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	<title>シラキのコホリ - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-04-17T02:23:37Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E5%BA%A7%E5%B8%82&amp;diff=272</id>
		<title>新座市</title>
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		<updated>2026-04-12T13:58:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;新座市（にいざし）&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は、旧新座郡の西側中央部に位置する。埼玉県の最南端に位置し、東京都に三方を囲まれた「突き出た」地形が特徴である。野火止用水と平林寺の緑に象徴される自然豊かな住宅都市である。面積は22.78㎢。  ==地理・地形==  ほぼ全域が武蔵野台地（野火止台地）の上に位置し、平坦な地形が広がる。  * 河川: 南部か…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;新座市（にいざし）&#039;&#039;&#039;は、旧[[新座郡]]の西側中央部に位置する。埼玉県の最南端に位置し、東京都に三方を囲まれた「突き出た」地形が特徴である。[[野火止用水]]と[[平林寺]]の緑に象徴される自然豊かな住宅都市である。面積は22.78㎢。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==地理・地形==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ全域が武蔵野台地（野火止台地）の上に位置し、平坦な地形が広がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 河川: 南部から東部にかけて[[黒目川]]が流れ、北西部には[[柳瀬川]]が流れる。これらの川は台地を深く浸食し、小規模な谷底平野を形成している。&lt;br /&gt;
* 水路: 自然河川が少なかった台地上に、江戸時代に人工の「[[野火止用水]]」が引かれたことで、開拓が可能となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代、[[川越街道]]の[[柳瀬川]]の渡河地点附近に[[大和田宿]]が置かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明暦元年（1655年）、川越領主・[[松平信綱]]（知恵伊豆）が[[玉川上水]]から分水して「[[野火止用水]]」を開削。不毛の原野だった[[野火止]]エリアで畑作が可能になり、石高を増すこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南部は[[片山]]十村があり、片山郷としてまとまっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後は急速にベッドタウン化が進み、1970年に市制施行している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===新座市前史===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====大和田エリア====&lt;br /&gt;
* 正保年中改定図（1645～1648年）：[[大和田町]]のみが記されている。&lt;br /&gt;
* 承応四年（1655年）、[[野火止用水]]が開かれる。&lt;br /&gt;
* 寛文三年（1663年）、埼玉郡（岩槻）にあった[[平林寺]]を野火止に移転。&lt;br /&gt;
* 元禄年中改定図（1688～1704年）：[[大和田町]]、[[野火止宿]]、[[菅沢村]]、[[北野村]]が記されている。&lt;br /&gt;
* 宝永（1704年～1711年）の初めから、大和田町・野火止宿・菅沢村・北野村が[[松平輝貞]]（[[上野高崎城]]主）の領土となった。&lt;br /&gt;
* [[新編武蔵風土記稿]]（文政十三年（1830年）完成）には、[[大和田町]]、[[野火留宿]]、[[菅沢村]]、[[北野村]]が掲載されている。&lt;br /&gt;
* 明治二年（1869年）：高崎領内だった大和田町・野火止宿・菅沢村・北野村は[[高崎藩]]となり、後に[[高崎県]]と称する。&lt;br /&gt;
* 明治四年（1871年）11月：[[入間県]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月：[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治九年（1876年）8月：熊谷県が[[埼玉県]]に合併される。&lt;br /&gt;
* 明治二十二年（1889年）4月：町村制施行により、[[大和田町]]・[[野火止村]]・[[菅沢村]]・[[北野村]]が合併して[[大和田町]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====片山エリア====&lt;br /&gt;
* 正保年中改定図（1645～1648年）：村名は記されていないが、300石＝代官支配、桜井庄之助（100石）・神谷与十郎（100石）・田中市郎右衛門（150石）・荒井又六郎（50石）・小野久内（50石）・木村伊右衛門（200石）・柘植甚八郎（150石）の采地、米津内蔵助（30石）の領地とした。&lt;br /&gt;
* 元禄年中改定図（1688～1704年）：[[下中沢村]]、[[下村]]、[[原ヶ谷戸村]]、[[辻村]]、[[堀之内村]]、（堀之内村枝郷）[[栗原村]]、[[十二天村]]、[[石神村]]、[[中沢村]]、[[野寺村]]の十村が記されている。&lt;br /&gt;
* [[新編武蔵風土記稿]]（文政十三年（1830年）完成）には、片山郷（[[石神村]]、[[堀之内村]]、（堀之内村枝郷）[[栗原村]]、[[十二天村]]、[[中沢村]]、[[上片山村]]、[[野寺村]]、[[辻村]]、[[原ヶ谷戸村]]、[[下片山村]]）が掲載されている。&lt;br /&gt;
* 明治元年（1868年）：采地をすべて代官・松村忠四郎の支配下とし、武蔵知県事に属する。&lt;br /&gt;
* 明治二年（1869年）2月：武蔵知県事に属する領域が[[品川県]]に含まれる。&lt;br /&gt;
* 同6月：米津氏の領地が龍ケ崎藩となり、後に[[龍ケ崎県]]と称する。&lt;br /&gt;
* 明治四年（1871年）11月：品川県・龍ケ崎県を廃して[[入間県]]に属する。&lt;br /&gt;
* 明治六年（1873年）6月：[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治八年（1875年）4月：片山10村が合併して[[片山村]]となる。&lt;br /&gt;
* 明治九年（1876年）8月：熊谷県が[[埼玉県]]に合併される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====合併へ====&lt;br /&gt;
* 明治二十九年（1896年）3月29日：[[新座郡]]が廃止され、[[北足立郡]]に編入。&lt;br /&gt;
* 昭和三十年（1955年）3月：[[大和田町]]と[[片山村]]が合併して[[新座町]]が成立。&lt;br /&gt;
* 昭和四十五年（1970年）11月1日：&#039;&#039;&#039;新座市&#039;&#039;&#039;として市制施行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==文化・社会==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
広大な雑木林を持つ[[平林寺]]は、国の天然記念物に指定されており、文化的な誇りとなっている。また、野火止四丁目には[[手塚プロダクション]]のスタジオがあることから「[[鉄腕アトム]]」を特別住民として登録し、アニメ文化を通じた地域活性化にも注力している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名所==&lt;br /&gt;
* [[平林寺]]&lt;br /&gt;
* [[野火止用水]]&lt;br /&gt;
* [[睡足軒の森]]&lt;br /&gt;
* [[野寺]]&lt;br /&gt;
* [[妙音沢]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==交通==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市の北部は東武東上線沿線、南部は西武池袋線沿線である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[東武東上線]][[志木駅]]：駅および南口は新座市に位置する。&lt;br /&gt;
** [[東武東上線]][[朝霞台駅]]・[[JR武蔵野線]][[北朝霞駅]]：朝霞台駅からひばりヶ丘駅を結ぶバス路線は[[畑中]]付近を通過する。&lt;br /&gt;
** [[東武東上線]][[朝霞駅]]・[[西武池袋線]][[大泉学園駅]]：朝霞駅と大泉学園駅を結ぶバス路線が新座市栄付近を通過する。また、新座栄バス停から大泉学園駅に向かうバス路線もある。&lt;br /&gt;
* [[JR武蔵野線]][[新座駅]]：市の中央に位置する。&lt;br /&gt;
* [[JR武蔵野線]][[新座貨物ターミナル駅]]：武蔵野線の貨物駅。[[川越街道]]との交点に位置する。&lt;br /&gt;
** [[西武池袋線]][[ひばりヶ丘駅]]：駅は西東京市にあるが、新座市の南端からは直線距離で250mほどしかない。広域へのアクセス性が高い。&lt;br /&gt;
** [[西武池袋線]][[清瀬駅]]：駅は清瀬市にあるが、駅の東側、線路の北は新座市[[新堀]]2丁目、南は3丁目であり、都県境までは250mほどしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出身人物==&lt;br /&gt;
* [[川島海荷]]：女優。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連作品==&lt;br /&gt;
*[[藍より青し]]&lt;br /&gt;
*[[シャーマンキング]]&lt;br /&gt;
*[[人生をしまう時間]]&lt;br /&gt;
*[[鉄塔 武蔵野線]]&lt;br /&gt;
*[[武蔵野線の姉妹]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==キャラクター==&lt;br /&gt;
* [[ゾウキリン]]：新座市イメージキャラクター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{現在の行政区域}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:現在の行政区域|にいさし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%9C%9E%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A_%E5%BD%A9%E5%A4%8F%E7%A5%AD&amp;diff=271</id>
		<title>朝霞市民まつり 彩夏祭</title>
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		<updated>2026-04-12T13:20:03Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;「朝霞市民まつり 彩夏祭（さいかさい）」&#039;&#039;&#039;は、毎年8月はじめに開催されている朝霞市のお祭りである。毎年8月の第一日曜日を基準に連続する金・土・日曜日の3日間、朝霞市役所周辺と北朝霞周辺を中心に開催されている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery  mode=&amp;quot;packed&amp;quot; heights=&amp;quot;200&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:ぽぽたんと彩夏ちゃん.png|[[彩夏ちゃん]]（左）と[[ぽぽたん]]（右）。2025年8月3日、北朝霞ステージにて撮影。&lt;br /&gt;
ファイル:第42回 彩夏祭2025タオルとバッジ.jpg|2025年の公式グッズ。吸水タオルと彩夏ちゃんバッジ。&lt;br /&gt;
ファイル:第33回彩夏祭2016タオル.jpg|第33回彩夏祭（2016年）のタオル。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朝霞市民まつりの始まり ==&lt;br /&gt;
昭和五十九年（1984年）、市民有志により「朝霞市民まつり」がはじめられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|都市化と情報化が進み、便利な世の中になる一方で、地域への愛着や連帯感、人と人との繋がりが薄れて行くことに危機感を抱いた市民の手によって始められました。開催当初は、盆踊りと打上げ花火をメインとしたオーソドックスなお祭りで、規模も小さなものでした。|[https://www.city.asaka.lg.jp/soshiki/12/saikasai.html 朝霞市民まつり「彩夏祭」の紹介（朝霞市公式ホームページ）]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関八州よさこいフェスタ==&lt;br /&gt;
平成六年（1994年）第11回朝霞市民まつりにて、本州で初めての鳴子踊りイベント「関八州よさこいフェスタ」が始まった。&lt;br /&gt;
{{Quotation|関八州よさこいフェスタの紹介&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
｢関八州よさこいフェスタ｣は、「彩夏祭」で行われる本州で最古のよさこい鳴子踊りの祭典です。この祭典は、平成6年（1994年）の第11回朝霞市民まつりから始まりました。それまでは、盆踊りや打上げ花火といったいわゆるオーソドックスなお祭りでしたが、より自由で幅広い世代の人が参加できるイベントとして取り入れられました。以来、夏真っ盛りの朝霞の地で、観客とチームが一体となってアツ～い夢空間で盛り上がります。&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
関八州とは？&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
関八州（かんはっしゅう）とは、関東地方の江戸時代の呼び名です。 箱根の関所から東の相模（さがみ）の国、武蔵（むさし）の国、上野（こうずけ）の国、下野（しもつけ）の国、安房（あわ）の国、上総（かずさ）の国、下総（しもうさ）の国、常陸（ひたち）の国の８つの国を合わせて、関八州と呼ばれていました。 「関八州よさこいフェスタ」は、高知の「よさこい祭り」、北海道の「よさこいソーラン祭り」に続く、関東地方の鳴子踊りの一大拠点を目指し、この名称がつけられました。|[https://saikasai.com/yosakoi よさこいフェスタの紹介（朝霞市民まつり彩夏祭公式サイト）]}}&lt;br /&gt;
{{Quotation|関八州よさこいフェスタでは、曲の一部に「関東地域ならではの曲（伝統的な民謡、まつりの曲や童謡、歌謡曲など）を1フレーズ入れること」が基本ルールです。関東地方以外のチームは、チームの地元曲でもOKです。 これさえさえ守れば、あとは自由！ 参加チームは、正調、ロック、サンバ、ジャズ、レゲエ、ダンス系など様々なオリジナル楽曲で踊ります。もちろん、「朝霞音頭～集まれ！踊り人～」「朝霞音頭～踊れや躍れ！～」などの既存曲もあります。4分30秒以内の楽曲に込められた各チームの思いをお聞き逃しなく！！|[https://saikasai.com/yosakoi/naruko よさこい鳴子踊りとは？（朝霞市民まつり彩夏祭公式サイト）]}}&lt;br /&gt;
== 「彩夏祭」==&lt;br /&gt;
平成七年（1995年）第12回朝霞市民まつりにて、「彩夏祭（さいかさい）」の愛称が公募により選ばれた。「夏の彩り豊かな祭り」というイメージと、「彩の国、埼玉」から名付けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==彩夏ちゃん==&lt;br /&gt;
平成十三年（2001年）第18回朝霞市民まつり彩夏祭にて、シンボルキャラクター「[[彩夏ちゃん]]」が公募作品の中から選ばれた。&lt;br /&gt;
{{Quotation|『彩』の文字を髪に結ったかわいらしいキャラクターで、打ち上げ花火のイメージや鳴子を持って踊り、祭りを楽しむ様子をデザインされています。また、ブルーとグリーンの色は、市内を流れる清らかな河川や、緑の豊かな朝霞を表現しています。|[https://saikasai.com/introduction 朝霞市民まつり彩夏祭の紹介（朝霞市民まつり彩夏祭公式サイト）]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==過去の朝霞市民まつり==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!年 !! 正式名称 !! 動員数 !! 関八州よさこいフェスタ&amp;lt;br&amp;gt;鳴子大賞 !! 花火 !! 備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1984 || 第1回 朝霞市民まつり || 6万5000人 || － || 355発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1985 || 第2回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1986 || 第3回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1987 || 第4回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1988 || 第5回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1989 || 第6回 朝霞市民まつり ||  || － || 1470発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1990 || 第7回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1991 || 第8回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1992 || 第9回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1993 || 第10回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1994 || 第11回 朝霞市民まつり ||  ||  ||  || 市民まつりに鳴子踊り（よさこい）が登場。&lt;br /&gt;
｢関八州よさこいフェスタ｣に発展する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1995 || 第12回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  ||  || 一般公募で愛称「彩夏祭」が決まる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1996 || 第13回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1997 || 第14回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  朝霞なるこ遊和会（朝霞市）|| || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1998 || 第15回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  朝霞なるこ遊和会（朝霞市）|| || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1999 || 第16回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  朝霞なるこ遊和会（朝霞市）|| || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2000 || 第17回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約35万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約3500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2001 || 第18回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約40万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約3000発 || 一般公募で「彩夏ちゃん」選出&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2002 || 第19回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約42万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約3000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2003 || 第20回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約43万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約4500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2004 || 第21回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約45万人 || 富士見町内会武蔵（武州武蔵）（朝霞市） || 約4000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2005 || 第22回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約55万人 || 富士見町内会武蔵（武州武蔵）（朝霞市） || 約6000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2006 || 第23回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約55万人 || かつみ（朝霞市） || 約7300発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2007 || 朝霞市制施行40周年記念&amp;lt;br&amp;gt;第24回 朝霞市民まつり彩夏祭　 || 約55万人 || かつみ（朝霞市） || 約7500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2008 || 第25回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約60万人 || REDA舞神楽（千葉県） || 約7500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2009 || 第26回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約55万人 || REDA舞神楽（千葉県） || 約7600発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2010 || 第27回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約60万人 || 勇舞会（富士見市） || 約7600発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2011 || 第28回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約50万人 || ※ || 約7700発 || 8月7日(日)、夕方からのゲリラ豪雨のため、全てのプログラムを中止。&amp;lt;br&amp;gt;（商工まつり、商工会青年部まつりを除く）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2012 || 第29回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約65万人 || 勇舞会（富士見市） || 約7,500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2013 || 第30回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約68万人 || CHIよREN北天魁（千葉県） || 約7,500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2014 || 第31回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約68万人 || かつみ（朝霞市） || 約7,500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2015 || 第32回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約66万人 || 夏舞徒（朝霞市） || 約9,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2016 || 第33回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約70万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約9,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2017 || 第34回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約71万人 || 霞童（朝霞市） || 約10,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2018 || 第35回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約70万人 || REDA舞神楽(千葉県) || 約9,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2019 || 第36回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約71万人 || 朝霞高校 若欅（朝霞市） || 約9,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2020 || 第37回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 中止 || － || － || 10月実施予定→&amp;lt;br&amp;gt;新型コロナウイルス感染症の感染状況等を踏まえて中止&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2021 || 第38回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 中止 || － || － || 10月実施予定→&amp;lt;br&amp;gt;新型コロナウイルス感染症の感染状況等を踏まえて中止&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2022 || 第39回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約35万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || － || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2023 || 第40回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約73万人 || REDA舞神楽（千葉県） || 10,000発※ || 花火大会は11月4日（土）実施、動員約26万人&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2024 || 第41回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約73万人 || 夏舞徒（朝霞市） || － || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2025 || 第42回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  約71万人|| 黎霞（朝霞市） || 約9000発 || &lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:祭り|さいかさい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%9C%9E%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A_%E5%BD%A9%E5%A4%8F%E7%A5%AD&amp;diff=270</id>
		<title>朝霞市民まつり 彩夏祭</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%9C%9E%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A_%E5%BD%A9%E5%A4%8F%E7%A5%AD&amp;diff=270"/>
		<updated>2026-04-12T13:04:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;「朝霞市民まつり 彩夏祭（さいかさい）」&#039;&#039;&#039;は、毎年8月はじめに開催されている朝霞市のお祭りである。毎年8月の第一日曜日を基準に連続する金・土・日曜日の3日間、朝霞市役所周辺と北朝霞周辺を中心に開催されている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery  mode=&amp;quot;packed&amp;quot; heights=&amp;quot;200&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:ぽぽたんと彩夏ちゃん.png|[[彩夏ちゃん]]（左）と[[ぽぽたん]]（右）。2025年8月3日、北朝霞ステージにて撮影。&lt;br /&gt;
ファイル:第42回 彩夏祭2025タオルとバッジ.jpg|2025年の公式グッズ。吸水タオルと彩夏ちゃんバッジ。&lt;br /&gt;
ファイル:第33回彩夏祭2016タオル.jpg|第33回彩夏祭（2016年）のタオル。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朝霞市民まつりの始まり ==&lt;br /&gt;
昭和五十九年（1984年）、市民有志により「朝霞市民まつり」がはじめられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|都市化と情報化が進み、便利な世の中になる一方で、地域への愛着や連帯感、人と人との繋がりが薄れて行くことに危機感を抱いた市民の手によって始められました。開催当初は、盆踊りと打上げ花火をメインとしたオーソドックスなお祭りで、規模も小さなものでした。|[https://www.city.asaka.lg.jp/soshiki/12/saikasai.html 朝霞市民まつり「彩夏祭」の紹介（朝霞市公式ホームページ）]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関八州よさこいフェスタ==&lt;br /&gt;
平成六年（1994年）第11回朝霞市民まつりにて、本州で初めての鳴子踊りイベント「関八州よさこいフェスタ」が始まった。&lt;br /&gt;
{{Quotation|関八州よさこいフェスタの紹介&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
｢関八州よさこいフェスタ｣は、「彩夏祭」で行われる本州で最古のよさこい鳴子踊りの祭典です。この祭典は、平成6年（1994年）の第11回朝霞市民まつりから始まりました。それまでは、盆踊りや打上げ花火といったいわゆるオーソドックスなお祭りでしたが、より自由で幅広い世代の人が参加できるイベントとして取り入れられました。以来、夏真っ盛りの朝霞の地で、観客とチームが一体となってアツ～い夢空間で盛り上がります。&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
関八州とは？&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
関八州（かんはっしゅう）とは、関東地方の江戸時代の呼び名です。 箱根の関所から東の相模（さがみ）の国、武蔵（むさし）の国、上野（こうずけ）の国、下野（しもつけ）の国、安房（あわ）の国、上総（かずさ）の国、下総（しもうさ）の国、常陸（ひたち）の国の８つの国を合わせて、関八州と呼ばれていました。 「関八州よさこいフェスタ」は、高知の「よさこい祭り」、北海道の「よさこいソーラン祭り」に続く、関東地方の鳴子踊りの一大拠点を目指し、この名称がつけられました。|[https://saikasai.com/yosakoi よさこいフェスタの紹介（朝霞市民まつり彩夏祭公式サイト）]}}&lt;br /&gt;
{{Quotation|関八州よさこいフェスタでは、曲の一部に「関東地域ならではの曲（伝統的な民謡、まつりの曲や童謡、歌謡曲など）を1フレーズ入れること」が基本ルールです。関東地方以外のチームは、チームの地元曲でもOKです。 これさえさえ守れば、あとは自由！ 参加チームは、正調、ロック、サンバ、ジャズ、レゲエ、ダンス系など様々なオリジナル楽曲で踊ります。もちろん、「朝霞音頭～集まれ！踊り人～」「朝霞音頭～踊れや躍れ！～」などの既存曲もあります。4分30秒以内の楽曲に込められた各チームの思いをお聞き逃しなく！！|[https://saikasai.com/yosakoi/naruko よさこい鳴子踊りとは？（朝霞市民まつり彩夏祭公式サイト）]}}&lt;br /&gt;
== 「彩夏祭」==&lt;br /&gt;
平成七年（1995年）第12回朝霞市民まつりにて、「彩夏祭（さいかさい）」の愛称が公募により選ばれた。「夏の彩り豊かな祭り」というイメージと、「彩の国、埼玉」から名付けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==彩夏ちゃん==&lt;br /&gt;
平成十三年（2001年）第18回朝霞市民まつり彩夏祭にて、シンボルキャラクター「[[彩夏ちゃん]]」が公募作品の中から選ばれた。&lt;br /&gt;
{{Quotation|『彩』の文字を髪に結ったかわいらしいキャラクターで、打ち上げ花火のイメージや鳴子を持って踊り、祭りを楽しむ様子をデザインされています。また、ブルーとグリーンの色は、市内を流れる清らかな河川や、緑の豊かな朝霞を表現しています。|[https://saikasai.com/introduction 朝霞市民まつり彩夏祭の紹介（朝霞市民まつり彩夏祭公式サイト）]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==過去の朝霞市民まつり==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!年 !! 正式名称 !! 動員数 !! 関八州よさこいフェスタ&amp;lt;br&amp;gt;鳴子大賞 !! 花火 !! 備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1984 || 第1回 朝霞市民まつり || 6万5000人 || － || 355発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1985 || 第2回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1986 || 第3回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1987 || 第4回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1988 || 第5回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1989 || 第6回 朝霞市民まつり ||  || － || 1470発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1990 || 第7回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1991 || 第8回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1992 || 第9回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1993 || 第10回 朝霞市民まつり ||  || － ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1994 || 第11回 朝霞市民まつり ||  ||  ||  || 「関八州よさこいフェスタ」が始まる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1995 || 第12回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  ||  || 一般公募で愛称「彩夏祭」が決まる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1996 || 第13回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1997 || 第14回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1998 || 第15回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1999 || 第16回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  ||  ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2000 || 第17回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約35万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約3500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2001 || 第18回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約40万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約3000発 || 一般公募で「彩夏ちゃん」選出&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2002 || 第19回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約42万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約3000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2003 || 第20回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約43万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約4500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2004 || 第21回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約45万人 || 富士見町内会武蔵（武州武蔵）（朝霞市） || 約4000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2005 || 第22回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約55万人 || 富士見町内会武蔵（武州武蔵）（朝霞市） || 約6000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2006 || 第23回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約55万人 || かつみ（朝霞市） || 約7300発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2007 || 朝霞市制施行40周年記念&amp;lt;br&amp;gt;第24回 朝霞市民まつり彩夏祭　 || 約55万人 || かつみ（朝霞市） || 約7500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2008 || 第25回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約60万人 || REDA舞神楽（千葉県） || 約7500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2009 || 第26回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約55万人 || REDA舞神楽（千葉県） || 約7600発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2010 || 第27回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約60万人 || 勇舞会（富士見市） || 約7600発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2011 || 第28回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約50万人 || ※ || 約7700発 || 8月7日(日)、夕方からのゲリラ豪雨のため、全てのプログラムを中止。&amp;lt;br&amp;gt;（商工まつり、商工会青年部まつりを除く）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2012 || 第29回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約65万人 || 勇舞会（富士見市） || 約7,500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2013 || 第30回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約68万人 || CHIよREN北天魁（千葉県） || 約7,500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2014 || 第31回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約68万人 || かつみ（朝霞市） || 約7,500発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2015 || 第32回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約66万人 || 夏舞徒（朝霞市） || 約9,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2016 || 第33回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約70万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || 約9,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2017 || 第34回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約71万人 || 霞童（朝霞市） || 約10,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2018 || 第35回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約70万人 || REDA舞神楽(千葉県) || 約9,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2019 || 第36回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約71万人 || 朝霞高校 若欅（朝霞市） || 約9,000発 || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2020 || 第37回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 中止 || － || － || 10月実施予定→&amp;lt;br&amp;gt;新型コロナウイルス感染症の感染状況等を踏まえて中止&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2021 || 第38回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 中止 || － || － || 10月実施予定→&amp;lt;br&amp;gt;新型コロナウイルス感染症の感染状況等を踏まえて中止&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2022 || 第39回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約35万人 || 朝霞なるこ遊和会（朝霞市） || － || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2023 || 第40回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約73万人 || REDA舞神楽（千葉県） || 10,000発※ || 花火大会は11月4日（土）実施、動員約26万人&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2024 || 第41回 朝霞市民まつり彩夏祭 || 約73万人 || 夏舞徒（朝霞市） || － || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2025 || 第42回 朝霞市民まつり彩夏祭 ||  約71万人|| 黎霞（朝霞市） || 約9000発 || &lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:祭り|さいかさい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AB%E6%AE%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%84%E5%9F%BC%E7%8E%89%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E8%87%AA%E6%85%A2100%E9%81%B8&amp;diff=269</id>
		<title>21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AB%E6%AE%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%84%E5%9F%BC%E7%8E%89%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E8%87%AA%E6%85%A2100%E9%81%B8&amp;diff=269"/>
		<updated>2026-04-12T10:02:43Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「埼玉新聞は、平成十二年（2000年）、「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;」の県民投票を実施した。投票は1月～4月、応募ハガキ総数は計82万5168通であった。応募総数順に候補を選定、選定委員会の審議により最終決定された。5月5日、「さいたま新都心」のオープニング企画として発表。また、6月には書籍『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;県民投票で選ばれた21世紀に…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;埼玉新聞は、平成十二年（2000年）、「&#039;&#039;&#039;21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選&#039;&#039;&#039;」の県民投票を実施した。投票は1月～4月、応募ハガキ総数は計82万5168通であった。応募総数順に候補を選定、選定委員会の審議により最終決定された。5月5日、「さいたま新都心」のオープニング企画として発表。また、6月には書籍『&#039;&#039;&#039;県民投票で選ばれた21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選&#039;&#039;&#039;』が刊行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧[[新座郡]]エリアからは、[[志木市]]の[[チョウショウインハタザクラ]]と[[朝霞市]]の[[彩夏祭]]が選ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ジャンル==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ジャンルA：名所・自然・史跡・文化財など40選&lt;br /&gt;
** [[チョウショウインハタザクラ|長勝院のハタザクラ]]（[[志木市]]）&lt;br /&gt;
* ジャンルB：芸術・スポーツ・芸能・祭りなど40選&lt;br /&gt;
** [[彩夏祭]]（[[朝霞市]]）&lt;br /&gt;
* ジャンルC：物産・食文化など10選&lt;br /&gt;
* ジャンルD：県ゆかりの人物など10選&lt;br /&gt;
[[Category:文化財|21せいきにのこしたいさいたまふるさとしまん100せん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E6%BA%9D%E6%B2%BC%E6%9D%91&amp;diff=268</id>
		<title>武蔵国新座郡村誌/溝沼村</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E6%9D%91%E8%AA%8C/%E6%BA%9D%E6%B2%BC%E6%9D%91&amp;diff=268"/>
		<updated>2026-04-08T12:55:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「武蔵国新座郡村誌の溝沼村項の現代語訳。  :現代語訳＝シラキのコホリのツカサ  ==溝沼村（みぞぬま）==  本村はいにしえ野方領に属する。  ===疆域=== 東は本郡岡村、南は下新倉・膝折などの諸村との境は野道・あぜ道…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[武蔵国新座郡村誌]]の[[溝沼村]]項の現代語訳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==溝沼村（みぞぬま）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本村はいにしえ[[野方領]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===疆域===&lt;br /&gt;
東は本郡[[武蔵国新座郡村誌/岡村|岡村]]、南は[[武蔵国新座郡村誌/下新倉村|下新倉]]・[[武蔵国新座郡村誌/膝折村|膝折]]などの諸村との境は野道・あぜ道などで区切られている。西は[[武蔵国新座郡村誌/野火止村|野火止村]]につながり、北は[[武蔵国新座郡村誌/浜崎村|浜崎村]]・岡村に接している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===幅員===&lt;br /&gt;
*東（字輿井塚から）西（字境久保に至る）27町30間&lt;br /&gt;
*南（字泉水から）北（字下田に至る）17町30間&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管轄沿革===&lt;br /&gt;
*天正十八年庚寅（1590年）、徳川氏の所有となる。後、村高500石を旗下士・中山助六郎の采地とする。&lt;br /&gt;
*万治二年己亥（1659年）、故あって収邑される。&lt;br /&gt;
*寛文のはじめ（1661年～）、300石をその弟・勘三郎に賜う。残りは代官の支配に属する。&lt;br /&gt;
*その後、寛文・延宝（1661～1681年）のころ、勘三郎の子・勘之亟のとき、采地を他に移してすべて代官の支配とした。&lt;br /&gt;
*徳川氏の末にいたり、村高604石6斗5升7合を代官・松村忠四郎が支配する。&lt;br /&gt;
*維新の際、[[武蔵知県事]]に属する。&lt;br /&gt;
*明治二年己巳（1869年）2月、[[品川県]]の管轄となる。&lt;br /&gt;
*明治四年辛未（1871年）11月、[[入間県]]に移る。&lt;br /&gt;
*明治六年（1873年）6月、[[熊谷県]]の所轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===里程===&lt;br /&gt;
*熊谷県庁より南少し東14里30町。&lt;br /&gt;
*四隣：岡村へ13町。浜崎村へ15町。野火止村へ20町。膝折村へ12町。&lt;br /&gt;
*近傍：本郡[[武蔵国新座郡村誌/大和田町|大和田町]]へ1里8町、志木宿へ1里&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地勢===&lt;br /&gt;
*林丘が東西に並び立ち、民家がその間に挟まれる。黒目川が南北に貫く。薪は余りがあって、炭に乏しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地味===&lt;br /&gt;
*陸田の色は黒・赤が混じり、ソバ・甘藷に適している。耕田は黒砂土で中稲によろしく、また水利の便がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===税地===&lt;br /&gt;
*田：31町8反5畝19歩&lt;br /&gt;
*畑：165町5反2畝25歩&lt;br /&gt;
*総計：197町3反8畝14歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===飛地===&lt;br /&gt;
本村の東の方、岡村の内に畑　3反8畝21歩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===字地===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;泉水&#039;&#039;&#039;（せんずい）：本村の西南隅にあって、富士の谷に接し、泉水前の西に連なる。東西8町・南北10町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;泉水前&#039;&#039;&#039;（せんずいまへ）：泉水の東に接する。東西10町・南北10町50間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;境久保&#039;&#039;&#039;（さかいくぼ）：本村の西端にある。東西10町20間・南北7町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;芹沢&#039;&#039;&#039;（せりさは）：本村の南にある。泉水前の東に連なる。東西10町50間・南北8町。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;岡下&#039;&#039;&#039;（をかした）：本村の北辺にあり、黒目川用水に沿う。東西5町20間・南北も同じ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;輿井塚&#039;&#039;&#039;（こしゐづか）：本村の東方にある。東西8町・南北11町20間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;南広沢原&#039;&#039;&#039;（みなみひろさははら）：本村の盗難にある。東南から西北に至る10町・西南より東北に至る3町。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、広沢原、向峡、大新久、稲荷久保、槐（さいがち）の根、行人塚、長山、海道端、上の原、仙裁畑（せんざい－）、大屋敷、小屋敷、五反田、下田、仲田、赤池、稲荷下、宮の下、地類根（ぢるいね）、瀧の根、仲畑、瀧根、水上（みづがみ）、原畑、関の上、後根、後田、石川道下、泉水山、茄子田、池田、富士下、堤中道下（ていちゅうみちした）、弁財、弁財上（べんざいうへ）、弁財原、六道、館道下（たてみちした）などの字地があり、多くて一々枚挙することはできない。ゆえに著名なものだけを掲載した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===貢租===&lt;br /&gt;
*地租：米115石8斗7升3合、金60円5銭3厘&lt;br /&gt;
*賦金：金65円50銭&lt;br /&gt;
*総計：米115石8斗7升3合、金225円55銭3厘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===戸数===&lt;br /&gt;
*本籍：142戸（平民）&lt;br /&gt;
*寄留：5戸（平民）&lt;br /&gt;
*社：13戸（村社1坐、平社12坐）&lt;br /&gt;
*寺：2戸（真言宗）&lt;br /&gt;
*堂：2戸&lt;br /&gt;
*総計：164戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人口===&lt;br /&gt;
*男：426口（平民）&lt;br /&gt;
*女：390口（平民）&lt;br /&gt;
*総計：816口&lt;br /&gt;
**他　出寄留11人（男4口・女7口）外寄留19人（男11口・女8口）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛馬===&lt;br /&gt;
*牡馬：23頭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舟車===&lt;br /&gt;
*荷車：42両（中車）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===山川===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[黒目川]]&#039;&#039;&#039;：深いところ4尺余、浅いところ2尺、幅7間。水色清く、本村の南の方、膝折村から来て、字泉水前を経て両派に分かれ、一つは用水となり、北の方の岡村に入る。一つは悪水となり、同じく北の方の浜崎村に入る。これが奔流である。その間19町45間。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[石川橋]]&#039;&#039;&#039;：黒目川の上流、字芹沢から字石川道下にまたがり、隣村に達する道に架かっている。幅6尺、長さ5間。木製。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[藤林橋]]&#039;&#039;&#039;：黒目川の中流、字仲田・字堤中道にまたがる。耕作路に架かっている。幅6尺、長さ5間。木製。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[高橋]]&#039;&#039;&#039;：黒目川の中流、東京道という道に架かっている。幅2間、長さ5間。石造。&lt;br /&gt;
*土橋：黒目川の分水に架かっている。幅6尺、長さ2間。石造。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===森林===&lt;br /&gt;
*泉水林：民有に属する。本村の西南にある。反別6町8反1畝10歩。&lt;br /&gt;
*水上林：民有に属する。本村の東南にある。反別5町7反6畝20歩。ともにマツ・マキ・雑木が生えている。&lt;br /&gt;
*林：官有に属する。本村の中央にある。東西20間、南北18間。反別1反2畝歩。スギ・ヒノキ・モミの類が生えている。&lt;br /&gt;
*広沢林：本村の東南にある。広沢原の林という。川越街道にまたがる。反別1町7反9畝18歩。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===池沼===&lt;br /&gt;
*[[赤池]]：本村の北方にある。池水は流れて黒目川の悪水路に入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[川越街道]]&#039;&#039;&#039;：本村の東南にある。東の方、下新倉村との境から西の方、膝折村との境に至る。長さ3町、幅4間。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===神社===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[溝沼氷川神社|地類社]]&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;地類社として創建されたが現在は[[溝沼氷川神社]]と改称している。&amp;lt;/ref&amp;gt;：村社。社地は東西18間・南北10間・面積188坪。本村の中央にある。祭神は稲田姫命。祭日3月10日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;浅間社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西30間・南北30間・面積899坪。本村の北にある。木花開耶姫命を祭る。延宝五年丁巳六月勧請。祭日4月初申の日、6月1日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西10間・南北17間・面積168坪。本村の西の方にある。豊受姫命を祭る。祭日未詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;氷川社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西12間・南北25間・面積114坪。本村の西の方、字泉水にある。素戔嗚尊を祭る。祭日9月19日。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;神明社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西5間・南北6間・面積28坪。本村の南、字滝の根にある。天照太神を祭る。祭日未詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西7間・南北6間・面積40坪。村の南の方、字滝の根にある。豊受姫命を祭る。祭日未詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西12間・南北12間・面積147坪。村の南の方、字水上にある。豊受姫命を祭る。祭日不詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;第六天社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西5間・南北3間・面積15坪。本村の南、字仲畑にある。八千矛命を祭る。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;神明社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西3間・南北7間・面積21坪。村の南にある。天照太神を祭る。祭日不詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;須賀社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西11間・南北12間・面積131坪。本村の南、字滝根にある。素戔嗚尊を祭る。祭日不詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;天神社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西22間・南北11間・面積244坪。村の東方にある。天満天神を祭る。祭日不詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;蔵王社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西3間・南北2間3尺・面積7坪。村の東方にある。伊弉諾尊を祭る。祭日不詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;稲荷社&#039;&#039;&#039;：平社。社地は東西12間・南北16間・面積143坪。村の北の方、字稲荷下にある。豊受姫命を祭る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===仏寺===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[泉蔵寺]]&#039;&#039;&#039;：東西21間・南北34間・面積616坪。本村の西にある。新義真言宗 豊島郡石神井村三宝寺の末派である。開基創建未詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[光善寺]]&#039;&#039;&#039;：東西22間・南北17間・面積288坪。本村の東にある。これも新義真言宗で三宝寺の末派である。開基建立未詳。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;観音堂&#039;&#039;&#039;：東西11間・南北8間・面積616坪。本村の西方にある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;薬師堂&#039;&#039;&#039;：東西11間・南北8間・面積616坪。本村の東にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===村事務所===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*本村の西の方にある。第四十番地某家を仮用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===物産===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*米：318石2斗&lt;br /&gt;
*大麦：350石8斗&lt;br /&gt;
*小麦：90石&lt;br /&gt;
*大豆：45石5斗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、ソバ、麦、甘藷などは余りがあって東京辺に販売している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===民業===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*男女農業を専らとする。もっともときどき採薪・焼炭をなす者がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武蔵国郡村誌}}&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国新座郡村誌|みそぬま]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%9B%BD%E5%90%8D%E6%94%B7&amp;diff=267</id>
		<title>朝鮮国名攷</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%9B%BD%E5%90%8D%E6%94%B7&amp;diff=267"/>
		<updated>2026-04-05T12:28:13Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「鮎貝房之進&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;鮎貝房之進&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;：1864年-1946年。言語学者・歴史学者・歌人。古代朝鮮の地名・王号などを考証した『雑攷』を刊行した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『雑攷』第二輯　上巻「日本の韓、新羅、任那、百済、高麗、漢、呉、秦等の古訓に就きて」&amp;lt;ref&amp;gt;鮎貝房之進 著『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12173004 新羅王号攷・朝鮮国名攷]』,国書刊行会,1972. 国立国会図書館デジタル…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;鮎貝房之進&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;鮎貝房之進&#039;&#039;&#039;：1864年-1946年。言語学者・歴史学者・歌人。古代朝鮮の地名・王号などを考証した『雑攷』を刊行した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『雑攷』第二輯　上巻「日本の韓、新羅、任那、百済、高麗、漢、呉、秦等の古訓に就きて」&amp;lt;ref&amp;gt;鮎貝房之進 著『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12173004 新羅王号攷・朝鮮国名攷]』,国書刊行会,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション&amp;lt;/ref&amp;gt;より、「（二）新羅（シラキ）をシラキと訓じたるに就きて」を現代語訳した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同書の考察をざっくりとまとめると、もともと「新しい国」という意味だった「斯羅」を意訳して「新羅」とした。また、キという音には「邑城」の意味があるため、合わせてシラキという読み方になったのではないかという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==『雑攷』第二輯　上巻「日本の韓、新羅、任那、百済、高麗、漢、呉、秦等の古訓に就きて」==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鮎貝房之進　述&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===（二）新羅（シラキ）をシラキと訓じたるに就きて===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では古くから新羅をシラキ・シラギと称している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一書曰。……是時、素戔嗚尊帥其子五十猛神。降到於新羅（シラキの）國居曾尸茂梨之處。云々（『日本書紀』神代巻）&lt;br /&gt;
::一書にいう。その時、素戔嗚尊（スサノオノミコト）は、その子の五十猛神（イタケルノカミ）を率いて、&#039;&#039;&#039;[[新羅]]（シラキ）&#039;&#039;&#039;の国に降り立ち、曾尸茂梨（ソシモリ）という場所に滞在された。&lt;br /&gt;
:是曰栲衾（タクフスマ）新羅國焉。（『日本書紀』仲哀紀）&lt;br /&gt;
::これを栲衾（たくぶすま）&amp;lt;ref&amp;gt;栲衾は栲（こうぞ）の繊維で作った夜具。色が白いことから、「しろ」「しら」の音を含む地名にかかる。&amp;lt;/ref&amp;gt;の新羅の国という。&lt;br /&gt;
:故其御船之波瀾押騰新羅之國。云々（『古事記』仲哀段）&lt;br /&gt;
::その御船の波は、新羅の国に押し上がった。&lt;br /&gt;
:右京皇別下&amp;lt;br /&amp;gt;新良貴（シラギ）。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊男稲飯命之後也。是於新良國即為國主。稻飯命者新羅國（シラキノクニ）王之祖也。日本紀不見。（『新撰姓氏録』）&lt;br /&gt;
::新良貴（しらぎ）：この氏は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊（ヒコナギサタケ　ウガヤフキアエズノミコト）の息子である稲飯命（イナヒノミコト）の後裔である。この稲飯命は、新羅の国においてそのまま国主となった。つまり、稲飯命は新羅国の王の祖先である。なお、このことは『日本書紀』には見えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シラギはシラキの音便であって、同名である。今の慶北（慶尚北道）慶州（キョンジュ）を中心として国を成していた辰韓すなわち新羅を、日本で古くシラキと称したのである。シラが新羅であるのは論ずるまでもないが、ギとは何語であろうか。朝鮮の古史冊に、新羅にキを添えて書いてあるものは一切ない。そのため、古来、諸種の説を成す人がいるが、これは朝鮮の古地名に最も多い邑城の意味である古方言の「只」「支」を添えてあるものと同語である。今、この語は朝鮮では廃語となっている。この語はもと日韓同語源であって、日本では今日も行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮の古地名に、たとえば闕支（慶尚南道・闕城）、三支（同・三岐）、菓支（全羅南道・玉果）、屈支（同・昌平）、栗支（同・栗原）、多支（同・牟平）、伐音支（忠清南道・新豊）などは「支」を添えたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊只（慶尚南道・熊川）、多斯只（慶尚北道・河濱）、奴斯只（忠清南道儒城）、豆仍只（同・燕岐）、仇知只（全裸北道・金溝）、只伐只（同・雲梯）、豆夫只（全羅南道・同福）などは只を添えたものである。（支・只は今の朝鮮音では지（chi）であるが、古音は기（ki）である。もっとも、方言の上でも지と기は通じる音である。そして、闕支を지として闕城と翻訳し、奴斯只を儒の城と後代翻訳されている。これにより「支」「只」は邑城の意味であることを推察できる。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、この邑城の意味だが、「支」「只」は地名に添えたものなので、有無は問題ではない。ゆえに、添えてある本もあれば、略して添えていない本もある。また、同じ意味の他の言葉に代えたものもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、忠清南道　新豊の古名を『三国史記』地理では「伐音支」としているが、『日本書紀』神功紀はこれを「布弥支」とし、『三国志』馬韓国名はこれを「布弥国」に代えている。また、『三国史記』地理で慶尚南道　新繋の古名「辛爾県」を、『日本書紀』欽明紀は「斯二岐」（任那十国の一国）と「岐」を添えてある。また、『三国史記』地理で全裸北道の金堤、古名「碧骨」を、神功紀は「辟支」として、骨を支に代えている。天智紀ではこれを避城として、城の字に訳してある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえに、シラキのキは『東国地理志』&amp;lt;ref&amp;gt;『東国地理志』：李氏朝鮮の歴史・地理学者である韓百謙の著書である。1615年。&amp;lt;/ref&amp;gt;には記載がないが、韓民族も実際に添えて読んでいた名であるということができる。「新羅の「羅」を国の意味として、ここに邑城の意味である「支」を添えたものとすれば、重複していないだろうか」という説はあるものの、シラは一つの国名すなわち固有名詞となったものなので、これに「城」を添えて呼ぶとしても特に問題ないだろう。さらに「新羅国」と重複して呼ぶのも同様である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「シラキ」は『古事記』神代巻から現れていて、みな「新羅」と追記してあるが、ただ『日本書紀』欽明紀百済明王の上表文に「斯羅」とある&amp;lt;ref&amp;gt;【原註】十五年十二月「百済遣下部杆率汶斯干奴、上表曰」云々「以斯羅無道不畏天皇」云々「仰乞軍士、征伐斯羅」云々（欽明紀）&amp;lt;br /&amp;gt;欽明天皇十五年（554年）冬十二月。百済は下部杆率（かほうかんそつ）汶斯干奴（もんしかんぬ）を遣わして、表（ふみ）を奉って述べた。「百済王　臣明と、安羅にいるもろもろの倭の臣ら、任那のもろもろの国の旱岐らとともに奏上いたします。斯羅（しらき）は無道をもって、天皇を畏れず、狛(こま)と心をひとつにして、海の北の弥移居（みやけ）を滅ぼそうとしております。臣ら、ともに相談して、有至臣（うちのおみ）らを遣わして、軍士をあおぎ乞うて、斯羅を征伐うたれたい」と述べた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。日本音は斯羅も「シラ」なので、新羅の異借字として何ら疑いのないところだが、「斯」の朝鮮音は사（sa）なので、方言借字としても新羅とは大きくかけ離れている。そのため、朝鮮でもこれについて説を述べている人がいる。&lt;br /&gt;
:鎮書謹案。新羅史宣帝五鳳元年。六部人推尊赫居世為君長。称以斯盧。居于金城。蓋斯盧、斯羅、新羅、新盧、皆云新国者也。東語新曰斯伊。国曰羅。盧羅音相類。斯新義則同也。今之慶州即其地耳。（海東繹史続）&amp;lt;ref&amp;gt;鎮書が謹んで考えますに、『新羅史』宣帝の五鳳元年（紀元前57年）、六部の人が推挙して赫居世を主君とした。斯盧と称し、金城に都を置いた。おそらく、斯盧・斯羅・新羅・新盧はみな「新国」と言っているのである。東語で、「新」は「斯伊」といい、「国」は「羅」という。「盧」も「羅」も音は似ている。「斯」は「新」と意味が同じである。今の慶州がその地である。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;【原註】智証麻立干四年、群臣が上言して言うには、「始祖が創業して以来、国名が定まっておらず、斯羅と称したり、斯盧と称したり、新羅と言ったりしております。臣らが考えますに、「新」は徳業が日に新たになることであり、「羅」は四方を網羅するという意味です。すなわち、新羅が国号にふさわしいものです」と。……王はこれに従った。（『三国史記』羅紀）&amp;lt;br /&amp;gt;（25）斯盧国（『三国志』弁辰国名）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
::（備考）『海東繹史』七十巻は、李氏朝鮮の学者・韓致奫が編纂した。『海東繹史　続』十五巻は韓鎮書が編集した。致奫は正宗己酉に進士となった。鎮書はその甥である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、朝鮮方言・斯伊（say）は「新」の意味なので、「新」は「斯」の意訳であるという説である。もっとも理由のある説である。というのは、新羅という地名は慶州以外にも所々にある。ことに著名な郡県名としては、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 新良県　もと百済沙尸良県　景徳王改名　今の黎陽県&lt;br /&gt;
* 新邑県　もと百済新村県　景徳王改名　今の保寧県&lt;br /&gt;
* 新平県　もと百済沙平県　景徳王改名　今もこれによる（以上『三国史記』地理）&lt;br /&gt;
* 沙尸良県　沙羅ともいう&lt;br /&gt;
* 新村県　沙村ともいう（以上『郡県沿革表』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
右はいずれも忠清南道の県名であるが、黎陽の「新良」は「新羅」とまったく同名であって、その古名「沙羅」と同借字同名である（沙尸良が沙羅と同借字であるのは、甲戌「アヤ」の章に詳しい説明があるので参照のこと）。他の2県名の「新」も方言「沙」の意訳である。この黎陽の古名を三国志は「駟盧」としてある&amp;lt;ref&amp;gt;【原註】(29)児林国（大興）、（03）駟盧国（黎陽）（『三国志』馬韓国名）&amp;lt;/ref&amp;gt;。「駟」の日本音は「シ」であるが、朝鮮・中国ともに「サ」に近い音で、「斯盧」と同名である。『文徳実録』の[[沙羅真熊]]の沙羅も新羅である&amp;lt;ref&amp;gt;【原註】新羅人　沙羅真熊は新羅琴をよく弾くことができる。興世書主は従って伝習し、秘道を得た。（『日本文徳天皇実録』）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、「新羅」は「斯羅」の意訳名であって、かなり後代の名である。『三国史記』にも、智証麻立干のときに国名を新羅と定めたことが記載してあるのも、この消息をかたるものである。そうすると、『日本書紀』神代巻から「シラ」と称し、「サラ」と呼ばないのはなぜだろうか。新羅という国名は漢代以前に遡ることができないことを推測すれば、日本にて「シラ」と呼んだのは、神功皇后以後に新羅という国名を知った以後の追記と見るべきである。もし神代から実際語り部に伝えられた国名とすれば、「斯伊」の半切約音の「シ」なのだろう。韓語「新」の訓は「サイ」である。しかし、ここに「斯」「沙」の一字を当ててあるのは、適切な漢字音がなかったので「伊」を略して当てたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今새（say）という語は左の意味に用いられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 새（say）：新（形容語）&lt;br /&gt;
* 샐（sail）：曙（動詞）&lt;br /&gt;
* 새벽（say piok）：晨（名詞）&lt;br /&gt;
* 새바람（say palam）：東風（名詞）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも同義である。この새（sai）の音を借りた字は「斯」「沙」である。それについて、日本では「栲衾（タクフスマ）」など白（シラ）の枕詞までも添えて称し、また「白」の訓借を新羅に当ててある場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:未定雑姓&lt;br /&gt;
:和泉国&lt;br /&gt;
:近義首（コムギノオビト）、新羅国主（シラキノコニキシ）、角折王（ツヌヲリノオウ）&lt;br /&gt;
::近義は、和名抄泉水国日根郡近義郷がある。行基年譜にも、日根郡近木郷と見える。和泉皇別に聟木（ムコギ）という氏がある。聟木（ムコギ）はこの地に五加（ムコギ）がよく生えることから名付けられたというので、近義はこの地に五加（ムコギ）がよく生まれることから追った名だという。そうすると近義は胡義（コギ）と訓ずるべきだろう。&lt;br /&gt;
::角折王はものに見えず、三代実録貞観十五年九月に、肥前国白角折（シラキツヌヲリ）神というのがある。白は新羅であって、新羅の角折神すなわち角折王ではないか。大変よく似た名を持っており、いささか驚くのみである。（『新撰姓氏録考察』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
被全国の「白角折神」の白をシラキ（新羅）と読ませてあるものはこれである。朝鮮には、白をシラ・シロ・シルなどと訓ずる語は一切ない。新羅古方言に同語があるかどうかは一切不明である。ゆえに、一疑問として後来の識者に質す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====（備考）====&lt;br /&gt;
『姓氏録』「近義首」の「近義」は新羅の地名と思われる。おそらくは迎日県の古名を指したものではないか。&lt;br /&gt;
:勤者国（『三国志』秦韓国名）&lt;br /&gt;
:臨汀県。もと斤烏支県。景徳王が改名。今の迎日県。（『三国史記』地理）&lt;br /&gt;
『三国志』の「勤者」は『三国史記』の迎日の古名「斤烏支」を指したもので、「斤烏支」の「烏」は語尾半切母韻に挿入しているだけであって、その有無は問題ではない。たとえば『三国史記』全羅南道・珍原の古名「丘斯珍兮」を『三国志』馬韓国名で「白斯烏旦国」とし、李勣奏状には「貴旦」とあるようなものである。ゆえに、迎日の古名「斤烏支」も単に「斤支」と書けるもので、『三国志』辰韓国名の「勤耆国」と同名となるわけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:研究書|ちようせんこくめいこう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%BF%97%E6%9C%A8%E5%B8%82&amp;diff=266</id>
		<title>志木市</title>
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		<updated>2026-03-31T13:25:03Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;志木市&#039;&#039;&#039;は旧[[新座郡]]の最北端に位置する市である。北部の旧[[宗岡村]]エリアは入間郡、南部の旧[[舘村]]＝[[志木宿]]エリアは新座郡であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県の南西部に位置し、面積9.05㎢と県内で4番目に小さいミニ自治体である。[[新河岸川]]と[[柳瀬川]]が合流する水運の拠点として発展した歴史を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地理・地形===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武蔵野台地の北東端から荒川低地へと移り変わる境界に位置する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 河川: 市の中央部を[[新河岸川]]、北端を[[柳瀬川]]が流れ、市役所付近で両河川が合流する。また、北東の市境には[[荒川]]が流れる。&lt;br /&gt;
* 地形: [[志木駅]]周辺から[[柳瀬川]]にかけては標高の高い台地（[[武蔵野台地]]）であるが、[[新河岸川]]沿いや宗岡地区は低地となっており、古くから水害対策としての堤防や「水塚（みづか）」を持つ屋敷が見られるのが特徴である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代、[[新河岸川]]の舟運が発達し、現在の志木市役所周辺にあたる「[[引又河岸]]（ひきまたかし）」は、川越と江戸を結ぶ物流の中継基地として繁栄した。明治以降、[[東武東上線]]の開通により物流の主役が鉄道に移るが、商業の伝統は引き継がれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木市前史===&lt;br /&gt;
* 寛永二十年（1623年）：舘村を4分して[[舘村]]・中野・[[引又村]]・[[針ヶ谷村]]とした。&lt;br /&gt;
* 正保年中改定図（1645～1648年）：[[舘村]]のみが記されている。&lt;br /&gt;
* 元禄六年（1693年）：針ヶ谷村を入間郡に編入。&lt;br /&gt;
* 元禄年中改定図（1688～1704年）：[[舘村]]のみが記されている。&lt;br /&gt;
* 寛政十二年（1800年）：3月、中野を舘に合わせた。&lt;br /&gt;
* [[新編武蔵風土記稿]]（文政十三年（1830年）完成）には[[館村]]が掲載されている。&lt;br /&gt;
* 明治七年（1874年）：7月、引又町を舘村に併せ、また一村とし、[[志木宿]]と改称。&lt;br /&gt;
* 明治二十二年（1889年）：4月1日、町村制施行により、志木宿が[[新座郡]][[志木町]]となる。&lt;br /&gt;
* 明治二十九年（1896年）：3月29日、[[新座郡]]が[[北足立郡]]へ編入される。&lt;br /&gt;
* 昭和十九年（1944年）：2月11日、[[北足立郡]][[内間木村]]、[[入間郡]][[宗岡村]]・[[水谷村]]と合併し、北足立郡[[志紀町]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和二十三年（1948年）：4月1日、志紀町が解体されて元の志木町・内間木村・宗岡村・水谷村に戻る。&lt;br /&gt;
* 昭和三十年（1955年）：5月3日、北足立郡[[宗岡村]]と合併し、北足立郡[[足立町]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木市===&lt;br /&gt;
* 昭和四十五年（1970年）：10月26日、[[北足立郡]][[足立町]]から志木町と改称、即日市制施行、志木市となる。&lt;br /&gt;
* 昭和四十九年（1974年）：11月13日、志木駅近くに[[志木ショッパーズプラザ]]（後に[[ダイエー志木店]]）オープン。&lt;br /&gt;
* 昭和五十四年（1979年）：3月5日、志木駅近くに[[志木ファイブ]]オープン。8月18日、[[志木ニュータウン]]への入居が始まる。11月8日、[[東武東上線]][[柳瀬川駅]]が開業。&lt;br /&gt;
* 昭和五十七年（1982年）：2月27日、[[新秋ヶ瀬橋]]が開通。&lt;br /&gt;
* 昭和五十九年（1984年）：6月、志木ファイブが[[ららぽーと志木]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和六十二年（1987年）：8月25日、東武東上線と旧営団地下鉄[[有楽町線]]の相互直通運転が開始される。&lt;br /&gt;
* 平成元年（1989年）：6月2日、[[志木ケーブルメディア]]（SCM）開局。&lt;br /&gt;
* 平成二年（1990年）：9月21日、第1回[[志木市いろは文学賞]]決定。&lt;br /&gt;
* 平成五年（1993年）：8月19日、大相撲志木場所が行われる。&lt;br /&gt;
* 平成七年（1995年）：3月11日、ららぽーと志木に[[志木ららぽーとシネマ5]]開業。11月24日、[[いろは橋]]架換工事起工式・[[富士下橋]]竣工式が同時に行われる。&lt;br /&gt;
* 平成八年（1996年）：3月22日、いこいの小径完成。&lt;br /&gt;
* 平成九年（1997年）：3月14日、せせらぎの小径が完成。4月1日、[[ユリノ木通り]]が全面開通。4月21日、[[いろは橋]]架換工事が完成、開通式。4月24日、[[愛宕通り]]線工事が完成。&lt;br /&gt;
* 平成十年（1998年）：10月1日、朝霞４市の消防事務が一本化され、朝霞地区一部事務組合[[埼玉県南西部消防本部]]が発足。&lt;br /&gt;
* 平成十二年（2000年）：2月24日、志木駅東口再開発ビルが竣工。[[マルイファミリー志木]]オープン。同時に東武東上線の踏切立体交差点の車道が開通。&lt;br /&gt;
* 平成十三年（2001年）：4月1日、朝霞市・志木市・和光市・新座市合併協議会設置。&lt;br /&gt;
* 平成十五年（2003年）：6月30日、朝霞市・志木市・和光市・新座市合併協議会廃止。10月1日、朝霞市・志木市・新座市任意合併協議会設置。&lt;br /&gt;
* 平成十六年（2004年）：2月25日、朝霞市・志木市・新座市任意合併協議会解散。&lt;br /&gt;
* 平成十七年（2005年）：3月31日、ららぽーと志木が閉館。&lt;br /&gt;
* 平成二十二年（2010年）：4月17日、志木市商工会ギャラリー兼物産館「[[かっぱふれあい館]]」オープン。&lt;br /&gt;
* 平成二十三年（2011年）：10月18日、荒川に出現した「[[志木あらちゃん]]」に特別住民票を交付。&lt;br /&gt;
* 平成二十五年（2013年）：4月1日、[[いろは親水公園]]オープン。7月31日、ダイエー志木店が閉店。&lt;br /&gt;
* 平成二十六年（2014年）：6月、志木市観光PRキャラクター「[[４式ロボ]]」と「[[いろは水輝]]」誕生。&lt;br /&gt;
* 平成二十七年（2015年）：5月17日、志木いろはウォークフェスタ2015 第1回ノルディックウォーキング・ポールウォーキング全国大会開催。&lt;br /&gt;
* 平成二十八年（2016年）：7月2日、[[田子山富士塚]]の登山道が修理され、山開きに合わせて入山が再開。&lt;br /&gt;
* 平成二十九年（2017年）：8月21日、（公財）志木市文化スポーツ振興公社公式キャラクター「[[カパル]]」に、第１号となる志木市広報大使を委嘱。&lt;br /&gt;
* 平成三十年（2018年）：11月18日、志木市広報大使「カパル」が「ゆるキャラ®グランプリ2018」でグランプリを獲得&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==文化・社会==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「カッパの街」として知られ、市内20箇所以上にカッパ像が設置されている。これは市内の寺院に伝わるカッパの伝説に由来する。また、商業都市としての気風が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名所==&lt;br /&gt;
* [[宝幢寺]]：カッパ伝説の寺&lt;br /&gt;
* [[いろは親水公園]]&lt;br /&gt;
* [[長勝院]]跡の旗桜（[[チョウショウインハタザクラ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==交通==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[東武東上線]][[志木駅]]：市の中心。志木駅の住所は[[新座市]]だが、北口側の商業エリアは志木市に属する。&lt;br /&gt;
* 東武東上線[[柳瀬川駅]]：周辺に大規模な団地群が広がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出身人物==&lt;br /&gt;
* [[永倉万治]]：小説家。&lt;br /&gt;
* [[豊岡真澄]]：鉄道文化人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==キャラクター==&lt;br /&gt;
* [[カパル]]：（公財）志木市文化スポーツ振興公社キャラクター。ゆるキャラグランプリ2018でご当地ゆるキャラランキング1位。&lt;br /&gt;
* [[4式ロボ]]（ししきろぼ）：志木市観光PRキャラクター&lt;br /&gt;
* [[いろは水輝]]（みずき）：志木市観光PRキャラクター&lt;br /&gt;
* [[カッピー]]：志木市商工会マスコットキャラクター&lt;br /&gt;
* [[志木あらちゃん]]：志木市商工会マスコットキャラクター&lt;br /&gt;
* [[チョウショウインはたざくらちゃん]]：志木市男女共同参画推進キャラクター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{現在の行政区域}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:現在の行政区域|しきし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%BF%97%E6%9C%A8%E5%B8%82&amp;diff=265</id>
		<title>志木市</title>
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		<updated>2026-03-31T11:42:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;志木市&#039;&#039;&#039;は旧[[新座郡]]の最北端に位置する市である。北部の旧[[宗岡村]]エリアは入間郡、南部の旧[[舘村]]＝[[志木宿]]エリアは新座郡であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県の南西部に位置し、面積9.05㎢と県内で4番目に小さいミニ自治体である。[[新河岸川]]と[[柳瀬川]]が合流する水運の拠点として発展した歴史を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===地理・地形===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武蔵野台地の北東端から荒川低地へと移り変わる境界に位置する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 河川: 市の中央部を[[新河岸川]]、北端を[[柳瀬川]]が流れ、市役所付近で両河川が合流する。また、北東の市境には[[荒川]]が流れる。&lt;br /&gt;
* 地形: [[志木駅]]周辺から[[柳瀬川]]にかけては標高の高い台地（[[武蔵野台地]]）であるが、[[新河岸川]]沿いや宗岡地区は低地となっており、古くから水害対策としての堤防や「水塚（みづか）」を持つ屋敷が見られるのが特徴である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代、[[新河岸川]]の舟運が発達し、現在の志木市役所周辺にあたる「[[引又河岸]]（ひきまたかし）」は、川越と江戸を結ぶ物流の中継基地として繁栄した。明治以降、[[東武東上線]]の開通により物流の主役が鉄道に移るが、商業の伝統は引き継がれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木市前史===&lt;br /&gt;
* [[新編武蔵風土記稿]]（文政十三年（1830年）完成）には[[館村]]が掲載されている。&lt;br /&gt;
* 寛永二十年（1623年）：4分して[[舘村]]・中野・[[引又村]]・[[針ヶ谷村]]とした。&lt;br /&gt;
* 元禄六年（1693年）：針ヶ谷村を入間郡に編入&lt;br /&gt;
* 寛政十二年（1800年）：3月、中野を舘に合わせた。&lt;br /&gt;
* 明治七年（1874年）：7月、引又町を舘村に併せ、また一村とし、[[志木宿]]と改称。&lt;br /&gt;
* 明治二十二年（1889年）：4月1日、町村制施行により、志木宿が[[新座郡]][[志木町]]となる。&lt;br /&gt;
* 明治二十九年（1896年）：3月29日、[[新座郡]]が[[北足立郡]]へ編入される。&lt;br /&gt;
* 昭和十九年（1944年）：2月11日、[[北足立郡]][[内間木村]]、[[入間郡]][[宗岡村]]・[[水谷村]]と合併し、北足立郡[[志紀町]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和二十三年（1948年）：4月1日、志紀町が解体されて元の志木町・内間木村・宗岡村・水谷村に戻る。&lt;br /&gt;
* 昭和三十年（1955年）：5月3日、北足立郡[[宗岡村]]と合併し、北足立郡[[足立町]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木市===&lt;br /&gt;
* 昭和四十五年（1970年）：10月26日、[[北足立郡]][[足立町]]から志木町と改称、即日市制施行、志木市となる。&lt;br /&gt;
* 昭和四十九年（1974年）：11月13日、志木駅近くに[[志木ショッパーズプラザ]]（後に[[ダイエー志木店]]）オープン。&lt;br /&gt;
* 昭和五十四年（1979年）：3月5日、志木駅近くに[[志木ファイブ]]オープン。8月18日、[[志木ニュータウン]]への入居が始まる。11月8日、[[東武東上線]][[柳瀬川駅]]が開業。&lt;br /&gt;
* 昭和五十七年（1982年）：2月27日、[[新秋ヶ瀬橋]]が開通。&lt;br /&gt;
* 昭和五十九年（1984年）：6月、志木ファイブが[[ららぽーと志木]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和六十二年（1987年）：8月25日、東武東上線と旧営団地下鉄[[有楽町線]]の相互直通運転が開始される。&lt;br /&gt;
* 平成元年（1989年）：6月2日、[[志木ケーブルメディア]]（SCM）開局。&lt;br /&gt;
* 平成二年（1990年）：9月21日、第1回[[志木市いろは文学賞]]決定。&lt;br /&gt;
* 平成五年（1993年）：8月19日、大相撲志木場所が行われる。&lt;br /&gt;
* 平成七年（1995年）：3月11日、ららぽーと志木に[[志木ららぽーとシネマ5]]開業。11月24日、[[いろは橋]]架換工事起工式・[[富士下橋]]竣工式が同時に行われる。&lt;br /&gt;
* 平成八年（1996年）：3月22日、いこいの小径完成。&lt;br /&gt;
* 平成九年（1997年）：3月14日、せせらぎの小径が完成。4月1日、[[ユリノ木通り]]が全面開通。4月21日、[[いろは橋]]架換工事が完成、開通式。4月24日、[[愛宕通り]]線工事が完成。&lt;br /&gt;
* 平成十年（1998年）：10月1日、朝霞４市の消防事務が一本化され、朝霞地区一部事務組合[[埼玉県南西部消防本部]]が発足。&lt;br /&gt;
* 平成十二年（2000年）：2月24日、志木駅東口再開発ビルが竣工。[[マルイファミリー志木]]オープン。同時に東武東上線の踏切立体交差点の車道が開通。&lt;br /&gt;
* 平成十三年（2001年）：4月1日、朝霞市・志木市・和光市・新座市合併協議会設置。&lt;br /&gt;
* 平成十五年（2003年）：6月30日、朝霞市・志木市・和光市・新座市合併協議会廃止。10月1日、朝霞市・志木市・新座市任意合併協議会設置。&lt;br /&gt;
* 平成十六年（2004年）：2月25日、朝霞市・志木市・新座市任意合併協議会解散。&lt;br /&gt;
* 平成十七年（2005年）：3月31日、ららぽーと志木が閉館。&lt;br /&gt;
* 平成二十二年（2010年）：4月17日、志木市商工会ギャラリー兼物産館「[[かっぱふれあい館]]」オープン。&lt;br /&gt;
* 平成二十三年（2011年）：10月18日、荒川に出現した「[[志木あらちゃん]]」に特別住民票を交付。&lt;br /&gt;
* 平成二十五年（2013年）：4月1日、[[いろは親水公園]]オープン。7月31日、ダイエー志木店が閉店。&lt;br /&gt;
* 平成二十六年（2014年）：6月、志木市観光PRキャラクター「[[４式ロボ]]」と「[[いろは水輝]]」誕生。&lt;br /&gt;
* 平成二十七年（2015年）：5月17日、志木いろはウォークフェスタ2015 第1回ノルディックウォーキング・ポールウォーキング全国大会開催。&lt;br /&gt;
* 平成二十八年（2016年）：7月2日、[[田子山富士塚]]の登山道が修理され、山開きに合わせて入山が再開。&lt;br /&gt;
* 平成二十九年（2017年）：8月21日、（公財）志木市文化スポーツ振興公社公式キャラクター「[[カパル]]」に、第１号となる志木市広報大使を委嘱。&lt;br /&gt;
* 平成三十年（2018年）：11月18日、志木市広報大使「カパル」が「ゆるキャラ®グランプリ2018」でグランプリを獲得&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==文化・社会==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「カッパの街」として知られ、市内20箇所以上にカッパ像が設置されている。これは市内の寺院に伝わるカッパの伝説に由来する。また、商業都市としての気風が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名所==&lt;br /&gt;
* [[宝幢寺]]：カッパ伝説の寺&lt;br /&gt;
* [[いろは親水公園]]&lt;br /&gt;
* [[長勝院]]跡の旗桜（[[チョウショウインハタザクラ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==交通==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[東武東上線]][[志木駅]]：市の中心。志木駅の住所は[[新座市]]だが、北口側の商業エリアは志木市に属する。&lt;br /&gt;
* 東武東上線[[柳瀬川駅]]：周辺に大規模な団地群が広がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出身人物==&lt;br /&gt;
* [[永倉万治]]：小説家。&lt;br /&gt;
* [[豊岡真澄]]：鉄道文化人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==キャラクター==&lt;br /&gt;
* [[カパル]]：（公財）志木市文化スポーツ振興公社キャラクター。ゆるキャラグランプリ2018でご当地ゆるキャラランキング1位。&lt;br /&gt;
* [[4式ロボ]]（ししきろぼ）：志木市観光PRキャラクター&lt;br /&gt;
* [[いろは水輝]]（みずき）：志木市観光PRキャラクター&lt;br /&gt;
* [[カッピー]]：志木市商工会マスコットキャラクター&lt;br /&gt;
* [[志木あらちゃん]]：志木市商工会マスコットキャラクター&lt;br /&gt;
* [[チョウショウインはたざくらちゃん]]：志木市男女共同参画推進キャラクター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{現在の行政区域}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:現在の行政区域|しきし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/09&amp;diff=264</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/09</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/09&amp;diff=264"/>
		<updated>2026-03-29T10:45:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第九章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その九　悲しい水喰土==  　小島文平が享和三年九月、御普請奉行（水道方）佐橋長門守佳如へ提出した『玉川上水堀割之起発並野火留村引取分水口訳書』は、新しいものでもあり、その家の申し伝えと土地の口碑に…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第九章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その九　悲しい水喰土==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小島文平が享和三年九月、御普請奉行（水道方）佐橋長門守佳如へ提出した『玉川上水堀割之起発並野火留村引取分水口訳書』は、新しいものでもあり、その家の申し伝えと土地の口碑にあることを取りまとめたものであって、安全な資料ではないという人もあります。私は、[[松平信綱]]を玉川上水工事の総奉行であったという記載について、宮崎成身の『国字分類雑記』、植田孟縉の『武蔵名勝図会』を傍証として、肯定いたしましてから、訳書が指定をしております玉川兄弟の蹉跌（失敗）の証拠、再度の設計失敗の跡を踏査して、安松の玉川上水についての事功を顕揚しようと思い立ちました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川兄弟の最初の計画は、多摩郡国分寺村真姿の流（川越線細田の真姿弁天を祀っている祠の下の池）を取り入れるつもりで、日野の渡（現在は日野橋）の下から府中八幡下へ引き込み、狭山の筥が池の流れも谷保村地先で合流させて、四谷大木戸へ向って水盛を渡したところ、八幡下の御滝で流筋低く、誘導してきた水はそこから涸れ、字金泥（府中町谷戸の南端)へ落ちてしまう。地字は金尻であるけれども、地元では「カナシイ」と呼び、同所の坂道を「悲しい坂」と言っております。今も日野橋の下から、府中の入口、堰屋塚まで二十余町の堀敷が、途切れ途切れではありますが残っております。玉川兄弟第一計画失敗の証跡として残っている古堀敷を、土地では新堀（しんぼり）または空堀（からぼり）と言っております。土地の言い伝えでは、承応の頃、神代村の瀧坂の辺まで掘り、試みに水を引き入れたところ、現在「悲しい」と称するところへ来て、幾度も堤塘が崩壊して、不成功に終わり、そのために役人がその責任として処刑されたと伝えております。それゆえ、この「カナシイ」の地名が起ったと言います。今でも祝儀の際などはこの道を通らないと、府中史談会長・猿渡盛厚氏から聞きました。土地の伝説と小島の『訳書』と、廃渠とをもって、十分に証拠となっております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府がこの工事の着手を命じたのは、承応元年十一月十五日で、翌二年二月十日に（『徳川実紀』）伊奈半左衛門が上水道奉行を仰付けられました。あるいは（『徳川実紀』）伊奈半十郎を水道奉行にした、ともあります。『上水記』でも評定所の連名に伊奈半左衛門があり、見分に出かけた内に伊奈半十郎があります。半十郎忠治は伊奈備前守忠次の次男で、承応二年六月二十七日没、半左衛門忠克は半十郎忠治の惣領、正保二年八月十日から御代官を勤めております。忠克は承応二年十二月二十二日に遺跡相続し、父に代ってその職を嗣いだ、と書かれています。承応二年二月十一日に水道奉行になつたのは親父の半十郎忠治で、見分に出掛けたのは息子の半左衛門忠克です、水道奉行の半十郎忠治は四月四日に起工して、六月二十七日には死んでおります。息子の半左衛門忠克がその父の職を嗣いだ十二月まで水道奉行が欠けており、見ようによっては水道奉行が二人あったかとも疑われます。この半十郎忠治の死が「悲しい」の伝説に上（かみ）役人が一人切腹したというのに関係ありそうです。また、羽村の水神祠にも、工事に関係して切腹した人を祭ったという地元の話がある。半十郎忠治は六十二歳で没したので、普通の老衰と思われる。上水工事失敗は必ずしも水道奉行である彼が責めを負わなければならないということもないでしょうが、結局、工事の失敗がなければ、そうした俚談俗説も出ては来ないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、第二の計画は、さかのぼって福生村地先から引き入れて、四谷大木戸へ水盛して、堀割も済み、いよいよ水を仕掛けて見ると、熊川村地内で引いて来た水がことごとく地中にしみこみ、流れるどころでない。その場所を、今日でも「水喰土」と書いて「ミヅクラヒド」と読む一つの地字を残した。旧知の八王子史談会長天野佐一郎氏に頼んで、福生村の宇新堀、廃渠のあるのは同村の南北隅、羽村から川崎へ寄ったところ。幅五間ほどの古堀敷が、長さ四町ほど残っています。水喰土は拝島駅から西北へ五町ほど距てて、左側が低く右側が高い土手が大凡五間ぐらい残ってをります。堤上から南望すれば、畑地は古堀敷よりもはなはだ低く、高く築いた土手からは十間も差があるように見える。さうして現在の玉川上水は水喰土から二町足らずのところ、熊川村の地元、八高線を隔てて北を一秒三尺の水勢で流れているのを見分させてもらいました。『武蔵名勝図会』にいうところの、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:福生村の西、多摩川畔に上水口址と称する堰の跡がある。地元の話では、はじめこの地から流通させようと定めたが、不便なことから今の地に改鑿したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これです。この記載は、面倒なことを避けて、暴露はありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これで、玉川兄弟の設計は、二度とも失敗したことは疑いない。小島文平の訳書は新しいものでもあり、口碑伝説を集めたものに過ぎないといわれても、祖先信綱の遺風で、旧吉田高崎両藩主の家に何も残されていないとすれば、根本史料などというものは、将来にも出て来そうもない。口碑伝説だからだめともいえまい。後に書いたものだからだめともいえまい。我が国には古事記があるではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の施設については、安松金右衛門の事功を疑う者はない。玉川上水は清右・庄右兄弟が水脈を見立てた功はないとはいえないが、工事設計は二度までも失敗している。このとき、金右衛門が川越侯の命を受けて、三度目の設計をしたという、端的な証拠がないという。そこで安松の身上について、多少の考察を試みましたところが、これもまたわからないことだらけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*09]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/08&amp;diff=263</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/08</title>
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		<updated>2026-03-26T12:31:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第八章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その八　川越運河==  　川越と江戸とをつなぐ新河岸川の漕運。奥州道中・木曽道中から外れたこの都会は、江戸へ水上二十里の漕運が開けていたために、中武蔵・奥武蔵への物資が、ここから出入するので、商売…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第八章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その八　川越運河==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　川越と江戸とをつなぐ[[新河岸川]]の漕運。奥州道中・木曽道中から外れたこの都会は、江戸へ水上二十里の漕運が開けていたために、中武蔵・奥武蔵への物資が、ここから出入するので、商売も繁昌し、土地も賑やかでありました。それは新河岸川の恩恵であります。この新河岸川について、川越史科は大体を『[[新編武蔵風土記稿]]』にしたがって、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保元年、この年のころ、新河岸川舟を通じる&lt;br /&gt;
:〔風土記〕入間川総説。新河岸川。（上略）この漕運の便宜は、いにしえの川越領主伊豆守信綱の時から始まった。その年代は正保元年（1644年）とも、また寛文二年（1662年）であるともいう。考えるに、榎本『万之覚』に三年すでに舟便云々と記されている。今、正保元年説に従う。&lt;br /&gt;
:〔同〕上新河岸。この村名は正保ノ改には見えない。元禄に至って始めて見えるので、その間に開けたのだろう。これ以前、御打入の後、ようやく土地が開け、川越城近郷の運送の便をよくするため、これを舟着き場とし、新たに河岸場を開いたため、新河岸と名を記すという。村名を上下に分けたのは、新河岸川水流によって分けたものである。寛文二年四月二十四日に造られた石地蔵の後光に沢田甚右衛門尉が始めてこの河岸を開いたことが彫られている。&lt;br /&gt;
:〔同〕下新河岸。慶安の水帳に新河岸と記され、元禄六年の水帳には下新河岸と記されているので、これ以前に上下の名が分れたのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と言っておりますが、榎本弥左衛門『万之覚』には慶安五年（承応改元、1652年）に、川越の家老・深井藤右衛門が、建築材料を舟廻しにしたことはあるが、まだ新河岸という名前はない。新河岸という名は承応二年（1653年）以後になって書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新河岸川と呼んでいるこの川は、川越市の東方、芳野村の伊佐沼（旧四十一町歩、埋め立て十三町歩、現在二十八町歩）から、市の南を流れ、仙波を経て新河岸に達する。この間一里五町、これを九十（ぐじゅう）川という。ここから[[新倉]]で荒川へ合流する。新河岸～新倉の間は四里半、川勢は屈曲、まがりくねって俗に九十九曲りと呼ばれる。昭和六年三月、新河岸川改修工事が成って、九十九曲はもう見られない。屈曲を除いて水流をまっすぐにし、旧航程の半ばを短縮した。そのため、今日は舟楫を通じることができなくなった。寛永十六年、松平信綱が川越城主となるや、まず当所の水利を考え、早く運河の計画を定め、この河川の改修工事を成したようである。船着の便宜を考えて、発着に利があるようにと新河岸を開いたため、運河ができてから数年の後にできたのだろう。運河峻成当時は、おそらく新河岸はなかったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この運河の工事はだれによって成功したのか、ほとんど話にも出ないありさまですが、誰かこの仕事に当たった人がいなければなりません。しかし私はただいま、前にも引用いたしました小島文平の訳書にある、小畑・安松の両人が川越まで内川の通船に成功したという、その記載を繰返すより外に、何も持っておりません。伊佐沼～新河岸間を流れていた九十川を改修し、さらに新河岸から新倉で荒川へ合流させる内川水路を治定した功績は、伊呂波樋の巧妙な施設と共に、だれの手腕によったかを究明して、その報恩・謝徳を怠ってはならないでしょう。しかし信綱の流儀で、文書等を遺しておりませんから、この運河の膨大な恩徳は、当該地方だけでなく広くこうむっておりますのに、誰が働いて工事を成しとげたのか全くわかりません。もし詳しく調べたら、安松金右衛門が民政に寄与した功績がほかにも多くあるのではなかろうかと思います。この穿鑿は、今後長く、川越市がやるべきことでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新井白石の『紳書』に、「信綱が金右衛門に命じて、多摩川の水を十六里引かせて新河岸に達せさせようとした」というのは、玉川上水を分けて[[野火止用水]]、その野火止用水の流末を[[宗岡村]]へ[[伊呂波樋]]で誘い、遂に新河岸川へ落ちることからの間違いで、玉川上水は玉川上水、野火止用水は野火止用水、伊呂波樋は伊呂波樋、川越運河は川越連河で、それぞれ別々のもので、最初から玉川上水の末を荒川へ落とすように計画したのではありません。決していちどに十六里引水したのではありません。この際、まさにこの事を論じておきましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*08]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/07&amp;diff=262</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/07</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/07&amp;diff=262"/>
		<updated>2026-03-24T14:46:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第七章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その七　引又の伊呂波樋==  　野火止用水の末流をどのように作用させたかを知るには、引又（現在の埼玉県入間郡志木町&amp;lt;ref&amp;gt;志木町は入間郡ではなく、この時期には北足立郡に所属している&amp;lt;/ref&amp;gt;)の伊呂波樋を説…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第七章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その七　引又の伊呂波樋==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の末流をどのように作用させたかを知るには、[[引又]]（現在の埼玉県入間郡志木町&amp;lt;ref&amp;gt;志木町は入間郡ではなく、この時期には北足立郡に所属している&amp;lt;/ref&amp;gt;)の[[伊呂波樋]]を説明するのが一番よろしい。この樋は千貫樋とも呼ばれて、六十の箱樋を継ぎ合わせて、百二十間の長さがある。多摩那羽村から当所までは九里あります。いうまでもなく玉川上水あっての[[野火止用水]]、野火止用水あつての伊呂波樋です。宗岡村（埼玉県入間郡）誌に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応二年、川越の城主[[松平信綱]]、多摩川上水工事竣功賞として、幕府から水量三分の一を信綱に賜わった。信綱はそこでその分水を、領地武蔵野新田の飲料に供しようとし、家臣・[[安松金右衛門]]に溝を掘らせ、新河岸川に達した。長さ六里余、俗にこれを伊豆殿堀という（諸書に散見されることは少し異なるけれども、古書類によって記す)。寛文二年、上下[[宗岡村]]は幕府の直轄となり、幕臣・岡部忠直がここを支配した。家臣・白井武左衛門は、本村が用水に乏しいことを憂い、多摩川上水の分水末を利用する計画を立てた。幸いにも宗岡新田村は信綱の領地であるため、侯に説いて許可を得、分水末（志木町）から巨大な筧を新河岸川上に架した。長さは百九十七間で、本村の字・精進場に達した。全村は今もその余慶に浴している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この伊呂波樋は野火止用水が引又で新河岸川へ落ちてしまうのを、そこで落とさずに宗岡村へ引くために、新河岸川を跨がせるためのものです。川越史料が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この年（万治二年（1659年））松平伊豆守、岡部佐兵衛に命じて、野火止用水を引股から掛樋により新河岸川上を経て宗岡村に引く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といい、それに『[[新編武蔵風土記稿]]』を一部引用して附記してあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:宗岡村用水、松平伊豆守、岡部佐兵衛が知行だったころ、万治二年玉川上水の分水を新座郡引股から掛樋で新川岸川の上を通し、村内およびこの辺のところどころの水田にそそいだ。その掛樋の継ぎ合わせた数が四十八あるので、伊呂波樋と呼んだ。&lt;br /&gt;
:新座郡（もとは新倉郡、元禄の時代に新座郡となり、現在は入間郡&amp;lt;ref&amp;gt;三田村鳶魚はどうやら当時の新座郡エリアが入間郡に編入されたと勘違いしていたようだが、実際には北足立郡に併合されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;）舘村の伊呂波樋は、新河岸川に架して、対岸宗岡村境の上に至る。引又橋の並びで西の方にある。長さ百二十六間あまり、幅二尺あまり、四方ところどころで継ぎ合わせている。その数が四十八あって、長さ九十六間、幅は筧と同じ。中央に高桝二つを設けている。これは水をたたえて激流とし、高いところにのぼらせる工夫である。この埋樋と筧とを合わせて二百二十二間一尺ある。農時には水をせきかけて、入間都の内の諸村の水田へそそぐ。言い伝えに、松平美濃守（柳沢吉保）が川越の地を領していたとき、領地入間郡宗岡村の辺、諸村の水利が不便であることを憂えて、当村の用水の余流がむなしく新河岸川へおとしいれられることを幸いとして、この樋を作ったという。また、秋元但馬守が領主であったときのことともいう。どちらが正しいかはわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊呂波樋という名前は、後には継ぎ合わせの数が多くなったが、最初は四十八継ぎあったから起ったと言い伝えています。川越史料が伊呂波樋の出来たのを万治二年というのは、『新編武蔵風土記稿』に従ったのでしょうが、仮に万治二年（1659年）としても、柳沢や秋元が河越城主であったときとするのはよろしくない。柳沢が河越城主であったのは、元禄七年（1694年）から宝永元年（1704年）まで11年間、秋元は正徳二年（1712年）から天保十二年（1842年）まで百三十年間です。風土記稿もこのへんはだいぶいい加減なものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　宗岡村地誌のとおり、寛文二年というのがよろしいようです。同地誌に、白井武左衛門のことを書いて、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:白井氏は生まれた地がわからない。正保元年、上下宗岡村は幕府の直轄となり、幕臣岡部忠直が支配した。白井武左衛門はその執事であった。氏が当村に赴任すると、鋭意公共の事業を興し、村民の利益を謀ろうとした。本村は灌漑の利に乏しく、旱魃の災があることを憂えて、寛文年中に松平信綱に説き、多摩川分水の末を引く大工事を行ってその害を除き、また本村宇佃に六百七十余間の長堤を築いて、悪水が溢れ入ることを防ぎ、新田場堤を築き、その堤の外にある荒野を開いて良田としたことなど、その功績は少なくない。その後、村民はその徳を後世に伝えようとし、ここに記念碑を建てて功徳を賞し、今に至るも毎年六月十四日に氏の祭祀を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この岡部佐兵衛忠直は、『寛政重脩諸家譜』で見ますと、延宝三年（1675年）七月に家督相続した人であるため、宗岡築堤のことはその先々代、小次郎吉次のときのことと思われます。この家は武蔵国多摩・人間郡、甲斐国八代、上総国山辺、下総国香取の諸郡で二千石余を領しておりました。吉次は正保四年（1648年）八月に相続した人で、千五百石から二千五百石に加増されております。宗岡村の古図によれば、全村を上中下に三分し、中は川越領（当時の城主・松平信綱)で、上下が岡部氏の領地でした。現在、宗岡新田というと、旧下組の場所の名になっているが&amp;lt;ref&amp;gt;ここでいう宗岡新田は現在の下宗岡四丁目あたりである。&amp;lt;/ref&amp;gt;、岡部氏の領地、白井武右衛門の働きで開けたのは、村の中央にある。古図で見れば紛れもない。新田場堤というのも、現在「新田」と呼ばれる所にあるので、白井武右衛門の開墾した場所とは違う。そのことは同村の石原康治氏が撰んだ『白井氏治水碑』に詳しく書いてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:禹の九潦は水があることを憂えている。湯の七旱は水がないことに困っている&amp;lt;ref&amp;gt;『荘子』秋水篇「禹之時十年九潦，而水弗為加益。湯之時八年七旱，而崖不為加損。」中国古代の聖王・禹（大禹）のとき、十年に九度の洪水があったが、水の量は増えなかった。殷王朝初代の湯王（成湯）のとき、八年に七度の旱魃があったが、海岸が後退することはなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。どちらもこれは水である。水が多すぎれば害があり、水が絶えれば利益はない。ただ指揮者伝明けが利害を察することができ、水をさえぎって防いだり、通じて用いたりする。治水としてなすことはこれで終わる。わが白井武右衛門民のような人こそ、そういう人であろう。氏は幕府の臣・岡部忠直（※吉次の誤りであることは以前に述べた））の部下である。わが宗岡村はかつて、分けて上中下とした。正保のはじめ、中宗岡は松平信綱が領し、上・下は忠直の采地であった。忠直はそこで氏に統治を命じた。氏は村に来ると、その東南の低い湿地から蒸気が立ち上るのを見て、鋤を使って開き、堤で囲み、肥沃な土壌をいくらか得て新田とした。新田の西は新河岸川に迫り、しばしば水害を被る。そこでまた堤を築き、これを防ぐ。西より北に六百七十間におよぶ。いわゆる佃堤である。本村の稲田はまた以前は灌水の便が乏しく、旱害にしきりにおそわれていた。氏は深くこれを憂えた。これ以前に信綱はその封土のうち、野火止荒原を開墾しようとし、地が乾燥していて水が少ないことに悩み、渠を掘り、玉水を引いた。曲がりくねって東北に流れること六里、わが西の境にいたって、その余水は最後に新河岸川に入る。氏、余水が空しく川に入るのを惜しみ、そこで思ったのは、「これで灌漑の利を開くことができるだろう。しかも、公の領土もまたここにある。喜びと悲しみは一体であるから、水を公に乞うのがいいだろう」と。そこでこれを信綱に請い、許された。そこで川の前岸で水箱を構えた。だいたい六尺ほど、高さはほとんど倍ある。箱の前に別に伏溝を設け、それを南に走らせ、渠の余流を受け、箱に遅らせている。箱の脚に口があり、これを入れる。箱の首のところにまた口を設け、樋ををつないでいる。我が国の俗に木の筧を樋という。樋の幅一尺四寸、深さも同じ。その下図は四十八で、樋をつないでいき、柱を立てて支え、川の上に架して横断させる。遠くこれを埋めると白虹のようである。首から尾までおよそ百九十七間、この通水によってはじめて田をうるおす。里の人はこれを伊呂波樋という。完成したのは実に寛文二年である。堤防で囲み、水害が除かれ、溝樋に水が流れ、水利が開かれたとき、九潦七旱も憂えなくてよい。民がその恩沢を受けてから今まで二百五十年である。まさに功をその時代に加え、徳を子孫に伝える者である。明治中興に至って、あらゆることが革新した。この樋もまた規制を改め、鉄管に代わっている。工事は丁酉（明治三十年）に始まり、癸卯（明治三十六年）に終わった。その利は以前を超えるけれども、旧観は残っていない。そこで年月が久しくなれば引水が氏によって始まったことが知られなくなることを恐れ、最近、村人がともに相談して言うには、今こそこれを石に刻んでずっと伝えようということで、文を私に委嘱した。私はこの里に住み、またその余慶に浴している者であるから、断ることなどできなかった。そこで旧記によってそのあらましを述べる。もし系譜の生没年の詳細は今はもうわからず、惜しいことである（銘を略す。原文は漢文）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊呂波樋が鉄管になって埋設され、地上の姿を失ったときに、この立派な碑が建ったのです。今は『江戸名所図会』に昔のおもかげを忍ぶしかありません。この碑文にもあるとおり、信綱が封内の開墾のために野火止用水を引いて、それが引又（志木村）の市場というところまで来ている。ここに捨樋があって、舘村用水を分けた後は柳瀬川へ落としてしまう。野火止用水は引又の市場までであった。それを見て、岡部氏の陣屋に在勤する白井武右衛門が、灌漑の水に乏しい宗岡村へもらうことを考えた。そこには、岡部氏の領地のみではなく、大きいのはないが小さい地頭はたくさんいた。いずれも武蔵野開発について当時の河越藩へ懇請して引水のことが調いました。そこで引又の市場から柳瀬川をまたいで、宗岡の精進場（下の谷（シタノヤ）)へ引き、それから村内を環流するようにし、内間木村も潤沢になるに至ったのです。白井の働きは佃堤によつて新田を開き、野火止用水の流末を誘って、当村の旱害を不足しないようにしたことにある。村内宇前内手の観音堂は、今は廃寺になっておりますが、そこの墓地には、用水開基と肩書した碑があり、位牌も村内・千光寺に移して祀られております。そのいずれにも忌日がありません。ただ当村では六月十四日（祇園会の翌日）を白井様の日といって、毎年全村休業しております。その人の功績によつて、村人が今日もその恩恵に感謝していることは、まことに美しい思いでもあり、人間はそうでなければならぬものです。それでは、安松金右衛門は誰から感謝され、だれかに忘れられずにいるのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この伊呂波樋の設計は誰がしたのであるか、白井が施設したという記録もないのに、江戸名所図会などはあっさりと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この地（膝折）に用水がある。引又の宿の中を流れて内川（所沢では粂川といい、大和田へ来て柳瀬川といい、引又橋の手前で合流してからを内川といいました。水路改修以前はこの内川が羽根倉の渡しのところで、荒川と落ち合うようになっていたのです）の橋際に至る。そこに枡を設け、川を隔てて宗岡の地へ通じていました。寛永のころ、秋元侯が川越を領せられていたこと（伊呂波樋創設が寛永の時代ではなかったことはすでに述べた）、農耕の助けとして、野火止の用水をここに引かせたのだという。そのころ、白井某という人が、この樋からの水の引き方を工夫して、四十八段にかけたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と申して、白井武左衛門の設計のように書いております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　引又の宿は南北へ長き三町余あって、新宿、本宿、中宿、坂下町といい、新宿の入口から町の真中を幅三尺余、深さ四五尺の大樋が縦貫しており、新宿の方は高く、坂下の方は次第に低くなっていて、そこに大枡がありました。この大枡は玉川上水の四谷大木戸にあつたのと同じもので、桝の効用については『上水記』が解説しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:埋樹は土中にある。水見桝は地上にある。また高桝がある。懸樋がある。分水のところに「わかれ」枡がある。水見桝のふたをあけて水勢を常に調べる。高桝でせき上げる。登り龍樋は上るところにかまえ、下り龍樋は引き落とす。みな、その地の高低にしたがう。しかし、水元より高くはあがらない。ひき落とし、高く上げて水勢を増す。河や堀の水底を潜るところもある。これを潜樋という。橋の下に沿って向う岸にわたるところも、渡り樋または懸樋という。石で流れを通すところを万年樋という。樋がなくて流れるところを白堀という。地方によっては素樋という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　文化の時期に小日向水道町の本法寺敬順の書きました[[十方庵遊歴雑記|十方菴遊歴雑記]]の中に、伊呂波樋の見聞が書いてあります。ただ今では明治三十六年に鉄管埋設に変革いたしましたので、伊呂波樋は二百五十年来の旧観を喪失してしまいました。ここにその本文を抄出するのは、ただ懐古の資料というだけではございません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:愚老がここに逍遙したのは、引股町の千貫樋と大いにいいはやして、評判が高いので、これを見ようとわざわざこの地に至ったものです。埋樋に沿ってつま先下がりにだんだんと北の方へ行くと、坂の下口左側に高桝を掘り埋めてある。高さおよそ五尺あまり、幅およそ三尺四～五寸四方。ここから坂を下りて、川端まで次第に低くなって、一丈あまりも地面を下っただろう。この坂口から土橋までおよそ一里あまり。さて、例の高桝から幅二尺四方の樋を坂口に深く土中に掘り込み、内川の渚に至って、その掘埋めた樋を地上へあらわして、内川の上をわたり樋としている。内川の幅、土橋で調べてみると長さ十七間、水面から渡樋の下面までおよそ一丈四五尺。このわたり樋の長さは二間つつで継ぎ、都合六十継、百二十間という。この引股橋から南は新座郡で松平右京亮領分（宝永二年三月三日、先祖墳墓の地であるということで、野火止領三千石を高崎藩主へ加増)、また、川から北は入間郡で秋元左衛門尉領内、千六百石の田地へ引く用水の樋という。すでに川向こう、入間郡棟岡村の堤の際に至って、水門に至って止まる。ここまでわたり樋の長さ百二十余間、樋の大きさは二尺四方。この用水なかったならば、数か村の農民の一切の仕付ものができないだろう。人間の工夫は賞賛に値する。これを近郷こぞって引股の樋とよび、あれこれとほめそやすことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水の流れの末を宗岡村へ誘引することについては、地盤が低下しているので相応に工夫を要したことがわかります。坂下の大樋は水勢を激成する効用のある登り龍の樋でしょう。以上、続けて書きましたのは、この敬順といふ老僧が妙に江戸っ子を出し、不似合な娑婆っ気から向う見ずに熊さん八さんになっているのは困りものですが、功績のすべてを松平信綱に帰して、大いに感嘆しておりますのを見過ごせません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:ただし、高桝をはじめ、渡樋にいたるまで、木はマツ、モミ、スギの類で作り、板の厚さ二寸、もとより渡樋に家根はない。これは用水のためだろうか。このことからつくづく思う二、東武（＝江戸）四ツ谷御門の外の高桝は左右にあって、南に一本、北に一本、都合三本、地上へ出るところは低くても五尺あまり、高いところは九尺あまり、幅はそれぞれ五尺から六尺四方、木の厚さ三寸、みなヒノキのふしのない板で作り、さらにわたり樋に家根を別に作り、みな節のないヒノキで作成された。しかもまたむかし、承応二癸巳年十一月十五日、四ツ谷大木戸から多摩郡羽村まで道のり十三里のところ、水盛を考え、掘り割りを工夫し、さらに四ツ谷御門外に仰ぎ見るほどの高桝を三つもこしらえ、御城内・御用やしきをはじめ、御城下町の者たち何百万人となく、命根をやしなう費用も簡単なものではなかった。この四ツ谷御門の高桝、渡樋から所々分水されている埋樋、また神田白堀上水、大洗堰の工夫より、水道橋のわたり樋、江戸一円分水の埋樋を、引股近在の井の中の蛙の者たちに見せたいものである。ただし、野火止の分水口は格別の堀割であって、古い話に伊豆殿堀という。これは松平伊豆守信綱、川越在城のとき、野火留辺も領内であったため、玉川から引水を工夫し、野火留近辺に田地もできた。それまではまことのむさし野の平原であったという。そこで信綱はむかし、多摩郡羽村というところから、この引股の駅まで九里の間、長流を引いて近郷を助け、なおまた内川の上から渡樋百二十間を造作し、入間郡棟岡村へ分流させ、若干の田畑の用水とした工夫、高智は感賞すべきものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　変な比較をして気持ちよがっている、どうにも馬鹿らしいところもあるが、「それまではまことの武蔵野の平原」であったといって、玉川上水、野火止用水、宗岡引水を列挙して、その功績を顕揚し、信綱の事業に感歎しておりますのは、刮目すべきものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　松平信綱の武蔵野開発には、地方水利に功みであった小畑助左衛門、安松金右衛門の両人の関与しないものはございません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:建出――新聞の村々(野火止、菅澤、西堀）は井戸を掘っても砂利が崩れ込み、水が出ないので、この分水を幾筋にも引き廻し、百姓の相続や木品盛木の手当てとした。残水の廃れたのを、いろは樋という長さ二間ずつの樋を四十八間かけて、川を越し、樋の下を通船往来できるように安松金右衛門が工夫をし、宗岡村を畑田成とした。元禄年中まで川越在城のため、三代（信綱、輝綱、信輝）が領した。次に柳沢美濃守へ渡り、近来、秋元但馬守殿の領分なので、以前の姿に修理を加え、今も堰があり、別に宮戸村へも一筋懸り、これは小給所であるとのこと。（野火留分水国之訳書）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このように、野火止用水の流末が、宗岡・内間木・宮戸の三村を支持している伊呂波樋の設計も、安松金右衛門によって立てられ、その功績を今日に遣しているのであろうが、これだけでは証拠が足りない。けれども江戸名所図会に対して、確かに一説として見るべきであらう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*07]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/06&amp;diff=261</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/06</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/06&amp;diff=261"/>
		<updated>2026-03-20T01:31:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第六章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その六　武蔵野開墾の規模==  　野火止に井戸はあっても、江戸の昔の桝のようなもので、家々で適宜、用水を誘引したものです。なかにはそこが車井戸になっていたり、撥釣瓶（はねつるべ）のもありますが、溜…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第六章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その六　武蔵野開墾の規模==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[野火止]]に井戸はあっても、江戸の昔の桝のようなもので、家々で適宜、用水を誘引したものです。なかにはそこが車井戸になっていたり、撥釣瓶（はねつるべ）のもありますが、溜った用水を汲み出すだけのもので、近年まで鑿井しなかったから、そこへ湧き出すのではありません。今日もいまだ幾つも残っておりますのは、庭の先や台所の辺に池の様な体裁で、金魚などを放ってある。これは村内を縦横に用水が流れております。それを自宅の前から勝手のよいところへ誘引し、沈殿させて使用する。釣瓶もポンプもあったものではなく、ちょっと柄杓で汲むのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[野火止用水]]は、[[松平信綱]]が玉川上水の三歩を拝領したということについては、何の文献証拠もなく、ただ事実については伝説を証明するよりほか、致し方ありません。幕府が撰述した『[[新編武蔵風土記稿]]』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:多磨郡羽村分水の下流。同郡小川村の境から分かれて本郡へ入り、数条となってみなぎり流れて、引又町のはてに至る。その間2里に及ぶ。水の色は炊水（米のとぎ汁）のようであり、潺湲（せんかん＝さらさらと水が流れる様子）としている。これは郡中の西の方の諸村の養水となっている。&lt;br /&gt;
:……それから多磨川水道の水7分は江戸へかけられ、3分は川越領新田の養水に賜り、今に至って当地の水利は乏しくなくなったという。（[[新編武蔵風土記稿/巻之129新座郡1#水利|新座郡総説]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水を7:3の割合で賜ったことは、海保青陵&amp;lt;ref&amp;gt;海保青陵（かいほ せいりょう）は、江戸時代後期（18世紀後半から19世紀初め）に活躍した経世家（経済思想家）・儒学者である。当時の武士の常識であった「商売を卑しむ」考えを否定し、「天下の儀は、売り買いの一事なり」という徹底した営利・合理主義を唱えた。&amp;lt;/ref&amp;gt;も書いております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:大猷院（家光）様の時、松平伊豆守信綱という人、世にいう智恵伊豆守である。江戸は下町の分は残らず新築地であって、元来は海であるから、井戸水に塩気があって人の腹によろしくないということで、玉川という水を十里西から取られた。すなわち、川崎の六郷川の上流である。幅三間で、渠を十里掘って、四谷御門まで引いた。そのため、この水気により、その近辺に少しずつしみ渡った。今は少々圃（畑）もできて、綿・大根などもはえている。大猷院様は伊豆守の功を賞せられて、上水の内三分の一をくださった。そこで、その渠から幅一間の渠を三里引いて、野火止という伊豆守殿の采地へ引いた。その水気がまたその近辺へしみ渡って、今は野火止近辺も原の中に圃がある。野火止は江戸より五里西北である。この渠が無ければ、今も原ばかりであっただろう。（『東贐&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;東贐&#039;&#039;&#039;（あずまのはなむけ）』：江戸で生まれ育った青陵が、初めて江戸へ来る知人のために、江戸の風俗、風土、歴史などをガイドブック的にまとめた書。&amp;lt;/ref&amp;gt;』文化十三年（1816年））&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さすがに海保青陵のことはあって、武蔵野開発と野火止用水とを睨んで、この渠がなければ今日までも野原のみであっただろうと言いました。松平信綱が玉川上水の総奉行として、我が国に二つとはない長距離の上水路、当時無二の大工事を董督（とうとく）して、首尾よく成功させました勲労、わけても徳川一世（家康）が江戸入部の直後、天正中に大久保主水に命じて神田上水をこしらえさせ、三代家光が井の頭上水を計画したが成らず、四代家綱に至ってようやく玉川上水が成功したので、江戸の上水計画は徳川氏四代がかり、年数にして六十年ばかりの作業でした。それほどの事業であるため、重く賞与されるのも不審はないものの、それにしても玉川上水総量の三割という、分量があまりに多いのは疑わしい。江戸全市とのバランスが取れません。信綱が拝領して私領へ引用したことを、上水記が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:伊豆守信綱朝臣、川越領地のとき、野火留も領内であって水懸りについて、玉川から引水ができ、初めて野火留領に田地もできた。まことにむさし野であって田作がないこと、今もって野火留のあたりは井水がなく、玉川のかかり水ばかりで、飲み水にも使っているとのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などと言っているのは、御普請奉行上水道方 石野遠江守広通という当職の人の著述とも思えない迂濶なことです。野火止傾ならば、野火止500石、北野20石、西堀50石、菅沢165石、計735石、それへ大和田1500石を加えても2000石には足りません。小島文平の訳書には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:伊豆守殿の実家・大河内金兵衛殿、峡田領・河越領あたりの御代官で、手代の内、小畑助左衛門・安松金右衛門の両人は、地方（村方）なども功みなので、家来に遣わされ、右翼・左翼とし、地方の関係のことは彼らと相談された。川越まで内川に通船し、野方の建出し並木は今も繁茂し、一万石の新開をしたのは、助左衛門が目論見したという。元より賢者なので、諸侯に稀な古今の功者と名をふれられたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と見え、幕府の代官であつた信綱の実父・大河内金兵衛が、部下の小畑・安松の材幹（能力）を知って伊豆守家に推薦し、小畑は主家の領地に一万石新開の計画を立てたというので、その新開諸村は延宝（1673年～1681年）までに着々成功いたしました。『新編武蔵風土記稿』にその村名を挙げてあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:上下安松、上下奥富（新田地）、松郷（新田地）、大仙波（新田地）、大仙波新田、大塚、大塚新田、大袋、増形（新地）、堀兼、今福、中福、砂久保、中新田、上下赤坂、上下杉原、亀久保（新開）、南永井、水子、寺井（新開）、府川、宿粒、小久保、上下南畑、南畑新田、竹間沢（新開）、亀谷、福岡、大久保新田、渋井新地、古市場、川崎、砂新田、久下戸、小中居、八島、古谷本郷。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを元禄七年（1694年）二月――伊豆守信輝が下総古河へ国狩した翌月――に提出した『松平伊豆守旧領高覚』と見合わせますとわかります。『旧領高覚』は前文に出しておきました（[[玉川上水の建設者 安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]）。武蔵野開発の規模は、信綱の宿案らしいです。『家譜』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四年（1647年）七月五日、常陸新治、武蔵埼玉の二郡のうちにおいて、一万五千石御加増。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。『藩翰譜』にはこの御加増を一万石としてあります。しかし『徳川実紀』には一万五千石加恩とあり、榎木弥左衛門『万之覚』にはこの御加増を二か所で書いており、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一　松平伊豆守様御知行に川越を御取りになりました。御かぞうは共に七万五千石。ただし、きさい（崎西）、ひたちふちゅう（常陸府中）とともにである。&lt;br /&gt;
:一　寛永十六己卯年（1639年）に、松平伊豆守の御知行は六万石で、河越を御知行に御取りになり、御入部なさった。ただし、きさい（崎西）と共に、その後、いずれかの年に一万五千石御かぞうされた。ただし、ひたちのふちう（常陸の府中）、川越の西小沼高くらちと共に。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　御加増一万五千石といふことは、『実記』と『家譜』とが合致している以上は疑問はあるまい。ここで注意しなければならないのは、『高士略伝』という藩中の人物誌の中に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:正保四丁亥年（1648年）七月一日、一万五千石御加増の時、御願にて武蔵野を五千石拝領。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。わざわざ未墾地を望んで拝領したとすれば、石高のない荒野なのですから、五千石といっても、何の収穫もない場所を大概に見積って田畑にしたらといふ計算で拝領したのでしょう。こういふ拝領も御加増も、類例はないでしょう。それゆえに、高のある一万石は、本高え加へて七万石にいたし、高なしの五千石は加えない、加えられないのです。類例のない珍しい御加増だけに、ソロバン上でも奇妙な勘定が出て来たのでしょう。すなわち、本高の内にも、新墾によって増高ができ、全く高のない本高以外の荒地を開いて新高もできたのです。この高のない五千石分の荒地を拝領したのは、まず武蔵野開墾に自分が手本を見せる底意のあったことを黙示したものと思われる。松平伊豆等は七万石の身上を九万四千余石にした。小畑助左衛門の一万石の新開計画などは何のその、信綱の腹案はそんなことではなかった。実に伊豆守家の領土開発は、武蔵野開墾であって、野火止用水がその事業に無二の効用があり、進捗もそれによつて活発になりえたのです。寛文九年（1669年）の武蔵野開墾文書に、武蔵野惣高合　十万九千百八十六石余とある。この開発と玉川上水からの分水は大いに考究しなければならないことで、後には三十三を数えた分水口の内で一番古く、一番大きいのが野火止分水でした。享和三年（1803年）現在の玉川上水分口書付の内、寛文以前創置の分を見ますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:多摩郡&lt;br /&gt;
::一　砂川村&lt;br /&gt;
:::七寸四方　この寸坪四十九坪&lt;br /&gt;
:::三分明　二寸三分余　この寸坪十六坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）新田が出来たときに願い済み、砂川村一か村ニ限リ、水末まで一里余。御料所&lt;br /&gt;
:新座郡小川村地先より引取&lt;br /&gt;
::一　野火留村&lt;br /&gt;
:::六尺四方　この寸坪三千六百坪&lt;br /&gt;
:::三分明の節　土俵をもって積立水懸り分量いたしました。この寸坪千二百坪&lt;br /&gt;
::右は承応年中（1652年～1655年）、上水堀開のときに願い済み、野火留村、西堀村、菅沢村、舘村、引又村、宗岡村、浜崎村、宮戸村に懸っております。水末まで六里ほど。&lt;br /&gt;
:多摩郡&lt;br /&gt;
::一　小川村&lt;br /&gt;
:::一尺四方　この寸坪百坪&lt;br /&gt;
:::三分明　二寸　巾一尺　この寸坪三十三坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）新田が出来たときから寛文九酉年までの内に願い済みとのこと。小川村一か村に限り、水末まで二里ほど。御料所&lt;br /&gt;
:同&lt;br /&gt;
::一　国分寺村&lt;br /&gt;
:::一尺四方　この寸坪百坪&lt;br /&gt;
:::三分明　三寸三分余　この寸坪三坪三合余&lt;br /&gt;
::右は明暦三酉年（1658年）願い済みとのこと、国分寺村・貫井村・恋久保村に懸り、水末まで一里半ほど。御料所&lt;br /&gt;
:荏原郡府中領境村地先より引取&lt;br /&gt;
::一　品川領用水&lt;br /&gt;
:::二尺五寸四方　この寸坪六百二十五坪&lt;br /&gt;
:::三分明　八寸三分余　この寸坪二百八坪三合余&lt;br /&gt;
::右は往古は天水場で、寛文九酉年御入用にて出来ました。大井村・上蛇窪村・下蛇窪村・戸越村・桐ヶ谷村・居木橋村・二日市村・南品川宿・北品川宿に懸リ、水末まで七里半ほど。御料所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また設置年代が不明なのは、拝島村、下小金井新田、下小金井村、境村、烏山村、上北沢村、幡ヶ谷村、三田用水などで、いずれも寛文以前とは思えない。分水口の中の古参者五つの内、四つまで幕府直轄地で、ただ野火止一つが私領地です。古い五つの分水だけでなく、後の分水も戸田因幡守、内藤大和守、田安御屋敷を除く外、二十五か所がことごとく幕府直轄地であります。直轄地以外に分水したのは、三十三分水口の中に野火止ただ一つです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　掘鑿しても飲用水を得られない武蔵平野に灌漑用水はなおさら求められません。玉川上水は江戸市民の生命をたすけるだけでなく、この渺茫たる曠原をも救うものです。その分水に恵まれて初めて田畑もでき、村落も安堵されました。さもなければ人間が居着けません。幕府はまず信綱の武蔵野開発案を認め、格外に野火止用水を許し、彼もまた平然として過分な水量の分附を受けてはばからなかったものと思います。信綱の立案の規模は一万石、二万石などといふつもりではなかったでしょう。野火止用水ができて、引き続いて分水口が増設され、武蔵野開墾はいや増しに進捗を活発にいたしました。だからこそ、幕府領か私領かというような詮議をしなかったのです。さて、信綱は、供給された野火止分水をどのように作用させたのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*06]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E7%B7%A8%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E7%A8%BF/%E5%B7%BB%E4%B9%8B129%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A11&amp;diff=260</id>
		<title>新編武蔵風土記稿/巻之129新座郡1</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%B0%E7%B7%A8%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E7%A8%BF/%E5%B7%BB%E4%B9%8B129%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A11&amp;diff=260"/>
		<updated>2026-03-19T23:55:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 水利 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;新編武蔵風土記稿　巻之一百二十九&amp;lt;br /&amp;gt;新座郡之一&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=郡図=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:正保年中改定図.png|サムネイル]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:元禄年中改定図.png|サムネイル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=総説=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新座郡は[[延喜式]]民部省の内に始めて武蔵国新座と見える。この郡名はいにしえ郡郷を定められたときから置かれたのか、またその後にできたのか。延喜より以前のことは古記にも現れていないので、その年代を今から考えることはできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[和名類聚抄|倭名鈔]]新座郡の註に「爾比久良」とあるので「ニヒクラ（にいくら）」と称することは古くからの言い方であった。それで、中古からは仮借して「新倉」とも書いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古老が伝えるには、[[御入国]]の後までは「新座」「新倉」と書くことが並び行われていたが、座の字を「くら」と訓読みするのは世の人が耳慣れないことから、後に地元の人はみな「新倉」と書くに至った。さて、新倉村の人が、わが村は郡の本郷であるといって、他の村をおとしめるような言い方をしたため、村の人は穏やかではないと思い、ついには論争を起こして訴えた。そのときの御代官が聞いて、「なぜこのようなことがあるのかといえば、郡名の字を誤って村名と同字を用いたがゆえに、愚かな民がこのような道理に合わないことを言い出しているのだろう」ということで、郡の文字を座の字に改められたと言い伝えられているというが、その年代は不詳であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地に伝えられた簿書に「元禄十一年（1698）までは新倉郡と記し、同十二年（1699）から新座の字に改めた」というが、正保（1645-1648）の改に新座郡と記してあるので、信じがたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともかく、新倉の言い方があるのだから、この村が郡の本郷であることはいつわりではないだろう。たとえば豊島郡に豊島村があり、入間郡に入間村があり、高麗郡には高麗本郷がある。この数村はみな郡の本村である。当郡もまたそうであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すでに、いにしえは新座村とさえ書かれていた。その証しは正保と元禄の改に明らかである。古老が伝えたとおりであれば、よこしまな民をくじくためにそのように命じられたのだろうと思われる。それ以降、言い方も地区ごとに分かれて、東南の方では「ニヰクラ（にいくら）」とも「ニヰザ（にいざ）」ともいう。西の方、高崎領の辺では「シンザ」という。このように古称を失ったので、現地の人は混乱して称している。しかし、享保二年（1717）、郡名の読み方を定められ、また享和三年（1803）にも郡村の言い方を細かいところまで調べるべきであるとの命があって、そのうたがわしいものを正されて、今は「ニヰザ（にいざ）」と言うこととなったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この郡は江戸から乾（北西）の方角に当たり、行程は四里以上ある。東は豊島郡に隣接し、おおよそ白子川を境界としている。南西は豊島・多摩二郡のきわに押し入り、西から北へは斜めに入間郡に接し、おおよそ柳瀬川を境界とするが、川越道の筋には中野村が柳瀬川の西にある。また、西北の隅にあたって本郡内間木村と入間郡宗岡村との界は地続きである。北から東へはこれも斜めに足立郡に隣接し、荒川を界としている。東西二里あまり、南北二里半ばかりである。前にも述べたとおり、四隅ともに斜めなので、その形は菱形に似ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地の大半は高く、南の方には山谷林丘が多く、イノシシ、シカ、キツネ、タヌキ、ウサギの類が住んでいる。北の方は川が延べわたっており、水鳥や野鳥が多い。その辺はみな平地であって、多くは砂場である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い伝えでは、この郡はむかしははなはだ小郡であって、今の西北の崖下は当時は大河入江のようであり、白浪が岸を洗っていたという。今の地理をもって考えれば、この説はおぼつかないことであるが、桑田の変がないとはいえないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、南西の方も中古まで武蔵野の末であって、茫々たる原野だったので、そのころは今の新倉・白子の数村の地のみ民家があったと思われる。延喜式にも五十戸以上で隣郡に付しにくい地は別に一郡を置かれたと書かれているので、この地は小さな村里であるが地理によって一郡と定められたのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御入国以来、年々に新田を開かれたため、今は土地の高いところは陸田となり、低いところは水田となって、すでに七～八分は開けたけれども、なお山林原野も少なくない。水田が陸田に比べると少ないのは地勢のためである。寒暖の気候はおおよそ豊島・多摩などの数郡と同じ。すべて田畑の土目は中の中であって下もまじっている。しかし、地元の人が耕して培養の功を欠かないため、諸作物はともに豊作であって、戸数も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風俗はおおよそ他郡と異なることはない。ただ、重陽の佳節を祝うのは九月九日に限らず、家々農事が終わるまでとしている。ゆえに収納の遅速によっては、神社の祭日を用いることもあるという。また召し使う者の出入りは二月二日を期限とする。これは江戸と違う。江戸も昔は二月二日を期限としていたが、今はすべて三月五日に定められている。そのように定められたのは寛文九年のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郡内街道は二条ある。その一条は江戸から川越への街道であって、東の方は豊島郡赤塚村から入って郡中を横に抜き、行程二里を経て西の方、大和田町から柳瀬川を越して入間郡に入る。言い伝えによると、この街道はむかしは今の道よりは北にあった。その跡が現に残っているのがところどころにあるという。しかし、この古街道がいにしえの鎌倉街道であるというときは、今の川越街道とは別なのであろう。僧・日蓮が佐渡国へ配流されたとき、武蔵国に至り、久米川の地から新倉を過ぎ、日を経て児玉時国のもとに宿したということが年譜にあるのは、ここで言っている古街道のことであろうか。なお、その古道の凝っている村々へも出しているため、照らし見るべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一条は甲斐国・相模国から陸奥への街道であり、南側は多摩郡清人村から郡内菅沢村へ入って、北へ向かい、引又町から新河岸川をこえて入間郡宗岡村へ入り、数里を経て足立郡与野宿に達する。この街道も昔から開けているというが、その年歴は伝わらない。これもそれぞれの村々に載せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==郷名==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
和名抄に所載の郷名は一つ＋余戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今、その地がわかっていない。地元の人が言うには、白子のあたりであろう。コとキとは五音の相通であるから、「シラキ」というのを中略したものであろうという。この説は牽強付会にもおもわれ、簡単には受け入れられないが、このころ郡内の多くは未開の地であったから、その在所は実際に白子のあたりであっただろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===余戸===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===今の郷名===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====片山====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10村。この地は江戸から行程四里であって、郡の南端にある。隣郡・多磨郡の地にも少しまたがっている。郷の中の東南はすべて土地が高く、西北に向かって崖がある。崖下の耕地から見れば片山と名付けたのもおのずから地の様子によっていることがわかる。東は広沢原から南の方へかけて小榑（こくれ）・保谷などの数村と境をへだて、西は多磨郡神山郷の隣であり、本軍にかかっては野火留宿の地に接する。北は新倉郷膝折宿の境に至る。東西は一里半にすぎず、南北はわずかに半里ばかりである。その中でも郡中にある地はいにしえはわずか一村でであって、片山村だけだったが、後、その村地を分けて10村とした。このほか、多磨郡の内落合村と同村の新田とを合わせて12村がこの郷に属す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土地の人の言い伝えに、昔、七沢七郎という人がこの地に住んだという。この地は崖下に七か所の沢があって水田を養う水となった。地名にも中沢がある。そのほか、大沢・小沢などといういうものがみな七沢のうちである。そうであれば、七沢をもって氏としたのではないだろうか。この人のことは、他に伝えられる事跡が知られていないという。また、土地の人で好事家の者がいうには、七沢氏のことは古老の伝えたものだけであって、別に証拠となるべきこともないという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、御入国の後に片山七騎と号してこの地の地頭・米津内蔵助をはじめとして桜井庄之助、神谷与重郞、荒川又六郎（子孫が断絶したために当所のうちどの地を知行していたかはわからない）、木村伊右衛門、柘植甚八郎（これも子孫が断絶したため、知行の地を伝えない）、小野久内らがこの地に住んだ。後には人数も増して、十八騎となったという。しかし、七人のほか、田中一郎右衛門がこの地を賜ったことは家譜にも見えているが（田中の知行も所替えがあったので旧領の地が今いずれの所であったかわからない）、そのほかの名は聞こえないので、十八騎というものはおそらくは誤りで、八騎だったのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この郷の陸田は土性真土であって根張り少なく、糞芥の培養がなければ諸菜よくない。水田は水乏しく、沢々の水や野寺村児ヵ淵の水を引いて養水としているので、ややもすれば足りないことを憂いている。昔、松平伊豆守信綱の家人・安松金右衛門に命じて多摩川の水を引いたとき、この郷中から人夫を出して助ければ長く養水の便を得て互いの利となるだろうとさとしたのに、頑愚な土地の住民らは受け交わさなかった。おそらく心中では、「郷中に沢があって養水には足りている。それに今回のくわだては恐らくは完成しないだろう。もし水利をむさぼって人夫を費やしたとしても多くは無駄になるだろう」と考えたのだろう。だが、案に相違して、隣村には水が溢れるに至った。そこで今に至ってもこの郷へ水を引くことを得られず。土地の人の後悔は大方ならずという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====舘====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1村。北条の家人 大石家の館跡がある地なのでこの郷の名が起こったのだろうと土地の人は言う。しかし、郷名の起こったのはもっと古い世からのことなので、この説もうかつには信じることができない。楯村に大石家の館跡があるというが、北条家の家人なのでやっと永禄・天正の間（1558～1592）のことと思われる。それより以前の世から舘があったとしても、大石家は木曽義仲の子孫であるというのだが、そのような古い世のこととも思われない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべて郷名の起こりは和名抄には載っていないといえども往古のことと思われる。ほかに理由があるのだろうが、わかるわけもない。しかし、中古、村名や字の区別もなく、すべて郷と記したものも文書などによく見られるので、これらもその類であって、舘村の郷と記したのがいつのまにか郷名ということになったのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この郷は郡中、西北の方にあって、広沢の庄にかかっている。属するのは舘村の一村だけである。地形は、東は野方領の内、宮戸村を境界とし、南の方は大和田野火止などの村々に接している。その二村は郷庄の名称も今は伝えない地であるという。西から北へは入間郡に隣り合っており、柳瀬・新河岸の二流が境をめぐっている。東西二十町あまり、南北は一里にあまる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郷中すべて土地高く、畑が多い。西の方、柳瀬川の辺だけ水田がある。もとより僻地であるが、陸奥街道にかかっているため、おのずから旅人の往来もあって、賑わっている土地である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====新倉====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9村。郡内の東北の方にある。郷の東南は保谷村に始まって、郡の東の境を北の方へ長く続いている。そのうち、広沢原から北はおおよそこの郷に属している。北の方は荒川を境界とし、東はすべて豊島郡に隣接し、南は多磨郡に至り、西は郡内の片山郷の諸村に及んでいる。そこから川越街道を境界とし、西北に寄ったところに舘村のうち引又町、入間郡宗岡村に接している。郷中にはすべてで20村あって、広沢庄野方領の地にかかっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この郷名は和名抄には載っていない。その後いつのころから起こったのだろうか。文保年中（1317～1319）親王家から吉良亀松に下し賜われた文書には、武蔵国新倉郷七百貫云々と載せられているが、今の世では村と称すべきものでも郷と書いたものが古記に多く見られるので、舘郷と同じ疑いがないわけではない。また、新倉の文字も古くから書かれてきたこともこれによってわかる。これは全く訓の具合がよいのに従った者であろう。その実は郡の本であるため、新座の字を用いる方が正しいかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==荘名==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===今の荘名===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====広沢（廣澤)====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
23村。この庄名はいずれのころから起こったかわからない。本郡岡村の南の方に広沢の池があり、このためにその辺をすべて広沢と号すともいう。これはこの辺に沢が多い中でも、この池だけが特に広く、池の中の水の漏出するところが数か所ある。土地の人はそこを指して七ツ釜という。それでこの池も広い沢というようになったのでこの名が起こったのだろう。とはいうものの、それもただ口碑に伝えただけで、そのような証拠はないので、もとより広沢の名があったために池もそう名付けたのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この庄は新倉・片山・舘の3郷にまたがり、属する村が多い。郡の東から西へ貫き、南は中沢・小榑などの数村にとどまり、北は田島・宮戸などの村々に至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==領名==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===今の領名===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====野方====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
34村。そのうち、宮戸・内間木の辺は、土地の人は峡田領（はけたりょう）であるというが、誤りであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==里名==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===今の里名===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====黒目里====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堀ノ内・栗原・十二天・辻などの諸村にこの里名がある。黒目川の名によって起こったのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==村数==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
34村&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
34村というのは今現在の数である。正保年間の改に村数18。元禄の改正には13村増えて31村となっている。その後また3村が増えて今の数となった。このほか後年新開の地ができて持添新田と称するものが7。これは本村に付属している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==山川==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===黒目川===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
水上は多磨郡柳窪村で、所々の清水が集まり、二条の流れとなる。同郡落合村に至って合流して一流となり、本郡栗原村へ流れ入る。この辺をすべて黒目里というため、この名がある。久留目川とも書き、また来目川とも記す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
川幅は2～3間のところも5～6間のところもあり、末流に至って十余間に至る。その中でも根岸河岸より下は川幅もことに広く、船の往来が絶えない。すべて水上から村数13村ばかりの地、およそ2里あまりの間を屈曲して流れ、田島・根岸両村の際にいたって新河岸川に落ち合う。フナ・ナマズの類が多く生ずるが、土地の人は漁していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===白子川===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この川を新倉川とも呼ぶ。もとは一条の流れであったが、至るところによって名が異なる。水上はこの郷の小榑村と豊島郡土支田村との境の井頭池から流れ出て、郡の境5村の間、2里半ばかりを経て荒川へ落ち入る。川幅が狭いところでは1～2間、広いところでも10間以上にはならない。上下白子村の辺では白子川といい、下新倉村では新倉川と称している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==原野==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===広沢原===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郡の中央に広がっている。この辺の地名を広沢というため、この名がある。訛ってヒラサワともいうため、今、平沢と記すところもある。昔は限りなき曠野であったが、今は土地開けて、原も減ってきたという。しかし、なお長短を等しくするときは一里四方もあるだろう。白子・新倉・小榑・片山・膝折・丘・根岸・台などの村々がその境をめぐっている。そのため、新倉に近いところを新倉原といい、膝折の辺では膝折原といい、辻村の台の上を上ノ原という。これらはみな広沢原の内である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
享保年中から次第に新田となって、18村各自進退するというが、多くの村々へわたる原といい、しかも今もいにしえの状態を失っていない。草・茅・樹・木立がむらがって分けるのに惑うほどの地なので、ここに載せた。なお、新田の状も合わせて読むこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==水利==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;井頭池&lt;br /&gt;
:豊島郡とこの郡の境にある。この池の下流、白子川・新倉川の間、所々に堰をかまえて東方数村の用水としている。&lt;br /&gt;
;児ヵ淵&lt;br /&gt;
:野寺村にある。片山の諸村の養水はこの淵から出ている。&lt;br /&gt;
;七ツ沢&lt;br /&gt;
:片山郷の内にある。これも郷中の養水となる。&lt;br /&gt;
;広沢池&lt;br /&gt;
:岡村にある。この辺の諸村の養水はみなこの池の中の七ッ釜というところから漏出している。&lt;br /&gt;
;黒目川養水&lt;br /&gt;
:栗原村・十二天村。この辺でも所々に堰を設けて養水を引いている。&lt;br /&gt;
;多磨川分水&lt;br /&gt;
:多磨郡羽村分水の下流。同郡小川村の境から分かれて本郡へ入り、数条となってみなぎり流れて、引又町のはてに至る。その間2里に及ぶ。水の色は炊水（米のとぎ汁）のようであり、潺湲（せんかん＝さらさらと水が流れる様子）としている。これは郡中の西の方の諸村の養水となっている。&lt;br /&gt;
:言い伝えによれば、松平伊豆守信綱が川越を領した。この領内、当郡武蔵野のうち、野火留の曠野を開墾することを計画したが、この地は水利が悪かったので、遠く多磨川の水を引こうとして、その旨を言上し、御許しをこうむった。やがて家人の中で水利に精通した者を選び、安松金右衛門に命じてそのことを司らせた。そのころ、大和田の辺や多磨郡のうち本郡近辺の地の多くは開けていなかったが、水利の便を経れば開墾される地も多いだろうと、土地の民はこぞって願った。そこで彼らにさとして人夫を出させたので喜び勇んでつとめたため、それほどかからずに16里の間を掘り通して新河岸川の岸に至ったので、水が来るのをまっていたところ、1年を過ぎても来なかった。信綱がまた質問したところ、安松が答えたのは、「とかく水は入るべきものでありますが、返す返すも申し上げたい。この御城下は武蔵野の内で土性うるおいなく、風あれば塵土を吹き上げるため、家々席上に紙を延べ敷いてこれを防いでいます。しかし、今年はいつの年よりも砂塵が少ない。また、土地の民に尋ねたところ、諸菜のうるわしいことは今年のようなことは今までなかったと答えました。思うに、水上は遠くてすぐには水が来ないけれども、土中には自ら広く潤っていることは、この二つのことからもわかるでしょう」ということなので、信綱が今度は当時の代官・羽生又右衛門という者に問うたが、安松が申すことは虚偽ではなかった。しかし、3年をすぎてもなお徴候がなかったのでまた安松に問われたところ、去年の答えのとおりであったので、そのとき、信綱は「3年の久しい期間を経て水が来ないのであるから、汝の申すことを疑わざるを得ない」とのことであったが、安松は驚く気配もなく、ほどなく水が来るでしょうと言った。その年の秋に至って、大雨のあと、水の音がおびただしく、さながら雷のように響き渡って、16里ほどみなぎり、一時に新河岸川へ流れ入った様子は目を驚かせる許りであったという。それから多磨川水道の水7分は江戸へかけられ、3分は川越領新田の養水に賜り、今に至って当地の水利は乏しくなくなったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==土産==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;大根&lt;br /&gt;
;ゴボウ&lt;br /&gt;
;蕪根&lt;br /&gt;
;芋&lt;br /&gt;
:この四種最も多く、美味である。そのほかの諸菜も耕して江戸へ運んでいる。&lt;br /&gt;
;鯉&lt;br /&gt;
:荒川から出る。味はことにおいしい。土地の人はすべて荒川鯉という。多くは江戸へ運んで士地でもはなはだ少ない。&lt;br /&gt;
{{新編武蔵風土記稿}}&lt;br /&gt;
[[category:新編武蔵風土記稿|129]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=259</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門</title>
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		<updated>2026-03-19T23:47:23Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚著『&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））は、玉川上水・[[野火止用水]]の建設者である[[安松金右衛門]]の本当の業績を現代に伝えようとした書籍である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著者・三田村鳶魚==&lt;br /&gt;
三田村鳶魚（みたむら えんぎょ）（1870年〜1952年）は、「江戸学の祖」や「生きた江戸の百科事典」と称される時代考証家である。&lt;br /&gt;
* 徹底した考証主義：新聞記者を経て研究に専念し、膨大な文献調査とフィールドワークによって「嘘の江戸」を排除しようとした。&lt;br /&gt;
* 時代小説への厳しい批判: 吉川英治などの大衆作家に対し、史実や風俗の誤りを容赦なく指摘したことで、当時の作家たちからは恐れられる存在だった。&lt;br /&gt;
* 在野の精神: 大学などのアカデミズムに属さず、生涯「町学者」として江戸の武家から市井の生活文化まで幅広く研究し続けた。&lt;br /&gt;
* 膨大な著作は『三田村鳶魚全集』（全28巻）にまとめられており、現在も時代考証の基本文献として重宝されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現代語訳==&lt;br /&gt;
ここでは、全文を現代語訳して掲載する。現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三田村鳶魚著&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
電通出版部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===小引===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　徳川一世（家康）が天正十八年（1590年）8月朔日、初めて江戸城に入って以来、承応二年（1653年）まで60余年の間、江戸に住む限り、市民のみならず諸大名もみなことごとく飲料水に困りました。慶長になりまして、江戸城の修築が成り、市街地の町割りもできて、住民がだんだん増えてまいりましても、土地柄として井戸を掘っても、よい水が得られません。徳川一世は早く神田上水をこしらえさせましたけれども、膨脹が急な新都市のにわかに増加する人々の飲料をいかんともし難い。江戸は慶長五年（1600年）から京都、大阪と並んで三大都市と言われておりましたが、飲料水についての悩みは、日ごとに激しくなるばかりでありました。幕府として新都市の他の計画は着々成功して、江戸を装備し、整頓させましたが、市民生活というよりも、むしろ人間生存の大前提である飲料水の供給に欠けていることは、何よりも先に、何よりも急ぐべきことであるのに、これが欠如していました。それは新都市の成立を危うくするものであり、江戸の発達を望めないことにもなりますので、将軍の威勢、幕府の面目にかけても適当な方策を立てなければならないので、老中以下の役人もいたずらに焦慮するだけで、何分対策が得られませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府は四代がかり、家康・秀忠・家光・家綱、家綱将軍の時に、江戸町奉行・神尾備前守の斡旋によって、玉川庄右衛門・清右衛門の申し立てを得ました。玉川両人は玉川が上水に足りることを知り、羽村から四谷大木戸までの上水路を設計して上申したのです。幕府はすぐに採用し、閣老・[[松平伊豆守信綱]]を総奉行とし、伊奈半右衛門を奉行として、早速工事を起こさせました。玉川両人は工事を請けて提案の通りに開削しましたが、設計が不備であったために堀に水が流れません。そこで再び設計して工事を進めましたが、またしても水が通りません。再度の失敗で玉川上水計画は廃案になりそうでした。そのとき、松平信綱はせっかくの計画であるこの玉川上水案を放棄するのを残念に思われ、また江戸には上水で飲料を供給するよりほかに方法がなく、玉川からであれば豊富な分量も得られて、江戸に住む上下の人々も日頃の苦悩を免れることでもあり、ことに四代がかりの幕府の人生であるから、是非とも上水道開通に成功したいと希望されました。自分の家来に安松金右衛門という水利に達した者がいるので、その安松に命じて新たに玉川上水路の設計をさせ、首尾よく全国無二の長距離、大規模な工事を完成させ、信綱の三大まつりごとの一つに数えられる偉業を残しました。信綱は、また宿願であった武蔵野開墾も実現し、多大な新開拓地を得て、自分の領地だけでなく、幕府の直轄領および他領にも多くの農村を創設することができました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　主人信綱に民政上の手柄を立てさせた玉川上水の設計者・安松金右衛門は、旦那に手柄をさせたのは俺だと吹聴するどころか、そんな心持ちさえ持たない人物。忠義をいたしましたと口へ出すようなら決して忠臣ではありません。宣伝ということも自己宣伝になってしまえば醜態を極めます。信綱も自分の功績を知られないようにする心がけがありましたが、安松も同様な心持ちでありまして、実に奥ゆかしい武士なのでした。それゆえに、我々が朝となく夕となく汲んで飲んでいる玉川上水、承応二年から昭和の今日（※昭和十七年＝1942年）までは310年、江戸をまたいで東京、父祖代々受容しており、現に市民677万8804人の命を救っております。将来いかなる水道ができましても、この玉川上水をしのぐほどのものはありますまい。もしできたとしても玉川上水を除くことはない。過去・現在・未来にわたって、玉川上水の恩恵はまことに東京市民に尽きないものと存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この広大長遠な恩恵を東京市民に受けさせた安松金右衛門。安松がいなければ信綱が何と思われたところで、玉川上水は廃案になるよりほかなかったでしょう。その安松金右衛門の事蹟はもちろん、彼の名をすら知っている人が全市に幾人いるでしょうか。東京も七十余年でできたのではない。今日までどれほどの先人の苦労を積んでこしらえ上げたものでしょうか。自分の身体が祖先の先からの恩恵で育成されたように、古人の積んだ苦労がどれほど多いだろうか。我々は今更ながら、感銘を受けたままに報恩謝徳を心がけなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本書は報恩謝徳の心持ちを持って記述いたしました。筆者の思うほどに書けないのは愚文のゆえであります。十年来の心がけでこの記述をいたしましたが、資料の収集の足らぬため、不十分なのであります。私の報恩謝徳の心持ちは今後も決して衰えません。新資料を得て増補の必要を感じたときには、つとめて決行したいと存じます。特に武蔵野開墾は信綱の大仕事でもあり、今日の大東京を成す究極の事柄でもございますから、及ばずながら微力を尽くしたいと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和十七年立冬前二日（※1942年11月5日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳶魚生　しるす&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===目次===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 小引&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その一　紳書の誤謬]]&#039;&#039;&#039;――国定教科書や新井白石の『紳書』に見られる安松金右衛門に関する記述の誤謬を正し、確かな史料が欠落した背景を解明する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/02|その二　野火止用水路]]&#039;&#039;&#039;――通水に三年を要したという野火止用水の伝説を否定し、実際には四十日ほどで工事が完了・通水した歴史的事実を提示する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]&#039;&#039;&#039;――玉川兄弟の事績に偏った『上水記』などの不備を指摘し、上水設計における安松金右衛門の真の貢献を浮き彫りにする。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟の失敗]]&#039;&#039;&#039;――玉川兄弟による二度の設計失敗を、安松金右衛門が独自の測量法を用いた第三の設計案によって成功に導いた過程を詳述する。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/05|その五　畑ばかりの新農村]]&#039;&#039;&#039;――水利に乏しい武蔵野の開墾において、野火止用水が本来は生活に不可欠な「飲料水」として供給された恩恵と役割を明らかにする。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/06|その六　武蔵野開墾の規模]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/07|その七　引又の伊呂波樋]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/08|その八　川越運河]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/09|その九　悲しい水喰土]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/10|その十　金右衛門の経歴]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/11|その十一　宗岡の古図]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/12|その十二　玉川上水の記事]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/13|その十三　江戸っ子の自慢]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者_安松金右衛門/14|その十四　江戸の穿井]]&#039;&#039;&#039;――&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者_安松金右衛門|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/05&amp;diff=258</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/05</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/05&amp;diff=258"/>
		<updated>2026-03-19T15:04:29Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第五章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その五　畑ばかりの新農村==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[大和田]]は[[柳瀬川]]の水で灌漑に足ります。井戸もあって飲料に困りませんが、[[野火止]]は惣反別五百三十一丁七反七畝二十一歩と明細帳にございますけれども、これがみな畑であって、一筆でも田はありません。農村といたしましては、水田のないことは容易ならぬことで、まして新開の場合には成り立ちにくい状況であろうと思います。しかし、[[武蔵野]]開墾を思い立ちましても、十分な水利が望まれません。となれば畑ばかりの農村を成立させるしか仕方がないでしょう。それははなはだしく困難なことであります。この困難に耐えて、野火止村を成立させ、武蔵野開墾の第一着をなし遂げました領主[[松平信綱]]の意図、もし武蔵財野開墾が承応の時代（1652年～1655年）に出来なかったならば、寛文の時代（1661年～1673年）に拡大することもなく、今日見る近郊の状態に至れなかったに違いありません。信綱が困難な武蔵野開墾を決意し、敢行した気持ちは言うまでもないでしょう。安松金右衛門がその計画を立て、畑ばかりの新農村を成立させる方法を考え、その実施に成功した事蹟は大いに称賛すべきものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　灌漑用水がないために畑ばかりの農村をこしらえ、それの立ち行くだけの経済方策を回しても、どうしようもないのは飲料水でございます。これは代案のないものです。もし玉川上水から分水が得られなかったなら、信綱の武蔵野開墾はあやういものになったでしょう。しかし、野火止では村内の[[平林寺]]の井戸が最初に掘った井戸だといっております。『野火止宿開発根本覚書』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:平林寺は寅卯（寛文二壬寅、三癸卯＝1662年・1663年）の両年に御建立された。酉（宝永二乙酉＝1705年）の年まで四十二年になります。和尚様（石院和尚）岩槻（武州足立郡金重村）に従い、お引っ越しされ、御寺がまだできないうちは、名主庄右衛門のところに御座になられ、御普請ができてからは、御移り渡りあそばされました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあります。平林寺が出来たのは、川越城主の二代目、信綱の嫡・輝綱のときであって、これが村内唯一の井戸なのですが、武蔵野所在の井戸のように螺旋型に掘り下げたのでなく、まっすぐに掘ってあります。この井戸がいい水で、たくさん出ます。だいたい、この辺では浅くてはいけませんが、深くさえ掘れば水が得られるというのでもなく、何分にも水が出ない。出ても悪い。飲料水の得がたいところなのです。野火止でも平林寺の井戸の他には、適当な井戸がなかった。新しい住民は十年余も井戸がなくておりました。それでも過ごせたのは、分水があったからであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:およそ東西三～四里の間、昔はみな渺茫とした平原であったが、公の御仁恵深く、この辺へ玉川の水を引きはじめてから、今は皆、居村となった。それぞれ「新田」と号するのはこのためである。&lt;br /&gt;
:小金井と名づけたのは、当所からはるか南の方に入見山というところがある。この山から清潔な水が湧出して、一村の人三十戸戸を養っている。元来、このあたりおよそ三～四里あまりの間、昔はさらに清水がなかった。土中に鉄気や塩気があったり、赤かったり白かったり、さらには渋みがあったりして、濁水で飲みにくく、人の住居になりがたかったが、天の助けによって自然と清水を得たのは、黄金を拾うことができたようにあものだ。ゆえに居村と成ってから小金井と名付けた。（『[[十方庵遊歴雑記]]』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　桜で知られた小金井のことを書いたところにこういう記載がありました。ここで野火止の玉川上水の分水による恩恵がわかります。小金井はそれより前に村落をなしたのも、人見山の傍らに湧泉があったためだとわかります。武蔵野の中では飲料水が特に尊重されます。ところどころにある堀兼井が名所として扱われるのも、古い井戸だからではないので、土地柄として得がたい飲料水が供給されますから、自然と住民が大切にする。それが顕著なものにしたのだと思います。武蔵野がいつまでも荒蕪の（荒れ果てた）ままに置かれたのは、飲料水のないためであったようです。玉川上水鑿通後、級に開発されました。その証拠はみな新田と呼ばれているのでもわかります。その新田には必ず上水の分水口がある。玉川上水の恩恵の大きな事は実に驚嘆すべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水は灌漑のために玉川上水から分かたれたものといわれておりますが、それは寛文の時期（1661年～1673年）に伊呂波樋ができて以後のことで、本来、飲料水として分けられたのでございます。伊呂波樋のことは後で申しましょう。末水が灌漑用水になりましても、本来が飲料水なのですから、後々までも野火止村民としては依然として飲料で、実際に最初の事態から変わっておりません。いろいろ書類もございますが、天明七年（1787年）六月、野火止の名主常右衛門が、その筋へ提出した書付がわかりやすく申し立てております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川御用水、小川村より分水口数十か所のうち、武州[[新座郡|新坐郡]]野火止堀のこと、明暦元年（1655年）松平伊豆守様が同国川越の御領主であったとき、御一領にて、この野火留宿新田を御取立あそばされましたとき、百姓は相続のため、飲み水御拝領遊ばされましたとのことです。先年より申し伝えて先年より申し伝え、これ存じ奉っております。&lt;br /&gt;
:上記につき、小川村分水口、数十か所のうち、野火止掘ばかり、左右切石で幅六尺にお定めがありました。そのほか、分水口残らず箱でございます。用水元まで道のり四～五里ございますが、野火止水下五か村の飲み水に下され置かれました。上記の末水、その節は川越領の当村（[[野火止村]]）、野火止領の[[館村]]、御他領の[[宗岡村]]・[[宮戸村]]、三ヶ村の田方用水に先年から下され置かれましたところ、たとえみな止められるときであっても、野火止堀分水口だけは飲み水程度だけ懸けられております。&lt;br /&gt;
:しかしながら、近年は小川村分水がたびたび皆留めを仰せつけられ、野火止堀も皆留と同様に留切となりました。特に今春三月二十七日より久しく皆留を仰せつけられ、今の時点で洩水等もないよう厳しく定められたため、右の村々は誠に飲み水がなく、一同大いに難儀が極まっております。&lt;br /&gt;
:以上申し上げたことにより、先年より村々で堀井等を所持していた者があれば、大小の百姓共、遠方より朝夕に水を汲み上げて運ぶこととなり、農業に支障を来し、ことごとく困難が極まっております。末水懸りの村々は、今回の節まで用水をながらく相懸ることができず、はなはだしく不作となり、これまた難儀はなはだしいものでございます。&lt;br /&gt;
:さらに野火止堀の懸り分水口の儀は、昨年より野火止名主が世話をして来たので、小川村名主彌次郎方にも、これまで用水の懸りなどのことを相談して参りました。&lt;br /&gt;
:つきましては私こと、はなはだ恐れ入りますが、以上の村々の総代として訴訟を申し上げます。何とぞお慈悲をもって、野火止堀用水懸りのこと、従来同様、分水口の皆留を仰せつけられましたとしても、飲み水程度は下され置かれますならば、村々大小の百姓どもが続けてつかまつり、一同助け合いいたしますので、この上もなくありがたき幸せに存じ奉ります。以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水の水量の増減によって、各分水の量を制限することになっており、三分止め、七分止めなどというのがあり、全く分水しないで溝口をふさいでしまうのを皆留と申しました。天明七年（1787年）の盛夏に水涸れが強かったと見えて、皆留になりました。その時に野火止の名主が各村々の総代になって差出したのが、この書付でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　農村では耕作が第一でありますから、灌漑用水ほど大切なものはございません。しかし、飲料水は、それよりも必要なものです。当所開墾の際に領主・松平信網は、新拓百姓の飲料に玉川分水を頂戴したと言い伝えています。その証拠とも見られるべきことですが、数多い分水路と野火止用水路とは構造も違っている。灌漑用水とは別のものに見えます。末水が灌漑用になっておりましても、本来飲料水なのでございますから、どのような減水にも、五ヶ村の給水だけは与えられて、野火止用水には皆留ということはかつてなかったのでございます。しかし、近年は他の灌漑用水同様の御沙汰で皆留になりますが、野火止には堀井のある農家はございませんので、皆留をされれば百姓どもの呑み水がなくなります。こうした申し立ては度々ありますが、いつも野火止用水は多少とも給水されることになっておりました。何より、村内に平林寺の井戸の他に井戸がないのですから、給水しないわけにはいかなかったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応三年間設以来、御上水三分の一の割をもって六尺口のところ、明治三年四月御改正となり、伏樋立一尺三寸、横一尺五寸四分、寸積二百坪、水賦金永三貫四百四十五文、&lt;br /&gt;
::ただし、水銀高永百文に付、五坪四合八勺六九九、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは[[大和田町]]役場現存の文書です。この六尺口というのは分水口の寸法で、それには沿革もございますが、水賦金は明治になって始めて村掛りになったもので、その前は一文半銭たりとも、用水の負担はなかつたのでございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:明治四年民部省土木司へ請書&lt;br /&gt;
::水積　一寸四方　寸坪二百坪&lt;br /&gt;
:::水積寸坪六十四坪九合二勺、飲用水&amp;lt;br /&amp;gt;人員千百六十四人、但百人につき、寸坪三坪割合&amp;lt;br /&amp;gt;引テ&lt;br /&gt;
::水積寸坪百三十五坪、田用水&lt;br /&gt;
:::田反別百二十一町一反四畝二歩、ただし一町につき一坪一合一勺五○七&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大体の受用について飲用、田用の二種に分け、さらに内訳が書いてございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[野火止村]]百三十戸、人員七百七十五人、寸坪二十二坪七合七勺&lt;br /&gt;
::百二十七人、菅沢堀、三坪八合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;三百十九人、上（うわ）堀、九坪五合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;二百七十人、下（した）堀、八坪一合&amp;lt;br /&amp;gt;四十一人、北野堀、一坪二合二勺&lt;br /&gt;
:[[北野村]]二十戸、人員百五人、寸坪三坪一合五勺&lt;br /&gt;
::人員五十九人、本村分、一坪七合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;同四十六人、野火止村分、一坪三合八勺&lt;br /&gt;
:[[菅沢村]]四十軒、人員二百七十一人、寸坪八坪一合三勺&lt;br /&gt;
:[[西堀村]]五十六軒、人員三百二十九人、寸坪九坪八合七勺&lt;br /&gt;
::百五十四人、本村分、七坪六合二勺&amp;lt;br /&amp;gt;七十五人、下堀分、二坪二合五勺&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[館村]]、[[引又町]]、[[宗岡村]]、[[宮戸村]]は、各田地の面積を挙げ、その使用量を割り出してあります。水路図で見ないとわかりにくいのですが、野火止用水は三条の流れになって、野火止、菅沢、西堀の三部落を通っております。この流れの末が志木に入り、それから田用水になるので、志木より手前では飲用なのです。国定教科書が野火止用水を灌漑用と書いているのは、よろしくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今日においても、野火止には井戸がはなはだ少ない。井戸はあっても飲み水にならないのが多い。天明の時期に井戸のある農家がないといったのは事実であろう。それだけ、この用水の恩恵が大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*05]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/05&amp;diff=257</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/05</title>
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		<updated>2026-03-19T14:53:13Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第五章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その五　畑ばかりの新農村==  　大和田は柳瀬川の水で灌漑に足ります。井戸もあって飲料に困りませんが、野火止は惣反別五百三十一丁七反七畝二十一歩と明細帳にございますけれども、これがみな畑であ…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第五章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その五　畑ばかりの新農村==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[大和田]]は[[柳瀬川]]の水で灌漑に足ります。井戸もあって飲料に困りませんが、[[野火止]]は惣反別五百三十一丁七反七畝二十一歩と明細帳にございますけれども、これがみな畑であって、一筆でも田はありません。農村といたしましては、水田のないことは容易ならぬことで、まして新開の場合には成り立ちにくい状況であろうと思います。しかし、[[武蔵野]]開墾を思い立ちましても、十分な水利が望まれません。となれば畑ばかりの農村を成立させるしか仕方がないでしょう。それははなはだしく困難なことであります。この困難に耐えて、野火止村を成立させ、武蔵野開墾の第一着をなし遂げました領主[[松平信綱]]の意図、もし武蔵財野開墾が承応の時代（1652年～1655年）に出来なかったならば、寛文の時代（1661年～1673年）に拡大することもなく、今日見る近郊の状態に至れなかったに違いありません。信綱が困難な武蔵野開墾を決意し、敢行した気持ちは言うまでもないでしょう。安松金右衛門がその計画を立て、畑ばかりの新農村を成立させる方法を考え、その実施に成功した事蹟は大いに称賛すべきものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　灌漑用水がないために畑ばかりの農村をこしらえ、それの立ち行くだけの経済方策を回しても、どうしようもないのは飲料水でございます。これは代案のないものです。もし玉川上水から分水が得られなかったなら、信綱の武蔵野開墾はあやういものになったでしょう。しかし、野火止では村内の[[平林寺]]の井戸が最初に掘った井戸だといっております。『野火止宿開発根本覚書』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:平林寺は寅卯（寛文二壬寅、三癸卯＝1662年・1663年）の両年に御建立された。酉（宝永二乙酉＝1705年）の年まで四十二年になります。和尚様（石院和尚）岩槻（武州足立郡金重村）に従い、お引っ越しされ、御寺がまだできないうちは、名主庄右衛門のところに御座になられ、御普請ができてからは、御移り渡りあそばされました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあります。平林寺が出来たのは、川越城主の二代目、信綱の嫡・輝綱のときであって、これが村内唯一の井戸なのですが、武蔵野所在の井戸のように螺旋型に掘り下げたのでなく、まっすぐに掘ってあります。この井戸がいい水で、たくさん出ます。だいたい、この辺では浅くてはいけませんが、深くさえ掘れば水が得られるというのでもなく、何分にも水が出ない。出ても悪い。飲料水の得がたいところなのです。野火止でも平林寺の井戸の他には、適当な井戸がなかった。新しい住民は十年余も井戸がなくておりました。それでも過ごせたのは、分水があったからであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:およそ東西三～四里の間、昔はみな渺茫とした平原であったが、公の御仁恵深く、この辺へ玉川の水を引きはじめてから、今は皆、居村となった。それぞれ「新田」と号するのはこのためである。&lt;br /&gt;
:小金井と名づけたのは、当所からはるか南の方に入見山というところがある。この山から清潔な水が湧出して、一村の人三十戸戸を養っている。元来、このあたりおよそ三～四里あまりの間、昔はさらに清水がなかった。土中に鉄気や塩気があったり、赤かったり白かったり、さらには渋みがあったりして、濁水で飲みにくく、人の住居になりがたかったが、天の助けによって自然と清水を得たのは、黄金を拾うことができたようにあものだ。ゆえに居村と成ってから小金井と名付けた。（『[[十方庵遊歴雑記]]』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　桜で知られた小金井のことを書いたところにこういう記載がありました。ここで野火止の玉川上水の分水による恩恵がわかります。小金井はそれより前に村落をなしたのも、人見山の傍らに湧泉があったためだとわかります。武蔵野の中では飲料水が特に尊重されます。ところどころにある堀兼井が名所として扱われるのも、古い井戸だからではないので、土地柄として得がたい飲料水が供給されますから、自然と住民が大切にする。それが顕著なものにしたのだと思います。武蔵野がいつまでも荒蕪の（荒れ果てた）ままに置かれたのは、飲料水のないためであったようです。玉川上水鑿通後、級に開発されました。その証拠はみな新田と呼ばれているのでもわかります。その新田には必ず上水の分水口がある。玉川上水の恩恵の大きな事は実に驚嘆すべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水は灌漑のために玉川上水から分かたれたものといわれておりますが、それは寛文の時期（1661年～1673年）に伊呂波樋ができて以後のことで、本来、飲料水として分けられたのでございます。伊呂波樋のことは後で申しましょう。末水が灌漑用水になりましても、本来が飲料水なのですから、後々までも野火止村民としては依然として飲料で、実際に最初の事態から変わっておりません。いろいろ書類もございますが、天明七年（1787年）六月、野火止の名主常右衛門が、その筋へ提出した書付がわかりやすく申し立てております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川御用水、小川村より分水口数十か所のうち、武州[[新座郡|新坐郡]]野火止堀のこと、明暦元年（1655年）松平伊豆守様が同国川越の御領主であったとき、御一領にて、この野火留宿新田を御取立あそばされましたとき、百姓は相続のため、飲み水御拝領遊ばされましたとのことです。先年より申し伝えて先年より申し伝え、これ存じ奉っております。&lt;br /&gt;
:上記につき、小川村分水口、数十か所のうち、野火止掘ばかり、左右切石で幅六尺にお定めがありました。そのほか、分水口残らず箱でございます。用水元まで道のり四～五里ございますが、野火止水下五か村の飲み水に下され置かれました。上記の末水、その節は川越領の当村（[[野火止村]]）、野火止領の[[館村]]、御他領の[[宗岡村]]・[[宮戸村]]、三ヶ村の田方用水に先年から下され置かれましたところ、たとえみな止められるときであっても、野火止堀分水口だけは飲み水程度だけ懸けられております。&lt;br /&gt;
:しかしながら、近年は小川村分水がたびたび皆留めを仰せつけられ、野火止堀も皆留と同様に留切となりました。特に今春三月二十七日より久しく皆留を仰せつけられ、今の時点で洩水等もないよう厳しく定められたため、右の村々は誠に飲み水がなく、一同大いに難儀が極まっております。&lt;br /&gt;
:以上申し上げたことにより、先年より村々で堀井等を所持していた者があれば、大小の百姓共、遠方より朝夕に水を汲み上げて運ぶこととなり、農業に支障を来し、ことごとく困難が極まっております。末水懸りの村々は、今回の節まで用水をながらく相懸ることができず、はなはだしく不作となり、これまた難儀はなはだしいものでございます。&lt;br /&gt;
:さらに野火止堀の懸り分水口の儀は、昨年より野火止名主が世話をして来たので、小川村名主彌次郎方にも、これまで用水の懸りなどのことを相談して参りました。&lt;br /&gt;
:つきましては私こと、はなはだ恐れ入りますが、以上の村々の総代として訴訟を申し上げます。何とぞお慈悲をもって、野火止堀用水懸りのこと、従来同様、分水口の皆留を仰せつけられましたとしても、飲み水程度は下され置かれますならば、村々大小の百姓どもが続けてつかまつり、一同助け合いいたしますので、この上もなくありがたき幸せに存じ奉ります。以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水の水量の増減によって、各分水の量を制限することになっており、三分止め、七分止めなどというのがあり、全く分水しないで溝口をふさいでしまうのを皆留と申しました。天明七年（1787年）の盛夏に水涸れが強かったと見えて、皆留になりました。その時に野火止の名主が各村々の総代になって差出したのが、この書付でございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　農村では耕作が第一でありますから、灌漑用水ほど大切なものはございません。しかし、飲料水は、それよりも必要なものです。当所開墾の際に領主・松平信網は、新拓百姓の飲料に玉川分水を頂戴したと言い伝えています。その証拠とも見られるべきことですが、数多い分水路と野火止用水路とは構造も違っている。灌漑用水とは別のものに見えます。末水が灌漑用になっておりましても、本来飲料水なのでございますから、どのような減水にも、五ヶ村の給水だけは与えられて、野火止用水には皆留ということはかつてなかったのでございます。しかし、近年は他の灌漑用水同様の御沙汰で皆留になりますが、野火止には堀井のある農家はございませんので、皆留をされれば百姓どもの呑み水がなくなります。こうした申し立ては度々ありますが、いつも野火止用水は多少とも給水されることになっておりました。何より、村内に平林寺の井戸の他に井戸がないのですから、給水しないわけにはいかなかったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応三年間設以来、御上水三分の一の割をもって六尺口のところ、明治三年四月御改正となり、伏樋立一尺三寸、横一尺五寸四分、寸積二百坪、水賦金永三貫四百四十五文、&lt;br /&gt;
::ただし、水銀高永百文に付、五坪四合八勺六九九、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは[[大和田町]]役場現存の文書です。この六尺口というのは分水口の寸法で、それには沿革もございますが、水賦金は明治になって始めて村掛りになったもので、その前は一文半銭たりとも、用水の負担はなかつたのでございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:明治四年民部省土木司へ請書&lt;br /&gt;
::水積　一寸四方　寸坪二百坪&lt;br /&gt;
:::水積寸坪六十四坪九合二勺、飲用水&lt;br /&gt;
:::人員千百六十四人、但百人につき、寸坪三坪割合&lt;br /&gt;
:::引テ&lt;br /&gt;
::水積寸坪百三十五坪、田用水&lt;br /&gt;
:::田反別百二十一町一反四畝二歩、ただし一町につき一坪一合一勺五○七&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大体の受用について飲用、田用の二種に分け、さらに内訳が書いてございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[野火止村]]百三十戸、人員七百七十五人、寸坪二十二坪七合七勺&lt;br /&gt;
::百二十七人、菅沢堀、三坪八合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;三百十九人、上（うわ）堀、九坪五合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;二百七十人、下（した）堀、八坪一合&amp;lt;br /&amp;gt;四十一人、北野堀、一坪二合二勺&lt;br /&gt;
:[[北野村]]二十戸、人員百五人、寸坪三坪一合五勺&lt;br /&gt;
::人員五十九人、本村分、一坪七合七勺&amp;lt;br /&amp;gt;同四十六人、野火止村分、一坪三合八勺&lt;br /&gt;
:[[菅沢村]]四十軒、人員二百七十一人、寸坪八坪一合三勺&lt;br /&gt;
:[[西堀村]]五十六軒、人員三百二十九人、寸坪九坪八合七勺&lt;br /&gt;
::百五十四人、本村分、七坪六合二勺&amp;lt;br /&amp;gt;七十五人、下堀分、二坪二合五勺&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[館村]]、[[引又町]]、[[宗岡村]]、[[宮戸村]]は、各田地の面積を挙げ、その使用量を割り出してあります。水路図で見ないとわかりにくいのですが、野火止用水は三条の流れになって、野火止、菅沢、西堀の三部落を通っております。この流れの末が志木に入り、それから田用水になるので、志木より手前では飲用なのです。国定教科書が野火止用水を灌漑用と書いているのは、よろしくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今日においても、野火止には井戸がはなはだ少ない。井戸はあっても飲み水にならないのが多い。天明の時期に井戸のある農家がないといったのは事実であろう。それだけ、この用水の恩恵が大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*05]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/04</title>
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		<updated>2026-03-18T13:15:40Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第四章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その四　玉川兄弟の失敗==  　玉川上水は今日でも分水口が十六箇所ございますが、享和の頃は三十三箇所ございました&amp;lt;ref&amp;gt;『上水記』三には、分水口として以下の33か所が記されている。拝島村、殿ヶ谷新田、柴崎村…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第四章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その四　玉川兄弟の失敗==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川上水は今日でも分水口が十六箇所ございますが、享和の頃は三十三箇所ございました&amp;lt;ref&amp;gt;『上水記』三には、分水口として以下の33か所が記されている。拝島村、殿ヶ谷新田、柴崎村、砂川村、中藤新田、&#039;&#039;&#039;野火留村&#039;&#039;&#039;、平兵衛新田、小川村、榎戸新田、鈴木新田、国分寺村、大沼田新田、野中新田、田無村、鈴木村、関野新田、下小金井新田、下小金井村、梶野新田、千川口、境村、品川用水、無礼村、烏山村、上北沢村、下高井戸村、幡ヶ谷村、三田用水、淀橋の水車、原宿村、千駄ヶ谷：戸田因幡守抱屋敷へ引取候上分水口、四谷内藤宿：内藤大和守下屋敷へ引取候上分水口、四谷内藤宿　田安御下屋敷水口。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この分水口について、いつも色々と問題が起こりますので、郡代からも御普請奉行からも、常に吏員を出して実地を踏査させております。誰もが知っている大田南畝の『調布日記』&amp;lt;ref&amp;gt;大田南畝『調布日記』は全三巻。&amp;lt;/ref&amp;gt;は、文化五年の十二月から翌六年の四月まで、当該地方を巡回した記録であります。南畝はそのほかに『向岡閑語』と『玉川砂利』&amp;lt;ref&amp;gt;『玉川披砂』二巻は社寺などの記録。『玉川砂利』一巻および『向丘閑話』二巻は随筆である。&amp;lt;/ref&amp;gt;を書きました。ああいうものは南畝以外にもいくつかあってもおかしくないのに、一向に伝わっておりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　佐橋長門守は職掌の上からも、知っていないはずはありません。また、幕閣としても、どんな地方問題が起ってくるかもしれないため、『玉川上水堀之起発並野火留村引取分水口訳書』のような調査が必要なので、老中松平伊豆守が調査を命令いたしましたのも、自分の領地に関するだけの意味ではありますまい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　命を受けた佐橋長門守は附紙をして「玉川上水堀割之規発並野火留村引取分水口訳書帳面、ご覧に入れますことにつき、申し上げました書き付け」と書いて、本書の来由と信頼できる理由を述べています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:千人頭・原半左衛門の組で与頭（くみがしら）を務める小島文平は、その土地の生まれ育ちでございますので、玉川上水の掘り割りの始まりや、野火止村への分水口が作られた訳について、先祖より申し伝えたこと、地元の伝承をよく心得ているとのことでした。そこで、文平が江戸へ出て参りました折に呼び寄せて詳しく尋ねてみたところ、玉川上水の掘り割りの成り立ちについては、役所の書留（公式記録）とも一致する点が多くございました。その上、野火止村への分水の訳についても、以前お下げ渡しいただいた御留書（控えの文書）の内容を念頭に置いて聞き取りましたところ、事実として合致する点が多々見受けられました。これは有力な参考資料になるのではないかと考え、彼が話した内容を書面にして提出するよう命じましたところ、このたび別帳（報告書）を差し出して参りました。つきましては、内容をご高覧いただきたく、ここに差し出します。以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:亥の年九月&lt;br /&gt;
::佐橋長門守&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この亥年というのは享和三年（1803年）であります。それは大河内家文書の中に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:享和元酉年&lt;br /&gt;
:一　当時水道御奉行佐橋長門守様の由、野火止名主申聞之&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるだけでなく、累代武鑑御普請奉行のところに、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:享和元酉十一月十二日　御目付より&lt;br /&gt;
:文化五辰十一月廿六日　京都町奉行&lt;br /&gt;
::佐橋長門守佳如（ヨシユキ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と見えますのでわかります。ただ残念なことには、松平伊豆守信明から佐橋長門守へ交附した留書というのが、大河内家にその控えがあるはずなのに残っておりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小島文平は当時千人同心で、八王子千人町におりましたが、その先代・善兵衛は小川村に住み、大庄屋を勤め、村内の人足を引き連れて玉川上水工事に参加した。それゆえ野火止分水堀割にも立合ったので、詳しい申し伝えもある。佐橋は文平の申立を聞取り、勉めて証拠を求め、是認すべきことを知り、さらに書面にさせて、分水口の現状記録とともに幕閣へ答申したのでございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小島文平の書面に従えば、庄右衛門・清右衛門の設計は二度も失敗している。その失敗の証拠は古堀敷を残しておりますから、動かせない事実と思います。古堀敷の踏査は別に書きますが、まず第一の失敗は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川は水元が甲州都留郡　小菅山・多波山、武州多摩郡　日原山の渓間から流れ出、三流合同し、厳に争い流れ下るため、水は非常に軽い。長流水なので仙薬に等しいため、御本丸かかりになり、その残水を御城下へ下されたので、これに勝る御救があるだろうかちうことで、武州多摩郡国分寺村の真姿の流れを、合水に引入れるのがよい、と目論んだ。多摩郡日野の渡の側にある青柳村の下、今の府中領田用水口から引き入れ、府中八幡下から往還の方へ堀曲げ、梁谷村の裏通を掘り、合水としたならば、出水のとき、堰を押し流しても、狭山にある筥が池も、武蔵野を流れ流れて谷保村にて合水になり、南池とも水流れ流れるだろう。三筋合同すればひでり水の災いはない。そこで四ツ谷大木戸へむけて盛り渡した。すると、八幡下は井筋が低く、水入かねた古堀敷が甲州海道堰屋塚前にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ということで、失敗の証拠は府中八幡下にある。享和三年に小島文平の書いたものは、玉川上水工事のあと百五十年過ぎた後年の記録ではあるが、ただ後年のものだというだけで放棄していいというわけではない。当時のものだからといっても吟味せずに鵜呑みにする訳には行かないのと同様でこざいます。文平の書き上げにしても相当な取捨選択が必要でありますが、玉川兄弟の設計の第一の失敗は、八幡下の古堀敷を証拠として、前掲の記載を採用いたしたい。それから設計を新たにして、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:それから六、七里、川上へ登り、福生村地口から引き入れ、四ツ谷までの水盛も済み、関東御代官・伊奈半十郎殿、承応二年よりなお伊奈半左衛門殿かかりで、家来差出、御扶持方を給わり、人足は村々より差出し賃銀をくだされて、堀渡しを行った。大猷院様（家光の諡号）の思し召しを継がせられ、厳有院様（家綱の諡号）にもご賢慮を御いたわしあそばされ、どれほど堀割ができたか見分してきなさい、と惣奉行・松平伊豆守（信綱）殿へ上意があった。その日帰りで時々ご見分したところ、御城より直に御一人乗切で、御越しなさって、堀割の始末について言上があったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　伊奈半十郎（忠治）は承暦二月十一日、玉川水道奉行になったのであります。この人は庄右衛門・清右衛門の案内で、第一設計の踏査をしております。伊奈半右衛門（忠克）&amp;lt;ref&amp;gt;「伊奈半&#039;&#039;&#039;左&#039;&#039;&#039;衛門」が正しい&amp;lt;/ref&amp;gt;は半十郎の嫡男で、父が承応二年六月二十七日逝去いたしましたから、代わって水道工事の係になったと見えます。ここは文平の書き上げの書き方がよろしくないので、わかりにくい。伊奈の系図で見ますと明白です。家綱将軍が二度日の設計によって始めた工事を心配されたというのは、いかにもありえることと思われます。しかし、松平信綱は、庄右・清右が上水の設計を申し立てたときから阿部豊後守とともに関係しておりますが、この工事の惣奉行になったというのははっきりとしません。いろいろ探して見ますと、宮崎成身の『国字分類雑記』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;国字分類雑記&#039;&#039;&#039;』：宮崎成身撰、全39巻（本編35巻、付録4巻）の随筆・考証資料集。&amp;lt;/ref&amp;gt;玉川上水の項に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応二癸巳年正月十六日、松平伊豆守を奉行として、玉川上水を江戸へ引くための水道を穿たせた(山本筆記)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのを見つけました。だが、『山本筆記』は見ておりません。植田孟縉の『武蔵名勝図会』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;武蔵名勝図会&#039;&#039;&#039;（むさしめいしようずえ）』：12巻12冊。別名『武蔵国名勝図会』。多摩郡の地誌である。著者、植田孟縉は、八王子市千人同心組頭の植田家の養子で、『新編武蔵風土記稿』の編纂にも携わり、多摩・高麗・秩父三郡の廻村調査を行った。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも、信綱が総奉行であったと書いております。前にも述べましたとおり、松平信綱に関する資料は稀少なのでありますから、宮崎氏に感謝しなければなりません。こうして、小島文平の臆測の説ではないことがわかりました。もちろん、他に傍証もございます。さて二度目の設計で工事を進めていきますと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:さて、堀渡も済み、江戸表へ水懸りは間違いないということを申し立て、水を仕懸けたところ、今、字に水喰土と唱えるところ、熊川村地内で水は残らず地中に引きしみてしまい、流れなかったので、詮方（せんかた）も尽きた。伊豆守殿の家来・安松金右衛門に再び水盛するように伺いがあり、仰せつけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今度は熊川村で水が止まってしまいました。これも古堀敷が残っており、今日も水喰土と書いてミヅクラヒド（みずくらいど）と字（あざ）の名を呼んでおります&amp;lt;ref&amp;gt;水喰土:&lt;br /&gt;
福生市大字熊川1359-1「みずくらいど公園」として玉川上水開削工事跡が保存されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。『武蔵名勝図絵』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;上水口跡&#039;&#039;&#039;　福生村の西寄り。ここに玉川上水口の堰所がある。そのいわれを知る者はいないが、堰の跡があって、今は水も入らない。伝へに言うには、玉川の最初の引入口に堀ったが、水道が便利ではないために工事がとまり、今の羽村の地へ掘り替えた古堰であるという。傍に関上明神の小社がある。これは初めに堰口に水神を祀った小祠である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのが、それだと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第一の青柳村線、第二の福生村線、どちらも失敗に帰しましたから、松平信綱は自分の家来の安松金右衛門に設計させた別の案で幕閣の指揮を求めたというのであります。そこで別案によって工事を進捗させることになり、安松は全部で三種の設計をいたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽村地内尾作から五ノ神村に懸り、川崎村へ堀込み、福生村にて出合う積りで水盛りを渡し、堤なく、堰も洗堰で、万代不朽の御場所であることを申し上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが第一案で、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽村地内阿蘇宮から堀り込み、川崎村へ懸り、福生村へ落ち合うべき積りで水盛をし、尾作同様の御場所、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが第二案で、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:とりわけ阿蘇宮の方が勝っている訳は、尾作は水突き当っているため、水門の保ちがどうであろうか。その上、御田地が多くつぶれ、阿蘇宮も少しは御田地が潰れるので、なお場所を見立てるべきであるという御評議があり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安松はさらに第三案を提起いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:羽村前、丸山裾から水を反させ、今、水神の社を祀っているところに堰入、川縁通り堤を築き立て、井筋とし、福生村より堀入、熊川村地内から拝島村裏まで、水喰土の前後は捨塀にし、堀筋を替え、水仕替け、狭山にある筥が池の流れも、今の砂川村裏で御上水に跨るので助水合同し、江戸へ十分に水懸り、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この第三案が採用されて、玉川上水工事は成功いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:御上水堀渡のことは、信綱朝臣の善政が多い中、三大政のひとつである。これにより御上水懸り高三歩倒褒美として下されたということで、（伊奈）半右衛門殿家来、堀割を取扱われた出役の者も、それぞれに御褒美も下されたという。また、庄右衛門・清右衛門は玉川と名乗るべき旨、苗字御免があった。明暦三年、銀九貫七百五十匁下され、羽村水元の御普請、江戸内の樋耕伏替え、水銀を取集めることを仰せつけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といい、なお、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:安松金右衛門の水盛、堀割は御郡代の懸りであって、最寄の村々から人足を出し、願人は庄右衛門・清右衛門、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といってあります。安松の設計によつて伊奈の手で工事をなし、玉川両人は発見者として記録されたというのです。玉川両人の書き上げにも賞与を受けた日時が見えません。したがって、『上水記』を初めとして、玉川両人の書き上げによって書いたものには、いずれも受賞の時日がないのでございますが、『徳川実紀』には「承応三年六月廿日、この日、去年命ぜられた玉川上水が成功したため、そのことを奉った町人へ報金三百両を下された。」と書いてあります。褒美の金だけ頂戴しているのですから、苗字帯刀を許されたことが疑わしくなり、『府内備考』などは、武蔵野開墾人の中に玉川次左衛門という者があるのを挙げて、「書上にいうように、玉川姓を賜わったというのもいかがであろうか。」と言っているのが目につくようにもなります。もちろん、庄右・清右が玉川を上水によろしいと見立てた。その発見は確かに彼らの功績に相違ありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　玉川両人は再度失敗しておりますが、その設計には実測しないはずがない。どのような方法を執ったか、それについて阿部弘蔵氏の発表されました『玉川上水ノ工事』&amp;lt;ref&amp;gt;阿部弘蔵「玉川上水ノ工事」『文』第2巻4号（金港堂）&amp;lt;/ref&amp;gt;がございます。これがすこぶる面白く思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この頃は測量の術もいまだ開けておらず、量地の品などもなかったため、清右衛門兄弟がこの水路の高低を量るには、ひたすら夜に業をなした。役夫らに、程近い所には線香の火を持たせ、程遠い所には提灯を持たせて、かなたへと行かせ、その火の光りが見えないのを度とし、前に量った場所を準として尺をあて、ここはあそこから何尺何寸何分高く、この場所はあそこから何尺何寸何分低く、この地はあの地から何十尺、左の方に寄り、あの場所は何百尺、右の方に傾いている、ということを明らかにし、再三測り、試みて、始めて水路となすべき一つの線を見出し、これを上水の渠と定めたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　阿部氏は何によって書いたのか、出所を述べていない。しかし、こういう測量の方法は、以前から行われていたので、『常山紀談』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;常山紀談&#039;&#039;&#039;（じょうざんきだん）』：江戸中期の随筆、歴史書。正編25巻、拾遺4巻、付録『雨夜灯』1巻の全30冊。湯浅常山著。自序は元文四年（1739年）。戦国時代から江戸時代初頭の武士の逸話や言行を集大成したもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:朝鮮の平安川は深さ八～九尋、四～五百石積の船の往来があって、日本では見ない大川なので、川の広さを諸家の士が、七～八町、十町、あるいは十二～三町あるだろうなどと言うが、明らかではなかった。恩田長政の士、吉田六郎太夫・又助の父子に見積りをせよと下知された。そのようなことに慣れていないため、覚束ないと辞退したが、父子の組に功みな者も有あるだろうと言われた。翌朝、又助は組の士を引きつれ、川岸に出、川の向こうに朝鮮人が三人見えた。又助、「小柳権七は身長が高い。あの向いの人が退かないうちに、急いで堤の上を行け。指物を振った時、踏み留まれ」と言い含めた。権七は走って行き、その身長が向いの人と同じに見えるとき、指物を振ると立ち止まった。そこでその間を打ってみると、八町五段である。長政はこれを聞いて「又助二十一歳、老功の者にも劣らない」と称美された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあって同じ方法なのです。この方法によって玉川両人が測量したというのだが、小島文平は野火止分水の話にして、こういっております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:野火留用水口のこと、堀割の始末に種々の雑説があるが、伊豆守殿が拝領したという話が里語（地元の伝承）と符合している訳は以下のとおり。堀筋は上口が一間半、敷（底）が一間、左右の土手が一間、分水口から四里の間は除地（年貢免除の地）とされた。これは、御褒美としてくだされたものではなく、私領の免直り（めんなおり＝年貢率の調整）ぐらいであったが、御料所の地所を潰し、特に堀筋を往来自由にさせるためであった。そのため、道敷まで領地として下されるというはずもなく、この点をもって推測しても明らかである。拝領があってからは、昼夜を問わず、水盛・掘割をおこない、灯燈の腰に黒く筋を書いて目印・目当にした。後に金右衛門はこれを平林寺へ納め、その功績を永く伝えようということで、今もこの寺では、その合印（マーク）の灯燈を用いているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　信綱が玉川上水の三歩を拝領して、野火止用水を疎開したことは、全く伝説だけであって、文献の証拠となるものはありません。また、野火止用水のように、大名が自分の領地のために、幕府の施設物を頒与され、土地をも使用させた例もないのです。それはまず差し置きまして、安松金右衛門が野火止用水設計の際、測量に使用した提灯を、信綱の菩提所である野火止平林寺へ納めたということですが、現在平林寺では山道のついた提灯を使用しております。吉田藩士・長坂氏の『自他隨筆』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:平林寺の燈灯の印は山道形である。御屋敷下目付の燈灯印も同じことである。竹の尺を定め、燈灯をともし、高下を見たのである。&lt;br /&gt;
:所は堀わりはしない。二つ三つ探っておけば、水勢が強いため、三～四日に自然と水道がつくという。&lt;br /&gt;
:山道形&lt;br /&gt;
:――高いところは掘けずれ、と。&lt;br /&gt;
:――低いところは土手をきずけ、と。&lt;br /&gt;
:水利のときの燈灯の印である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　山道の提燈は安松が水利工作の時に便用したものであることがわかる。また、長坂氏によって、小島文平が平林寺へ納めたというのも確かだとわかります。阿部氏が出所をいわずに、玉川上水の測量に便用した提灯の話の根拠も分かってきました。山道の提灯を玉川両人が測量に使用したことは旁証がなく、安松が使用したことは後々のものにもせよ書体があり、平林寺では現在も便用しております。阿部氏のは伝説の聞き書きと思われますが、それさえ安松が例の提灯を使用して、玉川上水工事の測量をいたしましたから、当該地方にも伝説が伝わっているのではないかとさえ思はれます。もちろん、玉川両人が使用したものならば、松平家（今日の大河内子爵家)で襲用されるはずのないものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『高士略伝』に、安松が野火止用水について、二様の設計を立てたことが見えます。これも、玉川上水について最初に二つの案を提出したことの誤伝らしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「ここに水道を作ることができる道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千年も不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　いずれも伝説であつて、考証が困難なのは誠に残念に思います。しかし、玉川両人の設計が二度も失敗していることは、実在する古堀敷によって明確であり、野火止用水が三年がかりで疏通したのでないことは、玉川上水の話と聞違ったということはわかります。また阿部氏の記述をひもといてみると、山道の提灯は安松の使用したものとわかり、そうすると彼が玉川上水工事の実測を行ったと考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水が出来上がりましたのは、明暦元年（承応四年改元）三月でありまして、玉川上水の成功（承応三年六月）した翌年翌年なのでございます。これは川越城主松平伊豆守信綱の家来・小畑助右衛門、安松金右衛門の両人が、一万石開墾の計画を立てまして、まさに玉川上水起工の際から着手いたしました。それは榎本『万之覚』に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武蔵野火留新田、同巳（承応二癸巳）の春中から、同八月中まで、五十四～五間（間の字は軒の仮用）家出来ました。家一軒に金二両、米一俵ずつ御貸しをなさったと承っております。但、伊豆守様より。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてございます。大和田町沿革に従えば、信綱はこの新墾に当って、一夫に一町の地を授け、七間半に四百八十間の地形と定め、その半を林とし、他を宅地と畑とし、全体の八分の一を年貢地と定めましたから、住民は地が肥えているか痩せているか、年の豊作・凶作に拘らず、税金に苦しむ者がなかったといいますが、この計算は不安なもので、吟味の限りではない。ただ伝説として大概をいうのに止めたい。正確な領地高は当村の文書が出て来ないので、残急ながらわからないのであります。新農村には御年貢の心配は無かったとしても、『高士略伝』にございますとおり、「その頃、野火留は武蔵野で、井戸もなく、泉水が湧出する所もない」ので、井戸を掘っても三十尺以上の深さになって、ようやく水が得られるほどであったといいます。それは当所のみのことでなく、武蔵野一帯の有様で、元禄の頃までも柴行水（しばぎょうずい）が行われていたところがございます。茅を刈りまして、日陰で乾燥させて、それで身体も手足も拭つて、入浴に代えるのが柴行水であります。入浴はそれでも済むでしょうが、飲料水は猶予のならないものでございますから、飲用水のないところには住居は出来ません。つまり、野火止用水は灌漑のために出来たのでなく、飲料のために作られたのであります。&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*04]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/03&amp;diff=255</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/03</title>
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		<updated>2026-03-15T11:22:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第三章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その三　玉川上水の水盛==  　寛政三年に御普請奉行 上水方 石野遠江守広通の書いた『上水記』、それは玉川清左衛門の書上を主としている。それで、当該官庁にも古記録のなかったことわわかるが、石野広通は玉川…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第三章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その三　玉川上水の水盛==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　寛政三年に御普請奉行 上水方 石野遠江守広通の書いた『上水記』、それは玉川清左衛門の書上を主としている。それで、当該官庁にも古記録のなかったことわわかるが、石野広通は玉川の書上を本筋としたので、書上にないことで捨てがたく思ったことを、すべて一説として傍記しております。なぜ上水記を書くときに、一概に玉川の書上にのみ依拠したのであろうか。玉川上水について他にまとまった書き物がなかったこともありましょうが、玉川の書上を鵜呑みにしたのはよろしくありません。是非穿鑿して、庄右衛門・清右衛門の書上がどの程度信頼できるものであるかどうかを吟味しなければならなかったのです。これは上水記の過怠だったと思います。それ以来、玉川上水の話をするには、この『上水記』が玉川の書上と並んで無二の典拠になっているのは残念でなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:玉川上水の事。&lt;br /&gt;
:明和五子年（1768年）以前、町奉行持で、町年寄かかりであった。明和五子年、御普請方に町奉行より請取時の古い書き留めにいう。承応元壬辰年（原註：寛政三年まで、およそ140年）までは、御城内ならびに御城下、上水道はなく、下々にては所々の水溜り、溜池などの水を汲み、樋にて仕懸、取り用いて不自由だったので、上水道になるべき水筋を、町奉行 神尾備前守の尋ねにより、玉川庄右衛門・清右衛門という者の父、所々相求める所に、武州羽村という所から、玉川の水を江戸まで、道のり十三里のところ、水盛を相考え、御用水になるべき旨、絵図・書き付けをもって評定所に申し出た。これにより、、御老中 阿部豊後守・松平伊豆守、寺社奉行 安藤右京亮・松平出雲守・神尾備前守、町奉行石谷将監・牧野織部・八木勘十郎、御勘定奉行 曽根源左衛門・伊丹蔵人・伊奈半左衛門（原註：玉川庄右衛門が書付の趣にて記している。御役名等はあえて正していない）等、絵図書き付けを一覧した。そこで見分として牧野織部・八木勘十郎・伊奈半左衛門、上水通り庄右衛門・清右衛門が案内として、道筋六日の逗留にて見分を済ませて江戸に帰参した。同年十一月二十五日、評定所にて、上水道堀普請に取り掛かるよう、両人に申し渡した。翌巳年四月四日より掘り始め、同年十一月十五日まで、四谷大木戸まで掘りわたす。玉川より水を仕掛けるべしとの由にて、羽村大川にて壊を仕立て、水のかかるところ滞りなく、四谷大吐（おおはき）まで水がかかってきた。そこから虎御門まで残らず掘り立てて十分に滞りなく水が来て、その後、追々分水が作られて諸方で上水を取り用いるということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上は上水記の記載ですが、承応元年（1652年）十一月に上水道開鑿が決定し、二年四&lt;br /&gt;
月に起工して、十一月に四谷大木戸までの工事が済みました。玉川上水は江戸城および城下の町々へ給水するのが目的でございますから、四谷大木戸まででは、城下の町々へは及びません。『御府内備考』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;御府内備考&#039;&#039;&#039;（ごふないびこう）：三島政行編、145巻。文政十二年成立。江戸幕府官撰の江戸の地誌。巻之六＝御曲輪内之四に「上水」の章がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;が「『承応記』に三年玉川の流水、日本橋より南へ水道を用いるべきであるとおっしゃったという。……同じ十一月十五日に、四谷大木戸まで、行程十三里あまり掘割、また二千両を下され、翌四月に至って、虎御門外まで掘り割り、水引きが成功した」といい、『東京通志』が「大木戸から虎門外に至るまで陰溝を掘らせて、三年甲午四月に完成した。」というのも、城下の町々へ給水ができて、始めて竣功といえるわけなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　江戸の水道は乃祖家康が、天正年中（1573年～1592年）に大久保主水に命じて、神田上水をはじめてから、三世家光の晩年に多く企画され、家綱の時に至って、ようやく玉川上水が成功しました。実に徳川氏は四代がかりで、この事業を仕上げたのでございます。玉川上水は承応三年四月に成功いたしましたのですから、三年がかりでした。二年目にはやっと四谷大木戸までしか来ておりません。玉川上水の工事に三年かかりましたのが、[[野火止用水|野火止用水路]]の話に混入して、ああいう伝説を生じたのであろうと思います。と申すのも、玉川上水と野火止用水との工事が、時間的に密接しているだけでなく、玉川上水の工事がなければ、野火止用水の工事が起こらない理由があります。そのわけを述べるには、玉川清右衛門・庄右衛門の書上を吟味しなければなりません。それも長い文段でございますから、前に掲げました上水記が依拠したところだけ、すなわち全文の半分を出しておきましょう。さしあたっての入用は、それだけで十分でございますから、残りはここでは省略いたしましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::恐れながら書き付けをもって申し上げます。&lt;br /&gt;
:玉川上水道のこと。六十三年以前、承応元壬辰年（1652年）まで、御城内ならびに御城下、御武家様方とも、上本道がございませんでしたので、下々にては御堀または溜池などの水を樋で仕掛けて取ることになっており、不自由でございました。&lt;br /&gt;
:そこで上水道になりうる水筋がございましたので、見立てを願い上げましたところ、町御奉行 神尾備前守様が以前から私たちの親ども二人に仰せつけられておりました。そして所々吟味いたしましたところ、武州羽村というところから玉川の水を引き入れ、御当地まで道のり十三里程（50kmあまり）のところ、野山ともに日数をかけて水盛（測量）・吟味し、御用水になると申し上げました。委細は絵図・書付で、御評定所まで申し上げました。&lt;br /&gt;
:そのときの御老中様方の御列座、阿部豊後守様・松平伊豆守様、寺社奉行 安藤右京亮様・松平出雲守様・神尾備前守様、町奉行 石谷将監様・牧野織部様・八木勘十郎様、御勘定奉行 曽根源左衛門様・伊丹蔵人様・伊奈半左衛門様がその絵図を御覧あそばされ、御吟味の上、「重宝であり、忠義な進言である」と評価をいただきました。現地の御見分として牧野織部様・八本勘十郎様・伊奈半十郎様、以上三人様にお越しいただきましたので、私もお供いたしまして、上水道の通り道の明細をお見せいたしました。道筋に六日逗留されてご見分を済ませて江戸へお戻りになりました。同年十二月二十五日、御評定の惣御寄合に親どもが呼び出されました。上水道を掘り、普請に早々に取り掛かるよう仰せつけられ、ご入り用金六千両をお渡しいただきました。&lt;br /&gt;
:翌年（承応二年＝1653年）巳四月四日に掘り始め、同年十一月十五日までに、四谷大木戸まで押し渡しましたところ、先に玉川からの水の仕掛けをご覧あそばされたい旨仰せつけられましたので、すなわち羽村の大川（多摩川）にて堰を仕立て、水を仕掛けましたところ、滞りなく、四谷大吐まで満水になりました。&lt;br /&gt;
:しかし、以前にいただきました御入用金6000両は、高井戸あたりまでに払ってしまい、金子は多分に不足しておりました。このことを度々申し上げましたところ、「堀普請ができて、水が滞らずにうまくかかれば、末々悪いようにはしないだろう。まず、この先は自分で費用をもって、虎御門まで掘り立てるように」と仰せつけられたため、ありがたく存じ奉り、自分たちの金千両あまり、ならびに町屋敷三か所、金千両あまりで売却し、以上の金子をもって虎御門まで残らず掘り立てまして水を掛けましたところ、十分に滞りなくまいりましたため、ご満足あそばされました。その後、親どもは召し出され、玉川上水御役を永代にわたって仰せつけられ、すなわち両人ともにそのとき二百石分を金子で下され置き、名字も玉川に改めてくださり、刀御免もあそばされましたために、ありがたく存じ奉っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　不審の多い文言です。この書面は承応元年を六十三年前というので、正徳五年にしたためたものであることがわかります。したがって、その時、玉川の方は三代目になっている。この世代はその家の菩提所・聖徳寺の過去帳によるのですが、的確らしくないようです。いずれにしても、「親ども」とあるのは初代庄右衛門・清右衛門を指して言ったと解せられます。その中に「私もお供いたしまして」というのは、この書面を書いた人のようにも読めて紛らわしいが、これも初代が見分役人のご案内をしたのであり、この書面の筆者ではありません。それをこの書面に盲徒してしまったために、上水記では「玉川庄右衛門、清右衛門という者の父」と書きました。そうであれば玉川上水を見立てましたのは、初代庄右・清右の親であったと言うことになりますけれども、苗字御免になった庄右・清右が玉川上水通鑿を申し立てたのであって、その父ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、初代の庄右・清右を芝口の町人とし、また深川の町人とも書いてありますが、何とも決着がつきません。工事の足し前に町屋敷三箇所を売ったという。それほど地面持ちならば、相応な町人であろうに、在り所も知れないといふのは怪しい。それから工事費の下附金も、本文には六千両とありますが、『玉露叢』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;玉露叢&#039;&#039;&#039;（ぎょくろそう）』：著者不詳の雑史。自序は延宝二年（1674年）。豊臣秀吉病気のことから、1681年2月までの編年史である。&amp;lt;/ref&amp;gt;には七千五百両、『御府内備考』には八千両、『武蔵名所絵図』には一万両と書いてございます。この金高はいずれにしても、既に設計して工事を請負ったのに、高井戸までで費用がなくなったという。工事の四分の三ほどで資金がなくなった訳で、全額で二分五厘（25%）の見積り違いになる。どうしてこのような計算違いを生じたものが、だれもこれを疑わないということも不審極まりないように思われます。しかし、費用がなくなったことを度々申立てたとありますから、費用を定めて請け負ったのではないようにも解せられますが、費用を定めずに工事を命ぜられたとすれば、幕府は当事者の諸求があり次第、交付するべきはずであるのに、工事が出来上って水が来さえすれば、末々悪いやうにはしまいと告げて、資金を下附しなかったといふことがどうしても合点のいかないことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　従来、玉川両家は苗宇帯刀御免となり、玉川上水御普請役を勤めることになって、自分の威福のために都合のいいように、手前勝手なことばかりを書き上げたように思われる。明暦火災の後には古記録が焼亡したために、玉川のみならず諸方の書き上げが、役人にも古記録がないのを見透かして、ずいぶんと甚だしいわがままな申立てをしたらしゅうございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　上水記に「玉川の水を江戸まで道のり十三里の所、水盛相考」えたというところへ、分註して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一説に、松平伊豆守の臣何某が考えたことである。これにより、野火留分水口は格別の掘割で、むかしから伊豆守殿堀という。また、いにしえ、伊豆守の家臣で郡方役人の安松金右衛門が工夫して、主人へ申し立て、吟味のうえ、野火止用水ができたともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあって、玉川上水の水盛は松平信綱の家来の考えであったとし、そのために野火止分水が出来たという。さらに安松金右衛門を描き出しては来ても、野火止用水の方へ強く引付けて書いたから、大体が暖味になつてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　御府内備考も「多摩郡羽村という所からこの水を引いて、江戸まで十三里の間、道の次第を考え、絵図を作って申し上げたところ」といふところへ分註して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守のある家人の考えたものともいう。しかし、これは野火留へ引いたことを言うのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といって、玉川上水の水盛りも、野火止用水の設計も、共に松平信綱の家来・安松金右衛門の成案であるのを知らずに、とにかく野火止用水の方へばかり引張ってしまう。それほど、この両工事は設計者が同一であるために、また時日が近かったために、混雑して明白を欠いておりました。安松金右衛門が玉川上水の水盛をしたことは、全く世間に聞こえていないわけでもないのに、野火止用水の工事のために紛れてしまうのです。野火止用水は、当時川越侯であつた松平伊豆守信綱が、自家の領地を開発するだけの規模ではなく、武蔵野開発の計画を立てて、寛文九年武蔵野開墾文書に、「武蔵野惣高合十万九千八十六石余の新拓を得た」とあります。それは『竹橋余筆』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;竹橋余筆&#039;&#039;&#039; (ちっきょうよひつ)：大田南畝編、江戸幕府勘定所記録の抄録集。寛政十二年（1800年）、竹橋門内勘定所倉庫の諸帳面取調べの幕命をうけて整理に着手した。その作業の暇に文書記録を抄出し、同年中『竹橋蠹簡（とかん）』『竹橋余筆』『竹橋余筆別集』が完成した。&amp;lt;/ref&amp;gt;に収録された文書なので、ご覧になれば内訳もわかります。野火止五字、六百八十五石といへば、決して大きな開墾ではないのですけれども、『松平伊豆守旧領高覚』によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:一高四万九千六百九十八十八石八斗五升　武州越城付&lt;br /&gt;
::内六千二百三十五石五升二合　新田並検地出高入&lt;br /&gt;
:外一万四千三十八石四斗二升二合　新田検地出高&lt;br /&gt;
:一高二万四千三百一石一斗五升　武州埼西領&lt;br /&gt;
::内四千七百六十四千七百六斗四斗四升八合　新田並検地出高入&lt;br /&gt;
:外九千四百十九石七斗一升　新田検地出高&lt;br /&gt;
::高合七万石　拝領高&lt;br /&gt;
:::内一万千石　新田並検地出高入&lt;br /&gt;
:外二万三千八百五十八石一斗三升二合　新田高検地出高&lt;br /&gt;
::これは今以高外&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあって、七万石の身上である松平伊豆守は、新田開発のために九万四千三百石余になった。自分の身上が三割五分強に膨大したのみならず、幕府の直領にも新拓十万石余を増加させました。その根本をなすものが野火止開発でありまして、その資源は野火止用水路の疏開なのですから、この辺の八石百姓の勘定にいたしますと、十二万石では農家一万五千軒の生命を与奪するものでございます。だからこそ、野火止用水は名高くもあり、世間から非常に注目されるのであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水がこのように名高いものでございましたので、設計者・安松金右衛門の名はこちらの方で鳴り響いております。それがまた、玉川上水についての彼の名を覆うようにもなっていきました。功績から申せば、武蔵野開発十二万石の根元になりました野火止用水疏開にもまして、玉川上水の水盛は今日に至っては、帝国の首都への給水でありますから比較になりませんが、当時にいたしましても三大都市の随一として数えられた江戸水道のことでございますから、大きな手柄に相違ないのことではありますが、あまりにも野火止用水が顕著であるために、彼の功名が隠されたと見えます。それに、玉川上水の方は庄右衛門・清右衛門の子孫が元文の時代（1736年～1741年）まで御普請役を承って、しきりに父祖の功績を宜伝してをりましたので、このためにも安松金右衛門の玉川上水についての功績は覆われたものと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　一体、玉川上水は左右衛門・清右衛門が設計いたして、幕府の採択を得たものであるのに、どうして安松金右衛門が設計したのか。庄右衛門の書上には、水は滞りなく四谷大木戸まで来たとあるけれども、両人の設計は不良であって、工事は失敗した。それゆえに、安松金右衛門が改めて設計して、新しい水盛によって玉川上水の工事は成功したのであります。このことは、享和三年（1803年）九月、水道奉行・佐橋長門守が、時の老中・松平伊豆守の諮問に対して提出した『玉川上水堀之起発並野火留村引取口訳書』によって明らかにわかることです。この時、伊豆守家は信明といって、三州（三河）吉田、ただ今の豊橋の殿様でありました。前にも申した通り、同家には古記録がないのですから、佐橋長門守に調査させて公私のためにしたのでしょう。この書類は現に大河内子爵家に原本があり、その写しは日比谷図書館の『玉川上水雑書』の中に採収してございます。これによって、庄右・清右の設計が失敗に帰し、工事が頓挫したことを知れば、彼らの書き上げについての不審も一部は減ることにもなり、安松金右衛門の功績もよくわかるようになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*03]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/01&amp;diff=254</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/01</title>
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		<updated>2026-03-14T13:57:14Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第一章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その一　紳書の誤謬==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[安松金右衛門]]といっても知っている者は少ない。その名を知られたのは、彼の事蹟が国定教科書に収録されて小学校の子供らが読み立てるので、ようやく世間に覚えられるようになったが、その人は東京市民が毎日汲んで飲んでいる玉川上水の設計者であるから、実に市民にとって大恩人である。彼の功労に対しては片時も報恩の意を欠いてはならない。それほど大切な安松金右衛門の名も、一向に市民に聞こえてもおらず、その事蹟もほとんど知られていない。しかもその小話が間違っているに至っては、なんとも申しようもないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さしあたって安松金右衛門の伝記について、まず国定教科書の誤謬から正してかかりたいと思う。そもそも安松金右衛門の事蹟が国定教科書に収録されたのは、先年、明治天皇の思し召しによって、宮内省から『幼学綱要&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;幼学綱要&#039;&#039;&#039;（ようがくこうよう）』：明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学者の元田永孚（もとだ ながざね）が中心となって編纂し、明治十五年（1882年）に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例（逸話）を引用して解説している。&amp;lt;/ref&amp;gt;』という本を府県の師範学校へあまねく頒賜されました。その『幼学綱要』の中に、安松金右衛門の野火止用水路開削のことが書いてあります。それから四十何年かの後に、国定教科書へ同じ話を収録するようになったことと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その野火止用水路開削の話は、新井白石の『紳書&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;紳書&#039;&#039;&#039;（しんしょ）』：江戸中期の儒学者、新井白石（あらい はくせき）が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;』によって伝わったように思われます。『紳書』は白石が見聞するままに書いておいたもので、安松金右衛門のことは誰から聞いたのかわかりませんが、こう書いてございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守信綱の代官に安松金右衛門という者がいる。伊豆守の領分、野火止というところに多摩川の流れを引いたならば開発できる田地があるだろうかどうだろうか、と問われて、いかにもよろしいという旨のことを申し、およそ黄金3000両を費やすことになるでしょうと申し上げた。伊豆守が聞いて、「私がここを領していても、またどこかへ移るかもしれない。私が3000両の黄金を費やして、永くこの地に利益があるとすれば、これも公儀への方向の一つである」ということで、安松に命じて、多摩川の水を引こうとし、16里ほど、溝を掘って、新河岸というところに至った。こうして水流が入るかと待っていると、さらに水が来ないまま1年を経た。伊豆守は安松を召して、「どうして水が入らないのか」と問うと、「きっと水が入るはずです。何についても理由があると思います」という。その理由は何かと問われて、「いまだその理由がわかりません」と答えた。次の年にも水が入らなかった。また安松を召して尋ね問うたが、「それは入るはずのものでありますが、このようになっていることは返す返すも不審です。ただし、この地は武蔵野ですが、およそ川越城下の人、いつも畳の上に渋紙など敷いておき、客が来れば巻いてもてなしています。これは地が乾いて、しかも風が常に吹くため、たちまち座中が塵・ほこりに埋もれてしまうからです。しかし、今年は城下のちり・ほこりが昔のようではなく、ことに武蔵野に植えた畑ものは今年は豊かであるのは今までに覚えのないことです。多摩川からこの溝に流れ入る水を広い野に引いておりますから、未だ流れ来るほどのことがなくても、この水が広野に満ち満ちた後には必ず流れが来るべきものと存じます」と答えた。羽生又右衛門という代官がこのあたりを司っていたので、その後召尋ねられて、「それですが、今年ほど野に植えたいろいろなものが豊かなことは知りません」と申し上げたので、伊豆守はそれ以上言うこともなかった。次の年にも水が来なかった。このとき安松を召して訪ねられたが、前年のように答えたので、「お前が地の高下を明らかにしたかったために水が流れるのに堪えていないのではないか」と言われたが、おどろく気配もなかった。三年目の秋、大雨が降った後に、雷が鳴るような水音が大きくとどろいて、この溝にあふれ満ちて平地をも水が行くうちに、6～7寸ほどある鮎が流れてくることもおびただしい。ただ一時に16里ほどに流れ渡って、新河岸の川に流れ入った。そうして田地も開けて、野火止200石の地がたちまちに2000石の地となった。伊豆守は安松を召して「ここ数年、お前を責めたが、最後まで驚くことなく、重ねて溝を修そうともしなかったことは神妙に思われるな」と、一倍の禄を賜り、350石になされたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この本文は刊本の白石全集の『紳書』には見えない。2、3の写本について探しましたが、皆脱落しております。近ごろ森銑三氏から無窮会蔵本の『紳書』一冊は異本というべきものであると教えられまして、辛くも一見しますと、この本文がありました。『紳書』は随筆をほしいままに記録したもので、冊数もどれほどあるものか知られておりません。したがって、伝存するものも揃ったのではなく、残欠しているらしい。どれだけ散佚しましたでしょうか。大田南畝も『紳書』で見たのではないとみえて、この本文を抄出した末に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:右は新井白石先生の随筆したものというが、本当だろうか。この文は、『遺老物語』に載っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と付記してあります。南畝は『遺老物語&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;遺老物語&#039;&#039;&#039;（いろうものがたり）』：江戸時代に編纂された戦国時代から江戸初期にかけての逸話・伝承を集めた軍記・説話集。享保十八年（1733年）、日下部（朝倉）景衡（くさかべ かげひら）によって編纂された。全20巻。戦国武将の言動や合戦の様子、当時の社会情勢などが、古老からの聞き書きや諸家の記録をもとに記されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;』で見たのでしょう。『遺老物語』はその名の如く古老からの聞き書きで、筆者は朝倉景衡なのですが、この朝倉は新井白石の妻女の弟だと聞いている。それで『紳書』もしくは『退私録&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;退私録&#039;&#039;&#039;（たいしろく）』：江戸時代中期の政治家・儒学者である新井白石（あらい はくせき）による随筆・記録集。全三巻＋付録。&amp;lt;/ref&amp;gt;』の記載と『遺老物語』の中の『老談一言記&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;老談一言記&#039;&#039;&#039;（ろうだんいちごんき）』：江戸時代中期に編纂された戦国時代から江戸初期の逸話集。新井白石・編、朝倉景衡・記。主に戦国武将や江戸初期の人物に関する逸話、古老からの聞き書きを収める。『遺老物語』の一部として扱われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;』――安松のこともこの『老談一言記』にあるのですが――『老談一言記』の記載とは、話が同じであるのみならず、文章も少々文字に出入りがあるだけで同文と申してよろしいようなのがたくさんある。それゆえに、白石は朝倉景衡から聞いて書いたようにも思われる。というのは、『遺老物語』には本多正信の一族の本多加信という人がありまして、その人の話を多く書いてある。加信は正信の相談相手であったといいますから、慶長・元和の遺老で長命な人でもあり、一生どこへも仕えず、晩年は屋敷住まいではなく、気楽に市街地で暮らされた。そこでだれかれが加信老人の今昔談を聞きに出かけたらしい。あの『松永道斎聞書』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;松永道斎聞書&#039;&#039;&#039;（まつながどうさいききがき）』：江戸時代初期の医師・儒学者である松永道斎（松永昌三）が、戦国時代の逸話や古老の話を記録した書物。&amp;lt;/ref&amp;gt;も加信老人の話を書いたものなのですが、それの下巻にある35話のうち、28話までが朝倉景衡の『遺老物語』にも書いてある。そこから見て、安松のことは、加信老人が古い話の外に、新しい方の話として、景衡に聞かせたのではあるまいかと思われる。そうした臆測は余計なことのようでもあるが、安松の業績を伝えた野火止用水路開削の話はどこから何として出てきたかを吟味する必要がある。『紳書』にしても、『遺老物語』にしても、当事者から聞いたのでもなく、当時の記録によったのでもない以上は、事蹟を正しく伝えがたい。間違いも生じやすいわけである。今日、松平伊豆守信綱の子孫である子爵・大河内正敏家に、資料とすべき何ものもない。今日ないのではない。昔からないのである。安松金右衛門の相続人の手には、系図さえないほどであるから仕方もない。ただし、この方は、昔から何もないのか否か、それはわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:吉田侯（今の松平伊豆守信順、寺社奉行）の家に、祖先信綱執政のとき、御機密の日記数冊あり、子孫といえども見ることができず、代々直封で、この侯家に収められている。侯家でも格別大切なものであるから火災をはばかり、箱崎の別邸は河辺で火が遠いところだからといってこれをおさめる小倉を建てて入れておいたが、この3月21日の災にこの庫にも火が入って、その旧記が失われてしまったのは惜しむべきことではないか。また聞くところ、この庫、守る人がいたが、火災のとき、己の私財を庫の中に収めていたものも焼亡したという。これも、ものには数があって、尽きるときが来たらどうしようもない。&lt;br /&gt;
:また聞いたことだが、伊豆守の家臣の某が嘆息して言うには、この秘冊は家の世襲の宝であるが、子々孫々見ることもできないのであれば、焼けてなくなったのも時が来たのであり、惜しむものでもないという。まことにそういうものかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは平戸侯松浦静山の書かれた『甲子夜話続編』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;甲子夜話続編&#039;&#039;&#039;（かっしやわ ぞくへん）』：江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山（まつら せいざん）による膨大な随筆集『甲子夜話』の続きにあたる部分。『甲子夜話』（正編）100巻に加え、この『続編』も100巻、さらに『三編』78巻。&amp;lt;/ref&amp;gt;の記載で、文政十二年の火災に三州〔三河〕吉田の殿様であった信綱の後人・伊豆守信順の別邸が焼けて、倉庫に秘め置いていた仙台の記録が灰燼になってしまったというのであるが、同書はそれに続けて『武功雑記』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;武功雑記&#039;&#039;&#039;（ぶこうざつき）』：江戸時代前期に成立した、戦国時代から江戸初期にかけての軍事・武家社会の逸話集。松浦鎮信著。&amp;lt;/ref&amp;gt;（平戸藩祖松浦鎮信の書かれたもの）の中から抄出して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守殿死去前3日、子息たちへ申されるには、「それがし、大猷院（家光）幕下の厚恩をこうむったこと、たとえることもできない。御意安く思し召し上げられ、御自筆で御用のことを仰せ下された御書が幾多ある。これを残しておけば子孫の末々までも珍宝ということができよう。しかし、思慮をめぐらせれば、もし後世にいたってよそへ散乱して、御書の趣に評価を加え、難ずるようなことがあれば、これはそれがしが残しておいたゆえに起こって、まことに大きな不忠、冥加に尽きる（神仏に見放される）ことであるから、御書を火中に入れて焼いて灰とし、袋に入れてそれがしの死骸の頭にかけて埋めるように」というのが遺言であった。これによって、豆州（伊豆守）死後、甲州侯（嗣子 甲斐守輝綱）弟たちがあるところでこの御書を薬缶に入れて火で焼き、おのおの一目でもみないように頭を振って敬って灰とし、その灰を袋に入れて、豆州の死骸の首にかけさせて葬られたとのこと。右前記した吉田侯古冊の中でもまた秘密のものであるのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。信綱が遺言して機密文書を処分したことは、『翁草』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;翁草&#039;&#039;&#039;（おきなぐさ）』：江戸時代後期に編纂された、日本最大級の随筆集。京都の町奉行所に勤める与力、神沢杜口（かんざわ とこう）著。本編200巻。役所の記録や古老の聞き書きを丹念に集め、先行資料を引用しつつ、独自の視点で整理している。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも『永夜茗談』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;永夜茗談&#039;&#039;&#039;（えいやめいだん）』：江戸時代中期に成立した、戦国から江戸初期の逸話集。源長親（通称　三上長親）著、成立は17世紀末～18世紀初頭。主に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑や、その周辺の武将たちの功名話、機転の利いた逸話を収めている。&amp;lt;/ref&amp;gt;を抜粋してあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守臨終の時、公方家御自筆のもの、残らず大きな桶に水を入れ、よく浸して、そこで火に焼き、右の灰を袋に入れ、首にかけて終わらせたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そうすると、信綱の亡くなった寛文二年三月十六日に、早くすでに一部の書類は焼いてしまっていた。それでも家光自筆以外の機密書類は残っていたが、一切見ることを許さなかった。見せないということはよく遂行されたと見えて、寛延元年に吉田藩士奥村保之の編著した『事語継志録』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;事語継志録&#039;&#039;&#039;（じごけいしろく）』：松平伊豆守信綱の言行録。著者・奥村保之（おくむら やすゆき）は、信綱の5代後の子孫にあたる三河吉田藩主・松平信礼（のぶのり）の教育係を務めた。主君である信礼に、信綱の優れた言行を学ばせ、藩主としての心構え（輔導）の一助とするため、信綱の政治的な判断や日常生活の逸話、教訓などをまとめたもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;を見ても、多くは道聴塗説（聞きかじった知識を理解していないまま、他人に受け売りすること）を採ったもので、中には甚だしい間違いさえ麗々しく書き立ててある。そうして、逸しがたい玉川上水開削のことや、武蔵野墾拓のことは全く書いていない。もし残存する書類を多少とも参照するならば、あれほどあやしいものができることはなかっただろう。けれどもその家の禁制によって、古記旧冊は見せないといえば、当然、『事語継志録』のようなものも出てくることになる。『松平豆州言行録』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;松平豆州言行録&#039;&#039;&#039;（まつだいらずしゅうげんこうろく）』：別名『知恵伊豆公言行録』。松平伊豆守信綱の逸話や訓戒をまとめた書物。&amp;lt;/ref&amp;gt;というものもありますが、これとても『事語継志録』と同様なもので、往々信じがたいところがある。あれほど名高い松平信綱に、ほとんど安心して読める伝記がないということも意外なことではありますが、臨終の心がけからいえば、むしろ自分の働いた跡形などの残らないのを望んだのでしょう。しかし、その心がけが史上の欠落となって、松平信綱に関係する大小の事柄というものがすべて知られないものが多くなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて野火止用水、野火止はただ今では埼玉県入間郡&amp;lt;ref&amp;gt;この当時、大和田町は入間郡ではなく[[北足立郡]]に属しており、誤りである。&amp;lt;/ref&amp;gt;[[大和田町]]の一字になっておりますが、寛永十六年正月、信綱が川越城主6万石に封ぜられたころの野火止は、新座郡であった。ついで正保四年7月、常陸国新治郡・武蔵国埼玉郡の両郡の中で1万5000石加増され、7万5000石の大名になったのであるが、この5000石は特に願って無高の地、すなわち未墾の原野を拝領したという。そうであればこのころすでに武蔵野開墾の腹案があったのであろう。藩翰譜には川越侯の石高を7万石と書いてあるのも、5000石というものは未墾の土地であるから本高へ加えなかったのであろう。川越侯の代官・小幡助右衛門が1万石開発の案を立てたというのもこの頃のことであろうが、『野火止宿開発根本之覚書』には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武州新倉郡野火止宿開発、承応元年巳年に始まり、当酉の年まで52年になります。美濃守様（柳沢吉保）御拝領以後、新座と号す。いにしえ伊豆守様（松平信綱）が新田に御取り立てあそばされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。ここに承応元年巳年というのは間違いであろう。元年（1652年）は壬辰、二年（1653年）は癸巳、巳年ならば2年でなければならない。川越の旧家榎本氏に伝わる祖先の書いた榎本弥五右衛門&amp;lt;ref&amp;gt;榎本弥左衛門の誤り。榎本弥左衛門忠重は武蔵国川越の商人である｡寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『万之覚』にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武蔵野火留新田、同巳の春中より同8月中まで、54～55間の家ができました。家1間に金2両米1俵ずつ、御貸を成らされますと承りました。但　伊豆守様より。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうある。これはたしかに承応2年のところに書いてある。このとき、川越侯は新たに農民を野火止に移して、費用を貸して開墾させ始めた。それも人里遠い未墾原野でなく、在来の村落に近い野火止から武蔵野開発を始めたのである。野火止には今日にも水田がない。すぐ隣の大和田には水田がある。それは梁瀬川の水で十分灌漑に足りる。けれども野火止にはまったく灌漑すべき水がないのであった。それで畑ばかりの集落なのである。野火止は灌漑用水がないのみならず、飲料水にも事欠いた。井戸がない。井戸を掘っても水が容易に得られないのは当所に限ったことではなく、武蔵野一帯のことではあるが、新墾によって農村を取り立てようとするのに、住民の飲料水がなくては、いかんともしがたい。人間にこれほどの差し支えはない。武蔵野開発の成否はまったく、飲料水供給の一途にかかることだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　明暦元年3月、ついに野火止用水路が開通した。これは灌漑用として与えられたのではなく、野火止村の飲料水として玉川上水を分けたもので、玉川上水の分水口は30あまりもあるが、その一番早いのは野火止への分水であって、明暦の時期にはまだ他の分水はなかった。&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*01]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/02&amp;diff=253</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/02</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/02&amp;diff=253"/>
		<updated>2026-03-14T13:56:50Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第二章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その二　[[野火止用水|野火止用水路]]==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『幼学綱要』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;幼学綱要&#039;&#039;&#039;（ようがくこうよう）』：明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学者の元田永孚（もとだ ながざね）が中心となって編纂し、明治十五年（1882年）に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例（逸話）を引用して解説している。&amp;lt;/ref&amp;gt;(巻五、忍耐第十二)の記載は、何によって書かれたものか知れませんが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[松平伊豆守信綱|松平信綱]]、武蔵国川越を領する。領内に邑があり、[[野火止]]という。土痩せて水とぼしく、田里は物寂しい。代官・[[安松金右衛門]]が建議していうには、「新しい渠（水路）を掘って、玉河（多摩川）の水を引くべきです。そうすれば稲田を開くこともできるでしょう」と。信綱はその費用を聞いた。すると「三千金である」という。信綱は、「願ふに私はここに久しくいるものではない。しかし、三千金をもって後人を利すのは、それこそわたしの仕事である」と。そこで命じて、そのことを監督させた。こうして金右衛門、役夫数百人を集め、渠を掘ること十六里、小川村から新河岸に達した。すでに完成したが水は至らない。渠の中はただ沮洳（ジメジメ）しているだけであった。信綱はこのことを詰問した。金右衛門が言うには、「私もまたその理由がわかりません。願わくばさらに来年を待っていただきたい」と。翌年になって、水はなお至らない。信綱はまた金右衛門を責めて言った。「お前は特に地勢の高低を察しなかっただけではないのか」。金右衛門は「そうではありません。私は今、悟ったことがあります。いにしえの言葉に、河潤九里（河が九里の幅まで潤す）といいます。今、この地、武蔵野は広漠の中にあります。土は乾燥して風は多く、塵を吹いて座に満ち、客が来るたびに席を掃いています。ところが、今年だけは違います。諸菜の繁滋すること、以前とは違います。これは河潤、新渠によって地に深く入っているためである。水は今、必ず至るでしょう」と。その翌年、ある夕、大いに雨が降り、雷のような音があり、にわかに奔流が突き破って、十六里の間、一時であふれ、新河岸に達した。信綱は喜んで、「金右衛門、三年の久しきをへて、その志をくじけなかった。まさに感賞すべきことである」と言った。命じて、その禄を増した。後、ついに顕職に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを『紳書』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;紳書&#039;&#039;&#039;（しんしょ）』：江戸中期の儒学者、新井白石（あらい はくせき）が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と比べて読みますと、文体が違ってはいるものの、基づくところは知れるように思われる。また『紳書』よりも大変簡約に書いてある。紳書は大いに誤りを正すところがあったが、この短い『幼学綱要』の記載も、『紳書』を鵜呑みにして書いたらしい。しかし、稲田を開くために玉川上水を分水したやうに言ってあるのは、『紳書』にも書いていないことである。他の訂正を要する件は『紳書』に関して述べた方がよろしいけれども、この「稲田を開くための分水だ」ということは、今日も野火止に水田のないのでも明白であるから、『幼学綱要』の誤りとして、ここに記しておかなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『幼学綱要』に安松金右衛門の話を採録されたのは、その主題にも示すとおり、忍耐ということについてであります。それは野火止用水路開鑿後三年にして始めて疏通したというところが押さえどころであつて、『紳書』もそのために彼の話を書き、『幼学綱要』も同じ心持ちで扱ったものと思われますが、それが大間違いなのは実にけしからんことでございます。これらのことは『幼学綱要』編纂の命を受けた人が、十分に吟味すべきことであろうと思われますが、そうではなかったことは、いかにも残念だと存じます。しかし、国定読本が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東京の西北数里、野火止というところがある。今は埼玉県北足立郡大和田町に属しているが、見渡す限り、うち続く畠の間には森あり、丘あり、家あり、流れあり、春は菜の花、麦の緑、秋はすすきの波、雑木の紅葉、武蔵野の面影が今に残って見るからに野趣に満ちた眺めである。&lt;br /&gt;
: 昔この附近一体は、かの智恵伊豆といわれた松平信綱の領地で、その菩提寺の平林寺もこの野火止にある。平林寺の門をくぐって薄暗いほど茂ったカエデの下を進むこと約二町、本堂について右折すれば、スギやヒノキの生い茂っている林の奥に、信綱の霊は静かに眠っている。敷石の苔をふんで、ここに詣でる者は、あたりの静けさを破って、玉のような水が勢いよく流れてるのを見るであろう。&lt;br /&gt;
: 有名な野火止の用水というのがすなわちこれで、この水を引くについては面白い話が今に伝えられている。元来、野火止一帯は、土地高く、水利に欠ける。土やせて、見るからに貧しい村であった。信綱が川越城主としてこの地を領していたとき、代官・安松金右衛門は、新たに堀を掘って、玉川の水を引けば、必ず田畑ができると申し出た。そこで信綱がその費用の見積りを尋ねると、三千両あればよいという。当時の三千両は非常な大金であるが、信綱はこのために、後々の人まで利益をうけることができるのであれば幸いであると、直ちに堀を掘ることを安松に命じた。安松は命を奉じて数百人の人夫に命じた。いよいよ工事に着手した。そうして今の中央線立川駅の北方一里のところから、この野火止を過ぎ、志木町の新河岸川まで、六里の間に堀を通じて、玉川の水を引くことにした。工事はやがて見事に落成したが、しかし、意外にも一滴の水も流れて来ない。信綱はこれを見て、安松をなじると、安松はとにかく来年まで猶予を願い出た。だが、翌年になっても水がやはり来ない。ここに至って、信綱は安松が地勢の高低を考えずに工事を進めたものとして、その手落ちを責めたが、安松はなお自分を信じて疑わない。元来、この附近は、土地が乾き、風が烈しいために、これまで非常に土ぼこりが多く、客のある場合には、必ず座敷を掃いて入れなければならなかった。しかし、今年は、そんなことが全くない。のみならず、野菜の出来がいいのも、例年と異なっている。これは水分が地をうるおしているためで、たしかにその堀のおかげに違いない。何とぞさらに一年の猶予を、と願い出た。すると翌年の夏、一夜大雨が降ると、奔流が水音高く進み来って、たちまち六里の堀にみなぎった。信綱ははじめて、安松が自ら信じることの強いことを感歎し、厚くその功を賞したという。草ひいで、木茂り、見渡す限り豊かな田畑の間を過ぎて、平林寺に詣でる者は、ただ春の花や秋の紅葉を賞するだけでなく、今なお流れて盡きない用水に対して、当年の苦心をしのび、功績のあった人々に深い感謝を捧げなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いて、何の穿鑿もせずに昔ながらの三年、水が来なかった話を繰り返すのみならず、野火止が新墾地であることも、用水が玉川上水を分けたものであることもいわないほどに麁陋（お粗末）なのは心外千万に存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水路は約四十日ほどで竣工し疏通した。それは前にも引証した榎本弥左衛門&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;榎本弥左衛門忠重&#039;&#039;&#039;：武蔵国川越の商人である｡寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『万之覚』に、判然と、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応四年（明暦改元）三月二十日時分、野火止へ水流れ初り申候。ほり初は二月十日時分より初り申候。堀長さは四里程であるべく候。水上より野火止まで30間程ひがし、水上は江戸の水道にわりきり也。堀の口は深みになお不定、しきは三尺に極まり申候。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあるので疑いないことであります。この『万之覚』は前にも申してある通り、当時の記録なので、筆者が親しく見聞したままを書き付けておいたものであります。これほどたしかなものがあるのに、今日まで三年、水が来なかつたという誤った説が是正されなかったのは、かえってそれが訝しくはありませんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大河内（正敏)子爵家に『本藩高志略伝』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;本藩高志略伝&#039;&#039;&#039;（ほんぱんこうしりゃくでん）』：江戸時代に編纂された、川越藩（松平信綱の系統）の藩士たちの伝記集。大河内松平家に仕えた歴代の「高志（志の高い優れた家臣）」たちの略伝を収めている。&amp;lt;/ref&amp;gt;という写本が三冊ありますが、その第一冊に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;安松金右衛門　水道を発すること&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[安松金右衛門]]吉実は、本国河内、生国播磨で、算術の達人である。正保元甲申年（1644年）、御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎で、松林公（信綱の法諡）に奉仕した。現米を百俵賜り、後に百石になり、三十石、七十石、両度の加禄にて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。そのころは野火止は武蔵野にあって、井戸もなく、泉水が湧出する所もなかった。正保四丁亥年（1647年）七月一日、（松林公が）一万五千石に御増加のとき、願いでて武蔵野を五千石拝領した。同州岩槻にあった平林寺を、今の野火止に移された。よって金右衛門に、玉川から水を引かせて、そのうち行程七里、高低曲直、岩石林木、金右衛門はこれを数え、計って、ついに水を引けることがわかり、水道を掘割らせた。そして「ここに水道を作ることができる。道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千載不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。金右衛門が水道を敷いたとき計画したよりも半時ほど水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、私の間違いである。水は七里を来る。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と。水道が成就した後、井を掘れば水が湧き、地を掘れば水が溢れる。人家も追々に造られ、新田・新畑を開発し、野火止の人民はその恩沢をこうむったために、金右衛門の名は高い。公儀の御帳にもその名がある。野火止五千石は高崎御分知である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてありますが、この中に「玉川から七里」というのは野火止用水のことであり、また、水道の路線に二筋あり、その一つを受け継いだというのは玉川上水のことで、そのことは後文に述べますが、野火止川水路は二線の中の一線を選んだのではありません。これを見ても玉川、野火止の二つの工事のことが紛れて、当の藩中にさえ伝えられていたことがわかるだろう。この写本は、水道ができて今百六十余年の星霜を経て、というのも玉川上水のことであり、「既に幾分の欠落を生じている」と書いてあることからもますます確かめられます。したがって、百六十余年というのも、明暦元年（1655年）玉川上水完成から数えるのだと思います。それなら、本藩高士略伝は文化・文政のころに書いたものと思われます。文化・文政のころならば、筆者も『紳書』や『遺老物語』を見て、水が三年来なかったという説も承知しておりさうなものであるのに、それは何とも言わずに「金右衛門、水道を敷いたとき、計画したよりは、半時ばかり水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、これは私の誤りである。水は七里を来ている。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と言っております。筆者は玉川上水工事と野火止用水工事と、ゴッチャに書いているので、大体話が混雑していますが、ここでは「水が七里を来る」と断ってもいるので、野止用水路のことなのが知れます。玉川上水ならば十三里とあるはずです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『本藩高土略伝』の筆者も、前に書いたとおり、藩祖・伊豆守信綱遺旨によって、古い書付はなくしているし、火事で焼失もしており、たとえあったところで誰にも見せないのですから、事実を考証する資料はないのでございます。しかるに、金右衛門が、野火止用水路開鑿に当って、考えていたよりも水の来るのが半時、ただ今の時計にいたすと一時間遅かったというのは、何によって書いたのだろうか。おそらくは藩中の人々の云ひ伝えででもあっただろうと思われる。だが半時では信綱が監督・叱責する時間もあるまい。また、武蔵野の野菜の出来がいいとか、ほこりが立たなくなったとかいう話も出る間がない。まったく、三年といふ日数であればこそ、いろいろと話すことにもなろうというものです。現に野火止用水路の村々には「二年たっても水が来ないで、金右衛門は申し訳に切腹した。その翌年に水が来たら、どこやらに金右衛門を水神様に祀って祠を建てた」などという、飛んでもないことを話す者さえあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　半時遅かったということは、金右衛門が水利に巧みな者であるのを称賛した言葉と思われる。水利設計にほとんど計算間違いのないほど、優秀な技術者であることを逆に言い表したのであろう。ですから、半時説は吟味せずともよろしい。ただ、三年説は、『万之覚』の記録するように、約四十日にして疎通しているのに、どうして発生したのであろうか。ここで注意すべきは、玉川上水が承応二年に起工して、明暦元年に完成していることで、足掛け三年目に出来上っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*02]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/02&amp;diff=252</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/02</title>
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		<updated>2026-03-14T12:19:20Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第二章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その二　[[野火止用水|野火止用水路]]==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『幼学綱要』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;幼学綱要&#039;&#039;&#039;（ようがくこうよう）』：明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学者の元田永孚（もとだ ながざね）が中心となって編纂し、明治十五年（1882年）に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例（逸話）を引用して解説している。&amp;lt;/ref&amp;gt;(巻五、忍耐第十二)の記載は、何によって書かれたものか知れませんが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[松平伊豆守信綱|松平信綱]]、武蔵国川越を領する。領内に邑があり、[[野火止]]という。土痩せて水とぼしく、田里は物寂しい。代官・[[安松金右衛門]]が建議していうには、「新しい渠（水路）を掘って、玉河（多摩川）の水を引くべきです。そうすれば稲田を開くこともできるでしょう」と。信綱はその費用を聞いた。すると「三千金である」という。信綱は、「願ふに私はここに久しくいるものではない。しかし、三千金をもって後人を利すのは、それこそわたしの仕事である」と。そこで命じて、そのことを監督させた。こうして金右衛門、役夫数百人を集め、渠を掘ること十六里、小川村から新河岸に達した。すでに完成したが水は至らない。渠の中はただ沮洳（ジメジメ）しているだけであった。信綱はこのことを詰問した。金右衛門が言うには、「私もまたその理由がわかりません。願わくばさらに来年を待っていただきたい」と。翌年になって、水はなお至らない。信綱はまた金右衛門を責めて言った。「お前は特に地勢の高低を察しなかっただけではないのか」。金右衛門は「そうではありません。私は今、悟ったことがあります。いにしえの言葉に、河潤九里（河が九里の幅まで潤す）といいます。今、この地、武蔵野は広漠の中にあります。土は乾燥して風は多く、塵を吹いて座に満ち、客が来るたびに席を掃いています。ところが、今年だけは違います。諸菜の繁滋すること、以前とは違います。これは河潤、新渠によって地に深く入っているためである。水は今、必ず至るでしょう」と。その翌年、ある夕、大いに雨が降り、雷のような音があり、にわかに奔流が突き破って、十六里の間、一時であふれ、新河岸に達した。信綱は喜んで、「金右衛門、三年の久しきをへて、その志をくじけなかった。まさに感賞すべきことである」と言った。命じて、その禄を増した。後、ついに顕職に至った。&lt;br /&gt;
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　これを『紳書』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;紳書&#039;&#039;&#039;（しんしょ）』：江戸中期の儒学者、新井白石（あらい はくせき）が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と比べて読みますと、文体が違ってはいるものの、基づくところは知れるように思われる。また『紳書』よりも大変簡約に書いてある。紳書は大いに誤りを正すところがあったが、この短い『幼学綱要』の記載も、『紳書』を鵜呑みにして書いたらしい。しかし、稲田を開くために玉川上水を分水したやうに言ってあるのは、『紳書』にも書いていないことである。他の訂正を要する件は『紳書』に関して述べた方がよろしいけれども、この「稲田を開くための分水だ」ということは、今日も野火止に水田のないのでも明白であるから、『幼学綱要』の誤りとして、ここに記しておかなければなりません。&lt;br /&gt;
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　『幼学綱要』に安松金右衛門の話を採録されたのは、その主題にも示すとおり、忍耐ということについてであります。それは野火止用水路開鑿後三年にして始めて疏通したというところが押さえどころであつて、『紳書』もそのために彼の話を書き、『幼学綱要』も同じ心持ちで扱ったものと思われますが、それが大間違いなのは実にけしからんことでございます。これらのことは『幼学綱要』編纂の命を受けた人が、十分に吟味すべきことであろうと思われますが、そうではなかったことは、いかにも残念だと存じます。しかし、国定読本が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東京の西北数里、野火止というところがある。今は埼玉県北足立郡大和田町に属しているが、見渡す限り、うち続く畠の間には森あり、丘あり、家あり、流れあり、春は菜の花、麦の緑、秋はすすきの波、雑木の紅葉、武蔵野の面影が今に残って見るからに野趣に満ちた眺めである。&lt;br /&gt;
: 昔この附近一体は、かの智恵伊豆といわれた松平信綱の領地で、その菩提寺の平林寺もこの野火止にある。平林寺の門をくぐって薄暗いほど茂ったカエデの下を進むこと約二町、本堂について右折すれば、スギやヒノキの生い茂っている林の奥に、信綱の霊は静かに眠っている。敷石の苔をふんで、ここに詣でる者は、あたりの静けさを破って、玉のような水が勢いよく流れてるのを見るであろう。&lt;br /&gt;
: 有名な野火止の用水というのがすなわちこれで、この水を引くについては面白い話が今に伝えられている。元来、野火止一帯は、土地高く、水利に欠ける。土やせて、見るからに貧しい村であった。信綱が川越城主としてこの地を領していたとき、代官・安松金右衛門は、新たに堀を掘って、玉川の水を引けば、必ず田畑ができると申し出た。そこで信綱がその費用の見積りを尋ねると、三千両あればよいという。当時の三千両は非常な大金であるが、信綱はこのために、後々の人まで利益をうけることができるのであれば幸いであると、直ちに堀を掘ることを安松に命じた。安松は命を奉じて数百人の人夫に命じた。いよいよ工事に着手した。そうして今の中央線立川駅の北方一里のところから、この野火止を過ぎ、志木町の新河岸川まで、六里の間に堀を通じて、玉川の水を引くことにした。工事はやがて見事に落成したが、しかし、意外にも一滴の水も流れて来ない。信綱はこれを見て、安松をなじると、安松はとにかく来年まで猶予を願い出た。だが、翌年になっても水がやはり来ない。ここに至って、信綱は安松が地勢の高低を考えずに工事を進めたものとして、その手落ちを責めたが、安松はなお自分を信じて疑わない。元来、この附近は、土地が乾き、風が烈しいために、これまで非常に土ぼこりが多く、客のある場合には、必ず座敷を掃いて入れなければならなかった。しかし、今年は、そんなことが全くない。のみならず、野菜の出来がいいのも、例年と異なっている。これは水分が地をうるおしているためで、たしかにその堀のおかげに違いない。何とぞさらに一年の猶予を、と願い出た。すると翌年の夏、一夜大雨が降ると、奔流が水音高く進み来って、たちまち六里の堀にみなぎった。信綱ははじめて、安松が自ら信じることの強いことを感歎し、厚くその功を賞したという。草ひいで、木茂り、見渡す限り豊かな田畑の間を過ぎて、平林寺に詣でる者は、ただ春の花や秋の紅葉を賞するだけでなく、今なお流れて盡きない用水に対して、当年の苦心をしのび、功績のあった人々に深い感謝を捧げなければならない。&lt;br /&gt;
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と書いて、何の穿鑿もせずに昔ながらの三年、水が来なかった話を繰り返すのみならず、野火止が新墾地であることも、用水が玉川上水を分けたものであることもいわないほどに麁陋（お粗末）なのは心外千万に存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水路は約四十日ほどで竣工し疏通した。それは前にも引証した榎本弥左衛門&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;榎本弥左衛門忠重&#039;&#039;&#039;：武蔵国川越の商人である｡寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『万之覚』に、判然と、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応四年（明暦改元）三月二十日時分、野火止へ水流れ初り申候。ほり初は二月十日時分より初り申候。堀長さは四里程であるべく候。水上より野火止まで30間程ひがし、水上は江戸の水道にわりきり也。堀の口は深みになお不定、しきは三尺に極まり申候。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあるので疑いないことであります。この『万之覚』は前にも申してある通り、当時の記録なので、筆者が親しく見聞したままを書き付けておいたものであります。これほどたしかなものがあるのに、今日まで三年、水が来なかつたという誤った説が是正されなかったのは、かえってそれが訝しくはありませんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大河内（正敏)子爵家に『本藩高志略伝』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;本藩高志略伝&#039;&#039;&#039;（ほんぱんこうしりゃくでん）』：江戸時代に編纂された、川越藩（松平信綱の系統）の藩士たちの伝記集。大河内松平家に仕えた歴代の「高志（志の高い優れた家臣）」たちの略伝を収めている。&amp;lt;/ref&amp;gt;という写本が三冊ありますが、その第一冊に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;安松金右衛門　水道を発すること&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[安松金右衛門]]吉実は、本国河内、生国播磨で、算術の達人である。正保元甲申年（1644年）、御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎で、松林公（信綱の法諡）に奉仕した。現米を百俵賜り、後に百石になり、三十石、七十石、両度の加禄にて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。そのころは野火止は武蔵野にあって、井戸もなく、泉水が湧出する所もなかった。正保四丁亥年（1647年）七月一日、（松林公が）一万五千石に御増加のとき、願いでて武蔵野を五千石拝領した。同州岩槻にあった平林寺を、今の野火止に移された。よって金右衛門に、玉川から水を引かせて、そのうち行程七里、高低曲直、岩石林木、金右衛門はこれを数え、計って、ついに水を引けることがわかり、水道を掘割らせた。そして「ここに水道を作ることができる。道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千載不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。金右衛門が水道を敷いたとき計画したよりも半時ほど水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、私の間違いである。水は七里を来る。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と。水道が成就した後、井を掘れば水が湧き、地を掘れば水が溢れる。人家も追々に造られ、新田・新畑を開発し、野火止の人民はその恩沢をこうむったために、金右衛門の名は高い。公儀の御帳にもその名がある。野火止五千石は高崎御分知である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてありますが、この中に「玉川から七里」というのは野火止用水のことであり、また、水道の路線に二筋あり、その一つを受け継いだというのは玉川上水のことで、そのことは後文に述べますが、野火止川水路は二線の中の一線を選んだのではありません。これを見ても玉川、野火止の二つの工事のことが紛れて、当の藩中にさえ伝えられていたことがわかるだろう。この写本は、水道ができて今百六十余年の星霜を経て、というのも玉川上水のことであり、「既に幾分の欠落を生じている」と書いてあることからもますます確かめられます。したがって、百六十余年というのも、明暦元年（1655年）玉川上水完成から数えるのだと思います。それなら、本藩高士略伝は文化・文政のころに書いたものと思われます。文化・文政のころならば、筆者も『紳書』や『遺老物語』を見て、水が三年来なかったという説も承知しておりさうなものであるのに、それは何とも言わずに「金右衛門、水道を敷いたとき、計画したよりは、半時ばかり水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、これは私の誤りである。水は七里を来ている。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と言っております。筆者は玉川上水工事と野火止用水工事と、ゴッチャに書いているので、大体話が混雑していますが、ここでは「水が七里を来る」と断ってもいるので、野止用水路のことなのが知れます。玉川上水ならば十三里とあるはずです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『本藩高土略伝』の筆者も、前に書いたとおり、藩祖・伊豆守信綱遺旨によって、古い書付はなくしているし、火事で焼失もしており、たとえあったところで誰にも見せないのですから、事実を考証する資料はないのでございます。しかるに、金右衛門が、野火止用水路開鑿に当って、考えていたよりも水の来るのが半時、ただ今の時計にいたすと一時間遅かったというのは、何によって書いたのだろうか。おそらくは藩中の人々の云ひ伝えででもあっただろうと思われる。だが半時では信綱が監督・叱責する時間もあるまい。また、武蔵野の野菜の出来がいいとか、ほこりが立たなくなったとかいう話も出る間がない。まったく、三年といふ日数であればこそ、いろいろと話すことにもなろうというものです。現に野火止用水路の村々には「二年たっても水が来ないで、金右衛門は申し訳に切腹した。その翌年に水が来たら、どこやらに金右衛門を水神様に祀って祠を建てた」などという、飛んでもないことを話す者さえあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　半時遅かったということは、金右衛門が水利に巧みな者であるのを称賛した言葉と思われる。水利設計にほとんど計算間違いのないほど、優秀な技術者であることを逆に言い表したのであろう。ですから、半時説は吟味せずともよろしい。ただ、三年説は、『万之覚』の記録するように、約四十日にして疎通しているのに、どうして発生したのであろうか。ここで注意すべきは、玉川上水が承応二年に起工して、明暦元年に完成していることで、足掛け三年目に出来上っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*02]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/02&amp;diff=251</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/02</title>
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		<updated>2026-03-14T12:18:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第二章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その二　野火止用水路==  　『幼学綱要』&amp;lt;ref&amp;gt;『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;幼学綱要&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（ようがくこうよう）』は、明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）である。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第二章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その二　[[野火止用水|野火止用水路]]==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『幼学綱要』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;幼学綱要&#039;&#039;&#039;（ようがくこうよう）』は、明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）である。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学者の元田永孚（もとだ ながざね）が中心となって編纂し、明治十五年（1882年）に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例（逸話）を引用して解説している。&amp;lt;/ref&amp;gt;(巻五、忍耐第十二)の記載は、何によって書かれたものか知れませんが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[松平伊豆守信綱|松平信綱]]、武蔵国川越を領する。領内に邑があり、[[野火止]]という。土痩せて水とぼしく、田里は物寂しい。代官・[[安松金右衛門]]が建議していうには、「新しい渠（水路）を掘って、玉河（多摩川）の水を引くべきです。そうすれば稲田を開くこともできるでしょう」と。信綱はその費用を聞いた。すると「三千金である」という。信綱は、「願ふに私はここに久しくいるものではない。しかし、三千金をもって後人を利すのは、それこそわたしの仕事である」と。そこで命じて、そのことを監督させた。こうして金右衛門、役夫数百人を集め、渠を掘ること十六里、小川村から新河岸に達した。すでに完成したが水は至らない。渠の中はただ沮洳（ジメジメ）しているだけであった。信綱はこのことを詰問した。金右衛門が言うには、「私もまたその理由がわかりません。願わくばさらに来年を待っていただきたい」と。翌年になって、水はなお至らない。信綱はまた金右衛門を責めて言った。「お前は特に地勢の高低を察しなかっただけではないのか」。金右衛門は「そうではありません。私は今、悟ったことがあります。いにしえの言葉に、河潤九里（河が九里の幅まで潤す）といいます。今、この地、武蔵野は広漠の中にあります。土は乾燥して風は多く、塵を吹いて座に満ち、客が来るたびに席を掃いています。ところが、今年だけは違います。諸菜の繁滋すること、以前とは違います。これは河潤、新渠によって地に深く入っているためである。水は今、必ず至るでしょう」と。その翌年、ある夕、大いに雨が降り、雷のような音があり、にわかに奔流が突き破って、十六里の間、一時であふれ、新河岸に達した。信綱は喜んで、「金右衛門、三年の久しきをへて、その志をくじけなかった。まさに感賞すべきことである」と言った。命じて、その禄を増した。後、ついに顕職に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを『紳書』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;紳書&#039;&#039;&#039;（しんしょ）』は、江戸中期の儒学者、新井白石（あらい はくせき）が著した全10巻の随筆集である。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と比べて読みますと、文体が違ってはいるものの、基づくところは知れるように思われる。また『紳書』よりも大変簡約に書いてある。紳書は大いに誤りを正すところがあったが、この短い『幼学綱要』の記載も、『紳書』を鵜呑みにして書いたらしい。しかし、稲田を開くために玉川上水を分水したやうに言ってあるのは、『紳書』にも書いていないことである。他の訂正を要する件は『紳書』に関して述べた方がよろしいけれども、この「稲田を開くための分水だ」ということは、今日も野火止に水田のないのでも明白であるから、『幼学綱要』の誤りとして、ここに記しておかなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『幼学綱要』に安松金右衛門の話を採録されたのは、その主題にも示すとおり、忍耐ということについてであります。それは野火止用水路開鑿後三年にして始めて疏通したというところが押さえどころであつて、『紳書』もそのために彼の話を書き、『幼学綱要』も同じ心持ちで扱ったものと思われますが、それが大間違いなのは実にけしからんことでございます。これらのことは『幼学綱要』編纂の命を受けた人が、十分に吟味すべきことであろうと思われますが、そうではなかったことは、いかにも残念だと存じます。しかし、国定読本が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東京の西北数里、野火止というところがある。今は埼玉県北足立郡大和田町に属しているが、見渡す限り、うち続く畠の間には森あり、丘あり、家あり、流れあり、春は菜の花、麦の緑、秋はすすきの波、雑木の紅葉、武蔵野の面影が今に残って見るからに野趣に満ちた眺めである。&lt;br /&gt;
: 昔この附近一体は、かの智恵伊豆といわれた松平信綱の領地で、その菩提寺の平林寺もこの野火止にある。平林寺の門をくぐって薄暗いほど茂ったカエデの下を進むこと約二町、本堂について右折すれば、スギやヒノキの生い茂っている林の奥に、信綱の霊は静かに眠っている。敷石の苔をふんで、ここに詣でる者は、あたりの静けさを破って、玉のような水が勢いよく流れてるのを見るであろう。&lt;br /&gt;
: 有名な野火止の用水というのがすなわちこれで、この水を引くについては面白い話が今に伝えられている。元来、野火止一帯は、土地高く、水利に欠ける。土やせて、見るからに貧しい村であった。信綱が川越城主としてこの地を領していたとき、代官・安松金右衛門は、新たに堀を掘って、玉川の水を引けば、必ず田畑ができると申し出た。そこで信綱がその費用の見積りを尋ねると、三千両あればよいという。当時の三千両は非常な大金であるが、信綱はこのために、後々の人まで利益をうけることができるのであれば幸いであると、直ちに堀を掘ることを安松に命じた。安松は命を奉じて数百人の人夫に命じた。いよいよ工事に着手した。そうして今の中央線立川駅の北方一里のところから、この野火止を過ぎ、志木町の新河岸川まで、六里の間に堀を通じて、玉川の水を引くことにした。工事はやがて見事に落成したが、しかし、意外にも一滴の水も流れて来ない。信綱はこれを見て、安松をなじると、安松はとにかく来年まで猶予を願い出た。だが、翌年になっても水がやはり来ない。ここに至って、信綱は安松が地勢の高低を考えずに工事を進めたものとして、その手落ちを責めたが、安松はなお自分を信じて疑わない。元来、この附近は、土地が乾き、風が烈しいために、これまで非常に土ぼこりが多く、客のある場合には、必ず座敷を掃いて入れなければならなかった。しかし、今年は、そんなことが全くない。のみならず、野菜の出来がいいのも、例年と異なっている。これは水分が地をうるおしているためで、たしかにその堀のおかげに違いない。何とぞさらに一年の猶予を、と願い出た。すると翌年の夏、一夜大雨が降ると、奔流が水音高く進み来って、たちまち六里の堀にみなぎった。信綱ははじめて、安松が自ら信じることの強いことを感歎し、厚くその功を賞したという。草ひいで、木茂り、見渡す限り豊かな田畑の間を過ぎて、平林寺に詣でる者は、ただ春の花や秋の紅葉を賞するだけでなく、今なお流れて盡きない用水に対して、当年の苦心をしのび、功績のあった人々に深い感謝を捧げなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いて、何の穿鑿もせずに昔ながらの三年、水が来なかった話を繰り返すのみならず、野火止が新墾地であることも、用水が玉川上水を分けたものであることもいわないほどに麁陋（お粗末）なのは心外千万に存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　野火止用水路は約四十日ほどで竣工し疏通した。それは前にも引証した榎本弥左衛門&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;&#039;榎本弥左衛門忠重&#039;&#039;&#039;：武蔵国川越の商人である｡寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『万之覚』に、判然と、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:承応四年（明暦改元）三月二十日時分、野火止へ水流れ初り申候。ほり初は二月十日時分より初り申候。堀長さは四里程であるべく候。水上より野火止まで30間程ひがし、水上は江戸の水道にわりきり也。堀の口は深みになお不定、しきは三尺に極まり申候。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてあるので疑いないことであります。この『万之覚』は前にも申してある通り、当時の記録なので、筆者が親しく見聞したままを書き付けておいたものであります。これほどたしかなものがあるのに、今日まで三年、水が来なかつたという誤った説が是正されなかったのは、かえってそれが訝しくはありませんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大河内（正敏)子爵家に『本藩高志略伝』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;本藩高志略伝&#039;&#039;&#039;（ほんぱんこうしりゃくでん）』：江戸時代に編纂された、川越藩（松平信綱の系統）の藩士たちの伝記集。大河内松平家に仕えた歴代の「高志（志の高い優れた家臣）」たちの略伝を収めている。&amp;lt;/ref&amp;gt;という写本が三冊ありますが、その第一冊に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;安松金右衛門　水道を発すること&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[安松金右衛門]]吉実は、本国河内、生国播磨で、算術の達人である。正保元甲申年（1644年）、御代官・能勢四郎右衛門殿の肝煎で、松林公（信綱の法諡）に奉仕した。現米を百俵賜り、後に百石になり、三十石、七十石、両度の加禄にて二百石に成った。はじめは元締、後に代官に転じた。そのころは野火止は武蔵野にあって、井戸もなく、泉水が湧出する所もなかった。正保四丁亥年（1647年）七月一日、（松林公が）一万五千石に御増加のとき、願いでて武蔵野を五千石拝領した。同州岩槻にあった平林寺を、今の野火止に移された。よって金右衛門に、玉川から水を引かせて、そのうち行程七里、高低曲直、岩石林木、金右衛門はこれを数え、計って、ついに水を引けることがわかり、水道を掘割らせた。そして「ここに水道を作ることができる。道筋が二か所ある。一方を掘割りし、水を通じればば千載不朽の利となる。もう一方を掘割りし、水を通ずれば、三百年の後には水理を失うことがあるだろう。この言葉は子々孫々に伝え、忘れてはならない」と。さて、永久の計の方の道筋はいいものであるが、当時は財用がおびただしい時節だったので、これを為しがたく、一方で三百年というのは近いことではないということで開いた水道であるという。しかるに、今百六十余年の星霜を経て、水道の土石が少し欠け落ちたところもあるので、三百年に至ればどうであろうかという人もあるという。金右衛門が水道を敷いたとき計画したよりも半時ほど水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、私の間違いである。水は七里を来る。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と。水道が成就した後、井を掘れば水が湧き、地を掘れば水が溢れる。人家も追々に造られ、新田・新畑を開発し、野火止の人民はその恩沢をこうむったために、金右衛門の名は高い。公儀の御帳にもその名がある。野火止五千石は高崎御分知である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と書いてありますが、この中に「玉川から七里」というのは野火止用水のことであり、また、水道の路線に二筋あり、その一つを受け継いだというのは玉川上水のことで、そのことは後文に述べますが、野火止川水路は二線の中の一線を選んだのではありません。これを見ても玉川、野火止の二つの工事のことが紛れて、当の藩中にさえ伝えられていたことがわかるだろう。この写本は、水道ができて今百六十余年の星霜を経て、というのも玉川上水のことであり、「既に幾分の欠落を生じている」と書いてあることからもますます確かめられます。したがって、百六十余年というのも、明暦元年（1655年）玉川上水完成から数えるのだと思います。それなら、本藩高士略伝は文化・文政のころに書いたものと思われます。文化・文政のころならば、筆者も『紳書』や『遺老物語』を見て、水が三年来なかったという説も承知しておりさうなものであるのに、それは何とも言わずに「金右衛門、水道を敷いたとき、計画したよりは、半時ばかり水の来ることが遅かった。金右衛門が言うには、これは私の誤りである。水は七里を来ている。地中へ染み込むことを考えていなかったためだ」と言っております。筆者は玉川上水工事と野火止用水工事と、ゴッチャに書いているので、大体話が混雑していますが、ここでは「水が七里を来る」と断ってもいるので、野止用水路のことなのが知れます。玉川上水ならば十三里とあるはずです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『本藩高土略伝』の筆者も、前に書いたとおり、藩祖・伊豆守信綱遺旨によって、古い書付はなくしているし、火事で焼失もしており、たとえあったところで誰にも見せないのですから、事実を考証する資料はないのでございます。しかるに、金右衛門が、野火止用水路開鑿に当って、考えていたよりも水の来るのが半時、ただ今の時計にいたすと一時間遅かったというのは、何によって書いたのだろうか。おそらくは藩中の人々の云ひ伝えででもあっただろうと思われる。だが半時では信綱が監督・叱責する時間もあるまい。また、武蔵野の野菜の出来がいいとか、ほこりが立たなくなったとかいう話も出る間がない。まったく、三年といふ日数であればこそ、いろいろと話すことにもなろうというものです。現に野火止用水路の村々には「二年たっても水が来ないで、金右衛門は申し訳に切腹した。その翌年に水が来たら、どこやらに金右衛門を水神様に祀って祠を建てた」などという、飛んでもないことを話す者さえあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　半時遅かったということは、金右衛門が水利に巧みな者であるのを称賛した言葉と思われる。水利設計にほとんど計算間違いのないほど、優秀な技術者であることを逆に言い表したのであろう。ですから、半時説は吟味せずともよろしい。ただ、三年説は、『万之覚』の記録するように、約四十日にして疎通しているのに、どうして発生したのであろうか。ここで注意すべきは、玉川上水が承応二年に起工して、明暦元年に完成していることで、足掛け三年目に出来上っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*02]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80/01&amp;diff=250</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/01</title>
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		<updated>2026-03-14T12:08:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第一章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その一　紳書の誤謬==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[安松金右衛門]]といっても知っている者は少ない。その名を知られたのは、彼の事蹟が国定教科書に収録されて小学校の子供らが読み立てるので、ようやく世間に覚えられるようになったが、その人は東京市民が毎日汲んで飲んでいる玉川上水の設計者であるから、実に市民にとって大恩人である。彼の功労に対しては片時も報恩の意を欠いてはならない。それほど大切な安松金右衛門の名も、一向に市民に聞こえてもおらず、その事蹟もほとんど知られていない。しかもその小話が間違っているに至っては、なんとも申しようもないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さしあたって安松金右衛門の伝記について、まず国定教科書の誤謬から正してかかりたいと思う。そもそも安松金右衛門の事蹟が国定教科書に収録されたのは、先年、明治天皇の思し召しによって、宮内省から『幼学綱要&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;幼学綱要&#039;&#039;&#039;（ようがくこうよう）』：明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学者の元田永孚（もとだ ながざね）が中心となって編纂し、明治十五年（1882年）に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例（逸話）を引用して解説している。&amp;lt;/ref&amp;gt;』という本を府県の師範学校へあまねく頒賜されました。その『幼学綱要』の中に、安松金右衛門の野火止用水路開削のことが書いてあります。それから四十何年かの後に、国定教科書へ同じ話を収録するようになったことと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その野火止用水路開削の話は、新井白石の『紳書&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;紳書&#039;&#039;&#039;（しんしょ）』：江戸中期の儒学者、新井白石（あらい はくせき）が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;』によって伝わったように思われます。『紳書』は白石が見聞するままに書いておいたもので、安松金右衛門のことは誰から聞いたのかわかりませんが、こう書いてございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守信綱の代官に安松金右衛門という者がいる。伊豆守の領分、野火止というところに多摩川の流れを引いたならば開発できる田地があるだろうかどうだろうか、と問われて、いかにもよろしいという旨のことを申し、およそ黄金3000両を費やすことになるでしょうと申し上げた。伊豆守が聞いて、「私がここを領していても、またどこかへ移るかもしれない。私が3000両の黄金を費やして、永くこの地に利益があるとすれば、これも公儀への方向の一つである」ということで、安松に命じて、多摩川の水を引こうとし、16里ほど、溝を掘って、新河岸というところに至った。こうして水流が入るかと待っていると、さらに水が来ないまま1年を経た。伊豆守は安松を召して、「どうして水が入らないのか」と問うと、「きっと水が入るはずです。何についても理由があると思います」という。その理由は何かと問われて、「いまだその理由がわかりません」と答えた。次の年にも水が入らなかった。また安松を召して尋ね問うたが、「それは入るはずのものでありますが、このようになっていることは返す返すも不審です。ただし、この地は武蔵野ですが、およそ川越城下の人、いつも畳の上に渋紙など敷いておき、客が来れば巻いてもてなしています。これは地が乾いて、しかも風が常に吹くため、たちまち座中が塵・ほこりに埋もれてしまうからです。しかし、今年は城下のちり・ほこりが昔のようではなく、ことに武蔵野に植えた畑ものは今年は豊かであるのは今までに覚えのないことです。多摩川からこの溝に流れ入る水を広い野に引いておりますから、未だ流れ来るほどのことがなくても、この水が広野に満ち満ちた後には必ず流れが来るべきものと存じます」と答えた。羽生又右衛門という代官がこのあたりを司っていたので、その後召尋ねられて、「それですが、今年ほど野に植えたいろいろなものが豊かなことは知りません」と申し上げたので、伊豆守はそれ以上言うこともなかった。次の年にも水が来なかった。このとき安松を召して訪ねられたが、前年のように答えたので、「お前が地の高下を明らかにしたかったために水が流れるのに堪えていないのではないか」と言われたが、おどろく気配もなかった。三年目の秋、大雨が降った後に、雷が鳴るような水音が大きくとどろいて、この溝にあふれ満ちて平地をも水が行くうちに、6～7寸ほどある鮎が流れてくることもおびただしい。ただ一時に16里ほどに流れ渡って、新河岸の川に流れ入った。そうして田地も開けて、野火止200石の地がたちまちに2000石の地となった。伊豆守は安松を召して「ここ数年、お前を責めたが、最後まで驚くことなく、重ねて溝を修そうともしなかったことは神妙に思われるな」と、一倍の禄を賜り、350石になされたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この本文は刊本の白石全集の『紳書』には見えない。2、3の写本について探しましたが、皆脱落しております。近ごろ森銑三氏から無窮会蔵本の『紳書』一冊は異本というべきものであると教えられまして、辛くも一見しますと、この本文がありました。『紳書』は随筆をほしいままに記録したもので、冊数もどれほどあるものか知られておりません。したがって、伝存するものも揃ったのではなく、残欠しているらしい。どれだけ散佚しましたでしょうか。大田南畝も『紳書』で見たのではないとみえて、この本文を抄出した末に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:右は新井白石先生の随筆したものというが、本当だろうか。この文は、『遺老物語』に載っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と付記してあります。南畝は『遺老物語&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;遺老物語&#039;&#039;&#039;（いろうものがたり）』：江戸時代に編纂された戦国時代から江戸初期にかけての逸話・伝承を集めた軍記・説話集。享保十八年（1733年）、日下部（朝倉）景衡（くさかべ かげひら）によって編纂された。全20巻。戦国武将の言動や合戦の様子、当時の社会情勢などが、古老からの聞き書きや諸家の記録をもとに記されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;』で見たのでしょう。『遺老物語』はその名の如く古老からの聞き書きで、筆者は朝倉景衡なのですが、この朝倉は新井白石の妻女の弟だと聞いている。それで『紳書』もしくは『退私録&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;退私録&#039;&#039;&#039;（たいしろく）』：江戸時代中期の政治家・儒学者である新井白石（あらい はくせき）による随筆・記録集。全三巻＋付録。&amp;lt;/ref&amp;gt;』の記載と『遺老物語』の中の『老談一言記&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;老談一言記&#039;&#039;&#039;（ろうだんいちごんき）』：江戸時代中期に編纂された戦国時代から江戸初期の逸話集。新井白石・編、朝倉景衡・記。主に戦国武将や江戸初期の人物に関する逸話、古老からの聞き書きを収める。『遺老物語』の一部として扱われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;』――安松のこともこの『老談一言記』にあるのですが――『老談一言記』の記載とは、話が同じであるのみならず、文章も少々文字に出入りがあるだけで同文と申してよろしいようなのがたくさんある。それゆえに、白石は朝倉景衡から聞いて書いたようにも思われる。というのは、『遺老物語』には本多正信の一族の本多加信という人がありまして、その人の話を多く書いてある。加信は正信の相談相手であったといいますから、慶長・元和の遺老で長命な人でもあり、一生どこへも仕えず、晩年は屋敷住まいではなく、気楽に市街地で暮らされた。そこでだれかれが加信老人の今昔談を聞きに出かけたらしい。あの『松永道斎聞書』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;松永道斎聞書&#039;&#039;&#039;（まつながどうさいききがき）』：江戸時代初期の医師・儒学者である松永道斎（松永昌三）が、戦国時代の逸話や古老の話を記録した書物。&amp;lt;/ref&amp;gt;も加信老人の話を書いたものなのですが、それの下巻にある35話のうち、28話までが朝倉景衡の『遺老物語』にも書いてある。そこから見て、安松のことは、加信老人が古い話の外に、新しい方の話として、景衡に聞かせたのではあるまいかと思われる。そうした臆測は余計なことのようでもあるが、安松の業績を伝えた野火止用水路開削の話はどこから何として出てきたかを吟味する必要がある。『紳書』にしても、『遺老物語』にしても、当事者から聞いたのでもなく、当時の記録によったのでもない以上は、事蹟を正しく伝えがたい。間違いも生じやすいわけである。今日、松平伊豆守信綱の子孫である子爵・大河内正敏家に、資料とすべき何ものもない。今日ないのではない。昔からないのである。安松金右衛門の相続人の手には、系図さえないほどであるから仕方もない。ただし、この方は、昔から何もないのか否か、それはわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:吉田侯（今の松平伊豆守信順、寺社奉行）の家に、祖先信綱執政のとき、御機密の日記数冊あり、子孫といえども見ることができず、代々直封で、この侯家に収められている。侯家でも格別大切なものであるから火災をはばかり、箱崎の別邸は河辺で火が遠いところだからといってこれをおさめる小倉を建てて入れておいたが、この3月21日の災にこの庫にも火が入って、その旧記が失われてしまったのは惜しむべきことではないか。また聞くところ、この庫、守る人がいたが、火災のとき、己の私財を庫の中に収めていたものも焼亡したという。これも、ものには数があって、尽きるときが来たらどうしようもない。&lt;br /&gt;
:また聞いたことだが、伊豆守の家臣の某が嘆息して言うには、この秘冊は家の世襲の宝であるが、子々孫々見ることもできないのであれば、焼けてなくなったのも時が来たのであり、惜しむものでもないという。まことにそういうものかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは平戸侯松浦静山の書かれた『甲子夜話続編』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;甲子夜話続編&#039;&#039;&#039;（かっしやわ ぞくへん）』：江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山（まつら せいざん）による膨大な随筆集『甲子夜話』の続きにあたる部分。『甲子夜話』（正編）100巻に加え、この『続編』も100巻、さらに『三編』78巻。&amp;lt;/ref&amp;gt;の記載で、文政十二年の火災に三州〔三河〕吉田の殿様であった信綱の後人・伊豆守信順の別邸が焼けて、倉庫に秘め置いていた仙台の記録が灰燼になってしまったというのであるが、同書はそれに続けて『武功雑記』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;武功雑記&#039;&#039;&#039;（ぶこうざつき）』：江戸時代前期に成立した、戦国時代から江戸初期にかけての軍事・武家社会の逸話集。松浦鎮信著。&amp;lt;/ref&amp;gt;（平戸藩祖松浦鎮信の書かれたもの）の中から抄出して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守殿死去前3日、子息たちへ申されるには、「それがし、大猷院（家光）幕下の厚恩をこうむったこと、たとえることもできない。御意安く思し召し上げられ、御自筆で御用のことを仰せ下された御書が幾多ある。これを残しておけば子孫の末々までも珍宝ということができよう。しかし、思慮をめぐらせれば、もし後世にいたってよそへ散乱して、御書の趣に評価を加え、難ずるようなことがあれば、これはそれがしが残しておいたゆえに起こって、まことに大きな不忠、冥加に尽きる（神仏に見放される）ことであるから、御書を火中に入れて焼いて灰とし、袋に入れてそれがしの死骸の頭にかけて埋めるように」というのが遺言であった。これによって、豆州（伊豆守）死後、甲州侯（嗣子 甲斐守輝綱）弟たちがあるところでこの御書を薬缶に入れて火で焼き、おのおの一目でもみないように頭を振って敬って灰とし、その灰を袋に入れて、豆州の死骸の首にかけさせて葬られたとのこと。右前記した吉田侯古冊の中でもまた秘密のものであるのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。信綱が遺言して機密文書を処分したことは、『翁草』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;翁草&#039;&#039;&#039;（おきなぐさ）』：江戸時代後期に編纂された、日本最大級の随筆集。京都の町奉行所に勤める与力、神沢杜口（かんざわ とこう）著。本編200巻。役所の記録や古老の聞き書きを丹念に集め、先行資料を引用しつつ、独自の視点で整理している。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも『永夜茗談』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;永夜茗談&#039;&#039;&#039;（えいやめいだん）』：江戸時代中期に成立した、戦国から江戸初期の逸話集。源長親（通称　三上長親）著、成立は17世紀末～18世紀初頭。主に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑や、その周辺の武将たちの功名話、機転の利いた逸話を収めている。&amp;lt;/ref&amp;gt;を抜粋してあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守臨終の時、公方家御自筆のもの、残らず大きな桶に水を入れ、よく浸して、そこで火に焼き、右の灰を袋に入れ、首にかけて終わらせたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そうすると、信綱の亡くなった寛文二年三月十六日に、早くすでに一部の書類は焼いてしまっていた。それでも家光自筆以外の機密書類は残っていたが、一切見ることを許さなかった。見せないということはよく遂行されたと見えて、寛延元年に吉田藩士奥村保之の編著した『事語継志録』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;事語継志録&#039;&#039;&#039;（じごけいしろく）』：松平伊豆守信綱の言行録。著者・奥村保之（おくむら やすゆき）は、信綱の5代後の子孫にあたる三河吉田藩主・松平信礼（のぶのり）の教育係を務めた。主君である信礼に、信綱の優れた言行を学ばせ、藩主としての心構え（輔導）の一助とするため、信綱の政治的な判断や日常生活の逸話、教訓などをまとめたもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;を見ても、多くは道聴塗説（聞きかじった知識を理解していないまま、他人に受け売りすること）を採ったもので、中には甚だしい間違いさえ麗々しく書き立ててある。そうして、逸しがたい玉川上水開削のことや、武蔵野墾拓のことは全く書いていない。もし残存する書類を多少とも参照するならば、あれほどあやしいものができることはなかっただろう。けれどもその家の禁制によって、古記旧冊は見せないといえば、当然、『事語継志録』のようなものも出てくることになる。『松平豆州言行録』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;松平豆州言行録&#039;&#039;&#039;（まつだいらずしゅうげんこうろく）』：別名『知恵伊豆公言行録』。松平伊豆守信綱の逸話や訓戒をまとめた書物。&amp;lt;/ref&amp;gt;というものもありますが、これとても『事語継志録』と同様なもので、往々信じがたいところがある。あれほど名高い松平信綱に、ほとんど安心して読める伝記がないということも意外なことではありますが、臨終の心がけからいえば、むしろ自分の働いた跡形などの残らないのを望んだのでしょう。しかし、その心がけが史上の欠落となって、松平信綱に関係する大小の事柄というものがすべて知られないものが多くなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて野火止用水、野火止はただ今では埼玉県入間郡&amp;lt;ref&amp;gt;この当時、大和田町は入間郡ではなく[[北足立郡]]に属しており、誤りである。&amp;lt;/ref&amp;gt;[[大和田町]]の一字になっておりますが、寛永十六年正月、信綱が川越城主6万石に封ぜられたころの野火止は、新座郡であった。ついで正保四年7月、常陸国新治郡・武蔵国埼玉郡の両郡の中で1万5000石加増され、7万5000石の大名になったのであるが、この5000石は特に願って無高の地、すなわち未墾の原野を拝領したという。そうであればこのころすでに武蔵野開墾の腹案があったのであろう。藩翰譜には川越侯の石高を7万石と書いてあるのも、5000石というものは未墾の土地であるから本高へ加えなかったのであろう。川越侯の代官・小幡助右衛門が1万石開発の案を立てたというのもこの頃のことであろうが、『野火止宿開発根本之覚書』には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武州新倉郡野火止宿開発、承応元年巳年に始まり、当酉の年まで52年になります。美濃守様（柳沢吉保）御拝領以後、新座と号す。いにしえ伊豆守様（松平信綱）が新田に御取り立てあそばされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。ここに承応元年巳年というのは間違いであろう。元年（1652年）は壬辰、二年（1653年）は癸巳、巳年ならば2年でなければならない。川越の旧家榎本氏に伝わる祖先の書いた榎本弥五右衛門&amp;lt;ref&amp;gt;榎本弥左衛門の誤り。榎本弥左衛門忠重は武蔵国川越の商人である｡寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『万之覚』にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武蔵野火留新田、同巳の春中より同8月中まで、54～55間の家ができました。家1間に金2両米1俵ずつ、御貸を成らされますと承りました。但　伊豆守様より。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうある。これはたしかに承応2年のところに書いてある。このとき、川越侯は新たに農民を野火止に移して、費用を貸して開墾させ始めた。それも人里遠い未墾原野でなく、在来の村落に近い野火止から武蔵野開発を始めたのである。野火止には今日にも水田がない。すぐ隣の大和田には水田がある。それは梁瀬川の水で十分灌漑に足りる。けれども野火止にはまったく灌漑すべき水がないのであった。それで畑ばかりの集落なのである。野火止は灌漑用水がないのみならず、飲料水にも事欠いた。井戸がない。井戸を掘っても水が容易に得られないのは当所に限ったことではなく、武蔵野一帯のことではあるが、新墾によって農村を取り立てようとするのに、住民の飲料水がなくては、いかんともしがたい。人間にこれほどの差し支えはない。武蔵野開発の成否はまったく、飲料水供給の一途にかかることだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　明暦元年3月、ついに野火止用水路が開通した。これは灌漑用として与えられたのではなく、野火止村の飲料水として玉川上水を分けたもので、玉川上水の分水口は30あまりもあるが、その一番早いのは野火止への分水であって、明暦の時期にはまだ他の分水はなかった。&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*01]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門/01</title>
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		<updated>2026-03-14T12:06:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚 著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』の現代語訳　第一章  （現代語訳：利用者:シラキのコホリのツカサ）  ==その一　紳書の誤謬==  　安松金右衛門といっても知っている者は少ない。その名を知られたのは、彼の事蹟が国定教科書に収録されて小学校の子供らが読み立てるので、ようやく世間に覚えられるようになったが…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚 著『&#039;&#039;&#039;[[玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&#039;&#039;&#039;』の現代語訳　第一章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語訳：[[利用者:シラキのコホリのツカサ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その一　紳書の誤謬==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　[[安松金右衛門]]といっても知っている者は少ない。その名を知られたのは、彼の事蹟が国定教科書に収録されて小学校の子供らが読み立てるので、ようやく世間に覚えられるようになったが、その人は東京市民が毎日汲んで飲んでいる玉川上水の設計者であるから、実に市民にとって大恩人である。彼の功労に対しては片時も報恩の意を欠いてはならない。それほど大切な安松金右衛門の名も、一向に市民に聞こえてもおらず、その事蹟もほとんど知られていない。しかもその小話が間違っているに至っては、なんとも申しようもないことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さしあたって安松金右衛門の伝記について、まず国定教科書の誤謬から正してかかりたいと思う。そもそも安松金右衛門の事蹟が国定教科書に収録されたのは、先年、明治天皇の思し召しによって、宮内省から『幼学綱要&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;幼学綱要&#039;&#039;&#039;（ようがくこうよう）』：明治時代初期に作られた子供向けの道徳教育書（倫理教科書）。明治天皇の侍講（教育係）であった儒学者の元田永孚（もとだ ながざね）が中心となって編纂し、明治十五年（1882年）に宮内省から発行された。全7巻。「孝行」「友愛」「信義」など20の徳目について、中国や日本の古典・物語から具体的な事例（逸話）を引用して解説している。&amp;lt;/ref&amp;gt;』という本を府県の師範学校へあまねく頒賜されました。その『幼学綱要』の中に、安松金右衛門の野火止用水路開削のことが書いてあります。それから四十何年かの後に、国定教科書へ同じ話を収録するようになったことと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その野火止用水路開削の話は、新井白石の『紳書&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;紳書&#039;&#039;&#039;（しんしょ）』：江戸中期の儒学者、新井白石（あらい はくせき）が著した全10巻の随筆集。自身の見聞や古事、制度、風俗など多岐にわたる内容を記したもので、当時の学術的・文化的な資料として非常に価値が高いとされている。『白石先生紳書』『白石紳書』とも呼ばれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;』によって伝わったように思われます。『紳書』は白石が見聞するままに書いておいたもので、安松金右衛門のことは誰から聞いたのかわかりませんが、こう書いてございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守信綱の代官に安松金右衛門という者がいる。伊豆守の領分、野火止というところに多摩川の流れを引いたならば開発できる田地があるだろうかどうだろうか、と問われて、いかにもよろしいという旨のことを申し、およそ黄金3000両を費やすことになるでしょうと申し上げた。伊豆守が聞いて、「私がここを領していても、またどこかへ移るかもしれない。私が3000両の黄金を費やして、永くこの地に利益があるとすれば、これも公儀への方向の一つである」ということで、安松に命じて、多摩川の水を引こうとし、16里ほど、溝を掘って、新河岸というところに至った。こうして水流が入るかと待っていると、さらに水が来ないまま1年を経た。伊豆守は安松を召して、「どうして水が入らないのか」と問うと、「きっと水が入るはずです。何についても理由があると思います」という。その理由は何かと問われて、「いまだその理由がわかりません」と答えた。次の年にも水が入らなかった。また安松を召して尋ね問うたが、「それは入るはずのものでありますが、このようになっていることは返す返すも不審です。ただし、この地は武蔵野ですが、およそ川越城下の人、いつも畳の上に渋紙など敷いておき、客が来れば巻いてもてなしています。これは地が乾いて、しかも風が常に吹くため、たちまち座中が塵・ほこりに埋もれてしまうからです。しかし、今年は城下のちり・ほこりが昔のようではなく、ことに武蔵野に植えた畑ものは今年は豊かであるのは今までに覚えのないことです。多摩川からこの溝に流れ入る水を広い野に引いておりますから、未だ流れ来るほどのことがなくても、この水が広野に満ち満ちた後には必ず流れが来るべきものと存じます」と答えた。羽生又右衛門という代官がこのあたりを司っていたので、その後召尋ねられて、「それですが、今年ほど野に植えたいろいろなものが豊かなことは知りません」と申し上げたので、伊豆守はそれ以上言うこともなかった。次の年にも水が来なかった。このとき安松を召して訪ねられたが、前年のように答えたので、「お前が地の高下を明らかにしたかったために水が流れるのに堪えていないのではないか」と言われたが、おどろく気配もなかった。三年目の秋、大雨が降った後に、雷が鳴るような水音が大きくとどろいて、この溝にあふれ満ちて平地をも水が行くうちに、6～7寸ほどある鮎が流れてくることもおびただしい。ただ一時に16里ほどに流れ渡って、新河岸の川に流れ入った。そうして田地も開けて、野火止200石の地がたちまちに2000石の地となった。伊豆守は安松を召して「ここ数年、お前を責めたが、最後まで驚くことなく、重ねて溝を修そうともしなかったことは神妙に思われるな」と、一倍の禄を賜り、350石になされたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この本文は刊本の白石全集の『紳書』には見えない。2、3の写本について探しましたが、皆脱落しております。近ごろ森銑三氏から無窮会蔵本の『紳書』一冊は異本というべきものであると教えられまして、辛くも一見しますと、この本文がありました。『紳書』は随筆をほしいままに記録したもので、冊数もどれほどあるものか知られておりません。したがって、伝存するものも揃ったのではなく、残欠しているらしい。どれだけ散佚しましたでしょうか。大田南畝も『紳書』で見たのではないとみえて、この本文を抄出した末に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:右は新井白石先生の随筆したものというが、本当だろうか。この文は、『遺老物語』に載っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と付記してあります。南畝は『遺老物語&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;遺老物語&#039;&#039;&#039;（いろうものがたり）』：江戸時代に編纂された戦国時代から江戸初期にかけての逸話・伝承を集めた軍記・説話集。享保十八年（1733年）、日下部（朝倉）景衡（くさかべ かげひら）によって編纂された。全20巻。戦国武将の言動や合戦の様子、当時の社会情勢などが、古老からの聞き書きや諸家の記録をもとに記されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;』で見たのでしょう。『遺老物語』はその名の如く古老からの聞き書きで、筆者は朝倉景衡なのですが、この朝倉は新井白石の妻女の弟だと聞いている。それで『紳書』もしくは『退私録&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;退私録&#039;&#039;&#039;（たいしろく）』：江戸時代中期の政治家・儒学者である新井白石（あらい はくせき）による随筆・記録集。全三巻＋付録。&amp;lt;/ref&amp;gt;』の記載と『遺老物語』の中の『老談一言記&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;老談一言記&#039;&#039;&#039;（ろうだんいちごんき）』：江戸時代中期に編纂された戦国時代から江戸初期の逸話集。新井白石・編、朝倉景衡・記。主に戦国武将や江戸初期の人物に関する逸話、古老からの聞き書きを収める。『遺老物語』の一部として扱われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;』――安松のこともこの『老談一言記』にあるのですが――『老談一言記』の記載とは、話が同じであるのみならず、文章も少々文字に出入りがあるだけで同文と申してよろしいようなのがたくさんある。それゆえに、白石は朝倉景衡から聞いて書いたようにも思われる。というのは、『遺老物語』には本多正信の一族の本多加信という人がありまして、その人の話を多く書いてある。加信は正信の相談相手であったといいますから、慶長・元和の遺老で長命な人でもあり、一生どこへも仕えず、晩年は屋敷住まいではなく、気楽に市街地で暮らされた。そこでだれかれが加信老人の今昔談を聞きに出かけたらしい。あの『松永道斎聞書』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;松永道斎聞書&#039;&#039;&#039;（まつながどうさいききがき）』：江戸時代初期の医師・儒学者である松永道斎（松永昌三）が、戦国時代の逸話や古老の話を記録した書物。&amp;lt;/ref&amp;gt;も加信老人の話を書いたものなのですが、それの下巻にある35話のうち、28話までが朝倉景衡の『遺老物語』にも書いてある。そこから見て、安松のことは、加信老人が古い話の外に、新しい方の話として、景衡に聞かせたのではあるまいかと思われる。そうした臆測は余計なことのようでもあるが、安松の業績を伝えた野火止用水路開削の話はどこから何として出てきたかを吟味する必要がある。『紳書』にしても、『遺老物語』にしても、当事者から聞いたのでもなく、当時の記録によったのでもない以上は、事蹟を正しく伝えがたい。間違いも生じやすいわけである。今日、松平伊豆守信綱の子孫である子爵・大河内正敏家に、資料とすべき何ものもない。今日ないのではない。昔からないのである。安松金右衛門の相続人の手には、系図さえないほどであるから仕方もない。ただし、この方は、昔から何もないのか否か、それはわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:吉田侯（今の松平伊豆守信順、寺社奉行）の家に、祖先信綱執政のとき、御機密の日記数冊あり、子孫といえども見ることができず、代々直封で、この侯家に収められている。侯家でも格別大切なものであるから火災をはばかり、箱崎の別邸は河辺で火が遠いところだからといってこれをおさめる小倉を建てて入れておいたが、この3月21日の災にこの庫にも火が入って、その旧記が失われてしまったのは惜しむべきことではないか。また聞くところ、この庫、守る人がいたが、火災のとき、己の私財を庫の中に収めていたものも焼亡したという。これも、ものには数があって、尽きるときが来たらどうしようもない。&lt;br /&gt;
:また聞いたことだが、伊豆守の家臣の某が嘆息して言うには、この秘冊は家の世襲の宝であるが、子々孫々見ることもできないのであれば、焼けてなくなったのも時が来たのであり、惜しむものでもないという。まことにそういうものかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは平戸侯松浦静山の書かれた『甲子夜話続編』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;甲子夜話続編&#039;&#039;&#039;（かっしやわ ぞくへん）』：江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山（まつら せいざん）による膨大な随筆集『甲子夜話』の続きにあたる部分。『甲子夜話』（正編）100巻に加え、この『続編』も100巻、さらに『三編』78巻。&amp;lt;/ref&amp;gt;の記載で、文政十二年の火災に三州〔三河〕吉田の殿様であった信綱の後人・伊豆守信順の別邸が焼けて、倉庫に秘め置いていた仙台の記録が灰燼になってしまったというのであるが、同書はそれに続けて『武功雑記』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;武功雑記&#039;&#039;&#039;（ぶこうざつき）』：江戸時代前期に成立した、戦国時代から江戸初期にかけての軍事・武家社会の逸話集。松浦鎮信著。&amp;lt;/ref&amp;gt;（平戸藩祖松浦鎮信の書かれたもの）の中から抄出して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守殿死去前3日、子息たちへ申されるには、「それがし、大猷院（家光）幕下の厚恩をこうむったこと、たとえることもできない。御意安く思し召し上げられ、御自筆で御用のことを仰せ下された御書が幾多ある。これを残しておけば子孫の末々までも珍宝ということができよう。しかし、思慮をめぐらせれば、もし後世にいたってよそへ散乱して、御書の趣に評価を加え、難ずるようなことがあれば、これはそれがしが残しておいたゆえに起こって、まことに大きな不忠、冥加に尽きる（神仏に見放される）ことであるから、御書を火中に入れて焼いて灰とし、袋に入れてそれがしの死骸の頭にかけて埋めるように」というのが遺言であった。これによって、豆州（伊豆守）死後、甲州侯（嗣子 甲斐守輝綱）弟たちがあるところでこの御書を薬缶に入れて火で焼き、おのおの一目でもみないように頭を振って敬って灰とし、その灰を袋に入れて、豆州の死骸の首にかけさせて葬られたとのこと。右前記した吉田侯古冊の中でもまた秘密のものであるのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。信綱が遺言して機密文書を処分したことは、『翁草』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;翁草&#039;&#039;&#039;（おきなぐさ）』：江戸時代後期に編纂された、日本最大級の随筆集。京都の町奉行所に勤める与力、神沢杜口（かんざわ とこう）著。本編200巻。役所の記録や古老の聞き書きを丹念に集め、先行資料を引用しつつ、独自の視点で整理している。&amp;lt;/ref&amp;gt;にも『永夜茗談』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;永夜茗談&#039;&#039;&#039;（えいやめいだん）』：江戸時代中期に成立した、戦国から江戸初期の逸話集。源長親（通称　三上長親）著、成立は17世紀末～18世紀初頭。主に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑や、その周辺の武将たちの功名話、機転の利いた逸話を収めている。&amp;lt;/ref&amp;gt;を抜粋してあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:松平伊豆守臨終の時、公方家御自筆のもの、残らず大きな桶に水を入れ、よく浸して、そこで火に焼き、右の灰を袋に入れ、首にかけて終わらせたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そうすると、信綱の亡くなった寛文二年三月十六日に、早くすでに一部の書類は焼いてしまっていた。それでも家光自筆以外の機密書類は残っていたが、一切見ることを許さなかった。見せないということはよく遂行されたと見えて、寛延元年に吉田藩士奥村保之の編著した『事語継志録』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;事語継志録&#039;&#039;&#039;（じごけいしろく）』：松平伊豆守信綱の言行録。著者・奥村保之（おくむら やすゆき）は、信綱の5代後の子孫にあたる三河吉田藩主・松平信礼（のぶのり）の教育係を務めた。主君である信礼に、信綱の優れた言行を学ばせ、藩主としての心構え（輔導）の一助とするため、信綱の政治的な判断や日常生活の逸話、教訓などをまとめたもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;を見ても、多くは道聴塗説（聞きかじった知識を理解していないまま、他人に受け売りすること）を採ったもので、中には甚だしい間違いさえ麗々しく書き立ててある。そうして、逸しがたい玉川上水開削のことや、武蔵野墾拓のことは全く書いていない。もし残存する書類を多少とも参照するならば、あれほどあやしいものができることはなかっただろう。けれどもその家の禁制によって、古記旧冊は見せないといえば、当然、『事語継志録』のようなものも出てくることになる。『松平豆州言行録』&amp;lt;ref&amp;gt;『&#039;&#039;&#039;松平豆州言行録&#039;&#039;&#039;（まつだいらずしゅうげんこうろく）』：別名『知恵伊豆公言行録』。松平伊豆守信綱の逸話や訓戒をまとめた書物。&amp;lt;/ref&amp;gt;というものもありますが、これとても『事語継志録』と同様なもので、往々信じがたいところがある。あれほど名高い松平信綱に、ほとんど安心して読める伝記がないということも意外なことではありますが、臨終の心がけからいえば、むしろ自分の働いた跡形などの残らないのを望んだのでしょう。しかし、その心がけが史上の欠落となって、松平信綱に関係する大小の事柄というものがすべて知られないものが多くなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて野火止用水、野火止はただ今では埼玉県入間郡&amp;lt;ref&amp;gt;この当時、大和田町は入間郡ではなく[[北足立郡]]に属しており、誤りである。&amp;lt;/ref&amp;gt;[[大和田町]]の一字になっておりますが、寛永十六年正月、信綱が川越城主6万石に封ぜられたころの野火止は、新座郡であった。ついで正保四年7月、常陸国新治郡・武蔵国埼玉郡の両郡の中で1万5000石加増され、7万5000石の大名になったのであるが、この5000石は特に願って無高の地、すなわち未墾の原野を拝領したという。そうであればこのころすでに武蔵野開墾の腹案があったのであろう。藩翰譜には川越侯の石高を7万石と書いてあるのも、5000石というものは未墾の土地であるから本高へ加えなかったのであろう。川越侯の代官・小幡助右衛門が1万石開発の案を立てたというのもこの頃のことであろうが、『野火止宿開発根本之覚書』には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武州新倉郡野火止宿開発、承応元年巳年に始まり、当酉の年まで52年になります。美濃守様（柳沢吉保）御拝領以後、新座と号す。いにしえ伊豆守様（松平信綱）が新田に御取り立てあそばされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。ここに承応元年巳年というのは間違いであろう。元年（1652年）は壬辰、二年（1653年）は癸巳、巳年ならば2年でなければならない。川越の旧家榎本氏に伝わる祖先の書いた榎本弥五右衛門&amp;lt;ref&amp;gt;榎本弥左衛門の誤り。榎本弥左衛門忠重は武蔵国川越の商人である｡寛永二年に生まれ貞享三年六十二歳で没した。寛永のころ、『万之覚』または『万覚書』を記した。&amp;lt;/ref&amp;gt;『万之覚』にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:武蔵野火留新田、同巳の春中より同8月中まで、54～55間の家ができました。家1間に金2両米1俵ずつ、御貸を成らされますと承りました。但　伊豆守様より。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうある。これはたしかに承応2年のところに書いてある。このとき、川越侯は新たに農民を野火止に移して、費用を貸して開墾させ始めた。それも人里遠い未墾原野でなく、在来の村落に近い野火止から武蔵野開発を始めたのである。野火止には今日にも水田がない。すぐ隣の大和田には水田がある。それは梁瀬川の水で十分灌漑に足りる。けれども野火止にはまったく灌漑すべき水がないのであった。それで畑ばかりの集落なのである。野火止は灌漑用水がないのみならず、飲料水にも事欠いた。井戸がない。井戸を掘っても水が容易に得られないのは当所に限ったことではなく、武蔵野一帯のことではあるが、新墾によって農村を取り立てようとするのに、住民の飲料水がなくては、いかんともしがたい。人間にこれほどの差し支えはない。武蔵野開発の成否はまったく、飲料水供給の一途にかかることだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　明暦元年3月、ついに野火止用水路が開通した。これは灌漑用として与えられたのではなく、野火止村の飲料水として玉川上水を分けたもので、玉川上水の分水口は30あまりもあるが、その一番早いのは野火止への分水であって、明暦の時期にはまだ他の分水はなかった。&lt;br /&gt;
{{玉川上水の建設者 安松金右衛門}}&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者 安松金右衛門|*01]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=248</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門</title>
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		<updated>2026-03-14T12:06:38Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚著『&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））は、玉川上水・[[野火止用水]]の建設者である[[安松金右衛門]]の本当の業績を現代に伝えようとした書籍である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著者・三田村鳶魚==&lt;br /&gt;
三田村鳶魚（みたむら えんぎょ）（1870年〜1952年）は、「江戸学の祖」や「生きた江戸の百科事典」と称される時代考証家である。&lt;br /&gt;
* 徹底した考証主義：新聞記者を経て研究に専念し、膨大な文献調査とフィールドワークによって「嘘の江戸」を排除しようとした。&lt;br /&gt;
* 時代小説への厳しい批判: 吉川英治などの大衆作家に対し、史実や風俗の誤りを容赦なく指摘したことで、当時の作家たちからは恐れられる存在だった。&lt;br /&gt;
* 在野の精神: 大学などのアカデミズムに属さず、生涯「町学者」として江戸の武家から市井の生活文化まで幅広く研究し続けた。&lt;br /&gt;
* 膨大な著作は『三田村鳶魚全集』（全28巻）にまとめられており、現在も時代考証の基本文献として重宝されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現代語訳==&lt;br /&gt;
ここでは、全文を現代語訳して掲載する。現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三田村鳶魚著&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
電通出版部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===小引===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　徳川一世（家康）が天正十八年（1590年）8月朔日、初めて江戸城に入って以来、承応二年（1653年）まで60余年の間、江戸に住む限り、市民のみならず諸大名もみなことごとく飲料水に困りました。慶長になりまして、江戸城の修築が成り、市街地の町割りもできて、住民がだんだん増えてまいりましても、土地柄として井戸を掘っても、よい水が得られません。徳川一世は早く神田上水をこしらえさせましたけれども、膨脹が急な新都市のにわかに増加する人々の飲料をいかんともし難い。江戸は慶長五年（1600年）から京都、大阪と並んで三大都市と言われておりましたが、飲料水についての悩みは、日ごとに激しくなるばかりでありました。幕府として新都市の他の計画は着々成功して、江戸を装備し、整頓させましたが、市民生活というよりも、むしろ人間生存の大前提である飲料水の供給に欠けていることは、何よりも先に、何よりも急ぐべきことであるのに、これが欠如していました。それは新都市の成立を危うくするものであり、江戸の発達を望めないことにもなりますので、将軍の威勢、幕府の面目にかけても適当な方策を立てなければならないので、老中以下の役人もいたずらに焦慮するだけで、何分対策が得られませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府は四代がかり、家康・秀忠・家光・家綱、家綱将軍の時に、江戸町奉行・神尾備前守の斡旋によって、玉川庄右衛門・清右衛門の申し立てを得ました。玉川両人は玉川が上水に足りることを知り、羽村から四谷大木戸までの上水路を設計して上申したのです。幕府はすぐに採用し、閣老・[[松平伊豆守信綱]]を総奉行とし、伊奈半右衛門を奉行として、早速工事を起こさせました。玉川両人は工事を請けて提案の通りに開削しましたが、設計が不備であったために堀に水が流れません。そこで再び設計して工事を進めましたが、またしても水が通りません。再度の失敗で玉川上水計画は廃案になりそうでした。そのとき、松平信綱はせっかくの計画であるこの玉川上水案を放棄するのを残念に思われ、また江戸には上水で飲料を供給するよりほかに方法がなく、玉川からであれば豊富な分量も得られて、江戸に住む上下の人々も日頃の苦悩を免れることでもあり、ことに四代がかりの幕府の人生であるから、是非とも上水道開通に成功したいと希望されました。自分の家来に安松金右衛門という水利に達した者がいるので、その安松に命じて新たに玉川上水路の設計をさせ、首尾よく全国無二の長距離、大規模な工事を完成させ、信綱の三大まつりごとの一つに数えられる偉業を残しました。信綱は、また宿願であった武蔵野開墾も実現し、多大な新開拓地を得て、自分の領地だけでなく、幕府の直轄領および他領にも多くの農村を創設することができました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　主人信綱に民政上の手柄を立てさせた玉川上水の設計者・安松金右衛門は、旦那に手柄をさせたのは俺だと吹聴するどころか、そんな心持ちさえ持たない人物。忠義をいたしましたと口へ出すようなら決して忠臣ではありません。宣伝ということも自己宣伝になってしまえば醜態を極めます。信綱も自分の功績を知られないようにする心がけがありましたが、安松も同様な心持ちでありまして、実に奥ゆかしい武士なのでした。それゆえに、我々が朝となく夕となく汲んで飲んでいる玉川上水、承応二年から昭和の今日（※昭和十七年＝1942年）までは310年、江戸をまたいで東京、父祖代々受容しており、現に市民677万8804人の命を救っております。将来いかなる水道ができましても、この玉川上水をしのぐほどのものはありますまい。もしできたとしても玉川上水を除くことはない。過去・現在・未来にわたって、玉川上水の恩恵はまことに東京市民に尽きないものと存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この広大長遠な恩恵を東京市民に受けさせた安松金右衛門。安松がいなければ信綱が何と思われたところで、玉川上水は廃案になるよりほかなかったでしょう。その安松金右衛門の事蹟はもちろん、彼の名をすら知っている人が全市に幾人いるでしょうか。東京も七十余年でできたのではない。今日までどれほどの先人の苦労を積んでこしらえ上げたものでしょうか。自分の身体が祖先の先からの恩恵で育成されたように、古人の積んだ苦労がどれほど多いだろうか。我々は今更ながら、感銘を受けたままに報恩謝徳を心がけなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本書は報恩謝徳の心持ちを持って記述いたしました。筆者の思うほどに書けないのは愚文のゆえであります。十年来の心がけでこの記述をいたしましたが、資料の収集の足らぬため、不十分なのであります。私の報恩謝徳の心持ちは今後も決して衰えません。新資料を得て増補の必要を感じたときには、つとめて決行したいと存じます。特に武蔵野開墾は信綱の大仕事でもあり、今日の大東京を成す究極の事柄でもございますから、及ばずながら微力を尽くしたいと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和十七年立冬前二日（※1942年11月5日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳶魚生　しるす&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===目次===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 小引&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その一　紳書の誤謬]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/02|その二　野火止用水路]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟の失敗]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/05|その五　畑ばかりの新農村]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/06|その六　武蔵野開墾の規模]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/07|その七　引又の伊呂波樋]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/08|その八　川越運河]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/09|その九　悲しい水喰土]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/10|その十　金右衛門の経歴]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/11|その十一　宗岡の古図]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/12|その十二　玉川上水の記事]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/13|その十三　江戸っ子の自慢]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/14|その十四　江戸の穿井]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者_安松金右衛門|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=247</id>
		<title>テンプレート:玉川上水の建設者 安松金右衛門</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=247"/>
		<updated>2026-03-14T12:05:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot; |- ! 玉川上水の建設者 安松金右衛門 |- |  * その一　紳書の誤謬 * その二　野火止用水路 * その三　玉川上水の水盛 * 玉川上水の建設者_安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[玉川上水の建設者_安松金右衛門|玉川上水の建設者 安松金右衛門]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その一　紳書の誤謬]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/02|その二　野火止用水路]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/03|その三　玉川上水の水盛]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/04|その四　玉川兄弟の失敗]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/05|その五　畑ばかりの新農村]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/06|その六　武蔵野開墾の規模]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/07|その七　引又の伊呂波樋]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/08|その八　川越運河]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/09|その九　悲しい水喰土]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/10|その十　金右衛門の経歴]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/11|その十一　宗岡の古図]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/12|その十二　玉川上水の記事]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/13|その十三　江戸っ子の自慢]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/14|その十四　江戸の穿井]]&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=246</id>
		<title>玉川上水の建設者 安松金右衛門</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=246"/>
		<updated>2026-03-14T11:47:03Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「三田村鳶魚著『&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））は、玉川上水・野火止用水の建設者である安松金右衛門の本当の業績を現代に伝えようとした書籍である。  ==著者・三田村鳶魚== 三田村鳶魚（みたむら えんぎょ）（1870年〜1952年）は、「江戸学の祖」や「生きた江戸の百科事典」と称される時代考証…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;三田村鳶魚著『&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;』（電通出版部　昭和十七年（1942年））は、玉川上水・[[野火止用水]]の建設者である[[安松金右衛門]]の本当の業績を現代に伝えようとした書籍である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著者・三田村鳶魚==&lt;br /&gt;
三田村鳶魚（みたむら えんぎょ）（1870年〜1952年）は、「江戸学の祖」や「生きた江戸の百科事典」と称される時代考証家である。&lt;br /&gt;
* 徹底した考証主義：新聞記者を経て研究に専念し、膨大な文献調査とフィールドワークによって「嘘の江戸」を排除しようとした。&lt;br /&gt;
* 時代小説への厳しい批判: 吉川英治などの大衆作家に対し、史実や風俗の誤りを容赦なく指摘したことで、当時の作家たちからは恐れられる存在だった。&lt;br /&gt;
* 在野の精神: 大学などのアカデミズムに属さず、生涯「町学者」として江戸の武家から市井の生活文化まで幅広く研究し続けた。&lt;br /&gt;
* 膨大な著作は『三田村鳶魚全集』（全28巻）にまとめられており、現在も時代考証の基本文献として重宝されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現代語訳==&lt;br /&gt;
ここでは、全文を現代語訳して掲載する。現代語訳＝[[利用者:シラキのコホリのツカサ|シラキのコホリのツカサ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;玉川上水の建設者 安松金右衛門&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三田村鳶魚著&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
電通出版部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===小引===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　徳川一世（家康）が天正十八年（1590年）8月朔日、初めて江戸城に入って以来、承応二年（1653年）まで60余年の間、江戸に住む限り、市民のみならず諸大名もみなことごとく飲料水に困りました。慶長になりまして、江戸城の修築が成り、市街地の町割りもできて、住民がだんだん増えてまいりましても、土地柄として井戸を掘っても、よい水が得られません。徳川一世は早く神田上水をこしらえさせましたけれども、膨脹が急な新都市のにわかに増加する人々の飲料をいかんともし難い。江戸は慶長五年（1600年）から京都、大阪と並んで三大都市と言われておりましたが、飲料水についての悩みは、日ごとに激しくなるばかりでありました。幕府として新都市の他の計画は着々成功して、江戸を装備し、整頓させましたが、市民生活というよりも、むしろ人間生存の大前提である飲料水の供給に欠けていることは、何よりも先に、何よりも急ぐべきことであるのに、これが欠如していました。それは新都市の成立を危うくするものであり、江戸の発達を望めないことにもなりますので、将軍の威勢、幕府の面目にかけても適当な方策を立てなければならないので、老中以下の役人もいたずらに焦慮するだけで、何分対策が得られませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　幕府は四代がかり、家康・秀忠・家光・家綱、家綱将軍の時に、江戸町奉行・神尾備前守の斡旋によって、玉川庄右衛門・清右衛門の申し立てを得ました。玉川両人は玉川が上水に足りることを知り、羽村から四谷大木戸までの上水路を設計して上申したのです。幕府はすぐに採用し、閣老・[[松平伊豆守信綱]]を総奉行とし、伊奈半右衛門を奉行として、早速工事を起こさせました。玉川両人は工事を請けて提案の通りに開削しましたが、設計が不備であったために堀に水が流れません。そこで再び設計して工事を進めましたが、またしても水が通りません。再度の失敗で玉川上水計画は廃案になりそうでした。そのとき、松平信綱はせっかくの計画であるこの玉川上水案を放棄するのを残念に思われ、また江戸には上水で飲料を供給するよりほかに方法がなく、玉川からであれば豊富な分量も得られて、江戸に住む上下の人々も日頃の苦悩を免れることでもあり、ことに四代がかりの幕府の人生であるから、是非とも上水道開通に成功したいと希望されました。自分の家来に安松金右衛門という水利に達した者がいるので、その安松に命じて新たに玉川上水路の設計をさせ、首尾よく全国無二の長距離、大規模な工事を完成させ、信綱の三大まつりごとの一つに数えられる偉業を残しました。信綱は、また宿願であった武蔵野開墾も実現し、多大な新開拓地を得て、自分の領地だけでなく、幕府の直轄領および他領にも多くの農村を創設することができました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　主人信綱に民政上の手柄を立てさせた玉川上水の設計者・安松金右衛門は、旦那に手柄をさせたのは俺だと吹聴するどころか、そんな心持ちさえ持たない人物。忠義をいたしましたと口へ出すようなら決して忠臣ではありません。宣伝ということも自己宣伝になってしまえば醜態を極めます。信綱も自分の功績を知られないようにする心がけがありましたが、安松も同様な心持ちでありまして、実に奥ゆかしい武士なのでした。それゆえに、我々が朝となく夕となく汲んで飲んでいる玉川上水、承応二年から昭和の今日（※昭和十七年＝1942年）までは310年、江戸をまたいで東京、父祖代々受容しており、現に市民677万8804人の命を救っております。将来いかなる水道ができましても、この玉川上水をしのぐほどのものはありますまい。もしできたとしても玉川上水を除くことはない。過去・現在・未来にわたって、玉川上水の恩恵はまことに東京市民に尽きないものと存じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この広大長遠な恩恵を東京市民に受けさせた安松金右衛門。安松がいなければ信綱が何と思われたところで、玉川上水は廃案になるよりほかなかったでしょう。その安松金右衛門の事蹟はもちろん、彼の名をすら知っている人が全市に幾人いるでしょうか。東京も七十余年でできたのではない。今日までどれほどの先人の苦労を積んでこしらえ上げたものでしょうか。自分の身体が祖先の先からの恩恵で育成されたように、古人の積んだ苦労がどれほど多いだろうか。我々は今更ながら、感銘を受けたままに報恩謝徳を心がけなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本書は報恩謝徳の心持ちを持って記述いたしました。筆者の思うほどに書けないのは愚文のゆえであります。十年来の心がけでこの記述をいたしましたが、資料の収集の足らぬため、不十分なのであります。私の報恩謝徳の心持ちは今後も決して衰えません。新資料を得て増補の必要を感じたときには、つとめて決行したいと存じます。特に武蔵野開墾は信綱の大仕事でもあり、今日の大東京を成す究極の事柄でもございますから、及ばずながら微力を尽くしたいと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和十七年立冬前二日（※1942年11月5日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳶魚生　しるす&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===目次===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 小引&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その一　紳書の誤謬]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その二　野火止用水路]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その三　玉川上水の水盛]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その四　玉川兄弟の失敗]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その五　畑ばかりの新農村]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その六　武蔵野開墾の規模]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その七　引又の伊呂波樋]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その八　川越運河]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その九　悲しい水喰土]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その十　金右衛門の経歴]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その十一　宗岡の古図]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その十二　玉川上水の記事]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その十三　江戸っ子の自慢]]&lt;br /&gt;
* [[玉川上水の建設者_安松金右衛門/01|その十四　江戸の穿井]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:玉川上水の建設者_安松金右衛門|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E8%80%85_%E5%AE%89%E6%9D%BE%E9%87%91%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&amp;diff=245</id>
		<title>カテゴリ:玉川上水の建設者 安松金右衛門</title>
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		<updated>2026-03-14T11:45:43Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「たまがわしようすいのけんせつしや」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:研究書|たまがわしようすいのけんせつしや]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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		<title>カテゴリ:研究書</title>
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		<updated>2026-03-14T11:44:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「けんきゆうしよ」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:書籍|けんきゆうしよ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%92%8C%E5%90%8D%E9%A1%9E%E8%81%9A%E6%8A%84&amp;diff=243</id>
		<title>和名類聚抄</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%92%8C%E5%90%8D%E9%A1%9E%E8%81%9A%E6%8A%84&amp;diff=243"/>
		<updated>2026-03-08T15:28:33Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: /* 国郡部第十二 東海郡第六十一 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;和名類聚抄&#039;&#039;&#039;（わみょうるいじゅうしょう）は平安時代中期に作られた辞書である。略称は&#039;&#039;&#039;和名抄&#039;&#039;&#039;（わみょうしょう）。承平年間（931年～938年）、勤子内親王が源順（みなもとのしたごう）に編纂させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[延喜式]]に続いて「[[新座郡]]」の表記が見える。また、新座郡の中に[[志木郷]]と[[余戸]]があるという記載は本書が初出となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==和名類聚抄　巻五==&lt;br /&gt;
===国郡部第十二 東海郡第六十一===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武蔵国====&lt;br /&gt;
国府在多磨郡行程上二十九日下十五日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
管二十一&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田三万五千五百七十四町七段九十六歩正公各四十万束本稲百一万三千七百五十束五把雑稲三十一万三千七百五十束五把&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*久良［久良岐］（くらき）&lt;br /&gt;
*都筑［豆々岐］（つつき）&lt;br /&gt;
*多磨［太婆国府］（たば　国府）&lt;br /&gt;
*橘樹［太知波奈］（たちはな）&lt;br /&gt;
*荏原［江波良］（えはら）&lt;br /&gt;
*豊島［止志末］（としま）&lt;br /&gt;
*足立［阿太知］（あたち）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新座郡|新座]]［爾比久良］&#039;&#039;&#039;（にひくら）&lt;br /&gt;
*入間［伊留末］（いるま）&lt;br /&gt;
*高麗［古末］（こま）&lt;br /&gt;
*比企［比岐］（ひき）&lt;br /&gt;
*横見［与古美今称吉見］（よこみ、今は吉見と称する）&lt;br /&gt;
*埼玉［佐伊太末］（さいたま）&lt;br /&gt;
*大里［於保佐止］（おほさと）&lt;br /&gt;
*男衾［乎夫須万］（をふすま）&lt;br /&gt;
*幡羅［原］（はら）&lt;br /&gt;
*榛沢［波牟佐波］（はむさは）&lt;br /&gt;
*那珂&lt;br /&gt;
*児玉［古太万］（こたま）&lt;br /&gt;
*賀美［上］（かみ）&lt;br /&gt;
*秩父［知々夫］（ちちふ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==和名類聚抄 巻六==&lt;br /&gt;
===国郡部第十二 武蔵国第八十三===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*多磨郡&lt;br /&gt;
**小川［乎加波］（をかは）&lt;br /&gt;
**川口［加波久知］（かはくち）&lt;br /&gt;
**小楊［乎也木］（をやき）&amp;lt;ref&amp;gt;高山寺本に「乎也支」、東急本に「乎也木」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
**小野［乎乃］（をの）&lt;br /&gt;
**新田［爾布多］（にふた）&lt;br /&gt;
**小島［乎之万］（をしま）&lt;br /&gt;
**海田［安万多］（あまた）&lt;br /&gt;
**石津［伊之都］（いしつ）&lt;br /&gt;
**狛江［古万江］（こまえ）&amp;lt;ref&amp;gt;高山寺本では「古万江」、東急本では「古乃江」（このえ）となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
**勢多&lt;br /&gt;
*都筑郡&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
**店屋&lt;br /&gt;
**駅家&lt;br /&gt;
**立野［多知乃］（たちの）&lt;br /&gt;
**針圻［罰佐久］（ばさく）&lt;br /&gt;
**高幡［多加波多］（たかはた）&lt;br /&gt;
**幡屋［波多乃也］（はたのや）&lt;br /&gt;
*久良郡&lt;br /&gt;
**鮎浦［布久良］（ふくら）&lt;br /&gt;
**大井［於保井］（おほゐ）&lt;br /&gt;
**服田［波止太］（はとた）&lt;br /&gt;
**星川［保之加波］（ほしかは）&lt;br /&gt;
**郡家&lt;br /&gt;
**諸岡［毛呂乎加］（もろおか）&lt;br /&gt;
**洲名［須奈］（すな）&lt;br /&gt;
**良椅［与之波之］（よしはし）&lt;br /&gt;
*橘樹郡&lt;br /&gt;
**高田［多加太］（たかた）&lt;br /&gt;
**橘樹［多知波奈］（たちはな）&lt;br /&gt;
**御宅［美也介］（みやけ）&lt;br /&gt;
**県守［安加多毛利］（あかたもり）&lt;br /&gt;
**駅家&lt;br /&gt;
*荏原郡&lt;br /&gt;
**蒲田［加万太］（かまた）&lt;br /&gt;
**田本［多毛止］（たもと）&lt;br /&gt;
**満田［上音下訓］（マンた）&lt;br /&gt;
**荏原［江波良］（えはら）&lt;br /&gt;
**覚志［加々之］（かかし）&lt;br /&gt;
**御田&lt;br /&gt;
**木田［木多］（きた）&lt;br /&gt;
**桜田［佐久良太］（さくらた）&lt;br /&gt;
**駅家&lt;br /&gt;
*豊島郡&lt;br /&gt;
**日頭［比乃度］（ひのと）&lt;br /&gt;
**占方［宇良加太］（うらかた）&lt;br /&gt;
**荒墓［安良波加］（あらはか）&lt;br /&gt;
**湯島［由之万］（ゆしま）&lt;br /&gt;
**広岡&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
**駅家&lt;br /&gt;
*足立郡&lt;br /&gt;
**堀津&lt;br /&gt;
**殖田［宇恵太］（うゑた）&lt;br /&gt;
**稲直［伊奈保］（いなほ）&lt;br /&gt;
**郡家&lt;br /&gt;
**大里&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
**発度&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[新座郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**&#039;&#039;&#039;[[志木郷|志木]]&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;高山寺本では「志末」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
**&#039;&#039;&#039;[[余戸]]&lt;br /&gt;
*入間郡&lt;br /&gt;
**麻羽［安佐波］（あさは）&lt;br /&gt;
**大家［於保也介］（おほやけ）&lt;br /&gt;
**郡家&lt;br /&gt;
**高階［太加之奈］（たかしな）&lt;br /&gt;
**安刀&lt;br /&gt;
**山田［也万多］（やまた）&lt;br /&gt;
**広瀬［比呂世］（ひろせ）&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
*高麗郡&lt;br /&gt;
**高麗［古万］（こま）&lt;br /&gt;
**上総［加無豆布佐］（かむつふさ）&lt;br /&gt;
*比企郡&lt;br /&gt;
**郡家&lt;br /&gt;
**渭後［沼乃之利］（ぬまのしり）&lt;br /&gt;
**都家［都介］（つけ）&lt;br /&gt;
**醎瀬［加良世］（からせ）&lt;br /&gt;
*横見郡&lt;br /&gt;
**高生［多介布］（たけふ）&lt;br /&gt;
**御坂［美佐加］（みさか）&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
*埼玉郡&lt;br /&gt;
**大田［於保太］（おほた）&lt;br /&gt;
**笠原［加佐波良］（かさはら）&lt;br /&gt;
**草原［加也波良］（かやはら）&lt;br /&gt;
**埼玉［佐以多万］（さいたま）&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
*大里郡&lt;br /&gt;
**郡家&lt;br /&gt;
**楊井［也木井］（やきゐ）&lt;br /&gt;
**市田［以知多］（いちた）&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
*男衾郡&lt;br /&gt;
**榎津［衣奈都］（いなつ）&lt;br /&gt;
**𤡕倉&lt;br /&gt;
**郡家&lt;br /&gt;
**多笛&lt;br /&gt;
**川原&lt;br /&gt;
**幡々&lt;br /&gt;
**大山&lt;br /&gt;
**中村&lt;br /&gt;
*幡羅郡&lt;br /&gt;
**上秦&lt;br /&gt;
**下秦&lt;br /&gt;
**広沢&lt;br /&gt;
**荏原&lt;br /&gt;
**幡羅&lt;br /&gt;
**那珂&lt;br /&gt;
**霜見［之毛美］（しもみ）&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
*榛沢郡&lt;br /&gt;
**新居&lt;br /&gt;
**榛沢&lt;br /&gt;
**瞻形&lt;br /&gt;
**藤田&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
*加美郡&lt;br /&gt;
**新田&lt;br /&gt;
**小島&lt;br /&gt;
**曽能&lt;br /&gt;
**中村&lt;br /&gt;
*児玉郡&lt;br /&gt;
**振太&lt;br /&gt;
**岡太&lt;br /&gt;
**黄田&lt;br /&gt;
**太井&lt;br /&gt;
*那珂郡&lt;br /&gt;
**那珂&lt;br /&gt;
**中沢&lt;br /&gt;
**水保&lt;br /&gt;
**弘紀&lt;br /&gt;
*秩父郡&lt;br /&gt;
**巨香&lt;br /&gt;
**上断&lt;br /&gt;
**美吉&lt;br /&gt;
**丹田&lt;br /&gt;
**中村&lt;br /&gt;
**余戸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:地誌|わみょうるいじゅうしょう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%BF%97%E6%9C%A8%E5%B8%82&amp;diff=242</id>
		<title>志木市</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%BF%97%E6%9C%A8%E5%B8%82&amp;diff=242"/>
		<updated>2026-03-08T15:01:40Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;志木市&#039;&#039;&#039;は旧[[新座郡]]の最北端に位置する市である。北部の旧[[宗岡村]]エリアは入間郡、南部の旧[[舘村]]＝[[志木宿]]エリアは新座郡であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県の南西部に位置し、面積9.05㎢と県内で4番目に小さいミニ自治体である。[[新河岸川]]と[[柳瀬川]]が合流する水運の拠点として発展した歴史を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代、[[新河岸川]]の舟運が発達し、現在の志木市役所周辺にあたる「[[引又河岸]]（ひきまたかし）」は、川越と江戸を結ぶ物流の中継基地として繁栄した。明治以降、[[東武東上線]]の開通により物流の主役が鉄道に移るが、商業の伝統は引き継がれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木市前史===&lt;br /&gt;
* [[新編武蔵風土記稿]]（文政十三年（1830年）完成）には[[館村]]が掲載されている。&lt;br /&gt;
* 寛永二十年（1623年）：4分して[[舘村]]・中野・[[引又村]]・[[針ヶ谷村]]とした。&lt;br /&gt;
* 元禄六年（1693年）：針ヶ谷村を入間郡に編入&lt;br /&gt;
* 寛政十二年（1800年）：3月、中野を舘に合わせた。&lt;br /&gt;
* 明治七年（1874年）：7月、引又町を舘村に併せ、また一村とし、[[志木宿]]と改称。&lt;br /&gt;
* 明治二十二年（1889年）：4月1日、町村制施行により、志木宿が[[新座郡]][[志木町]]となる。&lt;br /&gt;
* 明治二十九年（1896年）：3月29日、[[新座郡]]が[[北足立郡]]へ編入される。&lt;br /&gt;
* 昭和十九年（1944年）：2月11日、[[北足立郡]][[内間木村]]、[[入間郡]][[宗岡村]]・[[水谷村]]と合併し、北足立郡[[志紀町]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和二十三年（1948年）：4月1日、志紀町が解体されて元の志木町・内間木村・宗岡村・水谷村に戻る。&lt;br /&gt;
* 昭和三十年（1955年）：5月3日、北足立郡[[宗岡村]]と合併し、北足立郡[[足立町]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木市===&lt;br /&gt;
* 昭和四十五年（1970年）：10月26日、[[北足立郡]][[足立町]]から志木町と改称、即日市制施行、志木市となる。&lt;br /&gt;
* 昭和四十九年（1974年）：11月13日、志木駅近くに[[志木ショッパーズプラザ]]（後に[[ダイエー志木店]]）オープン。&lt;br /&gt;
* 昭和五十四年（1979年）：3月5日、志木駅近くに[[志木ファイブ]]オープン。8月18日、[[志木ニュータウン]]への入居が始まる。11月8日、[[東武東上線]][[柳瀬川駅]]が開業。&lt;br /&gt;
* 昭和五十七年（1982年）：2月27日、[[新秋ヶ瀬橋]]が開通。&lt;br /&gt;
* 昭和五十九年（1984年）：6月、志木ファイブが[[ららぽーと志木]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和六十二年（1987年）：8月25日、東武東上線と旧営団地下鉄[[有楽町線]]の相互直通運転が開始される。&lt;br /&gt;
* 平成元年（1989年）：6月2日、[[志木ケーブルメディア]]（SCM）開局。&lt;br /&gt;
* 平成二年（1990年）：9月21日、第1回[[志木市いろは文学賞]]決定。&lt;br /&gt;
* 平成五年（1993年）：8月19日、大相撲志木場所が行われる。&lt;br /&gt;
* 平成七年（1995年）：3月11日、ららぽーと志木に[[志木ららぽーとシネマ5]]開業。11月24日、[[いろは橋]]架換工事起工式・[[富士下橋]]竣工式が同時に行われる。&lt;br /&gt;
* 平成八年（1996年）：3月22日、いこいの小径完成。&lt;br /&gt;
* 平成九年（1997年）：3月14日、せせらぎの小径が完成。4月1日、[[ユリノ木通り]]が全面開通。4月21日、[[いろは橋]]架換工事が完成、開通式。4月24日、[[愛宕通り]]線工事が完成。&lt;br /&gt;
* 平成十年（1998年）：10月1日、朝霞４市の消防事務が一本化され、朝霞地区一部事務組合[[埼玉県南西部消防本部]]が発足。&lt;br /&gt;
* 平成十二年（2000年）：2月24日、志木駅東口再開発ビルが竣工。[[マルイファミリー志木]]オープン。同時に東武東上線の踏切立体交差点の車道が開通。&lt;br /&gt;
* 平成十三年（2001年）：4月1日、朝霞市・志木市・和光市・新座市合併協議会設置。&lt;br /&gt;
* 平成十五年（2003年）：6月30日、朝霞市・志木市・和光市・新座市合併協議会廃止。10月1日、朝霞市・志木市・新座市任意合併協議会設置。&lt;br /&gt;
* 平成十六年（2004年）：2月25日、朝霞市・志木市・新座市任意合併協議会解散。&lt;br /&gt;
* 平成十七年（2005年）：3月31日、ららぽーと志木が閉館。&lt;br /&gt;
* 平成二十二年（2010年）：4月17日、志木市商工会ギャラリー兼物産館「[[かっぱふれあい館]]」オープン。&lt;br /&gt;
* 平成二十三年（2011年）：10月18日、荒川に出現した「[[志木あらちゃん]]」に特別住民票を交付。&lt;br /&gt;
* 平成二十五年（2013年）：4月1日、[[いろは親水公園]]オープン。7月31日、ダイエー志木店が閉店。&lt;br /&gt;
* 平成二十六年（2014年）：6月、志木市観光PRキャラクター「[[４式ロボ]]」と「[[いろは水輝]]」誕生。&lt;br /&gt;
* 平成二十七年（2015年）：5月17日、志木いろはウォークフェスタ2015 第1回ノルディックウォーキング・ポールウォーキング全国大会開催。&lt;br /&gt;
* 平成二十八年（2016年）：7月2日、[[田子山富士塚]]の登山道が修理され、山開きに合わせて入山が再開。&lt;br /&gt;
* 平成二十九年（2017年）：8月21日、（公財）志木市文化スポーツ振興公社公式キャラクター「[[カパル]]」に、第１号となる志木市広報大使を委嘱。&lt;br /&gt;
* 平成三十年（2018年）：11月18日、志木市広報大使「カパル」が「ゆるキャラ®グランプリ2018」でグランプリを獲得&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==文化・社会==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「カッパの街」として知られ、市内20箇所以上にカッパ像が設置されている。これは市内の寺院に伝わるカッパの伝説に由来する。また、商業都市としての気風が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名所==&lt;br /&gt;
* [[宝幢寺]]：カッパ伝説の寺&lt;br /&gt;
* [[いろは親水公園]]&lt;br /&gt;
* [[長勝院]]跡の旗桜（[[チョウショウインハタザクラ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==交通==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[東武東上線]][[志木駅]]：市の中心。志木駅の住所は[[新座市]]だが、北口側の商業エリアは志木市に属する。&lt;br /&gt;
* 東武東上線[[柳瀬川駅]]：周辺に大規模な団地群が広がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出身人物==&lt;br /&gt;
* [[永倉万治]]：小説家。&lt;br /&gt;
* [[豊岡真澄]]：鉄道文化人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==キャラクター==&lt;br /&gt;
* [[カパル]]：（公財）志木市文化スポーツ振興公社キャラクター。ゆるキャラグランプリ2018でご当地ゆるキャラランキング1位。&lt;br /&gt;
* [[4式ロボ]]（ししきろぼ）：志木市観光PRキャラクター&lt;br /&gt;
* [[いろは水輝]]（みずき）：志木市観光PRキャラクター&lt;br /&gt;
* [[カッピー]]：志木市商工会マスコットキャラクター&lt;br /&gt;
* [[志木あらちゃん]]：志木市商工会マスコットキャラクター&lt;br /&gt;
* [[チョウショウインはたざくらちゃん]]：志木市男女共同参画推進キャラクター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{現在の行政区域}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:現在の行政区域|しきし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%BF%97%E6%9C%A8%E5%B8%82&amp;diff=241</id>
		<title>志木市</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;志木市&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;は旧新座郡の最北端に位置する市である。北部の旧宗岡村エリアは入間郡、南部の旧志木村エリアは新座郡であった。  埼玉県の南西部に位置し、面積9.05㎢と県内で4番目に小さいミニ自治体である。新河岸川と柳瀬川が合流する水運の拠点として発展した歴史を持つ。  ==歴史==  江戸時代、新河岸川の舟運が発達し、現…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;志木市&#039;&#039;&#039;は旧[[新座郡]]の最北端に位置する市である。北部の旧[[宗岡村]]エリアは入間郡、南部の旧[[志木村]]エリアは新座郡であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埼玉県の南西部に位置し、面積9.05㎢と県内で4番目に小さいミニ自治体である。[[新河岸川]]と[[柳瀬川]]が合流する水運の拠点として発展した歴史を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代、[[新河岸川]]の舟運が発達し、現在の志木市役所周辺にあたる「[[引又河岸]]（ひきまたかし）」は、川越と江戸を結ぶ物流の中継基地として繁栄した。明治以降、[[東武東上線]]の開通により物流の主役が鉄道に移るが、商業の伝統は引き継がれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木市前史===&lt;br /&gt;
* [[新編武蔵風土記稿]]（文政十三年（1830年）完成）には[[館村]]が掲載されている。&lt;br /&gt;
* 寛永二十年（1623年）：4分して[[舘村]]・中野・[[引又村]]・[[針ヶ谷村]]とした。&lt;br /&gt;
* 元禄六年（1693年）：針ヶ谷村を入間郡に編入&lt;br /&gt;
* 寛政十二年（1800年）：3月、中野を舘に合わせた。&lt;br /&gt;
* 明治七年（1874年）：7月、引又町を舘村に併せ、また一村とし、[[志木宿]]と改称。&lt;br /&gt;
* 明治二十二年（1889年）：4月1日、町村制施行により、志木宿が[[新座郡]][[志木町]]となる。&lt;br /&gt;
* 明治二十九年（1896年）：3月29日、[[新座郡]]が[[北足立郡]]へ編入される。&lt;br /&gt;
* 昭和十九年（1944年）：2月11日、[[北足立郡]][[内間木村]]、[[入間郡]][[宗岡村]]・[[水谷村]]と合併し、北足立郡[[志紀町]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和二十三年（1948年）：4月1日、志紀町が解体されて元の志木町・内間木村・宗岡村・水谷村に戻る。&lt;br /&gt;
* 昭和三十年（1955年）：5月3日、北足立郡[[宗岡村]]と合併し、北足立郡[[足立町]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===志木市===&lt;br /&gt;
* 昭和四十五年（1970年）：10月26日、[[北足立郡]][[足立町]]から志木町と改称、即日市制施行、志木市となる。&lt;br /&gt;
* 昭和四十九年（1974年）：11月13日、志木駅近くに[[志木ショッパーズプラザ]]（後に[[ダイエー志木店]]）オープン。&lt;br /&gt;
* 昭和五十四年（1979年）：3月5日、志木駅近くに[[志木ファイブ]]オープン。8月18日、[[志木ニュータウン]]への入居が始まる。11月8日、[[東武東上線]][[柳瀬川駅]]が開業。&lt;br /&gt;
* 昭和五十七年（1982年）：2月27日、[[新秋ヶ瀬橋]]が開通。&lt;br /&gt;
* 昭和五十九年（1984年）：6月、志木ファイブが[[ららぽーと志木]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和六十二年（1987年）：8月25日、東武東上線と旧営団地下鉄[[有楽町線]]の相互直通運転が開始される。&lt;br /&gt;
* 平成元年（1989年）：6月2日、[[志木ケーブルメディア]]（SCM）開局。&lt;br /&gt;
* 平成二年（1990年）：9月21日、第1回[[志木市いろは文学賞]]決定。&lt;br /&gt;
* 平成五年（1993年）：8月19日、大相撲志木場所が行われる。&lt;br /&gt;
* 平成七年（1995年）：3月11日、ららぽーと志木に[[志木ららぽーとシネマ5]]開業。11月24日、[[いろは橋]]架換工事起工式・[[富士下橋]]竣工式が同時に行われる。&lt;br /&gt;
* 平成八年（1996年）：3月22日、いこいの小径完成。&lt;br /&gt;
* 平成九年（1997年）：3月14日、せせらぎの小径が完成。4月1日、[[ユリノ木通り]]が全面開通。4月21日、[[いろは橋]]架換工事が完成、開通式。4月24日、[[愛宕通り]]線工事が完成。&lt;br /&gt;
* 平成十年（1998年）：10月1日、朝霞４市の消防事務が一本化され、朝霞地区一部事務組合[[埼玉県南西部消防本部]]が発足。&lt;br /&gt;
* 平成十二年（2000年）：2月24日、志木駅東口再開発ビルが竣工。[[マルイファミリー志木]]オープン。同時に東武東上線の踏切立体交差点の車道が開通。&lt;br /&gt;
* 平成十三年（2001年）：4月1日、朝霞市・志木市・和光市・新座市合併協議会設置。&lt;br /&gt;
* 平成十五年（2003年）：6月30日、朝霞市・志木市・和光市・新座市合併協議会廃止。10月1日、朝霞市・志木市・新座市任意合併協議会設置。&lt;br /&gt;
* 平成十六年（2004年）：2月25日、朝霞市・志木市・新座市任意合併協議会解散。&lt;br /&gt;
* 平成十七年（2005年）：3月31日、ららぽーと志木が閉館。&lt;br /&gt;
* 平成二十二年（2010年）：4月17日、志木市商工会ギャラリー兼物産館「[[かっぱふれあい館]]」オープン。&lt;br /&gt;
* 平成二十三年（2011年）：10月18日、荒川に出現した「[[志木あらちゃん]]」に特別住民票を交付。&lt;br /&gt;
* 平成二十五年（2013年）：4月1日、[[いろは親水公園]]オープン。7月31日、ダイエー志木店が閉店。&lt;br /&gt;
* 平成二十六年（2014年）：6月、志木市観光PRキャラクター「[[４式ロボ]]」と「[[いろは水輝]]」誕生。&lt;br /&gt;
* 平成二十七年（2015年）：5月17日、志木いろはウォークフェスタ2015 第1回ノルディックウォーキング・ポールウォーキング全国大会開催。&lt;br /&gt;
* 平成二十八年（2016年）：7月2日、[[田子山富士塚]]の登山道が修理され、山開きに合わせて入山が再開。&lt;br /&gt;
* 平成二十九年（2017年）：8月21日、（公財）志木市文化スポーツ振興公社公式キャラクター「[[カパル]]」に、第１号となる志木市広報大使を委嘱。&lt;br /&gt;
* 平成三十年（2018年）：11月18日、志木市広報大使「カパル」が「ゆるキャラ®グランプリ2018」でグランプリを獲得&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==文化・社会==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「カッパの街」として知られ、市内20箇所以上にカッパ像が設置されている。これは市内の寺院に伝わるカッパの伝説に由来する。また、商業都市としての気風が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名所==&lt;br /&gt;
* [[宝幢寺]]：カッパ伝説の寺&lt;br /&gt;
* [[いろは親水公園]]&lt;br /&gt;
* [[長勝院]]跡の旗桜（[[チョウショウインハタザクラ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==交通==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[東武東上線]][[志木駅]]：市の中心。志木駅の住所は[[新座市]]だが、北口側の商業エリアは志木市に属する。&lt;br /&gt;
* 東武東上線[[柳瀬川駅]]：周辺に大規模な団地群が広がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出身人物==&lt;br /&gt;
* [[永倉万治]]：小説家。&lt;br /&gt;
* [[豊岡真澄]]：鉄道文化人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==キャラクター==&lt;br /&gt;
* [[カパル]]：（公財）志木市文化スポーツ振興公社キャラクター。ゆるキャラグランプリ2018でご当地ゆるキャラランキング1位。&lt;br /&gt;
* [[4式ロボ]]（ししきろぼ）：志木市観光PRキャラクター&lt;br /&gt;
* [[いろは水輝]]（みずき）：志木市観光PRキャラクター&lt;br /&gt;
* [[カッピー]]：志木市商工会マスコットキャラクター&lt;br /&gt;
* [[志木あらちゃん]]：志木市商工会マスコットキャラクター&lt;br /&gt;
* [[チョウショウインはたざくらちゃん]]：志木市男女共同参画推進キャラクター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{現在の行政区域}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:現在の行政区域|しきし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA%E5%9F%9F&amp;diff=240</id>
		<title>テンプレート:現在の行政区域</title>
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		<updated>2026-03-08T14:36:47Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot; |- ! :Category:現在の行政区域| |- | 志木市 - 新座市 - 朝霞市 - 和光市 - 旧保谷市（西東京市） - 大泉地区（練馬区） |- | 旧新座郡エリアの現在の町丁名（富士見市・清瀬市・東久留米市の一部を含む） |}」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[:Category:現在の行政区域|現在の行政区域]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[志木市]] - [[新座市]] - [[朝霞市]] - [[和光市]] - 旧[[保谷市]]（[[西東京市]]） - [[大泉地区]]（[[練馬区]]）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[旧新座郡エリアの現在の町丁名]]（富士見市・清瀬市・東久留米市の一部を含む）&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E5%8C%BA%E5%88%86&amp;diff=239</id>
		<title>カテゴリ:現在の地域区分</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E5%8C%BA%E5%88%86&amp;diff=239"/>
		<updated>2026-03-07T14:24:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「Category:地域」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Category:地域]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=238</id>
		<title>旧新座郡エリアの現在の町丁名</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=238"/>
		<updated>2026-03-07T14:23:53Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;以下の表は、かつて[[新座郡]]に含まれたことのあるエリアについて、現在の市区町丁および郵便番号を示したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本表では、現在の行政区域を前提とするため、志木市の宗岡地区（もと入間郡）、西東京市の旧田無市エリア（もと多摩郡）も含む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 市 !! 町名 !! よみがな !! 丁目 !! 郵便番号&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[志木市]]||[[上宗岡 (志木市)|上宗岡]]&amp;lt;ref&amp;gt;宗岡地域は、実際には新座郡に入ったことはない。明治二十九年（1896年）新座郡が[[北足立郡]]と合併して新座郡が消滅した後、昭和十九年に宗岡村は他村と合併して[[志紀町]]となり、北足立郡に入った。&amp;lt;/ref&amp;gt;||かみむねおか||一丁目～五丁目||353-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[中宗岡 (志木市)|中宗岡]]||なかむねおか||一丁目～五丁目||353-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[下宗岡 (志木市)|下宗岡]]||しもむねおか||一丁目～四丁目||353-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[宗岡 (志木市)|宗岡]]||むねおか||　||353-0008&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[本町 (志木市)|本町]]||ほんちょう||一丁目～六丁目||353-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[幸町 (志木市)|幸町]]||さいわいちょう||一丁目～四丁目||353-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[館 (志木市)|館]]||たて||一丁目～二丁目||353-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[富士見市]]&amp;lt;ref&amp;gt;本表では、富士見市のうち、かつて[[北足立郡]][[志紀町]]の一部を構成していた旧水谷村の区域のみを示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;||榎町||えのきちょう|| ||354-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||貝塚||かいづか||一丁目～二丁目||354-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||東みずほ台||ひがしみずほだい||一丁目～四丁目||354-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||[[針ケ谷 (富士見市)|針ケ谷]]&amp;lt;ref&amp;gt;富士見市[[針ヶ谷]]はかつて[[新座郡]][[舘村]]の一部だったという記載がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;||はりがや||一丁目～二丁目、大字||354-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||西みずほ台||にしみずほだい||一丁目～三丁目||354-0018&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水子||みずこ||大字||354-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水谷||みずたに||一丁目～二丁目||354-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水谷東||みずたにひがし||一丁目～三丁目||354-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[新座市]]||[[東北 (新座市)|東北]]||とおほく&amp;lt;ref&amp;gt;新座市東北の読み方は、公的には「とうほく」ではなく「とおほく」となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;||一丁目～二丁目||352-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[東 (新座市)|東]]||ひがし||一丁目～三丁目||352-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[北野 (新座市)|北野]]||きたの||一丁目～三丁目||352-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[大和田 (新座市)|大和田]]||おおわだ||一丁目～五丁目||352-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[中野 (新座市)|中野]]||なかの||一丁目～二丁目||352-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新座 (新座市)|新座]]||にいざ||一丁目～三丁目||352-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野火止 (新座市)|野火止]]||のびとめ||一丁目～八丁目||352-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[畑中 (新座市)|畑中]]||はたなか||一丁目～三丁目||352-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新塚 (新座市)|新塚]]||にいづか||一丁目／大字新塚||352-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栄 (新座市)|栄]]||さかえ||一丁目～五丁目||352-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[池田 (新座市)|池田]]||いけだ||一丁目～五丁目||352-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[馬場 (新座市)|馬場]]||ばば||一丁目～四丁目||352-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[菅沢 (新座市)|菅沢]]||すがさわ||一丁目～二丁目||352-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[あたご (新座市)|あたご]]||あたご||一丁目～三丁目||352-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[本多 (新座市)|本多]]||ほんだ||一丁目～二丁目||352-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[堀ノ内 (新座市)|堀ノ内]]||ほりのうち||一丁目～五丁目||352-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[道場 (新座市)|道場]]||どうじょう||一丁目～二丁目||352-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[片山 (新座市)|片山]]||かたやま||一丁目～三丁目||352-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[西堀 (新座市)|西堀]]||にしぼり||一丁目～三丁目||352-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新堀 (新座市)|新堀]]||しんぼり||一丁目～三丁目||352-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[石神 (新座市)|石神]]||いしがみ||一丁目～五丁目||352-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野寺 (新座市)|野寺]]||のでら||一丁目～五丁目||352-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栗原 (新座市)|栗原]]||くりはら||一丁目～六丁目||352-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[朝霞市]]||[[上内間木 (朝霞市)|上内間木]]||かみうちまぎ||大字||351-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[下内間木 (朝霞市)|下内間木]]||しもうちまぎ||大字||351-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[台 (朝霞市)|台]]||だい||大字||351-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸 (朝霞市)|根岸]]||ねぎし||大字||351-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸台 (朝霞市)|根岸台]]||ねぎしだい||一丁目～八丁目||351-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[仲町 (朝霞市)|仲町]]||なかちょう||一丁目～二丁目||351-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[岡 (朝霞市)|岡]]||おか||一丁目～三丁目、大字||351-0007&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[本町 (朝霞市)|本町]]||ほんちょう||一丁目～三丁目||351-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[栄町 (朝霞市)|栄町]]||さかえちょう||一丁目～五丁目||351-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折 (朝霞市)|膝折]]||ひざおり||大字||351-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折町 (朝霞市)|膝折町]]||ひざおりちょう||一丁目～五丁目||351-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[幸町 (朝霞市)|幸町]]||さいわいちょう||一丁目～三丁目||351-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[青葉台 (朝霞市)|青葉台]]||あおばだい||一丁目||351-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西弁財 (朝霞市)|西弁財]]||にしべんざい||一丁目～二丁目||351-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[東弁財 (朝霞市)|東弁財]]||ひがしべんざい||一丁目～三丁目||351-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[溝沼 (朝霞市)|溝沼]]||みぞぬま||一丁目～七丁目、大字||351-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[泉水 (朝霞市)|泉水]]||せんずい||一丁目～三丁目||351-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[三原 (朝霞市)|三原]]||みはら||一丁目～五丁目||351-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[宮戸 (朝霞市)|宮戸]]||みやど||一丁目～四丁目、大字||351-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[田島 (朝霞市)|田島]]||たじま||一丁目～二丁目、大字||351-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[浜崎 (朝霞市)|浜崎]]||はまさき||一丁目～四丁目、大字||351-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西原 (朝霞市)|西原]]||にしはら||一丁目～二丁目||351-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[朝志ケ丘 (朝霞市)|朝志ケ丘]]||あさしがおか||一丁目～四丁目||351-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[北原 (朝霞市)|北原]]||きたはら||一丁目～二丁目||351-0036&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||自衛隊&amp;lt;ref&amp;gt;朝霞市の町丁別人口統計では、自衛隊の人口数も含まれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;|| ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[和光市]]||[[白子 (和光市)|白子]]||しらこ||一丁目～四丁目||351-0101&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪 (和光市)|諏訪]]||すわ|| ||351-0102&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪原団地 (和光市)|諏訪原団地]]||すわはらだんち|| ||351-0103&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[南 (和光市)|南]]||みなみ||一丁目～二丁目||351-0104&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[西大和団地 (和光市)|西大和団地]]||にしやまとだんち||　||351-0105&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[広沢 (和光市)|広沢]]||ひろさわ|| ||351-0106&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[下新倉 (和光市)|下新倉]]||しもにいくら||一丁目～六丁目、大字||351-0111&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[丸山台 (和光市)|丸山台]]||まるやまだい||一丁目～三丁目||351-0112&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[中央 (和光市)|中央]]||ちゅうおう||一丁目～二丁目||351-0113&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[本町 (和光市)|本町]]||ほんちょう|| ||351-0114&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[新倉 (和光市)|新倉]]||にいくら||一丁目～八丁目、大字||351-0115&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||（松ノ木島町）&amp;lt;ref&amp;gt;1989年に郵便番号も割り振られているが、現在は新倉七丁目に含まれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;||（まつのきじまちょう）|| ||351-0116&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[練馬区]]&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区の町丁について、ここでは大泉地区のみを示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[大泉学園町 (練馬区)|大泉学園町]]||おおいずみがくえんちょう||一丁目～九丁目||178-0061&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[大泉町 (練馬区)|大泉町]]||おおいずみまち||一丁目～六丁目||178-0062&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[南大泉 (練馬区)|南大泉]]||みなみおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0064&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉 (練馬区)|西大泉]]||にしおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0065&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉町 (練馬区)|西大泉町]]||にしおおいずみまち|| ||178-0066&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||東大泉&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区大泉地区のうち、東大泉は旧新座郡に含まれない。旧・豊島郡上土支田村のエリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||ひがしおおいずみ||一丁目～七丁目||178-0063&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[西東京市]]&amp;lt;ref&amp;gt;ここでは旧新座郡エリアに含まれる地域のみにリンクをつけている。すなわち、旧保谷市の範囲である。&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[ひばりが丘 (西東京市)|ひばりが丘]]||ひばりがおか||一丁目～四丁目&amp;lt;ref&amp;gt;ひばりが丘三丁目2番のみ、旧「田無町ひばりが丘団地」であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;||202-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[ひばりが丘北 (西東京市)|ひばりが丘北]]||ひばりがおかきた||一丁目～四丁目||202-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[北町 (西東京市)|北町]]||きたまち||一丁目～六丁目||202-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[下保谷 (西東京市)|下保谷]]||しもほうや||一丁目～五丁目||202-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[住吉町 (西東京市)|住吉町]]||すみよしちょう||一丁目～六丁目||202-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[栄町 (西東京市)|栄町]]||さかえちょう||一丁目～三丁目||202-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[泉町 (西東京市)|泉町]]||いずみちょう||一丁目～六丁目||202-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東町 (西東京市)|東町]]||ひがしちょう||一丁目～六丁目||202-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[中町 (西東京市)|中町]]||なかまち||一丁目～六丁目||202-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[富士町 (西東京市)|富士町]]||ふじまち||一丁目～六丁目||202-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[保谷町 (西東京市)|保谷町]]||ほうやちょう||一丁目～六丁目||202-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東伏見 (西東京市)|東伏見]]||ひがしふしみ||一丁目～六丁目||202-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[柳沢 (西東京市)|柳沢]]||やぎさわ||一丁目～六丁目||202-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[新町 (西東京市)|新町]]||しんまち||一丁目～六丁目||202-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市&amp;lt;ref&amp;gt;郵便番号が188で始まるのは、旧田無市（旧多摩郡）エリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||谷戸町||やとちょう||一丁目～三丁目||188-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||緑町||みどりちょう||一丁目～三丁目||188-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||北原町||きたはらちょう||一丁目～三丁目||188-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||西原町||にしはらちょう||一丁目～五丁目||188-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||田無町||たなしちょう||一丁目～七丁目||188-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||南町||みなみちょう||一丁目～六丁目||188-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||向台町||むこうだいちょう||一丁目～六丁目||188-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||芝久保町||しばくぼちょう||一丁目～五丁目||188-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[清瀬市]]||[[中里 (清瀬市)|中里]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市中里一丁目の南半分、中里三丁目の南端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩、中里、上清戸。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;||なかざと||一丁目～六丁目||204-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|清瀬市||[[梅園 (清瀬市)|梅園]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市梅園二丁目の北側大半、梅園三丁目の北側大半は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;||うめぞの||一丁目～三丁目||204-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東久留米市]]||[[野火止 (東久留米市)|野火止]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市野火止二丁目の北端、野火止三丁目の北端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は小山、北前沢、東下里。&amp;lt;/ref&amp;gt;||のびどめ||一丁目～三丁目||203-0041&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東久留米市||[[下里 (東久留米市)|下里]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市下里七丁目の北端、下里六丁目の北側大半、下里四丁目の北西部は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は中前沢、西下里、南前沢。&amp;lt;/ref&amp;gt;||しもさと||一丁目～七丁目||203-0043&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:現在の地域区分|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=237</id>
		<title>旧新座郡エリアの現在の町丁名</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=237"/>
		<updated>2026-03-07T13:12:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;以下の表は、かつて[[新座郡]]に含まれたことのあるエリアについて、現在の市区町丁および郵便番号を示したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本表では、現在の行政区域を前提とするため、志木市の宗岡地区（もと入間郡）、西東京市の旧田無市エリア（もと多摩郡）も含む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 市 !! 町名 !! よみがな !! 丁目 !! 郵便番号&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[志木市]]||[[上宗岡 (志木市)|上宗岡]]&amp;lt;ref&amp;gt;宗岡地域は、実際には新座郡に入ったことはない。明治二十九年（1896年）新座郡が[[北足立郡]]と合併して新座郡が消滅した後、昭和十九年に宗岡村は他村と合併して[[志紀町]]となり、北足立郡に入った。&amp;lt;/ref&amp;gt;||かみむねおか||一丁目～五丁目||353-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[中宗岡 (志木市)|中宗岡]]||なかむねおか||一丁目～五丁目||353-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[下宗岡 (志木市)|下宗岡]]||しもむねおか||一丁目～四丁目||353-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[宗岡 (志木市)|宗岡]]||むねおか||　||353-0008&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[本町 (志木市)|本町]]||ほんちょう||一丁目～六丁目||353-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[幸町 (志木市)|幸町]]||さいわいちょう||一丁目～四丁目||353-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[館 (志木市)|館]]||たて||一丁目～二丁目||353-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[富士見市]]&amp;lt;ref&amp;gt;本表では、富士見市のうち、かつて[[北足立郡]][[志紀町]]の一部を構成していた旧水谷村の区域のみを示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;||榎町||えのきちょう|| ||354-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||貝塚||かいづか||一丁目～二丁目||354-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||東みずほ台||ひがしみずほだい||一丁目～四丁目||354-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||[[針ケ谷 (富士見市)|針ケ谷]]&amp;lt;ref&amp;gt;富士見市[[針ヶ谷]]はかつて[[新座郡]][[舘村]]の一部だったという記載がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;||はりがや||一丁目～二丁目、大字||354-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||西みずほ台||にしみずほだい||一丁目～三丁目||354-0018&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水子||みずこ||大字||354-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水谷||みずたに||一丁目～二丁目||354-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||水谷東||みずたにひがし||一丁目～三丁目||354-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[新座市]]||[[東北 (新座市)|東北]]||とおほく&amp;lt;ref&amp;gt;新座市東北の読み方は、公的には「とうほく」ではなく「とおほく」となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;||一丁目～二丁目||352-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[東 (新座市)|東]]||ひがし||一丁目～三丁目||352-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[北野 (新座市)|北野]]||きたの||一丁目～三丁目||352-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[大和田 (新座市)|大和田]]||おおわだ||一丁目～五丁目||352-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[中野 (新座市)|中野]]||なかの||一丁目～二丁目||352-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新座 (新座市)|新座]]||にいざ||一丁目～三丁目||352-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野火止 (新座市)|野火止]]||のびとめ||一丁目～八丁目||352-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[畑中 (新座市)|畑中]]||はたなか||一丁目～三丁目||352-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新塚 (新座市)|新塚]]||にいづか||一丁目／大字新塚||352-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栄 (新座市)|栄]]||さかえ||一丁目～五丁目||352-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[池田 (新座市)|池田]]||いけだ||一丁目～五丁目||352-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[馬場 (新座市)|馬場]]||ばば||一丁目～四丁目||352-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[菅沢 (新座市)|菅沢]]||すがさわ||一丁目～二丁目||352-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[あたご (新座市)|あたご]]||あたご||一丁目～三丁目||352-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[本多 (新座市)|本多]]||ほんだ||一丁目～二丁目||352-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[堀ノ内 (新座市)|堀ノ内]]||ほりのうち||一丁目～五丁目||352-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[道場 (新座市)|道場]]||どうじょう||一丁目～二丁目||352-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[片山 (新座市)|片山]]||かたやま||一丁目～三丁目||352-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[西堀 (新座市)|西堀]]||にしぼり||一丁目～三丁目||352-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新堀 (新座市)|新堀]]||しんぼり||一丁目～三丁目||352-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[石神 (新座市)|石神]]||いしがみ||一丁目～五丁目||352-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野寺 (新座市)|野寺]]||のでら||一丁目～五丁目||352-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栗原 (新座市)|栗原]]||くりはら||一丁目～六丁目||352-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[朝霞市]]||[[上内間木 (朝霞市)|上内間木]]||かみうちまぎ||大字||351-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[下内間木 (朝霞市)|下内間木]]||しもうちまぎ||大字||351-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[台 (朝霞市)|台]]||だい||大字||351-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸 (朝霞市)|根岸]]||ねぎし||大字||351-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸台 (朝霞市)|根岸台]]||ねぎしだい||一丁目～八丁目||351-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[仲町 (朝霞市)|仲町]]||なかちょう||一丁目～二丁目||351-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[岡 (朝霞市)|岡]]||おか||一丁目～三丁目、大字||351-0007&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[本町 (朝霞市)|本町]]||ほんちょう||一丁目～三丁目||351-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[栄町 (朝霞市)|栄町]]||さかえちょう||一丁目～五丁目||351-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折 (朝霞市)|膝折]]||ひざおり||大字||351-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折町 (朝霞市)|膝折町]]||ひざおりちょう||一丁目～五丁目||351-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[幸町 (朝霞市)|幸町]]||さいわいちょう||一丁目～三丁目||351-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[青葉台 (朝霞市)|青葉台]]||あおばだい||一丁目||351-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西弁財 (朝霞市)|西弁財]]||にしべんざい||一丁目～二丁目||351-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[東弁財 (朝霞市)|東弁財]]||ひがしべんざい||一丁目～三丁目||351-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[溝沼 (朝霞市)|溝沼]]||みぞぬま||一丁目～七丁目、大字||351-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[泉水 (朝霞市)|泉水]]||せんずい||一丁目～三丁目||351-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[三原 (朝霞市)|三原]]||みはら||一丁目～五丁目||351-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[宮戸 (朝霞市)|宮戸]]||みやど||一丁目～四丁目、大字||351-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[田島 (朝霞市)|田島]]||たじま||一丁目～二丁目、大字||351-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[浜崎 (朝霞市)|浜崎]]||はまさき||一丁目～四丁目、大字||351-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西原 (朝霞市)|西原]]||にしはら||一丁目～二丁目||351-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[朝志ケ丘 (朝霞市)|朝志ケ丘]]||あさしがおか||一丁目～四丁目||351-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[北原 (朝霞市)|北原]]||きたはら||一丁目～二丁目||351-0036&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||自衛隊&amp;lt;ref&amp;gt;朝霞市の町丁別人口統計では、自衛隊の人口数も含まれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;|| ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[和光市]]||[[白子 (和光市)|白子]]||しらこ||一丁目～四丁目||351-0101&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪 (和光市)|諏訪]]||すわ|| ||351-0102&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪原団地 (和光市)|諏訪原団地]]||すわはらだんち|| ||351-0103&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[南 (和光市)|南]]||みなみ||一丁目～二丁目||351-0104&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[西大和団地 (和光市)|西大和団地]]||にしやまとだんち||　||351-0105&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[広沢 (和光市)|広沢]]||ひろさわ|| ||351-0106&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[下新倉 (和光市)|下新倉]]||しもにいくら||一丁目～六丁目、大字||351-0111&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[丸山台 (和光市)|丸山台]]||まるやまだい||一丁目～三丁目||351-0112&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[中央 (和光市)|中央]]||ちゅうおう||一丁目～二丁目||351-0113&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[本町 (和光市)|本町]]||ほんちょう|| ||351-0114&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[新倉 (和光市)|新倉]]||にいくら||一丁目～八丁目、大字||351-0115&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||（松ノ木島町）&amp;lt;ref&amp;gt;1989年に郵便番号も割り振られているが、現在は新倉七丁目に含まれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;||（まつのきじまちょう）|| ||351-0116&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[練馬区]]&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区の町丁について、ここでは大泉地区のみを示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[大泉学園町 (練馬区)|大泉学園町]]||おおいずみがくえんちょう||一丁目～九丁目||178-0061&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[大泉町 (練馬区)|大泉町]]||おおいずみまち||一丁目～六丁目||178-0062&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[南大泉 (練馬区)|南大泉]]||みなみおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0064&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉 (練馬区)|西大泉]]||にしおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0065&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉町 (練馬区)|西大泉町]]||にしおおいずみまち|| ||178-0066&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||東大泉&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区大泉地区のうち、東大泉は旧新座郡に含まれない。旧・豊島郡上土支田村のエリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||ひがしおおいずみ||一丁目～七丁目||178-0063&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[西東京市]]&amp;lt;ref&amp;gt;ここでは旧新座郡エリアに含まれる地域のみにリンクをつけている。すなわち、旧保谷市の範囲である。&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[ひばりが丘 (西東京市)|ひばりが丘]]||ひばりがおか||一丁目～四丁目&amp;lt;ref&amp;gt;ひばりが丘三丁目2番のみ、旧「田無町ひばりが丘団地」であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;||202-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[ひばりが丘北 (西東京市)|ひばりが丘北]]||ひばりがおかきた||一丁目～四丁目||202-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[北町 (西東京市)|北町]]||きたまち||一丁目～六丁目||202-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[下保谷 (西東京市)|下保谷]]||しもほうや||一丁目～五丁目||202-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[住吉町 (西東京市)|住吉町]]||すみよしちょう||一丁目～六丁目||202-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[栄町 (西東京市)|栄町]]||さかえちょう||一丁目～三丁目||202-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[泉町 (西東京市)|泉町]]||いずみちょう||一丁目～六丁目||202-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東町 (西東京市)|東町]]||ひがしちょう||一丁目～六丁目||202-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[中町 (西東京市)|中町]]||なかまち||一丁目～六丁目||202-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[富士町 (西東京市)|富士町]]||ふじまち||一丁目～六丁目||202-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[保谷町 (西東京市)|保谷町]]||ほうやちょう||一丁目～六丁目||202-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東伏見 (西東京市)|東伏見]]||ひがしふしみ||一丁目～六丁目||202-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[柳沢 (西東京市)|柳沢]]||やぎさわ||一丁目～六丁目||202-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[新町 (西東京市)|新町]]||しんまち||一丁目～六丁目||202-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市&amp;lt;ref&amp;gt;郵便番号が188で始まるのは、旧田無市（旧多摩郡）エリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||谷戸町||やとちょう||一丁目～三丁目||188-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||緑町||みどりちょう||一丁目～三丁目||188-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||北原町||きたはらちょう||一丁目～三丁目||188-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||西原町||にしはらちょう||一丁目～五丁目||188-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||田無町||たなしちょう||一丁目～七丁目||188-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||南町||みなみちょう||一丁目～六丁目||188-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||向台町||むこうだいちょう||一丁目～六丁目||188-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||芝久保町||しばくぼちょう||一丁目～五丁目||188-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[清瀬市]]||[[中里 (清瀬市)|中里]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市中里一丁目の南半分、中里三丁目の南端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩、中里、上清戸。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;||なかざと||一丁目～六丁目||204-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|清瀬市||[[梅園 (清瀬市)|梅園]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市梅園二丁目の北側大半、梅園三丁目の北側大半は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;||うめぞの||一丁目～三丁目||204-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東久留米市]]||[[野火止 (東久留米市)|野火止]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市野火止二丁目の北端、野火止三丁目の北端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は小山、北前沢、東下里。&amp;lt;/ref&amp;gt;||のびどめ||一丁目～三丁目||203-0041&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東久留米市||[[下里 (東久留米市)|下里]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市下里七丁目の北端、下里六丁目の北側大半、下里四丁目の北西部は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は中前沢、西下里、南前沢。&amp;lt;/ref&amp;gt;||しもさと||一丁目～七丁目||203-0043&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=236</id>
		<title>旧新座郡エリアの現在の町丁名</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%97%A7%E6%96%B0%E5%BA%A7%E9%83%A1%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%81%E5%90%8D&amp;diff=236"/>
		<updated>2026-03-07T11:10:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「以下の表は、かつて新座郡に含まれたことのあるエリアについて、現在の市区町丁および郵便番号を示したものである。  本表では、現在の行政区域を前提とするため、志木市の宗岡地区（もと入間郡）、西東京市の旧田無市エリア（もと多摩郡）も含む。  {| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; ! 市 !! 町名 !! よみがな !! 丁目 !! 郵便番号 |- |志木市||上宗岡 (志木市…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;以下の表は、かつて[[新座郡]]に含まれたことのあるエリアについて、現在の市区町丁および郵便番号を示したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本表では、現在の行政区域を前提とするため、志木市の宗岡地区（もと入間郡）、西東京市の旧田無市エリア（もと多摩郡）も含む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 市 !! 町名 !! よみがな !! 丁目 !! 郵便番号&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[志木市]]||[[上宗岡 (志木市)|上宗岡]]&amp;lt;ref&amp;gt;宗岡地域は、実際には新座郡に入ったことはない。明治二十九年（1896年）新座郡が[[北足立郡]]と合併して新座郡が消滅した後、昭和十九年に宗岡村は他村と合併して[[志紀町]]となり、北足立郡に入った。&amp;lt;/ref&amp;gt;||かみむねおか||一丁目～五丁目||353-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[中宗岡 (志木市)|中宗岡]]||なかむねおか||一丁目～五丁目||353-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[下宗岡 (志木市)|下宗岡]]||しもむねおか||一丁目～四丁目||353-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[宗岡 (志木市)|宗岡]]||むねおか||　||353-0008&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[本町 (志木市)|本町]]||ほんちょう||一丁目～六丁目||353-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[幸町 (志木市)|幸町]]||さいわいちょう||一丁目～四丁目||353-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|志木市||[[館 (志木市)|館]]||たて||一丁目～二丁目||353-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[富士見市]]||[[針ケ谷 (富士見市)|針ケ谷]]&amp;lt;ref&amp;gt;富士見市[[針ヶ谷]]はかつて[[舘村]]の一部だったという記載がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;||はりがや||一丁目～二丁目、大字||354-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|富士見市||[[水子 (富士見市)|水子]]&amp;lt;ref&amp;gt;現在の富士見市[[水子]]・針ヶ谷、志木市、朝霞市内間木のエリアは、昭和十九年から昭和二十三年まで[[北足立郡]][[志紀町]]であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;||みずこ||大字||354-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[新座市]]||[[東北 (新座市)|東北]]||とおほく&amp;lt;ref&amp;gt;新座市東北の読み方は、公的には「とうほく」ではなく「とおほく」となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;||一丁目～二丁目||352-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[東 (新座市)|東]]||ひがし||一丁目～三丁目||352-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[北野 (新座市)|北野]]||きたの||一丁目～三丁目||352-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[大和田 (新座市)|大和田]]||おおわだ||一丁目～五丁目||352-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[中野 (新座市)|中野]]||なかの||一丁目～二丁目||352-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新座 (新座市)|新座]]||にいざ||一丁目～三丁目||352-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野火止 (新座市)|野火止]]||のびとめ||一丁目～八丁目||352-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[畑中 (新座市)|畑中]]||はたなか||一丁目～三丁目||352-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新塚 (新座市)|新塚]]||にいづか||一丁目／大字新塚||352-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栄 (新座市)|栄]]||さかえ||一丁目～五丁目||352-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[池田 (新座市)|池田]]||いけだ||一丁目～五丁目||352-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[馬場 (新座市)|馬場]]||ばば||一丁目～四丁目||352-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[菅沢 (新座市)|菅沢]]||すがさわ||一丁目～二丁目||352-0017&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[あたご (新座市)|あたご]]||あたご||一丁目～三丁目||352-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[本多 (新座市)|本多]]||ほんだ||一丁目～二丁目||352-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[堀ノ内 (新座市)|堀ノ内]]||ほりのうち||一丁目～五丁目||352-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[道場 (新座市)|道場]]||どうじょう||一丁目～二丁目||352-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[片山 (新座市)|片山]]||かたやま||一丁目～三丁目||352-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[西堀 (新座市)|西堀]]||にしぼり||一丁目～三丁目||352-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[新堀 (新座市)|新堀]]||しんぼり||一丁目～三丁目||352-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[石神 (新座市)|石神]]||いしがみ||一丁目～五丁目||352-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[野寺 (新座市)|野寺]]||のでら||一丁目～五丁目||352-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|新座市||[[栗原 (新座市)|栗原]]||くりはら||一丁目～六丁目||352-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[朝霞市]]||[[上内間木 (朝霞市)|上内間木]]||かみうちまぎ||大字||351-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[下内間木 (朝霞市)|下内間木]]||しもうちまぎ||大字||351-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[台 (朝霞市)|台]]||だい||大字||351-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸 (朝霞市)|根岸]]||ねぎし||大字||351-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[根岸台 (朝霞市)|根岸台]]||ねぎしだい||一丁目～八丁目||351-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[仲町 (朝霞市)|仲町]]||なかちょう||一丁目～二丁目||351-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[岡 (朝霞市)|岡]]||おか||一丁目～三丁目、大字||351-0007&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[本町 (朝霞市)|本町]]||ほんちょう||一丁目～三丁目||351-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[栄町 (朝霞市)|栄町]]||さかえちょう||一丁目～五丁目||351-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折 (朝霞市)|膝折]]||ひざおり||大字||351-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[膝折町 (朝霞市)|膝折町]]||ひざおりちょう||一丁目～五丁目||351-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[幸町 (朝霞市)|幸町]]||さいわいちょう||一丁目～三丁目||351-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[青葉台 (朝霞市)|青葉台]]||あおばだい||一丁目||351-0016&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西弁財 (朝霞市)|西弁財]]||にしべんざい||一丁目～二丁目||351-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[東弁財 (朝霞市)|東弁財]]||ひがしべんざい||一丁目～三丁目||351-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[溝沼 (朝霞市)|溝沼]]||みぞぬま||一丁目～七丁目、大字||351-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[泉水 (朝霞市)|泉水]]||せんずい||一丁目～三丁目||351-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[三原 (朝霞市)|三原]]||みはら||一丁目～五丁目||351-0025&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[宮戸 (朝霞市)|宮戸]]||みやど||一丁目～四丁目、大字||351-0031&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[田島 (朝霞市)|田島]]||たじま||一丁目～二丁目、大字||351-0032&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[浜崎 (朝霞市)|浜崎]]||はまさき||一丁目～四丁目、大字||351-0033&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[西原 (朝霞市)|西原]]||にしはら||一丁目～二丁目||351-0034&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[朝志ケ丘 (朝霞市)|朝志ケ丘]]||あさしがおか||一丁目～四丁目||351-0035&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||[[北原 (朝霞市)|北原]]||きたはら||一丁目～二丁目||351-0036&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|朝霞市||自衛隊&amp;lt;ref&amp;gt;朝霞市の町丁別人口統計では、自衛隊の人口数も含まれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;|| ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[和光市]]||[[白子 (和光市)|白子]]||しらこ||一丁目～四丁目||351-0101&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪 (和光市)|諏訪]]||すわ|| ||351-0102&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[諏訪原団地 (和光市)|諏訪原団地]]||すわはらだんち|| ||351-0103&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[南 (和光市)|南]]||みなみ||一丁目～二丁目||351-0104&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[西大和団地 (和光市)|西大和団地]]||にしやまとだんち||　||351-0105&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[広沢 (和光市)|広沢]]||ひろさわ|| ||351-0106&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[下新倉 (和光市)|下新倉]]||しもにいくら||一丁目～六丁目、大字||351-0111&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[丸山台 (和光市)|丸山台]]||まるやまだい||一丁目～三丁目||351-0112&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[中央 (和光市)|中央]]||ちゅうおう||一丁目～二丁目||351-0113&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[本町 (和光市)|本町]]||ほんちょう|| ||351-0114&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||[[新倉 (和光市)|新倉]]||にいくら||一丁目～八丁目、大字||351-0115&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|和光市||（松ノ木島町）&amp;lt;ref&amp;gt;1989年に郵便番号も割り振られているが、現在は新倉七丁目に含まれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;||（まつのきじまちょう）|| ||351-0116&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[練馬区]]&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区の町丁について、ここでは大泉地区のみを示している。大&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[大泉学園町 (練馬区)|大泉学園町]]||おおいずみがくえんちょう||一丁目～九丁目||178-0061&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[大泉町 (練馬区)|大泉町]]||おおいずみまち||一丁目～六丁目||178-0062&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[南大泉 (練馬区)|南大泉]]||みなみおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0064&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉 (練馬区)|西大泉]]||にしおおいずみ||一丁目～六丁目||178-0065&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||[[西大泉町 (練馬区)|西大泉町]]||にしおおいずみまち|| ||178-0066&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|練馬区||東大泉&amp;lt;ref&amp;gt;練馬区大泉地区のうち、東大泉は旧新座郡に含まれない。旧・豊島郡上土支田村のエリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||ひがしおおいずみ||一丁目～七丁目||178-0063&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[西東京市]]&amp;lt;ref&amp;gt;ここでは旧新座郡エリアに含まれる地域のみにリンクをつけている。すなわち、旧保谷市の範囲である。&amp;lt;/ref&amp;gt;||[[ひばりが丘 (西東京市)|ひばりが丘]]||ひばりがおか||一丁目～四丁目&amp;lt;ref&amp;gt;ひばりが丘三丁目2番のみ、旧「田無町ひばりが丘団地」であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;||202-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[ひばりが丘北 (西東京市)|ひばりが丘北]]||ひばりがおかきた||一丁目～四丁目||202-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[北町 (西東京市)|北町]]||きたまち||一丁目～六丁目||202-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[下保谷 (西東京市)|下保谷]]||しもほうや||一丁目～五丁目||202-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[住吉町 (西東京市)|住吉町]]||すみよしちょう||一丁目～六丁目||202-0005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[栄町 (西東京市)|栄町]]||さかえちょう||一丁目～三丁目||202-0006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[泉町 (西東京市)|泉町]]||いずみちょう||一丁目～六丁目||202-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東町 (西東京市)|東町]]||ひがしちょう||一丁目～六丁目||202-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[中町 (西東京市)|中町]]||なかまち||一丁目～六丁目||202-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[富士町 (西東京市)|富士町]]||ふじまち||一丁目～六丁目||202-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[保谷町 (西東京市)|保谷町]]||ほうやちょう||一丁目～六丁目||202-0015&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[東伏見 (西東京市)|東伏見]]||ひがしふしみ||一丁目～六丁目||202-0021&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[柳沢 (西東京市)|柳沢]]||やぎさわ||一丁目～六丁目||202-0022&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||[[新町 (西東京市)|新町]]||しんまち||一丁目～六丁目||202-0023&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市&amp;lt;ref&amp;gt;郵便番号が188で始まるのは、旧田無市（旧多摩郡）エリアである。&amp;lt;/ref&amp;gt;||谷戸町||やとちょう||一丁目～三丁目||188-0001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||緑町||みどりちょう||一丁目～三丁目||188-0002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||北原町||きたはらちょう||一丁目～三丁目||188-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||西原町||にしはらちょう||一丁目～五丁目||188-0004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||田無町||たなしちょう||一丁目～七丁目||188-0011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||南町||みなみちょう||一丁目～六丁目||188-0012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||向台町||むこうだいちょう||一丁目～六丁目||188-0013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西東京市||芝久保町||しばくぼちょう||一丁目～五丁目||188-0014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[清瀬市]]||[[中里 (清瀬市)|中里]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市中里一丁目の南半分、中里三丁目の南端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩、中里、上清戸。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;||なかざと||一丁目～六丁目||204-0003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|清瀬市||[[梅園 (清瀬市)|梅園]]&amp;lt;ref&amp;gt;清瀬市梅園二丁目の北側大半、梅園三丁目の北側大半は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は野塩。明治二十二年（1889年）4月1日、清瀬村に編入された。&amp;lt;/ref&amp;gt;||うめぞの||一丁目～三丁目||204-0024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東久留米市]]||[[野火止 (東久留米市)|野火止]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市野火止二丁目の北端、野火止三丁目の北端部分は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は小山、北前沢、東下里。&amp;lt;/ref&amp;gt;||のびどめ||一丁目～三丁目||203-0041&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東久留米市||[[下里 (東久留米市)|下里]]&amp;lt;ref&amp;gt;東久留米市下里七丁目の北端、下里六丁目の北側大半、下里四丁目の北西部は、[[野火止村]]の飛地であった。小字は中前沢、西下里、南前沢。&amp;lt;/ref&amp;gt;||しもさと||一丁目～七丁目||203-0043&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注記==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AD%A6&amp;diff=235</id>
		<title>大学</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AD%A6&amp;diff=235"/>
		<updated>2026-02-08T15:18:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「旧新座郡エリアの大学の一覧。  ==新座市== *私立立教大学新座キャンパス *私立跡見学園女子大学新座キャンパス *私立十文字学園女子大学  ==朝霞市== *私立東洋大学朝霞キャンパス  ==西東京市== *私立武蔵野大学武蔵野キャンパス  {{学校}} *5」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]エリアの大学の一覧。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[新座市]]==&lt;br /&gt;
*私立[[立教大学]]新座キャンパス&lt;br /&gt;
*私立[[跡見学園女子大学]]新座キャンパス&lt;br /&gt;
*私立[[十文字学園女子大学]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[朝霞市]]==&lt;br /&gt;
*私立[[東洋大学]]朝霞キャンパス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[西東京市]]==&lt;br /&gt;
*私立[[武蔵野大学]]武蔵野キャンパス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{学校}}&lt;br /&gt;
[[Category:学校|*5]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%B0%82%E4%BF%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=234</id>
		<title>専修学校</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%B0%82%E4%BF%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=234"/>
		<updated>2026-02-08T15:12:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「旧新座郡エリアの専修学校（専門学校）などの一覧。  ==新座市== *私立中央情報専門学校  ==朝霞市== *朝霞地区医師会立朝霞准看護学校  ==和光市== *朝霞地区医師会立朝霞地区看護専門学校  {{学校}} *4」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]エリアの専修学校（専門学校）などの一覧。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==新座市==&lt;br /&gt;
*私立[[中央情報専門学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==朝霞市==&lt;br /&gt;
*朝霞地区医師会立[[朝霞准看護学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==和光市==&lt;br /&gt;
*朝霞地区医師会立[[朝霞地区看護専門学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{学校}}&lt;br /&gt;
[[Category:学校|*4]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=233</id>
		<title>中学校</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=233"/>
		<updated>2026-02-08T15:03:17Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]エリアの中学校の一覧。隣接エリアの学校も一部示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[志木市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木中学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木第二中学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡中学校&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡第二中学校&lt;br /&gt;
* 私立[[細田学園中学校・高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[新座市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 新座市立[[新座中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第二中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第二中学校|新座市立第三中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第四中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第五中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第六中学校]]&lt;br /&gt;
* 私立[[立教新座中学校・高等学校]]&lt;br /&gt;
* 私立[[西武台新座中学校・西武台高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[朝霞市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第一中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第二中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第三中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第四中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第五中学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[和光市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 和光市立[[大和中学校]]&lt;br /&gt;
* [[和光市立第二中学校]]&lt;br /&gt;
* [[和光市立第三中学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[西東京市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[保谷中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[青嵐中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[柳沢中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[明保中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[ひばりが丘中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無第一中学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無第二中学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無第三中学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無第四中学校&lt;br /&gt;
* 私立[[武蔵野大学高等学校・中学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[練馬区]]（[[大泉地区]]） ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉学園中学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉学園桜中学校（小中一貫教育校　[[大泉桜学園]]）&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉北中学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉西中学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉中学校&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉第二中学校&lt;br /&gt;
* 東京都立大泉高等学校附属中学校&lt;br /&gt;
* 国立東京学芸大学附属大泉中学校&lt;br /&gt;
{{学校}}&lt;br /&gt;
[[Category:学校|*2]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=232</id>
		<title>高等学校</title>
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		<updated>2026-02-08T15:03:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「旧新座郡エリアの高等学校の一覧。隣接エリアの学校も一部示している。  == 志木市 ==  * 埼玉県立志木高等学校 * 私立慶應義塾志木高等学校 * 私立細田学園中学校・高等学校  == 新座市 ==  * 埼玉県立新座高等学校 * 埼玉県立新座柳瀬高等学校 * 埼玉県立新座総合技術高等学校 * 私立立教新座中学校・高等学校 * 私立西…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]エリアの高等学校の一覧。隣接エリアの学校も一部示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[志木市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 埼玉県立[[志木高等学校]]&lt;br /&gt;
* 私立[[慶應義塾志木高等学校]]&lt;br /&gt;
* 私立[[細田学園中学校・高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[新座市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 埼玉県立[[新座高等学校]]&lt;br /&gt;
* 埼玉県立[[新座柳瀬高等学校]]&lt;br /&gt;
* 埼玉県立[[新座総合技術高等学校]]&lt;br /&gt;
* 私立[[立教新座中学校・高等学校]]&lt;br /&gt;
* 私立[[西武台新座中学校・西武台高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[朝霞市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 埼玉県立[[朝霞高等学校]]&lt;br /&gt;
* 埼玉県立[[朝霞西高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[和光市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 埼玉県立[[和光高等学校]]&lt;br /&gt;
* 埼玉県立[[和光国際高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[西東京市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東京都立[[保谷高等学校]]&lt;br /&gt;
* 東京都立田無工科高等学校&lt;br /&gt;
* 東京都立田無高等学校&lt;br /&gt;
* 私立[[武蔵野大学高等学校・中学校]]&lt;br /&gt;
* 私立東京文華高等学校&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[練馬区]]（[[大泉地区]]） ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東京都立[[大泉桜高等学校]]&lt;br /&gt;
* 東京都立大泉高等学校&lt;br /&gt;
{{学校}}&lt;br /&gt;
[[Category:学校|*3]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
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		<title>中学校</title>
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		<updated>2026-02-08T15:01:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]エリアの中学校の一覧。隣接エリアの学校も一部示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[志木市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木中学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木第二中学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡中学校&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡第二中学校&lt;br /&gt;
* 私立[[細田学園中学校・高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[新座市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 新座市立[[新座中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第二中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第二中学校|新座市立第三中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第四中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第五中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第六中学校]]&lt;br /&gt;
* 私立[[立教新座中学校・高等学校]]&lt;br /&gt;
* 私立[[西武台新座中学校・西武台高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[朝霞市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第一中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第二中学校]]&lt;br /&gt;
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* 朝霞市立[[朝霞第四中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第五中学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[和光市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 和光市立[[大和中学校]]&lt;br /&gt;
* [[和光市立第二中学校]]&lt;br /&gt;
* [[和光市立第三中学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[西東京市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[保谷中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[青嵐中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[柳沢中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[明保中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[ひばりが丘中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無第一中学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無第二中学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無第三中学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無第四中学校&lt;br /&gt;
* 私立[[武蔵野大学高等学校・中学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[練馬区]]（[[大泉地区]]） ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉学園中学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉学園桜中学校（小中一貫教育校　[[大泉桜学園]]）&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉北中学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉西中学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉中学校&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉第二中学校&lt;br /&gt;
* 東京都立大泉高等学校附属中学校&lt;br /&gt;
* 国立東京学芸大学附属大泉中学校&lt;br /&gt;
{{学校}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=230</id>
		<title>小学校</title>
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		<updated>2026-02-08T14:27:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]エリアの小学校の一覧。隣接エリアの学校も一部示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[志木市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木小学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木第二小学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木第三小学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木第四小学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡小学校&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡第二小学校&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡第三小学校&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡第四小学校&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[新座市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 新座市立[[大和田小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[西堀小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[片山小学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第四小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[八石小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[東北小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[野火止小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[野寺小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[池田小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[新堀小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[東野小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[栄小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[石神小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[新開小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[栗原小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[陣屋小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[新座小学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[朝霞市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第一小学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第二小学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第三小学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第四小学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第五小学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第六小学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第七小学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第八小学校]]&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== [[和光市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 和光市立[[白子小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[新倉小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[第三小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[第四小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[第五小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[広沢小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[北原小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[本町小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[下新倉小学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[西東京市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[保谷小学校]] &lt;br /&gt;
* 西東京市立[[保谷第一小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[保谷第二小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[東伏見小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[中原小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[碧山小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[栄小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[東小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[柳沢小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[上向台小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[本町小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[住吉小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立谷戸小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立谷戸第二小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立向台小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立芝久保小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立けやき小学校&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[練馬区]]（[[大泉地区]]） ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第一小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第二小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第三小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第四小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第六小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉学園小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉学園緑小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉学園桜小学校（小中一貫教育校　[[大泉桜学園]]）&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉北小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉西小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[橋戸小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉小学校&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉東小学校&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉南小学校&lt;br /&gt;
* 国立[[東京学芸大学附属大泉小学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{学校}}&lt;br /&gt;
[[Category:学校|*1]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=229</id>
		<title>中学校</title>
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		<updated>2026-02-08T14:27:14Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「旧新座郡エリアの中学校の一覧。隣接エリアの学校も一部示している。  == 志木市 ==  * 志木市立志木中学校 * 志木市立志木第二中学校 * 志木市立宗岡中学校 * 志木市立宗岡第二中学校  == 新座市 ==  * 新座市立新座中学校 * 新座市立第二中学校 * 新座市立第三中学校 * 新座市立第四中学校 * 新座市立第…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]エリアの中学校の一覧。隣接エリアの学校も一部示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[志木市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木中学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木第二中学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡中学校&lt;br /&gt;
* 志木市立宗岡第二中学校&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[新座市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 新座市立[[新座中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第二中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第二中学校|新座市立第三中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第四中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第五中学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第六中学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[朝霞市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第一中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第二中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第三中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第四中学校]]&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第五中学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[和光市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 和光市立[[大和中学校]]&lt;br /&gt;
* [[和光市立第二中学校]]&lt;br /&gt;
* [[和光市立第三中学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[西東京市]] ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[保谷中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[青嵐中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[柳沢中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[明保中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[ひばりが丘中学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無第一中学校&lt;br /&gt;
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* 西東京市立田無第三中学校&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== [[練馬区]]（[[大泉地区]]） ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉学園中学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉学園桜中学校（小中一貫教育校　[[大泉桜学園]]）&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉北中学校]]&lt;br /&gt;
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* 練馬区立大泉中学校&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉第二中学校&lt;br /&gt;
* 東京都立大泉高等学校附属中学校&lt;br /&gt;
* 国立東京学芸大学附属大泉中学校&lt;br /&gt;
{{学校}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=228</id>
		<title>小学校</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=228"/>
		<updated>2026-02-08T14:09:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「旧新座郡エリアの小学校の一覧。隣接エリアの学校も一部示している。  == 志木市 ==  * 志木市立志木小学校 * 志木市立志木第二小学校 * 志木市立志木第三小学校 * 志木市立志木第四小学校 * 志木市立宗岡小学校 * 志木市立宗岡第二小学校 * 志木市立宗岡第三小学校 * 志木市立宗岡第四小学校  == 新座市 ==  * 新座市立大和田小学校 *…」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;旧[[新座郡]]エリアの小学校の一覧。隣接エリアの学校も一部示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 志木市 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木小学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木第二小学校]]&lt;br /&gt;
* 志木市立[[志木第三小学校]]&lt;br /&gt;
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* 志木市立宗岡小学校&lt;br /&gt;
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* 志木市立宗岡第四小学校&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 新座市 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 新座市立[[大和田小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[西堀小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[片山小学校]]&lt;br /&gt;
* [[新座市立第四小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[八石小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[東北小学校]]&lt;br /&gt;
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* 新座市立[[東野小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[栄小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[石神小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[新開小学校]]&lt;br /&gt;
* 新座市立[[栗原小学校]]&lt;br /&gt;
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* 新座市立[[新座小学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朝霞市 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 朝霞市立[[朝霞第一小学校]]&lt;br /&gt;
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* 朝霞市立[[朝霞第十小学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 和光市 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 和光市立[[白子小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[新倉小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[第三小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[第四小学校]]&lt;br /&gt;
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* 和光市立[[広沢小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[北原小学校]]&lt;br /&gt;
* 和光市立[[本町小学校]]&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== 西東京市 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[保谷小学校]] &lt;br /&gt;
* 西東京市立[[保谷第一小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[保谷第二小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[東伏見小学校]]&lt;br /&gt;
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* 西東京市立[[東小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[柳沢小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[上向台小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[本町小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立[[住吉小学校]]&lt;br /&gt;
* 西東京市立田無小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立谷戸小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立谷戸第二小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立向台小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立芝久保小学校&lt;br /&gt;
* 西東京市立けやき小学校&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 練馬区（大泉地区） ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第一小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第二小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第三小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第四小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉第六小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉学園小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉学園緑小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉学園桜小学校（小中一貫教育校　[[大泉桜学園]]）&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉北小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[大泉西小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立[[橋戸小学校]]&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉小学校&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉東小学校&lt;br /&gt;
* 練馬区立大泉南小学校&lt;br /&gt;
* 国立[[東京学芸大学附属大泉小学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{学校}}&lt;br /&gt;
[[Category:学校|*1]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=227</id>
		<title>テンプレート:学校</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%AD%A6%E6%A0%A1&amp;diff=227"/>
		<updated>2026-02-08T13:42:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: ページの作成:「{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot; |- ! 旧新座郡エリアの学校 |- |  *&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;小学校&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; *&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;中学校&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; *&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;高等学校&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; *&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;専修学校&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（専門学校） *&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;大学&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; |}」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 旧[[新座郡]]エリアの[[学校]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[小学校]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[中学校]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[高等学校]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[専修学校]]&#039;&#039;&#039;（専門学校）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[大学]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E6%8C%87%E5%AE%9A%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1&amp;diff=226</id>
		<title>埼玉県指定文化財</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E6%8C%87%E5%AE%9A%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1&amp;diff=226"/>
		<updated>2026-02-02T12:51:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;埼玉県内の県指定文化財のうち、旧[[新座郡]]エリアのものをまとめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==有形文化財==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 指定番号 !! 名称 !! 所在地 !! 概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第258号 || &#039;&#039;&#039;[[平林寺]]&#039;&#039;&#039; || 新座市野火止 || 惣門・三門・仏殿・中門の四棟。臨済宗妙心寺派の寺院及び専門道場。寛文３年、松平信綱の遺志により、子の輝綱が岩槻から現在地に移す。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第438号 || &#039;&#039;&#039;[[木造他阿真教上人坐像]]&#039;&#039;&#039; || 新座市道場 || 南北朝時代。寄木造、玉眼、彩色。像高83.7cm。他阿真教上人は、時宗第二祖で[[法台寺]]開山。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第320号 || &#039;&#039;&#039;[[野火止新田開発]]関係資料&#039;&#039;&#039; || 新座市立歴史民俗資料館 || 9点。寛文元年の検地帳６冊のうちの５冊と、同年及び２年の年貢割付状４通。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第456号 || &#039;&#039;&#039;[[平林寺]]文書&#039;&#039;&#039; || 新座市野火止 || 22点。戦国～江戸時代初期。岩槻太田氏及び小田原北条氏の発給文書８点を含む文書。作成当初の姿を伝える。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第220号 || &#039;&#039;&#039;[[法台寺]]板石塔婆 付致得元年銘の板石塔婆一基&#039;&#039;&#039; || 新座市道場 || 10基。六字名号塔婆。時宗の特色を持つ。「致得」は「至徳」か。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第201号 || &#039;&#039;&#039;板石塔婆&#039;&#039;&#039; || 朝霞市博物館 || 2基。正安３年銘。変形不動曼荼羅と変形五輪塔を刻む。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第386号 || &#039;&#039;&#039;[[宮戸薬師堂]]山経塚出土 経筒及び外容器&#039;&#039;&#039; || 朝霞市博物館 || 4口。12 世紀後半。鋳銅製の経筒と常滑製の外容器のそろった好資料。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第421号 || &#039;&#039;&#039;[[花ノ木遺跡]]住居跡出土遺物&#039;&#039;&#039; || 埼玉県文化財収蔵施設 || 平安時代。和光市花ノ木遺跡出土。焼失竪穴住居跡からの出土遺物。須恵器を主体とする多量の土器や火熨斗、倉庫の鍵等の道具類。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第560号 || &#039;&#039;&#039;[[午王山遺跡]]出土品&#039;&#039;&#039; || 和光市諏訪 || 中部高地系、東京湾岸系、東海東部系など、多系統の土器が混生しており、弥生時代における人間集団の移動や交流を考える上で重要である。出土土器は、弥生時代後期の荒川下流域における土器型式の変遷を特徴的に示している。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==無形文化財==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 指定番号 !! 名称 !! 所在地 !! 概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第413号 || &#039;&#039;&#039;石山家芝居衣裳・用具及び芝居台本&#039;&#039;&#039; || 県立歴史と民俗の博物館 || 新座市[[野火止]]で神楽師を務めた石山家が使用していた芝居用具。大小１組の回り舞台や多数の台本を含む。明治から昭和三十年代の地方における芸能文化を示す資料。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==史跡==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 指定番号 !! 名称 !! 所在地 !! 概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || &#039;&#039;&#039;[[野火止用水]]&#039;&#039;&#039; || 新座市野火止ほか || 松平信綱が承応年間に開削、玉川上水から引水。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第84号 || &#039;&#039;&#039;[[松平伊豆守信綱]]夫妻の墓&#039;&#039;&#039; || 新座市野火止（[[平林寺]]） || 2基。五輪塔。本小松石、高さ２m。徳川幕府老中・川越城主・忍城主等をつとめ、武蔵野新田開発に尽くす。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 埼文指第479号 || &#039;&#039;&#039;[[柊塚古墳]]&#039;&#039;&#039; || 朝霞市岡ほか || 1基。荒川下流域の数少ない前方後円墳。墳丘長約 66m、２基の埋葬施設があり、埴輪や土器が出土。６世紀前葉築造。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名勝==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 指定番号 !! 名称 !! 所在地 !! 概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || &#039;&#039;&#039;[[平林寺林泉境内]]&#039;&#039;&#039; || 新座市野火止 || 川越藩主大河内松平家の菩提寺。県内の代表的な名園。造園年代は不詳。かつて野火止用水から引水していた。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==重要遺跡==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 指定番号 !! 名称 !! 所在地 !! 概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || &#039;&#039;&#039;[[市場坂遺跡]]&#039;&#039;&#039;遺物包含地 || 新座市新塚ほか || 旧石器を包蔵する黒目川右岸遺跡群の１つ。ナイフ形石器、礫群が出土。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || &#039;&#039;&#039;[[嵯峨山遺跡]]&#039;&#039;&#039;集落跡 || 新座市堀ノ内ほか || 武蔵野台地上にある縄文時代中期の典型的な集落跡。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || &#039;&#039;&#039;[[岡の城山]]&#039;&#039;&#039;城館跡 || 朝霞市岡ほか || 戦国時代の築造。平山城。土塁・空堀がよく現存。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:文化財|*さいたまけんしていふんかさい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8C%96%E9%81%BA%E7%94%A3&amp;diff=225</id>
		<title>埼玉県近代化遺産</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8C%96%E9%81%BA%E7%94%A3&amp;diff=225"/>
		<updated>2026-02-02T12:50:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;埼玉研究育委員会は、1994～95年に埼玉県近代化遺産総合調査を実施した。調査対象は、近代的技術でつくられた構築物（各種建築物・工作物を含む）の業・交通・土木に関わるもので、江戸時代末期から第二次世界対戦終了時（1945）までの間に造られたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下は、『埼玉県近代化遺産総合調査報告書』（1996）の「埼玉県の近代化遺産一覧（市町村別）」からの旧[[新座郡]]エリアの引用である。当時の情報とは変わってしまっているものもあるが、そのまま掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==志木市==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
厳密には宗岡地区は新座郡に含まれないが、ここには便宜上掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 名称 !! 所在地 !! 竣工年 !! 主な材質 !! 概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 籠蔦樋管 || 下宗岡 || 明治二十八 || 石 || 江戸期からある樋管で、明治二十八年に石造に改修。かつての圦の原型を留め、観音開きの扉が設けられている。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[いろは樋の大枡]]&#039;&#039;&#039; || 本町 || 明治三十一 || 煉瓦 || 野火止養水を宗岡地区に送水するいろは樋が、明治三十一年に階函式の伏越に改修された際に設置。市指定史跡。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 大小合併樋管 || 上宗岡1丁目～5丁目 || 明治三十一 || 煉瓦 || 石橋大圦樋に石橋小圦樋を吸収して新設されたもの。水田の落ち水と洪水時の逆流の防止を目的。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 横町樋管（北美圦樋） || 中宗岡1丁目～上宗岡1丁目 || 明治三十二 || 煉瓦 || 江戸時代に作られた木造の圦樋を明治三十二年に改築したもの。現在も現役で使用されており、外観も美麗。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 窪田樋管 || 下宗岡 || 明治三十三 || 煉瓦 || 江戸期からある樋管。当初は木製であったが明治三十三年に鉄製の扉を持った煉瓦造りのものに改修された。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 開化橋 || 上宗岡 || 明治三十一 || 煉瓦・石 || 丸太に土を盛っただけの「むじな橋」を約200m下流に移し、煉瓦と石材を使ってハイカラに作り替えた橋。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[坂下橋の橋脚]]&#039;&#039;&#039; || 柏町 || 大正年間 || 石 || 大正年間に建造された石橋で、上部の撤去他大規模な修復を受けており、現存する遺構は橋脚部分のみ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| いろは橋 || 中宗岡 || 昭和五 || コンクリート || 新河岸川改修に伴って新設。鉄材は太平洋戦争中の供出などで撤去されたため、架橋時の遺構は橋桁のみ。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==新座市==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 名称 !! 所在地 !! 竣工年 !! 主な材質 !! 概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[東武鉄道蒸気機関車37号]]&#039;&#039;&#039; || 北野（立教高等学校） || 明治三十一 ||  || 日本鉄道が開業初期に輸入した蒸気機関車で、大正十二年に東武鉄道に払い下げられ、昭和四十年まで使用された。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[新井家の水車遺構]]&#039;&#039;&#039; || 石神 || 戦前 || 木 || 精米・製粉用の水車の遺構で、その起源は江戸時代にまで遡る。現在も旧水車小屋で精米所・米穀店を営業。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[東京板紙会社第一製造所跡]]（碑）&#039;&#039;&#039; || 石神 || 明治十九 || 石 || 日本最初の板紙工場として明治十九年に創立された東京板紙会社（千住製紙会社の前身）の跡地。石碑が建つ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[黒目川本瀬堰]]&#039;&#039;&#039; || 栗原 黒目川栗原橋の上流 || 慶応二 || 石 || 慶応二年に辻村ほか6か村が用水の取得のために設置した堰で、同年堰切りし、その後度々改修を受けてきた。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[西武鉄道 山口線客車3号]]&#039;&#039;&#039; || 野火止付近 || 戦時中 ||  || 旧日本陸軍によって太平洋戦争中に作られた97式軍用客車が種車。終戦後は西武鉄道山口線で活躍した。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[西武鉄道 山口線客車23号（おとぎ列車）]]&#039;&#039;&#039; || 野火止 || 戦時中 ||  || 旧日本陸軍によって太平洋戦争中に作られた97式軍用客車が種車。終戦後は西武鉄道山口線で活躍した。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==朝霞市==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 名称 !! 所在地 !! 竣工年 !! 主な材質 !! 概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[塩味しょうゆ店]]&#039;&#039;&#039; || 溝沼 || 明治～大正年間 || 木 || 幕末創業の「山柳」醤油の製造販売店で、醸造所は平成四年に改築されたが店舗兼住宅と倉庫は旧来のまま。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[大畑伸鋼所]]&#039;&#039;&#039; || 膝折町 || 明治初～大正年間 || 木・煉瓦 || 平成四年まで操業していた市内でも代表的な伸銅工場とその倉庫。伸銅はかつて朝霞市の基幹産業であった。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==和光市==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 名称 !! 所在地 !! 竣工年 !! 主な材質 !! 概要&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[柳下家の煙突]]&#039;&#039;&#039; || 下新倉 || 明治十ごろ || 煉瓦 || 柳家が現在地に分家し、酒造業を始めた際に建設したもの。関東大震災により、上部約2mが破壊された。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[日本国有鉄道C12型蒸気機関車 C1285号]]&#039;&#039;&#039; || 諏訪 諏訪原第4小学校 || 昭和八～十三 ||  || 簡易線客貨用1C1タンク形機関車。昭和四十四年まで大宮工場で入換用として活躍した。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:文化財|*さいたまけんきんたいかいさん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1&amp;diff=224</id>
		<title>文化財</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1&amp;diff=224"/>
		<updated>2026-02-02T12:48:49Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;このページでは、文化財保護法で国（文化庁）により指定された&#039;&#039;&#039;文化財&#039;&#039;&#039;のうち、旧[[新羅郡]]/[[新座郡]]エリアに存在するものをまとめている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|文化財保護法では，文化財を「有形文化財」，「無形文化財」，「民俗文化財」，「記念物」，「文化的景観」及び「伝統的建造物群」と定義し，これらの文化財のうち，重要なものを国が指定・選定・登録し，重点的に保護しています。文化財の指定・選定・登録は，文部科学大臣が文化審議会に諮問し，その答申を受けて行うこととされています|[https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/gaiyo/ 概要（文化財） - 文化庁]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==重要文化財==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|有形文化財のうち，重要なものを「重要文化財」に指定し，さらに世界文化の見地から特に価値の高いものを「国宝」に指定して保護を図っています。|[https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/yukei_kenzobutsu/kokuho_bunkazai.html 国宝・重要文化財（建造物） - 文化庁]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ 重要文化財&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 所在地 !! 名称 !! 年代 !! 重文指定基準&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 朝霞市根岸台二丁目681番地 || &#039;&#039;&#039;[[旧高橋家住宅]]&#039;&#039;&#039; || 江戸中期・18世紀前期 || （五）流派的又は地方的特色において顕著なもの&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==登録有形文化財（建造物）==&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;登録有形文化財&#039;&#039;&#039;制度は、1994年に制定され、文化庁が推進する保存制度である。所有者の申請により登録され、その遺産を活用・回収しながら緩やかに保存を進める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建造物・土木建造物・工作物のうち、建築後50年が経過し、以下の1つ以上の条件に当てはまる建造物が対象となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#国土の歴史的景観に寄与しているもの&lt;br /&gt;
#造形の規範となっているもの&lt;br /&gt;
#再現することが容易でないもの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|平成8年10月1日に施行された文化財保護法の一部を改正する法律によって，保存及び活用についての措置が特に必要とされる文化財建造物を，文部科学大臣が文化財登録原簿に登録する「文化財登録制度」が導入されました。&amp;lt;br /&amp;gt;この登録制度は，近年の国土開発や都市計画の進展，生活様式の変化等により，社会的評価を受けるまもなく消滅の危機に晒されている多種多様かつ大量の近代等の文化財建造物を後世に幅広く継承していくために作られたものです。届出制と指導・助言等を基本とする緩やかな保護措置を講じるもので，従来の指定制度（重要なものを厳選し，許可制等の強い規制と手厚い保護を行うもの）を補完するものです。|[https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/yukei_kenzobutsu/ 有形文化財（建造物） - 文化庁]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ 登録有形文化財&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 登録番号 !! 所在地 !! 名称 !! 年代&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11-0049 || 志木市本町2-4-43 || &#039;&#039;&#039;[[朝日屋原薬局]]&#039;&#039;&#039;主屋 || 明治四十五年（1912）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11-0050 || 志木市本町2-4-43 || 朝日屋原薬局土蔵 || 明治四十五年（1912）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11-0051 || 志木市本町2-4-43 || 朝日屋原薬局物置 || 明治四十五年（1912）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11-0052 || 志木市本町2-4-43 || 朝日屋原薬局洋館 || 昭和七年（1932）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11-0053 || 志木市本町2-4-43 || 朝日屋原薬局離れ || 昭和九年（1934）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11-0054 || 志木市本町2-4-43 || 朝日屋原薬局門及び塀 || 明治四十五年（1912）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11-0055 || 志木市本町2-4-43 || 朝日屋原薬局東雲不動尊祠 || 明治四十五年（1912）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11-0157 || 新座市野火止一丁目1172-1 || &#039;&#039;&#039;[[睡足軒]]&#039;&#039;&#039; || 江戸後期／昭和十三年移築（1938）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 13-0293 || 西東京市ひばりが丘1-1568-3 || &#039;&#039;&#039;[[小宮家住宅]]&#039;&#039;&#039;主屋 || 昭和十二年（1937）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 13-0396 || 西東京市下保谷三丁目862-5他 || &#039;&#039;&#039;[[髙橋家住宅]]&#039;&#039;&#039;主屋 || 昭和二年（1927）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 13-0397 || 西東京市下保谷三丁目862 || 髙橋家住宅土蔵 || 明治八年（1875）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 13-0398 || 西東京市下保谷三丁目862 || 髙橋家住宅衣装蔵 || 明治八年頃（1875）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 13-0399 || 西東京市下保谷三丁目862 || 髙橋家住宅納屋 || 江戸末期&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 13-0400 || 西東京市下保谷三丁目862 || 髙橋家住宅表門 || 明治期&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==重要有形民俗文化財==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|民俗文化財とは衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術及びこれらに用いられる衣服、器具、家屋、その他の物件など人々が日常生活の中で生み出し、継承してきた有形・無形の伝承で人々の生活の推移を示すものである。&amp;lt;br /&amp;gt;国は、有形、無形の民俗文化財のうち、特に重要なものを「重要有形民俗文化財」、「重要無形民俗文化財」に指定し、その保存と継承を図っている。|[https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/minzoku/ 民俗文化財 - 文化庁]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ 志木市&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 名称 !! 種別 !! 指定基準&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;志木の[[田子山富士塚]]&#039;&#039;&#039; || 信仰に用いられるもの || （六）信仰に用いられるもの　例えば、祭祀具、法会具、奉納物、偶像類、呪術用具、社祠)等&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==史跡名勝天然記念物==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|　記念物とは以下の文化財の総称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
# 貝塚，古墳，都城跡，城跡旧宅等の遺跡で我が国にとって歴史上または学術上価値の高いもの&lt;br /&gt;
# 庭園，橋梁，峡谷，海浜，山岳等の名勝地で我が国にとって芸術上または鑑賞上価値の高いもの&lt;br /&gt;
# 動物，植物及び地質鉱物で我が国にとって学術上価値の高いもの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　国は，これらの記念物のうち重要なものをこの種類に従って，「史跡」，「名勝」，「天然記念物」に指定し，これらの保護を図っている。そのうち特に重要なものについては，それぞれ「特別史跡」，「特別名勝」，「特別天然記念物」に指定している。|[https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/kinenbutsu/ 記念物 - 文化庁]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ 新座市&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 種別 !! 所在地 !! 名称 !! 年代 !! 指定基準&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 天然記念物 || 新座市野火止 || &#039;&#039;&#039;[[平林寺境内林]]&#039;&#039;&#039; || - || （三）自然環境における特有の動物又は動物群聚,&amp;lt;br /&amp;gt;（一）名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 史跡 || 和光市新倉三丁目 || &#039;&#039;&#039;[[牛王山遺跡]]&#039;&#039;&#039; || 弥生時代後期 || 一、貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 史跡 || 西東京市東伏見 || &#039;&#039;&#039;[[下野谷遺跡]]&#039;&#039;&#039; || 縄文時代中葉～末葉 || 一、貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:文化財|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E8%83%B8%E5%88%BA%E5%9B%BD%E9%80%A0&amp;diff=223</id>
		<title>胸刺国造</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.shiraki-history.com/w/index.php?title=%E8%83%B8%E5%88%BA%E5%9B%BD%E9%80%A0&amp;diff=223"/>
		<updated>2026-02-01T14:37:08Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;シラキのコホリのツカサ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;『先代旧事本紀』国造本紀によれば、&#039;&#039;&#039;胸刺国造（むねさし／むさしのくにのみやつこ）&#039;&#039;&#039;は、後の[[武蔵国]]の領域にいたと考えられる3&#039;&#039;&#039;[[国造]]&#039;&#039;&#039;の一つである。この国造名はムサシにつながるものと考えられるが、&#039;&#039;&#039;[[无邪志国造]]&#039;&#039;&#039;の別名なのか、それとも別の勢力であったかについては見解が分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 先代旧事本紀 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国造本紀 ===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;胸刺国造&#039;&#039;&#039;　岐閇国造（きへのくにのみやつこ）の祖・兄多毛比命（えたもひのみこと）の子の伊狭知直（いさちのあたい）を国造に定められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国造・県主関係史料集　注 ==&lt;br /&gt;
{{Quotation|&#039;&#039;&#039;胸刺国造&#039;&#039;&#039;　无邪志国造とは系譜を異にするが、重複錯誤の可能性が強い。|[https://dl.ndl.go.jp/pid/12270178 佐伯有清, 高島弘志 校訂・編『国造・県主関係史料集』,近藤出版社,1982.4. 国立国会図書館デジタルコレクション]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 考察 ==&lt;br /&gt;
「道尻岐閇国造」（古事記・神代巻 天安河之宇気比段）は天津日子根命の後裔とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国造本紀では、以下の通り、天津彦根命（天津日子根命）系の系譜が伝えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 石城国造（建許呂命）&lt;br /&gt;
* 茨城国造（天津彦根命の孫　筑波刀禰）&lt;br /&gt;
* 師長国造（茨城国造の祖　建許呂命の児　意富鷲意弥命）&lt;br /&gt;
* 須恵国造（茨城国造の祖　建許侶命の児　大布日意弥命）&lt;br /&gt;
* 馬来田国造（茨城国造の祖　建許呂命の児　深河意弥命）&lt;br /&gt;
* 石背国造（建許侶命の児　建弥依米命）&lt;br /&gt;
* 周防国造（茨城国造と同祖　加米乃意美）&lt;br /&gt;
* 道奥菊多国造（建許呂命の児　屋主刀禰）&lt;br /&gt;
* 道口岐閑国造（建許呂命の児　宇佐比刀禰）&lt;br /&gt;
* 胸刺国造（岐閇国造の祖　兄多毛比命の児　伊狭知直）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国造本紀では、无邪志国造の系譜にも胸刺国造の系譜にも「兄多毛比命」の名前が挙がっているが、系譜が異なっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
篠川賢氏は、大宝二年に同じムサシ国造として2氏を認定したと考えている。これは古来の国造とは関係がなかった可能性もある。{{Quotation|　資料上の「国造」の語に多様な意味のあることは、これまでもしばしば指摘されてきたところである。筆者は、次の五通りに分けられると考えている。&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;（ア）大和政権の地方官としての国造&amp;lt;br&amp;gt;（イ）（ア）の国造を出している（あるいは出していた）一族全体の呼称&amp;lt;br&amp;gt;（ウ）律令制下の国造&amp;lt;br&amp;gt;（エ）姓としての国造（国造姓）&amp;lt;br&amp;gt;（オ）大宝二年（702）に定められた国造氏&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;（中略）「国造本紀」には、山城国造と山背国造，元邪志国造と胸刺国造，加我国造と加宜国造という，同名（同音）の国造を掲げる例が三例存在している。（中略）&amp;lt;br&amp;gt;　これらの例については，ふつう重複とみなされているが，各「国造」の条文が、それぞれ独自の内容を持っていることの説明がつかない。また、これらの「国造」を（ア）の国造とみるならば、同名（同音）の国造が隣接して存在したことになり、実際に国造制下においてそのようなことがあったのか、という疑問が生ずる。ヤマシロ・ムサシ・カガのそれぞれの地域において、それを二分するようなクニの二国造が存在したならば、それは、同じ「国造本紀」において、「三野前（みのくち）国造」と「三野後（みのしり）国造」が掲げられているように、区別した名で記されたものと考えられる。&amp;lt;br&amp;gt;　とするならば、これらの「国造」は、（オ）の国造氏とみるのが妥当ということになるであろう。つまり、国造制下において現実に存在した国造は、ヤマシロ国造・ムサシ国造・カガ国造それぞれ一国造ずつであったが、それぞれの国造氏に認定されたのは二氏ずつ存在し、それが「国造本紀」に掲げられているということである。|篠川賢『国造（くにのみやつこ）――大和政権と地方豪族』（中公新書）2021年、pp.99-105}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 注・出典 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [https://dl.ndl.go.jp/pid/2563305 『先代旧事本紀 10巻』] 国立国会図書館デジタルコレクション&lt;br /&gt;
* 篠川賢『国造――大和政権と地方豪族』（中公新書）2021&lt;br /&gt;
* 篠川賢「[https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/589 「国造本紀」の国造系譜]」（国立歴史民俗博物館研究報告 第44集）1992&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:役職|むさしのくにのみやつこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>シラキのコホリのツカサ</name></author>
	</entry>
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