt;
:一高二万四千三百一石一斗五升　武州埼西領&lt;br /&gt;
::内四千七百六十四千七百六斗四斗四升八合　新田並検地出高入&lt;br /&gt;
:外九千四百十九石七斗一升　新田検地出高&lt;br /&gt;
::高合七万石　拝領高&lt;br /&gt;
:::内一万千石　新田並検地出高入&lt;br /&gt;
:外二万三千八百五十八石一斗三升二合　新田高検地出高&lt;br /&gt;
::これは今以高外&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあって、七万石の身上である松平伊豆守は、新田開発のために九万四千三百石余になった。自分の身上が三割五分強に膨大したのみならず、幕府の直領にも新拓十万石余を増加させました。その根本をなすものが野火止開発でありまして、その資源は野火止用水路の疏開なのですから、この辺の八石百姓の勘定にいたしますと、十二万石では農家一万五千軒の生命を与奪するものでございます。だからこそ、野火止用水は名高くもあり、世間から非常に注目されるのであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水がこのように名高いものでございましたので、設計者・安松金右衛門の名はこちらの方で鳴り響いております。それがまた、玉川上水についての彼の名を覆うようにもなっていきました。功績から申せば、武蔵野開発十二万石の根元になりました野火止用水疏開にもまして、玉川上水の水盛は今日に至っては、帝国の首都への給水でありますから比較になりませんが、当時にいたしましても三大都市の随一として数えられた江戸水道のことでございますから、大きな手柄に相違ないのことではありますが、あまりにも野火止用水が顕著であるために、彼の功名が隠されたと見えます。それに、玉川上水の方は庄右衛門・清右衛門の子孫が元文の時代（1736年～1741年）まで御普請役を承って、しきりに父祖の功績を宜伝してをりましたので、このためにも安松金右衛門の玉川上水についての功績は覆われたものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　一体、玉川上水は左右衛門・清右衛門が設計いたして、幕府の採択を得たものであるのに、どうして安松金右衛門が設計したのか。庄右衛門の書上には、水は滞りなく四谷大木戸まで来たとあるけれども、両人の設計は不良であって、工事は失敗した。それゆえに、安松金右衛門が改めて設計して、新しい水盛によって玉川上水の工事は成功したのであります。このことは、享和三年（1803年）九月、水道奉行・佐橋長門守が、時の老中・松平伊豆守の諮問に対して提出した『玉川上水堀之起発並野火留村引取口訳書』によって明らかにわかることです。この時、伊豆守家は信明といって、三州（三河）吉田、ただ今の豊橋の殿様でありました。前にも申した通り、同家には古記録がないのですから、佐橋長門守に調査させて公私のためにしたのでしょう。この書類は現に大河内子爵家に原本があり、その写しは日比谷図書館の『玉川上水雑書』の中に採収してございます。これによって、庄右・清右の設計が失敗に帰し、工事が頓挫したことを知れば、彼らの書き上げについての不審も一部は減ることにもなり、安松金右衛門の功績もよくわかるようになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*03]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/02&amp;diff=355</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/02</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/02&amp;diff=355"/>
		<updated>2026-07-04T10:34:15Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第二章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その二　[[野火止用水|野火止用水路]]==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『幼学綱要』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;幼学綱要&#039;&#039;&#039;（ようがくこうよう）』：明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学者の元田永孚（もとだ ながざね）が中心となって編纂し、明治十五年（1882年）に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例（逸話）を引用して解説している。&amp;lt;/ref&amp;gt;(巻五、忍耐第十二)の記載は、何によって書かれたものか知れませんが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[松平伊豆守信綱|松平信綱]]、武蔵国川越を領する。領内に邑があり、[[野火止]]という。土痩せて水とぼしく、田里は物寂しい。代官・[[安松金右衛門]]が建議していうには、「新しい渠（水路）を掘って、玉河（多摩川）の水を引くべきです。そうすれば稲田を開くこともできるでしょう」と。信綱はその費用を聞いた。すると「三千金である」という。信綱は、「願ふに私はここに久しくいるものではない。しかし、三千金をもって後人を利すのは、それこそわたしの仕事である」と。そこで命じて、そのことを監督させた。こうして金右衛門、役夫数百人を集め、渠を掘ること十六里、小川村から新河岸に達した。すでに完成したが水は至らない。渠の中はただ沮洳（ジメジメ）しているだけであった。信綱はこのことを詰問した。金右衛門が言うには、「私もまたその理由がわかりません。願わくばさらに来年を待っていただきたい」と。翌年になって、水はなお至らない。信綱はまた金右衛門を責めて言った。「お前は特に地勢の高低を察しなかっただけではないのか」。金右衛門は「そうではありません。私は今、悟ったことがあります。いにしえの言葉に、河潤九里（河が九里の幅まで潤す）といいます。今、この地、武蔵野は広漠の中にあります。土は乾燥して風は多く、塵を吹いて座に満ち、客が来るたびに席を掃いています。ところが、今年だけは違います。諸菜の繁滋すること、以前とは違います。これは河潤、新渠によって地に深く入っているためである。水は今、必ず至るでしょう」と。その翌年、ある夕、大いに雨が降り、雷のような音があり、にわかに奔流が突き破って、十六里の間、一時であふれ、新河岸に達した。信綱は喜んで、「金右衛門、三年の久しきをへて、その志をくじけなかった。まさに感賞すべきことである」と言った。命じて、その禄を増した。後、ついに顕職に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを『紳書』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;紳書&#039;&#039;&#039;（しんしょ）』：江戸中期の儒学者、新井白石（あらい はくせき）が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と比べて読みますと、文体が違ってはいるものの、基づくところは知れるように思われる。また『紳書』よりも大変簡約に書いてある。紳書は大いに誤りを正すところがあったが、この短い『幼学綱要』の記載も、『紳書』を鵜呑みにして書いたらしい。しかし、稲田を開くために玉川上水を分水したやうに言ってあるのは、『紳書』にも書いていないことである。他の訂正を要する件は『紳書』に関して述べた方がよろしいけれども、この「稲田を開くための分水だ」ということは、今日も野火止に水田のないのでも明白であるから、『幼学綱要』の誤りとして、ここに記しておかなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『幼学綱要』に安松金右衛門の話を採録されたのは、その主題にも示すとおり、忍耐ということについてであります。それは野火止用水路開鑿後三年にして始めて疏通したというところが押さえどころであつて、『紳書』もそのために彼の話を書き、『幼学綱要』も同じ心持ちで扱ったものと思われますが、それが大間違いなのは実にけしからんことでございます。これらのことは『幼学綱要』編纂の命を受けた人が、十分に吟味すべきことであろうと思われますが、そうではなかったことは、いかにも残念だと存じます。しかし、国定読本が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東京の西北数里、野火止というところがある。今は埼玉県北足立郡大和田町に属しているが、見渡す限り、うち続く畠の間には森あり、丘あり、家あり、流れあり、春は菜の花、麦の緑、秋はすすきの波、雑木の紅葉、武蔵野の面影が今に残って見るからに野趣に満ちた眺めである。&lt;br /&gt;
: 昔この附近一体は、かの智恵伊豆といわれた松平信綱の領地で、その菩提寺の平林寺もこの野火止にある。平林寺の門をくぐって薄暗いほど茂ったカエデの下を進むこと約二町、本堂について右折すれば、スギやヒノキの生い茂っている林の奥に、信綱の霊は静かに眠っている。敷石の苔をふんで、ここに詣でる者は、あたりの静けさを破って、玉のような水が勢いよく流れてるのを見るであろう。&lt;br /&gt;
: 有名な野火止の用水というのがすなわちこれで、この水を引くについては面白い話が今に伝えられている。元来、野火止一帯は、土地高く、水利に欠ける。土やせて、見るからに貧しい村であった。信綱が川越城主としてこの地を領していたとき、代官・安松金右衛門は、新たに堀を掘って、玉川の水を引けば、必ず田畑ができると申し出た。そこで信綱がその費用の見積りを尋ねると、三千両あればよいという。当時の三千両は非常な大金であるが、信綱はこのために、後々の人まで利益をうけることができるのであれば幸いであると、直ちに堀を掘ることを安松に命じた。安松は命を奉じて数百人の人夫に命じた。いよいよ工事に着手した。そうして今の中央線立川駅の北方一里のところから、この野火止を過ぎ、志木町の新河岸川まで、六里の間に堀を通じて、玉川の水を引くことにした。工事はやがて見事に落成したが、しかし、意外にも一滴の水も流れて来ない。信綱はこれを見て、安松をなじると、安松はとにかく来年まで猶予を願い出た。だが、翌年になっても水がやはり来ない。ここに至って、信綱は安松が地勢の高低を考えずに工事を進めたものとして、その手落ちを責めたが、安松はなお自分を信じて疑わない。元来、この附近は、土地が乾き、風が烈しいために、これまで非常に土ぼこりが多く、客のある場合には、必ず座敷を掃いて入れなければならなかった。しかし、今年は、そんなことが全くない。のみならず、野菜の出来がいいのも、例年と異なっている。これは水分が地をうるおしているためで、たしかにその堀のおかげに違いない。何とぞさらに一年の猶予を、と願い出た。すると翌年の夏、一夜大雨が降ると、奔流が水音高く進み来って、たちまち六里の堀にみなぎった。信綱ははじめて、安松が自ら信じることの強いことを感歎し、厚くその功を賞したという。草ひいで、木茂り、見渡す限り豊かな田畑の間を過ぎて、平林寺に詣でる者は、ただ春の花や秋の紅葉を賞するだけでなく、今なお流れて盡きない用水に対して、当年の苦心をしのび、功績のあった人々に深い感謝を捧げなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いて、何の穿鑿もせずに昔ながらの三年、水が来なかった話を繰り返すのみならず、野火止が新墾地であることも、用水が玉川上水を分けたものであることもいわないほどに麁陋（お粗末）なのは心外千万に存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水路は約四十日ほどで竣工し疏通した。それは前にも引証した榎本弥左衛門&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;榎本弥左衛門忠重&#039;&#039;&#039;：武蔵国川越の商人である｡寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『万之覚』に、判然と、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応四年（明暦改元）三月二十日時分、野火止へ水流れ初り申候。ほり初は二月十日時分より初り申候。堀長さは四里程であるべく候。水上より野火止まで30間程ひがし、水上は江戸の水道にわりきり也。堀の口は深みになお不定、しきは三尺に極まり申候。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあるので疑いないことであります。この『万之覚』は前にも申してある通り、当時の記録なので、筆者が親しく見聞したままを書き付けておいたものであります。これほどたしかなものがあるのに、今日まで三年、水が来なかつたという誤った説が是正されなかったのは、かえってそれが訝しくはありませんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大河内（正敏)子爵家に『本藩高志略伝』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;本藩高志略伝&#039;&#039;&#039;（ほんぱんこうしりゃくでん）』：江戸時代に編纂された、川越藩（松平信綱の系統）の藩士たちの伝記集。大河内松平家に仕えた歴代の「高志（志の高い優れた家臣）」たちの略伝を収めている。&amp;lt;/ref&amp;gt;という写本が三冊ありますが、その第一冊に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;安松金右衛門　水道を発すること&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[安松金右衛門]]吉実は、本国河内、生国播磨で、算術の達人である。正保元甲申年（1644年）、御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎で、松林公（信綱の法諡）に奉仕した。現米を百俵賜り、後に百石になり、三十石、七十石、両度の加禄にて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。そのころは野火止は武蔵野にあって、井戸もなく、泉水が湧出する所もなかった。正保四丁亥年（1647年）七月一日、（松林公が）一万五千石に御増加のとき、願いでて武蔵野を五千石拝領した。同州岩槻にあった平林寺を、今の野火止に移された。よって金右衛門に、玉川から水を引かせて、そのうち行程七里、高低曲直、岩石林木、金右衛門はこれを数え、計って、ついに水を引けることがわかり、水道を掘割らせた。そして「ここに水道を作ることができる。道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千載不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。金右衛門が水道を敷いたとき計画したよりも半時ほど水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、私の間違いである。水は七里を来る。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と。水道が成就した後、井を掘れば水が湧き、地を掘れば水が溢れる。人家も追々に造られ、新田・新畑を開発し、野火止の人民はその恩沢をこうむったために、金右衛門の名は高い。公儀の御帳にもその名がある。野火止五千石は高崎御分知である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてありますが、この中に「玉川から七里」というのは野火止用水のことであり、また、水道の路線に二筋あり、その一つを受け継いだというのは玉川上水のことで、そのことは後文に述べますが、野火止川水路は二線の中の一線を選んだのではありません。これを見ても玉川、野火止の二つの工事のことが紛れて、当の藩中にさえ伝えられていたことがわかるだろう。この写本は、水道ができて今百六十余年の星霜を経て、というのも玉川上水のことであり、「既に幾分の欠落を生じている」と書いてあることからもますます確かめられます。したがって、百六十余年というのも、明暦元年（1655年）玉川上水完成から数えるのだと思います。それなら、本藩高士略伝は文化・文政のころに書いたものと思われます。文化・文政のころならば、筆者も『紳書』や『遺老物語』を見て、水が三年来なかったという説も承知しておりさうなものであるのに、それは何とも言わずに「金右衛門、水道を敷いたとき、計画したよりは、半時ばかり水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、これは私の誤りである。水は七里を来ている。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と言っております。筆者は玉川上水工事と野火止用水工事と、ゴッチャに書いているので、大体話が混雑していますが、ここでは「水が七里を来る」と断ってもいるので、野止用水路のことなのが知れます。玉川上水ならば十三里とあるはずです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『本藩高土略伝』の筆者も、前に書いたとおり、藩祖・伊豆守信綱遺旨によって、古い書付はなくしているし、火事で焼失もしており、たとえあったところで誰にも見せないのですから、事実を考証する資料はないのでございます。しかるに、金右衛門が、野火止用水路開鑿に当って、考えていたよりも水の来るのが半時、ただ今の時計にいたすと一時間遅かったというのは、何によって書いたのだろうか。おそらくは藩中の人々の云ひ伝えででもあっただろうと思われる。だが半時では信綱が監督・叱責する時間もあるまい。また、武蔵野の野菜の出来がいいとか、ほこりが立たなくなったとかいう話も出る間がない。まったく、三年といふ日数であればこそ、いろいろと話すことにもなろうというものです。現に野火止用水路の村々には「二年たっても水が来ないで、金右衛門は申し訳に切腹した。その翌年に水が来たら、どこやらに金右衛門を水神様に祀って祠を建てた」などという、飛んでもないことを話す者さえあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　半時遅かったということは、金右衛門が水利に巧みな者であるのを称賛した言葉と思われる。水利設計にほとんど計算間違いのないほど、優秀な技術者であることを逆に言い表したのであろう。ですから、半時説は吟味せずともよろしい。ただ、三年説は、『万之覚』の記録するように、約四十日にして疎通しているのに、どうして発生したのであろうか。ここで注意すべきは、玉川上水が承応二年に起工して、明暦元年に完成していることで、足掛け三年目に出来上っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*02]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/01&amp;diff=354</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/01</title>
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		<updated>2026-07-04T10:33:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））の現代語訳　第一章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その一　紳書の誤謬==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[安松金右衛門]]といっても知っている者は少ない。その名を知られたのは、彼の事蹟が国定教科書に収録されて小学校の子供らが読み立てるので、ようやく世間に覚えられるようになったが、その人は東京市民が毎日汲んで飲んでいる玉川上水の設計者であるから、実に市民にとって大恩人である。彼の功労に対しては片時も報恩の意を欠いてはならない。それほど大切な安松金右衛門の名も、一向に市民に聞こえてもおらず、その事蹟もほとんど知られていない。しかもその小話が間違っているに至っては、なんとも申しようもないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さしあたって安松金右衛門の伝記について、まず国定教科書の誤謬から正してかかりたいと思う。そもそも安松金右衛門の事蹟が国定教科書に収録されたのは、先年、明治天皇の思し召しによって、宮内省から『幼学綱要&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;幼学綱要&#039;&#039;&#039;（ようがくこうよう）』：明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学者の元田永孚（もとだ ながざね）が中心となって編纂し、明治十五年（1882年）に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例（逸話）を引用して解説している。&amp;lt;/ref&amp;gt;』という本を府県の師範学校へあまねく頒賜されました。その『幼学綱要』の中に、安松金右衛門の野火止用水路開削のことが書いてあります。それから四十何年かの後に、国定教科書へ同じ話を収録するようになったことと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その野火止用水路開削の話は、新井白石の『紳書&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;紳書&#039;&#039;&#039;（しんしょ）』：江戸中期の儒学者、新井白石（あらい はくせき）が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;』によって伝わったように思われます。『紳書』は白石が見聞するままに書いておいたもので、安松金右衛門のことは誰から聞いたのかわかりませんが、こう書いてございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守信綱の代官に安松金右衛門という者がいる。伊豆守の領分、野火止というところに多摩川の流れを引いたならば開発できる田地があるだろうかどうだろうか、と問われて、いかにもよろしいという旨のことを申し、およそ黄金3000両を費やすことになるでしょうと申し上げた。伊豆守が聞いて、「私がここを領していても、またどこかへ移るかもしれない。私が3000両の黄金を費やして、永くこの地に利益があるとすれば、これも公儀への方向の一つである」ということで、安松に命じて、多摩川の水を引こうとし、16里ほど、溝を掘って、新河岸というところに至った。こうして水流が入るかと待っていると、さらに水が来ないまま1年を経た。伊豆守は安松を召して、「どうして水が入らないのか」と問うと、「きっと水が入るはずです。何についても理由があると思います」という。その理由は何かと問われて、「いまだその理由がわかりません」と答えた。次の年にも水が入らなかった。また安松を召して尋ね問うたが、「それは入るはずのものでありますが、このようになっていることは返す返すも不審です。ただし、この地は武蔵野ですが、およそ川越城下の人、いつも畳の上に渋紙など敷いておき、客が来れば巻いてもてなしています。これは地が乾いて、しかも風が常に吹くため、たちまち座中が塵・ほこりに埋もれてしまうからです。しかし、今年は城下のちり・ほこりが昔のようではなく、ことに武蔵野に植えた畑ものは今年は豊かであるのは今までに覚えのないことです。多摩川からこの溝に流れ入る水を広い野に引いておりますから、未だ流れ来るほどのことがなくても、この水が広野に満ち満ちた後には必ず流れが来るべきものと存じます」と答えた。羽生又右衛門という代官がこのあたりを司っていたので、その後召尋ねられて、「それですが、今年ほど野に植えたいろいろなものが豊かなことは知りません」と申し上げたので、伊豆守はそれ以上言うこともなかった。次の年にも水が来なかった。このとき安松を召して訪ねられたが、前年のように答えたので、「お前が地の高下を明らかにしたかったために水が流れるのに堪えていないのではないか」と言われたが、おどろく気配もなかった。三年目の秋、大雨が降った後に、雷が鳴るような水音が大きくとどろいて、この溝にあふれ満ちて平地をも水が行くうちに、6～7寸ほどある鮎が流れてくることもおびただしい。ただ一時に16里ほどに流れ渡って、新河岸の川に流れ入った。そうして田地も開けて、野火止200石の地がたちまちに2000石の地となった。伊豆守は安松を召して「ここ数年、お前を責めたが、最後まで驚くことなく、重ねて溝を修そうともしなかったことは神妙に思われるな」と、一倍の禄を賜り、350石になされたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この本文は刊本の白石全集の『紳書』には見えない。2、3の写本について探しましたが、皆脱落しております。近ごろ森銑三氏から無窮会蔵本の『紳書』一冊は異本というべきものであると教えられまして、辛くも一見しますと、この本文がありました。『紳書』は随筆をほしいままに記録したもので、冊数もどれほどあるものか知られておりません。したがって、伝存するものも揃ったのではなく、残欠しているらしい。どれだけ散佚しましたでしょうか。大田南畝も『紳書』で見たのではないとみえて、この本文を抄出した末に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:右は新井白石先生の随筆したものというが、本当だろうか。この文は、『遺老物語』に載っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と付記してあります。南畝は『遺老物語&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;遺老物語&#039;&#039;&#039;（いろうものがたり）』：江戸時代に編纂された戦国時代から江戸初期にかけての逸話・伝承を集めた軍記・説話集。享保十八年（1733年）、日下部（朝倉）景衡（くさかべ かげひら）によって編纂された。全20巻。戦国武将の言動や合戦の様子、当時の社会情勢などが、古老からの聞き書きや諸家の記録をもとに記されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;』で見たのでしょう。『遺老物語』はその名の如く古老からの聞き書きで、筆者は朝倉景衡なのですが、この朝倉は新井白石の妻女の弟だと聞いている。それで『紳書』もしくは『退私録&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;退私録&#039;&#039;&#039;（たいしろく）』：江戸時代中期の政治家・儒学者である新井白石（あらい はくせき）による随筆・記録集。全三巻＋付録。&amp;lt;/ref&amp;gt;』の記載と『遺老物語』の中の『老談一言記&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;老談一言記&#039;&#039;&#039;（ろうだんいちごんき）』：江戸時代中期に編纂された戦国時代から江戸初期の逸話集。新井白石・編、朝倉景衡・記。主に戦国武将や江戸初期の人物に関する逸話、古老からの聞き書きを収める。『遺老物語』の一部として扱われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;』――安松のこともこの『老談一言記』にあるのですが――『老談一言記』の記載とは、話が同じであるのみならず、文章も少々文字に出入りがあるだけで同文と申してよろしいようなのがたくさんある。それゆえに、白石は朝倉景衡から聞いて書いたようにも思われる。というのは、『遺老物語』には本多正信の一族の本多加信という人がありまして、その人の話を多く書いてある。加信は正信の相談相手であったといいますから、慶長・元和の遺老で長命な人でもあり、一生どこへも仕えず、晩年は屋敷住まいではなく、気楽に市街地で暮らされた。そこでだれかれが加信老人の今昔談を聞きに出かけたらしい。あの『松永道斎聞書』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;松永道斎聞書&#039;&#039;&#039;（まつながどうさいききがき）』：江戸時代初期の医師・儒学者である松永道斎（松永昌三）が、戦国時代の逸話や古老の話を記録した書物。&amp;lt;/ref&amp;gt;も加信老人の話を書いたものなのですが、それの下巻にある35話のうち、28話までが朝倉景衡の『遺老物語』にも書いてある。そこから見て、安松のことは、加信老人が古い話の外に、新しい方の話として、景衡に聞かせたのではあるまいかと思われる。そうした臆測は余計なことのようでもあるが、安松の業績を伝えた野火止用水路開削の話はどこから何として出てきたかを吟味する必要がある。『紳書』にしても、『遺老物語』にしても、当事者から聞いたのでもなく、当時の記録によったのでもない以上は、事蹟を正しく伝えがたい。間違いも生じやすいわけである。今日、松平伊豆守信綱の子孫である子爵・大河内正敏家に、資料とすべき何ものもない。今日ないのではない。昔からないのである。安松金右衛門の相続人の手には、系図さえないほどであるから仕方もない。ただし、この方は、昔から何もないのか否か、それはわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:吉田侯（今の松平伊豆守信順、寺社奉行）の家に、祖先信綱執政のとき、御機密の日記数冊あり、子孫といえども見ることができず、代々直封で、この侯家に収められている。侯家でも格別大切なものであるから火災をはばかり、箱崎の別邸は河辺で火が遠いところだからといってこれをおさめる小倉を建てて入れておいたが、この3月21日の災にこの庫にも火が入って、その旧記が失われてしまったのは惜しむべきことではないか。また聞くところ、この庫、守る人がいたが、火災のとき、己の私財を庫の中に収めていたものも焼亡したという。これも、ものには数があって、尽きるときが来たらどうしようもない。&lt;br /&gt;
:また聞いたことだが、伊豆守の家臣の某が嘆息して言うには、この秘冊は家の世襲の宝であるが、子々孫々見ることもできないのであれば、焼けてなくなったのも時が来たのであり、惜しむものでもないという。まことにそういうものかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは平戸侯松浦静山の書かれた『甲子夜話続編』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;甲子夜話続編&#039;&#039;&#039;（かっしやわ ぞくへん）』：江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山（まつら せいざん）による膨大な随筆集『甲子夜話』の続きにあたる部分。『甲子夜話』（正編）100巻に加え、この『続編』も100巻、さらに『三編』78巻。&amp;lt;/ref&amp;gt;の記載で、文政十二年の火災に三州〔三河〕吉田の殿様であった信綱の後人・伊豆守信順の別邸が焼けて、倉庫に秘め置いていた仙台の記録が灰燼になってしまったというのであるが、同書はそれに続けて『武功雑記』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;武功雑記&#039;&#039;&#039;（ぶこうざつき）』：江戸時代前期に成立した、戦国時代から江戸初期にかけての軍事・武家社会の逸話集。松浦鎮信著。&amp;lt;/ref&amp;gt;（平戸藩祖松浦鎮信の書かれたもの）の中から抄出して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守殿死去前3日、子息たちへ申されるには、「それがし、大猷院（家光）幕下の厚恩をこうむったこと、たとえることもできない。御意安く思し召し上げられ、御自筆で御用のことを仰せ下された御書が幾多ある。これを残しておけば子孫の末々までも珍宝ということができよう。しかし、思慮をめぐらせれば、もし後世にいたってよそへ散乱して、御書の趣に評価を加え、難ずるようなことがあれば、これはそれがしが残しておいたゆえに起こって、まことに大きな不忠、冥加に尽きる（神仏に見放される）ことであるから、御書を火中に入れて焼いて灰とし、袋に入れてそれがしの死骸の頭にかけて埋めるように」というのが遺言であった。これによって、豆州（伊豆守）死後、甲州侯（嗣子 甲斐守輝綱）弟たちがあるところでこの御書を薬缶に入れて火で焼き、おのおの一目でもみないように頭を振って敬って灰とし、その灰を袋に入れて、豆州の死骸の首にかけさせて葬られたとのこと。右前記した吉田侯古冊の中でもまた秘密のものであるのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。信綱が遺言して機密文書を処分したことは、『翁草』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;翁草&#039;&#039;&#039;（おきなぐさ）』：江戸時代後期に編纂された、日本最大級の随筆集。京都の町奉行所に勤める与力、神沢杜口（かんざわ とこう）著。本編200巻。役所の記録や古老の聞き書きを丹念に集め、先行資料を引用しつつ、独自の視点で整理している。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも『永夜茗談』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;永夜茗談&#039;&#039;&#039;（えいやめいだん）』：江戸時代中期に成立した、戦国から江戸初期の逸話集。源長親（通称　三上長親）著、成立は17世紀末～18世紀初頭。主に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑や、その周辺の武将たちの功名話、機転の利いた逸話を収めている。&amp;lt;/ref&amp;gt;を抜粋してあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守臨終の時、公方家御自筆のもの、残らず大きな桶に水を入れ、よく浸して、そこで火に焼き、右の灰を袋に入れ、首にかけて終わらせたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そうすると、信綱の亡くなった寛文二年三月十六日に、早くすでに一部の書類は焼いてしまっていた。それでも家光自筆以外の機密書類は残っていたが、一切見ることを許さなかった。見せないということはよく遂行されたと見えて、寛延元年に吉田藩士奥村保之の編著した『事語継志録』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;事語継志録&#039;&#039;&#039;（じごけいしろく）』：松平伊豆守信綱の言行録。著者・奥村保之（おくむら やすゆき）は、信綱の5代後の子孫にあたる三河吉田藩主・松平信礼（のぶのり）の教育係を務めた。主君である信礼に、信綱の優れた言行を学ばせ、藩主としての心構え（輔導）の一助とするため、信綱の政治的な判断や日常生活の逸話、教訓などをまとめたもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;を見ても、多くは道聴塗説（聞きかじった知識を理解していないまま、他人に受け売りすること）を採ったもので、中には甚だしい間違いさえ麗々しく書き立ててある。そうして、逸しがたい玉川上水開削のことや、武蔵野墾拓のことは全く書いていない。もし残存する書類を多少とも参照するならば、あれほどあやしいものができることはなかっただろう。けれどもその家の禁制によって、古記旧冊は見せないといえば、当然、『事語継志録』のようなものも出てくることになる。『松平豆州言行録』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;松平豆州言行録&#039;&#039;&#039;（まつだいらずしゅうげんこうろく）』：別名『知恵伊豆公言行録』。松平伊豆守信綱の逸話や訓戒をまとめた書物。&amp;lt;/ref&amp;gt;というものもありますが、これとても『事語継志録』と同様なもので、往々信じがたいところがある。あれほど名高い松平信綱に、ほとんど安心して読める伝記がないということも意外なことではありますが、臨終の心がけからいえば、むしろ自分の働いた跡形などの残らないのを望んだのでしょう。しかし、その心がけが史上の欠落となって、松平信綱に関係する大小の事柄というものがすべて知られないものが多くなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて野火止用水、野火止はただ今では埼玉県入間郡&amp;lt;ref&amp;gt;この当時、大和田町は入間郡ではなく[[北足立郡]]に属しており、誤りである。&amp;lt;/ref&amp;gt;[[大和田町]]の一字になっておりますが、寛永十六年正月、信綱が川越城主6万石に封ぜられたころの野火止は、新座郡であった。ついで正保四年7月、常陸国新治郡・武蔵国埼玉郡の両郡の中で1万5000石加増され、7万5000石の大名になったのであるが、この5000石は特に願って無高の地、すなわち未墾の原野を拝領したという。そうであればこのころすでに武蔵野開墾の腹案があったのであろう。藩翰譜には川越侯の石高を7万石と書いてあるのも、5000石というものは未墾の土地であるから本高へ加えなかったのであろう。川越侯の代官・小幡助右衛門が1万石開発の案を立てたというのもこの頃のことであろうが、『野火止宿開発根本之覚書』には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武州新倉郡野火止宿開発、承応元年巳年に始まり、当酉の年まで52年になります。美濃守様（柳沢吉保）御拝領以後、新座と号す。いにしえ伊豆守様（松平信綱）が新田に御取り立てあそばされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。ここに承応元年巳年というのは間違いであろう。元年（1652年）は壬辰、二年（1653年）は癸巳、巳年ならば2年でなければならない。川越の旧家榎本氏に伝わる祖先の書いた榎本弥五右衛門&amp;lt;ref&amp;gt;榎本弥左衛門の誤り。榎本弥左衛門忠重は武蔵国川越の商人である｡寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『万之覚』にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武蔵野火留新田、同巳の春中より同8月中まで、54～55間の家ができました。家1間に金2両米1俵ずつ、御貸を成らされますと承りました。但　伊豆守様より。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうある。これはたしかに承応2年のところに書いてある。このとき、川越侯は新たに農民を野火止に移して、費用を貸して開墾させ始めた。それも人里遠い未墾原野でなく、在来の村落に近い野火止から武蔵野開発を始めたのである。野火止には今日にも水田がない。すぐ隣の大和田には水田がある。それは梁瀬川の水で十分灌漑に足りる。けれども野火止にはまったく灌漑すべき水がないのであった。それで畑ばかりの集落なのである。野火止は灌漑用水がないのみならず、飲料水にも事欠いた。井戸がない。井戸を掘っても水が容易に得られないのは当所に限ったことではなく、武蔵野一帯のことではあるが、新墾によって農村を取り立てようとするのに、住民の飲料水がなくては、いかんともしがたい。人間にこれほどの差し支えはない。武蔵野開発の成否はまったく、飲料水供給の一途にかかることだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　明暦元年3月、ついに野火止用水路が開通した。これは灌漑用として与えられたのではなく、野火止村の飲料水として玉川上水を分けたもので、玉川上水の分水口は30あまりもあるが、その一番早いのは野火止への分水であって、明暦の時期にはまだ他の分水はなかった。&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*01]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/10&amp;diff=353</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/10</title>
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		<updated>2026-07-04T10:23:19Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第十章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ|）  ==その十　金右衛門の経歴==  　安松金右衛門は六万石の川越藩に出仕したのですが、そのときはまだ信綱が武蔵野開発の腹案を実現しようとして、高のない原野を五千石のつもりで拝領いたしたという正保四年（1648年…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第十章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その十　金右衛門の経歴==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　安松金右衛門は六万石の川越藩に出仕したのですが、そのときはまだ信綱が武蔵野開発の腹案を実現しようとして、高のない原野を五千石のつもりで拝領いたしたという正保四年（1648年）の御加増以前であります。伊豆守家の分限帳に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松林院様（信綱の法諱）御代&lt;br /&gt;
::本国・河内　生国・播磨　安松金右衛門吉実&lt;br /&gt;
::正保元庚申年（1644年）　月日不明、御代官・能勢四郎右衛門殿の御肝煎にて召し出され、御蔵米百俵を下されました&lt;br /&gt;
::慶安元戊子年（1648年）　月日不明、知行百石の高にお直し下されました&lt;br /&gt;
::年月日不明（万治元年（1658年）十一月）上野御修復御用をおつとめになられたとき、元締め役を仰せつけられました&lt;br /&gt;
::年月日不明、御加増三十石と七十石、二度下されて、都合二百石の高石に成し下されました&lt;br /&gt;
:智光院様（二世輝綱の法諱）御代&lt;br /&gt;
::年月不明、御家督のとき（寛文二年（1662年））川越へ遣わされ、郡代を仰せつけられ、御徒格の手代一人お預けになり、格式は独礼の格に仰せ渡されました&lt;br /&gt;
::年月不明、極めて老いられたため、御役のことを差し上げ、悴・金右衛門を代番に差出したく願い奉りましたところ、御役御免となり、悴・金右衛門に代番を仰せつけられました&lt;br /&gt;
::貞享三丙寅年（1686年）十月二十七日　病死なさいました&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。しかし、万治元年の松林院様御分限帳も同文の記載ながら、本国・河内、生国・摂津とある。本藩（三河吉田）高士略伝にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:安松金右衛門吉実は、本国・河内、生国・播磨にて、算術の達人である。正保元年甲申年（1644年）御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎によって、松林公に奉仕した。現米百俵賜り、後に百石になり、三十石・七十石、二度加増されて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。高士略伝は古くない書き物ですが、後々までも安松の生国を播磨としていたことがわかります。最初は代官に従属する元締めとして任用されたのでしょう。安松を推薦した能勢四郎右衛門は島原の陣（島原の乱）の糧食方を承った御勘定方で、信綱の出征に従った人です。この四郎右衛門は頼安と申して、正保元年（1645年）十二月二十五日に退職し、翌年十二月二十七日に死にました。その引退のときに配下の安松を伊豆守家へ推薦したとみえます。しかし、訳書には大河内金兵衛の配下の小畑・安松を推薦したと申してあります。この金兵衛は久綱といって、父金兵衛秀綱の職を継いで、永く代官を勧め、寛永十五年（1638年）十二月五日に士官をやめ、正保三年（1647年）四月三日に七十七歳で没しました。この金兵衛久綱が伊豆守信綱の実父であります。『埼玉史談』が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽生領代官として大河内金兵衛が赴任された時代、すなわち文禄三年（1595年）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのも、また、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:金兵衛様より二合半領の内、新田開発、弾左衛門（酒巻）へ仰せつけられ、首尾よく成就。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのも、伊豆守信綱の父・金兵衛久綱のことです。訳書がいう、金兵衛久綱が峡田領・川越領の代官であったという証拠は見られません。また、その時に遣わした手代のうちの才能ある両人を推薦したという。両人はたしかに信綱の武蔵野間発を補佐したのに相違ありませんが、両人は同時に推挙されていません。伊豆守家の分限帳には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::本国・丹波　生国不明　小畠助左衛門正盛（初名　助十郎）&lt;br /&gt;
:松林院様&amp;lt;ref&amp;gt;松平信綱。院殿号は松林院殿乾徳全梁大居士。家督は1628年～1662年&amp;lt;/ref&amp;gt;御代&lt;br /&gt;
:*寛永八辛未年（1631年）、月日不明、小島六太夫が申し上げ、御近習へ召し出され、御宛行二百目、二人扶持、四度御仕着（衣服の支給）を下されました&lt;br /&gt;
:*同十四丁丑年（1637年）12月、島原御陣への御供を仰せつけられ、御帰陣以後、御納戸役を仰せつけられ、新知百五十石を下されました&lt;br /&gt;
:*年月不明、御徒大頭を仰せつけられ、御加増百五十石、合計三百石下されました&lt;br /&gt;
:*年月不明、御奏者番を仰せつけられ、御加増百石下されました&lt;br /&gt;
:*年月不明、御家老を仰せつけられ、御加増二百石、合計六百石下されました&lt;br /&gt;
:神龍院様&amp;lt;ref&amp;gt;松平信輝。院殿号は神龍院殿天遊宗見大居士。家督は1672年～1709年。&amp;lt;/ref&amp;gt;御代&lt;br /&gt;
:*延宝八庚申年（1680年）閏8月6日、川越の勝手（経営）を仰せつけられました。&lt;br /&gt;
:*天和三癸亥年（1683年）10月25日、お役目の御免（引退）を願い出ておりましたところ、隠居を仰せつけられ、せがれ助左衛門に家督を滞りなく下しおかれました。また、隠居料として百石を下し置かれ、楽幽と名を改め申しました。&lt;br /&gt;
:*元禄十乙亥年（1697年）9月3日、病死いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　はっきりと小島六大夫の推挙とある。分限帳に従って、安松は能勢、小畠は小島の推挙とすべきであろう。助左衛門の出仕は早く寛永八年にあって、金右衛門とは十四年のへだたりがあります。旦那の信綱も1万5000石の身上で、助左衛門が出仕した後、三年月目に忍の城主になりました。それゆえに助左衛門も側小姓として出身したので、誰の彼のと物々しい推挙を待つほどの事ではない。寛永八年から天和三年に隠居するまで、53年間の長い奉公をしたのです。金右衛門も年齢がわかりませんが、この人も年齢がわかりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　金右衛門は5年奉公して、慶安元年（1648年）に百俵を知行百石に改められました。川越の運河、あの内川改修が正保元年とすれば、安松金右衛門の奉公の初めに当たる。&lt;br /&gt;
それをたしかめる証拠が出てまいりませんが、百俵から百石に転じ、蔵米取りか知行取りになったことは見逃しがたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　弟の金太夫が召し出されたのは、金右衛門が知行取りになった翌々年です。分限帳に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::（本国河内・生国播磨）安松金太夫吉茂&lt;br /&gt;
:松林院様御代&lt;br /&gt;
:*慶安三庚寅年（1650年）月日不明、召し出され、御代官を仰せつけられ、知行70石下し置かれました。&lt;br /&gt;
:*寛文八戊申年（1668年）4月19日、病死いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、藩臣家状にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:安松&lt;br /&gt;
::慶安三年庚寅（1650年）月日不明　奉仕&lt;br /&gt;
::天明二年壬寅（1783年）まで133年&lt;br /&gt;
::金太夫吉茂、その子・八郎右衛門吉房、その子・金太夫安茂、その子・金助安一（60石　近習目付兼小納戸馬廻格）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある家です。この家は今日も豊橋にあつて、同所の全久院が菩提所だと聞いて往訪したが、古い碑石はない。それもそのはず、伊豆守家は川越から下総古河へ、古河から吉田（豊橋）へと転封し、藩中も従って転じたので、当所には正徳三年（1713年）7月、吉田へ就封以後の墳墓があるはずもない。全久院の過去帳に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:聖徳院緑靄宗竹居士　寛文八年（1668年）4月15日&lt;br /&gt;
:玉容院芳衣妙珍大姉　万治四年（1661年）5月10日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは忌日が分限帳と合っていないものの、初代金太夫夫婦であろう。もちろん、碑石なし。その家にも記録がない。ただ開くことができたのは、安松の本来の在名は神吉氏であって、古い具足櫃などには神吉氏と書いてあったという。総見記や太閤記で知られるようになった播州三木城主・別所長治、華々しい中国攻略のときに信長は神吉・志方の表へ押し寄せ、両城を攻め破り、その上で三木城へ取り詰めて、適切にせよと命令した。神吉城はついに天正六年（1578年）5月16日に落ちましたが、守将・神吉民部少輔はよく戦ったものの、伯父神吉藤太夫に謀られて討たれたという話があります。神吉と書いてカンキとよむ。金右衛門はこの一族だったのでしょう。それゆえに民間に流落したばかりか、旧里を出て東国へまで彷徨するようになったのでしょう。安松の生国が播州、もとの苗字が神吉ならば、別に詮索せずともわかることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　弟の金太夫の方はそれまでにして、兄の金右衛門の世代を尋ねてみる。これは新宿の大宗寺が菩提所で、当主は安松勝二、金右衛門から11台目、現在は横浜に住居。過去帳には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四年（1648年）6月14日　光岳院頓譽相得居士&lt;br /&gt;
::安松九左衛門&lt;br /&gt;
:貞享三年（1686年）10月27日　玄洞院殿欣譽浄秀居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門吉実&lt;br /&gt;
:享保二年（1717年）6月16日　喚迎院遣譽容玄居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門吉政&lt;br /&gt;
:元文三年（1738年）2月9日　豈方院西譽遣立居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安之&lt;br /&gt;
:文化三年（1806年）12月1日　転心院輪譽法山居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安寛　88歳&lt;br /&gt;
:文化十三年（1816年）9月2日　速了院宝譽巍冠居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安政　68歳&lt;br /&gt;
:文政十一年（1828年）7月1日　光円院大譽即相居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安邦&lt;br /&gt;
:明治十九年（1886年）5月1日　豊徳院仁譽安民居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門安民　77歳&lt;br /&gt;
:同三十七年6月14日（1904年）　大智院叟譽知新居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門新（アラタ）　78歳&lt;br /&gt;
:大正十三年（1924年）10月8日　安寿院楽茲心光居士&lt;br /&gt;
::同　金右衛門事（ツコウ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあります。九左衛門は金右衛門の父であろう。この父は金右衛門が主取りして、4年目に没したとみえる。この初代金右衛門以来、その前にも院殿をつけた法号はありません。江戸時代には旗本衆でも、叙任した者に限っていました。大名衆は皆従五位下朝散大夫ですから院殿号でしたけれども、御家人衆はもちろん、旗本衆でも何の守とかいわない運中には、院殿号はありません。まして諸大名の家来は、陪臣といって禄高にこだわらず、幕府直参の者よりも一段格の下ったものに扱っていました。ただし、加州とか薩州とかいった大大名の家老には、任官する者が若干在って、何の守になっているのがある。それは別段のこと。伊豆守家は7万石、大諸侯ではありませんから、家老にも何の守はない。金右衛門はわずか200石、陪臣でなくても院殿号などはもってのほかの話。その彼がただ一人、十代にわたって院殿号をつけている。伊豆守家7万石の藩中にも、彼のほかに院殿号をつけている者ははに。これについては大いに話があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて大宗寺の墓を見ると、一塔は九右衛門以下の法名が彫りつけてあって、倶会というのです。分限帳の記載によれば金右衛門吉実は、川越へ退老したので、同地で没しているはずです。しかし、川越には安松家の墓所がありません。主家が再三転封しているので、そのたびに墓所を移すこともできなかったのではあるまいかとも思われる。何にせよ、誰も安松金右衛門の墓が大宗寺にあるのを知りません。あるいは埋没しないともいえない。そこで野火止水利組合へ通知し、伊豆守家の菩提所である平林寺へ協議し、両方の力を借りて、昭和十年（1935年）の初夏に、大河内子爵家の許諾を得て、同家の塋域（墓地）の側近に彼の墓を移し、永久に野火止水利組合が供養をすることに定めました。古い碑石を新宿大宗寺から移すのですから、同寺の了解を求め、当主・勝二氏と一族の同意を得て、新しい碑石をこしらえ、大宗寺の旧位置へ樹立いたしました。お話は玉川上水へ戻ります。例の上水記を改めて読みますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:ふるい書留にいう。承応元壬辰年（1652年。原註：寛政三年までおよそ140年）までは、御城内ならびに御城下、上水道がございませんでしたので、下々にてはところどころの水たまり、溜池などの水をくみ、樋で仕掛けて取ることになっており、不自由でございました。そこで上水道になりうる水筋について、町奉行 神尾備前守様のお尋ねにより、玉川庄右衛門、清右衛門という者、両人の父（東京市史稿は、二代庄右衛門・幼名三十郎、三代庄右衛門・幼名長六、ともに初代の子であって兄弟である。正徳五年の書き上げは三代庄右衛門の提出した者であろう。そうであればここに父というのは初代庄右衛門を言っているのであろう）ところどころ求めていたところ、武州羽村というところから、玉川の水を江戸まで道のり13里、水盛を考えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここの原註は大いに留意すべきものでありますから、煩わしいようですが、特筆しておきましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一説に、松平伊豆守の臣何某が考えるところである。これによって野火留分水口は格別の堀割であり、古い言い方で伊豆守殿堀という。また言われているのが、いにしえ伊豆守の家、郡方役人・安松金右衛門が工夫して主人へ申し立て、吟味のうえ野火留上水が出来たという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「松平伊豆守の臣何某が考るところである」で文が切れています。すなわち、玉川上水の水盛は伊豆守の家来が考えたというふうに読めます。次いで、「これによって」というのですから、「玉川上水の水盛をしたことによって」ということになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この一説に付随して起こってくるのは「野火止用水工事同時説」でございます。川越史料には「承応二年（1653年）から」とあり、埼玉県志には同三年（1654年）からと書かれていますが、野火止宿開発根本之覚書には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応三未年（1654年）、今から49年前、小河村の西の方から江戸御用水を分けくだし置かれました。川道は野火止宿まで四里でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあります。しかし当時の見聞を書きつけました榎木弥左衛門『万之覚』には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:明暦元年（1655年）二月十日ごろより野火留用水開鑿。三月二十日に至り、水道を通す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と明記してあります。こちらが正しいと思われる。承応四年は改元して明暦元年ですから、承応三年六月二十日に玉川上水が成功いたしまして、翌年の三月に野火止用水が落成しました。その間が八か月あります。決して同時ではありません。その間違いは玉川上水路踏査と野火止開発とが、ともに承応元年であったから起こったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武州新倉郡野火止宿開発、承応元年巳歳（1652年）に始まる。今年・酉の年まで52年になります（開発根本之覚）　この年（承応二＝1653年）春から八月中まで、野火止新田に54戸移住する。（榎本万之覚）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などによって紛れたのであろうと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから、安松が万治元年（1658年）に幕府から拝領物をいたしたこと、江戸時代には陪臣が幕府から拝領物をするなどというのは希有なことでもあり、容易ならぬことでもありました。それは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:万治元年十二月二十日、東叡山大猷廟慈眼塔修補の御手伝い、輝綱がこれを監し、そのことにかかわった家臣らにものを賜った。（家譜）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「家臣ら」の中に安松が加わっていたことは、分限帳の記載でわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:年月は不明。上野御修覆をお勤めなさったとき、本締役を仰せつけられました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるので、金右衛門がそのことにかかわった川越侯の家来の一人だったことを証拠立てます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*10]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E8%AA%8C&amp;diff=352</id>
		<title>武蔵国新座郡誌</title>
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		<updated>2026-06-24T13:52:01Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国郡村誌のうち、武蔵国新座郡誌項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ ==武蔵国新座郡誌==  本郡は中古から新座（にいくら）を仮借して新倉あるいは新座とも書いた。最近は里俗に新座（にいざ）とのみ称している。しかし、今なお古称に従う。（『和名類聚抄』新座郡の註に「爾比…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国郡村誌]]のうち、[[武蔵国新座郡誌]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
==武蔵国新座郡誌==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本郡は中古から新座（にいくら）を仮借して新倉あるいは新座とも書いた。最近は里俗に新座（にいざ）とのみ称している。しかし、今なお古称に従う。（『[[和名類聚抄]]』新座郡の註に「爾比久良」と見えるので「にひくら」と称するのは古い言い方である。そして、新座と称してきたけれども、その年暦がいまだ明らかになっていない。今、上保谷村戸長の保谷某が蔵する古文書を見ると、元禄七年申戌3月、その村の惣百姓から道中奉行に進達する手紙に「新倉郡」と書かれている。『[[新編武蔵風土記稿]]』の本郡の総説に、享保二年に郡名の呼び方を定められ、また享和三年にも郡村の唱えを穿鑿すべきであるという命があって、その疑わしいことを正されたため、今は「にいざ」と唱えることとなった、と載せてある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、元禄六年癸酉、わずかに西北の一隅を割いて入間郡に編入した。今の針ヶ谷がこれである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東は豊島郡に隣接し、南・西の二面は豊島・多摩の二郡に挿入し、犬牙錯雑している。西北は入間郡と区切るのにおおむね柳瀬川をもってし、東北は荒川を隔てて足立郡が見えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東西2里13町20間、南北2里34町40間、面積四方里654&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 足利氏執政の初め、足利基氏をもって鎌倉の管領とし、後、その執事である上杉氏が交互に管領となり、中頃、渋川義鏡の管するところとなった。&lt;br /&gt;
* 大永中、北条氏綱が渋川氏を滅ぼした。&lt;br /&gt;
* また、天文中、その子、氏康が扇谷上杉氏を滅ぼし、その地を併合して臣下に賜った。このときに、家人・大石某を本郡舘村の城に置き、近郊を鎮めさせた。&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅、北条氏が滅亡し、徳川氏の所有に帰す。そして、川越城主・酒井河内守重忠（慶長年中、その弟、酒井備後守忠利に代わり、寛永の初め、忠利の子、忠勝に至って、弟、壱岐守忠重（すなわち忠利の三男）に与え、子孫世襲して旗下の士である）、板倉四郎右衛門勝重（右あるいは左に作る。後、伊賀守のときに京師町奉行であった。その玄孫、周防守重冬のときに至って、元禄十一年戊寅3月にこの地を治めて伊勢国の内に移す）、米津内蔵助などの提封および旗士の采地、伊賀組騎歩卒の給邑とし、残りはすべて代官の支配に属する（寛永の末、松平信綱が川越の城主となってから、本郡の内を賜り、正保より寛文の頃に至って今の野火止・内堀・北野・菅沢などの地を新たに開発して、その孫・信輝のとき、元禄七年甲戌に古河城に移ったときまでは領していたのであろう。しかし、今、その証拠となすべきものがないため、ここに註記して、本文には掲載しない）。&lt;br /&gt;
*寛文三年癸卯2月、郡南直轄の地を小田原城主・稲葉美濃守正則に賜う（子・正往の代に至り、天和三年癸亥6月、封を移し、また直轄とする）&lt;br /&gt;
*元禄七年甲戌正月、松平美濃守吉保（はじめ柳沢出羽守保明、後、甲斐守）、川越城を賜って郡西を領する。&lt;br /&gt;
*宝永の初め、甲斐国府中城に移封して、高崎城主松平右京太夫輝貞が代わって世襲する。旗士の采邑もまた変遷あり。&lt;br /&gt;
*維新の際、武蔵知県事に所属する（松平氏、米津氏の領地は故のとおり）&lt;br /&gt;
*明治二年己巳正月、品川県の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治二年6月、松平・米津の両氏が各封土を奉還して、高崎（松平氏の領地）龍ケ崎（米津氏の領地）の2藩となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未7月、両藩を県に改める。&lt;br /&gt;
*明治四年11月、3県をともに廃して入間県の所管とする。&lt;br /&gt;
*明治6年6月熊谷県の管理するところとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東12里7町39間4尺（入間郡川越を経て中央膝折村に至る）。&lt;br /&gt;
*四隣：豊島郡（東京日本橋）へ6里6町44間1尺。多摩郡（八王子）へ7里17町10間4尺。入間郡（川越）へ4里21町47間1尺。足立郡（浦和）へ3里22町47間2尺。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*平夷・高燥で林・丘が多い。その区域は菱形をなして、四つの境に綱ラル。川越街道および旧奥州街道の両線が縦横にこれを貫く。東北の一隅はやや低下、諸川が注ぎ流れ、暴漲のおそれがある。このため、村民は往々にして土塁を築き、家屋をその上に建てる。こうして車馬・舟楫の便を得る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===気候===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*東京と異ならない。寒暖計は極めて暑いときおよそ95度&amp;lt;ref&amp;gt;華氏95度は35℃。&amp;lt;/ref&amp;gt;、極めて寒いときおよそ30度&amp;lt;ref&amp;gt;華氏30度は-1.1℃。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===風俗===&lt;br /&gt;
*質朴。古いものが残り、よく作業を努める。また詞訟（訴訟）を好むような悪い風習は少なく、面して活発な侠気に乏しい。かつ、豪富があるわけではないが、赤貧の者も多くはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*耕田はおおむね中等にあり、東北隅の一部、荒川沿いのあたりは沙磧（砂の河原）であるため、桑樹あるいは紫竹に適し、その他陸田は質が下等であるが培養の努力を欠かさなければ菽（豆）・麦・甘藷・菜種・藍葉などの類は最もよろしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===郷荘===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[和名類聚抄]]に載っている志木郷は、今の地がどれであるかわからない。昔は四郷あった。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;片山郷&#039;&#039;&#039;は片山村を管する&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;館郷&#039;&#039;&#039;は志木宿（旧名・館村）を管する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;新倉郷&#039;&#039;&#039;は7村を管する（上下新倉、岡、田島、台、根岸、橋戸（『[[新編武蔵風土記稿]]』には上下保谷を入れ9村とする））&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;栗原郷&#039;&#039;&#039;は上下保谷の2村を管する（この両村は村吏の録申による）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他は郷名を失する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
荘名はただ広沢があって、11村を管する（岡、田島、根岸、台、上新倉、白子、橋戸、小榑、上保谷、下保谷）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郡内すべて[[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
片山村のうち、黒目川に沿ったところを黒目里と呼び、また三芳野里というものは大和田町・志木宿あたりを称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===町村数===&lt;br /&gt;
*町：1&lt;br /&gt;
*宿：1&lt;br /&gt;
*村：22&lt;br /&gt;
*新田：1&lt;br /&gt;
*総計：25&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：489町5畝9歩&lt;br /&gt;
*畑：4326町5畝16歩5厘&lt;br /&gt;
*総計：4815町1反25歩5厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米965石7斗4升（この石代金1万2217円816銭3厘）、金4425円73銭3厘&lt;br /&gt;
*賦金：金2146円35銭2厘5毛&lt;br /&gt;
*総計：金1万8789円95銭8里5毛&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：3323戸（士族12戸、平民3311戸）&lt;br /&gt;
*寄留：56戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*本籍　男：9772口（士族23口、平民9749口）&lt;br /&gt;
*女：9672口（士族26口、平民9649口）&lt;br /&gt;
*総計：1万9444口（他、出寄留38人＝男21人、女17人）&lt;br /&gt;
*寄留男：91口&lt;br /&gt;
*寄留女：77口&lt;br /&gt;
*総計：167口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡牛：5頭&lt;br /&gt;
*牡馬：316頭&lt;br /&gt;
*総：321頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：110両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[荒川]]&#039;&#039;&#039;：里俗に外川ともいう。内に新河岸川があるためである。二等河に属する。堤防がある。舟・筏を通す。西北、入間郡との境界から来て、郡の東北辺を宇繞して、下内間木村と上新倉村の境界で新河岸川と合流し、東南に流れて豊島郡との境界に入る。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新河岸川]]&#039;&#039;&#039;：一名、内川という。外に荒川があるのに対して称している。三等河に属し、舟・楫を通す。入間郡との境から来て、志木宿の北を過ぎ、下内間木村に至り、田島・根岸両村の際から出てくる黒目川を受け、東流して荒川に注ぐ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[柳瀬川]]&#039;&#039;&#039;：舟・筏は通さない。入間郡との境から来て大半は本郡の西北の境辺を流れ、志木宿の北に至って新河岸川に合流する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[英橋]]&#039;&#039;&#039;：川越街道に属し、柳瀬川に架す。大和田町の中央から西の方にある。長さ20間、幅2間半、土造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;&#039;：源を多摩郡に発し、本郡に来て、中央を貫き、田島・根岸の辺で新河岸川に入る。上流は幅がわずかに2～3間であるが、末流は10間あまりとなる。かつ根岸の河岸場から下は特に広く、舟・筏を通すに至る。&lt;br /&gt;
*小榑村の「井頭の池」から湧き出て郡の東南の辺りを流れ、耕田をうるおし、豊島郡の境界で荒川に注ぐ一本の河がある。わずかに数村にとどまるだけでなく、水源および橋戸の両村では&#039;&#039;&#039;小井戸川&#039;&#039;&#039;と称し、白子では&#039;&#039;&#039;大川&#039;&#039;&#039;、下新倉では&#039;&#039;&#039;野川&#039;&#039;&#039;と唱え、各村でその名を異にするため、省いて、ここに掲げず、それぞれの村の本文に詳しく書いた。&amp;lt;ref&amp;gt;現在の[[白子川]]を指す。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川分水&#039;&#039;&#039;：玉川上水の分流であり、多摩郡砂川村から分かれ、2里あまりを経て本郡西南の境に入り、地元の民の飲料になったり耕田の用水となったりしながら蛇行屈曲して東北の辺境志木宿の端に至る。その間3里14町あまり。そこから100余間は巨大な筧を通じ、入間郡宗岡村の耕田をうるおして荒川に入る。言い伝えに、その昔、松平信綱が川越城の主であったとき、新座郡は武蔵野の中にあって土地が高燥、井水がはなはだ乏しく、地はおおむね不毛に属していることを憂い、玉川上水を引いて、野火止の野を開墾しようと欲し、その家士である安松金右衛門に謀った。金右衛門はもともと水理に明らかな者である。金右衛門が答えていうには、3000金を費やせば必ず成功するでありましょう、と。信綱はすなわちこの者にそのことを司らせ、承応元年をもってはじめて功を起こした。当時、多摩郡の新座郡に接する村民も、またその水利に頼って、開墾に従事することを請う。そこでその村民に役に従わせた。民衆はみなよろこんでこれに応じ、日ならずして完成したが、年を越しても水流が通じない。このため、物議が紛々である。信綱はその理由を金右衛門に問うた。金右衛門が答えていうには、「これは土地が鬆疎（スカスカ）で水気がまだあまねく浸潤していないからです。地に浸潤すれば水流は必ず通じるでしょう」と。このまま3年、信綱はしばしば問うたが、金右衛門はまったく意に介さなかった。ある日、大いに雨が降った。水流が滾々として水路がみな満ちたのは、金右衛門の言ったとおりであった。信綱はその功を賞して、禄225石を加えて賜ったという。信綱はそのとき伊豆守に任ぜられていたため、土地の人は今なお伊豆溝と称する。当時、新河岸川に流れ入っていたが、後、寛文二年に至り、徳川氏の士、岡部左兵衛忠直という者が入間郡宗岡村を治めたとき、その家人・白井武左衛門に命じて、巨大な筧（この筧を伊呂波樋と賞した。宗岡村誌に詳しく書いている）を新河岸川の上に架し、この流れを引いて耕田の用水とし、荒川に入らせた。分水の上流から荒川口に至るまで長さは6里11町あまりで、沿岸の地は田圃が日に開け、戸口は月ごとに加わり、今はその流れを井戸水に代え、考えに供するところ、多摩・新座・入間およそ20村あるため、その利も大きいというべきだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：[[広沢林]]といい、民有に属する。郡の中央から少し東にあって、上下新倉・白子・橋戸・小榑・片山・膝折・溝沼・岡・台・根岸の11村にまたがる。東（下新倉村地内から）西（小榑村地内に至る）およそ30町。南（橋戸村地内から）北（片山・膝折の端に至る）およそ20町。反別およそ500町。楢、栗、痩松そのほかの雑樹が生えている。大木はない。昔は曠野であって、茅草のみが生えて、村民の秣場であったという。享保年中、筧播磨守が検地し、本郡のうち17村（今は堀之内、辻、下中沢、下片山、中沢、原ヶ谷戸の六か村は片山村の内に合併した。また上下白子も一村となったため、先ほどの11村となっている）へ割り付けたことは、その村民が蔵する古書に見える。その後、種樹を植え、白田を開いたこともある。ゆえに従来の官簿で畑地・秣場などの名義であった。維新の後、改組の際に至って林地の名を称することとなった。『[[新編武蔵風土記]]』に載っている広沢原新田というものは1里四方もあるはずだが、今、ここに掲げるのは林樾（林のかげ）に関するもののみを記した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：二等道路に属する。豊島郡との境から入間郡との境に達する。本郡にかかる里程は2里14町29間5尺。豊島郡下板橋（2里5町20間2尺）白子（郡境から2町26間1尺、膝折に至る1里1町41間4尺）膝折（32町50間）大和田（1里13町49間2尺。郡境まで13町27間）入間郡大井&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;旧奥州街道&#039;&#039;&#039;：三等道路に属する。多摩郡との境から入って菅沢・野火止・北野の3村を経て志木宿に達する。その間1里20町8間4尺。志木宿から足立郡与野町に至る。2里6町1間1尺。今、街道の名を唱えるのはここにとまる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*社：127坐（村社31坐、平社96社）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*寺34宇（新義真言宗24宇、臨済宗3宇、日蓮宗3宇、天台宗1宇、曹洞宗2宇、浄土宗1宇）&lt;br /&gt;
*堂25宇&lt;br /&gt;
*庵1宇&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：14か所（大和田、野火止、志木上、上内間木、浜崎、岡、上新倉、白子、橋戸、膝折、片山、上保谷、下保谷、小榑の諸町村に各1校ある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===郵便===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*郵便局：4か所（志木宿、大和田町、膝折、白子の両村にある。それぞれ当時取扱人の宅舎を仮用する）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===製造場===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;鍼線製造場&#039;&#039;&#039;：膝折村に3か所、片山村に1か所、それぞれ百有余坪の工場を黒目川の辺・際に設置し、水車の力を借りて金・銀・銅・鉄・真鍮線のたぐいを製造している。もっとも常に製するのは銅および黄銅の2種にとどまる。そもそもこの仕事は天保の初め、荏原郡目黒村製線場を廃するにあたり、ここに移したものである。鍼糸の製造は関左（関東）でこの2村のみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*甘藷：921万7436斤。この価は3万9634円97銭5厘。&lt;br /&gt;
*藍葉：79万206斤。この価は3万7139円68銭2厘。&lt;br /&gt;
*紫竹：1485束。この価は594円。&lt;br /&gt;
*鍼線：およそ60万斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甘藷・紫竹・鍼線はおおむね東京辺に輸出し、藍葉は近傍に販売する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男：闔郡（郡全体）で農耕を専らにする。もっとも郡の南部、林丘に属するところは往々にして采薪・焼炭を兼ねる者がいるとはいえども、わずかに一家の生計を補うに足りるのみ。&lt;br /&gt;
*女：農業に従事し、その中でも傍ら養蚕・紡績をなすものがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|*むさしのくににいさくんし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
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		<title>テンプレート:武蔵国郡村誌</title>
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		<updated>2026-06-24T13:49:28Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ &#039;&#039;&#039;[[武蔵国郡村誌]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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! colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | [[武蔵国新座郡誌]]&lt;br /&gt;
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|[[武蔵国新座郡村誌/大和田町|大和田町]] - [[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止村]] - [[武蔵国新座郡村誌/菅沢村|菅沢村]] - [[武蔵国新座郡村誌/西堀村|西堀村]] - [[武蔵国新座郡村誌/北野村|北野村]]||現[[新座市]]北部&lt;br /&gt;
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|[[武蔵国新座郡村誌/志木宿|志木宿]]||現[[志木市]]南部&lt;br /&gt;
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|[[武蔵国新座郡村誌/上内間木村|上内間木村]] - [[武蔵国新座郡村誌/下内間木村|下内間木村]] - [[武蔵国新座郡村誌/宮戸村|宮戸村]] - [[武蔵国新座郡村誌/田島村|田島村]] - [[武蔵国新座郡村誌/浜崎村|浜崎村]] - [[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼村]] - [[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡村]] - [[武蔵国新座郡村誌/根岸村・台村|根岸村・台村]] ||現[[朝霞市]]の大半&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉村]] - [[武蔵国新座郡村誌/下新倉村|下新倉村]] - [[武蔵国新座郡村誌/白子村|白子村]] ||現[[和光市]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[武蔵国新座郡村誌/橋戸村|橋戸村]]||現[[練馬区]][[大泉町]]付近&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折村]]||現[[朝霞市]][[膝折]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]||現[[新座市]]南部&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上保谷村]] - [[武蔵国新座郡村誌/上保谷新田|上保谷新田]] - [[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷村]]||現[[西東京市]]東部&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑村]]||現[[練馬区]][[大泉学園町]]・[[西大泉]]・[[南大泉]]付近&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | [[武蔵国入間郡村誌]]より&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[武蔵国入間郡村誌/針ヶ谷村|針ヶ谷村]] - [[武蔵国入間郡村誌/水子村|水子村]] ||現富士見市内&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[武蔵国入間郡村誌/宗岡村|宗岡村]]||現[[志木市]]北部 &lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C&amp;diff=350</id>
		<title>武蔵国郡村誌</title>
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		<updated>2026-06-24T13:48:49Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;『&#039;&#039;&#039;武蔵国郡誌&#039;&#039;&#039;』は、明治五年（1872年）から編纂が開始された『皇国地誌』のうち、埼玉県令が編纂した郡村誌である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治五年（1872年）9月24日、太政官達第288号にて「皇國地誌編集一切正院に管轄す」とし、太政官正院地誌課にて官製の『皇国地誌』編纂が開始された。これは国土把握のために史誌地誌が必要と考えられたためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県では、県令・白根多助が県内の記録をもとに編集を行い、次の県令・吉田清秀のときに編纂を終えた。明治十五年（1882年）に内務省地理寮に郡誌17冊、郡村誌103冊を進達した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、明治十七年（1884年）7月、府県委託による編纂が進まず、『皇国地誌』の編纂は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、大正十二年（1923年）、関東大震災により東京帝国大学附属図書館とともに約6400冊の残稿の大半が焼失したが、埼玉県による武蔵国稿本は東京大学史料編纂所に残存した。また、県による控えも残っており、これが昭和二十八年（1953年）～昭和三十年（1955年）にかけて埼玉県立図書館から『武蔵国郡村誌』全15巻として刊行されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==武蔵国郡誌　各巻構成==&lt;br /&gt;
# 足立郡村誌(1-7)&lt;br /&gt;
# 足立郡村誌(8-14)&lt;br /&gt;
# 足立郡村誌(15-18)・[[武蔵国新座郡村誌|新座郡村誌]]&lt;br /&gt;
# [[武蔵国入間郡村誌|入間郡村誌]](1-8)&lt;br /&gt;
# 入間郡村誌(9-10)・高麗郡村誌(1-5)&lt;br /&gt;
# 比企郡村誌(1-8)・横見郡村誌(1-2)&lt;br /&gt;
# 秩父郡村誌(1-6)&lt;br /&gt;
# 児玉郡村誌(1-3)・賀美郡村誌(1-2)・那珂郡村誌&lt;br /&gt;
# 大里郡村誌(1-3)・男衾郡村誌(1-2)・榛沢郡村誌(1-2)&lt;br /&gt;
# 榛沢郡村誌(3-5)・旛羅郡村誌(1-4)&lt;br /&gt;
# 埼玉郡村誌(1-8)&lt;br /&gt;
# 埼玉郡村誌(9-16)&lt;br /&gt;
# 埼玉郡村誌(17-23)&lt;br /&gt;
# 葛飾郡村誌(1-7)&lt;br /&gt;
# 下総国葛飾郡村誌(1-3)・各郡誌&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当サイトではこの埼玉県立図書館版『武蔵国郡村誌』から「[[武蔵国新座郡村誌|新座郡村誌]]」の全部、および「[[武蔵国入間郡村誌|入間郡村誌]]」の一部、また[[武蔵国新座郡誌]]を現代語訳して掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==当サイト掲載の村誌一覧==&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国郡村誌|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%85%A5%E9%96%93%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E6%B0%B4%E5%AD%90%E6%9D%91&amp;diff=349</id>
		<title>武蔵国入間郡村誌/水子村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%85%A5%E9%96%93%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E6%B0%B4%E5%AD%90%E6%9D%91&amp;diff=349"/>
		<updated>2026-06-22T14:27:01Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国入間郡村誌の水子村項の現代語訳。水子村は入間郡に属するが、後に針ヶ谷村と合併して入間郡水谷村となり、さらに昭和十九年に水谷村・宗岡村・内間木村・志木町が合併して北足立郡志紀町となった。そのため、ここに取り上げるものである。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国入間郡村誌]]の[[水子村]]項の現代語訳。水子村は入間郡に属するが、後に[[針ヶ谷村]]と合併して入間郡[[水谷村]]となり、さらに昭和十九年に水谷村・宗岡村・内間木村・志木町が合併して[[北足立郡]][[志紀町]]となった。そのため、ここに取り上げるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==水子（みつこ）村==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村は昔、三芳野郷・仙波庄・河越領に属す（領は河越と見えるが、今、その言い方を伝えない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東から北は新河岸川を隔てて[[武蔵国入間郡村誌/宗岡村|宗岡村]]および南畑村と相対する。南は[[新座郡]][[武蔵国新座郡村誌/志木宿|志木宿]]と柳瀬川を挟んでいる。西は[[武蔵国入間郡村誌/針ヶ谷村|針ヶ谷村]]および南畑村の飛地と耕地を接する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東西17町50間&lt;br /&gt;
*南北16町2間&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）：徳川氏に属する&lt;br /&gt;
* 正保のころ：代官俗地（507石9斗2升）三浦八兵衛（100石）杉浦忠左衛門（200石）柴山小兵衛（45石）の采知となる&lt;br /&gt;
* 元禄七年甲戌（1694年）：すべて松平美濃守の封土に代わる&lt;br /&gt;
* 宝永元年甲申（1704年）：秋元但馬守が代わって領する&lt;br /&gt;
* 明和四年丁亥（1767年）：松平大和守の領地となる&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）：高1340石4斗1升1合、前橋藩となる&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）：前橋県となり、さらに入間県に属する&lt;br /&gt;
* 明治六年癸酉（1873年）：熊谷県に属する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南方12里15間（字久保新田より測る）&lt;br /&gt;
*四隣：宗岡村へ25町58間5尺、針ヶ谷村へ13町23間、志木宿へ23町21間、南畑村へ22町57間&lt;br /&gt;
*近傍宿町：新座郡[[武蔵国新座郡村誌/大和田町|大和田町]]へ1里10町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*平坦。&lt;br /&gt;
*東南北に川を帯び、運輸に便利。&lt;br /&gt;
*薪・炭は乏しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色、赤・黒。稲・粱に適さない。菽（豆）・麦に応じる。&lt;br /&gt;
*水は利便である。ときどき水害を被る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：75町2反3畝25歩&lt;br /&gt;
*畑：155町8反6畝9歩&lt;br /&gt;
*総計：231町5反9歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
本村の南方、志木宿の内、畑1反歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*打越（うちこし）：村の西方にある。東西3町24間半、南北1町10間。&lt;br /&gt;
*打越下（うちこしした）：打越の北に連なる。東西2町2間半、南北1町5間。&lt;br /&gt;
*山崎（やまさき）：打越下の東北に連なる。東西1町40間、南北2町33間半。&lt;br /&gt;
*山崎前（やまさきまへ）：山崎の東北に連なる。東西1町12間、南北2町13間。&lt;br /&gt;
*新田下（しんでんした）：山崎前の東に連なる。東西1町40間、南北2町17間。&lt;br /&gt;
*本郷橋（ほんがうはし）：新田下の東に連なる。東西1町、南北2町32間。&lt;br /&gt;
*本郷（ほんがうはし）：新田下の南に連なる。東西1町、南北1町53間。&lt;br /&gt;
*西桜井（にしさくらゐ）：本当の西南に連なる。東西1町52間、南北2町33間。&lt;br /&gt;
*東小原（ひがしこはら）：西桜井の西南に連なる。東西1町22間、南北3町29間。&lt;br /&gt;
*西小原（にしこはら）：東小原の西南に連なる。東西1町18間、南北2町32間。&lt;br /&gt;
*大原（おおはら）：東小原の東南に連なる。東西2町40間半、南北1町50間。&lt;br /&gt;
*松山（まつやま）：東小原の東に連なる。東西2町41間半、南北45間。&lt;br /&gt;
*地蔵山（ぢどうやま）：松山の東北に連なる。東西1町35間、南北59間。&lt;br /&gt;
*東桜井（ひがしさくらい）：地蔵山の北に連なる。東西1町55間、南北1町44間。&lt;br /&gt;
*氷川前（ひかはまへ）：東桜井の東北に連なる。東西1町40間、南北2町8間半。&lt;br /&gt;
*西北側（にしきたがわ）：本郷橋の東に連なる。東西1町37間、南北1町25間。&lt;br /&gt;
*東北側（ひがしきたがわ）：西北側の東に連なる。東西1町27間、南北1町48間。&lt;br /&gt;
*寺下（てらした）：東北側の東に連なる。東西1町50間、南北2町20間半。&lt;br /&gt;
*東前（ひがしまへ）：寺下の東に連なる。東西1町2間、南北1町15間。&lt;br /&gt;
*町谷前（まちやまへ）：東前の東南に連なる。東西48間、南北5町10間半。&lt;br /&gt;
*久保新田（くぼしんでん）：村の中央元標位置。東西1町40間、南北3町30間。&lt;br /&gt;
*寺前（てらまへ）：久保新田の西に連なる。東西2町10間、南北3町10間。&lt;br /&gt;
*永久保（ながくぼ）：氷川前の南に連なる。東西1町10間、南北1町15間半。&lt;br /&gt;
*杉ノ内（すぎのうち）：松山の南に連なる。東西2町26間、南北2町。&lt;br /&gt;
*松原（まつはら）：大原の南に連なる。東西4町46間、南北1町10間。&lt;br /&gt;
*並木裏（なみきうら）：松原の東南に連なる。東西3町33間、南北1町18間。&lt;br /&gt;
*小作（こさく）：並木裏の東に連なる。東西3町52間、南北1町25間。&lt;br /&gt;
*京塚：寺前の南に連なる。東西1町32間、南北2町42間。&lt;br /&gt;
*東石井（ひがしいしゐ）：久保新田の南に連なる。東西2町3間、南北1町38間。&lt;br /&gt;
*谷ツ合（やつあひ）：町谷前の南に連なる。東西1町20間、南北1町50間半。&lt;br /&gt;
*神明（しんめい）：東石井の東に連なる。東西1町30間、南北2町10間。&lt;br /&gt;
*観音前（くわんおんまへ）：谷合の東に連なる。東西1町21間、南北1町52間。&lt;br /&gt;
*山下（やました）：城ノ下の北に連なる。東西5町41間、南北24間。&lt;br /&gt;
*北袋（きたふくろ）：山下の東に連なる。東西7町15間、南北44間。&lt;br /&gt;
*城ノ下（しやうのした）：北袋の西南に連なる。東西2町50間、南北1町25間。&lt;br /&gt;
*岡ノ坂（おかのさか）：城ノ下の南に連なる。東西1町16間、南北2町20間。&lt;br /&gt;
*前河岸前（まえがしまえ）：前沼の東に連なる。東西55間半、南北4町15間。&lt;br /&gt;
*高芝（たかしば）：三丁目の北に連なる。東西1町46間、南北1町31間。&lt;br /&gt;
*三丁目（さんちょうめ）：高芝の南に連なる。東西2町44間、南北1町55間。&lt;br /&gt;
*大三丁目（おおさんちょうめ）：三丁目の南に連なる。東西3町4間、南北1町2間。&lt;br /&gt;
*姥袋（うばぶくろ）：三丁目の西に連なる。東西5町50間半、南北30間。&lt;br /&gt;
*前沼（まへぬま）：姥袋の西北に連なる。東西1町58間、南北2町30間。&lt;br /&gt;
*永島（ながしま）：前沼の西北に連なる。東西2町26間、南北1町2間。&lt;br /&gt;
*谷前（やつまへ）：永島の西に連なる。東西1町2間、南北2町40間。&lt;br /&gt;
*牛子（うしこ）：谷前の西に連なる。東西1町52間、南北3町26間。&lt;br /&gt;
*石橋（いしはし）：谷前の南に連なる。東西3町5間、南北44間。&lt;br /&gt;
*砂押（すなおし）：石橋の南に連なる。東西2町31間、南北2町9間。&lt;br /&gt;
*石井前（いしゐまへ）：砂押の西北に連なる。東西55間、南北4町14間。&lt;br /&gt;
*石井（いしゐ）：京塚の南に連なる。東西1町36間、南北3町21間。&lt;br /&gt;
*東台（ひがしだい）：石井の西に連なる。東西1町55間、南北3町59間。&lt;br /&gt;
*台（たい）：東台の西に連なる。東西1町49間、南北2町34間。&lt;br /&gt;
*東並木（ひがしなみき）：台の西に連なる。東西2町27間、南北1町22間。&lt;br /&gt;
*西並木（にしなみき）：東並木の西に連なる。東西3町42間、南北1町22間。&lt;br /&gt;
*西原（にしはら）：西並木の南に連なる。東西4町24間、南北1町18間。&lt;br /&gt;
*北別処：西原の東に連なる。東西2町29間、南北2町36間。&lt;br /&gt;
*正網（せやうあみ）：台の南に連なる。東西2町5間、南北3町15間。&lt;br /&gt;
*薬師下（やくしした）：正網の東に連なる。東西2町10間、南北1町30間。&lt;br /&gt;
*台下（だいした）：薬師下の東北に連なる。東西2町3間、南北2町23間。&lt;br /&gt;
*北土井（きたどゐ）：石井前の南に連なる。東西1町10間、南北3町59間。&lt;br /&gt;
*南土井（みなみどゐ）：砂押の南に連なる。東西45間、南北1町50間。&lt;br /&gt;
*榎町（えのきまち）：南土居の西南に連なる。東西3町26間、南北1町2間。&lt;br /&gt;
*向山前（むかふやままへ）：榎町の北に連なる。東西3町、南北1町25間。&lt;br /&gt;
*別処前：向山前の南に連なる。東西1町30間、南北2町30間半。&lt;br /&gt;
*別処：別処前の北に連なる。東西2町38間、南北1町32間。&lt;br /&gt;
*栗谷（くりやつ）：別処の西に連なる。東西3町25間半、南北1町18間。&lt;br /&gt;
*西松原（にしまつはら）：栗谷の西に連なる。東西2町25間、南北1町35間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米298石4斗3升4合、金225円72銭1厘&lt;br /&gt;
*賦金：金121円45銭&lt;br /&gt;
*総計：米298石4斗3升4合、金347円17銭1厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：266戸（平民）&lt;br /&gt;
*社29戸（村社1坐、平社28坐）&lt;br /&gt;
*寺9戸（真言宗8宇、日蓮宗1宇）&lt;br /&gt;
*総計304戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：738口&lt;br /&gt;
*女：768口&lt;br /&gt;
*総計：1506口（他、出寄留 男9人、女2人、外寄留 男2人、女2人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*高瀬舟：2艘&lt;br /&gt;
*艜船（ひらたぶね）：27艘&lt;br /&gt;
*川下小舟：3艘&lt;br /&gt;
*免税小舟：2艘&lt;br /&gt;
*荷車：180両（大八2両、中車120両、免税車58両）&lt;br /&gt;
*総計：船34艘、車180両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[新河岸川]]&#039;&#039;&#039;：赤間川の末流。一名を内川という。深いところ1丈8尺、浅いところ3尺。広いところ20間、狭いところ11間。緩流、濁りは薄い。舟・筏を通す。村の西北、鶴馬村との境界から来て、南方、志木宿に入る。長さ57町19間3尺。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[柳瀬川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ1丈5尺、浅いところ1尺5寸、広いところ25間、狭いところ10間。急流。濁りは薄い。堤防あり。村の西南、針ヶ谷村との境界から来て南方志木宿に入る。長さ39町15間3尺。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;悪水堀&#039;&#039;&#039;：深いところ3尺、浅いところ1尺、広いところ1丈2尺、狭いところ8尺。村の西北、鶴馬村から来て新河岸川に入る。長さ16町37間。田の悪水を注ぎ下す。&lt;br /&gt;
* 河岸場：新河岸川に沿って、3か所ある。東京出入りの荷積場である。安永二年（1773年）2月から納税する。&lt;br /&gt;
* 橋：東京往還に属し、村の南方、柳瀬川の中流に架す。長さ8間3尺、幅9尺。土造。&lt;br /&gt;
* 橋：東京往還に属し、村の東南、柳瀬川の下流に架す。長さ6間、幅6尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
* 林：官有に属する。東西35間・南北4間・反別7畝18歩。村の南方、字正網にある。小さい木が繁茂している。&lt;br /&gt;
* 林：官有に属する。東西12間3尺・南北7間5尺・反別2畝20歩。村の北方、字寺前にある。小さい木が繁茂している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===湖沼===&lt;br /&gt;
* 井沼：東西8間・南北7間・周回56間。村の南方にある。&lt;br /&gt;
* 前沼：東西32間・南北12間・周回6町24間。村の東南にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東京往還]]&#039;&#039;&#039;：村の西北、鶴馬村との境界から東南、志木宿との境界に至る。長さ30町29間、幅1丈。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[川越街道|川越道]]&#039;&#039;&#039;：村の南方、志木宿との境界から西北、鶴馬村との境界に至る。長さ30町29間3尺、幅1丈3尺。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;所沢道&#039;&#039;&#039;：村の東方、河岸場から西方、藤久保村との境界に至る。長さ18町5間、幅2間半。&lt;br /&gt;
* 掲示場：村の中央にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===堤塘===&lt;br /&gt;
* 堤：柳瀬川に沿い、村の西南、針ヶ谷村との境界から本村、字石橋に至る。長さ15町15間、馬踏5尺、堤敷6間。根堅めに松の樹がある。修繕費用、大破は官に属し、小破は民に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[水子氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西30間、南北21間、面積630坪。素戔嗚尊を祭る。弘治元年（1555年）4月5日勧請。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;八幡社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西30間、南北15間、面積450坪。村の南方にある。誉田別尊を祭る。祭日8月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;神明社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間、南北13間、面積195坪。村の東方にある。天照大神を祭る。文禄元年（1593年）9月勧請。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;諏訪社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西13間、南北9間半、面積117坪。村の東方にある。武甕槌命を祭る。貞享三年（1686年）2月勧請。祭日2月27日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：東西18間、南北8間、面積144坪。村の西北にある。素戔嗚尊を祭る。天正元年（1573年）9月勧請。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：東西21間半、南北21間、面積4441坪。村の西北にある。木花開耶姫命を祭る。永禄二年（1559年）6月勧請。祭日9月9日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;天神社&#039;&#039;&#039;：東西25間、南北13間、面積325坪。村の北方にある。菅原道真を祭る。永禄二年（1559年）2月勧請。祭日2月21日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;日枝社&#039;&#039;&#039;：東西11間半、南北16間、面積176坪。村の西南にある。大山祇命を祭る。祭日6月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;八幡社&#039;&#039;&#039;：東西5間、南北3間、面積15坪。村の西南にある。誉田別尊を祭る。祭日8月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;江ノ島社&#039;&#039;&#039;：東西1間、南北2間、面積2坪。村の西南にある。祭日3月1日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大六社&#039;&#039;&#039;：東西9間半、南北5間、面積45坪。村の西南にある。大六天を祭る。祭日7月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;神明社&#039;&#039;&#039;：東西11間、南北6間、面積66坪。村の南方にある。天照大神を祭る。祭日2月13日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;愛宕社&#039;&#039;&#039;：東西11間半、南北3間半、面積33坪。村の西北にある。軻遇突智命を祭る。祭日6月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西18間、南北5間半、面積90坪。村の西北にある。稲倉魂命を祭る。祭日6月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西11間半、南北8間半、面積88坪。村の西北にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西10間半、南北9間半、面積90坪。村の北方にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西7間、南北8間、面積56坪。村の西北にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西5間、南北8間、面積40坪。村の西方にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西6間、南北5間半、面積30坪。村の東南にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西8間、南北3間、面積24坪。村の東方にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西9間半、南北4間、面積36坪。村の東方にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西9間半、南北7間、面積63坪。村の西南にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西5間半、南北5間、面積56坪。村の西南にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西4間半、南北1間半、面積4坪。村の西南にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西6間半、南北6間、面積36坪。村の西南にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西8間、南北6間、面積48坪。村の南方にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西7間、南北3間半、面積21坪。村の南方にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西11間半、南北8間、面積88坪。村の北方にある。同上。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：東西9間、南北6間半、面積54坪。村の東方にある。同上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大応寺&#039;&#039;&#039;：東西74間、南北36間、面積2664坪。村の北方にある。新義真言宗。山城国醍醐報恩院の末派である。開基・創建不詳。『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「中興開山　宥勝、貞享二年（1685年）6月示寂」と載っている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;性蓮寺&#039;&#039;&#039;：東西66間、南北28間、面積1848坪。村の南方にある。日蓮宗。安房国小湊誕生寺の末派である。西の傍らに喬樹が鬱蒼とした中に難波田弾正の墓がある。『[[新編武蔵風土記稿]]』には「正蓮寺」と書かれている。「開山 日性、永正二年（1505年）3月2日示寂」と載っている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;薬師寺&#039;&#039;&#039;：東西21間、南北20間、面積420坪。村の南方にある。新義真言宗。大応寺の末派である。&lt;br /&gt;
* 阿弥陀堂：東西19間、南北17間、面積323坪。村の東方にある。天正十九年（1591年）3月創建した。空海の書いた弥陀仏を安置している。&lt;br /&gt;
* 観音堂：東西16間、南北5間半、面積88坪。村の東方にある。&lt;br /&gt;
* 不動堂：東西15間、南北13間、面積195坪。村の西南にある。&lt;br /&gt;
* 地蔵堂：東西12間、南北7間、面積84坪。村の南方にある。&lt;br /&gt;
* 観音堂：東西8間、南北8間、面積68坪。村の西南にある。&lt;br /&gt;
* 地蔵堂：東西20間、南北10間、面積200坪。村の西方にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
* 公立小学校：村の北方、大応寺を仮用する。生徒 男53人、女11人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===役場===&lt;br /&gt;
* 村事務所：村の西北、戸長宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
* 米：505石6斗&lt;br /&gt;
* 大豆：436石5斗&lt;br /&gt;
* 小麦：285石&lt;br /&gt;
* 甘藷：13万5950貫目&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
* 男は農工を専らとし、女は農を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国入間郡村誌|みつこむら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B0%8F%E6%A6%91%E6%9D%91&amp;diff=348</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/小榑村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B0%8F%E6%A6%91%E6%9D%91&amp;diff=348"/>
		<updated>2026-06-21T14:11:08Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の小榑村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==小榑村（こぐれ）==  本村はいにしえ広沢庄野方領に属する。  ===疆域=== 東は豊島郡上土支田村と小井戸川で境界となり、斜めに北へ本郡橋戸村に接し、南は豊島郡上石神井村・関村および…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[小榑村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==小榑村（こぐれ）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[広沢庄]][[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は豊島郡上土支田村と小井戸川で境界となり、斜めに北へ本郡[[武蔵国新座郡村誌/橋戸村|橋戸村]]に接し、南は豊島郡上石神井村・関村および本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上保谷村]]と境界が野道となっており、西は本郡[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷村]]、本郡[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山]]・[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]・[[武蔵国新座郡村誌/根岸村・台村|根岸・台]]・[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉村]]の数村に連なる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字経塚・橋戸村との境界から）西（字広沢原・片山村との境界に至る）17町&lt;br /&gt;
*南（字前新田・上石神井村との境界から）北（字広沢原・片山村との境界に至る）1里12町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。その年の8月、板倉四郎左衛門勝重（後、伊賀守）に賜う。&lt;br /&gt;
*正保（1644年～1648年）のころは直轄であり、代官がこれを支配した。&lt;br /&gt;
*後、寛文年中に至り、稲葉美濃守正則の領するところとなる。&lt;br /&gt;
*その嗣子、丹後守正通、貞享二年乙巳12月、越後国高田に異封のとき、代官の支配に戻る（大成武鑑に勝重五代の孫、周防守重冬のとき、元禄十一年戌寅3月、武蔵国新座・豊島両郡の地1000石を伊勢国三重郡の内に移される、とある。これによって考えれば、稲葉氏の提封となったことは疑わしい。しかし、[[武蔵田園簿]]に見えないので、今、ここに採らず、まったく[[新編武蔵風土記稿]]による）&lt;br /&gt;
*元禄十一年癸未、村高の半分を割いて米津出羽守の領知となし、子孫世襲する。&lt;br /&gt;
*維新の初め、その高は731石6斗5升5合である。&lt;br /&gt;
*また、直轄の地730石5斗6升6合は[[武蔵知県事]]に属する。明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*米津氏の提封は龍ケ崎藩と改め、明治四年辛未（1871年）7月に県と称する。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、ともに[[入間県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：豊島郡上土支田村（中央）へ10町。同郡関村（中央）30町。本郡下保谷村（中央）へ20町。片山村（中央）へ27町。橋戸村（元標）へ20町。&lt;br /&gt;
*近傍宿町：本郡志木宿（元標）へ2里10町、多摩郡田無町（元標）へ1里。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*南より斜めに長く、東西に短い。北は林・丘、高燥で、東南に小井戸川を帯び、田野が開ける。運輸の便あり。薪・炭も乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色は淡赤。その質は悪く、菽・麦・桑・茶に適し、西の一方は水利に乏しいが、肥えている地も少なくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：4町7反6畝14歩&lt;br /&gt;
*畑：519町7反4畝20歩&lt;br /&gt;
*総計：524町5反1畝4歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村の東方、下土支田村のうち、畑（6町7反25歩）、林（7町6反3畝28歩）、萱生地（1反7畝2歩）&lt;br /&gt;
*東方、橋戸村の内、畑（9町4反5畝7歩）、林（1町4反9畝歩）、宅地（3反7畝歩）、社地（1反10歩）&lt;br /&gt;
*東方、上土支田村の内、林（2町3反7畝9歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;前新田&#039;&#039;&#039;（まへしんでん）：村の南方にある。東西40間、南北8町40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;四面塔&#039;&#039;&#039;（しめんとう）：前新田の北に連なる。東西8町20間、南北8町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;経塚&#039;&#039;&#039;（きょうづか）：四面塔の東に連なる。東西9町40間、南北14町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;広沢&#039;&#039;&#039;（ひろさは）：経塚の北に連なる。東西24町、南北12町2間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この4地地の内に小字がある。一々挙げない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米22石6斗1升1合、金511円85銭2厘&lt;br /&gt;
*賦金：金168円52銭&lt;br /&gt;
*総計：米22石6斗1升1合、金680円37銭2厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：238戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：12戸（村社1坐、平社11坐）&lt;br /&gt;
*寺：5戸（日蓮宗）&lt;br /&gt;
*総計：255戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：696口（平民）&lt;br /&gt;
*女：695口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：1391口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：4頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：110両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;小井戸川&#039;&#039;：源を本村の井頭の池から発し、水清く、耕田を灌流して東北の方、橋戸村に入る。長さ7町50間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢林]]&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西21町・南北11町。反別214町4反歩。村の東北にある。クヌギ類多く、所々に痩松が生えている。大樹はない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;達出林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西5町・南北7町。反別10町5反。村の中央にある。クヌギ類多く、大樹はない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;西小作林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西7町・南北2町30間。反別8町1反5畝15歩。村の西北にある。クヌギ類多く、大樹はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[井頭の池]]&#039;&#039;&#039;：東西20間、南北2町、周囲5町村の東南にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;村路&#039;&#039;&#039;：村の西方、下保谷村との境から東方、上土支田村との境界に至る。長さ22町、幅3間。里俗に東京道という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;諏訪社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西12間・南北3間・面積527坪。村の北方にある。建御名方命を祭る。祭日4月4日。社地の中に松の老樹がある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;八坂社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西16間・南北19間・面積310坪。村の東方の飛地にある。素戔嗚尊を祭る。祭日6月15日。社地の中に松の老樹がある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北18間・面積244坪。村の東北にある。宇賀御魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西22間・南北19間・面積285坪。村の北方にある。宇賀御魂命を祭る。祭日2月初午。社地の中にモミの老樹がある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西18間・南北10間・面積169坪。村の北方にある。宇賀御魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西4間半・南北41間・面積173坪。村の北方にある。宇賀御魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西49間半・南北10間・面積193坪。村の南方方にある。宇賀御魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北7間・面積51坪。村の西南にある。宇賀御魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北8間半・面積122坪。村の西南にある。宇賀御魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西18間・南北11間・面積193坪。村の南方にある。宇賀御魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北7間・面積51坪。村の西南にある。宇賀御魂命を祭る。祭日2月初午。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[妙福寺]]&#039;&#039;&#039;：東西60間・南北50間・面積2559坪。村の東隅にある。日蓮宗。下総国中山村法華経寺の末派である。慶長元年、日高聖人が開基した。もと大覚寺と称し、嘉祥二年、天台宗慈覚大師の創建という。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[本応院]]&#039;&#039;&#039;：東西12間・南北13間・面積170坪。妙福寺の隠質であるため、その隣にある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[本照寺]]&#039;&#039;&#039;：東西17間・南北26間・面積476坪。村の東北にある。日蓮宗。下総国中山村法華経寺の末派である。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[大乗院]]&#039;&#039;&#039;：東西30間・南北38間・面積843坪。村の西隅にある。日蓮宗。妙福寺の末派である。慶長年間から久世氏の祈願所となり、その遺物が今なお存在する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[法性院]]&#039;&#039;&#039;：東西15間・南北11間・面積201坪。村の東北にある。日蓮宗。妙福寺の末派である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：村の西方、大乗院を仮に用いる。生徒　男65人、女35人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当寺戸長宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;経塚&#039;&#039;&#039;：村の中央にある。応長年間、天台宗大覚寺改修のとき、経を埋めたところであるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：160石&lt;br /&gt;
*大麦：560石&lt;br /&gt;
*小麦：770石&lt;br /&gt;
*大豆：320石&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小麦・大豆などは余嬴があって、よそに販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農耕を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|こくれ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8B%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%9D%91&amp;diff=347</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/下保谷村</title>
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		<updated>2026-06-21T14:08:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[下保谷村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==下保谷村（しもほうや）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村のいにしえの郷・庄・領名とも[[武蔵国新座郡村誌/神保谷村|神保谷村]]に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は本郡[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑村]]と野道が境界となり、西南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上保谷村]]および多摩郡田無・南沢・前沢などの数村と隣り合い、北は多摩郡落合村および本郡[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]などに接する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字荒屋敷東境から）西（開発新田の西辺に至る）34町30間&lt;br /&gt;
*南（字新田の南端から）北（字宮の脇に至る）24町40間&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
*正保（1644年～1648年）のころは村高305石7斗8升あって、代官の支配である。&lt;br /&gt;
*寛文三年癸卯（1663年）、稲葉美濃守正則の提封とした。&lt;br /&gt;
*その子、正往の代に至り、天和三年癸亥（1683年）6月、移転して再び直管となった。&lt;br /&gt;
*維新の際、高864石5斗3升3合を[[武蔵知県事]]に属させる。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：本郡小榑村へ25町。片山村へ20町。多摩郡田無村へ1里。南澤村へ30町。前沢村へ1里。落合村へ20町。&lt;br /&gt;
*近傍：大和田町へ2里。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※掲示場から測る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*高燥で水脈なく、また稲田がない。運輸は便利でないが、森林が多いため薪・炭は余りがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*赤・黒。その質は美・悪が相半ばし、菽・麦および桑・茶・藍葉などに適する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*畑：238町2畝12歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;坊ヶ谷戸&#039;&#039;&#039;（ぼうがやと）：本村の北部にして、いにしえは貝谷戸と称したが、大泉坊がこの地にあったためこの称があるという。東西2町、南北7町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;入&#039;&#039;&#039;（いり）：本村の西北部にある。いにしえは清戸道の東に曲り松という古木があった。その枝が路から西に差し出たため、枝入を誤って入と称したという。東西5町10間、南北11町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;松之木&#039;&#039;&#039;（まつのき）：村の中央部にある。清戸路の東に曲がった松があったためこの称があるという。東西5町30間、南北5町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上&#039;&#039;&#039;（かみ）：本村正北部にある。いにしえ、神の字を用いていた。この字地に三十番神があるためであるという。東西3町10間、南北7町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;宮の脇&#039;&#039;&#039;（みやのわき）：本村東北部にある。これもまた天満宮の辺りを称する。東西1町40間、南北6町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;荒屋敷&#039;&#039;&#039;（あらやしき）：本村東部にある。北部の人民はいにしえ草萊&amp;lt;ref&amp;gt;草萊（そうらい）：雑草の茂った土地。&amp;lt;/ref&amp;gt;を開き、天和のころ（1681年～1684年）はじめて宅地を構えたためこの称があるという。東西4町15間、南北14町50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;新田&#039;&#039;&#039;（しんでん）：本村南部の総称で、荒屋敷と同じく宝永七年（1710年）中に開発したためである。この台をもと天神山という。これはいにしえ氏神天満宮の古祠を移したためである。天神山と称し、四隣に知らざる者はないという。東西5町30間、南北11町10間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：金284円45銭1厘&lt;br /&gt;
*賦金：金31円50銭&lt;br /&gt;
*総計：金311円95銭1厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：121戸（平民）&lt;br /&gt;
*寄留：1戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：3戸（村社1坐、平社2坐）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（日蓮宗）&lt;br /&gt;
*総計：126戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：346口&lt;br /&gt;
*女：352口&lt;br /&gt;
*総計：698口&lt;br /&gt;
*他、出寄留6人（うち、男3人、女3人）外寄留10人（うち、男5人、女5人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：4頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：56両（67中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;悪水路&#039;&#039;：村の西の方、上保谷村から来て、中央を貫流して東の方、小榑村に入る。その間14町45間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：土地の人は開発の林と称する。民有地である。東西10町・南北20町。反別50町あまり。本村の西端にある。コナラが多くときどき檞（カシワ）の木がある。大樹はなく、ところどころに痩松が生えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[大泉坊ヶ池]]&#039;&#039;&#039;：村の中央、字坊ヶ谷戸にある。深いところ1丈、東西5間、南北16間。村民蓮見某の所有地である。いにしえ、今の小榑村[[大乗院]]を大泉坊と称し、この辺にあったためにこの称がある。今、土地の人が誤って「どをせん坊ヶ池」と称している。毎年3月、ヒキガエルが数万集まって交合し、夜間人の往来を妨げるに至るがゆえに蟇ヶ池とも唱えるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;村路&#039;&#039;&#039;：清戸道という。南の方、豊島郡関村から北の方、本郡片山村に至る。その間30町、幅2間半。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;掲示場&#039;&#039;&#039;：本村中央にある。昔は上保谷村と一つであったが、宝暦四年（1754）に今のところに移した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[下保谷天神社|天神社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西30間・南北50間・面積150坪。本村の東北部にある。いにしえ菅原道真を祭っていた。後、祠廟が大破し、天正のころ、日蓮宗に改宗のとき、三十番神を勧請した。後、また衰破したのを、元文元年、妙覚寺の日近という者が修造した。明治元年、神仏混淆廃止の際、また天神社と称する。祭日9月20日。境内に大樹が茂っていたが、明治元年に伐採して、ただ松・椵（モミ）の大株があるのみ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北6間・面積90坪あまり。本村の東南、字新田にある。倉稲魂命を祭る。祭日2月12日。勧請年月未詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西7間・南北20間・面積140坪あまり。本村の北、字荒屋敷にある。祭神・祭日は上に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[福泉寺]]&#039;&#039;&#039;：東西25間・南北20間。小榑村日蓮宗[[妙福寺]]の末派である。村の東方にある。天正四年2月26日、北越の人、日眼が創立。そのとき、蓮蔵坊と称する。改称の年暦未詳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：本村の中央にある。生徒　男40人、女15人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*字坊ヶ谷戸にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;経塚&#039;&#039;&#039;：高さ1丈、周囲10間。荒屋敷の中央にある。土地の人が言うには、本村は元真言宗だったが、ことごとく改宗したとき、その仏具をこの塚に埋めたという。年暦は詳らかではない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;鷹野陣屋&#039;&#039;&#039;：東西20間、南北15間。村民・蓮見某の所有地にある。徳川氏のころ、名古屋侯（尾張徳川家）が鷹狩りのときは小憩所とし、臣下に毎年交番させた。元和年中（1615年～1624年）の創建であったが、明治元年に至り、廃止した。今、学校のあるところがこれである。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;内匠ヶ原&#039;&#039;&#039;：民有地であり、東方十町にある。もとはこの地一円は萱の原であったが、寛文年中（1661年～1673年）、三十番神の神官・本橋内匠がこの地を開いた。よってこの称がある。内匠はもと大坂の浪士であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*岡穂米：88石7斗&lt;br /&gt;
*大麦：716石3斗&lt;br /&gt;
*小麦：372石3斗&lt;br /&gt;
*大豆：189石あまり&lt;br /&gt;
*小豆：5石&lt;br /&gt;
*ソバ：189石5斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菽・麦は余嬴があって、藍葉とともに東京もしくは入間郡所沢辺に輸出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女おおむね農を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|しもほうや]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%91&amp;diff=346</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/片山村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%91&amp;diff=346"/>
		<updated>2026-06-21T08:37:34Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 古跡 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[片山村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 片山村（かたやま） ==&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[片山郷]][[野方領]]に属し、片山村と称したが、元禄のころには分けて10村（野寺、中沢、石神、十二天、原ヶ谷戸、栗原、下中沢、堀之内、辻、下）となり（正保改定の郡図では片山の一村であって、元禄の図には10村に分かれている）後、また十二村（下片山村・上片山村あるいは下中沢村ともいう（ともに羽田某の采地）・原ヶ谷戸村（桜井某の采地）辻村・堀之内村・石神村（以上代官の支配）栗原村・下栗原村あるいは十二天村という（ともに木村某の采地）野寺村（小野某の采地）中沢村・十二天村・栗原村（以上米津氏の堤封に係る））となった年暦は明らかではない。おそらく、当時の領主地主などの便宜により分称したものであろう。それでもなお、古名が残っていて、片山の二字を冠書して、片山石神村、片山堀之内村などという）。維新の後、明治八年（1875年）4月に至って合一して片山村の古称に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 疆域 ===&lt;br /&gt;
東南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡]]・[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑]]と[[広沢原]]の深林を接し、正南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上]]・[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷]]の二村と林丘あるいは陸田のあぜで境界となり、西は多摩郡落合・神山および本郡[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]などの諸村と連なり、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]・[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]の二村との境界に[[川越街道]]と[[黒目川]]あるいは水陸田のあぜがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幅員 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東（字野中の原から）西（字北原に至る）27町&lt;br /&gt;
* 南（字亦六から）北（字西の原に至る）1里13町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管轄沿革 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
* 正保（1644年～1648年）のころは村高1232石あって、その300石を代官の支配とし、余りは旗下の士に賜った。各100石を桜井庄之助・神谷与十郎、250石を田中市郎右衛門、各50石を荒井又六郎・小野久内、200石を木村伊右衛門、150石を柘植甚八郎らの采地とし、30石を米津内蔵助（のち出羽守）の領邑とした。後、神谷・田中・荒川・柘植らの収采のことは明らかではない。&lt;br /&gt;
* 寛文・延宝（1661年～1681年）から宝永・正徳（1704年～1716年）のころ、代官・領主らがそれぞれ検地して、ついに1473石5斗9升9合となる。このときには、577石3斗1升を代官支配し、99石5斗8升5合小野久内、159石7斗4合を桜井庄之助、200石を木村鎮太郎、305石を羽田槌太郎らの治めるところとし、141石を米津氏の堤封とし、それぞれ世襲した。&lt;br /&gt;
* 維新のはじめに至り、旗下の采地をことごとく治めて代官松村忠四郎の支配下に属し、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。米津氏の領地は同じく6月、[[龍ケ崎藩]]となる。そして改めて県と称する。&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）11月、両県（品川・龍ケ崎）を廃して[[入間県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 里程 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
* 四隣：本郡膝折村（元標）へ23町。小榑村（元標）へ27町。野火止村（中央）へ30町。多磨郡山村との境界へ23町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地勢 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 林と丘が対峙して、西南から東北に連なり渡っている。その間はやや平衍。黒目川がこれを貫く。薪・炭に富むけれども、高低があって運輸の便を得ることが難しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地味 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 真土であってその質が悪く、また粘りが少し。乾魚・油かす・ぬか・灰などの培養がなければ成熟しがたい。陸田ときどきひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 田：53町23歩&lt;br /&gt;
* 畑：400町7反22歩5厘&lt;br /&gt;
* 総計：453町7反1畝15歩5厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 飛地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本村の西の方、多磨郡神山村の内、畑（1町1反9畝13歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 字地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;栗原&#039;&#039;&#039;（くりはら）：本村の西南の方にあって、黒目川の上流に沿う。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;又六&#039;&#039;&#039;（またろく）：本村の西南の方にある。東西7町、南北3町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野寺&#039;&#039;&#039;（のでら）：本村の南の方にある。東西7町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;北の原&#039;&#039;&#039;（きたのはら）：本村の西北の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;堀の内&#039;&#039;&#039;（ほりのうち）：本村の北の方にある。東西7町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;辻&#039;&#039;&#039;（つじ）：同上。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原&#039;&#039;&#039;（にしのはら）：同上。東西3町、南北8町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大下&#039;&#039;&#039;（おほしも）：本村の東北の方にある。東西3町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬場&#039;&#039;&#039;（ばんば）：同上。東西3町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形&#039;&#039;&#039;（こまがた）：同上。東西4町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中の原&#039;&#039;&#039;（のなかのはら）：本村の東の方にある。東西9町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;池田&#039;&#039;&#039;（いけだ）：本村の東南の方にある。東西10町、南北7町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;前原&#039;&#039;&#039;（まへはら）：本村の南の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上中沢&#039;&#039;&#039;（かみなかさは）：同上。東西5町、南北4町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一両山（いちりゃうやま）、浅間（あさま）、坂上（さかうへ）、前通（まへとほり）、八石（はちこく）、貝沼（かひぬま）、根通（ねとほり）、殿山（とのやま）、上ノ原（うへのはら）、安才（あんざい）、道場（どうじゃう）、中通（なかとほり）、長町（ながちょう）、宮前（みやまへ）、原通（はらどうり）、宮坂（みやさか）、内畑（うちはたけ）、沢（さは）、下街道（しもかいどう）、芝山（しばやま）、畑中（はたけなか）、沼袋（ぬまふくろ）、天沼（あまぬま）、新塚（にひつか）などの名があって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貢租 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 地租：米246石3斗6升7合、金431円21銭7厘&lt;br /&gt;
* 賦金：金60円50銭&lt;br /&gt;
* 総計：米246石3斗5升7合、金496円65銭2厘&amp;lt;ref&amp;gt;いずれも計算が合わないが原文ママとする&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戸数 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本籍：371戸（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：3戸（平民）&lt;br /&gt;
* 社：14戸（村社5坐、平社9坐）&lt;br /&gt;
* 寺：4戸（浄土宗1宇、新義真言宗3宇）&lt;br /&gt;
* 堂：6戸&lt;br /&gt;
* 総計：398戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男：1045口（平民）&lt;br /&gt;
* 女：1021口（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：男6口、女8口&lt;br /&gt;
* 総計：2080口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 牛馬 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舟車 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 荷車：155両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 山川 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：深いところ5～6尺、浅いところ2尺、幅3間。水は清い。本村の西南の方、多磨郡神山村から来て、迂曲して東北の方、膝折村に入る（支流があってともに水田に注ぐ）。その間1里24町50間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：所沢道に属する。村の東北の方、黒目川の下流に架す。長さ50間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;樋の橋&#039;&#039;&#039;：村の西北の方、黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し東北の方、字辻にある。黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵橋&#039;&#039;&#039;：村の中央、少し東北の方、字馬場にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;坂下橋&#039;&#039;&#039;：字馬場にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新家橋&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬喰ヶ戸橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し西南の方、字貝沼にある。黒目川の上流に架す。長さ4間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の西南の方、栗原と前通の間、黒目川の上流に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;小橋&#039;&#039;&#039;：字栗原にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅6尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 森林 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中林&#039;&#039;&#039;：あるいは[[広沢原]]ともいう。民有に属する。東西9町、南北6町あまり。反別69町6反あまり。村の東方にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）の類が多い。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西3町・南北8町。反別40町3反あまり。村の北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;殿山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北3町。反別13町8反あまり。村の西北にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;一両山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北3町。反別8町あまり。村の西北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の北辺にあって、膝折村の境界から野火止村の境界に至る。長さわずか2町反あまり、幅4間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;所沢道&#039;&#039;&#039;：東京から入間郡所沢に達する道で、里俗に清戸道ともいう。東の方、小榑村との境界から西の方、野火止村との境界に至る。長さ23町あまりで、幅はおおむね3間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;掲示場&#039;&#039;&#039;：本村の中央、字長町にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神社 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[馬場氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西14間・南北5間・面積630坪。村の北の方、字宮前にある。素戔嗚尊を祭る。祭日9月11日。松・杉などの老樹がある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[武野神社|八幡社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西31間・南北35間・面積1088坪。村の南の方、丘上にある。誉田別尊を祭る。祭日8月1日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西16間・南北39間・面積622坪。村の東北の方、駒形にある。祭神未詳。また祭日も定まらず。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西22間・南北24間・面積536坪。村の西南の方にある。木花開耶姫命を祭る。祭日4月3日。承応二年癸巳3月4日、栗原義清という者が甲斐国八代郡にある浅間社をこの地に遷すという。また[[新編武蔵風土記稿]]に、地頭・木村氏が建立したと言い伝えるが、鎮座の年代は詳らかではない、とある。今、村吏の録申による。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西17間・南北35間・面積590坪。村の西の方、字前通にある。素戔嗚尊を祭る。祭日3月6日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;厳島社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北6間・面積51坪。村の西南の方、字栗原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;第六天社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北9間・面積70坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北25間・面積158坪。村の北の方、字堀の内の丘の上にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;白山社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北11間・面積64坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;八雲社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西13間・南北17間・面積218坪。村の中央、字安才にある。祭神未詳。祭日未定。明治二年己巳、法台寺境内からこの地に遷座した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北23間あまり・面積350坪。村の中央、字道場にある。祭神未詳。祭日未定。旧辻村にあった8坐を明治二年中にこの場所に合祀した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北5間・面積69坪。村の東北の方、字駒形にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北20間・面積240坪。村の南の方、字前原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 仏寺 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[法台寺]]&#039;&#039;&#039;：東西40間・南北57間・面積2288坪。浄土宗 東京芝増上寺の末派である。村の中央、字道場にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「当寺は昔、時宗の道場であって、遊行二世他阿真教上人の開基であるという。創建の年代は詳らかではない。上人は遊行16年で元応元年（1319年）正月27日、相州当麻山無量光寺において83才で示寂された。中興開山は普光観智国師である。国師は天文十三年、当国多磨郡由木村で生まれた。俗姓は由木氏。平山武者所季重の子孫、由木左衛門尉利重の次男である。十歳のとき、当寺に入って、蓮阿上人の弟子となるころまでは遊行僧であったが、国師十八歳のとき、鎮西派に改め、増上寺十世感誉在貞和尚の弟子となった。後、増上寺十二世の住持にうつり、元和六年（1620年）11月2日、75歳で示寂された。当寺、北条家分国のときは寄付の寺領も多かったが、御入国のはじめに召し上げられた。慶長年中、国師が乞うたために13石5斗の御朱印を賜り、今に至って変わらず」と載せている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[満行寺]]&#039;&#039;&#039;：東西24間・南北30間・面積716坪。新義真言宗。本国豊島郡石神井村三宝院の末派である。村の南の方、字野寺の崖下にある。開基・創建は詳らかではない。維新の際までは八幡社の別当である。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東福寺]]&#039;&#039;&#039;：東西26間・南北30間・面積773坪。新義真言宗であり、本寺は上に同じ。村の方、字畑中にある。開基・創建とも未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[蓮光寺]]&#039;&#039;&#039;：東西28間・南北32間・面積861坪。新義真言宗。本寺は上に同じ。村の中央、辻にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「開山法印重元、明徳三年の創建である。当寺は昔は村内氷川明神の別当であり、寺もその社地にあった。いつの頃にか今の地へ移り、別当職も原ヶ谷戸村円光院に譲ったという」と載っている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;観音堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北8間・面積68坪。村の西南の方、字栗原にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西9間あまり・南北9間・面積84坪。村の西の方、字根通にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西10間・南北21間・面積213坪。村の中央、字堀ノ内にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西7間・南北8間・面積52坪。村の中央、字内畑にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西5間・南北6間半あまり・面積33坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北16間・面積136坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 公立小学校：本村の中央にある。生徒　男68人、女29人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 村事務所 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 未だ設置せず。当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古跡 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新塚&#039;&#039;&#039;：高いこと1丈6～7尺で、周囲50間に余る。村の東の方、字新塚の原にある。由緒は詳らかではない。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「村の老人の説だが「もと二位塚とかいた。これは官女二位のしるしの塚である」といって二条の后のことを付会したものは妄説であって受け入れがたいことである」とある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;円光院廃跡&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。もとは氷川社の別当で、本村東福寺の末派であったが、明治八年、これを廃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 物産 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 米：462石&lt;br /&gt;
* 大麦：1750石&lt;br /&gt;
* 小麦：922石&lt;br /&gt;
* 大豆：479石&lt;br /&gt;
* 甘藷：37万8000斤&lt;br /&gt;
* 藍葉：800貫目&lt;br /&gt;
* 鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：1万5000斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
穀物は大麦以外は余嬴があって、他所に販売し、甘藷は概ね東京に輸出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 農耕を専らとする（ときに男は木こり・薪・焼炭、女は養蚕・紡織をなすものがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|かたやま]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8B%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%9D%91&amp;diff=345</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/下保谷村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8B%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%9D%91&amp;diff=345"/>
		<updated>2026-06-20T13:09:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の下保谷村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==下保谷村（しもほうや）==  本村のいにしえの郷・庄・領名とも神保谷村に同じ。  ===疆域=== 東は本郡小榑村と野道が境界となり、西南は本郡武蔵国新座郡村誌/…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[下保谷村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==下保谷村（しもほうや）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村のいにしえの郷・庄・領名とも[[武蔵国新座郡村誌/神保谷村|神保谷村]]に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は本郡[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑村]]と野道が境界となり、西南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上保谷村]]および多摩郡田無・南沢・前沢などの数村と隣り合い、北は多摩郡落合村および本郡[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]などに接する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字荒屋敷東境から）西（開発新田の西辺に至る）34町30間&lt;br /&gt;
*南（字新田の南端から）北（字宮の脇に至る）24町40間&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
*正保（1644年～1648年）のころは村高305石7斗8升あって、代官の支配である。&lt;br /&gt;
*寛文三年癸卯（1663年）、稲葉美濃守正則の提封とした。&lt;br /&gt;
*その子、正往の代に至り、天和三年癸亥（1683年）6月、移転して再び直管となった。&lt;br /&gt;
*維新の際、高864石5斗3升3合を[[武蔵知県事]]に属させる。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：本郡小榑村へ25町。片山村へ20町。多摩郡田無村へ1里。南澤村へ30町。前沢村へ1里。落合村へ20町。&lt;br /&gt;
*近傍：大和田町へ2里。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※掲示場から測る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*高燥で水脈なく、また稲田がない。運輸は便利でないが、森林が多いため薪・炭は余りがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*赤・黒。その質は美・悪が相半ばし、菽・麦および桑・茶・藍葉などに適する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*畑：238町2畝12歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;坊ヶ谷戸&#039;&#039;&#039;（ぼうがやと）：本村の北部にして、いにしえは貝谷戸と称したが、大泉坊がこの地にあったためこの称があるという。東西2町、南北7町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;入&#039;&#039;&#039;（いり）：本村の西北部にある。いにしえは清戸道の東に曲り松という古木があった。その枝が路から西に差し出たため、枝入を誤って入と称したという。東西5町10間、南北11町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;松之木&#039;&#039;&#039;（まつのき）：村の中央部にある。清戸路の東に曲がった松があったためこの称があるという。東西5町30間、南北5町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上&#039;&#039;&#039;（かみ）：本村正北部にある。いにしえ、神の字を用いていた。この字地に三十番神があるためであるという。東西3町10間、南北7町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;宮の脇&#039;&#039;&#039;（みやのわき）：本村東北部にある。これもまた天満宮の辺りを称する。東西1町40間、南北6町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;荒屋敷&#039;&#039;&#039;（あらやしき）：本村東部にある。北部の人民はいにしえ草萊&amp;lt;ref&amp;gt;草萊（そうらい）：雑草の茂った土地。&amp;lt;/ref&amp;gt;を開き、天和のころ（1681年～1684年）はじめて宅地を構えたためこの称があるという。東西4町15間、南北14町50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;新田&#039;&#039;&#039;（しんでん）：本村南部の総称で、荒屋敷と同じく宝永七年（1710年）中に開発したためである。この台をもと天神山という。これはいにしえ氏神天満宮の古祠を移したためである。天神山と称し、四隣に知らざる者はないという。東西5町30間、南北11町10間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：金284円45銭1厘&lt;br /&gt;
*賦金：金31円50銭&lt;br /&gt;
*総計：金311円95銭1厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：121戸（平民）&lt;br /&gt;
*寄留：1戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：3戸（村社1坐、平社2坐）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（日蓮宗）&lt;br /&gt;
*総計：126戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：346口&lt;br /&gt;
*女：352口&lt;br /&gt;
*総計：698口&lt;br /&gt;
*他、出寄留6人（うち、男3人、女3人）外寄留10人（うち、男5人、女5人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：4頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：56両（67中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;悪水路&#039;&#039;：村の西の方、上保谷村から来て、中央を貫流して東の方、小榑村に入る。その間14町45間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：土地の人は開発の林と称する。民有地である。東西10町・南北20町。反別50町あまり。本村の西端にある。コナラが多くときどき檞（カシワ）の木がある。大樹はなく、ところどころに痩松が生えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[大泉坊ヶ池]]&#039;&#039;&#039;：村の中央、字坊ヶ谷戸にある。深いところ1丈、東西5間、南北16間。村民蓮見某の所有地である。いにしえ、今の小榑村[[大乗院]]を大泉坊と称し、この辺にあったためにこの称がある。今、土地の人が誤って「どをせん坊ヶ池」と称している。毎年3月、ヒキガエルが数万集まって交合し、夜間人の往来を妨げるに至るがゆえに蟇ヶ池とも唱えるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;村路&#039;&#039;&#039;：清戸道という。南の方、豊島郡関村から北の方、本郡片山村に至る。その間30町、幅2間半。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;掲示場&#039;&#039;&#039;：本村中央にある。昔は上保谷村と一つであったが、宝暦四年（1754）に今のところに移した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[下保谷天神社|天神社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西30間・南北50間・面積150坪。本村の東北部にある。いにしえ菅原道真を祭っていた。後、祠廟が大破し、天正のころ、日蓮宗に改宗のとき、三十番神を勧請した。後、また衰破したのを、元文元年、妙覚寺の日近という者が修造した。明治元年、神仏混淆廃止の際、また天神社と称する。祭日9月20日。境内に大樹が茂っていたが、明治元年に伐採して、ただ松・椵（モミ）の大株があるのみ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北6間・面積90坪あまり。本村の東南、字新田にある。倉稲魂命を祭る。祭日2月12日。勧請年月未詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西7間・南北20間・面積140坪あまり。本村の北、字荒屋敷にある。祭神・祭日は上に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[福泉寺]]&#039;&#039;&#039;：東西25間・南北20間。小榑村日蓮宗[[妙福寺]]の末派である。村の東方にある。天正四年2月26日、北越の人、日眼が創立。そのとき、蓮蔵坊と称する。改称の年暦未詳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：本村の中央にある。生徒　男40人、女15人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*字坊ヶ谷戸にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;経塚&#039;&#039;&#039;：高朝1丈、周囲10間。荒屋ア式の中央にある。土地の人が言うには、本村は元真言宗だったが、ことごとく改宗したとき、その仏具をこの塚に埋めたという。年暦は詳らかではない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;鷹野陣屋&#039;&#039;&#039;：東西20間、南北15間。村民・蓮見某の所有地にある。徳川氏のころ、名古屋侯（尾張徳川家）が鷹狩りのときは小憩所とし、臣下に毎年交番させた。元和年中（1615年～1624年）の創建であったが、明治元年に至り、廃止した。今、学校のあるところがこれである。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;内匠ヶ原&#039;&#039;&#039;：民有地であり、東方十町にある。もとはこの地一円は萱の原であったが、寛文年中（1661年～1673年）、三十番神の神官・本橋内匠がこの地を開いた。よってこの称がある。内匠はもと大坂の浪士であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*岡穂米：88石7斗&lt;br /&gt;
*大麦：716石3斗&lt;br /&gt;
*小麦：372石3斗&lt;br /&gt;
*大豆：189石あまり&lt;br /&gt;
*小豆：5石&lt;br /&gt;
*ソバ：189石5斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菽・麦は余嬴があって、藍葉とともに東京もしくは入間郡所沢辺に輸出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女おおむね農を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|しもほうや]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%9D%91&amp;diff=344</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/上保谷村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%9D%91&amp;diff=344"/>
		<updated>2026-06-20T12:38:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[上保谷村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 上保谷村（かみほうや） ==&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[栗原郷]]（『[[新編武蔵風土記稿]]』には[[新倉郷]]に属するという。今、吏胥の録上による）、[[広沢庄]][[野方領]]に属する。本村の内に持添い新田があったが、天保六未年（1831年）三月分かれてまったく別村となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 疆域 ===&lt;br /&gt;
東は豊島郡関村および本郡[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑村]]と野道をもって境界とし、南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷新田|上保谷新田]]および多摩郡関前村・西久保村に連なり、西は多摩郡田無村に接し、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷村]]・[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]との境界があぜとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幅員 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東（字一里塚から）西（字柳沢に至る）30町&lt;br /&gt;
* 南（字上柳沢から）北（字又六に至る）1里6町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管轄沿革 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の関東総領の後、&lt;br /&gt;
* 正保（1644年～1648年）のはじめから代官の支配である。&lt;br /&gt;
* 慶安四年（1651年）検地で高568石5升2合ある。&lt;br /&gt;
* 寛文年中（1661年～1673年）、稲葉美濃守の領地とする。&lt;br /&gt;
* 貞享二年（1685年）、また代官の支配となる。&lt;br /&gt;
* 天保六年（1835年）、総高1522石6斗9升7合のうち、183石4斗1升合を新田に分割した。&lt;br /&gt;
* 徳川氏の末に至って代官松村忠四郎が支配した。&lt;br /&gt;
* 維新の後、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 里程 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 熊谷県庁より南少し東15里。&lt;br /&gt;
* 四隣：豊島郡関村へ1里5町。下保谷村へ14町。多摩郡田無村へ12町。同郡西久保村1里6町。関前村へ1里。本郡下保谷村へ14町。片山村へ1里。上保谷新田へ30町（元標は村の中央、字苗木山にある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地勢 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 高燥、平坦である。運輸は便利ではないが、薪・炭も乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地味 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 色は黒・赤が交じり、その室は小麦および藍に適している。水利の便を得ないため、ときどき旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 田：7反5畝&lt;br /&gt;
* 畑：353町6反8畝5歩&lt;br /&gt;
* 総計：354町1反3畝5歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 字地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上柳沢&#039;&#039;&#039;（かみやぎさは）：村の南の方にある。東西43間、南北17間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;坂上&#039;&#039;&#039;（さかうへ）：上八木沢の東に連なる。東西33間、南北11間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;下野谷&#039;&#039;&#039;（したのや）：坂上の北に連なる。東西35間、南北12間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;柳沢&#039;&#039;&#039;（やぎさは）：下野谷の西に連なる。東西31間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;千駄山&#039;&#039;&#039;（せんだやま）：柳沢の東に連なる。東西24間、南北27間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;下柳沢&#039;&#039;&#039;（しもやぎさは）：千駄山の東に連なる。東西32間、南北22間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;高塚&#039;&#039;&#039;（たかつか）：下柳沢の北に連なる。東西25間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;一里塚&#039;&#039;&#039;（いちりづか）：高塚の北に連なる。東西29間、南北14間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;関道&#039;&#039;&#039;（せきみち）：一里塚の西に連なる。東西24間、南北22間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;桶久保&#039;&#039;&#039;（をけくぼ）：関道の東南に連なる。東西21間、南北25間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;立野&#039;&#039;&#039;（たての）：桶久保の西に連なる。東西17間、南北35間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;平松&#039;&#039;&#039;（ひらまつ）：立野の北に連なる。東西26間、南北15間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西浦&#039;&#039;&#039;（にしうら）：平松の西に連なる。東西19間、南北47間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上宿&#039;&#039;&#039;（かみしゅく）：西浦の北に連なる。東西30間、南北40間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大門&#039;&#039;&#039;（だいもん）：上宿の東に連なる。東西19間、南北31間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;荒井竹&#039;&#039;&#039;（あらゐたけ）：大門の東に連なる。東西18間、南北25間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;苗木山&#039;&#039;&#039;（なえきやま）：荒井竹の東南に連なる。東西24間、南北26間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;鳥久保&#039;&#039;&#039;（とりくぼ）：苗木山の東に連なる。東西36間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;天神山&#039;&#039;&#039;（てんじんやま）：鳥久保の北に連なる。東西20間、南北15間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;三軒屋&#039;&#039;&#039;（さんげんや）：天神山の北に連なる。東西24間、南北18間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;山合&#039;&#039;&#039;（やまあひ）：三軒屋の西北に連なる。東西35間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;入道&#039;&#039;&#039;（いりみち）：山合から西北に連なる。東西16間、南北35間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;又六&#039;&#039;&#039;（またろく）：入道の西に連なる。東西16間、南北55間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貢租 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 地租：米1石8斗4升9合、金470円44銭1厘&lt;br /&gt;
* 賦金：金100円75銭&lt;br /&gt;
* 総計：米1石8斗4升9合、金571円19銭1厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戸数 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本籍：243戸（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：3戸（平民）&lt;br /&gt;
* 社：3戸（村社1坐、平社2坐）&lt;br /&gt;
* 寺：4戸（真言宗3宇、曹洞宗1宇）&lt;br /&gt;
* 総計：253戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男：849口（平民）&lt;br /&gt;
* 女：799口（平民）&lt;br /&gt;
* 総計：1648口（寄留男6口（平民）女5口（同上）を含む）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 牛馬 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 牡馬：5頭&lt;br /&gt;
* 牝馬：3頭&lt;br /&gt;
* 総計：8頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舟車 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 荷車：76両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 山川 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;柳沢用水&#039;&#039;：幅2間で西の方は多摩郡田無村から来て、東の方は豊島郡関村に入る。その間、15町38間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;荒井用水&#039;&#039;&#039;：幅3尺。玉川上水の分水であって、明治四未年8月中に開鑿したものである。西方は多摩郡田無村から来て、豊島郡関村に入る。その間25町56間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 森林 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：旧来野と称し、民有に属する。反別あわせて21町1反8畝1歩。その他、反別8反歩から多くない箇所が数か所に点在しているため細かく分けない。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：反別2反7歩く。官有に属する。これも五か所にあり、細かく分けない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[青梅街道]]&#039;&#039;&#039;：村の南にある。豊島郡関村から多摩郡田無村に至る。その間の長さ14町6間、幅6間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神社 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[尉殿神社|尉殿社]]&#039;&#039;&#039;： 村社。社地は東西24間・南北40間・面積960坪。村の北の方にある。級長戸辺の命を祭る。祭日9月22日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;榛名社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西20間・南北22間3尺・面積450坪。村の東南にある。祭神未詳。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;神明社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北20間・面積300坪。村の東にある。祭神未詳。祭日2月初午の日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 仏寺 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[如意輪寺]]&#039;&#039;&#039;：東西50間・南北30間2尺・面積1516坪。新義真言宗。豊島郡石神井村三宝寺の末派である。開基・創建未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[宝光院]]&#039;&#039;&#039;：東西26間・南北14間・面積364坪。同宗。同郡同寺の末派である。村の西北の方にある。開基・創建不詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[宝樹院]]&#039;&#039;&#039;：東西24間・南北15間・面積360坪。同宗。同郡同寺の末派である。村の西北の方にある。開基・創建未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東禅寺]]&#039;&#039;&#039;：東西35間・南北31間・面積1085坪。曹洞宗。多摩郡前沢村浄福院の末派である。村の北の方にある。開山は本山十三世蘭室芳大和尚（寛文十一年4月17日示寂）。開基は弥祝祥高居士、俗称・保谷出雲守直政（元和七年辛酉2月6日卒）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 公立小学校：本村の中央から少し北にある。生徒90人、男64人、女26人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 村事務所 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 物産 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 米：39石&lt;br /&gt;
* 大麦：150石&lt;br /&gt;
* 小麦：200石&lt;br /&gt;
* 大豆：57石6斗&lt;br /&gt;
* 小豆：30石&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他甘藷などを産する。多いため近隣に販売する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男女農業を専らとする&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|かみほうや]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%91&amp;diff=343</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/片山村</title>
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		<updated>2026-06-20T12:38:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[片山村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 片山村（かたやま） ==&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[片山郷]][[野方領]]に属し、片山村と称したが、元禄のころには分けて10村（野寺、中沢、石神、十二天、原ヶ谷戸、栗原、下中沢、堀之内、辻、下）となり（正保改定の郡図では片山の一村であって、元禄の図には10村に分かれている）後、また十二村（下片山村・上片山村あるいは下中沢村ともいう（ともに羽田某の采地）・原ヶ谷戸村（桜井某の采地）辻村・堀之内村・石神村（以上代官の支配）栗原村・下栗原村あるいは十二天村という（ともに木村某の采地）野寺村（小野某の采地）中沢村・十二天村・栗原村（以上米津氏の堤封に係る））となった年暦は明らかではない。おそらく、当時の領主地主などの便宜により分称したものであろう。それでもなお、古名が残っていて、片山の二字を冠書して、片山石神村、片山堀之内村などという）。維新の後、明治八年（1875年）4月に至って合一して片山村の古称に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 疆域 ===&lt;br /&gt;
東南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡]]・[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑]]と[[広沢原]]の深林を接し、正南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上]]・[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷]]の二村と林丘あるいは陸田のあぜで境界となり、西は多摩郡落合・神山および本郡[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]などの諸村と連なり、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]・[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]の二村との境界に[[川越街道]]と[[黒目川]]あるいは水陸田のあぜがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幅員 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東（字野中の原から）西（字北原に至る）27町&lt;br /&gt;
* 南（字亦六から）北（字西の原に至る）1里13町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管轄沿革 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
* 正保（1644年～1648年）のころは村高1232石あって、その300石を代官の支配とし、余りは旗下の士に賜った。各100石を桜井庄之助・神谷与十郎、250石を田中市郎右衛門、各50石を荒井又六郎・小野久内、200石を木村伊右衛門、150石を柘植甚八郎らの采地とし、30石を米津内蔵助（のち出羽守）の領邑とした。後、神谷・田中・荒川・柘植らの収采のことは明らかではない。&lt;br /&gt;
* 寛文・延宝（1661年～1681年）から宝永・正徳（1704年～1716年）のころ、代官・領主らがそれぞれ検地して、ついに1473石5斗9升9合となる。このときには、577石3斗1升を代官支配し、99石5斗8升5合小野久内、159石7斗4合を桜井庄之助、200石を木村鎮太郎、305石を羽田槌太郎らの治めるところとし、141石を米津氏の堤封とし、それぞれ世襲した。&lt;br /&gt;
* 維新のはじめに至り、旗下の采地をことごとく治めて代官松村忠四郎の支配下に属し、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。米津氏の領地は同じく6月、[[龍ケ崎藩]]となる。そして改めて県と称する。&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）11月、両県（品川・龍ケ崎）を廃して[[入間県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 里程 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
* 四隣：本郡膝折村（元標）へ23町。小榑村（元標）へ27町。野火止村（中央）へ30町。多磨郡山村との境界へ23町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地勢 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 林と丘が対峙して、西南から東北に連なり渡っている。その間はやや平衍。黒目川がこれを貫く。薪・炭に富むけれども、高低があって運輸の便を得ることが難しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地味 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 真土であってその質が悪く、また粘りが少し。乾魚・油かす・ぬか・灰などの培養がなければ成熟しがたい。陸田ときどきひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 田：53町23歩&lt;br /&gt;
* 畑：400町7反22歩5厘&lt;br /&gt;
* 総計：453町7反1畝15歩5厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 飛地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本村の西の方、多磨郡神山村の内、畑（1町1反9畝13歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 字地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;栗原&#039;&#039;&#039;（くりはら）：本村の西南の方にあって、黒目川の上流に沿う。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;又六&#039;&#039;&#039;（またろく）：本村の西南の方にある。東西7町、南北3町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野寺&#039;&#039;&#039;（のでら）：本村の南の方にある。東西7町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;北の原&#039;&#039;&#039;（きたのはら）：本村の西北の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;堀の内&#039;&#039;&#039;（ほりのうち）：本村の北の方にある。東西7町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;辻&#039;&#039;&#039;（つじ）：同上。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原&#039;&#039;&#039;（にしのはら）：同上。東西3町、南北8町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大下&#039;&#039;&#039;（おほしも）：本村の東北の方にある。東西3町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬場&#039;&#039;&#039;（ばんば）：同上。東西3町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形&#039;&#039;&#039;（こまがた）：同上。東西4町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中の原&#039;&#039;&#039;（のなかのはら）：本村の東の方にある。東西9町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;池田&#039;&#039;&#039;（いけだ）：本村の東南の方にある。東西10町、南北7町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;前原&#039;&#039;&#039;（まへはら）：本村の南の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上中沢&#039;&#039;&#039;（かみなかさは）：同上。東西5町、南北4町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一両山（いちりゃうやま）、浅間（あさま）、坂上（さかうへ）、前通（まへとほり）、八石（はちこく）、貝沼（かひぬま）、根通（ねとほり）、殿山（とのやま）、上ノ原（うへのはら）、安才（あんざい）、道場（どうじゃう）、中通（なかとほり）、長町（ながちょう）、宮前（みやまへ）、原通（はらどうり）、宮坂（みやさか）、内畑（うちはたけ）、沢（さは）、下街道（しもかいどう）、芝山（しばやま）、畑中（はたけなか）、沼袋（ぬまふくろ）、天沼（あまぬま）、新塚（にひつか）などの名があって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貢租 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 地租：米246石3斗6升7合、金431円21銭7厘&lt;br /&gt;
* 賦金：金60円50銭&lt;br /&gt;
* 総計：米246石3斗5升7合、金496円65銭2厘&amp;lt;ref&amp;gt;いずれも計算が合わないが原文ママとする&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戸数 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本籍：371戸（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：3戸（平民）&lt;br /&gt;
* 社：14戸（村社5坐、平社9坐）&lt;br /&gt;
* 寺：4戸（浄土宗1宇、新義真言宗3宇）&lt;br /&gt;
* 堂：6戸&lt;br /&gt;
* 総計：398戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男：1045口（平民）&lt;br /&gt;
* 女：1021口（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：男6口、女8口&lt;br /&gt;
* 総計：2080口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 牛馬 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舟車 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 荷車：155両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 山川 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：深いところ5～6尺、浅いところ2尺、幅3間。水は清い。本村の西南の方、多磨郡神山村から来て、迂曲して東北の方、膝折村に入る（支流があってともに水田に注ぐ）。その間1里24町50間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：所沢道に属する。村の東北の方、黒目川の下流に架す。長さ50間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;樋の橋&#039;&#039;&#039;：村の西北の方、黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し東北の方、字辻にある。黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵橋&#039;&#039;&#039;：村の中央、少し東北の方、字馬場にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;坂下橋&#039;&#039;&#039;：字馬場にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新家橋&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬喰ヶ戸橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し西南の方、字貝沼にある。黒目川の上流に架す。長さ4間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の西南の方、栗原と前通の間、黒目川の上流に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;小橋&#039;&#039;&#039;：字栗原にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅6尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 森林 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中林&#039;&#039;&#039;：あるいは[[広沢原]]ともいう。民有に属する。東西9町、南北6町あまり。反別69町6反あまり。村の東方にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）の類が多い。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西3町・南北8町。反別40町3反あまり。村の北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;殿山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北3町。反別13町8反あまり。村の西北にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;一両山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北3町。反別8町あまり。村の西北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の北辺にあって、膝折村の境界から野火止村の境界に至る。長さわずか2町反あまり、幅4間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;所沢道&#039;&#039;&#039;：東京から入間郡所沢に達する道で、里俗に清戸道ともいう。東の方、小榑村との境界から西の方、野火止村との境界に至る。長さ23町あまりで、幅はおおむね3間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;掲示場&#039;&#039;&#039;：本村の中央、字長町にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神社 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[馬場氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西14間・南北5間・面積630坪。村の北の方、字宮前にある。素戔嗚尊を祭る。祭日9月11日。松・杉などの老樹がある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[武野神社|八幡社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西31間・南北35間・面積1088坪。村の南の方、丘上にある。誉田別尊を祭る。祭日8月1日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西16間・南北39間・面積622坪。村の東北の方、駒形にある。祭神未詳。また祭日も定まらず。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西22間・南北24間・面積536坪。村の西南の方にある。木花開耶姫命を祭る。祭日4月3日。承応二年癸巳3月4日、栗原義清という者が甲斐国八代郡にある浅間社をこの地に遷すという。また[[新編武蔵風土記稿]]に、地頭・木村氏が建立したと言い伝えるが、鎮座の年代は詳らかではない、とある。今、村吏の録申による。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西17間・南北35間・面積590坪。村の西の方、字前通にある。素戔嗚尊を祭る。祭日3月6日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;厳島社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北6間・面積51坪。村の西南の方、字栗原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;第六天社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北9間・面積70坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北25間・面積158坪。村の北の方、字堀の内の丘の上にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;白山社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北11間・面積64坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;八雲社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西13間・南北17間・面積218坪。村の中央、字安才にある。祭神未詳。祭日未定。明治二年己巳、法台寺境内からこの地に遷座した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北23間あまり・面積350坪。村の中央、字道場にある。祭神未詳。祭日未定。旧辻村にあった8坐を明治二年中にこの場所に合祀した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北5間・面積69坪。村の東北の方、字駒形にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北20間・面積240坪。村の南の方、字前原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 仏寺 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[法台寺]]&#039;&#039;&#039;：東西40間・南北57間・面積2288坪。浄土宗 東京芝増上寺の末派である。村の中央、字道場にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「当寺は昔、時宗の道場であって、遊行二世他阿真教上人の開基であるという。創建の年代は詳らかではない。上人は遊行16年で元応元年（1319年）正月27日、相州当麻山無量光寺において83才で示寂された。中興開山は普光観智国師である。国師は天文十三年、当国多磨郡由木村で生まれた。俗姓は由木氏。平山武者所季重の子孫、由木左衛門尉利重の次男である。十歳のとき、当寺に入って、蓮阿上人の弟子となるころまでは遊行僧であったが、国師十八歳のとき、鎮西派に改め、増上寺十世感誉在貞和尚の弟子となった。後、増上寺十二世の住持にうつり、元和六年（1620年）11月2日、75歳で示寂された。当寺、北条家分国のときは寄付の寺領も多かったが、御入国のはじめに召し上げられた。慶長年中、国師が乞うたために13石5斗の御朱印を賜り、今に至って変わらず」と載せている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[満行寺]]&#039;&#039;&#039;：東西24間・南北30間・面積716坪。新義真言宗。本国豊島郡石神井村三宝院の末派である。村の南の方、字野寺の崖下にある。開基・創建は詳らかではない。維新の際までは八幡社の別当である。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東福寺]]&#039;&#039;&#039;：東西26間・南北30間・面積773坪。新義真言宗であり、本寺は上に同じ。村の方、字畑中にある。開基・創建とも未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[蓮光寺]]&#039;&#039;&#039;：東西28間・南北32間・面積861坪。新義真言宗。本寺は上に同じ。村の中央、辻にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「開山法印重元、明徳三年の創建である。当寺は昔は村内氷川明神の別当であり、寺もその社地にあった。いつの頃にか今の地へ移り、別当職も原ヶ谷戸村円光院に譲ったという」と載っている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;観音堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北8間・面積68坪。村の西南の方、字栗原にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西9間あまり・南北9間・面積84坪。村の西の方、字根通にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西10間・南北21間・面積213坪。村の中央、字堀ノ内にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西7間・南北8間・面積52坪。村の中央、字内畑にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西5間・南北6間半あまり・面積33坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北16間・面積136坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 公立小学校：本村の中央にある。生徒　男68人、女29人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 村事務所 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 未だ設置せず。当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古跡 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新塚&#039;&#039;&#039;：高いこと1丈6～7尺で、周囲50間に余る。村の東野方、字新塚の原にある。由緒は詳らかではない。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「村の老人の説だが「もと二位塚とかいた。これは官女二位のしるしの塚である」といって二条の后のことを付会したものは妄説であって受け入れがたいことである」とある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;円光院廃跡&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。もとは氷川社の別当で、本村東福寺の末派であったが、明治八年、これを廃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 物産 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 米：462石&lt;br /&gt;
* 大麦：1750石&lt;br /&gt;
* 小麦：922石&lt;br /&gt;
* 大豆：479石&lt;br /&gt;
* 甘藷：37万8000斤&lt;br /&gt;
* 藍葉：800貫目&lt;br /&gt;
* 鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：1万5000斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
穀物は大麦以外は余嬴があって、他所に販売し、甘藷は概ね東京に輸出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 農耕を専らとする（ときに男は木こり・薪・焼炭、女は養蚕・紡織をなすものがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|かたやま]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%91&amp;diff=342</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/片山村</title>
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		<updated>2026-06-20T12:37:48Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 字地 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[片山村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 片山村（かたやま） ==&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[片山郷]][[野方領]]に属し、片山村と称したが、元禄のころには分けて10村（野寺、中沢、石神、十二天、原ヶ谷戸、栗原、下中沢、堀之内、辻、下）となり（正保改定の郡図では片山の一村であって、元禄の図には10村に分かれている）後、また十二村（下片山村・上片山村あるいは下中沢村ともいう（ともに羽田某の采地）・原ヶ谷戸村（桜井某の采地）辻村・堀之内村・石神村（以上代官の支配）栗原村・下栗原村あるいは十二天村という（ともに木村某の采地）野寺村（小野某の采地）中沢村・十二天村・栗原村（以上米津氏の堤封に係る））となった年暦は明らかではない。おそらく、当時の領主地主などの便宜により分称したものであろう。それでもなお、古名が残っていて、片山の二字を冠書して、片山石神村、片山堀之内村などという）。維新の後、明治八年（1875年）4月に至って合一して片山村の古称に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 疆域 ===&lt;br /&gt;
東南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡]]・[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑]]と[[広沢原]]の深林を接し、正南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上]]・[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷]]の二村と林丘あるいは陸田のあぜで境界となり、西は多摩郡落合・神山および本郡[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]などの諸村と連なり、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]・[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]の二村との境界に[[川越街道]]と[[黒目川]]あるいは水陸田のあぜがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幅員 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東（字野中の原から）西（字北原に至る）27町&lt;br /&gt;
* 南（字亦六から）北（字西の原に至る）1里13町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管轄沿革 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
* 正保（1644年～1648年）のころは村高1232石あって、その300石を代官の支配とし、余りは旗下の士に賜った。各100石を桜井庄之助・神谷与十郎、250石を田中市郎右衛門、各50石を荒井又六郎・小野久内、200石を木村伊右衛門、150石を柘植甚八郎らの采地とし、30石を米津内蔵助（のち出羽守）の領邑とした。後、神谷・田中・荒川・柘植らの収采のことは明らかではない。&lt;br /&gt;
* 寛文・延宝（1661年～1681年）から宝永・正徳（1704年～1716年）のころ、代官・領主らがそれぞれ検地して、ついに1473石5斗9升9合となる。このときには、577石3斗1升を代官支配し、99石5斗8升5合小野久内、159石7斗4合を桜井庄之助、200石を木村鎮太郎、305石を羽田槌太郎らの治めるところとし、141石を米津氏の堤封とし、それぞれ世襲した。&lt;br /&gt;
* 維新のはじめに至り、旗下の采地をことごとく治めて代官松村忠四郎の支配下に属し、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。米津氏の領地は同じく6月、[[龍ケ崎藩]]となる。そして改めて県と称する。&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）11月、両県（品川・龍ケ崎）を廃して[[入間県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 里程 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
* 四隣：本郡膝折村（元標）へ23町。小榑村（元標）へ27町。野火止村（中央）へ30町。多磨郡山村との境界へ23町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地勢 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 林と丘が対峙して、西南から東北に連なり渡っている。その間はやや平衍。黒目川がこれを貫く。薪・炭に富むけれども、高低があって運輸の便を得ることが難しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地味 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 真土であってその質が悪く、また粘りが少し。乾魚・油かす・ぬか・灰などの培養がなければ成熟しがたい。陸田ときどきひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 田：53町23歩&lt;br /&gt;
* 畑：400町7反22歩5厘&lt;br /&gt;
* 総計：453町7反1畝15歩5厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 飛地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本村の西の方、多磨郡神山村の内、畑（1町1反9畝13歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 字地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;栗原&#039;&#039;&#039;（くりはら）：本村の西南の方にあって、黒目川の上流に沿う。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;又六&#039;&#039;&#039;（またろく）：本村の西南の方にある。東西7町、南北3町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野寺&#039;&#039;&#039;（のでら）：本村の南の方にある。東西7町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;北の原&#039;&#039;&#039;（きたのはら）：本村の西北の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;堀の内&#039;&#039;&#039;（ほりのうち）：本村の北の方にある。東西7町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;辻&#039;&#039;&#039;（つじ）：同上。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原&#039;&#039;&#039;（にしのはら）：同上。東西3町、南北8町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大下&#039;&#039;&#039;（おほしも）：本村の東北の方にある。東西3町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬場&#039;&#039;&#039;（ばんば）：同上。東西3町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形&#039;&#039;&#039;（こまがた）：同上。東西4町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中の原&#039;&#039;&#039;（のなかのはら）：本村の東の方にある。東西9町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;池田&#039;&#039;&#039;（いけだ）：本村の東南の方にある。東西10町、南北7町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;前原&#039;&#039;&#039;（まへはら）：本村の南の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上中沢&#039;&#039;&#039;（かみなかさは）：同上。東西5町、南北4町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一両山（いちりゃうやま）、浅間（あさま）、坂上（さかうへ）、前通（まへとほり）、八石（はちこく）、貝沼（かひぬま）、根通（ねとほり）、殿山（とのやま）、上ノ原（うへのはら）、安才（あんざい）、道場（どうじゃう）、中通（なかとほり）、長町（ながちょう）、宮前（みやまへ）、原通（はらどうり）、宮坂（みやさか）、内畑（うちはたけ）、沢（さは）、下街道（しもかいどう）、芝山（しばやま）、畑中（はたけなか）、沼袋（ぬまふくろ）、天沼（あまぬま）、新塚（にひつか）などの名があって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貢租 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 地租：米246石3斗6升7合、金431円21銭7厘&lt;br /&gt;
* 賦金：金60円50銭&lt;br /&gt;
* 総計：米246石3斗5升7合、金496円65銭2厘&amp;lt;ref&amp;gt;いずれも計算が合わないが原文ママとする&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戸数 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本籍：371戸（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：3戸（平民）&lt;br /&gt;
* 社：14戸（村社5坐、平社9坐）&lt;br /&gt;
* 寺：4戸（浄土宗1宇、新義真言宗3宇）&lt;br /&gt;
* 堂：6戸&lt;br /&gt;
* 総計：398戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男：1045口（平民）&lt;br /&gt;
* 女：1021口（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：男6口、女8口&lt;br /&gt;
* 総計：2080口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 牛馬 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舟車 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 荷車：155両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 山川 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：深いところ5～6尺、浅いところ2尺、幅3間。水は清い。本村の西南の方、多磨郡神山村から来て、迂曲して東北の方、膝折村に入る（支流があってともに水田に注ぐ）。その間1里24町50間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：所沢道に属する。村の東北の方、黒目川の下流に架す。長さ50間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;樋の橋&#039;&#039;&#039;：村の西北の方、黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し東北の方、字辻にある。黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵橋&#039;&#039;&#039;：村の中央、少し東北の方、字馬場にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;坂下橋&#039;&#039;&#039;：字馬場にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新家橋&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬喰ヶ戸橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し西南の方、字貝沼にある。黒目川の上流に架す。長さ4間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の西南の方、栗原と前通の間、黒目川の上流に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;小橋&#039;&#039;&#039;：字栗原にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅6尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 森林 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中林&#039;&#039;&#039;：あるいは[[広沢原]]ともいう。民有に属する。東西9町、南北6町あまり。反別69町6反あまり。村の東方にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）の類が多い。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西3町・南北8町。反別40町3反あまり。村の北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;殿山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北3町。反別13町8反あまり。村の西北にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;一両山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北3町。反別8町あまり。村の西北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の北辺にあって、膝折村の境界から野火止村の境界に至る。長さわずか2町反あまり、幅4間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;所沢道&#039;&#039;&#039;：東京から入間郡所沢に達する道で、里俗に清戸道ともいう。東野方、小榑村との境界から西の方、野火止村との境界に至る。長さ23町あまりで、幅はおおむね3間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;掲示場&#039;&#039;&#039;：本村の中央、字長町にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神社 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[馬場氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西14間・南北5間・面積630坪。村の北の方、字宮前にある。素戔嗚尊を祭る。祭日9月11日。松・杉などの老樹がある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[武野神社|八幡社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西31間・南北35間・面積1088坪。村の南の方、丘上にある。誉田別尊を祭る。祭日8月1日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西16間・南北39間・面積622坪。村の東北の方、駒形にある。祭神未詳。また祭日も定まらず。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西22間・南北24間・面積536坪。村の西南の方にある。木花開耶姫命を祭る。祭日4月3日。承応二年癸巳3月4日、栗原義清という者が甲斐国八代郡にある浅間社をこの地に遷すという。また[[新編武蔵風土記稿]]に、地頭・木村氏が建立したと言い伝えるが、鎮座の年代は詳らかではない、とある。今、村吏の録申による。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西17間・南北35間・面積590坪。村の西の方、字前通にある。素戔嗚尊を祭る。祭日3月6日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;厳島社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北6間・面積51坪。村の西南の方、字栗原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;第六天社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北9間・面積70坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北25間・面積158坪。村の北の方、字堀の内の丘の上にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;白山社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北11間・面積64坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;八雲社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西13間・南北17間・面積218坪。村の中央、字安才にある。祭神未詳。祭日未定。明治二年己巳、法台寺境内からこの地に遷座した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北23間あまり・面積350坪。村の中央、字道場にある。祭神未詳。祭日未定。旧辻村にあった8坐を明治二年中にこの場所に合祀した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北5間・面積69坪。村の東北の方、字駒形にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北20間・面積240坪。村の南の方、字前原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 仏寺 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[法台寺]]&#039;&#039;&#039;：東西40間・南北57間・面積2288坪。浄土宗 東京芝増上寺の末派である。村の中央、字道場にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「当寺は昔、時宗の道場であって、遊行二世他阿真教上人の開基であるという。創建の年代は詳らかではない。上人は遊行16年で元応元年（1319年）正月27日、相州当麻山無量光寺において83才で示寂された。中興開山は普光観智国師である。国師は天文十三年、当国多磨郡由木村で生まれた。俗姓は由木氏。平山武者所季重の子孫、由木左衛門尉利重の次男である。十歳のとき、当寺に入って、蓮阿上人の弟子となるころまでは遊行僧であったが、国師十八歳のとき、鎮西派に改め、増上寺十世感誉在貞和尚の弟子となった。後、増上寺十二世の住持にうつり、元和六年（1620年）11月2日、75歳で示寂された。当寺、北条家分国のときは寄付の寺領も多かったが、御入国のはじめに召し上げられた。慶長年中、国師が乞うたために13石5斗の御朱印を賜り、今に至って変わらず」と載せている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[満行寺]]&#039;&#039;&#039;：東西24間・南北30間・面積716坪。新義真言宗。本国豊島郡石神井村三宝院の末派である。村の南の方、字野寺の崖下にある。開基・創建は詳らかではない。維新の際までは八幡社の別当である。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東福寺]]&#039;&#039;&#039;：東西26間・南北30間・面積773坪。新義真言宗であり、本寺は上に同じ。村の方、字畑中にある。開基・創建とも未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[蓮光寺]]&#039;&#039;&#039;：東西28間・南北32間・面積861坪。新義真言宗。本寺は上に同じ。村の中央、辻にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「開山法印重元、明徳三年の創建である。当寺は昔は村内氷川明神の別当であり、寺もその社地にあった。いつの頃にか今の地へ移り、別当職も原ヶ谷戸村円光院に譲ったという」と載っている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;観音堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北8間・面積68坪。村の西南の方、字栗原にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西9間あまり・南北9間・面積84坪。村の西の方、字根通にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西10間・南北21間・面積213坪。村の中央、字堀ノ内にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西7間・南北8間・面積52坪。村の中央、字内畑にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西5間・南北6間半あまり・面積33坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北16間・面積136坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 公立小学校：本村の中央にある。生徒　男68人、女29人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 村事務所 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 未だ設置せず。当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古跡 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新塚&#039;&#039;&#039;：高いこと1丈6～7尺で、周囲50間に余る。村の東野方、字新塚の原にある。由緒は詳らかではない。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「村の老人の説だが「もと二位塚とかいた。これは官女二位のしるしの塚である」といって二条の后のことを付会したものは妄説であって受け入れがたいことである」とある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;円光院廃跡&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。もとは氷川社の別当で、本村東福寺の末派であったが、明治八年、これを廃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 物産 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 米：462石&lt;br /&gt;
* 大麦：1750石&lt;br /&gt;
* 小麦：922石&lt;br /&gt;
* 大豆：479石&lt;br /&gt;
* 甘藷：37万8000斤&lt;br /&gt;
* 藍葉：800貫目&lt;br /&gt;
* 鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：1万5000斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
穀物は大麦以外は余嬴があって、他所に販売し、甘藷は概ね東京に輸出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 農耕を専らとする（ときに男は木こり・薪・焼炭、女は養蚕・紡織をなすものがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|かたやま]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E6%96%B0%E5%80%89%E6%9D%91&amp;diff=341</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/上新倉村</title>
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		<updated>2026-06-20T12:37:15Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 仏寺 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[上新倉村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==上新倉村（にひくら）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
:『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「この村はいにしえ、新座村と記した。もと郡郷の根本で、正保絵図・元禄絵図にも新座村と記している。このころまでは公の簿書などにはいにしえの時を用いたことがわかる。しかし、土地では新倉と記す者も多い。ということは、今のようにおしなべて倉の字を書くようになったのは、元禄よりも後のことであろう。郡名も中古は倉の字を用いて、昔の文字とは違っている。元禄年中、古きにかえり、改めて新座の字を用いることにはなったが、郷村に至ってはそのまま倉の字を用い、また上下に分かれた年代もわからない」と載せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
真東は荒川を隔てて足立郡笹目村と相望み、東南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/下新倉村|下新倉]]・[[武蔵国新座郡村誌/白子村|白子]]の2村に接する。西は本郡[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑]]・[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡]]の3村といりまじり、北は[[武蔵国新座郡村誌/根岸村・台村|根岸村・台村]]の隣、東北の一隅は[[新河岸川]]で[[武蔵国新座郡村誌/上内間木村|上]]・[[武蔵国新座郡村誌/根岸村・下内間木村|下内間木村]]に対する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字雑丹袋荒川縁から）西（字広沢原まで）1里11町30間&lt;br /&gt;
*南（字漆台から）北（字下谷津まで）6町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）8月、板倉四郎右衛門（後、伊賀守）勝重に賜う。&lt;br /&gt;
*正保のころ、村高500石8斗であった。&lt;br /&gt;
*勝重の玄孫・周防守重冬のとき、封を移して代官の支配とする（村吏の録申には宝永七年（1709年）と記すが、確実なものがないため採用しない。まったく大成武鑑の系譜による）&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至っては、高1110石5斗2合を代官松村忠四郎が支配する。&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里半。&lt;br /&gt;
*四隣：下新倉村へ9町55間。白子村へ24町。小榑村へ1里。膝折村へ1里。岡村へ30町。上内間木村へ1里10町。下内間木村へ20町。根岸・台の両村へ18町。&lt;br /&gt;
*近傍宿町：志木宿へ1里半町（中央字峯より測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*東西に長く、南北に短い。東北の境辺は[[荒川]]・[[新河岸川]]の両水を帯びる。運輸が便利。炭に乏しいが薪は余嬴があって近傍に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*赤黒土・砂など交じり、稲・粱に適しないが、甘藷によろしい。水利に乏しく、加えて暴漲のわざわいがあって陸田は旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：71町2反3畝12歩&lt;br /&gt;
*畑：171町4畝27歩&lt;br /&gt;
*総計：242町2反8畝10歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;雑丹袋&#039;&#039;&#039;（ぞうたんふくろ）：村の東方にある。荒川端に張り出して飛地のようである。東西2町20間、南北2町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;合の田&#039;&#039;&#039;（あひのた）：雑丹袋の西にある。東西4町25間・南北1町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;溜池&#039;&#039;&#039;（ためいけ）：合の田の西南にある。東西2町15間、南北2町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;田端&#039;&#039;&#039;（たっはた）：溜池の西北にある。東西2町・南北3町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;峯前&#039;&#039;&#039;（みねまへ）：田端の西に連なる。東西2町・南北2町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の郷&#039;&#039;&#039;（かみのごう）：峯前の東北にある。東西1町40間・南北1町50間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、境田（さかひた）、境田外（さかひたそと）、逆川（さかひがわ）、大島（おほしま）、山王免（さんわうめん）、午王山（まわうやま）、五反田（ごたんだ）、四反田（したんだ）、細田（ほそた）、練田（ねりた）、六反田（ろくたんだ）、榎戸（えのきど）、上谷中（かみやなか）、長坂（ながさか）、下谷中（しもやなか）、坂下（さかした）、松ノ木（まつのき）、島向（しまむかひ）、田向（たむかひ）、田外（たがい）、二畝割（ふたせわり）、三畝割（さんせわり）、南五畝割（みなみ）、北五畝割、草川淵（くさかはふち）、立町（たつまち）、立町外、竹の下、半三地、南一反割、東一反割、柳坪（やなぎつぼ）、天神下、江川、舟橋、京手（きょうて）、花ノ木、峯、大野前、向田外、富士塚、松影、土橋（つちはし）、南五反割、北口、北五反割、鈴森、庚申塚、越戸、小井戸、山尻、丸山、水久保、七ツ釜、清水、柿ノ木、坂、向原、松原、松山、中通り、堀口、花ノ木、広沢原、広沢間口、上谷津、下谷津、宮地、赤池、屋敷田、屋敷田外、羽根子、下井戸、四ツ木、向坂などある。今ここに掲載しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米321石8斗1升4合、金225円16銭4厘&lt;br /&gt;
*賦金：金20円&lt;br /&gt;
*総計：米321石8斗1升4合、金245円16銭4厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：212戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：2戸（村社1坐、平社1坐）&lt;br /&gt;
*寺：3戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*総計：217戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：619口（平民）&lt;br /&gt;
*女：651口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：1270口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：30頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*漁業船：1艘&lt;br /&gt;
*水害予備船：1艘&lt;br /&gt;
*人力車（1人乗）：10両&lt;br /&gt;
*荷車（中小）：105両&lt;br /&gt;
*農業者：4両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[午王山]]&#039;&#039;&#039;：高さ6丈あまり（約20m）、東西80間、南北150間。村の辰の方、平地の間に兀立している。山足は村内[[満願寺]]の庭前から起こり、下新倉村[[金泉寺]]の境内に至る。頂上は平らな畑である。東・北の二方は山上から山麓まで林木がある。その下は田畑が多い。西・南の二面は民家がある。言い伝えに、この山は昔は城砦であったという。口碑のみなので証明できるものはない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[荒川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ9尺、浅いところ4尺、幅おおむね37間。水は清淡。北の方、下内間木から来て村の東北の辺境を流れ、東の方、下新倉村に入る。その間、28町45間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新河岸川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ6尺、浅いところ2尺。北の方、根岸村から来て、東の方二畝割で荒川に合流する。その間はわずかに6町10間。幅15間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*林：[[広沢原]]といい、民有に属する。村の西端にある。東西9町20間・南北3町45間。反別44町5反。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
七ツ釜その他の林が散在している。一々書くほどではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*溜池：村の東の方、下新倉村境にある。村内耕田の用水としている。東西50間、南北1町52間、周囲5町20間。&lt;br /&gt;
*江川沼：村の東北の方にある。東西1町48間、南北45間、周囲5町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：村の東南の方、下新倉村界から西北の方、根岸村・台村両村の入会地界に至る。長さ7町、幅4間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、隣村に達する村路が数条ある。一々載せるほどではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===堤塘===&lt;br /&gt;
*堤：荒川に沿い、村の東北にある。根岸村・台村との界から下新倉村界に至る。長さ21町、馬踏4尺、堤敷10間、樋管1か所、悪水吐3か所。修繕費用は官に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新倉氷川八幡神社|氷川・八幡社合殿]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地面積938坪。村の中央より北の方にある。素戔嗚尊・応神天皇を祭る。勧請年暦未詳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[長照寺]]&#039;&#039;&#039;：東西28間・南北13間8歩・面積367坪あまり。新義真言宗 豊島郡石神井村[[三宝寺]]の末派である。村の南の方、字漆台にある。開基創建未詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[満願寺]]&#039;&#039;&#039;：東西38間あまり・南北20間・面積566坪。もっとも税地のみ。宗旨・本寺は長照寺と同じ。午王山の下にある。開基・創建もまた不詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東林寺]]&#039;&#039;&#039;：東西6間・南北25間・面積169坪。ほかに境内付宅地の税地516坪あまり。宗旨・本寺は長照寺と同じ。創建未詳。村の中央、字峯にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：生徒　男42人、女18人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時の戸長宅舎を仮用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*宝積院廃跡：字上の郷にある。新義真言宗。明治六年（1873年）11月廃止。&lt;br /&gt;
*正願寺廃跡：村の中央にある。宗旨・廃止年月とも宝積院と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：603石&lt;br /&gt;
*大麦：671石6斗5升&lt;br /&gt;
*小麦：406石1斗&lt;br /&gt;
*ソバ：88石7斗9升&lt;br /&gt;
*粟：84石4斗7升&lt;br /&gt;
*黍・稗：各27石2斗7升&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米穀は豊かで、入間郡所沢あたりに販売する。麦や甘藷の類は同じく東京などに輸出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|かみにいくら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E8%86%9D%E6%8A%98%E6%9D%91&amp;diff=340</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/膝折村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E8%86%9D%E6%8A%98%E6%9D%91&amp;diff=340"/>
		<updated>2026-06-20T12:36:50Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 神社 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[膝折村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==膝折村（ひざをり）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東・北の二方は[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼村]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡村]]に接し、南は[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]と野道または[[黒目川]]が境界となり、西は[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]との境が道路や耕田の畦・埒などとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字馬堀から）西（字西尻に至る）14町&lt;br /&gt;
*南（字土支田山から）北（字芹沢に至る）30町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
*正保（1644年～1648年）のころは村高373石あって、300石を旗下の士・佐野左京の采地とし、それ以外は代官が支配した。後、すべて直轄の地となった。（佐野某の采地を転収した年代はいまだよくわからない。万治三年（1660年）に同氏が検地したことが見えるので、寛文（1661年～1673年）より後であろう。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至り、高459石3升5合を代官・松村忠四郎が支配した。&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：野火止村へ15町。片山村へ23町。溝沼村へ12町。白子村へ1里8町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ1里5町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*東西の境のあたりは高い岡で懸崖がある。黒目川が南北に貫流している。運輸の便を得る。薪・炭も乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*赤・黒交種で、その質は悪く、菽・麦にはやや適するが、他の植物にはよろしくない。陸田が多いため、時々ひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：9町6畝歩&lt;br /&gt;
*畑：164町3反9畝14歩&lt;br /&gt;
*総計：173町4反5畝14歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村の南方、本郡片山村の内、田1反9畝20歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の原&#039;&#039;&#039;（かみのはら）：村の東方にある。東西10町37間、南北7町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;後原&#039;&#039;&#039;（うしろはら）：村の北方にある。東西7町48間、南北9町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;宿&#039;&#039;&#039;（しゅく）：村の中央にある。東西5町35間、南北6町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;二タ又&#039;&#039;&#039;（ふたまた）：村の西北にある。東西4町6間、南北6町53間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;子の神&#039;&#039;&#039;（ねのかみ）：村の南にある。東西6町3間、南北6町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;蛇久保&#039;&#039;&#039;（へびくぼ）：村の南方にある。東西8町33間、南北8町58間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;広沢原&#039;&#039;&#039;（ひろさははら）：村の東南にある。東西4町39間、南北8町56間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地倍&#039;&#039;&#039;（じばい）：村の北方にある。東西7町9間、南北6町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;島の上&#039;&#039;&#039;（しまのうへ）：村の北方にある。東西4町52間、南北6町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;下の原&#039;&#039;&#039;（しものはら）：村の西北にある。東西13町20間、南北13町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬堀（まほり）、下屋敷（しもやしき）、未なし川、古新田、貫井（ぬくゐ）、宮戸原（みやとはら）新田、とうかくぼ、熊ノ山、中道、たてだし、永山下、芹沢、西尻、一里山、元坂下、五反田、一里塚、永山、泉水前、中田、熊ノ山下、下田、堰上（せきうへ）坂上、大屋鋪脇、島の前、堰根（せきね）、元坂上、古屋敷、下の坂上、上田（かみた）、町田（まちだ）、土支田山、寺上などがあって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米125石5合、金182円91銭3厘&lt;br /&gt;
*賦金：金45円50銭&lt;br /&gt;
*総計：米25石5合、金328円41銭3厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：141戸（士族1戸、平民140戸）&lt;br /&gt;
*寄留：16戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：4戸（村社1坐、平社3坐）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*堂：2宇&lt;br /&gt;
*総計：174戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：405口（士族2口、平民403口）&lt;br /&gt;
*女：390口（士族3口、平民387口）&lt;br /&gt;
*総計：795口&lt;br /&gt;
*ほか寄留　男16口、女16口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：8頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：35両（中小）&lt;br /&gt;
*人力車：6両&lt;br /&gt;
*総計：41両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：幅は広いところ5間、狭いところ3間、深いところ5～6尺、浅いところ2尺。本村の南方、片山村から来て、西南の辺境を流れ、字地倍から斜めに右に折れて、北の方、溝沼村に入る。その間の長さ20町あまり&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川分水支流&#039;&#039;&#039;：幅おおむね3尺。本村の北辺にあって、野火止村から入り、その長さ5町余りで、また同祖運に出る。多くその近傍の飲水に供する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地倍橋&#039;&#039;&#039;：[[川越街道]]に属し、本村の西方、黒目川の中流に架す。幅8尺、長さ4間。木製。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：作場路あるいは式に至る村路で、村の北方、黒目川の下流に架す。幅7尺、長さ5間。土造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：川越街道に属する。本村の西、黒目川の支流に架す。幅9尺、長さ7尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北4町あまり。反別5町2畝5歩。字上ノ原にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）などの類が生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;蛇久保林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西6町あまり・南北4町。反別10町6反5畝。村の東の方、字蛇久保にある。楢・松などが生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢原]]林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町あまり・南北8町あまり。反別10町1反あまり。村の東南、字広沢原にある。楢の木のたぐいが多い。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;島の上林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町あまり・南北6町。反別4町8反7畝。西北の方、字島の上にある。松・楢・椚の樹種が生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;下の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北1町あまり。反別9町2反。村の東北の方、字下の原にある。樹種は前と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の東の方、溝沼村との境界から、西の方、野火止村との境界に至る。長さ20町あまり、幅おおむね4間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;村路&#039;&#039;&#039;：村の西北の方にあって、本村・野火止村から志木宿に達する道である。幅おおむね3間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[子ノ神氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西53間・南北68間・面積1550坪。本村の南の方、字子の神にある。素戔嗚尊を祭る。祭日は4月15日。勧請年月は未詳。境内に松・杉などの老樹が繁茂している。また御嶽社・阿夫利社・厳島社・稲荷社・第六天社・大麻止豆乃天神社・疱瘡守護神・三峯社・天神社などの小祠を境内に勧請している。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;愛宕社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北3間あまり・面積13坪。本村の西方、字宿の端にある。天軻遇突知命を祭る。勧請年月未詳。祭日6月24日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西17間あまり・南北13間・面積287坪。本村の北方にある。倉稲魂命を祭る。勧請年月未詳。祭日は定まらない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西18間・南北14間あまり・面積287坪。村の東北の方、字宮戸原にある。祭神は同じ。勧請年月、祭日なども同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[一乗院]]&#039;&#039;&#039;：東西27間・南北35間あまり・面積866坪。新義真言宗 豊島郡石神井村三宝寺の末派である。本尊十一面観音を安置している。開基・創建年代は未詳。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「ただ口碑に伝えたことでは、この村開闢のころ、高麗氏の開基であるという」と載っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西35間あまり・南北23間・面積593坪。本村一乗院の末庵である。村の東方、字坂上。小高いところにある。建立の年暦は詳らかではないが、元禄の頃であると口碑に伝える。そのため、土地の人は元禄地蔵尊と言っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西18間・南北20間あまり・面積327坪。これもまた本村一乗院の末派である。村の北の方、字宿のうらにある。元禄七年甲戌8月、常念比丘が建立したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*持明院廃跡：本村の中央にある。無住無檀であるため、明治8年9月に廃して、今は畑地となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：本村の東の方にある。生徒　男44人、女31人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：136石4斗&lt;br /&gt;
*大麦：261石余り&lt;br /&gt;
*小麦：258石5斗&lt;br /&gt;
*大豆：164石1斗5升&lt;br /&gt;
*鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：40万斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甘藷は余嬴があって、東京もしくは本郡志木宿あたりに販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女、農耕を専らとする。もっとも、銅線を業とする者5戸。水車を業とする者12戸ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|ひさおり]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%91&amp;diff=339</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/片山村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%91&amp;diff=339"/>
		<updated>2026-06-20T11:01:20Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[片山村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 片山村（かたやま） ==&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[片山郷]][[野方領]]に属し、片山村と称したが、元禄のころには分けて10村（野寺、中沢、石神、十二天、原ヶ谷戸、栗原、下中沢、堀之内、辻、下）となり（正保改定の郡図では片山の一村であって、元禄の図には10村に分かれている）後、また十二村（下片山村・上片山村あるいは下中沢村ともいう（ともに羽田某の采地）・原ヶ谷戸村（桜井某の采地）辻村・堀之内村・石神村（以上代官の支配）栗原村・下栗原村あるいは十二天村という（ともに木村某の采地）野寺村（小野某の采地）中沢村・十二天村・栗原村（以上米津氏の堤封に係る））となった年暦は明らかではない。おそらく、当時の領主地主などの便宜により分称したものであろう。それでもなお、古名が残っていて、片山の二字を冠書して、片山石神村、片山堀之内村などという）。維新の後、明治八年（1875年）4月に至って合一して片山村の古称に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 疆域 ===&lt;br /&gt;
東南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡]]・[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑]]と[[広沢原]]の深林を接し、正南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上]]・[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷]]の二村と林丘あるいは陸田のあぜで境界となり、西は多摩郡落合・神山および本郡[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]などの諸村と連なり、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]・[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]の二村との境界に[[川越街道]]と[[黒目川]]あるいは水陸田のあぜがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幅員 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東（字野中の原から）西（字北原に至る）27町&lt;br /&gt;
* 南（字亦六から）北（字西の原に至る）1里13町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管轄沿革 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
* 正保（1644年～1648年）のころは村高1232石あって、その300石を代官の支配とし、余りは旗下の士に賜った。各100石を桜井庄之助・神谷与十郎、250石を田中市郎右衛門、各50石を荒井又六郎・小野久内、200石を木村伊右衛門、150石を柘植甚八郎らの采地とし、30石を米津内蔵助（のち出羽守）の領邑とした。後、神谷・田中・荒川・柘植らの収采のことは明らかではない。&lt;br /&gt;
* 寛文・延宝（1661年～1681年）から宝永・正徳（1704年～1716年）のころ、代官・領主らがそれぞれ検地して、ついに1473石5斗9升9合となる。このときには、577石3斗1升を代官支配し、99石5斗8升5合小野久内、159石7斗4合を桜井庄之助、200石を木村鎮太郎、305石を羽田槌太郎らの治めるところとし、141石を米津氏の堤封とし、それぞれ世襲した。&lt;br /&gt;
* 維新のはじめに至り、旗下の采地をことごとく治めて代官松村忠四郎の支配下に属し、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。米津氏の領地は同じく6月、[[龍ケ崎藩]]となる。そして改めて県と称する。&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）11月、両県（品川・龍ケ崎）を廃して[[入間県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 里程 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
* 四隣：本郡膝折村（元標）へ23町。小榑村（元標）へ27町。野火止村（中央）へ30町。多磨郡山村との境界へ23町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地勢 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 林と丘が対峙して、西南から東北に連なり渡っている。その間はやや平衍。黒目川がこれを貫く。薪・炭に富むけれども、高低があって運輸の便を得ることが難しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地味 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 真土であってその質が悪く、また粘りが少し。乾魚・油かす・ぬか・灰などの培養がなければ成熟しがたい。陸田ときどきひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 田：53町23歩&lt;br /&gt;
* 畑：400町7反22歩5厘&lt;br /&gt;
* 総計：453町7反1畝15歩5厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 飛地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本村の西の方、多磨郡神山村の内、畑（1町1反9畝13歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 字地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;栗原&#039;&#039;&#039;（くりはら）：本村の西南の方にあって、黒目川の上流に沿う。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;又六&#039;&#039;&#039;（またろく）：本村の西南の方にある。東西7町、南北3町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野寺&#039;&#039;&#039;（のでら）：本村の南野方にある。東西7町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;北の原&#039;&#039;&#039;（きたのはら）：本村の西北の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;堀の内&#039;&#039;&#039;（ほりのうち）：本村の北の方にある。東西7町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;辻&#039;&#039;&#039;（つじ）：同上。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原&#039;&#039;&#039;（にしのはら）：同上。東西3町、南北8町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大下&#039;&#039;&#039;（おほしも）：本村の東北の方にある。東西3町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬場&#039;&#039;&#039;（ばんば）：同上。東西3町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形&#039;&#039;&#039;（こまがた）：同上。東西4町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中の原&#039;&#039;&#039;（のなかのはら）：本村の東の方にある。東西9町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;池田&#039;&#039;&#039;（いけだ）：本村の東南の方にある。東西10町、南北7町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;前原&#039;&#039;&#039;（まへはら）：本村の南の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上中沢&#039;&#039;&#039;（かみなかさは）：同上。東西5町、南北4町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一両山（いちりゃうやま）、浅間（あさま）、坂上（さかうへ）、前通（まへとほり）、八石（はちこく）、貝沼（かひぬま）、根通（ねとほり）、殿山（とのやま）、上ノ原（うへのはら）、安才（あんざい）、道場（どうじゃう）、中通（なかとほり）、長町（ながちょう）、宮前（みやまへ）、原通（はらどうり）、宮坂（みやさか）、内畑（うちはたけ）、沢（さは）、下街道（しもかいどう）、芝山（しばやま）、畑中（はたけなか）、沼袋（ぬまふくろ）、天沼（あまぬま）、新塚（にひつか）などの名があって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貢租 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 地租：米246石3斗6升7合、金431円21銭7厘&lt;br /&gt;
* 賦金：金60円50銭&lt;br /&gt;
* 総計：米246石3斗5升7合、金496円65銭2厘&amp;lt;ref&amp;gt;いずれも計算が合わないが原文ママとする&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戸数 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本籍：371戸（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：3戸（平民）&lt;br /&gt;
* 社：14戸（村社5坐、平社9坐）&lt;br /&gt;
* 寺：4戸（浄土宗1宇、新義真言宗3宇）&lt;br /&gt;
* 堂：6戸&lt;br /&gt;
* 総計：398戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男：1045口（平民）&lt;br /&gt;
* 女：1021口（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：男6口、女8口&lt;br /&gt;
* 総計：2080口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 牛馬 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舟車 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 荷車：155両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 山川 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：深いところ5～6尺、浅いところ2尺、幅3間。水は清い。本村の西南の方、多磨郡神山村から来て、迂曲して東北の方、膝折村に入る（支流があってともに水田に注ぐ）。その間1里24町50間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：所沢道に属する。村の東北の方、黒目川の下流に架す。長さ50間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;樋の橋&#039;&#039;&#039;：村の西北の方、黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し東北の方、字辻にある。黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵橋&#039;&#039;&#039;：村の中央、少し東北の方、字馬場にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;坂下橋&#039;&#039;&#039;：字馬場にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新家橋&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬喰ヶ戸橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し西南の方、字貝沼にある。黒目川の上流に架す。長さ4間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の西南の方、栗原と前通の間、黒目川の上流に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;小橋&#039;&#039;&#039;：字栗原にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅6尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 森林 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中林&#039;&#039;&#039;：あるいは[[広沢原]]ともいう。民有に属する。東西9町、南北6町あまり。反別69町6反あまり。村の東方にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）の類が多い。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西3町・南北8町。反別40町3反あまり。村の北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;殿山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北3町。反別13町8反あまり。村の西北にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;一両山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北3町。反別8町あまり。村の西北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の北辺にあって、膝折村の境界から野火止村の境界に至る。長さわずか2町反あまり、幅4間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;所沢道&#039;&#039;&#039;：東京から入間郡所沢に達する道で、里俗に清戸道ともいう。東野方、小榑村との境界から西の方、野火止村との境界に至る。長さ23町あまりで、幅はおおむね3間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;掲示場&#039;&#039;&#039;：本村の中央、字長町にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神社 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[馬場氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西14間・南北5間・面積630坪。村の北の方、字宮前にある。素戔嗚尊を祭る。祭日9月11日。松・杉などの老樹がある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[武野神社|八幡社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西31間・南北35間・面積1088坪。村の南の方、丘上にある。誉田別尊を祭る。祭日8月1日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西16間・南北39間・面積622坪。村の東北の方、駒形にある。祭神未詳。また祭日も定まらず。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西22間・南北24間・面積536坪。村の西南の方にある。木花開耶姫命を祭る。祭日4月3日。承応二年癸巳3月4日、栗原義清という者が甲斐国八代郡にある浅間社をこの地に遷すという。また[[新編武蔵風土記稿]]に、地頭・木村氏が建立したと言い伝えるが、鎮座の年代は詳らかではない、とある。今、村吏の録申による。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西17間・南北35間・面積590坪。村の西の方、字前通にある。素戔嗚尊を祭る。祭日3月6日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;厳島社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北6間・面積51坪。村の西南の方、字栗原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;第六天社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北9間・面積70坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北25間・面積158坪。村の北の方、字堀の内の丘の上にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;白山社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北11間・面積64坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;八雲社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西13間・南北17間・面積218坪。村の中央、字安才にある。祭神未詳。祭日未定。明治二年己巳、法台寺境内からこの地に遷座した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北23間あまり・面積350坪。村の中央、字道場にある。祭神未詳。祭日未定。旧辻村にあった8坐を明治二年中にこの場所に合祀した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北5間・面積69坪。村の東北の方、字駒形にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北20間・面積240坪。村の南の方、字前原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 仏寺 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[法台寺]]&#039;&#039;&#039;：東西40間・南北57間・面積2288坪。浄土宗 東京芝増上寺の末派である。村の中央、字道場にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「当寺は昔、時宗の道場であって、遊行二世他阿真教上人の開基であるという。創建の年代は詳らかではない。上人は遊行16年で元応元年（1319年）正月27日、相州当麻山無量光寺において83才で示寂された。中興開山は普光観智国師である。国師は天文十三年、当国多磨郡由木村で生まれた。俗姓は由木氏。平山武者所季重の子孫、由木左衛門尉利重の次男である。十歳のとき、当寺に入って、蓮阿上人の弟子となるころまでは遊行僧であったが、国師十八歳のとき、鎮西派に改め、増上寺十世感誉在貞和尚の弟子となった。後、増上寺十二世の住持にうつり、元和六年（1620年）11月2日、75歳で示寂された。当寺、北条家分国のときは寄付の寺領も多かったが、御入国のはじめに召し上げられた。慶長年中、国師が乞うたために13石5斗の御朱印を賜り、今に至って変わらず」と載せている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[満行寺]]&#039;&#039;&#039;：東西24間・南北30間・面積716坪。新義真言宗。本国豊島郡石神井村三宝院の末派である。村の南の方、字野寺の崖下にある。開基・創建は詳らかではない。維新の際までは八幡社の別当である。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東福寺]]&#039;&#039;&#039;：東西26間・南北30間・面積773坪。新義真言宗であり、本寺は上に同じ。村の方、字畑中にある。開基・創建とも未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[蓮光寺]]&#039;&#039;&#039;：東西28間・南北32間・面積861坪。新義真言宗。本寺は上に同じ。村の中央、辻にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「開山法印重元、明徳三年の創建である。当寺は昔は村内氷川明神の別当であり、寺もその社地にあった。いつの頃にか今の地へ移り、別当職も原ヶ谷戸村円光院に譲ったという」と載っている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;観音堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北8間・面積68坪。村の西南の方、字栗原にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西9間あまり・南北9間・面積84坪。村の西の方、字根通にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西10間・南北21間・面積213坪。村の中央、字堀ノ内にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西7間・南北8間・面積52坪。村の中央、字内畑にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西5間・南北6間半あまり・面積33坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北16間・面積136坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 公立小学校：本村の中央にある。生徒　男68人、女29人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 村事務所 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 未だ設置せず。当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古跡 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新塚&#039;&#039;&#039;：高いこと1丈6～7尺で、周囲50間に余る。村の東野方、字新塚の原にある。由緒は詳らかではない。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「村の老人の説だが「もと二位塚とかいた。これは官女二位のしるしの塚である」といって二条の后のことを付会したものは妄説であって受け入れがたいことである」とある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;円光院廃跡&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。もとは氷川社の別当で、本村東福寺の末派であったが、明治八年、これを廃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 物産 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 米：462石&lt;br /&gt;
* 大麦：1750石&lt;br /&gt;
* 小麦：922石&lt;br /&gt;
* 大豆：479石&lt;br /&gt;
* 甘藷：37万8000斤&lt;br /&gt;
* 藍葉：800貫目&lt;br /&gt;
* 鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：1万5000斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
穀物は大麦以外は余嬴があって、他所に販売し、甘藷は概ね東京に輸出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 農耕を専らとする（ときに男は木こり・薪・焼炭、女は養蚕・紡織をなすものがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|かたやま]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%9D%91&amp;diff=338</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/上保谷村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%9D%91&amp;diff=338"/>
		<updated>2026-06-20T10:58:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[上保谷村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 上保谷村（かみほうや） ==&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[栗原郷]]（『[[新編武蔵風土記稿]]』には[[新倉郷]]に属するという。今、吏胥の録上による）、[[広沢庄]][[野方領]]に属する。本村の内に持添い新田があったが、天保六未年（1831年）三月分かれてまったく別村となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 疆域 ===&lt;br /&gt;
東は豊島郡関村および本郡[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑村]]と野道をもって境界とし、南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷新田|上保谷新田]]および多摩郡関前村・西久保村に連なり、西は多摩郡田無村に接し、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷村]]・[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]との境界があぜとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幅員 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東（字一里塚から）西（字柳沢に至る）30町&lt;br /&gt;
* 南（字上柳沢から）北（字又六に至る）1里6町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管轄沿革 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の関東総領の後、&lt;br /&gt;
* 正保（1644年～1648年）のはじめから代官の支配である。&lt;br /&gt;
* 慶安四年（1651年）検地で高568石5升2合ある。&lt;br /&gt;
* 寛文年中（1661年～1673年）、稲葉美濃守の領地とする。&lt;br /&gt;
* 貞享二年（1685年）、また代官の支配となる。&lt;br /&gt;
* 天保六年（1835年）、総高1522石6斗9升7合のうち、183石4斗1升合を新田に分割した。&lt;br /&gt;
* 徳川氏の末に至って代官松村忠四郎が支配した。&lt;br /&gt;
* 維新の後、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 里程 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 熊谷県庁より南少し東15里。&lt;br /&gt;
* 四隣：豊島郡関村へ1里5町。下保谷村へ14町。多摩郡田無村へ12町。同郡西久保村1里6町。関前村へ1里。本郡下保谷村へ14町。片山村へ1里。上保谷新田へ30町（元標は村の中央、字苗木山にある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地勢 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 高燥、平坦である。運輸は便利ではないが、薪・炭も乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地味 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 色は黒・赤が交じり、その室は小麦および藍に適している。水利の便を得ないため、ときどき旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 田：7反5畝&lt;br /&gt;
* 畑：353町6反8畝5歩&lt;br /&gt;
* 総計：354町1反3畝5歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 字地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上柳沢&#039;&#039;&#039;（かみやぎさは）：村の南の方にある。東西43間、南北17間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;坂上&#039;&#039;&#039;（さかうへ）：上八木沢の東に連なる。東西33間、南北11間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;下野谷&#039;&#039;&#039;（したのや）：坂上の北に連なる。東西35間、南北12間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;柳沢&#039;&#039;&#039;（やぎさは）：下野谷の西に連なる。東西31間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;千駄山&#039;&#039;&#039;（せんだやま）：柳沢の東に連なる。東西24間、南北27間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;下柳沢&#039;&#039;&#039;（しもやぎさは）：千駄山の東に連なる。東西32間、南北22間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;高塚&#039;&#039;&#039;（たかつか）：下柳沢の北に連なる。東西25間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;一里塚&#039;&#039;&#039;（いちりづか）：高塚の北に連なる。東西29間、南北14間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;関道&#039;&#039;&#039;（せきみち）：一里塚の西に連なる。東西24間、南北22間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;桶久保&#039;&#039;&#039;（をけくぼ）：関道の東南に連なる。東西21間、南北25間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;立野&#039;&#039;&#039;（たての）：桶久保の西に連なる。東西17間、南北35間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;平松&#039;&#039;&#039;（ひらまつ）：立野の北に連なる。東西26間、南北15間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西浦&#039;&#039;&#039;（にしうら）：平松の西に連なる。東西19間、南北47間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上宿&#039;&#039;&#039;（かみしゅく）：西浦の北に連なる。東西30間、南北40間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大門&#039;&#039;&#039;（だいもん）：上宿の東に連なる。東西19間、南北31間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;荒井竹&#039;&#039;&#039;（あらゐたけ）：大門の東に連なる。東西18間、南北25間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;苗木山&#039;&#039;&#039;（なえきやま）：荒井竹の東南に連なる。東西24間、南北26間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;鳥久保&#039;&#039;&#039;（とりくぼ）：苗木山の東に連なる。東西36間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;天神山&#039;&#039;&#039;（てんじんやま）：鳥久保の北に連なる。東西20間、南北15間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;三軒屋&#039;&#039;&#039;（さんげんや）：天神山の北に連なる。東西24間、南北18間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;山合&#039;&#039;&#039;（やまあひ）：三軒屋の西北に連なる。東西35間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;入道&#039;&#039;&#039;（いりみち）：山合から西北に連なる。東西16間、南北35間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;又六&#039;&#039;&#039;（またろく）：入道の西に連なる。東西16間、南北55間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貢租 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 地租：米1石8斗4升9合、金470円44銭1厘&lt;br /&gt;
* 賦金：金100円75銭&lt;br /&gt;
* 総計：米1石8斗4升9合、金571円19銭1厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戸数 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本籍：243戸（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：3戸（平民）&lt;br /&gt;
* 社：3戸（村社1坐、平社2坐）&lt;br /&gt;
* 寺：4戸（真言宗3宇、曹洞宗1宇）&lt;br /&gt;
* 総計：253戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男：849口（平民）&lt;br /&gt;
* 女：799口（平民）&lt;br /&gt;
* 総計：1648口（寄留男6口（平民）女5口（同上）を含む）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 牛馬 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 牡馬：5頭&lt;br /&gt;
* 牝馬：3頭&lt;br /&gt;
* 総計：8頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舟車 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 荷車：76両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 山川 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;柳沢用水&#039;&#039;：幅2間で西の方は多摩郡田無村から来て、東野方は豊島郡関村に入る。その間、15町38間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;荒井用水&#039;&#039;&#039;：幅3尺。玉川上水の分水であって、明治四未年8月中に開鑿したものである。西方は多摩郡田無村から来て、豊島郡関村に入る。その間25町56間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 森林 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：旧来野と称し、民有に属する。反別あわせて21町1反8畝1歩。その他、反別8反歩から多くない箇所が数か所に点在しているため細かく分けない。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：反別2反7歩く。官有に属する。これも五か所にあり、細かく分けない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[青梅街道]]&#039;&#039;&#039;：村の南にある。豊島郡関村から多摩郡田無村に至る。その間の長さ14町6間、幅6間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神社 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[尉殿神社|尉殿社]]&#039;&#039;&#039;： 村社。社地は東西24間・南北40間・面積960坪。村の北の方にある。級長戸辺の命を祭る。祭日9月22日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;榛名社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西20間・南北22間3尺・面積450坪。村の東南にある。祭神未詳。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;神明社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北20間・面積300坪。村の東にある。祭神未詳。祭日2月初午の日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 仏寺 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[如意輪寺]]&#039;&#039;&#039;：東西50間・南北30間2尺・面積1516坪。新義真言宗。豊島郡石神井村三宝寺の末派である。開基・創建未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[宝光院]]&#039;&#039;&#039;：東西26間・南北14間・面積364坪。同宗。同郡同寺の末派である。村の西北の方にある。開基・創建不詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[宝樹院]]&#039;&#039;&#039;：東西24間・南北15間・面積360坪。同宗。同郡同寺の末派である。村の西北の方にある。開基・創建未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東禅寺]]&#039;&#039;&#039;：東西35間・南北31間・面積1085坪。曹洞宗。多摩郡前沢村浄福院の末派である。村の北の方にある。開山は本山十三世蘭室芳大和尚（寛文十一年4月17日示寂）。開基は弥祝祥高居士、俗称・保谷出雲守直政（元和七年辛酉2月6日卒）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 公立小学校：本村の中央から少し北にある。生徒90人、男64人、女26人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 村事務所 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 物産 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 米：39石&lt;br /&gt;
* 大麦：150石&lt;br /&gt;
* 小麦：200石&lt;br /&gt;
* 大豆：57石6斗&lt;br /&gt;
* 小豆：30石&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他甘藷などを産する。多いため近隣に販売する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男女農業を専らとする&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|かみほうや]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%96%B0%E7%94%B0&amp;diff=337</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/上保谷新田</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%96%B0%E7%94%B0&amp;diff=337"/>
		<updated>2026-06-20T10:18:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の上保谷新田項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==上保谷新田（かみほうや）==  本村はいにしえ上保谷村に属し、持添の新田であったが、天保六年乙未（1832年）3月にまったくの別村となる。  ===疆域=== 東北の一隅はわずかに本郡武蔵国新…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[上保谷新田]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==上保谷新田（かみほうや）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上保谷村]]に属し、持添の新田であったが、天保六年乙未（1832年）3月にまったくの別村となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東北の一隅はわずかに本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上保谷村]]に接し、東南は多摩郡関前新田と小道で境界となり、西南は玉川上水を隔てて多摩郡境村に対し、正西は多摩郡境新田と隣り合い、北は多摩郡田無村との境界が野道となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字坂上から）西（字新橋道西通まで）19町35間&lt;br /&gt;
*南（玉川上水の涯から）北（田無境まで）3町40間&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天保年中に分村&amp;lt;ref&amp;gt;天保六年（1835年）3月と上に書かれている&amp;lt;/ref&amp;gt;以来、代官がこれを支配する。&lt;br /&gt;
*維新の際、村高183石4斗1升3合あって、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*以後、上保谷村と同じ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東15里。&lt;br /&gt;
*四隣：多摩郡境村（村事務所）へ12町。同郡関前新田（同上）へ10町。同郡境新田（同上）へ12町。同郡田無村（同上）へ15町。本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上保谷村]]（同上）へ30町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*東から西に長く、その形は船のようである。平坦で運輸の弁がある。薪・炭も乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色は赤・黒。茶に適する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*畑：71町7反6畝21歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;坂上&#039;&#039;&#039;（さかうへ）：村の東方にある。東西2町、南北2町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;本村道西&#039;&#039;&#039;（ほんむらみちにし）：坂上の西に連なる。東西2町50間、南北3町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;葭窪北台&#039;&#039;&#039;（よしくぼきただい）：本村道西の西に連なる。東西4町、南北3町40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;深太寺道西&#039;&#039;&#039;（しんたいじみちにし）：葭窪北台の西に連なる。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;しらじくほ西台&#039;&#039;&#039;（にしだい）：深太寺道西の西に連なる。東西2町、南北3町40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;氏神台&#039;&#039;&#039;（うじすなだい）：しらじくほ西台の西に連なる。東西2町40間、南北4町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;堀分北&#039;&#039;&#039;（ほりわけきた）：氏神台の西に連なる。東西1町40間、南北5町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;本屋舗&#039;&#039;&#039;（もとやしき）：堀分北の西に連なる。東西1町40間、南北5町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;新橋道東通&#039;&#039;&#039;（しんばしみちひがしどほり）：本屋舗の西に連なる。東西2町、南北5町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;新橋道西通&#039;&#039;&#039;（しんばしみちにしどほり）：新橋道東通の西に連なる。東西2町30間、南北5町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;切添&#039;&#039;&#039;（きりそへ）：葭久保北台、本村道西の北方に連なる。東西5町50間、南北1町40間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：金27円68銭4厘&lt;br /&gt;
*賦金：金7円&lt;br /&gt;
*総計：金34円68銭4厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：30戸（平民）&lt;br /&gt;
*寄留：5戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：1戸（村社）&lt;br /&gt;
*総計：36戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：76口（平民）&lt;br /&gt;
*女：82口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：158口（ほかに寄留男8人、女7人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：1頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：14両（小車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川上水&#039;&#039;：深いところおおむね6尺。水色は清い。西の方、多摩郡境新田から来て、本村の南境を流れて、同郡境村と関前新田との間に入る。長さ17町50間。また分流があって飲用とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;村路&#039;&#039;&#039;：&#039;&#039;&#039;小川村道&#039;&#039;&#039;という。村の東の方、関前から西の方、境新田に至る。長さ14町15間、幅2間半。このほか、小さな村路が数条あるが載せるに足りない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[阿波洲神社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西3間・南北3間・面積9坪。村の中央にある。高望王を祭る。祭日9月13日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*村の中央、戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大麦：20石&lt;br /&gt;
*小麦：40石&lt;br /&gt;
*ソバ：30石&lt;br /&gt;
*陸米：10石&lt;br /&gt;
*粟：30石&lt;br /&gt;
*大豆：5石&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小麦・ソバなどは余嬴あって東京に販売する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女おおむね農を専らとする&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|かみほうやしんてん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%9D%91&amp;diff=336</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/上保谷村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E8%B0%B7%E6%9D%91&amp;diff=336"/>
		<updated>2026-06-19T15:10:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の上保谷村項の現代語訳。  : 現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  == 上保谷村（かみほうや） == 本村はいにしえ栗原郷（『新編武蔵風土記稿』には新倉郷に属するという。今、吏胥の録上による）、広沢庄野方領に属する。本村の内に持添い新田があったが、天保六未年（183…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[上保谷村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 上保谷村（かみほうや） ==&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[栗原郷]]（『[[新編武蔵風土記稿]]』には[[新倉郷]]に属するという。今、吏胥の録上による）、[[広沢庄]][[野方領]]に属する。本村の内に持添い新田があったが、天保六未年（1831年）三月分かれてまったく別村となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 疆域 ===&lt;br /&gt;
東は豊島郡関村および本郡[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑村]]と野道をもって境界とし、南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷新田|上保谷新田]]および多摩郡関前村・西久保村に連なり、西は多摩郡田無村に接し、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷村]]・[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]との境界があぜとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幅員 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東（字一里塚から）西（字柳沢に至る）30町&lt;br /&gt;
* 南（字上柳沢から）北（字又六に至る）1里6町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管轄沿革 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の関東総領の後、&lt;br /&gt;
* 正保（1644年～1648年）のはじめから代官の支配である。&lt;br /&gt;
* 慶安四年（1651年）検地で高568石5升2合ある。&lt;br /&gt;
* 寛文年中（1661年～1673年）、稲葉美濃守の領地とする。&lt;br /&gt;
* 貞享二年（1685年）、また代官の支配となる。&lt;br /&gt;
* 天保六年（1835年）、総高1522石6斗9升7合のうち、183石4斗1升合を新田に分割した。&lt;br /&gt;
* 徳川氏の末に至って代官松村忠四郎が支配した。&lt;br /&gt;
* 維新の後、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 里程 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 熊谷県庁より南少し東15里。&lt;br /&gt;
* 四隣：豊島郡関村へ1里5町。下保谷村へ14町。多摩郡田無村へ12町。同郡西久保村1里6町。関前村へ1里。本郡下保谷村へ14町。片山村へ1里。上保谷新田へ30町（元標は村の中央、字苗木山にある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地勢 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 高燥、平坦である。運輸は便利ではないが、薪・炭も乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地味 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 色は黒・赤が交じり、その室は小麦および藍に適している。水利の便を得ないため、ときどき旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 田：7反5畝&lt;br /&gt;
* 畑：353町6反8畝5歩&lt;br /&gt;
* 総計：354町1反3畝5歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 字地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上柳沢&#039;&#039;&#039;（かみやぎさは）：村の南の方にある。東西43間、南北17間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;坂上&#039;&#039;&#039;（さかうへ）：上八木沢の東に連なる。東西33間、南北11間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;下野谷&#039;&#039;&#039;（したのや）：坂上の北に連なる。東西35間、南北12間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;柳沢&#039;&#039;&#039;（やぎさは）：下野谷の西に連なる。東西31間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;千駄山&#039;&#039;&#039;（せんだやま）：柳沢の東に連なる。東西24間、南北27間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;下柳沢&#039;&#039;&#039;（しもやぎさは）：千駄山の東に連なる。東西32間、南北22間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;高塚&#039;&#039;&#039;（たかつか）：下柳沢の北に連なる。東西25間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;一里塚&#039;&#039;&#039;（いちりづか）：高塚の北に連なる。東西29間、南北14間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;関道&#039;&#039;&#039;（せきみち）：一里塚の西に連なる。東西24間、南北22間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;桶久保&#039;&#039;&#039;（をけくぼ）：関道の東南に連なる。東西21間、南北25間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;立野&#039;&#039;&#039;（たての）：桶久保の西に連なる。東西17間、南北35間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;平松&#039;&#039;&#039;（ひらまつ）：立野の北に連なる。東西26間、南北15間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西浦&#039;&#039;&#039;（にしうら）：平松の西に連なる。東西19間、南北47間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上宿&#039;&#039;&#039;（かみしゅく）：西浦の北に連なる。東西30間、南北40間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大門&#039;&#039;&#039;（だいもん）：上宿の東に連なる。東西19間、南北31間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;荒井竹&#039;&#039;&#039;（あらゐたけ）：大門の東に連なる。東西18間、南北25間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;苗木山&#039;&#039;&#039;（なえきやま）：荒井竹の東南に連なる。東西24間、南北26間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;鳥久保&#039;&#039;&#039;（とりくぼ）：苗木山の東に連なる。東西36間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;天神山&#039;&#039;&#039;（てんじんやま）：鳥久保の北に連なる。東西20間、南北15間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;三軒屋&#039;&#039;&#039;（さんげんや）：天神山の北に連なる。東西24間、南北18間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;山合&#039;&#039;&#039;（やまあひ）：三軒屋の西北に連なる。東西35間、南北20間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;入道&#039;&#039;&#039;（いりみち）：山合から西北に連なる。東西16間、南北35間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;又六&#039;&#039;&#039;（またろく）：入道の西に連なる。東西16間、南北55間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貢租 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 地租：米1石8斗4升9合、金470円44銭1厘&lt;br /&gt;
* 賦金：金100円75銭&lt;br /&gt;
* 総計：米1石8斗4升9合、金571円19銭1厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戸数 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本籍：243戸（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：3戸（平民）&lt;br /&gt;
* 社：3戸（村社1坐、平社2坐）&lt;br /&gt;
* 寺：4戸（真言宗3宇、曹洞宗1宇）&lt;br /&gt;
* 総計：253戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男：849口（平民）&lt;br /&gt;
* 女：799口（平民）&lt;br /&gt;
* 総計：1648口（寄留男6口（平民）女5口（同上）を含む）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 牛馬 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 牡馬：5頭&lt;br /&gt;
* 牝馬：3頭&lt;br /&gt;
* 総計：8頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舟車 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 荷車：76両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 山川 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;柳沢用水&#039;&#039;：幅2間で西の方は多摩郡田無村から来て、東野方は豊島郡関村に入る。その間、15町38間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;荒井用水&#039;&#039;&#039;：幅3尺。玉川上水の分水であって、明治四未年8月中に開鑿したものである。西方は多摩郡田無村から来て、豊島郡関村に入る。その間25町56間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 森林 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：旧来野と称し、民有に属する。反別あわせて21町1反8畝1歩。その他、反別8反歩から多くない箇所が数か所に点在しているため細かく分けない。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;林&#039;&#039;&#039;：反別2反7歩く。官有に属する。これも五か所にあり、細かく分けない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[青梅街道]]&#039;&#039;&#039;：村の南にある。豊島郡関村から多摩郡田無村に至る。その間の長さ14町6間、幅6間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神社 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[尉殿神社|尉殿社]]&#039;&#039;&#039;： 村社。社地は東西24間・南北40間・面積960坪。村の北の方にある。級長戸辺の命を祭る。祭日9月22日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;榛名社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西20間・南北22間3尺・面積450坪。村の東南にある。祭神未詳。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;神明社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北20間・面積300坪。村の東にある。祭神未詳。祭日2月初午の日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 仏寺 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[如意輪寺]]&#039;&#039;&#039;：東西50間・南北30間2尺・面積1516坪。新義真言宗。豊島郡石神井村三宝寺の末派である。開基・創建未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[宝光院]]&#039;&#039;&#039;：東西26間・南北14間・面積364坪。同宗。同郡同寺の末派である。村の西北の方にある。開基・創建不詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[宝樹院]]&#039;&#039;&#039;：東西24間・南北15間・面積360坪。同宗。同郡同寺の末派である。村の西北の方にある。開基・創建未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東禅寺]]&#039;&#039;&#039;：東西35間・南北31間・面積1085坪。曹洞宗。多摩郡前沢村浄福院の末派である。村の北の方にある。開山は本山十三世蘭室芳大和尚（寛文十一年4月17日示寂）。開基は弥祝祥高居士、俗称・保谷出雲守直政（元和七年辛酉2月6日卒）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 公立小学校：本村の中央から少し北にある。生徒90人、男64人、女26人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 村事務所 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 物産 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 米：39石&lt;br /&gt;
* 大麦：150石&lt;br /&gt;
* 小麦：200石&lt;br /&gt;
* 大豆：57石6斗&lt;br /&gt;
* 小豆：30石&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他甘藷などを産する。多いため近隣に販売する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男女農業を専らとする&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%91&amp;diff=335</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/片山村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%91&amp;diff=335"/>
		<updated>2026-06-19T15:10:08Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 村事務所 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[片山村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 片山村（かたやま） ==&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[片山郷]][[野方領]]に属し、片山村と称したが、元禄のころには分けて10村（野寺、中沢、石神、十二天、原ヶ谷戸、栗原、下中沢、堀之内、辻、下）となり（正保改定の郡図では片山の一村であって、元禄の図には10村に分かれている）後、また十二村（下片山村・上片山村あるいは下中沢村ともいう（ともに羽田某の采地）・原ヶ谷戸村（桜井某の采地）辻村・堀之内村・石神村（以上代官の支配）栗原村・下栗原村あるいは十二天村という（ともに木村某の采地）野寺村（小野某の采地）中沢村・十二天村・栗原村（以上米津氏の堤封に係る））となった年暦は明らかではない。おそらく、当時の領主地主などの便宜により分称したものであろう。それでもなお、古名が残っていて、片山の二字を冠書して、片山石神村、片山堀之内村などという）。維新の後、明治八年（1875年）4月に至って合一して片山村の古称に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 疆域 ===&lt;br /&gt;
東南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡]]・[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑]]と[[広沢原]]の深林を接し、正南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上]]・[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷]]の二村と林丘あるいは陸田のあぜで境界となり、西は多摩郡落合・神山および本郡[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]などの諸村と連なり、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]・[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]の二村との境界に[[川越街道]]と[[黒目川]]あるいは水陸田のあぜがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幅員 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東（字野中の原から）西（字北原に至る）27町&lt;br /&gt;
* 南（字亦六から）北（字西の原に至る）1里13町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管轄沿革 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
* 正保（1644年～1648年）のころは村高1232石あって、その300石を代官の支配とし、余りは旗下の士に賜った。各100石を桜井庄之助・神谷与十郎、250石を田中市郎右衛門、各50石を荒井又六郎・小野久内、200石を木村伊右衛門、150石を柘植甚八郎らの采地とし、30石を米津内蔵助（のち出羽守）の領邑とした。後、神谷・田中・荒川・柘植らの収采のことは明らかではない。&lt;br /&gt;
* 寛文・延宝（1661年～1681年）から宝永・正徳（1704年～1716年）のころ、代官・領主らがそれぞれ検地して、ついに1473石5斗9升9合となる。このときには、577石3斗1升を代官支配し、99石5斗8升5合小野久内、159石7斗4合を桜井庄之助、200石を木村鎮太郎、305石を羽田槌太郎らの治めるところとし、141石を米津氏の堤封とし、それぞれ世襲した。&lt;br /&gt;
* 維新のはじめに至り、旗下の采地をことごとく治めて代官松村忠四郎の支配下に属し、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。米津氏の領地は同じく6月、[[龍ケ崎藩]]となる。そして改めて県と称する。&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）11月、両県（品川・龍ケ崎）を廃して[[入間県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 里程 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
* 四隣：本郡膝折村（元標）へ23町。小榑村（元標）へ27町。野火止村（中央）へ30町。多磨郡山村との境界へ23町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地勢 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 林と丘が対峙して、西南から東北に連なり渡っている。その間はやや平衍。黒目川がこれを貫く。薪・炭に富むけれども、高低があって運輸の便を得ることが難しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地味 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 真土であってその質が悪く、また粘りが少し。乾魚・油かす・ぬか・灰などの培養がなければ成熟しがたい。陸田ときどきひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 田：53町23歩&lt;br /&gt;
* 畑：400町7反22歩5厘&lt;br /&gt;
* 総計：453町7反1畝15歩5厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 飛地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本村の西の方、多磨郡神山村の内、畑（1町1反9畝13歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 字地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;栗原&#039;&#039;&#039;（くりはら）：本村の西南の方にあって、黒目川の上流に沿う。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;又六&#039;&#039;&#039;（またろく）：本村の西南の方にある。東西7町、南北3町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野寺&#039;&#039;&#039;（のでら）：本村の南野方にある。東西7町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;北の原&#039;&#039;&#039;（きたのはら）：本村の西北の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;堀の内&#039;&#039;&#039;（ほりのうち）：本村の北の方にある。東西7町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;辻&#039;&#039;&#039;（つじ）：同上。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原&#039;&#039;&#039;（にしのはら）：同上。東西3町、南北8町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大下&#039;&#039;&#039;（おほしも）：本村の東北の方にある。東西3町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬場&#039;&#039;&#039;（ばんば）：同上。東西3町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形&#039;&#039;&#039;（こまがた）：同上。東西4町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中の原&#039;&#039;&#039;（のなかのはら）：本村の東の方にある。東西9町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;池田&#039;&#039;&#039;（いけだ）：本村の東南の方にある。東西10町、南北7町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;前原&#039;&#039;&#039;（まへはら）：本村の南の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上中沢&#039;&#039;&#039;（かみなかさは）：同上。東西5町、南北4町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一両山（いちりゃうやま）、浅間（あさま）、坂上（さかうへ）、前通（まへとほり）、八石（はちこく）、貝沼（かひぬま）、根通（ねとほり）、殿山（とのやま）、上ノ原（うへのはら）、安才（あんざい）、道場（どうじゃう）、中通（なかとほり）、長町（ながちょう）、宮前（みやまへ）、原通（はらどうり）、宮坂（みやさか）、内畑（うちはたけ）、沢（さは）、下街道（しもかいどう）、芝山（しばやま）、畑中（はたけなか）、沼袋（ぬまふくろ）、天沼（あまぬま）、新塚（にひつか）などの名があって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貢租 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 地租：米246石3斗6升7合、金431円21銭7厘&lt;br /&gt;
* 賦金：金60円50銭&lt;br /&gt;
* 総計：米246石3斗5升7合、金496円65銭2厘&amp;lt;ref&amp;gt;いずれも計算が合わないが原文ママとする&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戸数 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本籍：371戸（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：3戸（平民）&lt;br /&gt;
* 社：14戸（村社5坐、平社9坐）&lt;br /&gt;
* 寺：4戸（浄土宗1宇、新義真言宗3宇）&lt;br /&gt;
* 堂：6戸&lt;br /&gt;
* 総計：398戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男：1045口（平民）&lt;br /&gt;
* 女：1021口（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：男6口、女8口&lt;br /&gt;
* 総計：2080口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 牛馬 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舟車 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 荷車：155両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 山川 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：深いところ5～6尺、浅いところ2尺、幅3間。水は清い。本村の西南の方、多磨郡神山村から来て、迂曲して東北の方、膝折村に入る（支流があってともに水田に注ぐ）。その間1里24町50間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：所沢道に属する。村の東北の方、黒目川の下流に架す。長さ50間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;樋の橋&#039;&#039;&#039;：村の西北の方、黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し東北の方、字辻にある。黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵橋&#039;&#039;&#039;：村の中央、少し東北の方、字馬場にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;坂下橋&#039;&#039;&#039;：字馬場にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新家橋&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬喰ヶ戸橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し西南の方、字貝沼にある。黒目川の上流に架す。長さ4間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の西南の方、栗原と前通の間、黒目川の上流に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;小橋&#039;&#039;&#039;：字栗原にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅6尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 森林 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中林&#039;&#039;&#039;：あるいは[[広沢原]]ともいう。民有に属する。東西9町、南北6町あまり。反別69町6反あまり。村の東方にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）の類が多い。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西3町・南北8町。反別40町3反あまり。村の北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;殿山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北3町。反別13町8反あまり。村の西北にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;一両山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北3町。反別8町あまり。村の西北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の北辺にあって、膝折村の境界から野火止村の境界に至る。長さわずか2町反あまり、幅4間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;所沢道&#039;&#039;&#039;：東京から入間郡所沢に達する道で、里俗に清戸道ともいう。東野方、小榑村との境界から西の方、野火止村との境界に至る。長さ23町あまりで、幅はおおむね3間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;掲示場&#039;&#039;&#039;：本村の中央、字長町にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神社 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[馬場氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西14間・南北5間・面積630坪。村の北の方、字宮前にある。素戔嗚尊を祭る。祭日9月11日。松・杉などの老樹がある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[武野神社|八幡社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西31間・南北35間・面積1088坪。村の南の方、丘上にある。誉田別尊を祭る。祭日8月1日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西16間・南北39間・面積622坪。村の東北の方、駒形にある。祭神未詳。また祭日も定まらず。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西22間・南北24間・面積536坪。村の西南の方にある。木花開耶姫命を祭る。祭日4月3日。承応二年癸巳3月4日、栗原義清という者が甲斐国八代郡にある浅間社をこの地に遷すという。また[[新編武蔵風土記稿]]に、地頭・木村氏が建立したと言い伝えるが、鎮座の年代は詳らかではない、とある。今、村吏の録申による。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西17間・南北35間・面積590坪。村の西の方、字前通にある。素戔嗚尊を祭る。祭日3月6日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;厳島社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北6間・面積51坪。村の西南の方、字栗原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;第六天社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北9間・面積70坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北25間・面積158坪。村の北の方、字堀の内の丘の上にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;白山社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北11間・面積64坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;八雲社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西13間・南北17間・面積218坪。村の中央、字安才にある。祭神未詳。祭日未定。明治二年己巳、法台寺境内からこの地に遷座した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北23間あまり・面積350坪。村の中央、字道場にある。祭神未詳。祭日未定。旧辻村にあった8坐を明治二年中にこの場所に合祀した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北5間・面積69坪。村の東北の方、字駒形にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北20間・面積240坪。村の南の方、字前原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 仏寺 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[法台寺]]&#039;&#039;&#039;：東西40間・南北57間・面積2288坪。浄土宗 東京芝増上寺の末派である。村の中央、字道場にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「当寺は昔、時宗の道場であって、遊行二世他阿真教上人の開基であるという。創建の年代は詳らかではない。上人は遊行16年で元応元年（1319年）正月27日、相州当麻山無量光寺において83才で示寂された。中興開山は普光観智国師である。国師は天文十三年、当国多磨郡由木村で生まれた。俗姓は由木氏。平山武者所季重の子孫、由木左衛門尉利重の次男である。十歳のとき、当寺に入って、蓮阿上人の弟子となるころまでは遊行僧であったが、国師十八歳のとき、鎮西派に改め、増上寺十世感誉在貞和尚の弟子となった。後、増上寺十二世の住持にうつり、元和六年（1620年）11月2日、75歳で示寂された。当寺、北条家分国のときは寄付の寺領も多かったが、御入国のはじめに召し上げられた。慶長年中、国師が乞うたために13石5斗の御朱印を賜り、今に至って変わらず」と載せている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[満行寺]]&#039;&#039;&#039;：東西24間・南北30間・面積716坪。新義真言宗。本国豊島郡石神井村三宝院の末派である。村の南の方、字野寺の崖下にある。開基・創建は詳らかではない。維新の際までは八幡社の別当である。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東福寺]]&#039;&#039;&#039;：東西26間・南北30間・面積773坪。新義真言宗であり、本寺は上に同じ。村の方、字畑中にある。開基・創建とも未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[蓮光寺]]&#039;&#039;&#039;：東西28間・南北32間・面積861坪。新義真言宗。本寺は上に同じ。村の中央、辻にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「開山法印重元、明徳三年の創建である。当寺は昔は村内氷川明神の別当であり、寺もその社地にあった。いつの頃にか今の地へ移り、別当職も原ヶ谷戸村円光院に譲ったという」と載っている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;観音堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北8間・面積68坪。村の西南の方、字栗原にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西9間あまり・南北9間・面積84坪。村の西の方、字根通にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西10間・南北21間・面積213坪。村の中央、字堀ノ内にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西7間・南北8間・面積52坪。村の中央、字内畑にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西5間・南北6間半あまり・面積33坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北16間・面積136坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 公立小学校：本村の中央にある。生徒　男68人、女29人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 村事務所 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 未だ設置せず。当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古跡 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新塚&#039;&#039;&#039;：高いこと1丈6～7尺で、周囲50間に余る。村の東野方、字新塚の原にある。由緒は詳らかではない。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「村の老人の説だが「もと二位塚とかいた。これは官女二位のしるしの塚である」といって二条の后のことを付会したものは妄説であって受け入れがたいことである」とある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;円光院廃跡&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。もとは氷川社の別当で、本村東福寺の末派であったが、明治八年、これを廃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 物産 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 米：462石&lt;br /&gt;
* 大麦：1750石&lt;br /&gt;
* 小麦：922石&lt;br /&gt;
* 大豆：479石&lt;br /&gt;
* 甘藷：37万8000斤&lt;br /&gt;
* 藍葉：800貫目&lt;br /&gt;
* 鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：1万5000斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
穀物は大麦以外は余嬴があって、他所に販売し、甘藷は概ね東京に輸出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 農耕を専らとする（ときに男は木こり・薪・焼炭、女は養蚕・紡織をなすものがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%91&amp;diff=334</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/片山村</title>
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		<updated>2026-06-19T13:46:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の片山村項の現代語訳。  : 現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  == 片山村（かたやま） == 本村はいにしえ片山郷野方領に属し、片山村と称したが、元禄のころには分けて10村（野寺、中沢、石神、十二天、原ヶ谷戸、栗原、下中沢、堀之内、辻、下）となり（正保改定の郡図では片山…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[片山村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 片山村（かたやま） ==&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[片山郷]][[野方領]]に属し、片山村と称したが、元禄のころには分けて10村（野寺、中沢、石神、十二天、原ヶ谷戸、栗原、下中沢、堀之内、辻、下）となり（正保改定の郡図では片山の一村であって、元禄の図には10村に分かれている）後、また十二村（下片山村・上片山村あるいは下中沢村ともいう（ともに羽田某の采地）・原ヶ谷戸村（桜井某の采地）辻村・堀之内村・石神村（以上代官の支配）栗原村・下栗原村あるいは十二天村という（ともに木村某の采地）野寺村（小野某の采地）中沢村・十二天村・栗原村（以上米津氏の堤封に係る））となった年暦は明らかではない。おそらく、当時の領主地主などの便宜により分称したものであろう。それでもなお、古名が残っていて、片山の二字を冠書して、片山石神村、片山堀之内村などという）。維新の後、明治八年（1875年）4月に至って合一して片山村の古称に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 疆域 ===&lt;br /&gt;
東南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡]]・[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑]]と[[広沢原]]の深林を接し、正南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/上保谷村|上]]・[[武蔵国新座郡村誌/下保谷村|下保谷]]の二村と林丘あるいは陸田のあぜで境界となり、西は多摩郡落合・神山および本郡[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]などの諸村と連なり、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]・[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]の二村との境界に[[川越街道]]と[[黒目川]]あるいは水陸田のあぜがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幅員 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東（字野中の原から）西（字北原に至る）27町&lt;br /&gt;
* 南（字亦六から）北（字西の原に至る）1里13町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管轄沿革 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
* 正保（1644年～1648年）のころは村高1232石あって、その300石を代官の支配とし、余りは旗下の士に賜った。各100石を桜井庄之助・神谷与十郎、250石を田中市郎右衛門、各50石を荒井又六郎・小野久内、200石を木村伊右衛門、150石を柘植甚八郎らの采地とし、30石を米津内蔵助（のち出羽守）の領邑とした。後、神谷・田中・荒川・柘植らの収采のことは明らかではない。&lt;br /&gt;
* 寛文・延宝（1661年～1681年）から宝永・正徳（1704年～1716年）のころ、代官・領主らがそれぞれ検地して、ついに1473石5斗9升9合となる。このときには、577石3斗1升を代官支配し、99石5斗8升5合小野久内、159石7斗4合を桜井庄之助、200石を木村鎮太郎、305石を羽田槌太郎らの治めるところとし、141石を米津氏の堤封とし、それぞれ世襲した。&lt;br /&gt;
* 維新のはじめに至り、旗下の采地をことごとく治めて代官松村忠四郎の支配下に属し、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。米津氏の領地は同じく6月、[[龍ケ崎藩]]となる。そして改めて県と称する。&lt;br /&gt;
* 明治四年辛未（1871年）11月、両県（品川・龍ケ崎）を廃して[[入間県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 里程 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
* 四隣：本郡膝折村（元標）へ23町。小榑村（元標）へ27町。野火止村（中央）へ30町。多磨郡山村との境界へ23町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地勢 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 林と丘が対峙して、西南から東北に連なり渡っている。その間はやや平衍。黒目川がこれを貫く。薪・炭に富むけれども、高低があって運輸の便を得ることが難しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地味 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 真土であってその質が悪く、また粘りが少し。乾魚・油かす・ぬか・灰などの培養がなければ成熟しがたい。陸田ときどきひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 田：53町23歩&lt;br /&gt;
* 畑：400町7反22歩5厘&lt;br /&gt;
* 総計：453町7反1畝15歩5厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 飛地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本村の西の方、多磨郡神山村の内、畑（1町1反9畝13歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 字地 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;栗原&#039;&#039;&#039;（くりはら）：本村の西南の方にあって、黒目川の上流に沿う。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;又六&#039;&#039;&#039;（またろく）：本村の西南の方にある。東西7町、南北3町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野寺&#039;&#039;&#039;（のでら）：本村の南野方にある。東西7町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;北の原&#039;&#039;&#039;（きたのはら）：本村の西北の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;堀の内&#039;&#039;&#039;（ほりのうち）：本村の北の方にある。東西7町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;辻&#039;&#039;&#039;（つじ）：同上。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原&#039;&#039;&#039;（にしのはら）：同上。東西3町、南北8町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大下&#039;&#039;&#039;（おほしも）：本村の東北の方にある。東西3町、南北4町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬場&#039;&#039;&#039;（ばんば）：同上。東西3町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形&#039;&#039;&#039;（こまがた）：同上。東西4町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中の原&#039;&#039;&#039;（のなかのはら）：本村の東の方にある。東西9町、南北6町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;池田&#039;&#039;&#039;（いけだ）：本村の東南の方にある。東西10町、南北7町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;前原&#039;&#039;&#039;（まへはら）：本村の南の方にある。東西6町、南北5町。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;上中沢&#039;&#039;&#039;（かみなかさは）：同上。東西5町、南北4町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一両山（いちりゃうやま）、浅間（あさま）、坂上（さかうへ）、前通（まへとほり）、八石（はちこく）、貝沼（かひぬま）、根通（ねとほり）、殿山（とのやま）、上ノ原（うへのはら）、安才（あんざい）、道場（どうじゃう）、中通（なかとほり）、長町（ながちょう）、宮前（みやまへ）、原通（はらどうり）、宮坂（みやさか）、内畑（うちはたけ）、沢（さは）、下街道（しもかいどう）、芝山（しばやま）、畑中（はたけなか）、沼袋（ぬまふくろ）、天沼（あまぬま）、新塚（にひつか）などの名があって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 貢租 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 地租：米246石3斗6升7合、金431円21銭7厘&lt;br /&gt;
* 賦金：金60円50銭&lt;br /&gt;
* 総計：米246石3斗5升7合、金496円65銭2厘&amp;lt;ref&amp;gt;いずれも計算が合わないが原文ママとする&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戸数 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 本籍：371戸（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：3戸（平民）&lt;br /&gt;
* 社：14戸（村社5坐、平社9坐）&lt;br /&gt;
* 寺：4戸（浄土宗1宇、新義真言宗3宇）&lt;br /&gt;
* 堂：6戸&lt;br /&gt;
* 総計：398戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 男：1045口（平民）&lt;br /&gt;
* 女：1021口（平民）&lt;br /&gt;
* 寄留：男6口、女8口&lt;br /&gt;
* 総計：2080口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 牛馬 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舟車 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 荷車：155両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 山川 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：深いところ5～6尺、浅いところ2尺、幅3間。水は清い。本村の西南の方、多磨郡神山村から来て、迂曲して東北の方、膝折村に入る（支流があってともに水田に注ぐ）。その間1里24町50間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：所沢道に属する。村の東北の方、黒目川の下流に架す。長さ50間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;樋の橋&#039;&#039;&#039;：村の西北の方、黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し東北の方、字辻にある。黒目川の中流に架す。長さ5間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵橋&#039;&#039;&#039;：村の中央、少し東北の方、字馬場にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;坂下橋&#039;&#039;&#039;：字馬場にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新家橋&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。黒目川に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;馬喰ヶ戸橋&#039;&#039;&#039;：村の中央から少し西南の方、字貝沼にある。黒目川の上流に架す。長さ4間、幅7尺。土造。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大橋&#039;&#039;&#039;：村の西南の方、栗原と前通の間、黒目川の上流に架す。長さ3間、幅7尺。木製。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;小橋&#039;&#039;&#039;：字栗原にある。黒目川支流に架す。長さ2間、幅6尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 森林 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;野中林&#039;&#039;&#039;：あるいは[[広沢原]]ともいう。民有に属する。東西9町、南北6町あまり。反別69町6反あまり。村の東方にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）の類が多い。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;西の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西3町・南北8町。反別40町3反あまり。村の北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;殿山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北3町。反別13町8反あまり。村の西北にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;一両山林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北3町。反別8町あまり。村の西北の方にある。樹種は上に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の北辺にあって、膝折村の境界から野火止村の境界に至る。長さわずか2町反あまり、幅4間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;所沢道&#039;&#039;&#039;：東京から入間郡所沢に達する道で、里俗に清戸道ともいう。東野方、小榑村との境界から西の方、野火止村との境界に至る。長さ23町あまりで、幅はおおむね3間。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;掲示場&#039;&#039;&#039;：本村の中央、字長町にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神社 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[馬場氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西14間・南北5間・面積630坪。村の北の方、字宮前にある。素戔嗚尊を祭る。祭日9月11日。松・杉などの老樹がある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[武野神社|八幡社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西31間・南北35間・面積1088坪。村の南の方、丘上にある。誉田別尊を祭る。祭日8月1日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;駒形社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西16間・南北39間・面積622坪。村の東北の方、駒形にある。祭神未詳。また祭日も定まらず。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西22間・南北24間・面積536坪。村の西南の方にある。木花開耶姫命を祭る。祭日4月3日。承応二年癸巳3月4日、栗原義清という者が甲斐国八代郡にある浅間社をこの地に遷すという。また[[新編武蔵風土記稿]]に、地頭・木村氏が建立したと言い伝えるが、鎮座の年代は詳らかではない、とある。今、村吏の録申による。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西17間・南北35間・面積590坪。村の西の方、字前通にある。素戔嗚尊を祭る。祭日3月6日。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;厳島社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北6間・面積51坪。村の西南の方、字栗原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;第六天社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北9間・面積70坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北25間・面積158坪。村の北の方、字堀の内の丘の上にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;白山社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西6間・南北11間・面積64坪。位置・祭神・祭日等上に同じ。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;八雲社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西13間・南北17間・面積218坪。村の中央、字安才にある。祭神未詳。祭日未定。明治二年己巳、法台寺境内からこの地に遷座した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北23間あまり・面積350坪。村の中央、字道場にある。祭神未詳。祭日未定。旧辻村にあった8坐を明治二年中にこの場所に合祀した。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西15間・南北5間・面積69坪。村の東北の方、字駒形にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北20間・面積240坪。村の南の方、字前原にある。祭神未詳。祭日未定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 仏寺 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[法台寺]]&#039;&#039;&#039;：東西40間・南北57間・面積2288坪。浄土宗 東京芝増上寺の末派である。村の中央、字道場にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「当寺は昔、時宗の道場であって、遊行二世他阿真教上人の開基であるという。創建の年代は詳らかではない。上人は遊行16年で元応元年（1319年）正月27日、相州当麻山無量光寺において83才で示寂された。中興開山は普光観智国師である。国師は天文十三年、当国多磨郡由木村で生まれた。俗姓は由木氏。平山武者所季重の子孫、由木左衛門尉利重の次男である。十歳のとき、当寺に入って、蓮阿上人の弟子となるころまでは遊行僧であったが、国師十八歳のとき、鎮西派に改め、増上寺十世感誉在貞和尚の弟子となった。後、増上寺十二世の住持にうつり、元和六年（1620年）11月2日、75歳で示寂された。当寺、北条家分国のときは寄付の寺領も多かったが、御入国のはじめに召し上げられた。慶長年中、国師が乞うたために13石5斗の御朱印を賜り、今に至って変わらず」と載せている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[満行寺]]&#039;&#039;&#039;：東西24間・南北30間・面積716坪。新義真言宗。本国豊島郡石神井村三宝院の末派である。村の南の方、字野寺の崖下にある。開基・創建は詳らかではない。維新の際までは八幡社の別当である。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[東福寺]]&#039;&#039;&#039;：東西26間・南北30間・面積773坪。新義真言宗であり、本寺は上に同じ。村の方、字畑中にある。開基・創建とも未詳。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[蓮光寺]]&#039;&#039;&#039;：東西28間・南北32間・面積861坪。新義真言宗。本寺は上に同じ。村の中央、辻にある。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「開山法印重元、明徳三年の創建である。当寺は昔は村内氷川明神の別当であり、寺もその社地にあった。いつの頃にか今の地へ移り、別当職も原ヶ谷戸村円光院に譲ったという」と載っている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;観音堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北8間・面積68坪。村の西南の方、字栗原にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西9間あまり・南北9間・面積84坪。村の西の方、字根通にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西10間・南北21間・面積213坪。村の中央、字堀ノ内にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西7間・南北8間・面積52坪。村の中央、字内畑にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西5間・南北6間半あまり・面積33坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;釈迦堂&#039;&#039;&#039;：東西8間半・南北16間・面積136坪。村の中央、字辻にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 公立小学校：本村の中央にある。生徒　男68人、女29人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 村事務所 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 未だ設置せず。当寺戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古跡 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;新塚&#039;&#039;&#039;：高いこと1丈6～7尺で、周囲50間に余る。村の東野方、字新塚の原にある。由緒は詳らかではない。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「村の老人の説だが「もと二位塚とかいた。これは官女二位のしるしの塚である」といって二条の后のことを付会したものは妄説であって受け入れがたいことである」とある。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;円光院廃跡&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字駒形にある。もとは氷川社の別当で、本村東福寺の末派であったが、明治八年、これを廃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 物産 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 米：462石&lt;br /&gt;
* 大麦：1750石&lt;br /&gt;
* 小麦：922石&lt;br /&gt;
* 大豆：479石&lt;br /&gt;
* 甘藷：37万8000斤&lt;br /&gt;
* 藍葉：800貫目&lt;br /&gt;
* 鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：1万5000斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
穀物は大麦以外は余嬴があって、他所に販売し、甘藷は概ね東京に輸出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民業 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 農耕を専らとする（ときに男は木こり・薪・焼炭、女は養蚕・紡織をなすものがある）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注記 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E8%86%9D%E6%8A%98%E6%9D%91&amp;diff=333</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/膝折村</title>
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		<updated>2026-06-15T13:43:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 疆域 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[膝折村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==膝折村（ひざをり）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東・北の二方は[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼村]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡村]]に接し、南は[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]と野道または[[黒目川]]が境界となり、西は[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]との境が道路や耕田の畦・埒などとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字馬堀から）西（字西尻に至る）14町&lt;br /&gt;
*南（字土支田山から）北（字芹沢に至る）30町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
*正保（1644年～1648年）のころは村高373石あって、300石を旗下の士・佐野左京の采地とし、それ以外は代官が支配した。後、すべて直轄の地となった。（佐野某の采地を転収した年代はいまだよくわからない。万治三年（1660年）に同氏が検地したことが見えるので、寛文（1661年～1673年）より後であろう。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至り、高459石3升5合を代官・松村忠四郎が支配した。&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：野火止村へ15町。片山村へ23町。溝沼村へ12町。白子村へ1里8町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ1里5町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*東西の境のあたりは高い岡で懸崖がある。黒目川が南北に貫流している。運輸の便を得る。薪・炭も乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*赤・黒交種で、その質は悪く、菽・麦にはやや適するが、他の植物にはよろしくない。陸田が多いため、時々ひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：9町6畝歩&lt;br /&gt;
*畑：164町3反9畝14歩&lt;br /&gt;
*総計：173町4反5畝14歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村の南方、本郡片山村の内、田1反9畝20歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の原&#039;&#039;&#039;（かみのはら）：村の東方にある。東西10町37間、南北7町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;後原&#039;&#039;&#039;（うしろはら）：村の北方にある。東西7町48間、南北9町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;宿&#039;&#039;&#039;（しゅく）：村の中央にある。東西5町35間、南北6町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;二タ又&#039;&#039;&#039;（ふたまた）：村の西北にある。東西4町6間、南北6町53間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;子の神&#039;&#039;&#039;（ねのかみ）：村の南にある。東西6町3間、南北6町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;蛇久保&#039;&#039;&#039;（へびくぼ）：村の南方にある。東西8町33間、南北8町58間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;広沢原&#039;&#039;&#039;（ひろさははら）：村の東南にある。東西4町39間、南北8町56間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地倍&#039;&#039;&#039;（じばい）：村の北方にある。東西7町9間、南北6町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;島の上&#039;&#039;&#039;（しまのうへ）：村の北方にある。東西4町52間、南北6町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;下の原&#039;&#039;&#039;（しものはら）：村の西北にある。東西13町20間、南北13町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬堀（まほり）、下屋敷（しもやしき）、未なし川、古新田、貫井（ぬくゐ）、宮戸原（みやとはら）新田、とうかくぼ、熊ノ山、中道、たてだし、永山下、芹沢、西尻、一里山、元坂下、五反田、一里塚、永山、泉水前、中田、熊ノ山下、下田、堰上（せきうへ）坂上、大屋鋪脇、島の前、堰根（せきね）、元坂上、古屋敷、下の坂上、上田（かみた）、町田（まちだ）、土支田山、寺上などがあって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米125石5合、金182円91銭3厘&lt;br /&gt;
*賦金：金45円50銭&lt;br /&gt;
*総計：米25石5合、金328円41銭3厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：141戸（士族1戸、平民140戸）&lt;br /&gt;
*寄留：16戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：4戸（村社1坐、平社3坐）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*堂：2宇&lt;br /&gt;
*総計：174戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：405口（士族2口、平民403口）&lt;br /&gt;
*女：390口（士族3口、平民387口）&lt;br /&gt;
*総計：795口&lt;br /&gt;
*ほか寄留　男16口、女16口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：8頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：35両（中小）&lt;br /&gt;
*人力車：6両&lt;br /&gt;
*総計：41両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：幅は広いところ5間、狭いところ3間、深いところ5～6尺、浅いところ2尺。本村の南方、片山村から来て、西南の辺境を流れ、字地倍から斜めに右に折れて、北の方、溝沼村に入る。その間の長さ20町あまり&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川分水支流&#039;&#039;&#039;：幅おおむね3尺。本村の北辺にあって、野火止村から入り、その長さ5町余りで、また同祖運に出る。多くその近傍の飲水に供する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地倍橋&#039;&#039;&#039;：[[川越街道]]に属し、本村の西方、黒目川の中流に架す。幅8尺、長さ4間。木製。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：作場路あるいは式に至る村路で、村の北方、黒目川の下流に架す。幅7尺、長さ5間。土造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：川越街道に属する。本村の西、黒目川の支流に架す。幅9尺、長さ7尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北4町あまり。反別5町2畝5歩。字上ノ原にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）などの類が生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;蛇久保林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西6町あまり・南北4町。反別10町6反5畝。村の東の方、字蛇久保にある。楢・松などが生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢原]]林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町あまり・南北8町あまり。反別10町1反あまり。村の東南、字広沢原にある。楢の木のたぐいが多い。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;島の上林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町あまり・南北6町。反別4町8反7畝。西北の方、字島の上にある。松・楢・椚の樹種が生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;下の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北1町あまり。反別9町2反。村の東北の方、字下の原にある。樹種は前と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の東の方、溝沼村との境界から、西の方、野火止村との境界に至る。長さ20町あまり、幅おおむね4間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;村路&#039;&#039;&#039;：村の西北の方にあって、本村・野火止村から志木宿に達する道である。幅おおむね3間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[子ノ神氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西53間・南北68間・面積1550坪。本村の南野方、字子の神にある。素戔嗚尊を祭る。祭日は4月15日。勧請年月は未詳。境内に松・杉などの老樹が繁茂している。また御嶽社・阿夫利社・厳島社・稲荷社・第六天社・大麻止豆乃天神社・疱瘡守護神・三峯社・天神社などの小祠を境内に勧請している。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;愛宕社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北3間あまり・面積13坪。本村の西方、字宿の端にある。天軻遇突知命を祭る。勧請年月未詳。祭日6月24日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西17間あまり・南北13間・面積287坪。本村の北方にある。倉稲魂命を祭る。勧請年月未詳。祭日は定まらない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西18間・南北14間あまり・面積287坪。村の東北の方、字宮戸原にある。祭神は同じ。勧請年月、祭日なども同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[一乗院]]&#039;&#039;&#039;：東西27間・南北35間あまり・面積866坪。新義真言宗 豊島郡石神井村三宝寺の末派である。本尊十一面観音を安置している。開基・創建年代は未詳。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「ただ口碑に伝えたことでは、この村開闢のころ、高麗氏の開基であるという」と載っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西35間あまり・南北23間・面積593坪。本村一乗院の末庵である。村の東方、字坂上。小高いところにある。建立の年暦は詳らかではないが、元禄の頃であると口碑に伝える。そのため、土地の人は元禄地蔵尊と言っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西18間・南北20間あまり・面積327坪。これもまた本村一乗院の末派である。村の北の方、字宿のうらにある。元禄七年甲戌8月、常念比丘が建立したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*持明院廃跡：本村の中央にある。無住無檀であるため、明治8年9月に廃して、今は畑地となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：本村の東の方にある。生徒　男44人、女31人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：136石4斗&lt;br /&gt;
*大麦：261石余り&lt;br /&gt;
*小麦：258石5斗&lt;br /&gt;
*大豆：164石1斗5升&lt;br /&gt;
*鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：40万斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甘藷は余嬴があって、東京もしくは本郡志木宿あたりに販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女、農耕を専らとする。もっとも、銅線を業とする者5戸。水車を業とする者12戸ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|ひさおり]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E8%86%9D%E6%8A%98%E6%9D%91&amp;diff=332</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/膝折村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E8%86%9D%E6%8A%98%E6%9D%91&amp;diff=332"/>
		<updated>2026-06-14T15:03:50Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 学校 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[膝折村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==膝折村（ひざをり）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は東・北の二方は[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼村]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡村]]に接し、南は[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]と野道または[[黒目川]]が境界となり、西は[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]との境が道路や耕田の畦・埒などとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字馬堀から）西（字西尻に至る）14町&lt;br /&gt;
*南（字土支田山から）北（字芹沢に至る）30町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
*正保（1644年～1648年）のころは村高373石あって、300石を旗下の士・佐野左京の采地とし、それ以外は代官が支配した。後、すべて直轄の地となった。（佐野某の采地を転収した年代はいまだよくわからない。万治三年（1660年）に同氏が検地したことが見えるので、寛文（1661年～1673年）より後であろう。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至り、高459石3升5合を代官・松村忠四郎が支配した。&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：野火止村へ15町。片山村へ23町。溝沼村へ12町。白子村へ1里8町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ1里5町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*東西の境のあたりは高い岡で懸崖がある。黒目川が南北に貫流している。運輸の便を得る。薪・炭も乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*赤・黒交種で、その質は悪く、菽・麦にはやや適するが、他の植物にはよろしくない。陸田が多いため、時々ひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：9町6畝歩&lt;br /&gt;
*畑：164町3反9畝14歩&lt;br /&gt;
*総計：173町4反5畝14歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村の南方、本郡片山村の内、田1反9畝20歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の原&#039;&#039;&#039;（かみのはら）：村の東方にある。東西10町37間、南北7町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;後原&#039;&#039;&#039;（うしろはら）：村の北方にある。東西7町48間、南北9町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;宿&#039;&#039;&#039;（しゅく）：村の中央にある。東西5町35間、南北6町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;二タ又&#039;&#039;&#039;（ふたまた）：村の西北にある。東西4町6間、南北6町53間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;子の神&#039;&#039;&#039;（ねのかみ）：村の南にある。東西6町3間、南北6町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;蛇久保&#039;&#039;&#039;（へびくぼ）：村の南方にある。東西8町33間、南北8町58間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;広沢原&#039;&#039;&#039;（ひろさははら）：村の東南にある。東西4町39間、南北8町56間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地倍&#039;&#039;&#039;（じばい）：村の北方にある。東西7町9間、南北6町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;島の上&#039;&#039;&#039;（しまのうへ）：村の北方にある。東西4町52間、南北6町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;下の原&#039;&#039;&#039;（しものはら）：村の西北にある。東西13町20間、南北13町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬堀（まほり）、下屋敷（しもやしき）、未なし川、古新田、貫井（ぬくゐ）、宮戸原（みやとはら）新田、とうかくぼ、熊ノ山、中道、たてだし、永山下、芹沢、西尻、一里山、元坂下、五反田、一里塚、永山、泉水前、中田、熊ノ山下、下田、堰上（せきうへ）坂上、大屋鋪脇、島の前、堰根（せきね）、元坂上、古屋敷、下の坂上、上田（かみた）、町田（まちだ）、土支田山、寺上などがあって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米125石5合、金182円91銭3厘&lt;br /&gt;
*賦金：金45円50銭&lt;br /&gt;
*総計：米25石5合、金328円41銭3厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：141戸（士族1戸、平民140戸）&lt;br /&gt;
*寄留：16戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：4戸（村社1坐、平社3坐）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*堂：2宇&lt;br /&gt;
*総計：174戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：405口（士族2口、平民403口）&lt;br /&gt;
*女：390口（士族3口、平民387口）&lt;br /&gt;
*総計：795口&lt;br /&gt;
*ほか寄留　男16口、女16口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：8頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：35両（中小）&lt;br /&gt;
*人力車：6両&lt;br /&gt;
*総計：41両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：幅は広いところ5間、狭いところ3間、深いところ5～6尺、浅いところ2尺。本村の南方、片山村から来て、西南の辺境を流れ、字地倍から斜めに右に折れて、北の方、溝沼村に入る。その間の長さ20町あまり&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川分水支流&#039;&#039;&#039;：幅おおむね3尺。本村の北辺にあって、野火止村から入り、その長さ5町余りで、また同祖運に出る。多くその近傍の飲水に供する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地倍橋&#039;&#039;&#039;：[[川越街道]]に属し、本村の西方、黒目川の中流に架す。幅8尺、長さ4間。木製。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：作場路あるいは式に至る村路で、村の北方、黒目川の下流に架す。幅7尺、長さ5間。土造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：川越街道に属する。本村の西、黒目川の支流に架す。幅9尺、長さ7尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北4町あまり。反別5町2畝5歩。字上ノ原にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）などの類が生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;蛇久保林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西6町あまり・南北4町。反別10町6反5畝。村の東の方、字蛇久保にある。楢・松などが生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢原]]林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町あまり・南北8町あまり。反別10町1反あまり。村の東南、字広沢原にある。楢の木のたぐいが多い。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;島の上林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町あまり・南北6町。反別4町8反7畝。西北の方、字島の上にある。松・楢・椚の樹種が生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;下の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北1町あまり。反別9町2反。村の東北の方、字下の原にある。樹種は前と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の東の方、溝沼村との境界から、西の方、野火止村との境界に至る。長さ20町あまり、幅おおむね4間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;村路&#039;&#039;&#039;：村の西北の方にあって、本村・野火止村から志木宿に達する道である。幅おおむね3間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[子ノ神氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西53間・南北68間・面積1550坪。本村の南野方、字子の神にある。素戔嗚尊を祭る。祭日は4月15日。勧請年月は未詳。境内に松・杉などの老樹が繁茂している。また御嶽社・阿夫利社・厳島社・稲荷社・第六天社・大麻止豆乃天神社・疱瘡守護神・三峯社・天神社などの小祠を境内に勧請している。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;愛宕社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北3間あまり・面積13坪。本村の西方、字宿の端にある。天軻遇突知命を祭る。勧請年月未詳。祭日6月24日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西17間あまり・南北13間・面積287坪。本村の北方にある。倉稲魂命を祭る。勧請年月未詳。祭日は定まらない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西18間・南北14間あまり・面積287坪。村の東北の方、字宮戸原にある。祭神は同じ。勧請年月、祭日なども同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[一乗院]]&#039;&#039;&#039;：東西27間・南北35間あまり・面積866坪。新義真言宗 豊島郡石神井村三宝寺の末派である。本尊十一面観音を安置している。開基・創建年代は未詳。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「ただ口碑に伝えたことでは、この村開闢のころ、高麗氏の開基であるという」と載っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西35間あまり・南北23間・面積593坪。本村一乗院の末庵である。村の東方、字坂上。小高いところにある。建立の年暦は詳らかではないが、元禄の頃であると口碑に伝える。そのため、土地の人は元禄地蔵尊と言っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西18間・南北20間あまり・面積327坪。これもまた本村一乗院の末派である。村の北の方、字宿のうらにある。元禄七年甲戌8月、常念比丘が建立したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*持明院廃跡：本村の中央にある。無住無檀であるため、明治8年9月に廃して、今は畑地となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：本村の東の方にある。生徒　男44人、女31人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：136石4斗&lt;br /&gt;
*大麦：261石余り&lt;br /&gt;
*小麦：258石5斗&lt;br /&gt;
*大豆：164石1斗5升&lt;br /&gt;
*鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：40万斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甘藷は余嬴があって、東京もしくは本郡志木宿あたりに販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女、農耕を専らとする。もっとも、銅線を業とする者5戸。水車を業とする者12戸ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|ひさおり]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E8%86%9D%E6%8A%98%E6%9D%91&amp;diff=331</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/膝折村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E8%86%9D%E6%8A%98%E6%9D%91&amp;diff=331"/>
		<updated>2026-06-12T12:58:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の膝折村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==膝折村（ひざをり）==  本村はいにしえ野方領に属する。  ===疆域=== 東は東・北の二方は溝沼村・岡村に接し、南は片山村と野道または…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[膝折村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==膝折村（ひざをり）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は東・北の二方は[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼村]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡村]]に接し、南は[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山村]]と野道または[[黒目川]]が境界となり、西は[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止]]との境が道路や耕田の畦・埒などとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字馬堀から）西（字西尻に至る）14町&lt;br /&gt;
*南（字土支田山から）北（字芹沢に至る）30町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
*正保（1644年～1648年）のころは村高373石あって、300石を旗下の士・佐野左京の采地とし、それ以外は代官が支配した。後、すべて直轄の地となった。（佐野某の采地を転収した年代はいまだよくわからない。万治三年（1660年）に同氏が検地したことが見えるので、寛文（1661年～1673年）より後であろう。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至り、高459石3升5合を代官・松村忠四郎が支配した。&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：野火止村へ15町。片山村へ23町。溝沼村へ12町。白子村へ1里8町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ1里5町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*東西の境のあたりは高い岡で懸崖がある。黒目川が南北に貫流している。運輸の便を得る。薪・炭も乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*赤・黒交種で、その質は悪く、菽・麦にはやや適するが、他の植物にはよろしくない。陸田が多いため、時々ひでりに苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：9町6畝歩&lt;br /&gt;
*畑：164町3反9畝14歩&lt;br /&gt;
*総計：173町4反5畝14歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村の南方、本郡片山村の内、田1反9畝20歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の原&#039;&#039;&#039;（かみのはら）：村の東方にある。東西10町37間、南北7町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;後原&#039;&#039;&#039;（うしろはら）：村の北方にある。東西7町48間、南北9町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;宿&#039;&#039;&#039;（しゅく）：村の中央にある。東西5町35間、南北6町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;二タ又&#039;&#039;&#039;（ふたまた）：村の西北にある。東西4町6間、南北6町53間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;子の神&#039;&#039;&#039;（ねのかみ）：村の南にある。東西6町3間、南北6町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;蛇久保&#039;&#039;&#039;（へびくぼ）：村の南方にある。東西8町33間、南北8町58間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;広沢原&#039;&#039;&#039;（ひろさははら）：村の東南にある。東西4町39間、南北8町56間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地倍&#039;&#039;&#039;（じばい）：村の北方にある。東西7町9間、南北6町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;島の上&#039;&#039;&#039;（しまのうへ）：村の北方にある。東西4町52間、南北6町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;下の原&#039;&#039;&#039;（しものはら）：村の西北にある。東西13町20間、南北13町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬堀（まほり）、下屋敷（しもやしき）、未なし川、古新田、貫井（ぬくゐ）、宮戸原（みやとはら）新田、とうかくぼ、熊ノ山、中道、たてだし、永山下、芹沢、西尻、一里山、元坂下、五反田、一里塚、永山、泉水前、中田、熊ノ山下、下田、堰上（せきうへ）坂上、大屋鋪脇、島の前、堰根（せきね）、元坂上、古屋敷、下の坂上、上田（かみた）、町田（まちだ）、土支田山、寺上などがあって、ことごとく載せがたいので、今は著名なものだけを掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米125石5合、金182円91銭3厘&lt;br /&gt;
*賦金：金45円50銭&lt;br /&gt;
*総計：米25石5合、金328円41銭3厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：141戸（士族1戸、平民140戸）&lt;br /&gt;
*寄留：16戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：4戸（村社1坐、平社3坐）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*堂：2宇&lt;br /&gt;
*総計：174戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：405口（士族2口、平民403口）&lt;br /&gt;
*女：390口（士族3口、平民387口）&lt;br /&gt;
*総計：795口&lt;br /&gt;
*ほか寄留　男16口、女16口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：8頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：35両（中小）&lt;br /&gt;
*人力車：6両&lt;br /&gt;
*総計：41両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;：幅は広いところ5間、狭いところ3間、深いところ5～6尺、浅いところ2尺。本村の南方、片山村から来て、西南の辺境を流れ、字地倍から斜めに右に折れて、北の方、溝沼村に入る。その間の長さ20町あまり&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川分水支流&#039;&#039;&#039;：幅おおむね3尺。本村の北辺にあって、野火止村から入り、その長さ5町余りで、また同祖運に出る。多くその近傍の飲水に供する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地倍橋&#039;&#039;&#039;：[[川越街道]]に属し、本村の西方、黒目川の中流に架す。幅8尺、長さ4間。木製。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：作場路あるいは式に至る村路で、村の北方、黒目川の下流に架す。幅7尺、長さ5間。土造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：川越街道に属する。本村の西、黒目川の支流に架す。幅9尺、長さ7尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西2町・南北4町あまり。反別5町2畝5歩。字上ノ原にある。楢（なら）・椚（くぬぎ）などの類が生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;蛇久保林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西6町あまり・南北4町。反別10町6反5畝。村の東の方、字蛇久保にある。楢・松などが生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢原]]林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町あまり・南北8町あまり。反別10町1反あまり。村の東南、字広沢原にある。楢の木のたぐいが多い。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;島の上林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町あまり・南北6町。反別4町8反7畝。西北の方、字島の上にある。松・楢・椚の樹種が生えている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;下の原林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。東西4町・南北1町あまり。反別9町2反。村の東北の方、字下の原にある。樹種は前と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の東の方、溝沼村との境界から、西の方、野火止村との境界に至る。長さ20町あまり、幅おおむね4間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;村路&#039;&#039;&#039;：村の西北の方にあって、本村・野火止村から志木宿に達する道である。幅おおむね3間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[子ノ神氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西53間・南北68間・面積1550坪。本村の南野方、字子の神にある。素戔嗚尊を祭る。祭日は4月15日。勧請年月は未詳。境内に松・杉などの老樹が繁茂している。また御嶽社・阿夫利社・厳島社・稲荷社・第六天社・大麻止豆乃天神社・疱瘡守護神・三峯社・天神社などの小祠を境内に勧請している。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;愛宕社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西8間・南北3間あまり・面積13坪。本村の西方、字宿の端にある。天軻遇突知命を祭る。勧請年月未詳。祭日6月24日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西17間あまり・南北13間・面積287坪。本村の北方にある。倉稲魂命を祭る。勧請年月未詳。祭日は定まらない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西18間・南北14間あまり・面積287坪。村の東北の方、字宮戸原にある。祭神は同じ。勧請年月、祭日なども同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[一乗院]]&#039;&#039;&#039;：東西27間・南北35間あまり・面積866坪。新義真言宗 豊島郡石神井村三宝寺の末派である。本尊十一面観音を安置している。開基・創建年代は未詳。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「ただ口碑に伝えたことでは、この村開闢のころ、高麗氏の開基であるという」と載っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;地蔵堂&#039;&#039;&#039;：東西35間あまり・南北23間・面積593坪。本村一乗院の末庵である。村の東方、字坂上。小高いところにある。建立の年暦は詳らかではないが、元禄の頃であると口碑に伝える。そのため、土地の人は元禄地蔵尊と言っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;阿弥陀堂&#039;&#039;&#039;：東西18間・南北20間あまり・面積327坪。これもまた本村一乗院の末派である。村の北の方、字宿のうらにある。元禄七年甲戌8月、常念比丘が建立したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*持明院廃跡：本村の中央にある。無住無檀であるため、明治8年9月に廃して、今は畑地となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：本村の東野方にある。生徒　男44人、女31人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：136石4斗&lt;br /&gt;
*大麦：261石余り&lt;br /&gt;
*小麦：258石5斗&lt;br /&gt;
*大豆：164石1斗5升&lt;br /&gt;
*鍼線&amp;lt;ref&amp;gt;銅の針金&amp;lt;/ref&amp;gt;：40万斤&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甘藷は余嬴があって、東京もしくは本郡志木宿あたりに販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女、農耕を専らとする。もっとも、銅線を業とする者5戸。水車を業とする者12戸ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|ひさおり]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E6%A9%8B%E6%88%B8%E6%9D%91&amp;diff=330</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/橋戸村</title>
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		<updated>2026-06-09T13:48:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の橋戸村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==橋戸村（はしど）==  本村はいにしえ新倉郷広沢庄野方領に属する。かつて上白子村・橋戸村の両村であったが、明治七年（1874年）8月に合わせて1村となった（伊賀組給地を上白子村といい、今の白子村の内の同給の…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[橋戸村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==橋戸村（はしど）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。かつて上白子村・橋戸村の両村であったが、明治七年（1874年）8月に合わせて1村となった（伊賀組給地を上白子村といい、今の白子村の内の同給の地を指して下白子村と対で称し、代官の支配する地を橋戸村と称した、と里胥（地方の官吏）がいう。その両村の称を用いた年暦は明らかではない。正保・元禄の図に白子村とあるのは、今の白子村の方を指すのであろう）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は豊島郡下土支田村と小路あるいは用水が境界となっており、南は同郡上土支田村と用水を隔て、西は本郡[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑村]]に接し、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/新倉村|新倉]]・[[武蔵国新座郡村誌/白子村|白子]]の両村に連なる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字八ヶ谷戸から）西（字影山に至る）10町&lt;br /&gt;
*南（字外山から）北（字広沢原に至る）25町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
*明年辛卯（1591年）11月、伊賀組（あるいは伊賀者衆と称し、与力同心の一種であって、江戸四ツ谷伊賀町に住んだ）に賜った後、新たに開墾した地を代官の支配とした。（『武蔵国田園簿』に、高150石 伊賀衆知行、外に永1貫386文野銭 野村彦太夫御代官所とある）&lt;br /&gt;
*今古、村高287石9斗7升1勺4才あって、その27石1升4合は代官の支配、260石9斗5升6合1勺4才は伊賀組の給地である。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至り、直轄の地は代官・松村忠四郎が支配した。&lt;br /&gt;
*維新の際、ともに[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東14里。&lt;br /&gt;
*四隣：本郡白子村（元標）へ30町25間。小榑村（元標）へ20町。下新倉村（元標）へ1里5町、豊島郡上土支田村（元標）へ15町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
村の中央、中耕・中丸・影山の三字地にまたがる道路の三叉を元標の位置と定める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*東南に林・丘を負い、西北は平地。運輸に便があり、かつ薪に富み、炭に乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色は赤・黒。その質は悪く、稲・赤土は甘藷に適し、黒土は菽・麦によろしい。水田は冷水があるため苦しむ。田畑とも概してその質は中味にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：25町6反1畝1歩&lt;br /&gt;
*畑：68町5反5畝6歩&lt;br /&gt;
*総計：94町1反6畝25歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※村吏の録申を採る&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;広沢原&#039;&#039;&#039;（ひろさははら）：村の北隅にある。東西2町40間、南北5町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;北原&#039;&#039;&#039;（きたはら）：広沢原の南に連なる。東西6町20間、南北2町50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;越後山&#039;&#039;&#039;（ゑちごやま）：北原の東に連なる。東西6町10間、南北3町50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中里&#039;&#039;&#039;（なかさと）：越後山の南に連なる。東西8町20間、南北3町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;八ツ谷戸&#039;&#039;&#039;（はつがやと）：中里の南に連なる。東3町40間、南北5町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中耕&#039;&#039;&#039;（なかがう）：八ツが谷戸の南に連なる。東西3町25間、南北5町40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;影山&#039;&#039;&#039;（かげやま）：中耕の西に連なる。東西4町、南北4町40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;宮久保&#039;&#039;&#039;（みやくぼ）：影山の南に連なる。東西2町20間、南北4町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中丸&#039;&#039;&#039;（なかまる）：宮久保の東に連なる。東西3町15間、南北5町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;愛宕下&#039;&#039;&#039;（あたごした）：中丸の東に連なる。東西3町20間、南北3町40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;谷&#039;&#039;&#039;（や）：愛宕下の南に連なる。東西2町20間、南北3町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;前田&#039;&#039;&#039;（まへた）：谷の西に連なる。東西3町40間、南北3町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;打越&#039;&#039;&#039;（うちこし）：前田の西に連なる。東西2町25間、南北4町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;外山&#039;&#039;&#039;（とやま）：打越の南隅に連なる。東西1町35間、南北1町55間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米91石8斗7升5合、金52円78銭1厘&lt;br /&gt;
*賦金：金22円50銭&lt;br /&gt;
*総計：米91石8斗7升5合、金75円28銭1厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※村吏録申による&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：55戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：2戸（村社1坐、平社1坐）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（新義真言宗）&lt;br /&gt;
*総計：58戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：184口（平民）&lt;br /&gt;
*女：176口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：360口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：1頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：28両（小車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;小井戸川&#039;&#039;：『[[新編武蔵風土記稿]]』に[[白子川]]と載せている。村の西南の方、豊島郡上土支田村から来て、東の方、本郡白子村に入る。その間32町43間。幅おおむね3間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;別荘橋&#039;&#039;&#039;：村の東の方、小井戸川下流に架す。幅2間、長さ2間半。土造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：村の東北の方、字北原・中耕・中里の境にある。小井戸川の中流に架す。幅7尺、長さ9尺。石造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：村の東南、字谷・愛宕下の境にある。小井戸川上流に架す。幅6尺、長さ6尺。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢原]]林&#039;&#039;&#039;：民有に属する。反別14町2反2畝25歩。村の北方にある。楢葉あるいは痩松の類が生えている。このほか、四方に散在する。今、ことごとくは載せない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;村路&#039;&#039;&#039;：4条ある。1つは村の西の方、小榑村との境から来て豊島郡上土支田村に達する。1つは小榑村との境から来て村の中央に至り、分岐して上土支田・下土支田の両村に通じる。1つは村の北の方、下新倉村との境から来て下土支田村に入る。もっともそれほどの路ではないので一々載せない。&lt;br /&gt;
*掲示場：村の東の方、字中里にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[大泉氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は丁字形をなし、四方の間数をとりにくい。面積532坪。村の西南にある。素戔嗚尊を祭る。祭日1月17日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;愛宕社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西32間半・南北19間半・面積633坪。村の東南、字愛宕下にある。創建・祭神未詳。祭日7月24日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[教学院]]&#039;&#039;&#039;：東西30間・南北25間・面積398坪。新義真言宗 豊島郡上石神井村三宝寺の末派である。村の西南にある。開基・創建は詳らかではない。『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「文永五年、長全法印が開山する。中興開山は良賢法印というが、その時代は詳らかではない」と載っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：村の西南の方、教学院を仮用している。生徒　男25人、女15人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：143石5斗&lt;br /&gt;
*大麦：200石余り&lt;br /&gt;
*小麦：241石6斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米・麦は余嬴があって、よそに輸出し、大豆・木炭などもまた東京辺に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女、農耕を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|はしと]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%99%BD%E5%AD%90%E6%9D%91&amp;diff=329</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/白子村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E7%99%BD%E5%AD%90%E6%9D%91&amp;diff=329"/>
		<updated>2026-06-06T02:08:33Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の白子村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==白子村（しらこ）==  本村はいにしえ広沢庄野方領に属する。直轄代官支配していた地を単に「白子村」といい、給地を「下白子村」と称して区域を成していたが（本郡橋戸村の条を併せて…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[白子村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==白子村（しらこ）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[広沢庄]][[野方領]]に属する。直轄代官支配していた地を単に「白子村」といい、給地を「下白子村」と称して区域を成していたが（本郡[[武蔵国新座郡村誌/橋戸村|橋戸村]]の条を併せて見ること）、維新の後、下白子の呼称を廃して、一村だけという体裁に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は豊島郡成増村と悪水工作場路が境界となっており、南は豊島郡下土支田村に接し、西は本郡[[武蔵国新座郡村誌/橋戸村|橋戸]]・[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑]]の両村と入りまじり、北は本郡[[武蔵国新座郡村誌/下新倉村|下新倉]]と隣り合っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字市場から）西（字向山至る）31町&lt;br /&gt;
*南（字午房から）北（字宿に至る）12町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*徳川氏東遷の明年すなわち天正十九年辛卯11月、伊賀組（あるいは伊賀者衆と称し、与力同心の一種であって、江戸四ツ谷伊賀町に住んだ者がこれである）に賜った後、新たに開墾した地を代官の支配とした。（『武蔵国田園簿』に、高145石6斗6升 伊賀衆知行外永1貫636文野銭 野村彦太夫御代官所とある）&lt;br /&gt;
*今、古村高352石2升6合9勺あって、その94石2斗8升8合は代官の支配、257石7斗3升8合9勺は伊賀組の給地である。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至り、直轄の地は代官・松村忠四郎が支配した。&lt;br /&gt;
*維新の際、ともに[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里4町。&lt;br /&gt;
*四隣：豊島郡成増村（中央）へ10町。本郡橋戸村（中央）へ26町。豊島郡下土支田村（中央）へ15町。本郡下新倉村（中央）へ18町。（元標は川越街道にあって、本村東入口郡境をへだてること2町26間1尺にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*東南の辺境はやや平坦。西北は丘岡であって林が多く、川越街道がその中央を東南から西北に横断している。運輸に便利。炭・薪も余嬴がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色は赤・黒の2種。赤土は甘藷に適し、黒土は菽・麦によろしい。水田は冷水があるため苦しむ。田畑とも概してその質は中味にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：20町7反20歩&lt;br /&gt;
*畑：92町2反4畝&lt;br /&gt;
*総計：113町2畝20歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※村吏録申による&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村の南の方、豊島郡下土支田村の内、畑（9反1畝2歩）、西の方4町を離れて林（17町7反2畝歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;宿&#039;&#039;&#039;（しゅく）：村の中央にある。東西6町、南北5町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;城山&#039;&#039;&#039;（しろやま）：宿の東に連なる。東西4町、南北5町50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;市場&#039;&#039;&#039;（いちば）：城山の東に連なる。東西6町40間、南北4町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;午房&#039;&#039;&#039;（ごぼう）：宿の西南に連なる。東西7町30間、南北10町30間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米145石3斗、金98円40銭9厘&lt;br /&gt;
*賦金：金73円73銭&lt;br /&gt;
*総計：米145石3斗、金172円22銭2厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：132戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：1戸（村社）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（天台宗）&lt;br /&gt;
*堂：1戸&lt;br /&gt;
*総計：135戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：402口（平民）&lt;br /&gt;
*女：415口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：817口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：8頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*人力車：12両&lt;br /&gt;
*荷車：54両&lt;br /&gt;
*農車：10両&lt;br /&gt;
*総計：76両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;川&#039;&#039;&#039;：里俗に大川と唱えて公称なし（『[[新編武蔵風土記稿]]』その他の書に[[白子川]]の名があるため、これを土豪の村吏・富沢某に直接質問したが、ないと断言したため、このように記した。上流の橋戸、下流の下新倉の両村についても併せて見ること）。深いところ二尺、幅4間。西の方、橋戸村から来て本村の南部を貫流し、あるいは成増村の境界を東に流れて下新倉村に入る。その間11町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：川越街道に属する。村の南辺、字大川に架かっている。長さ4間半、幅2間。土造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*林：[[広沢原]]といい、民有に属する。東西8町20間・南北5町20間・反別39町5反9畝。村の西端にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：東の方、豊島郡成増村との境界から西の方、新座郡下新倉村との境界に至る。長さ6町21間、幅4間。&lt;br /&gt;
*掲示場：本村東口から3町にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[武州白子熊野神社|熊野社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西57間・南北50間・面積2009坪。本村の北の方にある。伊弉諾尊・天照大日孁命・熊野加武呂命を祭る。祭日2月28日・9月28日。また境内に富士社その他の小祠がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[地福寺]]&#039;&#039;&#039;：東西35間・南北53間8歩・面積1188坪。天台宗 入間郡小仙波村喜多院の末派である。本村の北の方にある。開基・中興・創立年暦未詳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：村の西の方にある。生徒　男48人、女40人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*村の中央にある。富沢某の自宅を用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===郵便局===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時郵便取扱役の自宅を用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：224石6斗2升3合&lt;br /&gt;
*大麦：657石2斗1升5合&lt;br /&gt;
*小麦：238石9斗8升5合&lt;br /&gt;
*大豆：124石1斗7升7合&lt;br /&gt;
*粟：27石3斗7升&lt;br /&gt;
*黍：74石6斗7升&lt;br /&gt;
*稗：100石3斗3升&lt;br /&gt;
*ソバ：103石5斗6升&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
麦は粉・麺などに製して東京に輸出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女とも農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|しらこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8B%E6%96%B0%E5%80%89%E6%9D%91&amp;diff=328</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/下新倉村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8B%E6%96%B0%E5%80%89%E6%9D%91&amp;diff=328"/>
		<updated>2026-06-05T12:46:43Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の下新倉村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==下新倉村（しもにひくら）==  本村はいにしえの郷・庄・領などの名、及び上下に分かれた年暦は上新倉村の条に述べたとおりである。&amp;lt;ref&amp;gt;新倉郷広沢庄野方領に属する。上下に分か…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[下新倉村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==下新倉村（しもにひくら）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえの郷・庄・領などの名、及び上下に分かれた年暦は[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉村]]の条に述べたとおりである。&amp;lt;ref&amp;gt;[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。上下に分かれた年代はわからない&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は豊島郡成増村と野川が境界となっており、南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/白子村|白子]]と野道を挟む。西は本郡[[武蔵国新座郡村誌/橋戸村|橋戸]]・[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉]]の両村に接する。北は荒川を隔てて足立郡の内谷・下笹目の2村と隣り合っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字吹上　成増村界　野川縁から）西（白子・上新倉両村の境、広沢原の西端に至る）32町50間&lt;br /&gt;
*南（字中新田・白子村境から）北（字雑丹袋荒川境に至る）18町50間&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）、徳川氏の所領となり、酒井河内守重忠に賜う。&lt;br /&gt;
*慶長年中、その弟・酒井備後守忠利に代わる。&lt;br /&gt;
*寛永のはじめ、忠利の子・忠勝に至って、弟・壱岐守忠重（つまり忠利の三男）に与える。&lt;br /&gt;
*正保のころ、村高396石6升9合。酒井内記の所有となる。（この内記という者は壱岐守の子であろうか。『[[新編武蔵風土記稿]]』に「壱岐守（はじめ内記）」とあるが、『大成武鑑』に、寛永四年忠利が嫡子・忠勝遺領を継ぎ、弟・壱岐守忠重に2000石の地を分与したことが見えるため、この内記という者は忠重とは別人であろうか。そうでないと年歴が合わない）その子孫が世襲した。&lt;br /&gt;
*今、古高450石4斗5升1合となり、その410石4斗9升8合は酒井某の采地であり、39石9斗5升3合は代官の支配である（当初の酒井某の食邑の一部を収めて直轄の地としたのではない。別に新墾したものであって、正保の『[[武蔵田園簿]]に載っている外永6貫122文野銭とあるのがこれである）&lt;br /&gt;
*維新の際、ともに[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里半。&lt;br /&gt;
*四隣：豊島郡成増村（中央）へ3町15間1尺。足立郡下笹目村（字早瀬の渡頭へ）へ17町34間3尺。本郡上新倉村（中央）へ9町55間3尺。白子村（中央）へ15町16間5尺。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ2里あまり（元標の位置は字吹上とする）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*大半が高く乾燥して平坦。東北の一隅は平低で、崖下に水田が開け、その辺境に[[荒川]]が控える。また東に野川を帯びて、運輸に便利。薪木は乏しくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*赤・白・黒の三種で、その質は悪く、甘藷・蘿蔔（ダイコン）に適するものの、稲・粱・菽・麦にはよくない。荒川縁に軟細沙があって桑樹に適している。水便の便が乏しく、かえって水害のわざわいを免れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：49町2反2畝15歩&lt;br /&gt;
*畑：179町2反2畝13歩&lt;br /&gt;
*総計：228町4反2畝28歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村の西方、小榑・橋戸2村の間、畑（15町2畝6歩）、林（7反6畝27歩）、宅地（1町8反6畝8歩）、墓地（3畝25歩）、薮地（11歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;雑丹袋&#039;&#039;&#039;（ぞうたんふくろ）：村の東北にある。東西5町40間、南北4町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;芝宮&#039;&#039;&#039;（しばみや）：雑丹袋の東南に連なる。東西7町25間、南北6町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;吹上&#039;&#039;&#039;：芝宮の西南に連なる。東西4町40間、南北10町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;本村&#039;&#039;&#039;（ほんむら）：吹上の西に連なる。東西6町35間、南北8町40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;仏の本&#039;&#039;&#039;：本村の西南に連なる。東西5町40間、南北5町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中新田&#039;&#039;&#039;（なかしんでん）：仏の木の南に連なる。東西3町50間、南北6町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;谷戸&#039;&#039;&#039;：中新田の西に連なる。東西6町30間、南北6町40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;浅久保&#039;&#039;&#039;：谷戸の西南に連なる。東西9町10間、南北12町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;広沢原&#039;&#039;&#039;（ひろさわはら）：浅久保の西に連なる。東西4町50間、南北4町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;二軒新田&#039;&#039;&#039;：浅久保の西南に連なる。東西5町40間、南北4町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米176石4斗9升4合、金193円28銭9厘&lt;br /&gt;
*賦金：金162円37銭4厘&lt;br /&gt;
*総計：米176石4斗9升4合、金355円66銭3厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：211戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：7戸（村社1坐、平社6坐）&lt;br /&gt;
*寺：4戸（臨済宗2宇、日蓮宗1宇、曹洞宗1宇）&lt;br /&gt;
*堂：1戸&lt;br /&gt;
*総計：223戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：671口（平民）&lt;br /&gt;
*女：665口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：1326口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：40頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷船：14艘&lt;br /&gt;
*漁業船：4艘&lt;br /&gt;
*水害予備船：16艘&lt;br /&gt;
**計：34艘&lt;br /&gt;
*人力車（1人乗）：10両&lt;br /&gt;
*車：82両（人力9両、荷車73両）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[荒川]]&#039;&#039;&#039;：幅おおむね50間。上新倉村から来て、村の北境を流れ、字雑丹袋でまた上新倉村の地内に沿い、再び来て東の方、豊島郡成増村に入る。その間、合わせて14町22間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;野川&#039;&#039;&#039;：幅1間半。白子村から来て、村の東、成増村の境を流れて荒川に入る。その間29町35間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;野川橋&#039;&#039;&#039;：里道に属し、字芝宮にあって、野川の中流に架かっている。幅6尺、長さ2間。石造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;正覚院橋&#039;&#039;&#039;：同上。字吹上にあって、野川の上流に架かっている。幅6尺、長さ1間半。石造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;下関橋&#039;&#039;&#039;：用水路に架かっている。幅6尺、長さ7尺。石造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;谷中橋&#039;&#039;&#039;：耕作道に属し、悪水の中流に架かっている。幅6尺、長さ7尺。石造。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;庚塚橋&#039;&#039;&#039;：同上。幅6尺、長さ7尺。土造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*林：[[広沢原]]といい、民有に属する。東西292間半・南北632間半・反別61町6反6畝6歩。ナラ・痩松が生え、薪材に用いるのみ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、小さな林・薮が散在している。一々載せるほどではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*矢島池：本村の西にあって、その周囲98間、深いところ4尺、面積270坪。下流は耕田の用水となる。&lt;br /&gt;
*赤池：周囲39間、深いところ8尺、面積60坪あまり。その河流は野川に入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の西方にある。東南の方、白子村の界から西北の方、上新倉村界に至る。幅4間、長さ8町あまり。それがようやく尽きようとするところから右折して、志木宿に達する里道がある。幅2間半、長さ2町27間4尺あまり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===堤塘===&lt;br /&gt;
*堤：荒川に沿い、村の東北にあって、上新倉村境から村内字吹上の南端に至って絶つ。長さ17町10間1尺8寸。馬踏6尺、堤敷14間。ただし水門二か所。修繕費用は官に属する。&lt;br /&gt;
*堤：境田堤と称し、田囲で村の西にある。長さ4町6間4尺8寸。馬踏2間、堤敷2間半。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===陵墓===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[隅田五郎時光]]父子の墓&#039;&#039;&#039;：あるいは墨田とも書く。本村の廃跡である旧[[妙典寺]]の境内にある。時光という者は文永の頃（1264年～1275年）の人であって、この地の領主であったが、故あって弘安年中（1278年～1288年）、子の徳丸とともに剃髪し、日蓮宗に入った。時光は日徳と号し、その子は日堅と称した。日徳は正中二年（1325年）12月12日、日堅は元徳元年（1329年）3月26日に入寂したという。その墓碑は青石で2塔ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[下新倉氷川八幡神社|氷川八幡社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西35間・南北40間・面積1400坪あまり。村の中央、字本村にある。素戔嗚尊・応神天皇の二合を祭る。言い伝えに、八幡社は寛治五年（1091年）創建し、氷川社は文禄三年（1594年）に合殿に勧請したという。祭日6月15日、また2月9日湯花神楽を執行する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;八幡社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西10間・南北38間・面積380坪あまり。村の東辺、字吹上の観音堂の傍らにある。応神天皇を祭る。享保二年（1717年）、修験正覚院祐慶という者が創建したと伝える。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西4間・南北5間・面積22坪。松原稲荷という。保食神を祭る。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：久寿川稲荷という。平社。社地は東西10間・南北23間・面積230坪。祭神は上と同じ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：谷中稲荷という。平社。社地は東西12間・南北20間・面積240坪。祭神は上と同じ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：浅久保稲荷という。平社。社地は東西44間・南北25間・面積600坪。祭神は上と同じ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西60間・南北29間・面積1740坪。木花開耶姫命を祭る。言い伝えに、慶長年中の創建であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[金泉寺]]&#039;&#039;&#039;：東西30間・南北20間8歩・面積600坪。臨済宗 相模国鎌倉建長寺の末派である。本村の北にある。応永年中の創建であるというが詳らかではない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[妙典寺]]&#039;&#039;&#039;：東西54間・南北23間・面積1620坪あまり。法華宗 足立郡新曽村妙顕寺の末派である。村の中央にある。弘安三年、僧日徳開基創立である。日徳は隅田五郎時光の剃髪後の名である。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[壹鑑寺|壱鑑寺]]&#039;&#039;&#039;：東西20間・南北23間・面積460坪あまり。村の北、金泉寺の西にある。曹洞宗 近江国栗太郡浮気村源昌寺の末派である。寛永の頃、酒井壱岐守忠重が開基した。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東明寺]]&#039;&#039;&#039;：東西15間・南北22間・面積330坪あまり。臨済宗。本村金泉寺の末派である。村の東辺にある。永享の頃、僧慶堂資善が開基創立したという。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[吹上観音堂|観音堂]]&#039;&#039;&#039;：村の東辺、字吹上にある。ゆえに吹上観音堂と称する。東西23間・南北40間・面積540坪あまり。言い伝えに、聖武天皇の時代、天平年間、この地において天竺の椋樹をもって行基菩薩が一刀三礼、長さ8寸の尊像を彫刻し、字赤池という池の傍らに安置してあったのを、後に開山智覚普明国師が開創し、今の地に移したという。その後、寛永の初め、沙門浄西という者が諸堂を造営した。その後、安永五年12月10日の夜、回禄の災い（火災）があり、諸堂が焼失した。当時、村民に伊三郎という者がいた。鎌で灰をかいてみたところ、尊像が見つかった。そのころ、当村に一人の女がいた。名を観命と号し、神通力を得て自ら請願を起こし、再びこの堂を経営したところ、日ならずして堂宇が竣功して、今の堂となった。観命は閑居して自ら肖像を彫って文政六年2月15日、自ら日を放って焼亡し、遺骨もわからなくなったという。毎年四度、遠近の男女が群集して市をなす。これは霊験があると伝えられるためである。この地は一つの丘が平野に突起し、東の方、荒川の左右を望めば青山が目に遮り、帆舟が木の間を過ぎていくようにみえるので、すこぶる佳景である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時の戸長宅舎を用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*古宅跡：天正十年、甲斐武田氏の城将・原隼人正の子、外記という者が戦に敗れてこの地に来、氏を柳下と改めて隠遁した。その子孫がすなわち現在の戸長・柳下某であるという。&lt;br /&gt;
*妙連寺廃跡：村の西の方、字谷戸にある。法華宗。廃止の年暦ははっきりしない。&lt;br /&gt;
*東福寺廃跡：村の中央、字本村にある。真言宗。明治元年廃止された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：556石5斗&lt;br /&gt;
*麦：1127石4斗5升5合&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米・麦、甘藷・蘿蔔（ダイコン）などの余嬴を東京辺りに販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女とも農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|しもにいくら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E4%B8%8A%E6%96%B0%E5%80%89%E6%9D%91&amp;diff=327</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/上新倉村</title>
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		<updated>2026-06-05T12:44:34Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の上新倉村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==上新倉村（にひくら）==  本村はいにしえ新倉郷広沢庄野方領に属する。 :『新編武蔵風土記稿』に、「この村はいにしえ、新座村と記した。もと郡郷の根本で、正保絵図・元禄絵図にも新座村と記している。こ…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[上新倉村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==上新倉村（にひくら）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
:『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「この村はいにしえ、新座村と記した。もと郡郷の根本で、正保絵図・元禄絵図にも新座村と記している。このころまでは公の簿書などにはいにしえの時を用いたことがわかる。しかし、土地では新倉と記す者も多い。ということは、今のようにおしなべて倉の字を書くようになったのは、元禄よりも後のことであろう。郡名も中古は倉の字を用いて、昔の文字とは違っている。元禄年中、古きにかえり、改めて新座の字を用いることにはなったが、郷村に至ってはそのまま倉の字を用い、また上下に分かれた年代もわからない」と載せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
真東は荒川を隔てて足立郡笹目村と相望み、東南は本郡[[武蔵国新座郡村誌/下新倉村|下新倉]]・[[武蔵国新座郡村誌/白子村|白子]]の2村に接する。西は本郡[[武蔵国新座郡村誌/小榑村|小榑]]・[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]・[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡]]の3村といりまじり、北は[[武蔵国新座郡村誌/根岸村・台村|根岸村・台村]]の隣、東北の一隅は[[新河岸川]]で[[武蔵国新座郡村誌/上内間木村|上]]・[[武蔵国新座郡村誌/根岸村・下内間木村|下内間木村]]に対する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字雑丹袋荒川縁から）西（字広沢原まで）1里11町30間&lt;br /&gt;
*南（字漆台から）北（字下谷津まで）6町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）8月、板倉四郎右衛門（後、伊賀守）勝重に賜う。&lt;br /&gt;
*正保のころ、村高500石8斗であった。&lt;br /&gt;
*勝重の玄孫・周防守重冬のとき、封を移して代官の支配とする（村吏の録申には宝永七年（1709年）と記すが、確実なものがないため採用しない。まったく大成武鑑の系譜による）&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至っては、高1110石5斗2合を代官松村忠四郎が支配する。&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里半。&lt;br /&gt;
*四隣：下新倉村へ9町55間。白子村へ24町。小榑村へ1里。膝折村へ1里。岡村へ30町。上内間木村へ1里10町。下内間木村へ20町。根岸・台の両村へ18町。&lt;br /&gt;
*近傍宿町：志木宿へ1里半町（中央字峯より測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*東西に長く、南北に短い。東北の境辺は[[荒川]]・[[新河岸川]]の両水を帯びる。運輸が便利。炭に乏しいが薪は余嬴があって近傍に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*赤黒土・砂など交じり、稲・粱に適しないが、甘藷によろしい。水利に乏しく、加えて暴漲のわざわいがあって陸田は旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：71町2反3畝12歩&lt;br /&gt;
*畑：171町4畝27歩&lt;br /&gt;
*総計：242町2反8畝10歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;雑丹袋&#039;&#039;&#039;（ぞうたんふくろ）：村の東方にある。荒川端に張り出して飛地のようである。東西2町20間、南北2町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;合の田&#039;&#039;&#039;（あひのた）：雑丹袋の西にある。東西4町25間・南北1町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;溜池&#039;&#039;&#039;（ためいけ）：合の田の西南にある。東西2町15間、南北2町5間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;田端&#039;&#039;&#039;（たっはた）：溜池の西北にある。東西2町・南北3町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;峯前&#039;&#039;&#039;（みねまへ）：田端の西に連なる。東西2町・南北2町30間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;上の郷&#039;&#039;&#039;（かみのごう）：峯前の東北にある。東西1町40間・南北1町50間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、境田（さかひた）、境田外（さかひたそと）、逆川（さかひがわ）、大島（おほしま）、山王免（さんわうめん）、午王山（まわうやま）、五反田（ごたんだ）、四反田（したんだ）、細田（ほそた）、練田（ねりた）、六反田（ろくたんだ）、榎戸（えのきど）、上谷中（かみやなか）、長坂（ながさか）、下谷中（しもやなか）、坂下（さかした）、松ノ木（まつのき）、島向（しまむかひ）、田向（たむかひ）、田外（たがい）、二畝割（ふたせわり）、三畝割（さんせわり）、南五畝割（みなみ）、北五畝割、草川淵（くさかはふち）、立町（たつまち）、立町外、竹の下、半三地、南一反割、東一反割、柳坪（やなぎつぼ）、天神下、江川、舟橋、京手（きょうて）、花ノ木、峯、大野前、向田外、富士塚、松影、土橋（つちはし）、南五反割、北口、北五反割、鈴森、庚申塚、越戸、小井戸、山尻、丸山、水久保、七ツ釜、清水、柿ノ木、坂、向原、松原、松山、中通り、堀口、花ノ木、広沢原、広沢間口、上谷津、下谷津、宮地、赤池、屋敷田、屋敷田外、羽根子、下井戸、四ツ木、向坂などある。今ここに掲載しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米321石8斗1升4合、金225円16銭4厘&lt;br /&gt;
*賦金：金20円&lt;br /&gt;
*総計：米321石8斗1升4合、金245円16銭4厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：212戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：2戸（村社1坐、平社1坐）&lt;br /&gt;
*寺：3戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*総計：217戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：619口（平民）&lt;br /&gt;
*女：651口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：1270口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：30頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*漁業船：1艘&lt;br /&gt;
*水害予備船：1艘&lt;br /&gt;
*人力車（1人乗）：10両&lt;br /&gt;
*荷車（中小）：105両&lt;br /&gt;
*農業者：4両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[午王山]]&#039;&#039;&#039;：高さ6丈あまり（約20m）、東西80間、南北150間。村の辰の方、平地の間に兀立している。山足は村内[[満願寺]]の庭前から起こり、下新倉村[[金泉寺]]の境内に至る。頂上は平らな畑である。東・北の二方は山上から山麓まで林木がある。その下は田畑が多い。西・南の二面は民家がある。言い伝えに、この山は昔は城砦であったという。口碑のみなので証明できるものはない。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[荒川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ9尺、浅いところ4尺、幅おおむね37間。水は清淡。北の方、下内間木から来て村の東北の辺境を流れ、東の方、下新倉村に入る。その間、28町45間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新河岸川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ6尺、浅いところ2尺。北の方、根岸村から来て、東の方二畝割で荒川に合流する。その間はわずかに6町10間。幅15間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*林：[[広沢原]]といい、民有に属する。村の西端にある。東西9町20間・南北3町45間。反別44町5反。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
七ツ釜その他の林が散在している。一々書くほどではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*溜池：村の東の方、下新倉村境にある。村内耕田の用水としている。東西50間、南北1町52間、周囲5町20間。&lt;br /&gt;
*江川沼：村の東北の方にある。東西1町48間、南北45間、周囲5町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：村の東南の方、下新倉村界から西北の方、根岸村・台村両村の入会地界に至る。長さ7町、幅4間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、隣村に達する村路が数条ある。一々載せるほどではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===堤塘===&lt;br /&gt;
*堤：荒川に沿い、村の東北にある。根岸村・台村との界から下新倉村界に至る。長さ21町、馬踏4尺、堤敷10間、樋管1か所、悪水吐3か所。修繕費用は官に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新倉氷川八幡神社|氷川・八幡社合殿]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地面積938坪。村の中央より北の方にある。素戔嗚尊・応神天皇を祭る。勧請年暦未詳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[長照寺]]&#039;&#039;&#039;：東西28間・南北13間8歩・面積367坪あまり。新義真言宗 豊島郡石神井村[[三宝寺]]の末派である。村の南野方、字漆台にある。開基創建未詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[満願寺]]&#039;&#039;&#039;：東西38間あまり・南北20間・面積566坪。もっとも税地のみ。宗旨・本寺は長照寺と同じ。午王山の下にある。開基・創建もまた不詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東林寺]]&#039;&#039;&#039;：東西6間・南北25間・面積169坪。ほかに境内付宅地の税地516坪あまり。宗旨・本寺は長照寺と同じ。創建未詳。村の中央、字峯にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：生徒　男42人、女18人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時の戸長宅舎を仮用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*宝積院廃跡：字上の郷にある。新義真言宗。明治六年（1873年）11月廃止。&lt;br /&gt;
*正願寺廃跡：村の中央にある。宗旨・廃止年月とも宝積院と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：603石&lt;br /&gt;
*大麦：671石6斗5升&lt;br /&gt;
*小麦：406石1斗&lt;br /&gt;
*ソバ：88石7斗9升&lt;br /&gt;
*粟：84石4斗7升&lt;br /&gt;
*黍・稗：各27石2斗7升&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米穀は豊かで、入間郡所沢あたりに販売する。麦や甘藷の類は同じく東京などに輸出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|かみにいくら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9&amp;diff=326</id>
		<title>チョウショウインハタザクラ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9&amp;diff=326"/>
		<updated>2026-05-31T13:07:36Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;チョウショウインハタザクラ（長勝院旗桜）&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は、志木市柏町三丁目の長勝院跡にある推定樹齢400年以上のハタザクラである。志木市の指定文化財となっている。目通り樹回り3.05m、高さ11.20m。花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁（1から2枚）を生ずるヤマザクラ（バラ科）の一種で、この種のハタザクラ…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;チョウショウインハタザクラ（長勝院旗桜）&#039;&#039;&#039;は、[[志木市]][[柏町]]三丁目の[[長勝院]]跡にある推定樹齢400年以上のハタザクラである。志木市の[[指定文化財]]となっている。目通り樹回り3.05m、高さ11.20m。花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁（1から2枚）を生ずるヤマザクラ（バラ科）の一種で、この種のハタザクラとしては、他に類がなく唯一の栽培品種であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年譜==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*昭和五十七年（1982年）3月30日：志木市「指定保存樹木第189号、樹種サクラ」に指定。&lt;br /&gt;
*平成五年（1993年）10月6日：「長勝院の桜」を志木市指定文化財に指定&lt;br /&gt;
*平成十年（1998年）&lt;br /&gt;
**9月1日：財団法人 日本さくらの会「櫻の科学」第6号に、川崎哲也「ヤマザクラ系の栽培品種チョウショウインハタザクラ」論文が掲載され、ヤマザクラの新しい栽培品種として記載された。&lt;br /&gt;
**11月：「長勝院の桜」から「チョウショウインハタザクラ」に名称を変更。&lt;br /&gt;
*平成十二年（2000年）5月5日：埼玉新聞社の「[[21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選]]」に選出。&lt;br /&gt;
*平成十五年（2003年）11月30日：財団法人 日本さくらの会「櫻の科学」第10号に、情報として宮﨑尚子（「petitぶんか村」編集長）による「チョウショウインハタザクラによるまちおこし」が掲載。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==公式の解説==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|&#039;&#039;&#039;チョウショウインハタザクラ&amp;lt;br /&amp;gt;（長勝院旗桜）&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　目通（めどお）り樹回（きまわ）り（目の高さ位の所の樹の周囲）三・〇五ｍ、高さ十一・二〇ｍ推定樹齢四百年以上のハタザクラ。 &amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁（一～二枚）を生ずるヤマザクラ（バラ科）の一型で開花時の花付きは極めてにぎやかです。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　県内各地の桜と比較しても巨木の中にはいるもので、樹齢等の点からみても大変貴重なサクラです。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
　またかつてこの地にあったともいわれる柏の城の歴史を語る生き証人としても大変重要な桜で、今後大切に保護していくべき桜花です。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
平成六年二月二十五日&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
志木市教育委員会|チョウショウインハタザクラ前の説明板より}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==櫻の科学　掲載論文の概要==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ヤマザクラ系の栽培品種チョウショウインハタザクラ===&lt;br /&gt;
財団法人 日本さくらの会「櫻の科学」第6号&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
川崎哲也&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|&#039;&#039;&#039;摘要&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
# 志木市長勝院境内の桜の大木の樹種に関して調査を行なった。&lt;br /&gt;
# この大木はおおむねヤマザクラの特徴を持つと考えられた。&lt;br /&gt;
# この大木に見られる特徴でヤマザクラにも見られるものは次のとおりである。&amp;lt;br /&amp;gt;　成葉の向軸面は濃緑色で、光沢がある。&amp;lt;br /&amp;gt;　成葉の背軸面は蒼白色を帯びる。&amp;lt;br /&amp;gt;　成葉の縁の鋸歯は細かくて、その先端が芒状で、糸状にはならない。&amp;lt;br /&amp;gt;　萼筒は長鐘形である。&amp;lt;br /&amp;gt;　萼片は披針状三角形、全縁である。&lt;br /&gt;
# これらの特徴からこの大木はヤマザクラ系統のものであると考えられる。&lt;br /&gt;
# 鱗片の外面の先端に縮毛があることから、この大木が生まれてきた何時かの時点でヤマザクラ以外の種の関与があったかもしれない。&lt;br /&gt;
# このサクラの大木は、ヤマザクラの一般的な個体と比較して、枝がやや太い、花が大型である、5弁花のほかに1-2の旗弁を持つ6ｰ7弁花があるなど、特異的な特徴を持っている。また、白色の花弁と紅紫色を帯びた若芽との対比が美しい、現地において古くから栽培されているなどのことから、ヤマザクラの一栽培品種と見なし得ると考える。&lt;br /&gt;
# このサクラの大木は、今までに知られていなかったものであるから、新しい栽培品種として記載した。}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===チョウショウインハタザクラによるまちおこし――地域情報紙の視点から――===&lt;br /&gt;
財団法人 日本さくらの会「櫻の科学」第10号&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[プチぶんか村|petit（プチ）ぶんか村]]」編集長　宮﨑尚子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*尾崎征男氏（市の文化財保護委員、市史編さん委員、環境教育推進員の集い座長を歴任）が市に働きかけ、「長勝院の桜」が志木市文化財第1号に指定される。また、専門家に調査を依頼したところ、川崎哲也氏の調査により、新種であることが判明した（上記論文）。&lt;br /&gt;
*まちおこしの具体例&lt;br /&gt;
**ハタザクラまつり：毎年4月第二日曜日の観桜会。&lt;br /&gt;
**はたさくらまんじゅう：2002年、全国菓子大博覧会で金賞受賞。&lt;br /&gt;
***取扱店＝菓匠・八百國（本町一丁目）、きくや和菓子店（中宗岡四丁目）、風月堂（上宗岡四丁目）、万葉和菓司（柏町五丁目）、有喜菓子舗（本町五丁目）&lt;br /&gt;
**長勝院はたざくら最中：新座市の和菓子店「菊扇」店主が考案。&lt;br /&gt;
**銘酒はたざくら：柏町のマイリカーショップセキノ（現・関野酒店）のオリジナル銘酒。当初は「旗桜」の銘柄だったが、はたざくらまんじゅうと同じラベルに変更。&lt;br /&gt;
**ハタザクラ新聞（環境教育推進員の集いが発行）&lt;br /&gt;
**志木古木切り絵双六&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現在のチョウショウインハタザクラと町おこし==&lt;br /&gt;
以上のまちおこしに関しては、2026年現在は継続されていないものも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ハタザクラまつり：2005年4月3日に第10回ハタザクラまつりが開催された記録が最後。それ以降は実施されていない。&lt;br /&gt;
*はたさくらまんじゅう、長勝院はたざくら最中：現在は閉業もしくはすでに販売されていないようである。&lt;br /&gt;
*銘酒はたざくら：[https://www.city.shiki.lg.jp/uploaded/attachment/19551.pdf 広報しき2025年7月号]によれば、「はたざくらには本醸造と純米酒の2種類があり、それぞれの特徴を尋ねると「本醸造は淡麗辛口で、35度から40度のぬる燗かんまたは常温で味わうのがおすすめです。純米酒は淡麗甘口で、香りをより楽しむために冷酒で味わうのが特におすすめです。」と教えてくれました。リピートする人もいるほど多くの人から愛されるはたざくらですが、原材料費の高騰などの影響により、現在店頭に並んでいる商品のみで販売終了となってしまうとのことです。」とある。&lt;br /&gt;
*現在は毎年の開花状況を志木市が発信している。&lt;br /&gt;
*市内カッパ像のひとつ「さくら子」が設置されている。「チョウショウインハタザクラ」を見守っているイメージである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ハタザクラ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ハタザクラ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9&amp;diff=325</id>
		<title>テンプレート:ハタザクラ</title>
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		<updated>2026-05-31T13:05:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot; |- ! 旧新座郡エリアのハタザクラ |- |  * 志木市 ** チョウショウインハタザクラ（長勝院旗桜） * 新座市 ** ミョウオンサワハタザクラ（妙音沢旗桜） * 朝霞市 ** アサカハタザクラ（朝霞旗桜） *** ダイノシロヤマ（台の城山） *** ゴウド（郷戸） ** クロメガワ（黒目川） |}」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 旧[[新座郡]]エリアのハタザクラ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
* [[志木市]]&lt;br /&gt;
** [[チョウショウインハタザクラ]]（長勝院旗桜）&lt;br /&gt;
* [[新座市]]&lt;br /&gt;
** [[ミョウオンサワハタザクラ]]（妙音沢旗桜）&lt;br /&gt;
* [[朝霞市]]&lt;br /&gt;
** [[アサカハタザクラ]]（朝霞旗桜）&lt;br /&gt;
*** [[ダイノシロヤマ]]（台の城山）&lt;br /&gt;
*** [[ゴウド]]（郷戸）&lt;br /&gt;
** [[クロメガワ]]（黒目川）&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E6%A0%B9%E5%B2%B8%E6%9D%91%E3%83%BB%E5%8F%B0%E6%9D%91&amp;diff=324</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/根岸村・台村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E6%A0%B9%E5%B2%B8%E6%9D%91%E3%83%BB%E5%8F%B0%E6%9D%91&amp;diff=324"/>
		<updated>2026-05-30T15:10:13Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の根岸村・台村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==根岸村（ねぎし）・台村（だい）==  両村の地形としては、一戸・一畔が転々と錯綜している。このため、実際にその地について村名を問うても戸ごとに唱えを異にするに至っている。ゆえに、どちらをその村とはっき…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[根岸村・台村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==根岸村（ねぎし）・台村（だい）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
両村の地形としては、一戸・一畔が転々と錯綜している。このため、実際にその地について村名を問うても戸ごとに唱えを異にするに至っている。ゆえに、どちらをその村とはっきりと境界を弁別することは難しい（改租の際、すでに両村を合併し、若柳村と改称したことを申請するに至った。しかし、飛地の処分に食い違いがあるため、ついにそうはならずに終わった）。よって、今、疆域・幅員・地勢・地味・字地・山川・池沼・道路などは両村のはじめにおいて併せてこれを編集した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東・南の二面は悪水路をもって[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉村]]との境界とし、西は[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡村]]に接し、東・北の間は[[新河岸川]]をもって[[武蔵国新座郡村誌/上内間木村|上内間木村]]を限り、[[黒目川]]をもって[[武蔵国新座郡村誌/田島村|田島村]]に隣り合っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字四反田から）西（字宮原に至る）10町40間&lt;br /&gt;
*南（字流山から）北（字下手町に至る）20町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*おおむね平坦であって、東西に長く、南北に短い。東北隅の一方の辺は水田が開け、新河岸・黒目の両川を帯び、運輸の便を得た。炭は乏しいが、薪は余嬴がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*耕田は黒・白、陸田は赤・黒の交種であって、稲・粱（あわ）・菽（まめ）・麦に適しにくい。水辺に沿っているが、その便を得ることは少なく、時々洪水のわざわいを被る。陸田もまた旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;根岸&#039;&#039;&#039;（ねぎし）：村の中央にある。東西8町20間・南北6町50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;谷中&#039;&#039;&#039;（やなか）：根岸の北に連なる。東西5町10間・南北7町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;内間木前&#039;&#039;&#039;（うちまきまへ）：谷中の東に連なる。東西3町45間・南北7町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;久天&#039;&#039;&#039;（くてん）：内間木前の南に連なる。東西4町5間・南北6町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;郷戸&#039;&#039;&#039;（がうど）：久天の南に連なる。東西4町50間・南北8町10間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;向原&#039;&#039;&#039;：郷戸の西南に連なる。東西5町20間・南北7町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;新井前&#039;&#039;&#039;（あらゐまへ）：向原の西北に連なる。東西6町10間・南北10町20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新河岸川]]&#039;&#039;&#039;：幅15間、深いところ4尺。村の北の方、田嶋村から来て東北の境を流れ、東の方、上新倉村に入る。その間14町55間、幅7間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ3尺、浅いところ1尺。西北の方、岡村から来て田嶋村の境界を東に流れ、字下手町で新河岸川に合流する。その間11町25間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;笹橋&#039;&#039;&#039;：村路に属する。村の北の方、黒目川に架かり、本村から岡村に通す。長さ7間、幅2間。土造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*[[溜池]]：東西28間、南北29間。周回120間。村の東の方、字久天にある。両村の用水とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の坤（南西）の方、飛地字広沢林にある。辰（東南東）の方で上新倉村の境界から戌（西北西）の方、岡村との境界に入る。長さ3町30間、幅4間。その他村路は数条ある。一々記載するに足らず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==根岸村==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）、徳川氏の所有となる。&lt;br /&gt;
*正保のころ（1644年～1648年）：村高475石。そのうち250石を旗下士内藤半弥、200石を松平隼人らの采地とし、余る25石を代官の支配とする。&lt;br /&gt;
*元禄のころから（1688年～1704年）：すべて代官の支配となる（内藤・松平の食邑を転収した年代は未詳。また、村吏がいうには、「元禄三年（1690年）9月から松平美濃守が知行したと伝えている」と。しかし、『[[新編武蔵風土記稿]]』に、「元禄三年、松平潔兵衛・八木仁兵衛の検地である。このころは御料所ばかりで、私領の入会はない」と載せている。これによって考えれば、美濃守が知行したとは解せない。よって、捨てて採らなかった。）&lt;br /&gt;
*維新の際は高427石9斗3升7合となり、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に転ずる。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里5町。&lt;br /&gt;
*四隣：下内間木邑（元標）へ15町。岡村（元標）へ10町。上新倉村（元標）へ15町。田島村（元標）へ12町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ1里5町。大和田町へ2里（字根岸の掲示場から測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：17町6反6畝18歩&lt;br /&gt;
*畑：95町9反6畝7歩&lt;br /&gt;
*総計：113町6反2畝25歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村艮（北東）の方、下内間木村の内、芝生地（5反1畝1歩）&lt;br /&gt;
*坤（南西）の方、近傍入会地の内林（広沢原という。反別18町2反6畝）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米62石8斗6升8合、金130円72銭1厘&lt;br /&gt;
*賦金：金13円95銭&lt;br /&gt;
*総計：米65石2升、金85円44銭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：81戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：3戸（平社）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*堂：1戸&lt;br /&gt;
*総計：86戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：253口（平民）&lt;br /&gt;
*女：255口（同上）&lt;br /&gt;
*総計：508口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：21頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷船：9艘（90石積8艘、65石積1艘）&lt;br /&gt;
*漁船：2艘&lt;br /&gt;
*水害予備船：1艘&lt;br /&gt;
*総計12艘&lt;br /&gt;
*荷車：9両（中小）&lt;br /&gt;
*農業車：10両&lt;br /&gt;
*総計：19両&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;須賀社&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;現在、岡氷川神社の境内社となっている須賀神社か。&amp;lt;/ref&amp;gt;：平社。社地は東西5間半・南北8間・面積44坪。村の北の方にある。素戔嗚尊を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;天神社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西4間・南北8間・面積32坪。村の北の方にある。菅原道真を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西4間・南北4間・面積16坪。村の西の方にある。祭神未詳。祭日定めず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[金剛寺]]&#039;&#039;&#039;：東西20間・南北24間・面積480坪。新義真言宗 豊島郡上石神井村[[三宝寺]]の末派である。村の中央にある。開基創建は詳らかではない。『新編武蔵風土記稿』に、「この地は堯諄房法印の開山である。年代は詳らかではないが、慶長三年（1598年）にこの法印が多磨郡清戸下宿の円通寺に転じたとあるので、文禄年中もしくは慶長の造立であろう」と載っている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[大日堂]]&#039;&#039;&#039;：東西5間・南北6間・面積30坪。村の西の方にある。創建未詳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*村の中央にある。金剛寺を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：169石6斗&lt;br /&gt;
*麦：276石&lt;br /&gt;
*大豆：77石3斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菽（まめ）、麦、甘藷などの余嬴があって、近傍の町村に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女とも農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==台村（だい）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえは根岸村と一村であったか。正保の後分かれて独立の一村となる（年暦は詳らかではないが、正保の図にこの村名を載せず、元禄の図に見えるので、その間のことであろう）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郷・庄・領も根岸村に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
分村のころは根岸村と同じ。その後、直轄代官の支配となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*維新の際、村高361石6斗3合2勺あって、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下また根岸村に同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里半。&lt;br /&gt;
*四隣：岡村（元標）へ12町。上新倉村（元標）へ12町。下内間木村（元標）へ20町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿（元標）へ1里10町。大和田町（元標）へ2里（字郷戸掲示場から測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：11町9反1畝4歩&lt;br /&gt;
*畑：74町8反9畝29歩&lt;br /&gt;
*総計：86町8反1畝3歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
*本村艮の方、下内間木村の内、芝生地（4反4畝29歩）&lt;br /&gt;
*坤の方、近傍入会地の内、林（14町5反29歩）、畑（3町7反2畝20歩）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米45石8斗、金104円74銭8厘&lt;br /&gt;
*賦金：金90銭&lt;br /&gt;
*総計：米45石8斗、金105円64銭8厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：59戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：4戸（村社1坐、平社3坐）&lt;br /&gt;
*寺：1戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*総計：79戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：170口（平民）&lt;br /&gt;
*女：176口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：346口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：20頭&lt;br /&gt;
*牝馬：13頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷船：3艘（90石積2艘、60石積1艘）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西7間半・南北4間・面積30坪。村の東の方にある。豊受姫を祭る。祭日2月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;庭津日社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西7間半・南北4間・面積30坪。大戸比売命を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;厳島社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西11間半・南北7間・面積81坪。市杵比売命を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;天神社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西10間・南北2間・面積20坪。菅原道真を祭る。祭日未定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[台雲寺]]&#039;&#039;&#039;：東西20間・南北17間・面積344坪。新義真言宗 豊島郡石神井村[[三宝寺]]の末派である。村の中央にある。創建開基の年代は詳らかではない。『新編武蔵風土記稿』に、「中興開山の法印が定政という。これも遷化の年代は詳らかではないが、この法印から法流6世宥恵法印が境内に建立した石碑に元禄八年とあることから、法印定政は御入国から遠くない人であろう」と載っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*当時戸長の宅舎を仮用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：120石&lt;br /&gt;
*大麦：181石6斗&lt;br /&gt;
*小麦：78石7斗&lt;br /&gt;
*大豆：64石&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米・麦は質が悪く、そば・甘藷などは特に質が良く美しい。余嬴があって東京あたりに輸出する。もっとも米・麦の余りは近傍で販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|ねきしたい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B2%A1%E6%9D%91&amp;diff=323</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/岡村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B2%A1%E6%9D%91&amp;diff=323"/>
		<updated>2026-05-30T14:53:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[岡村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==岡村（をか）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は[[武蔵国新座郡村誌/根岸村|根岸]]・[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉]]の両村と野道・小渠をもって境とし、東南は[[武蔵国新座郡村誌/台村|台]]・[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山]]の二村に連なり、[[広沢原]]の深林に接する。西は[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼村]]との境界を用水路・小径とし、北は[[黒目川]]を隔てて[[武蔵国新座郡村誌/浜崎村|浜崎]]・[[武蔵国新座郡村誌/田島村|田島]]の両村に対している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字向山の東辺から）西（字八幡山の西端に至る）8町20間&lt;br /&gt;
*南（字広沢原の南の境界から）北（字沖田、黒目川べりに至る）37町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）、徳川氏の所有となる。旗下士・甲斐庄喜右衛門に賜う。&lt;br /&gt;
*元和元年乙卯（1615年）、村高468石のうち200石を代官・近山与左衛門の支配とし、268石を三枝土佐守の采地とする（『風土記』に、御打入の後2分し、半ばは私領となったという。今、村吏の録申による。正保のころ、村高468石あってその268石を三枝土佐守の治めるところとし、その200石を代官・近山与左衛門が支配したということは田園簿に明記されている）&lt;br /&gt;
*元禄十一年戊寅（1698年）、あわせて代官の支配とする。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至っては、高542石7斗6升7合（高の増加した年暦は明らかではない）を代官松村忠四郎が支配する&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：根岸村へ5町20間。溝沼村へ13町。台村へ10町。浜崎村へ15町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ35町（中央字谷つの西南四達より測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*南は広沢原の深林を追って、高く乾燥している。北は黒目川を帯び、卑湿で水田が多い。運輸は便利、薪・炭が富饒である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色は赤黒、質悪く、稲・粱に適せず。水田は氾濫のわざわいがあって、陸田は旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：17町2反6畝13歩&lt;br /&gt;
*畑：117町7反8畝14歩&lt;br /&gt;
*総計：135町4畝27歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
村の南の方、台村の内に畑　2反2畝5歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;沖田&#039;&#039;&#039;（おきた）：村の北方にある。東西130間・南北160間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;堂の下&#039;&#039;&#039;（どうのした）：沖田の南に連なる。東西90間・南北125間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川&#039;&#039;&#039;：堂の下の東方に連なる。東西280間・南北85間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;土井&#039;&#039;&#039;（どい）：玉川の東の方に連なる。東西65間・南北60間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;寺田&#039;&#039;&#039;：土井の西方に連なる。東西220間・南北50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;岡台&#039;&#039;&#039;（をかだい）：寺田の南方にある。東西160間・南北150間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;城戸&#039;&#039;&#039;（きど）：岡台の東方に連なる。東西130間・南北75間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;谷つ&#039;&#039;&#039;（やつ）：城戸の南方にある。東西250間・南北70間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中谷つ&#039;&#039;&#039;：谷つの南方。東西70間・南北90間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;榎戸&#039;&#039;&#039;：中谷つの南方。東西150間・南北40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中道&#039;&#039;&#039;：榎戸の西方。東西130間・南北290間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、鎌原、浜崎前、縄境、折本、谷中、寺田、滝の下、根古屋、城山、樋坪、下谷つ、茅面、向山、前谷つ、高根、八幡山、天神の上、七鎌戸、上の台、庚申出口、庚申前、高橋道、中新田、立出し、諏訪の原、天ヶ久保、大辻、馬堀、原畑、北原、堂山、向原、平沢、越戸、池の上、広沢、広沢原などの名がある。一々広さを記せず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米65石2升、金70円56銭5厘&lt;br /&gt;
*賦金：金14円87銭5厘&lt;br /&gt;
*総計：米65石2升、金85円44銭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：71戸（平民）&lt;br /&gt;
*寄留：1戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：3戸（村社1坐、平社2坐）&lt;br /&gt;
*寺：2戸（真言宗1宇、日蓮宗1宇）&lt;br /&gt;
*総計：79戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：210口（平民）&lt;br /&gt;
*女：222口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：432口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：24両（小車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ7尺、浅いところ1尺5寸、幅6間。溝沼村から流れてくる。東北の境を屈曲して根岸・田島両村の間に入る。その間15町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：林道に属する。村の北方、黒目川の上流に架す。長さ4間3尺、幅2間。木製。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*林：[[広沢原]]といい、民有に属する。東西2町・南北11町。村の西端にあって松・ケヤキ、その他、雑木である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*[[広沢観音堂|広沢観音の池]]：村の南方。東南15間、南北20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：村の西方、溝沼村の境から東方・根岸村の境界に至る。長さ3町30間、幅4間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[岡氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西49間・南北26間・面積500坪。村の東方にある。素戔嗚尊を祭る（[[新編武蔵風土記稿]]に在原業平を祭るとある）。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;八幡社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西30間・南北8間・面積265坪。村の西の方にある。応神天皇を祭る。祭日9月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;諏訪社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西12間・南北10間・面積120坪。本村の南の方にある。建御名方命を祭る。祭日7月27日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東圓寺]]&#039;&#039;&#039;：東西25間・南北16間8歩・面積920坪。村の西方にある。新義真言宗 豊島郡石神井村[[三宝寺]]の末派であって、開基のことが伝わらず。寛弘三年丙午（1006年）僧永慶という物が力を尽くして中興したという。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[本仙寺]]&#039;&#039;&#039;：東西20間・南北16間・面積326坪。村の北方、城山の中腹にある。日蓮宗池上本門寺の末派である。貞治元年、僧日宜が開基創建した。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;不動堂&#039;&#039;&#039;：東西20間6歩・南北17間・面積310坪。村の西方にある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢観音堂|観音堂]]&#039;&#039;&#039;：東西16間・南北16間・面積265坪。村の南方にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：村の西方にある。生徒　男56人、女6人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*村の中央にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*城跡：字城山の上にあって、なお塹壕の形を残す。しかし、誰の居城なのかはっきりしない。今、民有の山林となり、雑木が繁茂している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：148石8斗8升5合&lt;br /&gt;
*大麦：33石6斗3升5合&lt;br /&gt;
*大豆：132石6斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、甘藷、大根のたぐいは余嬴があって、他の町村に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|おか]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B2%A1%E6%9D%91&amp;diff=322</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/岡村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E5%B2%A1%E6%9D%91&amp;diff=322"/>
		<updated>2026-05-28T14:45:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の岡村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==岡村（をか）==  本村はいにしえ新倉郷広沢庄野方領に属する。  ===疆域=== 東は根岸・上新倉の両村と野道・小渠をもって境とし、東南は武蔵国新座郡村誌/…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[岡村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==岡村（をか）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[新倉郷]][[広沢庄]][[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は[[武蔵国新座郡村誌/根岸村|根岸]]・[[武蔵国新座郡村誌/上新倉村|上新倉]]の両村と野道・小渠をもって境とし、東南は[[武蔵国新座郡村誌/台村|台]]・[[武蔵国新座郡村誌/片山村|片山]]の二村に連なり、[[広沢原]]の深林に接する。西は[[武蔵国新座郡村誌/溝沼村|溝沼村]]との境界を用水路・小径とし、北は[[黒目川]]を隔てて[[武蔵国新座郡村誌/浜崎村|浜崎]]・[[武蔵国新座郡村誌/田島村|田島]]の両村に対している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字向山の東辺から）西（字八幡山の西端に至る）8町20間&lt;br /&gt;
*南（字広沢原の南の境界から）北（字沖田、黒目川べりに至る）37町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）、徳川氏の所有となる。旗下士・甲斐庄喜右衛門に賜う。&lt;br /&gt;
*元和元年乙卯（1615年）、村高468石のうち200石を代官・近山与左衛門の支配とし、268石を三枝土佐守の采地とする（『風土記』に、御打入の後2分し、半ばは私領となったという。今、村吏の録申による。正保のころ、村高468石あってその268石を三枝土佐守の治めるところとし、その200石を代官・近山与左衛門が支配したということは田園簿に明記されている）&lt;br /&gt;
*元禄十一年戊寅（1698年）、あわせて代官の支配とする。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末に至っては、高542石7斗6升7合（高の増加した年暦は明らかではない）を代官松村忠四郎が支配する&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に属する。。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東13里。&lt;br /&gt;
*四隣：根岸村へ5町20間。溝沼村へ13町。台村へ10町。浜崎村へ15町。&lt;br /&gt;
*近傍：志木宿へ35町（中央字谷つの西南四達より測る）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*南は広沢原の深林を追って、高く乾燥している。北は黒目川を帯び、卑湿で水田が多い。運輸は便利、薪・炭が富饒である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*色は赤黒、質悪く、稲・粱に適せず。水田は氾濫のわざわいがあって、陸田は旱魃に苦しむ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：17町2反6畝13歩&lt;br /&gt;
*畑：117町7反8畝14歩&lt;br /&gt;
*総計：135町4畝27歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
村の南の方、台村の内に畑　2反2畝5歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;沖田&#039;&#039;&#039;（おきた）：村の北方にある。東西130間・南北160間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;堂の下&#039;&#039;&#039;（どうのした）：沖田の南に連なる。東西90間・南北125間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;玉川&#039;&#039;&#039;：堂の下の東方に連なる。東西280間・南北85間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;土井&#039;&#039;&#039;（どい）：玉川の東の方に連なる。東西65間・南北60間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;寺田&#039;&#039;&#039;：土井の西方に連なる。東西220間・南北50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;岡台&#039;&#039;&#039;（をかだい）：寺田の南方にある。東西160間・南北150間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;城戸&#039;&#039;&#039;（きど）：岡台の東方に連なる。東西130間・南北75間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;谷つ&#039;&#039;&#039;（やつ）：城戸の南方にある。東西250間・南北70間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中谷つ&#039;&#039;&#039;：谷つの南方。東西70間・南北90間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;榎戸&#039;&#039;&#039;：中谷つの南方。東西150間・南北40間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;中道&#039;&#039;&#039;：榎戸の西方。東西130間・南北290間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、鎌原、浜崎前、縄境、折本、谷中、寺田、滝の下、根古屋、城山、樋坪、下谷つ、茅面、向山、前谷つ、高根、八幡山、天神の上、七鎌戸、上の台、庚申出口、庚申前、高橋道、中新田、立出し、諏訪の原、天ヶ久保、大辻、馬堀、原畑、北原、堂山、向原、平沢、越戸、池の上、広沢、広沢原などの名がある。一々広さを記せず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米65石2升、金70円56銭5厘&lt;br /&gt;
*賦金：金14円87銭5厘&lt;br /&gt;
*総計：米65石2升、金85円44銭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：71戸（平民）&lt;br /&gt;
*寄留：1戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：3戸（村社1坐、平社12坐）&lt;br /&gt;
*寺：2戸（真言宗1宇、日蓮宗1宇）&lt;br /&gt;
*総計：79戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：210口（平民）&lt;br /&gt;
*女：222口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：432口&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：15頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：24両（小車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ7尺、浅いところ1尺5寸、幅6間。溝沼村から流れてくる。東北の境を屈曲して根岸・田島両村の間に入る。その間15町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;橋&#039;&#039;&#039;：林道に属する。村の北方、黒目川の上流に架す。長さ4間3尺、幅2間。木製。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*林：[[広沢原]]といい、民有に属する。東西2町・南北11町。村の西端にあって松・ケヤキ、その他、雑木である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*[[広沢観音堂|広沢観音の池]]：村の南方。東南15間、南北20間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：村の西方、溝沼村の境から東方・根岸村の境界に至る。長さ3町30間、幅4間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[岡氷川神社|氷川社]]&#039;&#039;&#039;：村社。社地は東西49間・南北26間・面積500坪。村の東方にある。素戔嗚尊を祭る（[[新編武蔵風土記稿]]に在原業平を祭るとある）。祭日3月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;八幡社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西30間・南北8間・面積265坪。村の西の方にある。応神天皇を祭る。祭日9月15日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;諏訪社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西12間・南北10間・面積120坪。本村の南の方にある。建御名方命を祭る。祭日7月27日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[東圓寺]]&#039;&#039;&#039;：東西25間・南北16間8歩・面積920坪。村の西方にある。新義真言宗 豊島郡石神井村[[三宝寺]]の末派であって、開基のことが伝わらず。寛弘三年丙午（1006年）僧永慶という物が力を尽くして中興したという。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[本仙寺]]&#039;&#039;&#039;：東西20間・南北16間・面積326坪。村の北方、城山の中腹にある。日蓮宗池上本門寺の末派である。貞治元年、僧日宜が開基創建した。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;不動堂&#039;&#039;&#039;：東西20間6歩・南北17間・面積310坪。村の西方にある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[広沢観音堂|観音堂]]&#039;&#039;&#039;：東西16間・南北16間・面積265坪。村の南方にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学校===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*公立小学校：村の西方にある。生徒　男56人、女6人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*村の中央にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===古跡===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*城跡：字城山の上にあって、なお塹壕の形を残す。しかし、誰の居城なのかはっきりしない。今、民有の山林となり、雑木が繁茂している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：148石8斗8升5合&lt;br /&gt;
*大麦：33石6斗3升5合&lt;br /&gt;
*大豆：132石6斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、甘藷、大根のたぐいは余嬴があって、他の町村に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農業を専らとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|おか]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82&amp;diff=321</id>
		<title>広沢観音堂</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82&amp;diff=321"/>
		<updated>2026-05-28T12:53:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;広沢観音堂&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は、朝霞市本町三丁目5番28号、広沢の池の北に位置する観音堂である。別名「広沢観音様」「広沢の観音（様）」。  ファイル:広沢観音堂.jpg  江戸時代には岡の東圓寺の持であったが、明治時代以降、池と観音堂は官地となり、戦後、池は町、観音堂は東圓寺の管理となった。  ==本尊== ファイル:広沢観音堂正面.jpg|右…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;広沢観音堂&#039;&#039;&#039;は、[[朝霞市]][[本町]]三丁目5番28号、広沢の池の北に位置する観音堂である。別名「広沢観音様」「広沢の観音（様）」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:広沢観音堂.jpg]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代には[[岡]]の[[東圓寺]]の持であったが、明治時代以降、池と観音堂は官地となり、戦後、池は町、観音堂は東圓寺の管理となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==本尊==&lt;br /&gt;
[[ファイル:広沢観音堂正面.jpg|右|フレームなし|広沢観音堂の正面]]&lt;br /&gt;
{{Quotation|観音堂には、中央に観音の厨子、その左右に4月8日の釈迦誕生仏、小さな厨子に入った菩薩像が置かれている。中央の木造の観音像は本尊ではなく、オマエダチ（お前立）と呼ばれている。この観音ノ厨子の中に小さな厨子が入っており、そこに3つの像が納められている。その中央と右が観音像とされているが、左は不明である。このうち中央の観音が「一寸八分」と呼ばれる、広沢観音の本尊である。|朝霞市教育委員会生涯学習課『広沢の池　―あさかの民俗　一―』}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 写真 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の地蔵丸彫立像.jpg|&#039;&#039;&#039;広沢観音堂の地蔵丸彫立像&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の六十六部廻国塔.jpg|&#039;&#039;&#039;広沢観音堂の六十六部廻国塔&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の普門品供養塔.jpg|&#039;&#039;&#039;広沢観音堂の普門品供養塔&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の木祠白山社.jpg|&#039;&#039;&#039;広沢観音堂の木祠白山社&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の石碑.jpg|右：観音修繕入佛供養塔　左：本堂改築・庫裏修復記念碑&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の石仏.jpg|左：地蔵丸彫像　中：地蔵浮彫像　右：無縫塔&lt;br /&gt;
ファイル:広沢観音堂の墓碑.jpg|広沢観音堂の墓碑&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==記載==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===[[新編武蔵風土記稿/巻之133新座郡5|新編武蔵風土記稿 岡村]]===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;観音堂&lt;br /&gt;
:広沢池のあたり、少し高いところにある。そのため広沢観音というべきで、土地の人が平沢観音と言うのは誤りで、広沢観音であるべきだ。堂は三間四面、除地五段ある。昔は今のちから南の方にある山の上にあり、堂も広大であったが、天正十八年（1590年）北条氏照の城山（この城は入間郡城村の内にある）合戦のとき、煙を上げようとしてこの堂を焼いたという（あるいは、別に大伽藍があったのを焼いたともいう）。今は礎石のみ残っている。土地の俗称に、その地を堂山と字している。今の堂は村内の東圓寺の持である。三枝摂津守が当所を知行したとき、除地となったという。今も同じである。&lt;br /&gt;
;広沢池&lt;br /&gt;
:村の南の方、観音堂の下にある。東西30間、南北24～5間、それほどの景勝地ではないが、古跡である。いつのころであったか、この池で農夫が足をすすごうとしてひたしたところ、物があって爪先をくわえたように思われたので、いぶかしんでそのまま水中を探ったところ、古い鰐口であった。これは昔の観音堂の鰐口であろうということで、そのまま東圓寺へ納めたという。年号も刻んでいたが、耳慣れない年号なので覚えられていない。古いものであろう、と土地の人が言っている。このことを東圓寺の住僧に尋ねたが、どうであるかわからないと言った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===[[武蔵国新座郡村誌/岡村|武蔵国新座郡村誌 岡村]]===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*観音堂：東西16間、南北16間、面積265坪、村の東方にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝霞市教育委員会生涯学習課『広沢の池　―あさかの民俗　一―』朝霞市教育委員会,平成十四年（2002年）3月29日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:寺院|ひろさわかんのんとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E5%A2%93%E7%A2%91.jpg&amp;diff=320</id>
		<title>ファイル:広沢観音堂の墓碑.jpg</title>
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		<updated>2026-05-28T12:11:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の墓碑&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の墓碑&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E6%9C%A8%E7%A5%A0%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A4%BE.jpg&amp;diff=319</id>
		<title>ファイル:広沢観音堂の木祠白山社.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E6%9C%A8%E7%A5%A0%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A4%BE.jpg&amp;diff=319"/>
		<updated>2026-05-28T12:11:11Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の木祠白山社&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の木祠白山社&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E7%9F%B3%E4%BB%8F.jpg&amp;diff=318</id>
		<title>ファイル:広沢観音堂の石仏.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82%E3%81%AE%E7%9F%B3%E4%BB%8F.jpg&amp;diff=318"/>
		<updated>2026-05-28T12:09:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: 広沢観音堂の石仏
左：地蔵丸彫像
中：地蔵浮彫像
右：無縫塔&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[広沢観音堂]]の石仏&lt;br /&gt;
左：地蔵丸彫像&lt;br /&gt;
中：地蔵浮彫像&lt;br /&gt;
右：無縫塔&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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